Paul Chism News Letter 追加 2015.7.15・・・ Home "B-29 English"
超・空の要塞・B-29の追憶
墜落地点:現 愛知県安城市尾崎町 |
9,P-51 撃墜(Shot Down) / 故 ポール チズム(Paul Chism)の体験談/70周年記念/5015.7.15 up
Paul Chism は、第7戦闘飛行隊(硫黄島)に所属し、1945,7,15 に岡崎海軍航空隊を攻撃中に撃墜された。 それは、今からちょうど70年前の今日であった。 私は小学校一年生のその日に彼と出会った。その出会いは私にとって衝撃的であり、終身忘れがたい記憶となった。 2015、7.7 に、その彼が撃墜時の状況を詳しく語ったニュースが私に届いた。 送り主は、Vancouver, WA, USA のTerrence Popravak さん53歳です。 彼は、Website ”大阪空襲・Osaka Kusyu” の編集者である。 私は、Paul Chismの撃墜70周年の節目に彼の貴重な体験を公開します。
出典: ・・・ 体験談の4 Page 日本語訳全文 ・・・ 以下の記述は、撃ち落とされ、あるいは緊急着陸したパイロットについて私がお話しする多くの話の中で、2番目のものである。 彼らの運命は、捕獲されるか、救出されるかのいずれかであった。
- 1945年7月15日機銃掃射ミッション - 離陸時刻はおよそ午前9:30。我々は、日本に飛び立つB-29 飛行隊に加わった。 それは、天候のため28機の飛行機と27人のパイロットを失った6月1日とは真逆の、美しい日だった。日本まで平穏無事なフライトだった。 ターゲットは名古屋の近く(岡崎)の海軍航空基地だった。 私は先発隊の飛行隊の小隊長で、機銃掃射攻撃を開始した。 私は滑走路から離れていくように見えた双発爆撃機に狙いを定めた(後になってみれば囮のダミーだったと思われる)。 私はしばらく機銃掃射攻撃を行い非常に多く命中したが、その爆撃機は炎上も爆発もしなかった。 私が機銃掃射攻撃を終えた後、大きな爆発があり私のコックピットは炎に包まれた。 5〜8秒で私は機外へ脱出した。キャノピー(操縦席のカバー)を取り外し、操縦かんを引き、安全ベルトを外し、 飛び降りるというすべてを一つの動作のように一瞬に行った。 私は飛行機から脱出した直後にパラシュートのコードをひき、地表に降りるまで漂った後、飛行場の滑走路の端を少し過ぎたところに着地した。 他の航空機は未だ機銃掃射をしており、一機は近くを通り私に手を振った。 私は、肩、腕、両脚の火傷以外に傷は負わなかった。 私は行くところがある訳でもなく、ただそこに座り、次に何がおこるのだろうかと思った。 およそ10〜15分後に約50人の日本兵が私のところにやってきた。 彼らは私のナイフと銃を取り上げ、私に目隠しをし、それからお楽しみが始まった。 彼らは私を殴り気絶させた。 私の意識が戻ったとき、ほぼ暗くなっていて、そこは別の場所だった。 多くの会話をした後は、彼らのなすがままであった。私はトラックに載せられ三つの檻のある建物に運ばれた。 彼らは檻の一つに私を入れ、私の体の前で両手をロープで縛り、ロープの反対の端を檻の柵に縛り付けた。 その基地の全員が見に来たと思う。 彼らは私を鉄格子に引き寄せ、つばを吐き、殴り、蹴った。 その2日後、私は1人の将校と2人の護衛とともに列車に乗せられ、東京近郊(大船)の捕虜収容所に移送された。 到着すると、私は数日間独房に入れられた。 この間、私は殴られ尋問された。 それが終わったとき、私は床にマットを敷いただけの家具の無いおよそ1.8 m X 2.4 mの独房に入れられた。 我々の食事は1日に小さな椀に2杯の米と、時折与えられる魚の頭だった。 その収容所に収容されていたおよそ110人には、医療は施されなかった。 長くそこにいた男の大半は体調不良だった。 私は、戦争が終わるまでのおよそ26日間、大船にいた。その間に私は16 kg痩せた。 1945年8月16日、朝起きると監視が全員いなくなっており、収容所にいたのは二人の将校だけだった。 フェンスは取り壊され、私は撃墜されてから初めて風呂に入った。 食糧は日本人だけでなく米軍からも与えられ、豊富だった。 海軍は、魚雷爆撃機で我々の周囲のいたるところに食料を投下した。 我々のほとんどが、食べ過ぎとタバコの吸い過ぎで病気になった。 数日後、イギリス人がやってきて英国人と3人のノルウェー人を連れて行ったが、他の者については連れて行かなかった。 2日後に海軍がやってきて、海軍メンバーを連れて行ったが我々はそこに残された。 8月30日、陸軍によって我々はようやく連れ出され、厚木飛行場に連れて行かれ、そこから9月1日にフィリピンに飛び立った。 1945年10月17日、私はようやく帰宅することができた。
・・・ ポール チズム(Paul Chism) 情報総括 ・・・
ポール チズム(Paul Chism) 関連情報は、この度の本人体験談を含めて一層明らかになった。
これまでの情報は、戦後GHQの命で、日本の復員省(戦後処理)が岡崎航空隊関係者から聴取した情報と当日戦闘にかかわった少年兵の記述と
私が目撃した捕虜連行の行列の記憶に基づく者であった。
この度、撃墜されたパイロット本人の体験談が加わり、真相が一層明らかになったと思われる。
双方の当事者は全て故人なったと思われる終戦70周年の今、これらの調査結果をWebsite に書き留め、今しばらく後世に伝え
謙虚な日米親善効果による平和を願っています。
・・・ 2015.7.15 JA2TKO ・・・
・・・ 体験談の4 Page PDF英文のCopy全文 ・・・
関連情報、ご意見などがありましたらトップページのBBSまたはE-mailのボタンをクリックし、 ご連絡お願いします。 B-29のトップページへ戻る *** ******* |