春秋・戦国時代とは?
春秋・戦国時代の大まかな流れを追って行きます。
春秋・戦国時代がどんな時代かを語る前に、その前の殷・西周王朝について説明せねばなるまい。「殷王朝」・「周王朝」という言い方をすると、いかにも殷や周という国が大陸にデーンと広がっていたようなイメージを受けるが、実際にはそうではなかった。どういうことかと言うと、太古の中国にはそれこそ村ぐらいの広さの小規模な国が、城壁に囲まれた都市国家という形で何千、何百と存在したと考えられているのである。殷や周も、元々はそういった国家であったが、都市自体の規模が大きかったために、他の都市国家郡を合わせた都市同盟の盟主となり、複数の都市による連合国家を形成した。
その頃は、まだ中央集権体制をとって、都から命令を末端まで下すという政治システムが無かった。同盟下の都市ではそれぞれ君主がいて自治を行っていた。その中でも勢力が強大な国は、王から伯(覇)に任命され、地方ごとの国々を取り締まったり、殷の都市同盟に敵対する国や集団を討伐したのである。周は元々そのような伯であったが、結局殷に取って代わって新たな都市同盟の盟主となった。そして初代の武王は、功臣や一族の者を諸侯として各都市に封建したのである。
当初、周の都は鎬京(こうけい)に置かれていたが、紀元前770年・幽王の時代に鎬京は犬戎という部族に攻め落とされ、都を東の洛邑(らくゆう)に移した。この事件を境に周は都市同盟の盟主の座から、一都市国家へと転落した。そしてこれ以後を東周時代と呼ぶのである。その前半期、紀元前403年までを、孔子が編纂したと言われる歴史書の名前を取って春秋時代という。大国であった晋が国内の有力貴族によって韓・魏・趙の三国に分裂した紀元前403年から秦の始皇帝による天下統一が成された紀元前221年までを、『戦国策』という書物の名前を取って戦国時代という。
殷から戦国時代までの歴史は、これらの都市国家の兼併の歴史と言えるだろう。ごく小規模のものを合わせて、国の数は殷の末期には2000国が存在し、春秋時代には200国、これが戦国時代には十数国となり、最後に秦一国が勝ち残った。(ただし史料によって国の数は異なってくる。)
しかし春秋時代には、まだ統治技術がまだ発達していなかったので、せっかく一国を滅ぼしても新たな君主を立て、宗主国の後ろ立てのもとで、附庸国としての自治を認めるという方式が取られることが多かった。また、国際的にも斉の桓公や晋の文公といった実力のある諸侯が現れ、覇者として次々に都市同盟の盟主となったが、彼らは「尊王攘夷」を唱え、周王朝を一応は尊んでいた。この頃、南方の長江流域に楚国が興り、中原地域の諸国を支配下に納めようと戦いを挑んできていたのである。楚は周王朝を尊ばず、自ら王と称していた。
この晋を中心とする中原諸国と楚の対立は長らく継続したものの、戦国時代以降各国は統治技術の発展により、都市国家から、弱小国家を滅ぼして直接支配していくという領土国家へと転身していった。覇者による間接的な統治方法は、ようやく時代遅れとなっていたのである。そして各国の君主は周王朝を無視して王と名乗るようになり、天下統一を目指して争いあったのである。そして最終的に秦王の政が、中国史上初めて天下統一を達成した。政は「皇帝」という称号を作り、自らが始めての皇帝となった。すなわち秦の始皇帝である。皇帝の称号は、それまでの王号に代わって中国王朝の支配者の号となった。