徳川家康公遺訓

人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば 不足なし 心に望み起こらば 困窮したるときを思い
出すべし 堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思え 勝つことばかり知りて
負くるることを知らざれば 害その身に至たる 己を責めて人を責めるな
及ばざるは過たるより 勝れり 。

世に人の教えとして「徳川家康公自筆・日課念仏」が良き教訓として署名や日付の付いた、処世術「徳川家康公」がある。 日光・上野・久能山・名古屋などでは、徳川家康公自筆のものとして世間で多く伝えられ出まわっている。
もとより家康は幼少のとき人質で幼青年期を過ごして、艱難辛苦を身でもって体験した徳川家康が征夷大将軍となり、ついに江戸幕府を開設して、徳川三百年の初代将軍で基礎づくりを成し遂げた。家康の生涯を思うとき、この遺訓は「もつともふさわしい」立派な人生訓で、私たち多くの人々から仰がれている。
だが、徳川家康公の遺訓について真意は、概ね疑問視する歴史学者が居る。
なかでも中世や近世を専門とする学者は「後世のもの」とみなす考え方に立つ。
1に、東照宮に伝えられて遺墨の筆跡や花押しは家康のものと認め難い。
2に、江戸時代初期の史料に一切見いだせない。
3に、家康生存時代このような人生道徳論や人生論など例はなく、もっぱら軍事政治優先した時代であった。
4に、慶長年間「1595年から1614年」の文体でなく、歯切れも良く、まとまり、名文である。口調がまとまり過ぎて後世の名文である。
以上が指摘されるところである。
多くの人々が言うように徳川家康のものであると、無かろうと立派な人生訓に間違いなく、敢えて異論を唱えても多くの善男善女の夢を裂くのも大人げない事実となる。微笑ましく思えばよい。
むしろ、徳川家康の日課念仏の方が真実の見方がある。「重要美術品」で晩年家康「61歳」、大樹寺登誉上人が家康に毎日の日課として、「念仏」を6万回唱え書くように言われ、久能山に伝承されおり山岡鉄舟も認めている。
戦いで死んだ将兵の追善供養としての意味が「念仏日課」に含まれている。
天下統一し秀忠に譲り駿河城に隠居し念仏に明け暮れた家康に何の不思議はないと考えられている。念仏の6字を1日千回書くことは到底常人の成しえぬ 難しい仕業であり忍耐の上に立つ家康だからこそ成し遂げたのではなかろうか。
後世に水戸黄門の御作と言われる「天保会記」に、近い文章があり之を口調 に整えたと言う説があり、定かでないが徳川光圀が家康の子孫であり、需教で 家康を尊敬し彼もまた、多くの訓論を出しているから肯定させられる。如何に つけ教訓として「座右の銘」として、自らを戒め噛みしめたい処世術である。  

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