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マインドコントロールと行儀 (まいんどこんとろーるとぎょうぎ)
:この内容は、一般考察から複写しました。マインドコントロールの研究 (まいんどこんとろーるのけんきゅう)
無力感
目が覚めると、急に無力感に襲われ、生きる事への気力を失っている。・・・マインドコントロールにかかった人々には、よくこうした事が起こるらしい。それゆえ、どんなに便利で役立つテクニックだと思っても、これを使うべきではない。
ところが現在、秘密裏に・・・あるいは公然と、このテクニックは使われている。行動を規制して、「見せ掛けの行儀良し」を作る・・・というのは、多くの宗教団体でよく見かける光景だ。そしてそれらが、マインドコントロールのテクニックを使って実現されている場合は少なくない。これは問題である。上記のような、無気力な人間を量産してしまうからである。それは、精神的囚人を作る行為に他ならない。(これは聖書の比喩では「死人」と表現される)
実際、マインドコントロールでまとめられた集団は非常に行儀が良い。教祖の命令を実によく守る。しかし、どんなに彼らの行儀が良くても、それは無気力と背中を接したものだ。彼らは不幸なのである。
マインドコントロールは、人を内部崩壊させる行いであり、人の心から自由を奪う行為ゆえに、神からも許されない。確かにそれを使えば、薬物や酒を飲ませたように信者は従順になり、主催者の意のままに行動する。しかし、「酒」の実現させた従順に、どれほどの値打ちがあるだろうか?またその結果、驚くほど整然とした平和な集団を作り上げたとしても、決して自慢できる事ではない。
マインドコントロール・・・それは、聖書の中では象徴的に「ぶどう酒」と表現されている。参考のために、聖書から引用してみよう。(下記の大娼婦が宗教組識を表す)
黙示録 17:1
また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。
黙示録 17:2
地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」
「不品行」とは、神とサタンに同時に仕えようとする態度を言い表している。神の名前を使い、教えを唱えながら、サタンの奥深いテクニックを利用しているからだ。そのテクニックこそがマインドコントロールである。
マインドコントロールは、かなりの宗教団体で多用されている。それは、そのテクニックに必要な中心となる人物(スター)が最初から備わっているからである。それは、教祖であり、組識の指導者である。彼の口を通して、巧みに「規制と繰り返し」を行えば、信者達は思いのままに動き始める。
マインドコントロールを行う組識は、巧みに信者を誉めながら、実際には彼らを手荒に扱う。その一つとして、行動をスケジュールで縛る冷徹な規約がある。どんな場合も「例外」をけっして認めない。
たとえば、「集会は決して休むな」とか、「全員の義務として伝道が課せられる」といった要求がある。催される大会にも、必ず出席するよう強いられる。
集会を中心に据え、三日を開けずに顔を合わせるようプログラムを組んで教育を行うのだ。それは、「繰り返し」そのものが目的だからである。ゆえに、内容は何度も重複する退屈なものになっている。この集団には、それが必要だからだ。マインドコントロールは、繰り返しによって人々の心を縛る技術である。
この組織は、中心部への批判をけっして許さない。信者から、「批判の自由」も、「欠席の余裕」も奪ってしまうのである。それとは逆に、「あなたがたは自由になった」と暗示を繰り返す。こうした組識を見つけたら、彼らの「行儀の良さ」に騙されてはならない。それは、マインドコントロールで実現された「空虚な行儀」であるからだ。彼らは間違いなく危険を孕(はら)んだ集団だと知っておくべきである。
キリストが出現した時、真っ先に糾弾したのが、こうした「無害に見える」教団組織だった。彼はこう言った。
「この組織は外側は美しいが、
内部は死人の骨で満ちている」
「死人」とは、もちろんマインドコントロールの犠牲者とされている組織内部の民衆を指していた。マインドコントロールで実現された「品行方正」など、神は少しも喜んではいなかったのである。
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正気に見える狂気マインドコントロールの研究2 (まいんどこんとろーるのけんきゅう2)
「自分たちは、正しい事をしている」と信じる人々は、毅然(きぜん)としていて、ある意味で堂々として見える。その自信が、正しくても間違っていても同じである。マインドコントロールという方法は、周囲には「正気に見える狂気」だからだ。
見分け方
ほとんど判別不可能に見えるマインドコントロールも、一つの特徴を知ってしまえば簡単に見抜く事ができる。まず、その集団の外見に目を奪われてはならない。外側のペンキは非常に美しいからである。その集団は、こんな評判を得ているだろう。
●品行方正
これは、「白いペンキ」に相当する。外部に向けての美しさは宗教団体の基本だ。おとなしく、まじめで行儀が良く、丁寧で親切な集団。この評判は、マインドコントロールのテクニックを使えばどんな集団でも得る事ができる。つまり、「ペンキ」の意味はこの評判を得ようと、意識的に操作しているため、この結果を生んでいるという事である。
実際は、集団の雰囲気や特徴は意図的に操作するものではなく、内部から自然に沸き上がってくるものだ。外部への体裁ばかり気にしている場合、それは意図的にペンキを塗っているのと同じなのである。
また、この集団の内部の信者は、例外なくおとなしい。それはそのテクニックが、「酒」と同じ麻酔効果を持っているからである。
パリサイ派の人々
イエスの登場した一世紀当時、既にマインドコントロールを使っている集団があった。それが、パリサイ人達である。彼らは、非常にまじめで熱心であった。そして異常な熱意を伝道に注いでいた。(イエスは、彼らを、「ひとりの改宗者を求めて地を行き巡る」と評している)
全ての教えの内容には、各自の判断を許さず、前例に執着していた。いずれも、マインドコントロールを使う集団の特徴だ。(後に述べる)しかし、彼らの真の姿を最初に呑み込んでおかねばならない。
パリサイ人を「性悪で険悪な人々」のように描く人々がいるが、実際はそうではなかった。彼らは普段、民からの尊敬を受けていた。確かに、礼儀作法にはうるさいが、普段は温和で穏やかな人々だった。支配者であるローマ人も、彼らには一目置いていた。彼らが、民の手本として品行方正を貫いていたからである。支配者はそうした群集をなだめる人々を必要としていた。
イエスを処刑するかどうかピラトが迷った時、パリサイ人などの宗教指導者達や、その支持者である群集の声を無視できなかったのはそうした理由からだ。もし、パリサイ人達が群集を味方に付けていなかったなら、イエスの処刑を扇動する事はできなかっただろう。ローマ人の目には、パリサイ人を始め宗教指導者達は良識の人々に見えたし、「イエスが反逆者だ」という声も「一考の余地あり」と思えたはずである。
結局、ピラトの心中を代弁すれば、「あれほどまじめで信望の厚い人々の要求だから、この際仕方が無い・・・」となっていたはずである。外部からも、民からも、まじめで善良な先生と見てもらえなければ、イエスをあそこまで追い込む事はできなかったはずだ。
「群集が騙されていた」
ここに偽善の正体が隠れている。後の世の私達にはパリサイ人の偽善は見抜く事ができるが、それは、「イエスの観察眼」からの助けがあるからだ。当時の群集にはそれができなかった。それは、彼らの偽善が見事なまでに完成し、整っていたからである。端(はた)から見て、
「何て立派な人々だろう」
と、思われなければ偽善は成立しない。騙されている群衆の中で、イエスだけがその事柄に言及し、
「偽善とはこういうものだ」
と例を挙げて指摘した。だからこそ群集は考え始めたのだ。それでも、パリサイ人や宗教指導者と共に滅びの道へと向かった群集は多かった。大多数は、彼らの偽善に騙され続けた。それは、イエスの去った後も、パリサイ人達の地位にはほとんど影響が無かった事を見ても理解できる。
イエスの弟子達の集団は、群集のほんの一部であり、当時は全くの少数派だった。(イエスは、弟子達に向かって「小さな群よ」と呼びかけている)
広い畑の中に一粒の種が落ち、少しの茂みができた程度だろう。この事実を踏まえないと、パリサイ人の偽善の全容がつかめない。それは、「立派」で「無害」と見られ続けたのだ。つまり、
「イエス以後も大部分の偽善は残った」
これが現実なのだ。
急速な拡大は腐敗の始まり
巨大な宗教組織が存在する。では、それがなぜ急速に拡大したか説明できるだろうか。ほとんどの人々は、それが
「神の祝福だから」
と考えてしまう。しかし、イエスの言葉によれば、それは
「腐敗が始まった証拠」
なのだ。
つまり、無酵母パンのために練り上げた小麦粉に、パン種が紛れ込んで発酵を始めたからに他ならない。
イエスの話の中での「腐敗」は、実は「発酵」を意味している。「組識が腐敗する」という場合、それは酵母やイースト菌によってパンが膨らむように「組識が肥大化する」という意味である。しかしこの組識は、「中身が穴だらけでスカスカの状態」だ。
中身の空洞の意味は?
発酵中の泡(気体)は、炭酸ガスとアルコールである。酵母菌などが増殖して内部で熱心に活動すると、その泡が増加してパンは膨らんで行く。ではこの泡には、どんな意味が含まれているのだろうか?それは、
「信者同士の関係」
を現している。彼らは泡に隔てられるように、
「非常に疎遠」
なのだ。しかし、同じ信仰に歩む仲間がどうして疎遠だと言えるのだろうか?実は彼らは、
「本音で話す」
という事を許されていない。組織内部での会話の全てが、「建前」なのである。
コミュニズムの中身
偽善の宗教組織内部は、ちょうど共産主義(コミュニズム)体制の内部とそっくりだ。組織を安泰に保つため、少しの不服も反動も許されない。どんな場合でも、組織の首脳部への不平不満は口に出せない事になっている。成員同士の見張りが行き届いていて、身近な仲間も、この点で気を許せない。
「今日口に出した不満が、明日には上層部に知れ渡っている」
こんな恐ろしいチェック体制が、隅々まで行き渡っているのだ。これが、仲間同士の疎遠の原因である。
普通、つらい事や不満、いらいらなどの無い組織は存在しない。あのイエスの率いる群れの中でさえ、不平や不満を述べる事は許されていた。また弟子達だけの内緒話しも可能だった。以下の聖句に、その自由を感じるだろう。
マルコ 9:33
カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」
マルコ 9:34
彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。
・・・
こうした自由は、神の組織の特徴でもある。もちろんイエスは、彼らの心中を読んで知っていた。しかしそれを叱責しなかった。
また、イエスの弟子達は、自分達のライバルであるはずの律法学者達の意見も聞いて知っていた。決して、他の組織との交流が無いわけではなかったのだ。
マルコ 9:11
彼らはイエスに尋ねて言った。「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」
マルコ 9:12
イエスは言われた。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。
マルコ 9:13
しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。」
・・・
イエスは、弟子達の態度を叱るでもなく彼らの疑問に答えている。
「どうして悪い連中と話すのですか?」
とは言わなかった。
預言者ヨナが、神に対して不服を言い、神の命令に逆らってタルシシュへ逃げていった事を憶えているだろうか?神は、彼を処罰しただろうか?いや、そうではない。ヨナは、魚の腹の中に入って、反省したのは確かだが、それは、ヨナの不従順の罪への罰ではない。自暴自棄になって、死を覚悟して海に落ちたヨナの頭を冷やすためであり、彼の救出のためでもあった。魚は3日3晩かけて、ヨナを正しい場所まで連れ戻したのだ。神は決して怒ってはいなかった。
ヨナ書 1:17
ヤーは大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。
・・・
神やその組織に対しての不平不満は、神から捨てられる罪には当たらない。ヨナの罪も不問に伏されたからこそ、彼はもう一度神の預言者として、ニネベの町へ派遣されたのだ。(ここではむらとの清い人の不満をテーマにしている)
ヨナ書 2:10
ヤーは、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。
ヨナ書 3:1
再びヨナに次のようなヤーのことばがあった。
ヨナ書 3:2
「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」
ヨナ書 3:3
ヨナは、ヤーのことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった。
・・・
もし、組織やその幹部に対しての不平を、排斥の理由にしている組織があるなら、この神の精神には従っていない。その精神は、コミュニズムのそれである。「組織絶対」という厳しさは、人間の組織の特徴なのだ。神はまず、不平をもらす人間の心の中を見通して、当人の動機を調べる。彼は、どんな理由で不満を述べているだろうか?
「この労働は、子供達には酷だ」
「もう少し楽をさせてやらないと、みんなまいっている」
・・・こんな動機なら、神はそこに咎めるべき理由を見出さない。むしろ、その精神は神に好まれる。しかし、人間の組織は、そうした不平の裏にある理由を読む事ができない。従って、全てが「処罰の対象」となってしまうのだ。
柔和な外見は仮面
人間は、ほとんどの場合仮面を付けて生きている。特に、コミュニズムのような息の抜けない社会の中では、誰一人本当の自分を表さない。その代わり、上手に作られた美しい仮面を顔に纏(まと)っている。柔和や温和や快活さの仮面だ。その人の本性は、組織や仲間と全く断ち切られ、マインドコントロールという「酒」の酔いから醒めた時初めて浮かび上がってくる。
しかし、無人島の中で、二人きりになったとしても、酒の酔いが残っていれば、その人の本当の人格はつかめない。それほど、マインドコントロールは厄介なものである。
酔わせる酒を振る舞う組織
世の宗教の中には、聖書の中に出てくる象徴的な酒、つまり「マインドコントロール」を利用している所が多い。そして、その組織は例外なく大きくなっている。酒の香りは、自然に人々を引き寄せるからだ。
このテクニックは、教えの内容には関係が無い。それで、どんな組織でもこのテクニックを使う事ができる。それらは霊的な教え(信者への食物)とともに信者の口に入る。それで、彼らは自分が酔っている事さえ認識できない。
「これは酒ですよ」
と教えて振る舞えば、拒否する人も多いだろう。心の正常を保ち、研ぎ澄ました心で教えに向かいたいと思う人は、自分が酔って判断力を失う事を望まないからだ。それで、
「うちはマインドコントロールを使っています」
と、親切に教える組織など存在しない。
どんな場合も、
「そんな事はしていない」
と、突っぱねるだろう。それが、神の目から見て、憎まれる行為だからだ。しかし神の予言では、世の中の大半の宗教は、「酒を飲ませる娼婦」として糾弾(きゅうだん)されている。彼女は、その手に杯を握っている。
テクニックの実際
では、マインドコントロールの実際の方法を学んでみよう。
群集をコントロールするには、まず中心が必要だ。宗教には最初からそれがある。神であり教祖である。しかし、どちらかといえば人物に焦点が当てられる。英雄やスターや、指導者である。
次に信者の自由を奪わねばならない。正確には「空き時間」と言うべきだろう。義務や仕事を休み無く課する事によって、毎日を忙しくさせる。これで彼らは、「考える余裕」を失うからだ。次のような仕事が主である。
●修行
日課を与えて、それをこなすように強要し、義務とする。繰り返しを大切な事だと教え、穴を掘っては埋めるような味気ない毎日を送らせる。
●伝道
信者の義務として、伝道はかなりの負荷となる。できない人々に訓練を施して、にわか伝道者を養成する。能率は非常に悪いが、伝道という仕事を与える事に意味がある。それは挫折を通して、その人の人格を崩して行くためだ。見知らぬ人の家に飛び込んで話をするストレスは、恐怖心と共に言い知れぬ不安を与え、一人では立っていられないほど足の力を弱らせる。それは、その人の自信を打ち砕く。泥酔した人が、一人で立てないのと同じように、その脱力感は「象徴的な酔い」でもある。
●勉強
他の事柄に目が行かないように、繰り返し繰り返し勉強させる。子供も容赦しない。
●集まり
極めつけはこれだろう。定期的に集合させ、折り目を付けなければ酔いが覚めてしまうのだ。マインドコントロールを使う集団の特徴は、「集会の位置付け」で判断できる。これを非常に重視する。
イエスとの比較:(イエスは、不定期に群集を教えた。当時の人々は気が向けば集まって来るという自由な状態で教えられた。イエスの話は一度で染み込み、繰り返しを必要としなかった。イエスの弟子達が、出欠を取っている姿など想像もつかない)
けっしてよそ見をさせない
マインドコントロールは、他の組織と比較検討されると非常に都合が悪い。それは、内容の偏りが見抜かれてしまうからだ。中でも「酒を飲んでいない人々」からの意見は、もっとも恐れるべきものである。それで信者達の首が回って、よそ見したり、他の人々からの意見が耳に入らないように徹底している。色々な方法がある。
●周囲を敵とする
外部の全てを敵だと教え、成員との交わりを絶つ。組織から出た者、反対意見を持つ人々、別の宗教組織の人々とは付き合わせない。(これも酒の酔いに関係がある)
(イエスの敵、ユダイスカリオテは内部にいた。敵は外部だけではない。イエスは内部も外部も冷静に見る目を弟子達に求めていた。弟子達は、外部に目を向け、バプテストのヨハネの組織や、癒しを行う別の組織も注視していた。
マルコ 9:38
ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」
マルコ 9:39
しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。
マルコ 9:40
わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
上記聖句でも、イエスが別の組織を柔軟な目で見ている事が理解できるだろう。イエスは、「反対しなければ、敵ではない」と話している。「外部に対して耳をふさげ」とは教えていない。
「不信者とは口を利くな」・・・
それは、イエスの死後組織に加わった「パウロの言葉」だ。これはある意味で、イエスの教えを越えている。
イエス自身も、ニコデモなど組織外の人々との交わりを持っていた。また、イエスの言葉には、「組織から出るな」、「組織から出た者とは口をきくなと」いう部分は無い。イエスの組織は出入りが自由だった。(以下参照聖句)
ヨハネ 6:53
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
ヨハネ 6:54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
ヨハネ 6:55
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
ヨハネ 6:56
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
ヨハネ 6:57
生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
ヨハネ 6:58
これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
ヨハネ 6:59
これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
ヨハネ 6:60
そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
ヨハネ 6:61
しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。
ヨハネ 6:62
それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。
ヨハネ 6:63
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
ヨハネ 6:64
しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――
ヨハネ 6:65
そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」
ヨハネ 6:66
こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
ヨハネ 6:67
そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」
ヨハネ 6:68
すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
・・・
ヨハネ6章66節で、多くの弟子が離れていった事が記されている。イエスもまた、そうした人々を引き止めようともしていない。彼らとは口もきくなとも言っていない。続く6章68節でペテロは、そのような自由があっても「自分の意志」でとどまりたいのだと告げている。イエスの組織はそれほどに、自由な気風を持っていた事に気付くだろう。
●疑問や迷いは邪念と教える
マインドコントロールの場合、「一心に打ち込まねば、効力が失せる」と教え、「疑い、迷い、疑問は邪念」と決め付ける。(しかし、イエスの弟子達は、疑問だらけ迷いだらけであった。イエスは何度も辛抱強く疑問を解き、迷いへの解説を重ねた)
------------------------------------続き
軍隊での利用
多くの国の軍事教練ではマインドコントロールが多用されている。これは、施政者にとっては知られたくない事実である。行動を揃え、言動を揃える。上官への疑問や反論は絶対に許さない。人々は、軍事教練とはこんなものだと思い込んでいるかもしれない。しかし、人間をロボット化するこうした方式は、「公然のマインドコントロール」なのだ。
兵士は、何も考えず命令通りに行動する。相手が誰であれ、命令で(銃の)「引き金」を引く。そこには自分自身の感情は無く、良心や判断力の入り込む余地は無い。体が自動的に命令に反応して動いてしまうのだ。そしてこうした不自然な人間を作り出す訓練は、誰もが見慣れた光景だろう。しかしこのような行為は、神の目から見て「犯罪」である。
自己責任を取れない兵士達
ナチスドイツが敗北し、戦犯が裁かれた法廷で、兵士達はこう言った。
「我々は命令で行動したに過ぎない」
しかし、彼らの言い分は通らず、多くの司令官や司たちが死刑になった。法廷を運営していた人々の言い分はこうであった。
「たとえ命令でも、自分の良心を使わなかった者は罪人だ」
この場面を分析すれば、こういう事だ。
ナチの兵士達は、マインドコントロールで確かにロボット化されていた。自分達がその影響を受けていた事を訴えようとしていた。しかし当時は「マインドコントロール」という言葉さえ無く、そんな主張は受け入れてもらえなかった。
ここで注意すべき点を述べておこう。
ナチスの使っていたマインドコントロールを論じたからといって、彼ら戦犯達を擁護しているわけではない。戦犯をどう裁くかは、論点ではない。ここでは、ナチスの使った「マインドコントロールの罪」を糾弾しているのだ。民衆をコントロールするためにそのテクニックを使ったナチスドイツの大きな罪は、決して許されるものではない。
知っていた?
マインドコントロールの存在が一般に知られるようになってきたのはごく最近の事だ。そのテクニックは確かに人をロボット化する。それで、この支配下に入ると人々の良心はねじ伏せられてしまう。
しかし連合国側は、「マインドコントロール」の力を認めれば、ほとんどの戦犯を裁く事ができない。それで、全ての主張は無視された。彼らの行った「行為」に応じて罪が決定されたのだ。しかし、裁く側が知らなかったはずはない。おそらく上層部では「マインドコントロールの実体」について理解していたはずである。ではどうしてそれが論議されなかったのだろう?
「使える道具」は裏に隠す
施政者側がマインドコントロールの存在を認めたがらないのは、それが無害だからではなく、「自分達がそれを使いたい」からなのである。
戦後になって、「ナチ式の軍事訓練」はアメリカを始め連合国に飛び火した。それは、秘密裏に採用されたはずだ。民衆や兵士をロボット化しコントロールするこうした「黄金の道具」を、暴き立て打ち捨てるほど施政者達は甘くない。
神は裁く
マインドコントロールは、聖書には「酔わせる酒」として明記されている。このテクニックは、宗教団体が一番多用しているからだ。それは神の憎む「裁きの対象」となっている。自由意志を奪い、人々を組織に縛り付け、動けなくするこの卑劣な手段は、聖書では次のように表現されている。
黙示録 17:1
また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。
黙示録 17:2
地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」
黙示録 17:3
それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。
黙示録 17:4
この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。
黙示録 17:5
その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。
・・・
では、彼らのような悪意の支配者はどうなるのだろうか?
黙示録 14:8
また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」
黙示録 14:9
また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
黙示録 14:10
そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
詩篇 75:8
ヤーの御手には、杯があり、
よく混ぜ合わされた、あわだつぶどう酒がある。
ヤーが、これを注ぎ出されると、
この世の悪者どもは、こぞって、
そのかすまで飲んで、飲み干してしまう。
・・・これが神の報復である。マインドコントロールを利用した「悪人達」には、神の手から罰としての同様の酒が飲まされ、自分達が与えた害と同じ種類の害を受け取る事になる。心有る人々は、彼らとの縁を即刻断つべきだろう。
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イエスの態度曲った世代とは (まがったせだいとは)
マインドコントロールは、群集を相手にし、彼らを操る目的を持って様々な演出が画策される。では、イエスの場合は、マインドコントロールの見地からしてどうだったのだろう?
それは、イエスがエルサレムに登場する時の様子から窺い知る事ができる。その時群集は、イエスを観て熱狂しメシア到来を喜んだ。イエスはロバに乗って入城するのだが、それは偶然そうなったのではなく、イエスの指示によるものだった。
マタイ 21:1
それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、
マタイ 21:2
言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
マタイ 21:3
もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
マタイ 21:4
これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
マタイ 21:5
「シオンの娘に伝えなさい。
『見よ。あなたの王が、
あなたのところにお見えになる。
柔和で、ろばの背に乗って、
それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」
マタイ 21:6
そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。
マタイ 21:7
そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
マタイ 21:8
すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。
マタイ 21:9
そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。
「ダビデの子にホサナ。
祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
ホサナ。いと高き所に。」
マタイ 21:10
こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。
マタイ 21:11
群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。
・・・
この時、群集は大騒ぎだった。そして、21章5節に記されているように、事態は予言通りに流れていった。ゼカリヤの聖句にはこう書かれている。
ゼカリヤ書 9:9
シオンの娘よ。大いに喜べ。
エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜わり、
柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子の子ろばに。
・・・
群集の多くはもちろんこの予言を知っていた。だから、イエスがその通りに出現したのを見て狂喜したのである。しかし、それはイエスの巧妙な演出だったのだろうか?そうではない。21章1説からの聖句を見ると理解できるだろう。それは、人間が演出しようとしてできるようなものではなかったからだ。
イエスの鷲の目
イエスはまるで、自分が空中を飛んで、その地域を見渡したかのような指示を出している。つまり、初めて来た村で、「どこに子ロバがいるか」だけでなく、それを「借り受け可能」な事も知っていたのだ。
イエスのこうした力を持ってすれば、イスラエルの群集をマインドコントロールする事などたやすかったはずである。しかし、イエスはそうしていない。それは、イエスの考えではなかった。イエスは、人々に「冷静な信仰心」を持って欲しいと願っていたからである。
当時、人々を酔わせて従えようとする人物はいくらでもいた。その意味では、イエスのような指導者は珍しかったのだ。次の聖句は、イエスのそうした信条を伝えている。
ルカ 16:14
さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。
ルカ 16:15
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。
・・・
「神に嫌われたくなければ、人間の間であがめられるものとなってはいけない」・・・と述べているのだ。つまり、イエスは「名声や名誉」を追い求めてはいなかった。そう願っていたのはイエスの敵であるパリサイ人や律法の教師達である。
「マインドコントロール」の場合、名声や名誉とは無関係ではない。むしろそれを追い求めなければ群集をコントロールできないからだ。「威厳」や「威風」や「勇ましさ」こそが、人の心を酔わせるからである。ところが、イエスが入城に使ったのはロバの子供であり、およそ勇ましさとは縁が無い。それゆえ群集は、冷静な目でその指導者を見る事ができたのだった。
-----------------------------------続き
神の方法は
「自分を飾らない」
これが神の方法である。
イエスが、何とも見劣りのするロバの背中に乗って入場するという形を採ったのも、神のこの方針があったからである。
人の目の前に「侮られるような姿」をわざと晒すのは、神ヤーのテクニックである。このようにして、人の心を試しているのだ。人間は、立派な風格でだまされてしまい、無意識に値踏みを高くしてしまうからである。立派に見える人を好んで群がるファンは、本物ではない。それは神の望む「謙遜で清い心」を持ち合わせていない民衆である。彼らは「酔い」を求めて群がっているに過ぎない。
ただ、選別が終わってしまえば、神は酒を振る舞うこともある。それが人生の楽しみであることを知っているからだ。適量であり、節度を保っているなら、ぶどう酒を飲む人々を神はとがめない。
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これは弟子達の事か?「豆まき」の意味 (まめまきのいみ)
イエスの言葉の中で、少し引っかかる点がある。次の聖句から考えよう。
ルカ 9:37
次の日、一行が山から降りて来ると、大ぜいの人の群れがイエスを迎えた。
ルカ 9:38
すると、群衆の中から、ひとりの人が叫んで言った。「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。
ルカ 9:39
ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。
ルカ 9:40
お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」
ルカ 9:41
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」
ルカ 9:42
その子が近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまった。それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された。
ルカ 9:43
人々はみな、神のご威光に驚嘆した。
イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。
ルカ 9:44
「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」
ルカ 9:45
しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。
・・・
ルカ 9:41の聖句の中でイエスは、「不信仰な、曲がった今の世」という言葉を発している。誰を指しているのか?父親に代表されるイスラエルの群集だろうか?それとも別の誰かだろうか?次の四者が考えられる。
1. イエスの直接の弟子達。
2. イエスのそれとは別の宗教指導者達
3. イスラエルの群集
4. 悪霊達
地上に落とされた霊者達・・・つまり悪事を働く地上の霊達に対して、イエスはよく間接的に語り掛ける場合がある。しかしこの場合、より有利な立場の者つまり、悪霊を追い出す立場の者の不甲斐なさへの嘆きだと取れる。
ここで、マルコの聖句も参照して置こう。すると、また違った場面が浮かぶ。
マルコ 9:14
さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。
マルコ 9:15
そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。
マルコ 9:16
イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか。」と聞かれた。
マルコ 9:17
すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。
マルコ 9:18
その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」
マルコ 9:19
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
マルコ 9:20
そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。
マルコ 9:21
イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。
マルコ 9:22
この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
マルコ 9:23
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
マルコ 9:24
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
マルコ 9:25
イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」
マルコ 9:26
するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。
マルコ 9:27
しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。
マルコ 9:28
イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」
マルコ 9:29
すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
・・・
マルコ9章28節では、イエスの弟子達が「どうしてでしょう。私達には追い出せなかったのですが。」と聞いた事実が記されている。これを考慮すれば、イエスが曲ってねじけた世代と述べたのも、彼ら・・・つまりイエスの弟子達を指しているかに見える。
しかしもしそうなら、その弟子達は「神の不興を買う世代」と同一になってしまう。これは実際におかしな事である。神の不興は、イエスの教えを信じる弟子達にではなく、イエスを排除しようとしたイスラエルの宗教指導者達やそれに付き従う群集に降りかかるはずだからである。イエスが、「曲ってねじけた世代」だと考えていたのは、明らかに彼らのはずだ。申命記にはこのような聖句もある。
申命記 32:20
ヤーは言われた。
「わたしの顔を彼らに隠し、
彼らの終わりがどうなるかを見よう。
彼らは、ねじれた世代、
真実のない子らであるから。
・・・
上記聖句は、頑固で神に背き続けたイスラエルの民の事を指して「ねじれた世代」と記している。彼らは実際、40年間荒野で足止めされ、その世代のうちには神の約束の地に入れなかった。イエスの述べた「曲った世」・・・あるいは「世代」とは、こうした背景を加味した言葉だと考えられる。
またイエスは、自分の弟子達を、イスラエルの宗教指導者達の攻撃から守る事はあっても、公に叱責するはずがない。もちろんそのような厳しさが、イエスに無かったとは言わない。また、確かに弟子達には少し高慢な部分もあった。ルカ9章46節では、「自分達のうち誰が一番偉いか」と論じた事が記されている。
しかし、彼らと宗教指導者達とは全く次元が違う。高慢さにおいては、イスラエルの宗教指導者達は桁違いだった。また、弟子が力不足なのは当たり前の事であり、彼ら自身もそれを知っていた。イエスがそれ(力不足)を叱責するというのは考えられない。事実、ルカ9章29節では、イエスが弟子達に助言している様子は穏やかである。イエスの弟子に対しての考えは、以下のように良識的だった。
マタイ 10:24
弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
表向きの姿勢か?
それでも、可能性としてイエスが直弟子達に、公の前で「形式上の叱責」を与えたという可能性は残されている。だが、イエスの弟子達には叱責にそれほどのショックを感じている様子は見えない。その叱責が別の存在に向かったか、あるいは叱責は受けたが、それが「形式上の」ものだったからだろうか。(叱責というより、イエスの嘆きを含んだ独り言と見る事もできる)
イエスがマルコ9章23節で「できるならというのか」と子供の父親の不信仰を戒めたのが気がかりである。イエスの言葉(曲った世)は、もしかするとこの子供の父親達の世代(世)に向けてのものだったのかもしれない。実際イエスは、イスラエルの宗教指導者達に扇動された「群衆」からの要求によって処刑されるからである。(ルカ9章44節)
イエスは、どうやらこの父親の素性を見抜いていたようである。彼はイエスの本物の追随者ではなく、その時だけの御利益にあずかる目的でやってきたのかもしれない。父親に純粋なものを感じられなかったので、イエスは彼を不信仰なイスラエルの民の一部ととらえたのだろう。
では、「曲ってねじけた世代」とは、イエスの出現にもかかわらず、目覚めなかった大多数のイスラエルの群集を指しているのだろうか?
確かに、彼ら群集が正しい信仰によって正しく神に祈っていたなら、悪霊に付け入る隙を与えず、イエスをわずらわせる事も無かったに違いない。なぜなら彼らは、どんな悪霊より強い「真の神」に、直接祈る特権を得た民だったからである。以下の聖句を見れば、彼らがいかに恵まれていたかが理解できる。
出エジプト記 23:25
あなたがたの神、ヤーに仕えなさい。ヤーはあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。
出エジプト記 23:26
あなたの国のうちには流産する者も、不妊の者もいなくなり、わたしはあなたの日数を満たそう。
・・・
イエスが来て、病気の者を癒さねばならなかった理由は、彼らイスラエルの不信仰にあった。そうでなければ上記の聖句通り、イスラエルの民に病気の者は一人もいなかったはずなのだ。イエスが不信仰で曲った世(世代)と述べたのはこの理由からではないだろうか。
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マリア崇拝 (まりあすうはい)
隠爾(おに)と闘う日本人
一人一人の日本人は今、隠爾(おに)と闘っている。
当人の意志に関係なく・・・
(以下「隠爾(おに)」=「鬼」)
「オニ」という日本語は、『見えない者』が原意だった。
【鬼】おに
一(名)〔姿が見えない意の「隠」の字音「おん」の転という〕
(1)(天つ神に対して)地上の国つ神。荒ぶる神。
(2)人にたたりをする怪物。もののけ。幽鬼。
(3)醜悪な形相と恐るべき怪力をもち、人畜に害をもたらす、想像上の妖怪。仏教の影響で、夜叉(ヤシヤ)・羅刹(ラセツ)・餓鬼や、地獄の獄卒牛頭(ゴズ)・馬頭(メズ)などをさす。牛の角を生やし、虎の皮のふんどしをつけた姿で表されるのは、陰陽道(オンヨウドウ)で丑寅(ウシトラ)(北東)の隅を鬼門といい、万鬼の集まる所と考えられたためという。
(4)放逐された者や盗賊など、社会からの逸脱者、また先住民・異民族・大人(オオヒト)・山男などの見なれない異人をいう。山伏や山間部に住む山窩(サンカ)などをいうこともある。
(5)子孫の祝福に来る祖霊や地霊。
(6)死者の霊魂。亡霊。「護国の『おに』となる」
(7)
(ア)人情のない人。冷酷な人。
(イ)(「心を鬼にする」の形で)気の毒に思いながらも冷酷に振る舞うこと。
(8)非情と思われるほど物事に精魂を傾ける人。
「文学の『おに』」
「仕事の『おに』」
(9)鬼ごっこや隠れんぼなどの遊びで、人を探しつかまえる役。
(10)貴人の飲食物の毒味をする役。おになめ。おにくい。鬼役。
「鬼一口の毒の酒、是より毒の試みを『おに』とは名付けそめつらん:浄瑠璃・酒呑童子枕言葉」
:以下略
節分の「豆まき」を思い出そう。
「鬼はー外!」
「福はー内!」
これは、
子供から大人までが、「鬼と闘う意志」を表明する行事だ。
【鬼打ち】おにうち
節分の豆まきのこと。鬼やらい。
【鬼打ち木】おにうちぎ
関東地方で正月一四日の年越しに、疫鬼を追い払うために門に立てかけておく割り木。本来は、正月用の薪。年木(トシギ)。〔もと「御新木(オニユウギ)」で、「鬼木(オニギ)」となり、さらに「鬼打ち木」となったという〕
【鬼打ち豆】おにうちまめ
鬼やらい(節分)のときにまく、炒(イ)った大豆。
「鰯柊をさして『おにうちまめ』:浮世草子・一代男{3}」
この不思議な習慣を持った日本人は、歴史の中に隠された「神の選民」だ。
最近は少なくなってしまったが、ひと頃、この国の家の屋根多数には「鬼瓦」があって、それが「見えない相手」への「宣戦布告」となっていた。
【鬼瓦】おにがわら (オニガハラ)
(1)棟の端(ハナ)に取り付ける飾りの瓦。奈良時代には一般に蓮華文が用いられたが、八世紀以降獣面・鬼面へと変化した。今日では鬼面以外のさまざまの意匠も用いられる。
(2)いかつくてこわい顔。
故に、隠爾(悪霊)の側も「攻撃対象」として敵意を向けてくる。
この戦いは、日本人の宿命だ。
元々、「見えない魔物」を意識する文化は、アジア全体にある。
なぜならアジアには、「イスラエル十部族」が点在して暮らしているからだ。
そちらから日本に輸入された風習も多い。
しかし、神道系の思想には、相当古い時代から「見えない魔物」に身構える習俗があった。
仏教系の思想が流れ込んでからは、その構えが乱され、
「鬼はお友達」・・・といった「禍々(まがまが)しい考え」まで広まる始末だ。
しかし、隠爾の側に姿勢変化はない。
なにしろ、この民族全体は、隠爾の組織が憎む「選民」である。
姿は見せないが、節目節目の事件や出来事から「隠爾の敵意」が見えてくる。
『こいつら、絶滅させてやるぞ!』
(原爆を2発もくらったのは、世界で唯一「この国」・・・そして今、「東北・福島」)
人力では勝てない
諸国の人々が奇妙に思うのは、「豆まき」の姿勢らしい。
「扉を開けっ放しで、鬼を追い出せるの?」
「はあ?」
「また入ってくるじゃないですか?」
「あー・・・」
・・・
しかしこれは、「選民思想」をもう少し理解すれば納得できるはずだ。
選民は、人力(じんりき)で隠爾と闘うわけではない。
頼るのは神力(じんりき)だ。
いわば、「霊者の力」を借りて、隠爾を追い出すのである。
マタイ 12:22
そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。
マタイ 12:23
群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」
マタイ 12:24
これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」
「悪霊」を追い出すために、それより強い力を持った「霊者の力」を借りる・・・
日本では「土御門(つちみかど)」の流儀として知られている。
【土御門】つちみかど
姓氏の一。平安中期の安倍晴明に始まる流が有名。天文・陰陽道(オンヨウドウ)の家業をもって朝廷に仕え、代々天文博士・陰陽頭を出した。戦国時代の有脩の代以後は、暦術博士を兼ねた。
【土御門神道】つちみかどしんとう
江戸時代の神道の一派。陰陽道と神道を習合したもの。陰陽家の土御門家(安倍家)が垂加神道により神道行事を取り入れたのに始まる。安倍神道。安家(アンケ)神道。天社神道。
【陰陽道】おんようどう (オンヤウダウ)
中国の陰陽(インヨウ)五行説に基づいて、災異・吉凶を説明しようとする方術。天文・暦数・卜筮(ボクゼイ)などを研究した。日本には六世紀頃伝えられ重要視されたが、特に平安時代以降は神秘的な面が強調されて俗信化し、避禍招福の方術となった。おんみょうどう。いんようどう。
「霊者」同士の闘いを通して「悪霊(鬼)」を追い出せば、それ以降の家には見えないバリアが構築される。つまり、「神慮の壁」が設置される。
だから、物理的には『開けっ放し』でも平気なのである。
(「鬼」は壁やドアなど平気で通り抜けてくるから、戸締りは意味がない。)
こうした理解を持ち、「見えない者(霊者)」を駆使する「陰陽道」の「元祖」は、イエスにあった。
(「天の全軍」がイエスに仕えている)
イエスの場合、「怪しげな霊」を使ったのではない。
背後にあったのは、「神の力」だった。
マタイ 12:25
イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。
マタイ 12:26
もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。
マタイ 12:27
また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。
マタイ 12:28
しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
マタイ 12:29
強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。
マタイ 12:30
わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。
・・・
地上でのイエスは、創造主ヤーエの名を呼んで崇拝していた。
だから、「ベルゼブル」を追い出す力さえ持ち得たのだ。
東洋に伝わる「鬼の追い出し」という行事は、正にイエスが手本を示した「悪霊排除」の手法を受け継いだものなのである。(豆まきもその延長)
普段から「創造主ヤーエ(万軍のヤー)」に崇拝を捧げているのなら、イエスの場合と同じ神が援助してくれることになる。
※ なぜ「豆」を撒くか・・・を考えてみよう。イエスは自分を『種蒔き人』になぞらえたが、その弟子が豆を撒くことで「師匠の手本を踏襲する」という意思表示になっている。イエスが、イスラエルの家から悪霊を追い出し、垂訓を通して理解を深めたように、我々も一つの行為を通して「教えを広め」、「自らの家を清める」という多重の意志表示をしているのである。
民族の気構えが結集すれば、この国家から本当に隠爾を追い出すことができるだろう。
しかし、
「鬼などいない」
「進化だから」
・・・
こういった考えに固執するなら、当の「鬼」が喜んでしまう。
それは、「イエスの敵」がばら撒いた『雑草』の論理であり、この妄想を広める者は
『散らす者』に他ならない。
今しばらく、乗り越えてゆけ
「見えない者」との戦いは、佳境に入っている。
傷に怯(ひる)めば、隠爾は図に乗って攻撃を強めてくるだろう。
悲しみにくれている暇はない。
今は隠爾との、「霊的な戦い」の中にある。
戦士は戦場で、仲間の死体を乗り越えて突進するのではないか?
「神の援軍」が押し寄せるまで、「あと少し」の奮闘だ。
得意げな隠爾の顔が曇るまで、何としてでも闘いを続けよう。
世の中はめまぐるしく展開するが、それは「神の戦い」が「見えない場所」で起きているからだ。
諦(あきら)めてはならない。
多数の祈りが、「ヤオヨロズの軍勢」を呼び寄せる。
(資料:広辞苑 第五版CD-ROM版)
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→悪霊を除ける
親族より神ミカエルとアヌンナキ (みかえるとあぬんなき)
イエスは、家族を大切にしていたはずだが、それとは逆の話しをしている。
マタイ 10:34
わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
マタイ 10:35
なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
マタイ 10:36
さらに、家族の者がその人の敵となります。
マタイ 10:37
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
マタイ 10:38
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
マタイ 10:39
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
マタイ 10:40
あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。
・・・
この話しを聞いた人は、驚いただろう。ヘブライ人は家族を大切にしていた。戦争に行く若者がもし新婚なら、一年間は猶予されたほどである。それでどうしてイエスは、このような話しを行ったのだろう?
これは実は、本物の家族を引き合いに出しているのではない。イエスの話しに登場する「家」は、イスラエルの「宗教国家」を指した例えである。それで、そこに出てくる父や母は、宗教的指導者を指しているのだ。ちょうどキリスト教の「神父」を父と呼ぶようにである。兄弟達は、当然宗教の仲間である。
イエスは、彼らイスラエルの宗教指導者達を、「敵する者」だと教えているのだ。彼らがその偽善によって、民を誤導していたからである。しかしイエスの場合、実際の家族からも足を引っ張られる事があった。
マルコ 6:2
安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
マルコ 6:3
この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
マルコ 6:4
イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
マルコ 6:5
それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
マルコ 6:6
イエスは彼らの不信仰に驚かれた。
それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
・・・
救世主としてのイエスを、人間イエスの地位に引き下げるためには、家族を絡めて束縛してしまえば簡単だ。人々の目は、イエスを「人間」としてしか見る事ができなくなる。これらは実は、サタンの陰からの謀略である。
イエスを常に、「神の子」から「人間の子」に貶めるために、イエスの家族に注目させているのである。こうした雑念は、人々の目を信仰から遠ざける。
ルカ 8:19
イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のためにそばへ近寄れなかった。
ルカ 8:20
それでイエスに、「あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに会おうとして、外に立っています。」という知らせがあった。
ルカ 8:21
ところが、イエスは人々にこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。」
・・・
イエスは、確かに出生もはっきりした人間マリアの子ではある。が、父はヨセフではない。イエスは「神による無為生殖」で生まれた子供である。それは、アダムと同等の価値を持つためであった。イエスは確かに、特殊な人間なのだ。(寿命もアダムと同等)
しかしマリアの子供である事は確かなので、サタンは常にこうした「家族を背負わせようとする圧力」をかけてきた。以下の聖句はその典型である。
ルカ 11:24
汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言います。
ルカ 11:25
帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。
ルカ 11:26
そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」
ルカ 11:27
イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」
ルカ 11:28
しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」
・・・
群衆の中からこう叫んだ女は、確かに「サタンの影響」を受けていた。女は褒めたつもりで叫んだのだが、この一言で聴衆は別の事柄に気を散らした。イエスが神の子ではなく、人間マリアの子供であると思い出したのだ。
しかし、神の意志を遂行しているのは、マリアの子であるイエスではなく、神の子であるイエスなのだ。思いの中に、マリアを挟んではいけなかったのである。
サタンはこうして、常にイエスの母をイエスの上に置こうとしていた。
「マリア崇拝」は巧妙な仕掛け
キリスト教世界でも、マリア崇拝が盛んに行われる。これもまた、イエスを「人間の地位に引き降ろす」トリックである。イエスの母を常に思い出させ、その地位をイエスの上に高める事で、神との仲介者イエスを打ち砕こうとしている。
イエスの母マリアはイエスより上だと錯覚し、神への仲介をマリアに頼む人さえ出現するのである。これは、サタンの思う壷なのだ。
イエスが、「人の敵は自分の家の者でしょう」と述べた言葉には、これほど多くの意味が含まれていたのである。
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→家が分裂する?
聖句を掘り下げる(下書き)ミカ書と日本 (みかしょとにほん)
以下の聖句は、人間の知らない天の領域で起こった戦いの描写である。ここに登場するのは、ミカエルという天使の長と、悪霊の軍の長である竜、つまりサタンである。
黙示録 12:7
さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
黙示録 12:8
勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
黙示録 12:9
こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
黙示録 12:10
そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
・・・
天下分け目の戦いというべきこの戦の勝敗によって、それ以前と以後とではかなりの変化が生じている。それはこのようなものだ。
1.サタンの地位は失墜した
彼らは、神の代理だと言って、人間達に介入できなくなった。そのため、天での方針がこれ以後一貫するようになった。神の言葉に矛盾が生じていたのはサタンの暗躍が原因だったため、彼がいなくなった後は、「変な指示」と思える命令は消え去った。この戦いが起きたのは、イエスが出現して後のことである。天に戻ったイエスは、早速この大仕事を行った。
これで、人間を試すというサタンの性癖に振り回されなくなった。神からの指示の中に非情さが含まれることはなくなった。(試みや絶滅の指令など)
一方地上では、イエスの弟子達が、正しい神の気持ちを伝えるようになり、キリスト教はユダヤ教とは路線転換したようにさえ見えた。しかし、それは伝達経路において、生じていた歪みが正されたからである。イエスは直接地上で指示を出して、その歪みを取り除いた。それで、キリストの教えこそ、旧約部分も含めての聖書の要点となっている。
上記聖句から、サタンの仲間はかなりの数存在していることが理解できる。そして彼らは、この敗北以後は、人間への介入の方針を変化させた。キリストにその実態を暴露され、イエス(ミカエル?)の軍に天から排除されたために、創造主の名をかたることはできない。それで、人間を神から引き離すため、数々の策略を使うようになった。
2.悪霊は忙しくなった
科学を発達させ、世から神を消し去る方向に向かわせた。人類は発見に次ぐ発見によって、自分たちは何でも知っていると誤解するようになった。進化論の勃興により、神不在が証明されたと思い込んでいる。
その陰には、目に見えないサタンの配下が暗躍しており、彼らは日々奔走して忙しい。科学の権威で人間をだまし透かして曳いて行くためである。また、数々の偽宗教をばらまいて、本物も霞むようにし向けている。彼らが背後で奇跡を起こすこともある。しかしそれは、あくまで人間を攪乱するためだ。
3.もっともらしい話をばらまく
神話伝説の中には、ちらほらと真実を見いだすこともあるが、丸飲みにして信じることはできない。それは、全てにサタンの息がかかっているからである。現在サタンは、地上を支配しているため、それも当然だろう。様々な学説や、論評も用心しながら紐解かねばならない。では、次の話はどうなのだろうか?
アヌンナキ神話
人間は、アヌンナキと呼ばれる宇宙人から創造されたという話である。それは、遺伝子操作が使われたという。そして、アヌンナキは人間を奴隷として使っていたが、途中から自治を認め、指導に徹しているという。では、アヌンナキが信頼できる相手であったなら、人間をどのように扱うだろうか?
少なくとも、真実を語り、嘘は言わないはずである。また、はっきりと人間の疑問に答え、自分たちの姿を露にし、素性を語ってくれるだろう。しかし、現状はどうだろうか?
なぜ明快に答えないのか?
聖書の場合は上記のように、事の次第をはっきりと伝えている。天には善の軍と悪の軍が存在しており、そのうち悪の軍は地上に墜ちたと述べている。では、墜ちた軍の実体は何なのだろうか?聖書から述べるなら、それは「神の振りをする神々」である。彼らは、自分たちが天から追い落とされたとは教えないだろう。かえって、「我々は神だ・・主人だ」と述べて、人類を従えようとするだろう。
ではアヌンナキの教えに注目してみよう。彼らの話から悪事をなす「策略の集団」の存在が読みとれるだろうか?否、宇宙には悪者は一人もいないかのようである。彼ら神々が、人間くさい争いを重ねて地上を荒らし回った事件や、遺伝子操作で化け物を量産した事柄は、悪事ではなく、「神々の気まぐれ」という雰囲気しか伝わってこない。大勢の命を奪っても、それは神々の特権なのだろうか?動物虐待にも似た、遺伝子操作による奇形動物量産は罪ではないのだろうか?神々は誰も罪に問われないのだろうか?
神々の間で正義がなされ、裁きがあったという話も聞かれない。それは、人間の正義感をさえ満たせない説明なのだ。
一方、聖書の場合、善の軍と悪の軍の戦いによって、責任追及と裁きがあったことが上記の聖句からも理解できる。太古の地上を荒らしたのは、「人間と接触を持っていた神々」の勢力なのだ。そして彼らは裁かれた。
キリストも、彼らを悪の勢力として教え、糾弾した。それを、聞いた人は正義感において納得する。人間の中にさえ存在するこの正義感が、神々の宇宙に無いとはとうてい思えない。ゆえに、天秤はアヌンナキの言い分より、聖書の方に傾くのだ。
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御輿はなぜ封印されたのか? (みこしはなぜふういんされたのか)
日本に救いはあるか?
聖書予言に沿った流れがはっきり見えてきたのは、ごく最近だ。
中東では大きな政変が続いている。
日本でも、政権交代があってから、国民は新政府に望みを託した。
しかし・・・
坂を転がるように、落ちてゆく新政権。
「せっかくあそこまで引き上げてやったのに・・・」
現在、
日本は国内の柵(しがらみ)に縛られ、
外交では「強い国」から頭を抑えられ、
「終わりの日の台頭」を阻止されているかのようだ。
国内で、どんな力が障害となっているのか?
官僚組織か?
古い政治体制なのか?
いずれにしても、自力で浄化ができない日本は
「鳴かず飛ばず」の状態にある。
数々の理由が考えられる。
1. 日本の中に背教がある。 (仏教や偶像崇拝)
2. 異教徒によって、天皇中心の国家体制が縛られ、壊されようとしている。
3. 悪事の蔓延。 (政界の欺瞞、公僕の身勝手、振り込め詐欺などもなくならない)
4. 世を正すべき司法に不正がある。
5. 日本に圧力を掛ける国々の横暴。
6. 神の名が残されているだけ、まだまし。
7. 日本は、自力で国を改善できない状態。
8. 霊的な目が開かれた新しい指導者が立つ必要。
こんな国に、救いがあるだろうか?
ミカ書に希望を託して、読み進めてみよう。
ミカ書 4:1
終わりの日に、
主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、
丘々よりもそびえ立ち、
国々の民はそこに流れて来る。
ミカ書 4:2
多くの異邦の民が来て言う。
「さあ、ヤーエの山、ヤコブの神の家に上ろう。
主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。
私たちはその小道を歩もう。」
それは、シオンからみおしえが出、
エルサレムからヤーエのことばが出るからだ。
「宗教国家」を『家』と呼ぶ。
(それは、一宗教団体を意味しない。)
国々の民は『そこ』に流れてくる・・・という。
「これこそ、神の国だ!!」
「何らかの証拠」が出現し、誰もがそれを認める。
ミカ書 4:3
主は多くの国々の民の間をさばき、
遠く離れた強い国々に、判決を下す。
彼らはその剣を鋤に、
その槍をかまに打ち直し、
国は国に向かって剣を上げず、
二度と戦いのことを習わない。
神の権威が、戦いを終わらせる。
テロリストも静かになる。
公正な裁きが嘆願され、「主」がそれに応じる。
ミカ書 4:4
彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、
いちじくの木の下にすわり、
彼らを脅かす者はいない。
まことに、万軍のヤーの御口が告げられる。
ミカ書 4:5
まことに、すべての国々の民は、
おのおの自分の神の名によって歩む。
しかし、私たちは、世々限りなく、
私たちの神、ヤーエの御名によって歩もう。
神は弱者を中心にして、物事を考える。
ミカ書 4:6
その日、――ヤーエの御告げ。――
わたしは足のなえた者を集め、
追いやられた者、
また、わたしが苦しめた者を寄せ集める。
ミカ書 4:7
わたしは足なえを、残りの者とし、
遠くへ移された者を、強い国民とする。
主はシオンの山で、
今よりとこしえまで、彼らの王となる。
ミカ書 4:8
羊の群れのやぐら、シオンの娘の丘よ。
あなたに、以前の主権、
エルサレムの娘の王国が帰って来る。
ミカ書 4:9
なぜ、あなたは今、大声で泣き叫ぶのか。
あなたのうちに王がいないのか。
あなたの議官は滅びうせたのか。
子を産む女のような苦痛があなたを捕えたのか。
ミカ書 4:10
シオンの娘よ。子を産む女のように、
身もだえし、もがき回れ。
今、あなたは町を出て、野に宿り、
バビロンまで行く。
そこであなたは救われる。
そこで主はあなたを敵の手から贖われる。
「野」(荒野)に相当するのは、ユダヤ地方から遠く離れた国だ。
『バビロン』とは、異郷の神々に毒された国であったのでとてもよい環境とはいえない。
それでも、「その場所で救われる」という。
バビロンのように汚れた国が、救われるというのか?
ならば、原理主義者が国を治める統率の国に、この聖句は当てはまらない。
そこには、『主』が「救助」にやってくる必要がない。
ミカ書 4:11
今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まり、
そして言う。
「シオンが犯されるのをこの目で見よう。」と。
ミカ書 4:12
しかし彼らは主の御計らいを知らず、
そのはかりごとを悟らない。
主が彼らを打ち場の麦束のように
集められたことを。
この国は、終わりの日に堕落の中にあり、諸外国からの圧力を受けている。
「言いなり」に動くその姿は、まるで見世物だ。
ふがいない敗戦国。
しかしそれは、強い国々への『罠』である。
ミカ書 4:13
シオンの娘よ。立って麦を打て。
わたしはあなたの角を鉄とし、
あなたのひづめを青銅とする。
あなたは多くの国々の民を粉々に砕き、
彼らの利得を主にささげ、
彼らの財宝を全地の主にささげる。
ミカ書 5:1
今、軍隊の娘よ。勢ぞろいせよ。
とりでが私たちに対して設けられ、
彼らは、イスラエルのさばきつかさの頬を
杖で打つ。
ミカ書 5:2
ベツレヘム・エフラテよ。
あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、
あなたのうちから、わたしのために、
イスラエルの支配者になる者が出る。
その出ることは、昔から、
永遠の昔からの定めである。
キリストに成就したこの記述が、大成就するとすれば詳細は?
「ベツレヘム」とは「パンの家」という意味になる。
日本流に言えば、「餅屋」だ。
(「餅家(へいけ)」という解釈も可能。)
ミカ書 5:3
それゆえ、産婦が子を産む時まで、
彼らはそのままにしておかれる。
彼の兄弟のほかの者は
イスラエルの子らのもとに帰るようになる。
ミカ書 5:4
彼は立って、主の力と、
彼の神、ヤーエの御名の威光によって群れを飼い、
彼らは安らかに住まう。
今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。
以下の聖句は、複雑な成就を見せると考えられる。
現在、神の民は「二つ」存在しているからだ。
中東と極東・・・
どちらにどれが当てはまるか、定かではない。
ミカ書 5:5
平和は次のようにして来る。
アッシリヤが私たちの国に来て、
私たちの宮殿を踏みにじるとき、
私たちはこれに対して
七人の牧者と八人の指導者を立てる。
ミカ書 5:6
彼らはアッシリヤの地を剣で、
ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。
アッシリヤが私たちの国に来、
私たちの領土に踏み込んで来たとき、
彼は、私たちをアッシリヤから救う。
ミカ書 5:7
そのとき、ヤコブの残りの者は、
多くの国々の民のただ中で、
主から降りる露、
青草に降り注ぐ夕立のようだ。
彼らは人に望みをおかず、
人の子らに期待をかけない。
ミカ書 5:8
ヤコブの残りの者は異邦の民の中、
多くの国々の民のただ中で、
森の獣の中の獅子、
羊の群れの中の若い獅子のようだ。
通り過ぎては踏みにじり、
引き裂いては、一つも、のがさない。
ミカ書 5:9
あなたの手を仇に向けて上げると、
あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる。
ミカ書 5:10
その日、――ヤーエの御告げ。――
わたしは、あなたのただ中から、
あなたの馬を断ち滅ぼし、
あなたの戦車を打ちこわし、
ミカ書 5:11
あなたの国の町々を断ち滅ぼし、
要塞をみなくつがえす。
ミカ書 5:12
わたしはあなたの手から呪術師を断ち、
占い師をあなたのところからなくする。
いずれにしても、都(国)の中が清められるというのは確かだろう。
偶像崇拝は破棄される。
清めは諸外国へも。
ミカ書 5:13
わたしは、あなたのただ中から、
刻んだ像と石の柱を断ち滅ぼす。
あなたはもう、自分の手の造った物を拝まない。
ミカ書 5:14
わたしは、あなたのアシェラ像を
あなたのただ中から根こぎにし、
あなたの町々を滅ぼし尽くす。
ミカ書 5:15
わたしは怒りと憤りをもって、
わたしに聞き従わなかった国々に復讐する。
やがて、神との間で質疑応答があると考える。
古代の出来事を振り返って・・・
ミカ書 6:1
さあ、主の言われることを聞け。
立ち上がって、山々に訴え、
丘々にあなたの声を聞かせよ。
ミカ書 6:2
山々よ。聞け。主の訴えを。
地の変わることのない基よ。
主はその民を訴え、イスラエルと討論される。
ミカ書 6:3
わたしの民よ。
わたしはあなたに何をしたか。
どのようにしてあなたを煩わせたか。
わたしに答えよ。
ミカ書 6:4
わたしはあなたをエジプトの地から上らせ、
奴隷の家からあなたを買い戻し、
あなたの前にモ-セと、アロンと、
ミリヤムを送った。
ミカ書 6:5
わたしの民よ。思い起こせ。
モアブの王バラクが何をたくらんだか。
ベオルの子バラムが彼に何と答えたか。
シティムからギルガルまでに何があったか。
それは主の正しいみわざを知るためであった。
悲惨な戦争をくぐった日本人は、
「神に助けてもらえなかった」
「裏切られた」・・・と考える。
しかし、先に神を裏切ったのは我々の側だ。
共に歩んでいた道を離脱した。
ミカ書 6:6
私は何をもって主の前に進み行き、
いと高き神の前にひれ伏そうか。
全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって
御前に進み行くべきだろうか。
ミカ書 6:7
主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。
私の犯したそむきの罪のために、
私の長子をささげるべきだろうか。
私のたましいの罪のために、
私に生まれた子をささげるべきだろうか。
ミカ書 6:8
主はあなたに告げられた。
人よ。何が良いことなのか。
主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、
へりくだって
あなたの神とともに歩むことではないか。
恥ずかしいほどの背教がこびりつき、神国とは名ばかりのものだった。
しかも、国の中には不正が満ちている。
ミカ書 6:9
聞け。主が町に向かって叫ばれる。
――御名を恐れることがすぐれた知性だ。――
聞け。部族、町を治める者。
ミカ書 6:10
まだ、悪者の家には、不正の財宝と、
のろわれた枡目不足の枡があるではないか。
ミカ書 6:11
不正なはかりと、
欺きの重り石の袋を使っている者を
罪なしとすることがわたしにできようか。
ミカ書 6:12
富む者たちは暴虐に満ち、住民は偽りを言う。
彼らの口の中の舌は欺く。
窮状にあっても天罰に気付かないなら、人は救われない。
因果関係は、「その通り」に働いている。
お世辞にも「清い」とは言えない国に、祝福が望めるのか。
ミカ書 6:13
わたしもそこで、あなたを打って痛め、
あなたの罪のために荒れ果てさせる。
ミカ書 6:14
あなたは食べても満ち足りず、
あなたの腹は飢える。
あなたは、移しても、のがすことはできない。
あなたがのがした者は、わたしが剣に渡す。
ミカ書 6:15
あなたは種を蒔いても、刈ることがなく、
オリーブをしぼっても、
油を身に塗ることがない。
新しいぶどう酒を造っても、
ぶどう酒を飲むことができない。
ミカ書 6:16
あなたがたはオムリのおきてと、
アハブの家のすべてのならわしを守り、
彼らのはかりごとに従って歩んだ。
それは、わたしがあなたを荒れ果てさせ、
住民をあざけりとするためだ。
あなたがたは、
国々の民のそしりを負わなければならない。
ミカ書 7:1
ああ、悲しいことだ。
私は夏のくだものを集める者のよう、
ぶどうの取り残しの実を
取り入れる者のようになった。
もう食べられるふさは一つもなく、
私の好きな初なりのいちじくの実もない。
ミカ書 7:2
敬虔な者はこの地から消えうせ、
人の間に、正しい者はひとりもいない。
みな血を流そうと待ち伏せし、
互いに網をかけ合って捕えようとする。
「朝」が近くなると、うっすらとした光で暴かれるものがある。
「不正」と「裏切り」と「傲慢」だ。
それでも、善人は国の中に存在している。
ミカ書 7:3
彼らの手は悪事を働くのに巧みで、
役人は物を求め、
さばきつかさは報酬に応じてさばき、
有力者は自分の欲するままを語り、
こうして事を曲げている。
ミカ書 7:4
彼らのうちの善人もいばらのようだ。
正しい者もいばらの生け垣のようだ。
あなたの刑罰の日が、
あなたを見張る者の日が来る。
今、彼らに混乱が起きる。
ミカ書 7:5
友を信用するな。
親しい友をも信頼するな。
あなたのふところに寝る者にも、
あなたの口の戸を守れ。
ミカ書 7:6
息子は父親を侮り、
娘は母親に、
嫁はしゅうとめに逆らい、
それぞれ自分の家の者を敵としている。
ミカ書 7:7
しかし、私は主を仰ぎ見、
私の救いの神を待ち望む。
私の神は私の願いを聞いてくださる。
ミカ書 7:8
私の敵。私のことで喜ぶな。
私は倒れても起き上がり、
やみの中にすわっていても、
主が私の光であるからだ。
正しい者が報われる時期が来る。
悪しき者は、泥のように踏まれるだろう。
ミカ書 7:9
私は主の激しい怒りを身に受けている。
私が主に罪を犯したからだ。
しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、
私を正しくさばいてくださるまでだ。
主は私を光に連れ出し、
私はその義を見ることができる。
ミカ書 7:10
それで、私に向かい、
「あなたの神、ヤーエは、どこにいるのか。」
と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。
私もこの目で敵をながめる。
今、敵は道の泥のように踏みにじられる。
過去に遡って、国を導いた正しい人を選び直し、歴史を刷新する必要がある。
「石垣」というのは「土」である民を整えるために輩出した預言者たちだ。
(例えば、真の神を擁護しようとした「物部氏」は、その石の一つだった。)
ミカ書 7:11
あなたの石垣を立て直す日、
その日、国境が広げられる。
ミカ書 7:12
その日、アッシリヤからエジプトまで、
エジプトから大川まで、
海から海まで、山から山まで、
人々はあなたのところに来る。
ミカ書 7:13
しかし、その地は荒れ果てる。
そこに住んでいた者たちのゆえに。
これが彼らの行ないの結んだ実である。
ミカ書 7:14
どうか、あなたの杖で、あなたの民、
あなたご自身のものである羊を飼ってください。
彼らは林の中、果樹園の中に、
ひとり離れて住んでいます。
彼らが昔の日のように、
バシャンとギルアデで
草をはむようにしてください。
神は生きており、多くが祈れば応じてくれる。
ミカ書 7:15
「あなたがエジプトの国から出た日のように、
わたしは奇しいわざを彼に見せよう。」
ミカ書 7:16
異邦の民も見て、
自分たちのすべての力を恥じ、
手を口に当て、
彼らの耳は聞こえなくなりましょう。
ミカ書 7:17
彼らは、蛇のように、
地をはうもののように、ちりをなめ、
震えながら彼らのとりでから、
私たちの神、ヤーエのみもとに出て来て、
わなないて、あなたを恐れましょう。
ミカ書 7:18
あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。
あなたは、咎を赦し、
ご自分のものである残りの者のために、
そむきの罪を見過ごされ、
怒りをいつまでも持ち続けず、
いつくしみを喜ばれるからです。
ミカ書 7:19
もう一度、私たちをあわれみ、
私たちの咎を踏みつけて、
すべての罪を海の深みに投げ入れてください。
ミカ書 7:20
昔、私たちの先祖に誓われたように、
真実をヤコブに、
いつくしみをアブラハムに与えてください。
日本という国が、強い諸外国からの圧力で苦悶しているからこそ、
ミカ書の聖句が当てはまる。
国の中に、不正と背教がはびこっているからこそ、神の救いが必要とされている。
上に立つ者や裁き司たちが腐っているからこそ、神の到来が待たれている。
状況は正に、この日本に当てはまる。
我々は、人間ではなく「神」に望みを託そう。
人は忘れていても、神は「昔のこと」を忘れていないから。
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御輿の謎御輿はなぜ封印されたのか?2 (みこしはなぜふういんされたのか2)
「日本ユダヤ人説」にとって、どうしても解らないのは、大切な御輿(契約の箱)の封印だろう。日本に来てその土地を平定した時も、後生大事に携えていたはずの御輿が、「どうして隠されてしまったか?」というのが「謎」である。
各地に伝わっている神社の御輿は、そのレプリカでしかない。しかし本物の方は、所持する民族が、モーセ以来続いてきた「神のイスラエル」だという「証」なのである。それは「民族の命」とも言える大切な品物だ。しかし、日本にはこれが無い。なぜだろうか?その理由を独断と偏見で推理してみた。
(荒削りなので、後日修正があるかもしれない)
御輿のような大切なものが失われる場合、以下のような原因が考えられる。
1 火災による焼失
2 盗難
3 戦禍による略奪
4 意図的な埋没
このうち、「1」と「2」は考えにくい。というのは、この大切な箱は神からの授かりものであり、当然神の側でも保護の対象として見守っているはずだからだ。
しかし、古代イスラエルが外国と戦争を行っていた頃に、一度それが奪われたことがあった。優勢になった敵(フィリスティア人)によって、彼らの陣営まで奪い去られたのだ。しかし、その箱の周囲で超常現象が相次いだ。このため彼らの間に恐怖を引き起こし、敵はこっそり返しに来たという。(以下参照聖句)
サムエル記第一 5:1
ペリシテ人は神の箱を奪って、それをエベン・エゼルからアシュドデに運んだ。
サムエル記第一 5:2
それからペリシテ人は神の箱を取って、それをダゴンの宮に運び、ダゴンのかたわらに安置した。
サムエル記第一 5:3
アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、ダゴンはヤーの箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、それをもとの所に戻した。
サムエル記第一 5:4
次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンはヤーの箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両腕は切り離されて敷居のところにあり、ダゴンの胴体だけが、そこに残っていた。
サムエル記第一 5:5
それで、ダゴンの祭司たちや、ダゴンの宮に行く者はだれでも、今日に至るまで、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。
サムエル記第一 5:6
さらにヤーの手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人々とを腫物で打って脅かした。
サムエル記第一 5:7
アシュドデの人々は、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。」
サムエル記第一 5:8
それで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか。」と尋ねた。彼らは、「イスラエルの神の箱をガテに移したらよかろう。」と答えた。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。
サムエル記第一 5:9
それがガテに移されて後、ヤーの手はこの町に下り、非常な大恐慌を引き起こし、この町の人々を、上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた。
サムエル記第一 5:10
そこで、彼らは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンに着いたとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言った。「私たちのところにイスラエルの神の箱を回して、私たちと、この民を殺すのか。」
サムエル記第一 5:11
そこで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部集めて、「イスラエルの神の箱を送って、もとの所に戻っていただきましょう。私たちと、この民とを殺すことがないように。」と言った。町中に死の恐慌があったからである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。
サムエル記第一 5:12
死ななかった者も腫物で打たれ、町の叫び声は天にまで上った。
サムエル記第一 6:1
ヤーの箱は七か月もペリシテ人の野にあった。
サムエル記第一 6:2
ペリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び寄せて言った。「ヤーの箱を、どうしたらよいだろう。どのようにして、それをもとの所に送り返せるか、教えてもらいたい。」
サムエル記第一 6:3
すると彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すのなら、何もつけないで送り返してはなりません。それに対して、必ず罪過のためのいけにえを返さなければなりません。そうすれば、あなたがたはいやされましょう。なぜ、神の手があなたがたから去らないかがわかるでしょう。」
サムエル記第一 6:4
人々は言った。「私たちの返す罪過のためのいけにえとは何ですか。」彼らは言った。「ペリシテ人の領主の数によって、五つの金の腫物と、五つの金のねずみです。あなたがたみなと、あなたがたの領主へのわざわいは同じであったからです。
サムエル記第一 6:5
あなたがたの腫物の像と、この地を荒らしたねずみの像を作り、イスラエルの神に栄光を帰するなら、たぶん、あなたがたと、あなたがたの神々と、この国とに下される神の手は、軽くなるでしょう。
サムエル記第一 6:6
なぜ、あなたがたは、エジプト人とパロが心をかたくなにしたように、心をかたくなにするのですか。神が彼らをひどいめに会わせたときに、彼らは、イスラエルを自由にして、彼らを去らせたではありませんか。
サムエル記第一 6:7
それで今、一台の新しい車を仕立て、くびきをつけたことのない、乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、その雌牛を車につなぎ、子牛は引き離して牛小屋に戻しなさい。
サムエル記第一 6:8
またヤーの箱を取ってその車に載せなさい。罪過のためのいけにえとして返す金の品物を鞍袋に入れ、そのかたわらに置き、それを行くがままにさせなければならない。
サムエル記第一 6:9
あなたがたは、箱がその国への道をベテ・シェメシュに上って行けば、私たちにこの大きなわざわいを起こしたのは、あの箱だと思わなければならない。もし、行かなければ、その手は私たちを打たず、それは私たちに偶然起こったことだと知ろう。」
サムエル記第一 6:10
人々はそのようにした。彼らは乳を飲ませている二頭の雌牛を取り、それを車につないだ。子牛は牛小屋に閉じ込めた。
サムエル記第一 6:11
そしてヤーの箱を車に載せ、また金のねずみと腫物の像を入れた鞍袋を載せた。
サムエル記第一 6:12
すると雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一筋の大路をまっすぐに進み、鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、そのあとについて行った。
サムエル記第一 6:13
ベテ・シェメシュの人々は、谷間で小麦の刈り入れをしていたが、目を上げたとき、神の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。
サムエル記第一 6:14
車はベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にはいり、そこにとどまった。そこには大きな石があった。その人たちは、その車の木を割り、その雌牛を全焼のいけにえとしてヤーにささげた。
サムエル記第一 6:15
レビ人たちは、ヤーの箱と、そばにあった金の品物のはいっている鞍袋とを降ろし、その大きな石の上に置いた。ベテ・シェメシュの人たちは全焼のいけにえをささげ、その日、ほかのいけにえもヤーにささげた。
サムエル記第一 6:16
五人のペリシテ人の領主たちは、これを見て、その日のうちにエクロンへ帰った。
サムエル記第一 6:17
ペリシテ人が、罪過のためのいけにえとしてヤーに返した金の腫物は、アシュドデのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。
サムエル記第一 6:18
また、金のねずみは、五人の領主のものであるペリシテ人のすべての町――城壁のある町から城壁のない村まで――の数によっていた。終わりにヤーの箱が安置された大きな石は、今日までベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にある。
サムエル記第一 6:19
ヤーはベテ・シェメシュの人たちを打たれた。ヤーの箱の中を見たからである。そのときヤーは、その民五万七十人を打たれた。ヤーが民を激しく打たれたので、民は喪に服した。
サムエル記第一 6:20
ベテ・シェメシュの人々は言った。「だれが、この聖なる神、ヤーの前に立ちえよう。私たちのところから、だれのところへ上って行かれるのか。」
サムエル記第一 6:21
そこで、彼らはキルヤテ・エアリムの住民に使者を送って言った。「ペリシテ人がヤーの箱を返してよこしました。下って来て、それをあなたがたのところに運び上げてください。」
サムエル記第一 7:1
キルヤテ・エアリムの人々は来て、ヤーの箱を運び上げ、それを丘の上のアビナダブの家に運び、彼の子エルアザルを聖別して、ヤーの箱を守らせた。
サムエル記第一 7:2
その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家はヤーを慕い求めていた。
サムエル記第一 7:3
そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがたが心を尽くしてヤーに帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心をヤーに向け、ヤーにのみ仕えるなら、ヤーはあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」
サムエル記第一 7:4
そこでイスラエル人は、バアルやアシュタロテを取り除き、ヤーにのみ仕えた。
サムエル記第一 7:5
それで、サムエルは言った。「イスラエル人をみな、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのためにヤーに祈りましょう。」
サムエル記第一 7:6
彼らはミツパに集まり、水を汲んでヤーの前に注ぎ、その日は断食した。そうして、その所で言った。「私たちはヤーに対して罪を犯しました。」こうしてサムエルはミツパでイスラエル人をさばいた。
・・・
御輿にはこれほどの力がある。従って、「3」の「戦禍による略奪」も考えにくい。奪った相手が持て余すほど、その影響力は強いのだ。
では、残る選択肢について考えてみよう。
滅亡に際して
いかに契約の箱といえども、背教して神から見放された民族を守る力は無い。そのような状況を引き起こす背教は、おそらく「偶像崇拝」だろう。神はイスラエルを見捨て、彼らは別の民から征服されてしまう。しかし、契約の箱を敵に引き渡すわけにはいかない。これに対処する選択肢は一つしかない。
占領され、国が滅亡する前に、契約の箱を隠すか避難させるのである。
正史には、イスラエルにあった契約の箱は、「最終的には奪われた」・・・あるいは「イスラエルのどこかに隠した?」という記述があるかもしれない。しかし、「国外に逃れた」という説もあり、「アーク」は、世界のどこにあってもおかしくない。
多分、真実は意外なものである。ここでは、「国の滅亡を予見した預言者イザヤの一味が、それを携えて極東(日本)に向かった・・・」という説で考察してみよう。
言葉:ヤハウェ東漸史
ヤハウェ東漸史(その種本である資料A)では、「契約の箱は日本まで来た・・・」とされている。しかし、本物はどこにも見当たらない。それで、日本でもその管理者に滅亡の危機があり、再び安全な時期が来るまで「どこかに隠された」という考えが浮上する。つまり、「4」の「意図的な封印」という可能性が高い。
ではそれは、いつ隠されたのだろうか?相当古い時代だろう。人の記憶はすでに朽ち果て、その仔細を知るのは神だけだ。時がやって来るまで、神は意図的にそれを隠しているのだろう。
二人の女
黙示録 12:6
女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。
・・・
上記聖句では、女(神の組織つまりイスラエル王朝)が1260年間保護されると読み解ける。だが、それが「日本」という辺境の地であるとすれば、時の計算が合わない。日本は建国以来2600年以上経ているからだ。
ここに、別の聖句がヒントを与えている。
黙示録 12:14
しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。
・・・
この「翼が二つ」という表現は、「二倍」であるというヒントかもしれない。
それでこの「『女』は時代を経て二人いる」と考えてみる。すると、二人で合計2520年となる。日本建国以来、およそ2520年なら辻褄(つじつま)が合う。
この期間が終わると、日本は鎖国から解かれて近代化され、世界の舞台に登場する。これで「女が保護される期間」は終わった。・・・その後は、「太陽の帝国」として誘い出され、女はめった打ちにされてしまうのである。
ところで、女が二人なら、王朝は「新旧二つ」でなければならない。つまり、過去の日本はある時期、「王朝が交代した」はずなのである。
第一次王朝の悲哀
紀元前800年もの昔、日本列島にやって来た神の民は全国を平定した。御輿を担ぎ、神の進軍歌を唄いながら国を変えていった。そこにはびこっていたのは「バール崇拝」だ。豊穣の神であるバールは、先住民によって広く崇拝されていた。これが「縄文前期文明」かもしれない。
しかし、そこに流れ込んできたヤーの民(第一次王朝)は、この風習を止めさせ、像を砕き、土の中に葬った。中には密かに崇拝を続けている人々もいたが、この国はおおむね、清いヤーの国に生まれ変わった。こうして「縄文後期文明」が始まる。これは黙示録のヒントから考えて、1260年続くはずである。そして女の交代劇は、それが尽きた紀元460年頃に起きた事になる。
この頃に、文化の交代劇が何かあったのだろうか?それは、縄文と弥生の交代だろうか?御輿が隠されたとすれば、その当時ということになるのだが・・・
土偶は語る
縄文期に作られたほとんどの土偶は、「崇拝の対象」として作られた「豊穣の神バール」か、その妻アシュトレテ(アシュラ)つまり、「オシラ様」であろう。バールは聖書では「蝿の主」(バールゼブブ)と呼ばれている。全国から出土する「遮光器土偶」は不思議な顔をしているが、それは多分、「蝿の顔」だと思われる。つまり「バールゼブブを象った像」なのだ。
そのほとんどが破壊されている理由は、ヤーの民が平定する過程で、二度と崇拝できないように偶像を打ち壊していったからに違いない。中にはその難(?)を逃れて、密かに埋没された像もあった。こうして偶像は隠され、「バール」や「オシラ様」は「隠し神」となった。とにかく表面上は、古代日本は清い神の国になった。喜びの祭りが行われ、契約の箱も彼らと共に座っていた。
バールの復活
しかし時の流れと共に、民の中にまた悪しき習慣が戻ってきた。今度は、支配者であった天孫族にまで、その習慣が入り込んでしまった。いつの間にか、バール崇拝が蔓延し、清さは失われた。縄文後期文明も、こうして腐敗した。
彼らの神ヤーオヨロズ(万軍のヤー)は怒った。そして大陸から、新たな敵を呼び寄せた。今度は、第一次王朝を築いた支配者が平定される番だった。契約の箱も、この時は守ってくれなかった。「最初の女」が養われる期間の「1260年」が経過してしまったからである。
流れ込んできたのは、やはり天孫族だった。しかし、彼らは大陸で長期間過ごしたため、文化は違ったものを携えていた。「弥生文明」である。言葉も大陸訛りがきつかった。そして彼らは強く、第一次イスラエル王朝は瞬く間に突き崩され、追いやられていった。
先の第一次王朝は出雲地方から上陸しており、その周辺に勢力を集めていたが、第二次王朝は、九州から瀬戸内を遡って近畿地方に入り、この地区を制圧した。これが大和朝廷である。
出雲の第一次王朝は、東北、四国地方に、追いやられ身を縮めて生きることになった。彼らは物部氏の系統で、指導者だった「大国主の命」や「タケミナカタの神」(息子)は国を譲った後、諏訪地方に逃げる。このあたりには「守屋氏」が、獣を生け贄として捧げつつ、古来よりの「ミシャグジ」(精霊)信仰を続けていた。
ここには、信仰の山「守屋山」(モリヤ山)がある。そこに「物部守屋神社」があるが、この守屋氏は、「長脛彦」と共に大和を追われて逃げてきたあの人々ではないだろうか?正史では、長脛彦は物部氏と婚姻関係にある。
追われる第一次王朝
第一次王朝は、純粋なヘブライ色が強かった。彼らにはあの契約の箱、つまりヤーの御輿が所持されていた。生け贄の儀式も欠かせなかった。しかしある時から、バール崇拝に陥ってしまったため、彼らはもはや神の保護下から追い出されることになる。彼らは敗走を続け、日本の果てに散っていった。第一次王朝は、自分たちの最後を悟って、御輿を隠した。それは、日本のどこかにあるのだろう。
王朝だけが交代する
日本の平民達は、この王朝交代劇を眺めていた。第一次王朝が第二次王朝に倒されるのを呆気(あっけ)にとられて見物していた。次の王朝は国内の崇拝を清め、以前の王朝の後を引き継ぐ形を採った。そして、第一次王朝の残り火(残存文化)を卑しんだ。
公用語だった「純粋ヘブライ語」でさえ破棄され、東北地方に押し込まれる。こうして貶められた文化の中には、広く親しまれていた「イスラエル進軍歌」も含まれている。それは、神に捧げる神聖な歌だったが、この時から「民謡」として俗化してしまう。管理する者が、散ってしまったからである。
第二次王朝の天孫族は最初、第一次王朝との継ぎ目を無くそうと苦心した。同じイスラエルでも時代が離れており、ギャップが大きすぎたのだ。滅ぼした第一次王朝の歴史も彼らと共に失われた。そこで、古い時代の歴史は「神世」としてつなぐことにした。日本神話の誕生である。(4世紀以前が霞んでいるのは、そのせいなのだろう)
一方、東北や地方に散った第一次王朝の生き残り達は、その言葉の「訛り」を恐れた。それは古代ヘブライ語そのものだったが、それこそが「迫害の根拠」となったからである。彼らはひっそりと地の果てで暮らすようになった。彼らが頼りにしていたバールの偶像も、自分たちを救ってくれなかった。それどころか、第二次王朝の戦士達が雪崩れ込んできて、これをことごとく打ち砕いてしまったのである。彼らはヤーからの罰の恐ろしさを知った。
第二部に続く
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「エーレツ・ヤウーダ」という文字が記された縄文土器が見つかっていた。御輿はなぜ封印されたのか?3(加筆) (みこしはなぜふういんされたのか3かひつ)
日本ユダヤ人説にとっては、重大発見だ!
カルデア文字で、「アーレフ」、「ヨード」の二文字が浮き彫りにされ、向かい鶴の紋章のように丁寧に向かい合わせてある。(直径6インチ)
資料A:p222(「日本の中のユダヤ」よりスケッチ)
これはまさに、「縄文時代の日本にヘブライ文化があった」という証拠である。この土器発見の経緯を、川守田氏の説明から要約しておこう。
発見の事情
「古代文字は日本に無い」という意見が定着していたが、それを覆す発見があった。今より18年前(執筆時を基準)、氏は東北民謡の現地調査中に、同地で重大な土器を発見した。
カルデア文字で、「アーレフ」、「ヨード」の二文字が浮き彫りになった土器である。
ある時、岩手県一戸町の桑畑の中から、縄文土器がザクザクと出土したらしく、現地の久慈家に保存されていたそうだ。氏はこう述べている。
検分中、
「あっ!大変なものがある」
と私は叫んだ。
立ち会いの人々は巧妙無比な土偶のことでもあろうかと目を見張っている際、私は片隅に無造作に放り出してあった、蓋のようなカワラケを拾い上げた。みんなが呆気(あっけ)にとられているところで、
「この蓋はやがて国宝となるときが来る」
と、予言した。
案の定、次回、今一度この土器を見せてもらいに行った時には、黄色の布に包まれ桐の箱に収められ、当に「国宝待遇」を受けていた。
後に、高松宮殿下にもお目見えしたという。
これは、現在も久慈直太郎家の家宝のはずである。
何と読むべきか?
1. 当初この二字を、そのままゲゼニアスの辞書で引き、「オイ」と読んだ。(二項を参照)その意味は「嗚呼」(ああ)または「禍なるかな」の語義なので、「納骨棺の蓋」だろうかと思った。
注:「嗚呼」(ああ)とは、物事に嘆き・悲しみ・喜びなどを感じた時や、何か思いついた時に発する言葉。
2. ところが、地中海のパレスチナに再建されたイスラエル国の「郵便切手」にこの二字が印刷されており、「エーレッツ イスラエル」と読ませ、「イスラエル国」の略字に使われていた。
3. あるいは、「エーレッツ ヤウーダ」と読んで、「ユダヤ国」の略字とも解釈できる。その根拠は、日本が北朝イスラエル(つまり失われた十部族)よりも、南朝ユダヤ(ヤウーダ二部族)と関連しているからである。
4. さらにこれが、日本で発見された以上、「エーレッツ ヤアマド」と読んで「ヤマド」(天壌無窮の意味)とも解釈できる。
5. さらに、「ヤマト」の国の主権者の名を借りて、「エーレッツ イワレ」(伊波礼日子の国)とも読める。(日本ヘブル詩歌の大半は彼(神武天皇)に関連している)
6. 少なくとも、「エーレッツ ヤーエ」即ち「ヤーエの国」という解釈なら、上記の一切を含むことになる。神宮皇后の新羅征伐の時、日本は外国に「神の国」として知られていた。
(大陸の方に、次のような記録があるらしい。・・・「我聞く、東に神の国あり、ヤマトという。またヒヂリのキミあり。天皇という。必ずその国の神兵ならん」・・・と。)
7. この文字を「イ・ヨ」と読んで、ヤーの島国・・・という解釈もできる。(英語では、「アイランド・オブ・ヤーエ」である。四国の伊予は、このような意味か?)
(資料A:p222〜)
土器の重大性と文字不在の謎
では、この土器が「どうして重大なのか」を知るために、そこに記されているヘブライ文字の謎を追ってみよう。
(1) アイヌは縄文人ではない事の発見
「縄文土器は、アイヌ土器である」という主張は、信憑性が薄れた。定説では、弥生式土器のみを固有日本人の祖先のものだとしていたが、「文字の入った蓋」が縄文土器と共に発見された事により、この説は覆った。
少なくとも、「縄文後期」の日本の民が「イスラエル文字を使う民」であったことが証明された。
(2) 統一難航か?
文字普及が遅れたのは、日本に先住した諸民族を統一した縄文期の天孫族が、文字を普及させるよりまず、言葉の統一を目指したからだろうか。
古代日本に持ち込まれていた各種古代文字はあったようだが、各地でそれぞれの民族が知っている程度だった。種々雑多な国々を統一できなければヘブライ文字教育もできない。
(3) 文様化された文字がある
最初から天孫族の文字は、普及させようとしなかった・・・という事も考えられる。
秋田県北秋田郡沢口村から出土した縄文土器にも、鮮やかに「アーレフ」「ヨード」の二字が浮き彫りされている。(花文字となっている)文字そのものが、「飾り」のように扱われているのだ。
これは、その文字を一般に普及させる気が無かったためだろうか?確かに神社の護符にも、記号化された文字がある。シンボルとして使ったのかもしれない。あるいは「イスラム教」のように「偶像を嫌った」ため、文字そのものを絵の代用、つまり装飾として使っていた可能性もある。この場合は、普及していてもおかしくない。
(4) 古代文献消失。
古代天孫民族は、ヘブライ語で書かれた文献を携えていたが、保存のきかない高温多湿の風土によって消え去った事も考えられる。しかし、紙や羊皮紙はともかく、粘土板や木に彫ったものはそれでも残される可能性がある。
・・・ここからは、考察の杜の考えである。
エジプトの歴史から得たヒントがある。エジプトの、古代象形文字には、3種類の文字があった。
1 「ヒエログリフ」(聖刻文字)
2 「ヒエラティク」(神官文字)
3 「デモティク」(民衆文字)
エジプトの場合は、やがてこれら全てが全く使われなくなっている。理由はアレキサンダー大王の遠征である。(上記文字の分類名は、ギリシャ人が付けたらしい。)
ギリシャ(マケドニア)の支配下、プトレマイオス王朝の政策も絡んで象形文字は廃れ、やがてエジプトにはギリシャ・アルファベットが定着する。(資料:古代文字に秘められた文明の謎 吉村作治著 成美文庫:p205)
支配者が交代すると、文字も言葉も影響を受ける。・・・これは歴史の常である。
それと同様の事情が、古代日本にあったかもしれない。もし、当時の民衆に文字が無くても、その国に文字が無いとは断言できない。支配階級だけの文字があったかもしれない。そしてそれが、消し去られたのかもしれない。
私は、彼らの文字、及び文明消失には、「戦禍による焚書」があったように思う。つまり、公式記録は全て、征服者が徹底的に抹消したのだろう。しかし、隠匿された一部がどこからか出現する可能性はある。
この推測は、「古代の天孫族の流れは二重」であり、「後期文明が前期文明を駆逐した」・・・という「二つのユダヤ王朝説」に基づいている。つまり、東北に痕跡が多く残る「縄文期天孫文明」は、「弥生期天孫文明」によって記録と共に抹消されたのだ。
また、ユダヤ人研究家のヨセフ・アイデルバーグ氏によれば、日本のカタカナ文字はヘブライ文字と共通点が多いそうである。これは、文字を携えてきた大和朝廷(弥生文明)にも、古代イスラエルとの接点があるという事だろう。つまり、「二つの王朝共に、古代イスラエルに源を発している」という意味だ。
書体からの年代推測
この蓋土器を産み出した文明は、いつ頃のものだろうか?
まず、「現行ヘブライ文字」(角文字)から、手がかりをたぐってみよう。それは、紀元前3世紀半ばから1世紀にかけて繁栄したシリアのパルミラという都市で使われていた文字が起源である。
そこから大元に遡ると、紀元前9世紀の墓碑に記されている「草書体」文字に到達する。これが幹となっいて、多くの枝が出ているが、その中に目的の文字があった。
分岐した枝の中に、紀元前5世紀と目されるエジプト・エレファテン文字がある。出土した遺物(芦紙)には、秋田県出土の「蓋土器」と同じ、「アーレフ」、「ヨード」の文字が見える。その書体は、秋田と「同型の行書体」だった。
従ってこの土器は、「紀元前5世紀の文化」を語っているのだ。その時代から出たか、あるいはその時代の文化を保存している民の用具である。
(この書体は、ゲゼニアス著「ヘブル文法」巻頭の「年代別ヘブル文字発達比較表」に記載されている。資料A:p229)
(「保存」という言葉の意味: その文化を受け持った民が、「孤島」のような閉鎖社会に密封されるなら、「文化はその時代のまま封印される」という意味である。)
つまり、このような土器から文化を読み取る年代測定は、「それが取り込まれた年代」は弾き出せるが、土器そのものの年代は確定できない事になる。(それでも役立つが)
後の時代になっても、外国の文化が入らない閉鎖社会では、延々と古代からの文化が続くからである。
ちょうど、日本の江戸時代が「ちょんまげ」のまま300年続いたのと同様である。その意味では、同じ文化が1000年以上続くこともあり得る。そして、「縄文期の古代日本」は、そうした状況だったはずである。
では、「卑弥呼などが大陸に使者を送っていた」という話はどうなるだろうか?文化の流入があったのではないだろうか?それは、江戸時代から類推できる。オランダなどと交易はしていても、ちょんまげや着物はそのままだった。相変わらず筆で文字を書き、草鞋を履いて歩いていた。独自の文化は、外来の影響を交わして保存されたのである。
明治維新などのように完全に国が開放されない限り、また、戦争などの大きな事変が無い限りは、文化の転換は起こり難い。
文字や言葉の場合は、征服を受けた時や、国の一大決心を通して変化はするが、そうでなければほぼ原型のまま推移する。そして、何らかの転換点があった場合、その痕跡は、必ずどこかに残されているはずなのである。
幻の天皇
BC660年は、初代の「神武天皇」の東遷、即位の年である。この年は、実は後から計算されて決まった年なのだ。
中国古代の「讖緯説」(しんいせつ)という考えが、6〜7世紀に日本に伝わったが、神武天皇の即位年は、これの影響を受けている。
それは占いの一種で、王朝が変わるような大きな変動を、陰陽五行(おんようごぎょう)の年代と対比させて特定する。
それによれば、「辛酉(しんゆう)の年に革命が起こる」とされている。例えば、神々の時代が終わる・・・など、「大きな変革が起こったはず」なのだそうだ。
「紀元前660年」はその説により、弾き出されたものなのである。(資料:天皇家歴史大事典 新人物往来社:p64)
これから見て「記紀」の記述は、創作された初代天皇の即位年から5、6世紀の実在する天皇までの、実に1200年余の間、推量と創作に支配されているのである。(しかし、この空白期間が、聖書の述べる「女の保護育成期間」1260年に近いのは興味深い。)(黙示録12章6節)
このような空白の謎は、「二つの王朝」が切り替わる時期の混乱を物語っているのかもしれない。つまり、大和朝廷以前にも古いユダヤ王朝があったが、それを倒し、痕跡さえ払拭した後で、自分たちの文化につなぐ必用が大和朝廷に生じ、四苦八苦した結果古文書が固まった・・・という事なのだろう。
逆に言えば、大和朝廷が確立したのは、5〜6世紀からでありそれ以前の同一線上に「支配形態」があったように書かれていたとしても、それは「大和朝廷の支配ではない」。・・・つまり、神武天皇を始め、5〜6世紀までの支配者は、大和朝廷の関与したものではなかった。・・・その可能性が大きいのだ。
古代エジプトにも、同様の「支配のすり替わり」が見られる。クレオパトラの時代のプトレマイオス王朝」がそれである。エジプト民族は、別人種であるマケドニアに征服されたが、征服者は王朝だけ横滑りして存続させる形態を採った。それが、エジプシャンの感性に合ったやり方だったからだろう。
日本の「縄文期ユダヤ王朝」が、「弥生期大和朝廷」に受け継がれた時も、横滑りさせて継ぎ目を消し去ろうと苦心したのではないだろうか?
その際に、全体像が霞んでしまったのは、大和民族の歴史にベールを掛け、「世界から隠す」という神ヤーエの意図が働いたからに違いない。
列島大抗争時代
5世紀頃には、列島に激動の跡が見える。
埼玉県稲荷山古墳から、「鉄剣」が出土した。同様のものは千葉県上総(かずさ)地方の稲荷台古墳からも出土している。こちらは、王賜(おうし)鉄剣である。(王から武勲により賜った鉄剣で、金の銘文がある)
これらの鉄剣、また当時の古墳や遺跡から出土する甲冑(かっちゅう)を見れば、畿内、東国、筑紫など各地で、大規模な戦争があったと考えざるを得ない。出土品は、それほど実戦的なものである。(鉄剣は幅が広い)
稲荷台古墳の年代は、出土した須恵器(すえき)による推定で、5世紀半ばから後半とされている。一方、埼玉・稲荷山の鉄剣には、銘文に「辛亥(しんがい)」の文字が見られ、それは、西暦471年に当たる。古墳が作られた年代では、稲荷台(千葉)の鉄剣の方がやや古い。(資料:古代史の真相 黒岩重吾 著 PHP文庫:p16〜21)
そして、畿内政権の東国制覇が行われていたことは確かだが、この稲荷台(千葉県上総)や、稲荷山(埼玉県武蔵)は、「東国征伐の前線基地だったのではないか」と上記資料で推理されているのである。
当時は、国の単位が非常に小さく、房総半島だけで10カ国以上もあったようで、その単位は1000人から1500人程度の部族国家だったのかもしれない。鉄剣の持ち主は、そうした国々の抗争の中で武勲をあげたようである。このように、日本の5世紀は、列島内での大抗争があった時代だと推理されている。
ではどんな勢力が、どんな相手を倒していったのだろうか?もう一度はっきりさせておこう。
「大和朝廷」成立の戦い
大和朝廷(弥生文明の民)以前は、日本全土に、縄文期ヘブライ文化が花咲いていた。(縄文後期文明)これが冒頭に掲載した、文字入り縄文土器を使っていた民である。
彼らは紀元前800年もの昔から列島に流れ込んでいた、「第一次天孫民族」だった。その勢力は先住民を平定し、初期の頃は神ヤーエの意志を守って立派に国を治めていた。
「先住民」とは、ヒビ、エブス、クシュなどの民で、聖書で言う「カナンやクシュの子孫達」である。進軍の途上歌う軍歌や、神への祈りと祭りが兵士らを勇気付けていた。そして何よりも、彼らにはあの「契約の箱」があった。
参: カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人についての聖書の記録抜粋。
士師記 3:1
カナンでの戦いを少しも知らないすべてのイスラエルを試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおり。
士師記 3:2
――これはただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためである。
士師記 3:3
すなわち、ペリシテ人の五人の領主と、すべてのカナン人と、シドン人と、バアル・ヘルモン山からレボ・ハマテまでのレバノン山に住んでいたヒビ人とであった。
士師記 3:4
これは、ヤーがモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうか、これらの者によってイスラエルを試み、そして知るためであった。
士師記 3:5
イスラエル人は、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の間に住んで、
士師記 3:6
彼らの娘たちを自分たちの妻にめとり、また自分たちの娘を彼らの息子たちに与え、彼らの神々に仕えた。
士師記 3:7
こうして、イスラエル人は、ヤーの目の前に悪を行ない、彼らの神、ヤーを忘れて、バアルやアシェラに仕えた。
士師記 3:8
それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡された。こうして、イスラエル人は、八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。
参:クシュ人についての記録抜粋
歴代誌第一 1:8
ハムの子孫は、クシュ、ミツライム、プテ、カナン。
歴代誌第一 1:9
クシュの子孫は、セバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカ。ラマの子孫は、シェバ、デダン。
歴代誌第一 1:10
クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。
・・・
連戦連勝を続けて日本を統一したヤーエの民は、水の豊かな土地で平和な時代を満喫した。しかし、それは続かなかった。原因は「背教」である。(この『女』の背教は、「竜の吐き出した水」が原因であると、聖書は語っている。)
国内は、「バール崇拝」によって腐り始め、彼らは平民から王に至るまで自分たちの神「ヤーエ」の戒めを忘れてしまった。彼らの保護の期間は例の「1260年」だったが、その末期にはどうにも手の着けられない状態になっていた。ついに猶予期間は終わり、彼らの神(ヤーエ)は立ち上がる。
ヤーエから呼ばれ、大陸から流れ込んで来たのが、現在につながる「大和朝廷」の前身部隊だった。目の前の縄文文化は、バールの像で汚されている。憤る軍により、すさまじい戦いが全国で展開された。侵入軍の本拠地は、当初九州日向であった。(?)部隊は、電撃戦のように前進を続け、それは瀬戸内海を北上して淡路、そして大阪湾に向かった。
上陸した後、大和地方に本拠を据え、各地の勢力を従えて行く。先の天孫族は無力であった。彼らはヤーエから見放されており、もはやどんな武器でも戦えなかった。侵入者は、近畿を中心にして転戦を続けながら、各地の縄文文明を破棄していった。それが「汚れで満ちていた」からである。
御輿封印の時
瀬戸内から割り込んできた敵軍のため、分断された縄文第一王朝はちりぢりになった。大した準備もできず、彼らは逃げなければならなかった。
では、御輿はどこに行ってしまったのだろうか?
早い段階で、前線に置かれていた御輿は、略奪の危機にさらされた。彼らを護ってくれるはずの御輿が、逆に奪われそうになった。誰かの判断で、しかも急いで隠さなければならなかったのだろう。
隠蔽場所としては、「四国剣山説」が有名だが、それは本当だろうか?地名にヒントがある。四国は、今でも「伊予」と呼ばれるが、それはヘブライ語で「ヤーエの国」なのである。(英語でアイランド・オブ・ヤーエ)ここに、「崇拝の中心」があるような気がする。
しかし、当時の縄文文明の残り香は、東北地方に核があるようだ。それは、古代ヘブライ語がそのまま、当地方に残されているからである。一方、攻め込んできた大和朝廷は、大陸での滞在が永かったため、言葉には変化が生じていた。同じヘブライ語でも、大陸の訛りを多数含んでいたようである。
もし、彼ら征服者の手に御輿が渡されると、ヤーエのパワーにより新たな神罰が下るだろう。やがて仏教の偶像がこの国に満ちる事を見越していたヤーエは、御輿を速やかに封印した。実際、その通りになった。大和朝廷も後年、仏教の偶像によって汚れてしまったのだ。これが、いつまでも御輿が出ない理由だろうか?いや、「御輿紛失」はベール(封印)としての意味もある。また、「異邦人の時」が満ちるまで出てくることはできない。
(もしかすると、「御輿封印の年」は、「異邦人の時が始まった日」を意味するのかもしれない。)
こうして、四国のどこか(?)に隠された契約の箱(御輿)は、ヤーエの保護の元、「異邦人の時」が終わって目覚めるまでの長い期間、眠りについたのである。
二人目の女の時
このように日本は、古いヘブライ文化の上から、新しいヘブライ文化を塗り直した複雑な国となっているはずだ。大和朝廷は、縄文文化の汚れた歴史を一掃した後、無理矢理自分達の歴史をその後につなごうとした。その結果、不可解な建国神話ができあがってしまったようである。
つまり大和朝廷の歴史は、記録の残っている5〜6世紀より以前は日本に無く、大陸にそれを残してきたのだろう。しかし、それ以前日本に根付いていた「同郷(イスラエル地方)の文化」を生かすため、彼らの後ろに、自分達の歴史を継ぎ足す形を採ったのかもしれない。
しかし、その第二次ヘブライ王朝(大和朝廷)も、まもなく仏教伝来により汚れてしまう。それでも、彼らを保護する期間が満ちるまでは、その背教は大目に見られる事になっていた。(新たな1260年)
実質的国家体制の構築
平定が終わって国の体裁ができあがり、聖徳太子が推古天皇の摂政に就いた年が593年である。どうやら「二人目の女の歴史」は、ここから始まったと見た。
(『女』が二人いたと教えているのは、黙示録の「女には『二つの翼』が与えられた」という表現なのかもしれない。)(黙示録12章14節)
聖徳太子は、高句麗や百済の知識人に師事した結果、「天皇を中心とする中央集権国家が正義だ」と結論し、活動を始めた人物である。彼は、冠位十二階と、憲法十七条を策定し、組織作りを始めた。(資料:早わかり日本史 河合敦著:p54)
(彼の年である593年に1260年を足した時期に女の保護養育期間が終わる。それは、593+1260=1853となって、ちょうど「ペリー来航による開国」の年になる。)
こうして始まった第二次神権体制は、後の時代にもその精神が受け継がれ、現代の日本にまでつながっている。
しかし、体制だけ残ったまま空洞化した日本は、いったい何に導かれているのだろうか?そこには神の指導は無く、諸国民から受けた政治理念が梶を切っている。道徳は、政治の付属物のようにして提供されている。
近代日本の民は、「御輿」を見ないまま世界に誘い出され、波瀾万丈の歴史をたどった。しかし、あの「聖なる都」が「異邦人で満ちる時」が終わると、御輿は出てこなければならない。なぜなら、この国の民を目覚めさせる方法はそれしか無く、また世界を目覚めさせる方法も、それしか無いからである。
※【摂政】せっ‐しょう(セッシヤウ)
[礼記文王世子]君主に代って政務を行うこと。また、その官。日本では、聖徳太子以来、皇族が任ぜられたが、清和天皇幼少のため外戚の藤原良房が任ぜられてのちは、藤原氏が専ら就任した。明治以降は、皇室典範により、天皇が成年に達しないとき、並びに精神・身体の重患または重大な事故の際、成年の皇族が任ぜられる。
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皇紀と元号御輿はなぜ封印されたのか?4 (みこしはなぜふういんされたのか4)
神武天皇から、数える紀年法に「皇紀」というのがある。戦後日本の一般庶民は、ほとんど使わなくなった。ただし、神社の暦などは、「平成12年」と共に「皇紀2660年、西暦2000年」などと併記されている事が多い。
しかし、「初代の天皇」と伝えられる「神武天皇」の実在を認めても、その即位が今から「2660年以上」の昔(BC660年)だとは認め難いだろう。なぜなら、この起点になる年代(即位年)は先の考察でも述べたように、中国伝来の讖緯(しんい)説を用いて機械的に設定されたものと考えるしかないからである。
:讖緯説(しんいせつ)
この説は、一種の数理哲学で、前漢から後漢にかけて未来予測に使われたが禁書となった。しかしその若干が飛鳥時代までに日本に伝わっていたようである。
その一つ『易緯』によれば、天道の変化する年数の単位は、六甲(60年)=一元、その二倍(120年)および四倍(240年)毎に変化するとされる。
さらに、一元+二元+四元=七元
(60+120+240=420)
つまり、420年で三変し、とりわけ七元の三倍=二十一元=一蔀(いちぼう)で大変革を生ずる。
:「1蔀」(7元×3)=「1260年」
その大変革の初めを「蔀首」(ぼうしゅ)と呼ぶ。それが、辛酉(しんゆう)の年なら「革命」が、また甲子の年には「革令」が生ずる事になっている。
:讖緯説を信じる存在なら、「二人の女」の切り替わり時期(出雲王朝→大和朝廷)は「辛酉の年だった」と考えるはずだ。
日本書紀などには、推古天皇の摂政となった聖徳太子が、この讖緯説を使って建国伝承の「逆算による年号編纂」を試みたものと示唆する記述が見られる。
○ 推古天皇12年(604年)甲子の正月に、「始めて暦日を用ふ」(政事要略)
○ 同二十八年(620年)「天皇記・国記・・・公民等本記を録す」(日本書紀)
・・・すなわち、「推古天皇」九年(602年)の「辛酉」(しんゆう)を第二蔀首(ぼうしゅ)とし、それから1260年を遡った「辛酉」年(西暦紀元前660年)を第一蔀首として、その年に大和朝廷の初代「神武天皇」(カムヤマトイフレヒコノミコト)が即位したと推定したものであろう。
(もし一代平均30年と仮定すれば、実年代よりも600年も延ばされている事になるという。 那珂通世博士説)
(ここで推古天皇の12年が『政事要略』でAD604年とされているのに、3年前の「9年」(辛酉の年)が資料ではAD602年となっている。実際には3年前なら601年のはずだ。これは単なる資料のミスか?それとも、計算方法なのか?私には謎だがそのまま掲載した。)
なぜ1260年なのか?
ここに不思議な一致点を見いだす。私達が聖書予言(黙示録)にある「1260年」という数字から、日本における「ユダヤ第一次王朝」の始まりを逆算しようとしている努力と、聖徳太子の努力とが似ているのだ。「1260」という数字の一致が奇妙である。
ただ聖徳太子は、推古天皇9年(602年)を起点にして最初の王朝を類推した。しかし私達は、聖徳太子の「摂政就任時」を基準としているため遡って、593年が起点となる。すると、
593−1260=-667
という数字が出る。(辛酉の年ではない?)
(修正せずに使っているため、後日変更する可能性あり)
「神武天皇」の即位は、当方の計算では「BC667年」になる。
(資料:天皇家歴史大事典 新人物往来社 p73)
結局、聖徳太子の計算と7年ずれただけである。しかし彼が「神武天皇」という人物と一致するかどうかは定かではない。それは、
「第一次ユダヤ王朝の初代王である」
としか書くことはできない。彼の名を知っているのは、滅ぼされた第一次王朝の歴史家だけだろう。(一人目の『女』・・・つまり第一次王朝の歴史は、ここから始まったはずなのである。)
大和朝廷初代王が1〜3世紀頃(?)とすれば、彼らはなぜ「それ以前の天皇(大王)」にまで言及しなければならないのだろうか?・・・
人間の寿命から系図を遡っても一世紀までしか届かない「天皇支配」が、
「日本発祥からの歴史」
とされている。彼ら大和朝廷は、紀元前600年頃は「大陸」にいたはずだ。この矛盾の背後には、「何かある」。(資料:天皇家歴史大事典 新人物往来社:p52〜54)
その謎は是非解いてみたい。
「架空」と「実年」との擦り合わせの苦心
聖徳太子の計算した「神武天皇即位紀元」(皇紀)は、「天武天皇」十年(681年)に発足して「元正天皇」の養老四年(720年)に完成した勅撰国史『日本書紀』の編年に採用された。
その後中国の、『魏志』倭人伝にみえる「倭女王卑弥呼」を「神功皇后」(オキナガタラシヒメノミコト)に擬するため、年代を同期させられたようである。つまり、神功皇后が卑弥呼の年代(三世紀前半)に当てられているわけだ。しかし、その実年代は干支二周・・・つまり120年後の四世紀後半頃と見られる。
さらに、「日本書紀」の編纂に用いられている暦は一貫していない。五世紀中頃の「允恭(いんぎょう)天皇」(倭王・済)以前が『儀風暦』、「安康(あんこう)天皇」(倭王・興)以降が『元嘉暦』に依存している。従って、後半は実年代に近いが、前半は架空の推算に過ぎないそうである。(小川清彦氏・橋本増吉氏説)
ひとくちに「皇紀」といっても、以下のように分類できる。
(1) 初代「神武天皇」から、十四代「仲哀天皇」まで。
これは全くの作為で、実年代とは関係ないことになる。
(2) 十五代「応神天皇」から十九代「允恭(いんぎょう)天皇」まで。
この初めの部分は、120年ほど繰り上がっている。
(3) 二十代「安康(あんこう)天皇」から四十一代「持統天皇」まで。
これは、ほぼ信用し得る。
(1)の初めは、(3)から一代20年から30年で逆算すれば、およそ西暦一世紀初め頃となるだろう。そして、第十代「崇神天皇朝」は三世紀前半とみることができる。(田中卓博士説)
繰り返すが、人の寿命から推しても、現在の天皇の系譜は西暦一世紀までしか届かない(遡れない)。それをどのようにして、紀元前660年まで延長し得るだろうか?そして、そうする必用がなぜ生じたのだろうか?
「破棄された歴史」が後で必用になった
大和朝廷に滅ぼされた第一次ユダヤ王朝が、徹底的な滅びを被ったため歴史資料は壊滅してしまった。大和朝廷が統率力を持つためにも、以前の支配者は抹消する必用があった。
このため、彼らの歴史も言葉もことごとくが卑しまれ弾圧された。これは、「神ヤーに仕える民」が背教した場合の特徴である。つまり、その滅亡は「徹底的な規模」でやって来る。生き残りはごくわずかだ。
ローマに滅ぼされた一世紀当時のイスラエルがそれであった。そこには人も建物も残されなかった。ローマ兵はその地に塩さえ撒いて歴史の再生を封じた。空き地となったその地域は、長い間人が住めなかったが、パレスチナ人が後の時代に住むようになった。
同様の惨劇が、この日本の地で起こったと考えられる。第一次王朝の栄光の文化も歴史もその資料も、徹底的に殲滅(せんめつ)されてしまった。
しかし、平和が訪れてから、大和朝廷は歴史の編纂に迫られる事になる。「天皇の一貫支配」の必用に、最初に気付いていたのはその歴史編纂を手がけた「聖徳太子」だった。彼は、以前の王朝が、自分達と同じ「イスラエルの民」であることは知っていた。しかし、先輩はもう歴史を語らない。
戦禍によって、彼らを絶滅に追いやったのは自分達である。二つの王朝間には、深い恨みが横たわっている。こんな場合にその溝を埋めるには、歴史を創作するしかない。
不明な部分は讖緯説(しんいせつ)によって埋め、苦労をして歴史をつないだ。いや、実際に天皇(大王)支配は真実ではある。しかし、政権交代が穏便に行われなかったので、欠落した部分が大きかった。
断片的な資料や、人の記憶を頼ってその作業は行われ、世界にもまれな「簾(すだれ)の向こうの日本史」ができあがった。それでもこの歴史にはある種の真実がある。
(1) 天皇(大王)は、神を頂く大祭司であり、その神はヤオヨロズ(八百万)という。
(2) 日本は実際に、その神を崇拝する民が統一した。
(3) その神は、天地を作った創造神である。
しかし、伏せられた部分もあった。それは、前期王朝が背教に陥ったため神ヤーから罰を受けて滅んだという部分である。それを明記することは、「艶消しであり、統一に逆行する」と考えたのだろう。
ただ、大和朝廷は自分達の行動が、神ヤーの天罰として相手に働いていることは知らなかった。そのため、「一種の遠慮」が入り込んだ。
戦った相手が同じ「神の民」であり、それを滅ぼしたという話は後ろめたい。彼ら大和朝廷は、相手の滅びを神ヤーが容認しているとは知らなかっただろうし、自分達がそれを排除するためにヤーに呼ばれたという事も知らなかったはずである。
「王朝がすり替わった」
という歴史は「一本化」に妨げとなる。「記したくない」と考えるのは当然だ。
聖徳太子は、「前期王朝の起源」をうっすらと知っていたのだろう。それはどうしても、「紀元前数百年」に持ってくる必用があった。
この情報は、「残存文書」かあるいは「聞き伝え」によるのかもしれない。前期朝廷の誰かが、その「大王史」を憶えていたのかもしれない。それで、聞き出した「太古の支配」に、神武天皇以降の系図を引き延ばしてかぶせることにした。
即ち、先に「起点」情報があった。紀元前数百年である。それははっきりしなかった。そして自分達には、神武天皇以降の系図がある。
「讖緯説」を加味して最初の起点年代を特定した。それを整理すると、現在のような間延びのした系図にならざるを得なかった・・・私は、こう推理したのである。
こうして、神ヤーは太い枝を切り落とし、大和朝廷を接ぎ木した。それは、大きく成長していった。
「元号」の実際
元号については、天皇一代に元号一つと思われているが、その実この制度は明治改元の際に原則が建てられたもので、明治二十二年(1889年)に成文化された。(皇室典範)
それ以前は、天皇一代の中途改元もあった。例えば、「孝明天皇」の場合、在位二十一年間に六回も改元している。(吉凶占いが関係していた。)
この元号は、前漢の武帝に始まり、周辺に広まった制度を導入したものだ。(日本の場合は、六世紀まで中国の年号を奉じて使うか干支のみを用いているが、これは大陸からの圧力があったからかもしれない。)
聖徳太子が「隋」に対して外交を開こうとした頃から独立の機運が高まり、「独自元号」が求められたようである。
中大兄皇子らによる乙巳の政変(645年)が断行され、「皇極女帝」に代わって、弟の「孝徳天皇」が皇位を継いだ五日後、(六月十九日)「大化」という元号が建てられた。(日本書紀)
これを日本最初の「公式元号」と認めることができる。(ただし、元号が定着したのは「文武天皇」の頃からである。)
なぜ「第一の女」が背教したと見るのか?
前の考察でも書いているが、『女』が二人いたと教えているのは、黙示録である。
「女には『二つの翼』が与えられた」(黙示録12章14節)
普通、翼という表現に複数形は使わない。
つばさ【翼】
a wing
翼は左右でワンセットとなり、そうでなければ飛ぶことができない。わざわざ、それを「二つの翼」と書いてある場合、翼一つで、逃避が一回と見る方が自然である。
つまり、女が逃げた回数が二回に渡っているということだ。また、同時に二つの経路で逃げた集団があったとする事もできるが、それなら最初から二つの方向と教えるのではないだろうか?
つまり、この場合、時代を経て「女が二度逃避する」という理解の方が自然に思えるのだ。
そしてあらゆる角度を含めて推理した場合、やはり「一番目の女」が逃避後1260年間養われ、その後「二番目の女」が後を引き継いで1260年養われるという判断が、一番理にかなっている。
もし、一人目の女が「背教」を引き起こさなければ、「交代劇」は生じない。なぜなら、彼女は、神に守られ続けるからである。しかし交代劇があったとすれば、そこには「背教」が無ければならない。
大和朝廷が早い段階で「仏教の偶像」に汚されたのを見ても理解できるが、「背教」は平和な環境ではちょっとした油断で広がってしまうのだ。これらの事情から、第一次王朝にも「偶像崇拝」が広がっていたと推理したのである。
背教の示唆は、日本神話にもあった。
平和がもたらす腐敗
撹拌される『水』は腐らない。しかし、水溜の『水』は腐ってしまう。これは、宗教にも共通する原理である。この場合の『水』は、宗教の教理や営みなどである。
1260年もの長い間、外敵に悩まされずに暮らした場合、その国は何らかの腐敗が生じて育つはずである。いわゆる「平和ボケ現象」だ。
第一次のユダヤ王朝も、やがてはこの罠に捉えられた。そして国内では、「パール崇拝」や、「アシュトレテ崇拝」がはびこった。子供や男女を神に捧げる行事も日常化していたはずである。これで、神ヤーの怒りに触れないはずはない。
日本神話を見ると、このような記述がある。
○ 高天原から降臨する神は、「芦原の中国の『ちはやぶる国つ神ども』」をみとめた。(古事記)
○ それは「蠅声(さばえ)なす邪(あ)しき神」であった。(日本書紀)
○ 彼らを「ことむけやはす」ために天を降る。(事向和平・・・平定の意味)
つまり、当時の日本には、「『蠅』に関係した神が蔓延していた」という示唆である。「蠅の神」はまさしく「バール」(バール・ゼブブ)なのだ。第一次ユダヤ王朝は、「蠅の主」の偶像を祀り、それらに犠牲を捧げていた。そのなごりが、破壊された「遮光器土偶」である
これは「蝿の顔」だろう。手足の形状にも、「蠅」の特徴が見える。
これは当時崇拝されていた「バール・ゼブブの像」に違いない。
その供え物として、幼児や男女が犠牲にされた可能性が高い。バールは人身御供(ひとみごくう)を要求する神だからである。おぞましさを描写する声が、神話の中にも聞こえてくるようだ。もちろん、それ以外の雑多な神がひしめいていた場面も想像できる。
こうした習慣が蔓延していたからこそ、それを止めさせるために神は軍を送ったのだ。
出土するこれらバール(?)の像はことごとく破壊されており、ほとんどまともなものは見つからない。参考に掲げた上記写真も実際には左足(向かって右)が無い。ヤーエがいかにバールを憎んでいたかが理解できる。(ただ、全体像を掴むため修正を加えている。)
人間の生け贄の習慣は、最も速やかで確実な文明崩壊をもたらす悪事である。それは、世界のどの国をとってみても例外は無い。
これは、第一次ユダヤ王朝の統率力がそれほど失われていたか、あるいは「王」自らも異教の神に膝をかがめていたからかもしれない。その結果、王朝の権力は衰退し、国内は分裂して多数の国が勃興する。地方の豪族が、私設軍隊を備えて勝手気ままに振る舞うようになった。
栄光をとどめていたのは、各地で歌われていた過去の「進軍歌」(日本民謡)くらいである。しかしそれも、進軍してきた第二次王朝から見捨てられ、「粗野で下品な歌」として無視されるようになった。ただ、民間にだけは、それを歌うことが許された。(しかし民謡は、「古代ヘブライ語の宝庫」なのである。)いつしかそれは、「第一次ユダヤ王国の遺物」となった。
大和朝廷は、そこに満ちていた「汚れた崇拝」を打ち砕いて終わらせたが、接ぎ木した歴史上の引け目によって、正しい歴史を残してこなかったのだろう。そのためそれ以後の民は、自分達の神を正しく捉えることができなくなった。中央集権は進んだが、それは神の方を向かない下向きの国家を意味していた。
近代の日本にはもはや、「ヤオヨロズ」の意図は反映されていない。その結果、誤った神への観察眼を持つ人々が勃興し、日本民族を間違った方向へと引いて行った。『女』は自分自身の主人を忘れたのである。
「平和ボケ」から引き返す時
日本はこうして自分達の過去を見失い、それでも民族は行くべき道を模索している。実際、この国を正しく導く手だてはまず、日本の神についての「正しい知識」を持つことから始まる。しかし、不透明な過去を歴史に持つこの民は、正しい方向に向かって力を合わせることができない。
ここでの「平和ボケ」とは、一種の「逆説」である。
大正デモクラシーでふやけた国民が、戦争が何であるかも知らずに一挙に軍拡を行い、謀略に掛かり、突っ走り、甚大な被害を出して壊滅した・・・その一連の流れを述べているのだ。
それはまるで、「武器を持とうとする子供」のようだ。彼はやがて、それを振り回したくて仕方が無くなるだろう。しかし大人であれば、自分の立場を知ってじっと座っている。思慮深い者は、「誘いに乗れば打たれる」事を知っている。
戦後の繁栄は、アジア民族の中で唯一、神からの祝福を受けたような状況であった。実際、この日本ほど恵まれた環境にある国はない。しかしその日本も、平和ボケのためにとうとう「二度目の過ち」に足を踏み出した。「再軍備」が叫ばれ始めた。
よく考えれば、あの絶妙の立場をもたらす「平和憲法」が、意味もなく偶然に備わるはずがない。これは、「高い次元からの意図」によるものだろう。状況から判断すれば、その意志は国民が平和で長続きするように望んでいる。これを汲み取るなら、再び軍国の道を歩もうとするだろうか?
このように、「平和ボケ」という指摘はむしろ考えるのを止めた「軍拡志向の日本人」に向けるべきものだ。戦後の絶妙の立場と経済成長を「祝福」として与えてくれた神、ヤオヨロズ(万軍のヤー)を捨てた彼らは、軍の活用で守りが実現すると思っている。しかし、実際に日本を守ってきたのはイスラエルの神「ヤーエ(短縮形はヤー)」である。
エレミヤ書 17:5
ヤーはこう仰せられる。
「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、
心がヤーから離れる者はのろわれよ。
エレミヤ書 17:6
そのような者は荒地のむろの木のように、
しあわせが訪れても会うことはなく、
荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。
エレミヤ書 17:7
ヤーに信頼し、
ヤーを頼みとする者に
祝福があるように。
エレミヤ書 17:8
その人は、水のほとりに植わった木のように、
流れのほとりに根を伸ばし、
暑さが来ても暑さを知らず、
葉は茂って、
日照りの年にも心配なく、
いつまでも実をみのらせる。
ヤーは決して、「軍を持て」、「拡張せよ」、「世界の紛争に身を乗り出せ」・・・という声を発してはいない。それを発しているのは、日本をもう一度誘い出して打ちのめそうと構えている神の敵、「竜」の口である。
日本に防衛力が無ければ、不安かもしれない。しかし、名前を「自衛隊」と変えた絶妙の「隠し軍」がある。その軍は、「隠すためにある軍」で、外国に出て行くために備えた軍ではない。そして、それを海外に出した時、日本はトラブルに巻き込まれ、やがて世界から憎まれ孤立して行くかもしれない。それは、戦前の政府が思い知ったはずの教訓である。(挑発となる思わぬ事件は、「起きる」と想定して動くのが本当の政治だ)
(テロリストは、憎しみによって行動する。そして、軍の行動はそれと背中合わせである。アメリカにすり寄って軍を派遣する日本は、そのうち標的となる。そしてまた、軍が増強され、事態は加熱する。最終的には、中東の争いが日本の中に飛び火する。・・・「軍を動かそう」と提案する人間は、これら全ての結果に責任を負わねばならない。一方、黙って座っていれば、日本は馬鹿にされはするが安全だったはずなのだ。賢い人は、どちらを選択するだろうか?)
竜の手口はこのように見え透いている。そして、竜に使われている人間達の心もまた見え透いている。役者として、「思いやり」や「勇ましさ」や「誠実さ」を演じている彼らにだまされてはならない。
やがて「御輿」が出現する時、日本の軍はどうしているだろうか?座っているか立っているかで運命は違ってくる。世界の紛争地域を飛び回る軍は、やがてトラブルの根を日本に持ち帰って来る。そして、御輿を持つ国ゆえの注目と孤立が日本にやって来る。
その時、賢明な指導者が出なければ、日本は再び壊滅を被るだろう。それは、竜の筋書きであるため、意外な展開によって実現に向かう。どんな事件が起こり、どう展開するかを知る人は誰もいない。
ただこれだけは言える。今の日本を守る力は日本に無い。どんな軍備も盟約も、無意味な空手形となる。それは日本が偶像に満ち、神の保護の手がその上に無いからである。神の打ち込んだ絶妙の楔である「平和憲法」だけが、現在の日本を守っている。
今それを崩そうと画策している人間達は、日本の神ヤオヨロズの逆鱗に触れているだろう。御輿が出る日に彼らがどうなるか、今は知ることができない。
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濃度の違い御輿はなぜ封印されたのか?5 (みこしはなぜふういんされたのか5)
第一次ユダヤ王朝と、第二次のそれとでは、かなり濃度に差がある。
東北地方に残る第一次王朝文化は、現在の第二次王朝文化よりもはるかにユダヤ色が濃い。
この違いが様々な事柄を教えてくれる。では、その差は何を語っているのだろうか?
第一次王朝文化は相当古い時代から出ている
文化が島国などに封印されると、それはその時代のまま保存される。他民族との接触がないからである。東北に残る第一次王朝の名残は、古代ヘブライのそれに最も近いものだ。つまり、彼らが故郷を後にし、日本に流れ込んだ年代が第二次王朝に比べてずいぶん以前であると結論できる。
また、列島に流入した後、その「言葉を変化させずに保っている」という点は、彼らが「征服者」であった証拠である。普通、自分達の文化を変化させず、相手の文化を変化させるのは「征服者」だからだ。日本の先住民族を平定したからこそ、自己の言葉や文化を保つことができたと観察できるのである。
逆に第二次王朝(大和朝廷)は、大陸で長期間他民族と接触があり、その間に文化交流があったはずである。言葉は一番それを雄弁に語っている。モンゴルや朝鮮族の発音や語彙が入り込んでおり、濁音が消えている。
彼らが栄光を失っているのはなぜ?
東北出身者が、「どうしても隠したい」と感じるのはその「言葉の訛り」だろう。なぜか日本文化の中で東北弁の肩身は狭く、彼らは無意識にそれを隠そうとする。それが「田舎出身者の当たり前の行為」と思われていて、ことさら掘り下げる研究者はいなかった。
しかし、それがユダヤ文化の色香を強く残している言葉であると知れば、その劣等感の不思議は避けて通れなくなる。東北文化はそれほど栄光から遠ざかっているからだ。
東北には、原型そのままの「古代ヘブライ語」が残っている。しかし同時に、今述べたような「後込み」が感じられる。今まで不思議に思いながらも、その理由が解らなかった。彼らはどうして、その栄光を失っているのだろうか?
栄光を失っているという根拠はこうである。
彼らの言葉(ズーズー弁)は、「征服者の言葉」であり、それは天孫民族が使っていたはずのものである。「支配者の言葉」なら、いかに年月が経とうと「敬意」が払われているはずではないだろうか。「東北弁」は、もっと尊敬されていなければならない。本来のヘブライ語は、ズーズー弁そのものと言ってもいいからである。
これには、もう一つの証拠がある。それは「日本民謡」だ。それはユダヤ民族の言葉で歌う進軍歌であった。しかし、その栄光の歌を口にしていた民は、それを神聖な地位に保つことができなかった。歌は下品な内容に変えられ、俗化してしまった。古代ヘブライ語の多数が、この歌の中に残骸のようにして残っている。お囃子(おはやし)としてである。その歌を掲げていた民の栄光はどこに行ってしまったのだろうか?考察の中で、この民は、「東北の民」とオーバーラップするのである。
つまり東北の「劣等感」が語っているのは、「征服者」でありながら「征服された」という歴史と、その征服が断絶を恐怖させるほど激しいものであったという状況である。
一方、同じように「王朝の言葉」とされる京都弁は、その栄光を隠さない。
第二次王朝は、そのままの栄光を保持している
一方で、「京都弁」は物怖じせずに使われている。それでこれは、「勝ち組」の言葉ではないかという推理が成り立つのだ。では京都弁(関西弁を含む)は、第二次王朝である大和朝廷の使っていた言葉だろうか?
大和言葉は奈良、を中心に、関西に広がっている。それはヘブライ語としては東北弁とは異種のものだ。それには、強い大陸訛りが入り込んでいるからである。
すると日本のヘブライ語文化圏は、「関西」と「東北」という二大勢力に分割できる。関西は「上方」と呼ばれて、江戸時代までは文化の中心だった。そしてそのずっと昔に、東北に残存するもう一つの文化が広がっていたことになる。その中心地は、過去には出雲地方であった。
なぜなら、第一次王朝を築いた民が、出雲地方から上陸したと考える根拠があるからだ。ただ、出雲は京都に近く、その事実が混同を招いている。
「京都は山陰と異質か同質か?」
という疑問が湧いてくるからだ。しかしそれはこのように整理できる。
この出雲地方は、第一次王朝の本拠地であったが、その指導者「大国主の尊」は、大和朝廷から要求されて「国譲り」を承諾した。
つまり、大国主の尊は「敗軍の将」である。それが第一次ユダヤ王朝の関係者であったことは確かだろう。
「国譲り」以後は、そこはそっくり大和朝廷の勢力下に入り、民衆も多数が入れ替わった。残ったのは神社や遺跡などの不動産だった。
国譲りが、承諾された背景には様々な武力的決着以外に、「元は同じユダヤ人だ」という意識があったからではないだろうか?彼らは、お互いにその認識を持っていたと考えられる。その根拠は?・・・と聞かれた場合、古代イスラエルにおける北の王と南の王の戦いに似ているから・・・と答えるべきかもしれない。
同一民族の戦い「南北朝時代」
イスラエル民族の父祖ヤコブには、12人の息子達がいた。ソロモンの時代から下ると、それが北の10部族と、南の2部族に分裂する。
北は、サマリアを首都とした王国となり、南はエルサレムを中心として固まった。そして南北は戦争を繰り返していた。
この二つの国は、同じ神を崇拝しながら戦っていた。それは実質では「統一闘争」のようであった。ちょうど、後代日本の南北朝時代のように、天皇の主権争いに似ている。
古代日本における「二つの王朝」の戦いは、「異邦人との戦い」ではなかったため、統一闘争の雰囲気を持っていたはずだ。戦いながらも歴史が一本化されるという奇妙な余裕があった。出雲神話は明らかに前期王朝の遺物であり、大和朝廷にも必用な祖先の歴史である。聖徳太子は、これら二つの文化をつなぐ役割を果たした。
戦いはある時期は激しく、ある時期は同胞との文化交流もあっただろう。そして日本には、明らかに文化的な二つのコブ(勢力)が今でも残っている。東と西として。
髭を無くしたヘブライ人
もう一つ残る謎は、「髭文化の喪失」である。
古代ヘブライ人は、髭を大切にしていた民族だ。それはちょうど、現在のパレスチナ文化に見られるような有様だった。
あの、「アフガニスタン」は古代イスラエルの末裔であり、十部族の一つだと言われている。その男達の顔には髭がある。この風俗は、神から命じられていたため、ちょっとやそっとで無くなるはずのものではない。では、古代イスラエル(ユダ族)の子孫と噂される日本の民の顔に髭が無くなったのはどうしてだろうか?これは重大な変化である。
大和朝廷には、「髭を剃るな」という明確な拘束は無かったようだ。一方、モーセの民にはその規定があった。髭の一部を落としても咎められるほどだった。
それで大和朝廷は、ほとんどが古代朝鮮族で占められた混成部隊だったのかもしれない。文化はイスラエルのものでも、風俗や習慣で大陸色が濃くなっていたのだろう。
モーセの細かな命令は、彼らの記憶から遠のいていた。髭の重要性を認識できない彼らは、「髭を剃る」(または一部だけ残す)という大陸の習慣を取り入れていた。
大和朝廷は、「十戒」を知らなかったのか?
例の仮説を思い出すことにしよう。それは、第一次王朝には御輿(契約の箱)があり、明確な「モーセの戒め」が残っていたが、大和朝廷にはそれが薄れていたとする説だ。
なぜなら、大和朝廷は仏教伝来に際してそれほど抵抗することなく許可を与えているからだ。仏教の偶像は、モーセの十戒には「重大な背教だ」と書かれている。少なくとも、その知識があった場合、偶像を見て拒否反応を示さないはずがない。(物部氏だけは反対した)
出エジプト記 20:3
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
出エジプト記 20:4
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
出エジプト記 20:5
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、ヤーエであるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
出エジプト記 20:6
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
・・・
しかし、大和朝廷の天皇達は、実に安易に偶像を受け入れている。まるで、十戒など知らなかったかのように。
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イザヤの予言から御輿はなぜ封印されたのか?6 (みこしはなぜふういんされたのか6)
「インマヌエル」とは、
「神、我らと共に座す」
の意味である。
当時ユダ王国に存在していた国粋党の中心は、このインマヌエル王子であった。
その父であるヒゼキヤ、王妃、イザヤ全家、祭司ウリヤ、エベレキヤの子ゼカリヤなどが、反対勢力を押さえて頑張っていた。
イザヤ書 4:2
その日、ヤーエの若枝は、麗しく、栄光に輝き、
地の実は、イスラエルののがれた者の
威光と飾りになる。
・・・
「若枝」という表記は、来るべき「メシア」の予言を含んでいるが、イザヤのまとめる「脱出組」をも言い表していた。
・・・
そして、ユダ王国の滅亡が告げられる。
イザヤ書 6:13
そこにはなお、十分の一が残るが、
それもまた、焼き払われる。
テレビンの木や樫の木が
切り倒されるときのように。
しかし、その中に切り株がある。
聖なるすえこそ、その切り株。」
・・・
この「切り株が残る」という部分が、「王家の脱出」に言及しているようだ。
聖なる末は、インマヌエルである。
以下の聖句は、御子(イエス)の誕生と重なりながら、「脱出組」についても語っている。
イザヤ書 7:14
それゆえ、ヤーエみずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
イザヤ書 9:6
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、
その名は「不思議な助言者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
イザヤ書 9:7
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
ダビデの王座に着いて、その王国を治め、
さばきと正義によってこれを堅く立て、
これをささえる。今より、とこしえまで。
万軍のヤーの熱心がこれを成し遂げる。
・・・
創造主であるヤーエが、末の日に地上を治めるのは、「選民」を通してであり、そのためにこそ「一つの国」と「一つの民」を取り決めて保存しているのだ。
そこに必用とされるのは、正統の「王権」である。
つまり、末の日に神のイスラエルには「王」が存続しており、それは古来より保存され続けた王権でなければならない。そのような条件にそぐう国が、世界のどこにあるだろうか?
この予言がすでに成就している国がある。
大和の国だ。
インマヌエルより四代目が神武天皇であり、これこそが「エッサイの根」であると考えられる。
イザヤ書 11:1
エッサイの根株から新芽が生え、
その根から若枝が出て実を結ぶ。
イザヤ書 11:2
その上に、ヤーエの霊がとどまる。
それは知恵と悟りの霊、
はかりごとと能力の霊、
ヤーエを知る知識とヤーエを恐れる霊である。
・・・
その支配は、理想の支配となる。
天皇の理想は、ここにある。
これはまさに、救世主となったイエスの行動と
同じものだ。
イザヤ書 11:3
この方はヤーエを恐れることを喜び、
その目の見るところによってさばかず、
その耳の聞くところによって判決を下さず、
イザヤ書 11:4
正義をもって寄るべのない者をさばき、
公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、
口のむちで国を打ち、
くちびるの息で悪者を殺す。
イザヤ書 11:5
正義はその腰の帯となり、
真実はその胴の帯となる。
・・・
「エッサイの根」に「その日」与えられる栄光はこのようになる。
イザヤ書 11:10
その日、
エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、
国々は彼を求め、
彼のいこう所は栄光に輝く。
・・・
世界の人々は、これを「中東イスラエル」だと予想しているだろうか?
しかし、
○ 中東イスラエル建国までの間、彼らの王権は途絶えていた。
○ 彼らは集められた民ではあるが、中心人物が見当たらない。
○ エッサイの根が管理する民は、人種的にも同一のはず。
○ 根の部分から吹く芽は、「遠い時代の分離」を思わせる。
○ メシアが、今から出現したのでは遅い。(イエスがそれだった)
いずれにしても、この聖句はすでに古代日本で成就していたはずだ。
天孫民族の栄光として。
大陸に散った仲間達
さらに次の聖句では、古代に散った各部族が「集められる」という示唆がある。これはおそらく、これから先行われる神の業となるのだろう。
イザヤ書 11:11
その日、ヤーエは再び御手を伸ばし、
ご自分の民の残りを買い取られる。
残っている者をアッシリヤ、エジプト、
パテロス、クシュ、エラム、
シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。
イザヤ書 11:12
ヤーエは、国々のために旗を揚げ、
イスラエルの散らされた者を取り集め、
ユダの追い散らされた者を
地の四隅から集められる。
・・・
中東イスラエルは、建国当時から現代までの間に「これが成就した」と主張している。
では、彼らと共に座す「インマヌエル王家の栄光」はどこにあるだろうか?
神のもたらす平和は、どこにあるだろうか?
次の聖句は、「エフライム」という部族のねたみに言及しているが、それはいったい何を意味しているのだろうか?
イザヤ書 11:13
エフライムのねたみは去り、
ユダに敵する者は断ち切られる。
エフライムはユダをねたまず、
ユダもエフライムを敵としない。
・・・
この部族エフライムは、ヨセフがエジプトで設けた子の一人である。
創世記 46:20
ヨセフにはエジプトの地で子どもが生まれた。それはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが彼に産んだマナセとエフライムである。
・・・
「エフライム」はやがて部族名となり、南北朝時代に「北のイスラエル王国」の別名として使われていた。
イザヤ書 7:1
ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。
イザヤ書 7:2
ところが、「エフライムにアラムがとどまった。」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。
・・・
「エフライム」は「エフライム部族の国」を意味しているようだ。つまり北のイスラエル王国である。
以下の聖句では、その国の王子である「ペカ」(レマルヤの子)が「エフライム」と呼ばれていることが理解できる。
イザヤ書 7:5
アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。
イザヤ書 7:6
『われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう。』と。
・・・
よって当時、南のユダ王国のライバルであった北のイスラエル王国こそ「エフライム」なのだ。(北のイスラエル王国の首都はサマリアだった)
イザヤ書 7:9
また、エフライムのかしらはサマリヤ、
サマリヤのかしらはレマルヤの子。
もし、あなたがたが信じなければ、
長く立つことはできない。』」
・・・
そしてこの「エフライム」(北のイスラエル王国)は、ヤーエの予告によれば「絶滅して消え去る」ことになる。
イザヤ書 7:7
神であるヤーエはこう仰せられる。
『そのことは起こらないし、ありえない。
イザヤ書 7:8
実に、アラムのかしらはダマスコ、
ダマスコのかしらはレツィン。
――六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、
もう民ではなくなる。――
この「エフライムの滅亡」については、詩編にもこのように記されている。
詩篇 78:9
エフライムの人々は、
矢をつがえて弓を射る者であったが、
戦いの日には退却した。
詩篇 78:10
彼らは、神の契約を守らず、
神のおしえに従って歩むことを拒み、
詩篇 78:11
神の数々のみわざと、
神が見せてくださった多くの奇しいこととを
忘れてしまった。
・・・
イザヤ書には、北のイスラエル王国(サマリア)がどのように滅亡するかを告げる聖句がある。
イザヤ書 7:17
ヤーエは、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させる。それは、アッシリヤの王だ。」
イザヤ書 7:18
その日になると、
ヤーエはエジプトの川々の果てにいるあのはえ、
アッシリヤの地にいるあの蜂に合図される。
イザヤ書 7:19
すると、彼らはやって来て、
みな、険しい谷、岩の割れ目、
すべてのいばらの茂み、すべての牧場に巣くう。
イザヤ書 7:20
その日、
ヤーエはユーフラテス川の向こうで雇ったかみそり、
すなわち、アッシリヤの王を使って、
頭と足の毛をそり、ひげまでもそり落とす。
失われた髭
ここに「髭消失の謎の答え」を見いだすことができる。つまり、十部族が住んでいた北のイスラエル王国は、アッシリアの王によって占領され、強制的に髭を剃られてしまったと・・・
それ以後彼らは奴隷の身となり、髭を伸ばせば征服者から「反逆の意志あり」と咎められて処罰されるようになった。その後彼らの顔に髭はなくなってしまった・・・・
これが、「失われたイスラエル十部族」が、なかなか発見されない理由かもしれない。
神のイスラエルは、その顔に髭を蓄えていることを特徴としていたため、それを失っていれば十部族だと気付かれない。そのような顔かたちで、「エフライムの民」(十部族)はアジアに散っているのかもしれない。
では、髭を残している「アフガニスタンの民」はどうだろうか?彼らは確かに、「我々は十部族の末裔だ」・・・と主張している。
彼らの場合、アッシリアからの征服をうまく逃れた部族なのかもしれない。文化として髭を残すことができたのは、征服者アッシリアの影響を受けていないようだからである。あるいは、一度髭を剃っていた民が、再びイスラム教に触発されて原理主義に戻り、髭を生やすようになったとも思えるのだが。(ここはまだ、はっきりしていない)
では、日本の民にあのような髭が消え失せているのはどうしてか?
先ほども述べたように、大和朝廷は大陸の影響が強く、元々髭に固執しない集団だったと思われる。そしてその大和朝廷に征服された第一次ユダヤ王朝も、支配者の影響で髭を失ったのではないだろうか?
つまり、第一次王朝である出雲族には髭があったが、征服を受けてそれを失ったのだと考えることができる。
さらにもう一つの仮説がある。
「大和朝廷は、ユダ族ではなく十部族の末裔だった・・・」
だから、アッシリアの王によって剃り落とされたあの古い時代に、すでに髭を失っていた。
・・・そうだとすれば、その証拠があるはずだ。
それはいったいなんだろうか?
確かに北の十部族(エフライム)は、すぐに信仰を薄れさせる傾向があった。
先ほどの詩編の聖句にもこのように書かれていた。もう一度引用してみよう。
詩篇 78:9
エフライムの人々は、
矢をつがえて弓を射る者であったが、
戦いの日には退却した。
詩篇 78:10
彼らは、神の契約を守らず、
神のおしえに従って歩むことを拒み、
詩篇 78:11
神の数々のみわざと、
神が見せてくださった多くの奇しいこととを
忘れてしまった。
・・・
もしこの記述を大和朝廷に当てはめると、彼らは「選民意識」を薄れさせた「エフライム」・・・つまり、「北のイスラエル王国出身者」ということになる。
これを仮定に据えると、納得できる部分は多い。
1. 「成人男子は髭を蓄えよ」というモーセの頃の教えを忘れている
2. 偶像崇拝禁止という規律にもこだわりが薄い
3. 第一次王朝と、大和朝廷との戦いはイスラエルの南北朝時代に似ている
4. 大和朝廷には、ヘブライ語の語彙が減っている
5. 進軍歌を持たない
6. 「清い食べ物」と、「汚れた食べ物」にこだわりがなくなっている
7. モーセの律法を明文化したしきたりを、後世に伝えていない
8. 天皇支配についての認識が薄かった
9. その他
もし、日本に「エフライム系」の王権が樹立されているのであれば、「終わりの日には、エフライムとユダの立場が逆転する」ことになる。
つまり、記憶が甦った結果こうなる。
「末の日の日本では、王権がエフライムからユダに移される」
・・・
そうであるためには、今の天皇制が「エフライム」によって掌握されていなければならない・・・
つまり現在の天皇家は、「北の王国」の王が即位しているということだ。それは、文字通りの「北朝」である。
その流れは、遠く5世紀当時にまで遡れる。しかしそれ以前は、「イスラエルの南の王」つまりユダ族の王が日本を支配していた。
では今、日本の中のユダ族はどこにいるのだろうか?
東北である。
彼らは第一次王朝の生き残りであり、出雲族であり、大和朝廷からは「カイ」と呼ばれていた。
彼らに比べて大和朝廷に、ユダヤ色が薄かったのは、彼らがアッシリアに脱色されていたからだと推理できる。
日本にやって来た大和朝廷は、出雲族の信仰に触発され、昔を思い出して「大王支配」(天皇支配)を踏襲した可能性が高い。彼らは、自分達の祖先の信仰に戻ろうとした。
しかし、アッシリアの奴隷時代に失ったものは大きかった。
大和朝廷と「エロヒーム」
もし大和朝廷が、「北のイスラエル王国」からの流れであれば、
彼らは「エロヒーム」(神々)という語彙を多用しているはずだ。
古い王朝が、その語彙を持たなかったとしても、大和朝廷征服後の日本にはそれが溢れるはずなのである。
しかし、「言葉の杜:ヤハウェ東漸史」にある通り、「民謡」を根拠として調査すれば日本文化にはその風習が見られない。
ここで、このような関係が成り立つ。
○ 「民謡」は第一次王朝(出雲族)の遺物。その中に「エロヒーム」は無い。
○ 大和朝廷が10部族であれば、「エロヒーム」という語彙があるはず
○ それは民謡(縄文文化)でなく、「弥生文化」の中にある
それで、大和朝廷が出雲族から神事を中心にした文化を引き継いだとしても、
「エロヒームを使う文化」
・・・つまり、「自分達の色」に塗り替えた部分がどこかにあるはずだ。
従って、この説が正しいなら、
○ 民謡(ユダ族文化)には「エロヒーム」がなく、
○ 比較的新しい文化(エフライムの文化)には「エロヒーム」が入り込んでいる
・・・
さて、現実はどうだろうか?
関西のエロヒーム
東北文化は「出雲族」からの残存文化であり、
関西文化は、「大和朝廷」の特徴を醸(かも)しているはずだ。
そこで、「エロヒーム」を探してみた。
あった!(?)
四国には「愛媛」という地名がある。
「エヒメ」は
「エロヒーム」ではないだろうか?
この語にウラルアルタイ訛りが作用すると、「ろ抜け」が生じる。
つまり、
「エロヒーム」
は、
「エヒーム」 → 「エヒーメ」
となるのだ。
従って、「愛媛の地」は「神々の地」と訳せるのである。
「地名」というものは、「先住民」の使っていたものと、「征服者」の名付けたものとが混じるという性質がある。
従って、どれが古く、どれが新しいのかは不明だが、「四国愛媛」は大和朝廷の水軍が便利に使える場所にある。
彼らがもし、九州上陸から以後、瀬戸内海を水路に使っていたとすれば、愛媛あたりは「絶好の拠点」となる。なぜなら、出雲族の主力は当時「出雲周辺」を固めており、本州側に結集していただろうから大和朝廷の水軍は広島や明石、神戸周辺には本陣を張れない。
当然、四国側にある海沿いの場所に本拠地を置いただろう。
では、そこに「出雲の勢力」はいなかったのだろうか?
もちろんいたただろうが、彼らはおそらく「祭司級」であり大きな戦闘は起きずに推移したのではないだろうか?
なぜなら四国地方は「伊予」(いよ)と呼ばれるが、これはヘブライ語で
「ヤーエの島国」(アイランド・オブ・ヤーエ)
という意味だからである。
この名前を持つ場所なら、山陰の出雲とは別に「崇拝の中心地」が置かれていたのではないか?
祭司達は戦闘に参加せず、崇拝に専念していたので大和朝廷も「伊予を特別視した」と思える。
(「イ」は「島」であり、「ヨ」は「ヨー」・・・つまり「神ヤーエ」の古名)
イスラエルは部族ごとに集まって宿営を張っていたが、祭司の部族は「レビ族」と呼ばれた。彼らが集まっていたのが、四国ではないかという推理だ。
(実際にはレビ族もまた勇猛果敢に戦うのだが、ここでの仮定として上記を採用した)
日常語に「エロヒーム」があるのか?
「エロヒーム」(神々)という語彙が、日本語の中に残されているとすればそれもまた「関西」だろう。
関西には「エロヒーム」があり、東北文化にはそれが無いはずだ。
本当にそうだろうか? (調査中)
関西では日常語の中に「エロヒーム」が多用されているはずだ。
例えば、
「下品」なことを言うな・・・
という言葉を、ヘブライ語で解析してみよう。
「げひん」 (下品)
は、
「ゲ・エヒーム」
だ。(?)
それは、おそらく
「ジ・エヒーム」 (上品)
との対局を為している。
(詳細はまだ研究中)
「食文化」における大陸との違い
もし大和朝廷がユダ族の流れであり、最初から完全なイスラエル文化を持ちながら日本に入ったとすれば、彼らの滞在した大陸には、「ユダ族の文化」がかなり影響しているはずだ。
しかし食文化では、大陸は『机』意外は何でも食べる。
これはむしろ「十部族」の臭いがする。中国の「豚料理」、韓国の「犬料理」などは、ユダ族の食物文化とはほど遠い。(近代には文化の融合があった。過去を調査すべきか?)
大陸に散らされた十部族(エフライム)は、アッシリアの征服を受けてからは強制的に「髭文化」を抹消されたが、「食文化」もまた破壊されているはずだ。忌み嫌っていた動物も食べるようになり、選民意識も薄れているだろう。
いずれにしても、関連資料が少ないのでこれ以上進めない。
古代日本の食物文化を調べれば、何かが浮かんでくるかもしれない。
:一つだけ、言葉文化の点で気になることがある。
関東の語彙に「馬鹿」というのがある。
関西にそれは無いが、変わる言葉は「アホ」である。
どちらも「愚か者」に対して使う言葉だ。
しかし、関東のそれは、「食文化の影響」を強く受けているように思える。
なぜなら、
「バカ」
という言葉は元々、ヘブライ語の
「バケ」 (蹄の分かれ)
に、影響を受けた言葉のようで、
「清い動物」と、「汚れた動物」とを厳密に分けていたヘブライ人にとっては、大切な言葉だった。彼らは、動物の「蹄の分かれ」(バケ)を頼りにして、それを見分けていたからだ。
(この根拠は、出雲族が神に捧げていた「生け贄」にある。出雲族の影響が大きい「諏訪地方」では、「御頭祭」という祭りがあるが、ここで捧げるのは「鹿の頭」である。昔は、「丸ごと」捧げていたという。鹿は「バケ」の観点からは「清い動物」だ。しかし、「タヌキ」や「キツネ」、「イノシシ」などは汚れた動物であり決して神前に出すことはなかった。全国各地の捧げものを見ても、清い動物しか捧げておらず、出雲族はその風習を守っていたと思われる。)
(一方、「新参イスラエルの象徴」だと考えられる素戔嗚尊には、そうした判別の気風が無い。馬の皮を剥いで厨に投げ込んだ話が印象的である。これがもし、「馬の生け贄」を象徴した神話なら、それは「大陸文化」であろう。大和朝廷(?)が大陸からの文化を持ち込み、「汚れた動物を供え物にした」という逸話なのかもしれない。もしそうなら、「国つ神」を代表する「天照大神」が怒るのも当然だろう。)
動物の選別文化を大切にする出雲族であっても、若者の中には「バケ」の見分けができない「愚か者」は確かにいただろう。
彼は、
汚れた種類の「食べられない動物」でも、平気で持ち帰って来たと思われる。
年長者達は、事ある毎に「バケ」を連発しただろう。
では、彼らが「若者の訓練」で狩猟に出た「場面」を思い描いてみよう。
数人が、山に登って猟をしていた。
すると、ある若者の目の前に、まるまると太った「タヌキ」が飛び出した。
喜んだ若者は、素早く弓を引いた。
その時、
後ろから長老が叫んだ。
「バケ!」
・・・
これは、
「バケをよく見ろ!」
(その動物は、汚れた種類じゃないか!)
(つまり、「『蹄』の分かれに注意しろ!」と叫んだのだ)
・・・「バケ」はこうした、「とっさの制止」で発した言葉に違いない。
それを連発するうちに、東北周辺(出雲族の本拠地)には、
「バケ」→「バカ」という語が満ちたように思える。
一方、関西のヤマト朝廷側に、そうした食文化は無かった。
このため、
「バカ」(バケ)という言葉が普及しなかった。
ただし、「バケ」の派生だと思える「ボケ」の方は、関西でよく使われている。
(大和朝廷に伝わった「バケ」が、訛ったのだろうか?)
後代になると、それほど頑張っていたはずの東北にも、食の厳密さは失せている。
それは、「征服」と「平定」の結果なのかもしれない。
「分別狩猟」を行っていた出雲族にも、征服者(大和朝廷)の食文化は影響しただろう。
(これを、先住民の影響とする考え方もある)
しかし、これらは想像に過ぎない。現段階での詳細は不明である。
言葉:「馬鹿」も「呆け」も「バケ」からきたの?
「縄」にある深い意味
「出雲族」の使っていた土器は、「縄文土器」のはずである。
ヘブライ語の
「ナワー」(NWH)
というのは、そのまま日本語の
「縄」(なわ)を意味している。 (資料A:p59)
それは、縄文土器の文様だが、
この「縄」に深い意味があった。
それは、民族の「歴史」や「世代継続」の象徴でもある。
文化の引継について考えてみよう。
世子・世嗣(せいし)
というなら、「諸侯」や「大名」などの跡継ぎの息子を意味する。
通常、「家の跡継ぎの息子」は
嗣子(しし)
と呼ばれる。
それはまるで、縄を綯(な)って系図をつないで行くような営みだ。
(綯う:何本かのものを1つにすること)
だからこそ「縄」(なわ)は、「神聖な扱い」をされる。
人間が送り次ぐものは、
「命」
「財産」
「思想」
「文化」
などであるが、そのうち「嗣業」(しぎょう・じぎょう)と呼ばれるのが、
跡継ぎ(あとつぎ)が受け継ぐ仕事だ。
それは、
「跡目相続」だが、彼は「先祖の思想」をも受け継ぐことになる。
世代を越えて続く人間のこの営みが、ヘブライ人の抱く
『縄』の概念だ。
ヘブライ語の
「ナワー」 (NWH)
という言葉は、代々送り次がれる「民族の営み」を意味していた。
その営みを見守っているのが、「民族の神」ヤーエ(イワ=岩)である。
「縄」がなぜ神事に使われるのか?
ここで、「神事」に「縄」が使われる意味を考えてみよう。
○ 「注連縄」 (しめなわ) とは、
■神聖な場所の境を示すために張るなわ。
・・・と定義される。
『岩』と『縄』の組み合わせも、日本ではおなじみの風景となっている。
その「縄」にも「岩」にも、それぞれ深い意味があった。
『縄』が「人の歴史」を意味し、
『岩』は、「神自身」を意味するなら、
『注連縄が掛かった岩』の持つ意味は、理解できるだろう。
それは、
「『民族の歴史』を見守る『神ヤーエ』」を象徴しているのだ。
縄文人は知っていた
「縄文土器」には、この点で深い意味が込められている。
それは、縄目のような模様が押し付けられた素朴な土器だ。
しかし、「縄」が「民族の歴史」を意味しているなら、
それをしるしに持つ土器は、「永続する民族の歴史」という願いが込められているのではないだろうか?少なくとも、神事を理解する人々はそう感じるはずだ。
「彼らには、稚拙な技術しかない。」
「縄文土器は、原始的な文様を施された土器だ・・・」
そうした先入観を持ってしまうと、「わざわざ縄目を入れる」という深い意味に気付くことができない。
(実際、縄でなくても文様は付けられるし、木材などの方が型押しは楽だ。縄も節約できる。)
縄文人の持っていた文化が、「信仰の民」(出雲族)のものであり、だからこそ、「縄模様」を多用したという考えは、深い考察があって初めてもたらされるものだ。
彼らが信仰の民にふさわしく生きていたという証こそが、「縄文土器」なのではないだろうか?
そしてその観念は、日本の神事に受け継がれ、『縄』と『岩』が織りなす信仰の世界に私達を留めている。
正月の「注連縄」(しめなわ)も、『岩』である『ヤーエ』の前でこそ意味を持つのである。
インマヌエルの国
縄文土器には、縄を介在させた重要なメッセージが込められていた。
それは、イスラエルの王権を持つ、「インマヌエル」の名にふさわしいものだ。
思い出してみよう。
「インマヌエル」とは、
「神、我らと共に座す」
ではなかっただろうか?
モーセはこう語った。
出エジプト記 33:16
私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」
・・・
神が歴史を通じて、その民と共に座ること・・・これこそが神の民の証となるのだ。
日本の神『ヤオヨロズ』は、我々大和民族の長い歴史を見守りつつ、
「縄を張られた岩」のように、我らと共に座していた。
神の行動が始まった今、
「縄」の持つ深い意味に気付く人々は、「縄文回帰」を模索し始めるだろう。
これこそ我々の急務、
我々の「嗣業」(しぎょう)なのである。
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→測り綱と権利
予想される交代劇水音と日本語 (みずおととにほんご)
世界史が神の業で覆されるのと同様、この日本でも大きなどんでん返しが起きるかもしれない。
というのは、
現在の天皇家に世継ぎができないからだ。
来るべき神の到来の時期に、それを迎える祭司が存在しない。
それには、次のような意味がある。
1. 目的があって、ヤオヨロズが胎を閉ざしている
2. その目的は、王権の交代か
3. それを予想させる聖句がある
もう一度、前回の聖句に戻ってみよう。
イザヤ書 11:13
エフライムのねたみは去り、
ユダに敵する者は断ち切られる。
エフライムはユダをねたまず、
ユダもエフライムを敵としない。
・・・
終わりの日の日本を語っていると思える聖句に、「エフライム」と「ユダ」が登場する。
しかも、エフライムの方が「ねたむ」というのだから、それは
「ユダの地位向上」
を語っているとしか思えない。
ユダ王朝が、現在の王朝ならそうしたことは起こり得ない。
現在の王朝がエフライムであってこそ、王権交代を経てユダの地位向上があるということなのだろう。すると現在のユダは、エフライムより低い地位にあるということになるのだ。
日本のユダ王朝は、エフライムの支配下にあることは明白だろう。
現在の天皇家に世継ぎができないという事実は、ヤーエがその必要を認めていないからではないだろうか?つまり
「次の代は、ユダに王権が移る」
という予定があり、だからこそヤーエはエフライム王家の胎を閉ざしているのだろう。
ユダ王家台頭は、いつ?
ユダ王家といえば、先の「出雲族王朝」であり、千数百年も前に王権から追われた人々である。彼らの大多数は東北に押し込められて暮らしている。
これがいつ、どのような形で台頭し、どのように権威を与えられ国民を納得させるのか?
また、アメリカを始め大陸など日本の支配権に神経質な国々に、それをどう認めさせるのか?
人間業ではない。
それができるのは、まさに「神業」である。
そして、全世界をあっと言わせるのは、結局のところ
「神輿の出現」
ということになる。
インディ・ジョーンズでさえ見付けられなかったそれを、誰がいつどのように発見するのだろう?
その後の展開は、どうなって行くのだろう?
私ごときに、それが見えるはずもない。
それが見届けられるだろうか?
獣の政権の出現によって、どん底まで行くかに見える日本の精神的没落が、急転直下救い上げられる日はいつやってくるのだろうか?
自殺する仲間達・・・
すねる犯罪者・・・
恥知らずの抗議者・・・
偽りの宗教・・・
汚職にまみれた政治家・・・
取り締まり当局の横暴・・・
司法のえこひいき・・・
『失墜』という名がふさわしい今の日本に、望みがあるだろうか?
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『ボイリング・ウォーター』水溜と泉 (みずためといずみ)
外国人の耳に、日本語は「ボコボコ」と聞こえるらしい。
まるでお湯が沸騰する音のように。(boiling water)
【ボイリング】boil・ing
1 煮え[沸き]立つ
2
a 沸き返るような
b 海が (沸き立つように)荒れ狂う
3
a うだるような
b [副詞的に] うだるほどに: 猛烈に
ちなみに、ドイツ語は「馬の言葉」と言われたりする。
それは実際、『揶揄言葉』(悪口)である。
しかし、次の知識があれば腹も立たない。
「創造神が教える『言葉の概念』は、『水』である」
日本語の響きが、『水の騒音』に感じられるというなら、
それはつまり、
日本語こそは『水の言語』(神のヘブライ語)である・・・という示唆である。
そうであれば、それは「光栄の至り」ではないか。
諺が語る
言葉にまつわる日本の諺には、「水」に因んだものが多い。
○ 立て板に水
○ 流れるように『縷縷』と語る。
○ 流暢に話す
それは古代から、この考えがあったからだろう。
「言葉と水は一(いつ)」
○ 「水に流す」
という諺は、
「過去のことをとやかく言わず、すべてなかったことにする」
という意味らしい。(一般:水に流す)
さらに探れば、
「相手の発した『罵詈雑言』を忘れ去る」
という意味も、含んでいるのだろう。
また、
○ 「水に慣れる」
とは、
「新しい土地や環境になれる」
となっている。
加えて、
「その土地の『方言』に慣れる」
という意味もあるのだろう。
○ 「水掛け論」
・・・これも、
「『言葉』の応酬」ではないだろうか。
○ (話に)水を指す
この場合、
「口を差し挟む」
(別の考えで話の腰を折る)
・・・という意味だと理解できる。
○ 水と油
これには、さらに深い意味がある。
『水』は人間界の「言葉」、「思想」、「観念」である。
『油』は、「神の世界からの思念」を意味している。
それで、
人々を指導する『王(また祭司)の任命式』に『油』が使われるのだ。
出エジプト記 28:41
これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油をそそぎ、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせよ。
聖書では
指導者になる人物の頭に、任命役の祭司が「香油」を注ぐ。
これ以後、王は「神の意識」をもって、人々を治めなければならない。
水と油を混合しても、
油は上に層をなし、水は必ず下に来る。
所詮「人間界」は、「神の世界」を理解できない。
不思議な表現
ここで、謎解きをしよう。
○『水』清ければ『魚』(ウオ)棲(ス)まず
あまり清廉すぎると、かえって人に親しまれないことのたとえ。
これはいったい、何を伝えんとしているのだろうか?
ここで、
「聖書」を知る人は、この諺に「ピン」と来るはずだ。
選民は、『水』を「言葉」「思想」など『心から出るもの』だと理解する。
だから、それが「清い」ことは、「善いこと」である。
それなのに、『魚』が住まなくなるのはなぜなのか?
聖書のヨナ記は、「キリストの死」を象徴する物語だった。
ヨナが、『魚』の腹に呑み込まれたくだりは、「キリストの死」を意味している。
この時、ヨナ(キリスト)を呑み込んだ大魚は『サタン』だった。
「水清ければ『魚』住まず」・・・の場合、『魚』は、
「サタン」・・・つまり、「悪霊・魔物」を指している。(聖書:水のない場所)
従ってこの諺は、むしろ、
『清くあれ』という「奨励訓(しょうれいくん)」なのである。
「『水』になる」とは?
次は、
○ 水になる (無駄になる。ふいになる)
という諺を考えよう。
不思議だが、
これと同じ表現が聖書にもあるのだ。(意味は微妙に違う)
ヨシュア記 7:5
アイの人々は、彼らの中の約三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった。(詳細は →言葉:やったらアカン!)
この場合の『水』は、『虚脱状態』を意味しているらしい。
ただ、なぜこの諺が『日本に』あるのかを見逃してはならない。
これ即ち、「大和民族=イスラエル」という示唆である。
(意味がずれているところは、「自然な経年変化」?)
『水』について掘り下げた結果、次の言い回しも意味がはっきりするようになった。
【水主】みず‐ぬし(ミヅヌシ)
水をつかさどる神。みずのかみ。
「この神」は、創造神『ヤーエ』である。 (聖書:エリ談義)
○水温(ヌル)む
春になって、水にあたたかさが感じられる。
「『みずぬるむ』候となりました」
※『水』(民の心情、思想)が暖かくなってきた・・・つまり、
言葉に角がなくなって、穏やかに話すようになった。
・・・と重ねている。(?)
さて、
一部しか調べていないが、
それにしても、この国の歴史は深い。
また、『水の言葉』は貴重なものだと知った。
だから日本人はこれからも、「ボコボコ」としゃべりつつ、
神に関する知識を深めて行こう。
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付録:『洪水』とは?
ナホム書 1:8
しかし、主は、あふれみなぎる洪水で、ヤーエに逆らう者を滅ぼし尽くし、その敵をやみに追いやられる。
一世紀当時にあったこの『洪水』は、救世主がもたらした大量の「知識」(真理)を意味していた。
そしてそれは、「末の日」に神の国を守ってくれる。
その実体は、大量の「発見・発表・考察」であるに違いない。
末の日の攻撃
イザヤ書 54:9
「このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。
イザヤ書 54:10
たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。
これは、キリストの教えが諸国に移されている時代にも、
「生粋の神の民」は憶えられ、守られるという意味なのか。
イザヤ書 54:11
「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニ-でおおい、サファイヤであなたの基を定め、
イザヤ書 54:12
あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。
イザヤ書 54:13
あなたの子どもたちはみな、ヤーエの教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。
イザヤ書 54:14
あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。
イザヤ書 54:15
見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出たものではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される。
・・・
世界の終末が近い頃に、神の国は宝石のように輝き、
その中に知識が満ちる・・・という意味だろう。
しかし、現在の日本は憂慮すべき事態にある。
「隣国の核」に怯え、敗戦国として懸命に立て直した面目も、「獣の5年間」で地に落とした。もはや外交の恥は拭い去れない。
しかし、
イザヤの聖句がこの国の上に成就するのなら、
それは何と幸福な話であろうか?
それにしても、
「攻め寄せる者」と形容されている相手は謎のままだ。
彼らは一体、何者なのか?
日本の指導神はそれを、「『わたし』から出たものではない」という。
では、「もう一人の『わたし』から出た誰か」が、
我々を攻めるのだろうか?
いや、すでに今、水面下で「攻めている」のだろうか?
我らの『岩』が、それをどのように覆すのかを見守ろう。
(資料:広辞苑 第五版CD-ROM版)
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渇きを癒す水水のない場所 (みずのないばしょ)
水は、「渇きを癒し」、「人に活気を取り戻す」存在であり、水に恵まれた人々は、潤っており美しく見える。植物にもそれは共通している。
「樹木」という表現は組織を意味する。根である組織の創始者から吸い上げられる水分は、枝や葉に常に行き渡っている。
天から降った雨が、地面に染み込んで養分と共に吸い上げられる。雨は、啓発である。それを人々の心つまり「地」が吸収した後、土の中のミネラルを含んで根に吸収される。それでそれは、天から来た啓発を元にゆっくり展開される教えだろう。それは活力を与え、信仰を向上させ、人に潤いとやすらぎを与える。
では、雨に対して「泉」や「水溜」は何を意味しているのだろうか?それは、天候に左右されず、いつでも水を供給できる存在だ。つまり、祈りに答えてくれる神である。
泉と水溜
エレミヤ書 2:13
わたしの民は二つの悪を行なった。
湧き水の泉であるわたしを捨てて、
多くの水ためを、
水をためることのできない、こわれた水ためを、
自分たちのために掘ったのだ。
・・・
民は、新鮮な水をいつでも提供できる神ヤーを無視して、異教の神々の元に出向くようになった。偽神を追い求める姿はまるで、新鮮な水を提供する泉に背を向け、よどんだ水しか得られない水溜を模索する姿に見える。それら異教の神々は、水を出せないだけでなく、溜めた水さえ失ってしまう食わせ物である。そこに行っても水は無い。
一方、
『川』という表現には、巨大な宗教組織が送り出す「崇拝の備え」という意味がある。これは当面、水枯れの恐怖は想像できない。そこで背教の民は、その備えに走ってゆく。しかしそれは、「異国の宗教」に染まる罪だ。神の怒りに触れる。
エレミヤ書 2:17
あなたの神、主が、あなたを道に進ませたとき、
あなたはヤーを捨てたので、
このことがあなたに起こるのではないか。
エレミヤ書 2:18
今、ナイル川の水を飲みに
エジプトの道に向かうとは、
いったいどうしたことか。
ユーフラテス川の水を飲みに
アッシリヤの道に向かうとは、
いったいどうしたことか。
・・・
外国の同盟軍に頼っていたイスラエルの姿、そして、外国の神々を求める民の姿がヤーの前にあった。2章17節の神の名が「主」になっているのは、民がいつも「主」(バール)をヤーと混同して崇拝していたからである。この頃から既に、崇拝にバールが忍び込んでいたことが知られている。(これを強調するために、主を残したので、ヘブライ語原本とは違っているかもしれない。)
エレミヤ書 17:13
イスラエルの望みであるヤーよ。
あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。
「わたしから離れ去る者は、
地にその名がしるされる。
いのちの水の泉、ヤーを捨てたからだ。」
・・・
このような「泉」、「水溜」という表現は、雨などと違って、「占有できる水補給の手だて」である。それは、以下の条件を満たすに違いない。
(1) 乾きなどの欲望を満たしてくれる「専属的存在。」
(2) 時を選ばず、いつでも供給される。
(3) 「水溜」は、量に制限がある。「泉」には無い。
宗教内部を流れる水だけでなく、人間の「性」にも「渇望」という表現が当てはまる。神の言葉は、どちらについても正しい方法で満たすように教えている。それには理由があった。
しかし、イスラエルの男達には、他国の女が隠し持つ危険についての認識が不足していたようである。
箴言 5:3
他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、
その口は油よりもなめらかだ。
箴言 5:4
しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、
もろ刃の剣のように鋭い。
箴言 5:5
その足は死に下り、
その歩みはよみに通じている。
箴言 5:6
その女はいのちの道に心を配らず、
その道筋は確かでないが、彼女はそれを知らない。
箴言 5:7
子どもらよ。今、私に聞け。
私の言うことばから離れるな。
箴言 5:8
あなたの道を彼女から遠ざけ、
その家の門に近づくな。
箴言 5:9
そうでないと、あなたの尊厳を他人に渡し、
あなたの年を残忍な者に渡すだろう。
箴言 5:10
そうでないと、他国人があなたの富で満たされ、
あなたの労苦の実は見知らぬ者の家に渡るだろう。
箴言 5:11
そして、あなたの終わりに、
あなたの肉とからだが滅びるとき、
あなたは嘆くだろう。
箴言 5:12
そのとき、あなたは言おう。
「ああ、私は訓戒を憎み、私の心は叱責を侮った。
箴言 5:13
私は私の教師の声に聞き従わず、
私を教える者に耳を傾けなかった。
箴言 5:14
私は、集会、会衆のただ中で、
ほとんど最悪の状態であった。」と。
箴言 5:15
あなたの水ためから、水を飲め。
豊かな水をあなたの井戸から。
箴言 5:16
あなたの泉を外に散らし、
通りを水路にしてよいものか。
箴言 5:17
それを自分だけのものにせよ。
あなたのところにいる他国人のものにするな。
箴言 5:18
あなたの泉を祝福されたものとし、
あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。
箴言 5:19
愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。
その乳房がいつもあなたを酔わせ、
いつも彼女の愛に夢中になれ。
箴言 5:20
わが子よ。あなたはどうして他国の女に夢中になり、
見知らぬ女の胸を抱くのか。
・・・
異国の女は、娼婦として欲望を満たしてくれるかもしれないが、結果は悲惨なものとなる。その人の信仰を逸らせ、異教の神々へと誘うからだ。賢王ソロモンでさえ、晩年はこの罠に落ちて背教してしまった。彼が、異国から多くの妻を迎えていたからである。
一世紀当時のユダ王国にも、このような退廃があったらしく、男達は自分の妻をうち捨てて異国の神々に、娼婦と共に犠牲を捧げることさえしていた。捨てられた妻は、姦淫に走ることもあったようである。それを、知っていた神は、妻より夫達を裁いた。イエスの行動から、それを知ることができる。
イスラエル民族には、ヤーという「尽きない泉」がある。また、その神に誓った妻がある。それを捨てて他の水溜に走る愚かな行為は、自滅への道でしかないのである。
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→雨と啓発、 水のない場所、 姦淫とイエスの裁き
さまよった霊ミソギと洗濯 (みそぎとせんたく)
以下の聖句には、わかっているようでわからない部分がある。それは、水に関係した部分だ。
マタイ 12:43
汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。
マタイ 12:44
そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。
マタイ 12:45
そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」
・・・
このときイエスは、悪霊にとりつかれた人について語っているように見えるが、実はイスラエルの宗教組織(家)について言及していた。確かにイエスは、多くの人々から悪霊を追い出していたのだが、この話はイスラエルの宗教指導者たちに向けたものだった。
この「家」は、イスラエルの宗教国家(組織)を示している。この組織から悪霊を追い出して清めたのはイエスである。しかし、イエスの去った後、悪霊は一度、水の無い地をさまよってから、元の家に戻ろうとするのだ。では、この「水の無い地」とは、何を意味しているのだろうか?
水は、宗教組織内に満ちるもの
聖書での「水」は、宗教の組織内を流れているもの・・・つまり「教理」やその教理を受ける「信者自身」をも含んでいると考えられる。
それで、「水の無い地」とは、宗教に関係の無い組織や人々を意味しているようだ。とくに、「地」という言葉は、人の頭の中身・・・つまり「心」を示している言葉なので、宗教に興味を持たない人間(無神論者)という意味なのかもしれない。
悪霊は、人に取り憑いて支配しようとするので、「無神論の人間を物色する」という意味もあるのだろう。イエスの言葉は、多重の意味を含んでいるので、そうした「個人」を表すと同時に、「組織」とか「国家」などの大きな集団も意味している。
しかし、やはり重要なのは、イスラエルの「宗教国家」だろう。ここからイエスによって追い出された悪霊は、別の組織を巡ってみたが居心地が悪い。それで彼はこう考える。
「やはり、宗教組織でないと駄目だ」
なぜなら、悪霊の目的は、「崇拝を受けること」にあるからだ。彼らは、人間に崇められ称えられることに無上の喜びを感じる。宗教組織にはそれがある。しかし、進化論などに染まった組織では、誰一人伏し拝んでくれない。
今まで宗教組織の中で暮らしていた悪霊は、その居心地の良さが忘れられずに、また水のある場所に復帰する。結局、イエスが去ったイスラエルの国は、元通りの「悪霊の支配」に戻ってしまうのだ。
いや、さらに別の七つの仲間を連れ込んで、以前よりもっと悪くなる。実際イエスの死後、イスラエルはさらに悪くなり、西暦70年頃には、反乱や暴動を繰り返した。それで、鎮圧するためローマは軍を派遣し、とうとう絶滅させてしまう。
こうしてイエスの言葉は、悪霊が宗教組織を好むこと、また信心深い人ほどそれに狙われることを教えている。
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→水溜と泉
「洗濯」と「禊」禊と御手洗と契約の箱 (みそぎとみたらいとけいやくのはこ)
イスラエル民族は、
「着衣には、悪い霊が潜む事がある」
と考えていたようである。
悪い事が起きた時、まず着衣を破るのはそのためかもしれない。
言葉:塗炭の苦しみとは
「洗濯」の意義
「洗う」という表現は、
「ハー・アラフ」
つまり、
「祓う」と同源である。
「アラフ」(洗う)という表現に、定冠詞を付けたものが
『祓う』となっている。
服に「泥や垢」が着くと同様、
「悪霊(けがれ)が着く場合がある」
・・・そこでそれを
『水』に浸して洗わなければならない。
汚(よご)れと汚(けが)れは、同時に落とされる。
「汚れ」とは、そうした性質のものである。
日本の風習である『ミソギ(禊)』には、『洗濯』の意味がある。
また、キリスト教の「バプテスマ」もそうだ。
「人間」と「その着衣」を、同時に洗っているのである。
(「ノアの大洪水」は、『地球規模のミソギ』だった。地上の悪が清められた。)
何か大きな不幸が起きた場合、
「自分の服に、汚れがあるのか?」
「だから不幸が降りかかったのか?」
この激情が、服を破らせるのだろうか。
彼らは、
「服に取り付く汚(けが)れ」にも、
「身に取り付く汚れ」にも敏感で、
「事ある毎」に、それを祓おうとする。
水を使って。
古代から続く「『禊』という神事」は、
その気持ちをよく表明している。
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水と崇拝「実」とは何か?(1) (みとはなにか1)
日本人は、水に恵まれた国に住んでいる。これは世界の中でも、特筆すべき特権だろう。清らかな水は健康にも良いが、崇拝にも必要なものだった。下記の聖句を見て欲しい。
出エジプト記 30:17
ヤーはまたモーセに告げて仰せられた。
出エジプト記 30:18
「洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。
出エジプト記 30:19
アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。
出エジプト記 30:20
彼らが会見の天幕にはいるときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。また、彼らが、ヤーへの火によるささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、
出エジプト記 30:21
その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」
30章20節で祭司達が、水を浴びるように決められている。これは、日本の禊を思わせる崇拝の手順である。また、神社には手を洗う場所がある。人々は、崇拝の前に手を洗い口をすすぐ。これらの習慣は実に特異なものである。しかし、出エジプト記にも、手と足を洗う崇拝時の決まり事が記されているのだ。もっとも日本の場合は、足までは洗わないようだが・・・
いずれにしても日本の崇拝の際の決め事は、ヘブライ人の神が命じたものと非常に似ている。聖書の場合、その手続きは意味の無いものではなく、重要な作業だったようだ。それは、30章20節21節で重ねて
「彼らが死なないためである」
と強調されている事から理解できる。これは、命懸けの手順だった。その理由は何だろう?
ダビデの時代にこんな事件があった。
サムエル記第二 6:3
彼らは、神の箱を、新しい車に載せて、丘の上にあるアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子、ウザとアフヨが新しい車を御していた。
サムエル記第二 6:4
丘の上にあるアビナダブの家からそれを神の箱とともに運び出したとき、アフヨは箱の前を歩いていた。
サムエル記第二 6:5
ダビデとイスラエルの全家は歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、ヤーの前で、力の限り喜び踊った。
サムエル記第二 6:6
こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。
サムエル記第二 6:7
すると、ヤーの怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。
サムエル記第二 6:8
ダビデの心は激した。ウザによる割りこみにヤーが怒りを発せられたからである。それで、その場所はペレツ・ウザと呼ばれた。今日もそうである。
サムエル記第二 6:9
その日ダビデはヤーを恐れて言った。「ヤーの箱を、私のところにお迎えすることはできない。」
6章7節では、神の箱を触っただけでウザという人物が死んでいる。しかし、彼がそうした動機は悪いものではなく、箱が倒れるのを防ごうとしていただけなのだ。
もしこれが、神の本当の怒りなら、神は安心できない暴君となってしまう。しかし実際にはそうは思えない。神の哀れみと善良さを考えれば、人間を虫けらのように殺すはずがない。
人間側の無理解による失敗と神への恐れは、聖書の随所に記されている。すると、この場合もそうかもしれない。
エネルギーボックスか?
神の契約の箱は、実に奇怪な制作課程を経て作られている。事細かに指示が与えられているのだが、現在ではその技術の復元は不可能だろう。アウトラインとしての形や材質がわかる程度だ。しかし、出エジプト記の記述から推して、その箱には高電圧あるいは、高エネルギーが充満していたのだろうと思われる。
出エジプト記 37:1
ベツァルエルはアカシヤ材で一つの箱を作った。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。
出エジプト記 37:2
その内側と外側を純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作った。
出エジプト記 37:3
箱のために、金の環四つを鋳造し、その四隅の基部に取りつけた。一方の側に二つの環を、他の側にほかの二つの環を取りつけた。
出エジプト記 37:4
また、アカシヤ材で棒を作り、これを金でかぶせ、
出エジプト記 37:5
その棒を、箱をかつぐために箱の両側にある環に通した。
出エジプト記 37:6
ついで彼は、純金で「贖いのふた」を作った。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。
出エジプト記 37:7
また、槌で打って作った二つの金のケルビムを「贖いのふた」の両端に作った。
出エジプト記 37:8
一つのケルブを一方の端に、他のケルブを他方の端に。ケルビムを「贖いのふた」の一部として、その両端に作った。
出エジプト記 37:9
ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で「贖いのふた」をおおい、ケルビムは互いに向かい合い、その顔は「贖いのふた」に向いていた。
出エジプト記 37:10
彼は、アカシヤ材で、一つの机を作った。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。
出エジプト記 37:11
これを純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作った。
出エジプト記 37:12
その回りに、手幅のわくを作り、そのわくの回りに金の飾り縁を作った。
出エジプト記 37:13
その机のために、金の環四個を鋳造し、その四本の足のところの四隅に、その環を取りつけた。
出エジプト記 37:14
その環はわくのわきにつけ、机をかつぐ棒を入れる所とした。
出エジプト記 37:15
アカシヤ材で、机をかつぐ棒を作り、これを金でかぶせた。
この箱が置かれている部屋は、厳重に管理され隔離されていた。そしてその部屋に入る祭司達は、体に水を浴びていなければならなかった・・・この意味は、現代の科学で静電気に対処する方法に近い。強いエネルギーの電場に近付く時には、体が乾燥していると危険である。
逆に湿った体は、静電気を地面に逃がす。もし、水を浴びないでその箱に近付いた場合、体にたまった電荷が反応して祭司が電撃死する危険があったのかもしれない。それゆえ、「彼らがが死なないため」と教えているのではないだろうか?
この契約の箱は、日本の神輿(みこし)のように、人間が担いで運ぶ事になっていた。その場合は、担ぐ人間の体がアースとなって、溜まった電気エネルギーを地面に逃がすはずだ。しかしこの事件の時には、牛の引く車に載せて運んでいた。そのためウザが箱に触れた時、そこにはかなりの電荷がたまっていたのかもしれない。彼は事故死したのだろう。もちろん、「間違った搬送方法」と、「直接箱に触れる」という「不敬の罪」が適用されたという解釈もできる。
契約の箱は、神のエネルギーを引き寄せる、何らかの受信装置だったのだろうか?それは非常に強力なエネルギーを発していた事が、次の聖句から理解できる。
ヨシュア記 3:3
民に命じて言った。「あなたがたは、あなたがたの神、ヤーの契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。
ヨシュア記 3:4
あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」
ヨシュア記 3:5
ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、ヤーが、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」
ヨシュア記 3:6
ヨシュアは祭司たちに命じて言った。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。
ヨシュア記 3:7
ヤーはヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。
ヨシュア記 3:8
あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』」
ヨシュア記 3:9
ヨシュアはイスラエル人に言った。「ここに近づき、あなたがたの神、ヤーのことばを聞きなさい。」
ヨシュア記 3:10
ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。
ヨシュア記 3:11
見よ。全地のヤーの契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。
ヨシュア記 3:12
今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。
ヨシュア記 3:13
全地の主であるヤーの箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」
ヨシュア記 3:14
民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。
ヨシュア記 3:15
箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、――ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――
ヨシュア記 3:16
上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。
ヨシュア記 3:17
ヤーの契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。
・・・
契約の箱が、強力なエネルギーを発して神の奇跡を引き起こしていた。それは、神からのエネルギーの中継点として働いていたのかもしれない。
こうして強力な神のエネルギーを中継する「契約の箱」のレプリカは、「御輿」(みこし)として日本各地の、神事に使われている。
神社の中には、「水の中に御輿を入れる」・・・という不思議な行事を行う所もある。それはおそらく、ヨシュア記3章の記念が残っているのだろう。もちろんこの際、水が排除されることはない。しかし、日本の民にはそうした記憶だけは残っている。
御輿の原型である「契約の箱」は、どこにあるのだろうか?
それはおそらく日本のどこかであり、近々発表されるに違いない。
そうであれば、黙示録3章の成就は近いことになる。なぜなら、中東と世界と日本に関する情勢が、御輿を必用とする形に変化してきたからである。猶予はもうほとんど無い。私たちの心が整えば、それを出現させるべくヤオヨロズは腰を上げるだろう。
この日本に、中東からの火が移る前に。
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宗教の価値を決めるもの「実」とは何か?(2) (みとはなにか2)
宗教の価値は、「実」によって決定する
宗教において教理は何であっても、信者は出来る。宗教論争では、人々はたいてい教理上の争いに没頭してしまう。教理に矛盾が無ければ、その宗教も正しいはずだと考えてしまうからだ。ところが教理はどんなものを持ってきたとしても、一種のテクニックさえ併用すれば一応人を納得させる事は出来るのである。そのテクニックは、マインドコントロ−ルと呼ばれている。
オウム真理教という宗教組織内部で、強力なマインドコントロ−ルが行なわれていた事実は、連日のように報道された。この事件について大衆は、インテリと呼ばれている人々が、どうして奇妙な教理の虜になったのかが理解できないでいる。しかし、実際は「教理などは何でも良かった」と言う方が正しいだろう。マインドコントロ−ルによって、人々は何かを信じ、日常の買い物をし、企業戦士や兵隊として働く。宗教にも共通する人間の心と行動の図式とは、こういったものなのである。オウムの例に固執するまでもなく、まるで操り人形の様にコントロ−ルされ、眉唾的な教えを大真面目で信じている人々が、現実には大勢存在しているのだ。しかも、彼らは自分では正しい思考力と判断力によって行動しているのだと信じ切っている。この意味で、宗教を見分けるために「教理」に目を奪われていてはならない。では、宗教を正しく評価するためには、何を基準にすれば良いのだろうか。それは、その宗教が産み出している「実」である。
「実」とは何か?
イエスは、教えの中で多くの例えを使ったが、その中でも重要なものが「実」であった。宗教組織は樹木に例えられているため、それが産み出すものが「実」である事は容易に理解できる。しかし、宗教組織の中では、その「実」のことを「信者」だと教えている所が多い。はたしてそうなのだろうか?いや、実際はそうではない。
弟子をもいで食べる?
「実」に関して言えば、それを弟子と解釈してしまえば迷路に入ってしまう。弟子は、もいで食べるようなものではない。
「実」は教理だと短絡するのも無理がある。教理はそのままでは難しい謎も含まれている。信者は消化不良を起こすだろう。教理は、「古来から伝わる伝統的教え」を表し、実とはそれを更に「深く掘り下げて」提供されるものに違いない。ではこう考えてみよう。「実」は木の下に集う「信者を養うもの」・・・それは、教え(講話)であると。(ここでは「教え」と「教理」とは違う扱いをしている)
教理と教えの違い : 教理は古来から据えられたもので、教えはそれを噛み砕いたもの(人の影響を受けたもの)だ。教理は原典であり、教えは人の口から出るもの(主観が入る事もある)と考えられる。
自由に取れる「実」
原野に樹木が生えており、そこで動物が腹を満たす。この場合、動物はその木に養われている。宗教組織は、こうして空腹を満たすため集まってくる信者達を養わねばならない。それは、実際の食物という場合もあるが、最終的には信者の求めるものは「救い」である。神の教えを聞き、慰めを得、生き方を修正する。イエスの山上の垂訓にも描かれているように、人々は神からの慰めを含んだ講話を聞くために集まってくる。講話は、ある程度どんな組織でも提供されているものだ。そして、それは聞く自由も聞かない自由もある。
宗教組織は、大地に根を下ろし、その場を動かない。果樹のようである。それは、教会や会堂を中心に活動を続けているのを見れば明らかだろう。一方、信者といえばその周囲に集まってくる存在だ。彼らは何かを求めてその木の周囲に集う。そうした信者は自由であり、組織の中に拘束されてしまうものではない。またそうであってはならない。
組識の中には、頭数を揃えるため、この講話(公開講演)を強制(出席を義務化)している所もある。しかし、イエスの組織にそんなものは無い。木から実をもぐのが全くの自由であるように、本来はそうした備えを受けるのも受けないのも自由である。出欠を取るような強制は、むしろパリサイ人の組織の特徴だった。
イエスは、信者達が入って来たり離れたりする事に関して非常に寛大だった。しかし、偽りの組織では、信者の自由な出入り(籍を離れる事)を極端に嫌う。彼らが木の側から逃避できないように巧みに自由を奪う。どうするかといえば、「ある種の酒」を飲ませるのだ。この酒こそが「マインドコントロール」と呼ばれている。
この「象徴的な酒」を無理に飲ませるのは、その組織が腐った木の証拠なのだ。それは現代のカルト組織の特徴だ。(以下の聖句を参照)
黙示録 17:2
地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」
ここでの「女」とは偽の宗教組識(カルト)の事である。さて、信者達は必ずその木の実を食べる。柿の木であれば柿の実を、りんごの木であればりんごを食べる。ただ、聖書では木といえば、ほとんどがブドウ(葡萄)を指す。(他にイチジクも)
下記は、イエスが自分の組織を、ブドウの木に例えた部分である。
ヨハネ 15:1
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
・・・
腐った実の影響
貴腐ブドウというブドウがあるのを、知っているだろうか?これは、ブドウが木に付いたまま発酵する現象である。その実には、すでにアルコールが含まれている。ブドウ酒に変わり始めているのだ。イエスが述べた「腐った木の実」とは、このブドウを指していると考えられる。その実は、そのまま食べるだけで人を酔わせる。
酔った信者はどうなるのだろう?彼らは正気を失い、その木の下にしゃがみこみ、動けなくなる。こうして、その組識は自分達の信者を木の下に縛り付ける事ができる。この腐った木の腐った実は、人々の行動を異常にしてしまう恐ろしいものだ。なぜ恐ろしいかといえば、「野獣に食い殺される危険」が生じるからだ。荒野の木の下に酔いつぶれてうずくまっていれば、「野獣」に襲われても逃げられない(木を離れられない)からである。この「野獣」は象徴的な「獣(けもの)」として聖書の中で語られているものだ。
奇跡という「実」
偽の宗教組識には、アルコールを含んだ「腐った実」があった。では、本物の組識にある「立派な実」はどんなものだろうか?イエスの組織には本物の癒しがあった。奇跡によって病人を癒すのが、その組織の特徴だった。
マルコ 3:14
そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、
マルコ 3:15
悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
ヨハネ 17:4
あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
(イエスは数多くの奇跡で、神の栄光を示した)
一方、パリサイ人の組織にはこれ(奇跡による癒し)が無かった。組織を見分ける特徴は、その「奇跡」があるか無いかである。その「実」によって組織は容易に見分けられた。(奇跡が起こせないから奇跡が終わったと言い張るのは、本末転倒だ)
モーセがエジプトで神からの奇跡を示して証拠とした出来事を引き合いに出す事ができる。神の人であるかないかは、古代から「奇跡」が基準と決まっていた。(列王第一18:7〜40)その意味では、奇跡の無い組織は偽ものだという事になる。「奇跡が起こせない」というのは人間の都合だ。そうした都合で奇跡という条件を無視すると、「自分本位の罠」に落ちてしまう。
こうした「実」の実体を伏せて正しく教えていない組織があるとすれば、それは自分達の教える解釈の方が都合がよいからだろう。そんな組織なら、実を取る事さえ恐れなければならない。酔いつぶれて人生を無駄にしたり、野獣に襲われて死なないためである。次の考察で更に考えてみよう。
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「実」には「組織の教育方針」が含まれる。「実」とは何か?(3) (みとはなにか3)
神は人間の宗教組識の営みを、植物の成長に見立てている。小さな種が蒔かれ、一つの芽が成長を始める。それは大きくなり、立派な大木となる。やがて、それは成熟し実をつけるようになる。(1部)で考えたように、「実」は、その木に集まってくる人々を養うための手だてであった。イエスは奇跡によって民衆の悩みを除き、講話によって教育を行った。それは親切なものであり、自由があった。
つまり、イエスの木が行った民衆への世話は、彼らが肉的にも霊的にも健康を保てるような気遣いとなっていた。「実」は取るか取らないかの自由があった。
木の産み出す「実」は普通一種類である。実の種類は選択できない。故に「実」が意味するものは、信者たちの「境遇」や「環境」とも定義できる。
様々な教育であれ、指示であれ果樹の下に集う人々はそれを一心に食べ、かつ飲み込む。もし、その教育が間違った方法であったり、指示に無理があってもそれを呑み込むしかない。その人は、極端に体力や気力を落とすだろう。
特にいけないのは偽りの宗教組識の提供する腐った実、(貴腐ブドウ)である。過度の飲酒は、内臓を悪くして命を縮める。同様にアルコールを含んだこのようなブドウの実を取り続けるなら、健康を害し次々と倒れてゆく。(普通それは、習慣性である)
そんなわけで、イエスが糾弾したのは、酔っている信者ではなく、主催者側、つまり組織の側であった、ブドウに手を伸ばして取っているのは信者の側だが責任は組識にある。これは、「実」の提供が信者には強制していないように見える(むしろ彼らは喜んで口に入れている)としても、それを提供した側の罪だという事だ。
しかもイエスは彼らの「指示」や「方針」に注目していた。彼らは、古来からの教理の権威を利用して、自分達の思惑を教えの中に入れていた。それは、発酵のバクテリアを含んだ教えだった。
アルコールと子供
アルコールの打撃は、一番弱い者を打つ。子供にこそ悪影響が及ぶ。偽の指導者達に従えられる群れの中では、こうした子供達が必ず虐げを受けていたはずだ。信者は弱い立場であるが、中でも子供は、苦いアルコールを喜ばない。子供は、甘いブドウの実は喜ぶが、発酵が始まるとブドウは苦くなる。そのような実は子供は本能的に嫌うのだ。親にはそれがわからないため、子供を押さえつけてしまう。偽指導者の指示は彼ら子供には厳しい要求であり、虐げとなっているのだ。偽の宗教の実の味は、子供が一番よく知っているという意味である。そのような組識には、必ず隠れて泣いている子供がいる。イエスはこうした弱者の嘆きをちゃんと知っていた。神は、常に弱者の立場で物事を考える。群れの弱者にこそ注目する。この示唆は重大である。
「実」は信者ではない・・・その証拠
前の考察(1)で、信者は実でありえないと述べたが、更に詳しく考えてみよう。信者を増やす事こそが神の望みであり、それゆえ信者を産み出す事こそが大切だと教える組織がある。
ヨハネ15章4節から8節にはこう記されている。
ヨハネ 15:4
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
ヨハネ 15:5
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ヨハネ 15:6
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
ヨハネ 15:7
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
ヨハネ 15:8
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
・・・
この聖句でイエスは、「弟子は枝」だと明かしている。しかし先ほどのカルト組織は、「実」を「弟子」だと教えて信者達に伝道を課し、その結果を重視する。それでは、枝も実も弟子になって矛盾が生じてくる。
実は弟子とする不自然さ
[実]を[弟子]という言葉に置き換えて考えてみよう。すると4節には、「あなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶ(弟子を作る)ことはできません。」・・・という事になる。それは裏返せば、「弟子を産み出していない者」は、「イエスと結びついていない」としか理解できない。では、彼はどうなるのだろうか?
15:6では「・・・投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」・・・このように処置される。(マタイの聖句も参照しておこう)
マタイ 7:16
あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
マタイ 7:17
同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
マタイ 7:18
良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
マタイ 7:19
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
マタイ 7:20
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
・・・
つまり、よく考えてみれば、弟子を作れない人々は、それがイエスと結びついていない証拠とみなされ、悪い弟子を産み出している人と共に、最後には火で焼かれる(滅ぶ)という罰を受ける事になる。
また、実を生み出さない木は、しばらくは猶予されても、最後にはこのような処分を受ける。
ルカ 13:6
イエスはこのようなたとえを話された。
「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
ルカ 13:7
そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
ルカ 13:8
番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
ルカ 13:9
もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」
・・・
つまり、4年目に「弟子」ができていないなら、神から憎まれて組織ごと切り倒される事になる。なんと厳しい宣言だろうか?憐れみの神の言葉とは思えない。
若くて雄弁で、活力のある者は、なるほど、弟子が出来るだろう。しかし、忙しい女や小さい子供、また老人で体の弱った者や内気な者などは、弟子を作ることはできるまい。さらに、ある地域に音信が行き渡ったその日には、弟子を作るにも弟子となる人そのものがいなくなる。最後の方で組織に加わった人は、一人も弟子ができず滅ぼされてしまうのだろうか?
さらに、「実」に関して、こうした聖句もある。
マタイ 21:18
翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
マタイ 21:19
道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
これも、実を産まない存在が、イエスから死の宣告を受けるという意味を含んでいる。それで、「実」という言葉を「弟子」として解釈すると、イエスは鬼のような存在になってしまうのだ。
こうした理由からも、イエスの話した「実」は、弟子のことではないと理解できる。憐れみの神が、「弟子を作れない弱者」を見捨てるはずが無いからだ。イエスの言葉の中の「実を弟子」とする解釈は、「強者の理論」なのである。それは、神の考え方からは遠く離れている。
弟子は新芽
15章4節から15章5節をもう少し考慮しよう。
ヨハネ 15:4
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
ヨハネ 15:5
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:4で、枝だけでは実を結べないと述べている。普通、葡萄の木は、その枝に対して何を送り続けるのだろうか。それは、養分ではないか。・・・それを送ってもらわねば、枝は枯れてしまう。もちろん実を結ぶこともできない。その事から判断して、枝は(つまりイエスの弟子は)イエスが送る、養分[精霊の力?]を受けて、実を結ぶのだ。
またここでは、弟子達が「枝」で表現されている以上、「実」は別のものだ。次の聖句は、「特別な枝」の出現を予告しており、ここでも「枝」の用法に矛盾は無い。
ゼカリヤ書 3:8
聞け。大祭司ヨシュアよ。あなたとあなたの前にすわっているあなたの同僚たちは、しるしとなる人々だ。見よ。わたしは、わたしのしもべ、一つの若枝を来させる。
・・・
弟子が増える場合、それは枝が「新芽を吹く」という表現の方が正しく、枝の増加はそうした形でしか起こり得ない。下記の聖句がそれを示している。
ゼカリヤ書 6:12
彼にこう言え。『万軍のヤーはこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、ヤーの神殿を建て直す。
・・・
これらの「枝」はもちろん、後のイエスを予言したものだ。
密着度という観点でも、「枝」と「実」とは違っている。「枝」は木の本体にしっかりと付いて離れないが、「実」というものは、熟すと枝から落ちる。「実」とはそうした性質のものだ。これは「実」は組織から「離れる存在」であるという意味である。「枝」は、しっかりとイエスと結びついたままであり、「実」は、いずれは切り離される存在である。その意味でも、「実」は「枝」とはまったく違うのだ。
「おきて(掟)を守り行う事」でもない
弟子ではない、・・・すると「おきてを守り行う事」なのか・・・しかし、それではイエスの例えが意味をなさなくなる。もし、[おきてを守り行うこと]が、[実]であると解釈すれば、「わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」とされているから、こんな意味になる。
・・・イエスからの、精霊を受けて初めて、人はおきてを守り行える・・・
これはおかしい。後先が逆だ。人の良心の問題に、神が介入した事になり、自由意思は破壊されるからだ。良い行いは、神が強制的にさせているものではない。
「実」は神の栄光
また、8節では、弟子たちが多くの実を結ぶことで、神は[栄光]をお受けになると話している。(下記)
ヨハネ 15:8
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
神の栄光とされるほどのものとはいったい何だろうか?弟子の誕生が栄光であるとするのは、かなりせん越な考えである。というのは、弟子は産み出されただけでは神の栄光ではありえない。彼らがこれからどんな行いをするか、まだ未知数だからである。
また、弟子の全員が誉れをもたらすとも限らない。神のイスラエルでありながら、バール崇拝に陥った大勢の者は、神の顔に泥を塗った。パリサイ人のように弱者に目を向けるのを忘れる「熱心な」弟子もいる。それゆえ、弟子が産み出された時点で、それを神の栄光と定義するのは筋が通らない。(全員が忠節を保って死んだのでなければ、そうした定義は可能ではない。)
では、何が神の栄光となりうるのか?
イエスはある時弟子達への宣教の指示を出したが内容はこうだった。
マタイ 10:1
イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。
マタイ 10:2
さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
マタイ 10:3
ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、
マタイ 10:4
熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。
マタイ 10:5
イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。
マタイ 10:6
イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。
マタイ 10:7
行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。
マタイ 10:8
病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
マタイ 10:9
胴巻きに金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。
マタイ 10:10
旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。
マタイ 10:11
どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
マタイ 10:12
その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
マタイ 10:13
その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。
マタイ 10:14
もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。
これは、弟子を作るというより、「悪霊を追い出し、奇跡によって病人を治す事」が主な指示である。それは、虐げられた人々の救出を意味する。弟子達は、イエスからそのための力を受けた。それでなければ、弟子達は何もできなかった。彼らの行う奇跡の病気治療こそが神の栄光となった。そして、王国を伝えるのは、副次的な作業である。
神の栄光にはやはり奇跡が必要
では、今このように考えてみよう。ここで言うその実とは・・・「奇跡的な癒し」・・・或いは、「そうした事柄を含んだ、人々への世話」であると・・・すると、全てがつながるはずだ。
確かに「奇跡を伴って人々を世話する事」こそが、神の栄光を示す行為に最もふさわしい。後代の人々が、いくら奇跡が起こせない自分の都合により、イエスの教えを曲げようとしても深みにはまるばかりだ。イエスも弟子達も、奇跡を行ったのは事実である。しかもイエスは、「後の世には奇跡は終わる」とは予言していない。(弟子の誰かがそんな事を言っても、イエスの確立したものは変えられない)その現実は後の世の人々が、そのまま受け継がねばならない。人間の都合で、イエスの言葉の意味を覆そうとする行為こそ、不信仰な暴挙なのだ。
奇跡は、精霊の助けなくしては成し得えない。それはまた、地上で神の栄光を表すためにイエスが行った手本であった。イエスはそうして、人間の支配と神の支配の違いを人々に示したのだ。イエスの行いは、きたるべき神の王国支配によって、人々がどのように世話されるのかというデモンストレーションだったのである。
イエスは弟子達に、理屈だけで納得させていたのではない。また、道徳教育さえ行えば、それが神の栄光だと語ったわけでもない。「奇跡こそが、神の栄光となる」と語り、自らもそれを行った。
イエスはある時、目の前にいた盲人が生まれた理由を弟子から尋ねられた時、「それは神の栄光が明らかになるためにである・・・」と述べて彼を癒した。・・・もちろん奇跡によって。
めったに無い事・・・いや、有り得ない事、どんなに頑張っても不可能な事、こうした事柄以外に、神の栄光を示す何かがあるだろうか?
神の栄光表現は奇跡
このように、「実」は奇跡だと結論できる。少なくともそれを含んでいる。弟子達もまた、イエスに見倣ってその業を行い続けた。行く先々で、彼らは悪霊を追い出し、奇跡を行った。また、それが行えるのは、神の代理者であるイエスが共にいることの証拠でもあった。精霊が来ていなければ、癒し一つ行えないだろう。従って、宗教は、奇跡を伴う癒し(そういった信者への世話)によって見分けられる。それ以外は、しょせん人間の作り上げたものだ。
それゆえ、教理やシンボルを調べたところで、正しい宗教が割り出せるものでもない。また、信者の品行方正を強調しても意味が無い。それは、人間が作り出せるものだからだ。外見へのこだわりは、奇跡を起こせない人々の言い訳だと取られてもしかたがない。当時パリサイ人達は、そうした力を持たず、民衆を救っていなかった。それゆえ人々は、イエスに驚嘆したのだろう。
教えを守ったペテロ
では、一番弟子であったペテロが、イエスの指示をどのように守っていたかを調べてみよう。彼は病人を癒しつつ、投網を打つように演説会方式の伝道を行った。
使徒 3:1
ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
使徒 3:2
すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
使徒 3:3
彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
使徒 3:4
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
使徒 3:5
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
使徒 3:6
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
使徒 3:7
彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
使徒 3:8
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
使徒 3:9
人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
使徒 3:10
そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
使徒 3:11
この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。
使徒 3:12
ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
使徒 3:13
アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
使徒 3:14
そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
使徒 3:15
いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
使徒 3:16
そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。
使徒 3:17
ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行ないをしたのです。
使徒 3:18
しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。
使徒 3:19
そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
使徒 3:20
それは、ヤーの御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、ヤーが遣わしてくださるためなのです。
使徒 3:21
このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。
使徒 3:22
モーセはこう言いました。『神であるヤーは、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。
使徒 3:23
その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』
使徒 3:24
また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。
使徒 3:25
あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける。』と言って、あなたがたの先祖と結ばれたあの契約の子孫です。
使徒 3:26
神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」
使徒 4:1
彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、
使徒 4:2
この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、
使徒 4:3
彼らに手をかけて捕えた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。
使徒 4:4
しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。
・・・
「宗教が、実によって見分けられる」と言ったのは、神の子イエスである。神は、奇跡を起こすことさえ出来ずに、その言い訳に終始している宗教をどう見るだろうか?
「実」の無い宗教組織は許されない。それは、葉が繁っているだけで、実の無いいちじくだ。そんな樹木に向かって「枯れてしまえ」とイエスが命じた出来事からも神の気持が理解できる。(マタイ21:19)
エリヤやエリシャの引き起こした奇跡の意味も、同様である。その時、天から下る火の奇跡によって、神の予言者とバアルの予言者が見分けられた。以下はその時の様子である。
列王記第一 18:19
さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」
列王記第一 18:20
そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。
列王記第一 18:21
エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、ヤーが神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
列王記第一 18:22
そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりがヤーの預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。
列王記第一 18:23
彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。
列王記第一 18:24
あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私はヤーの名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい。」と言った。
列王記第一 18:25
エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたがたで一頭の雄牛を選び、あなたがたのほうからまず始めよ。人数が多いのだから。あなたがたの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」
列王記第一 18:26
そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。
列王記第一 18:27
真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」
列王記第一 18:28
彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。
列王記第一 18:29
このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。
列王記第一 18:30
エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい。」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていたヤーの祭壇を建て直した。
列王記第一 18:31
エリヤは、ヤーがかつて、「あなたの名はイスラエルとなる。」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。
列王記第一 18:32
その石で彼はヤーの名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。
列王記第一 18:33
ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、
列王記第一 18:34
「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。」と命じた。ついで「それを二度せよ。」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ。」と言ったので、彼らは三度そうした。
列王記第一 18:35
水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。
列王記第一 18:36
ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、ヤーよ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。
列王記第一 18:37
私に答えてください。ヤーよ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、ヤーよ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
列王記第一 18:38
すると、ヤーの火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。
列王記第一 18:39
民はみな、これを見て、ひれ伏し、「ヤーこそ神です。ヤーこそ神です。」と言った。
列王記第一 18:40
そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕えよ。ひとりものがすな。」彼らがバアルの預言者たちを捕えると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。
黙示録の「実」
黙示録(啓示の書)には、命の木が生え出た楽園で、人々がその実を食べると記されている。また、木の葉で癒されるとあった。ここで、癒しに関係しているのは「実」ではなく「葉」である。どういう事だろうか?下の聖句から考えよう。
黙示録 22:2
都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
確かに、人々を癒しているのは木の枝から出た「葉」である。つまり癒しは、葉が行っている。すると実の成分には、癒しが含まれていないのだろうか?聖句では、十二種の実がなると書かれているので、癒しはその中の一つだろうか?
ただ、「実に奇跡が含まれる」という考えそのものは否定されてはいない。それは、実の構成要素として重要なものに違いない。奇跡によって何かがなされる場合、それが神の栄光となり、それが奇跡的な癒しであってもかまわないはずだ。そして、命の木の「葉による癒し」は、「奇跡を含まない癒し」であると考える事もできる。
(創世記によれば、命の木の実は、永遠の命をもたらすという。これは奇跡だ。実の役割は、葉のそれよりは大きいはずだ。)
実にはまだ他にも意味が含まれているようだ。それゆえ実について、もう少し考える必要がある。いずれにしても、「実」は木である組織から提供されるもの・・・つまり自由意志でもぎ取れる「提供物」と見る分には間違いが無いだろう。
神の栄光という観点からは、「奇跡」が真の宗教の重要な要素である事にも変わりが無い。それはサタンもよく知っている。それでサタンは、神と同様の奇跡を行おうと度々張り合ってきた。
モーセの時代にも、エジプトの呪術師達がある程度の奇跡を行ったが、その、背後にあったのは、「サタンの力」であった。「サタンもまた、奇跡を行える」・・・これは、重要な示唆である。「サタンは悪党ゆえ、人々に良い事はしない」・・・などと安易に考えるならば、簡単に罠に掛かってしまうだろう。サタンもまた、都合によっては、人々に良い事を行うのだ。奇跡も起こす。
現在、世で行われている信仰治療のような奇跡の多くは、サタンからのものだろう。しかし、真の神による業も確かに存在するはずだ。では、その、見分け方は有るのだろうか。
木を知る手だて
イエスは、木でありその木に付いた枝は立派な実を生み出す。木であるイエスが、立派だからだ。しかし、サタンもまた木として、自分の配下の枝を持つ。サタンの木は、腐っているため、それから取れる実も、腐っている。では、見分けるにはどうすべきか?それは、先ほどらい考えたように、「実の味」に注意するという事だろう。
エレミヤ書 24:2
一つのかごのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものである。」
・・・
動機で考えれば、両者はまったく違っている。イエスの奇跡は、その目的が、人々への純粋の愛と憐れみから行われるため、謙遜で慎ましく、代価を求めない。そして親切なものであった。サタンの奇跡は、人々を騙して引き寄せるためのものだ。そこに親切さや丁寧さが見られても、サタンの都合でそうしているに過ぎない。従って、愛が無い。拘束がきつい。偽善と高慢が満ちている。信者にノルマを課したり、代価を要求する事さえあるかもしれない。そこから信者達が受ける「印象」が実の味となる。その実は苦い(苦しみの味)だろうか?それとも、甘い(安楽)だろうか?その味が大人には区別できなくても、子供には見分けられるはずだ。子供の目は純粋だからである。もし現在、イエスに真の宗教の見分け方を尋ねたなら・・・きっと、こう答える。
「奇跡と共に、愛が存在しているかをよく観察せよ」
「奇跡の無いところには、精霊も来ておらず、
それは人の行いである」
「しかし、奇跡と共に、偽善のあるところには、
さらに注意せよ・・・それは、悪霊の行いだからである」
「苦い実は吐き出し、食べ続けてはならない」
「子供の顔を観察せよ、彼の涙を無視してはならない」
表面は無意味
立派な木は、「愛の満ちた木」であり、腐った木とは、「偽善の満ちた木」である。もし、「腐った・・・」という表現を、「表面的な悪事」の事だと思い込むと、非常に危険である。それは、ちょっと見ただけで悪いと判るようなものではないからだ。
サタンの提供物は、一見すると、「必ず」良いものに感じる。(創世記のイブは、それで罠に落ちた。一見すると、その木は「良く見えた」・・・それで騙された)どんな人でも、油断すれば、背後に居るサタンの存在は、まず見抜けない。その人は、こう叫ぶ。「何と、素晴らしい!何と善い人々であろう・・・これこそ、神の組織だ!」・・・と。
狡猾なサタンは、まるでてんぷらの衣のように、自分の周囲を無知で善良な人々で固めてしまう。それならば、表面からは良く見えて当然だ。・・・サタンは人を騙す天才であり、だからこそイエスはくどいほど警告しているのだ。自分自身の目を信じ切るのは危険なのである。
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「種」の考察「実」とは何か?(4) (みとはなにか4)
すでに、「実」は弟子ではない事がはっきりした。そして、奇跡は真の宗教には不可欠なものであり、イエスの弟子達は奇跡による清めや治療を重要な仕事としていた事、そして、それが可能な人々こそ、イエスと結びついている事も理解した。しかし、試行錯誤が繰り返されたので、ここで一応まとめる事にしたい。今までで導かれた「実」の実体は、以下の通りである。
1. 弟子ではない
2. 組識が信者に分かつもの
3. 空腹な時に食べれば良い・・・つまり受ける受けないの自由がある
4. 奇跡が関係する(神の栄光)
5. 立派な実は甘いが、腐れば苦い(特に子供)
6. 腐った実は食べると(受け入れると)酔う
7. 聖霊が来なければ実は生じない
8. 実を付けない木は神から憎まれ、枯れる
9. 腐った実を付ける木は火に入る(焼かれる)
この章では、はっきりと結論の出ていない「実」の正体を、さらに角度を変えて突き詰めてみたい。「実」の中には普通「種」が入っている。そこでまず、聖書の中の「種」という表現から考えるため、次の聖句を読み通していただきたい。
マタイ 13:1
その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
マタイ 13:2
すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。
マタイ 13:3
イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。
「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
マタイ 13:4
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
マタイ 13:5
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。マタイ 13:6
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
マタイ 13:7
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
マタイ 13:8
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
マタイ 13:9
耳のある者は聞きなさい。」
マタイ 13:10
すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
マタイ 13:11
イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
マタイ 13:12
というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
マタイ 13:13
わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
マタイ 13:14
こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。
『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。
確かに見てはいるが、決してわからない。
マタイ 13:15
この民の心は鈍くなり、
その耳は遠く、
目はつぶっているからである。
それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、
その心で悟って立ち返り、
わたしにいやされることのないためである。』
マタイ 13:16
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
マタイ 13:17
まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。
マタイ 13:18
ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
マタイ 13:19
御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
マタイ 13:20
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。マタイ 13:21
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
マタイ 13:22
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
マタイ 13:23
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
この聖句の中で、すでに種が何かを教えている。
ここの場面は、大勢の群集とともに、辛辣な質問を投げかける宗教指導者や彼らの手の者も混じった群集への話であった。そして、イエスの周囲の状況は、ほとんどがそうしたものである。イエスは素直な群集に話しながら、宗教指導者達の悪意に満ちた目をも意識していなければならなかった。
宗教指導者達は、イエスに時々質問をして罠を置いたり、イエスから答えを引き出して自分達の理解に何かを加えようとしていた。以下の聖句がそれを示している。
ルカ 11:53
イエスがそこを出て行かれると、律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻めとが始まった。
ルカ 11:54
彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと、ひそかに計った。
しかし、イエスは彼らには決して知識は与えなかった。イエスが邪悪な姦淫の世代と呼んでいたのも彼らである。そうした背景を考えながら聖句を考えよう。
マタイ13:14で、イエスはなぜイザヤの聖句を取り上げているのだろうか?そこには、こう書かれている。「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。」・・・つまりこの記述は「悟り」に間してのものである。宗教指導者も含めて、人々が求めていたものは、「悟り」であり、「理解」なのである。イエスはそれを、高慢で偽善的な宗教指導者には理解できないように、例えで話したのだ。しかし、純真な人であればそれが受け取れるようにされていた。それは、ただの意地悪ではなかったのだ。
持っているものは更に与えられるという表現は、明らかに「理解」や「悟り」や「啓発」に関して当てはまる。「弟子」などという語句にはなじまない。マタイ 13:8の「・・・あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ・・・という表現に、弟子という言葉を当てはめようとすると、聖句が述べている明らかな答えさえ見えなくなる。
同じ話を解説したマタイ13:23の聖句は、「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のこと」・・・とはっきり述べている。つまりその人は、「理解」を教えられてそれを足がかりに、更に多くの悟りを開く人なのだ。
その聖句の後半ではこう書かれている。・・・「その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
「悟りを開く事」・・・「神の言葉を更に深く理解する事」・・・これこそが「実を結ぶ」という意味であろう。彼に関しては、神の聖霊が一挙に流れ込み、啓発を受け、更に多くの悟りと理解を得、奇跡まで伴うようになる。理解を加える事によって、彼は自分自身への聖霊の通り道を広げるからである。
ただし、この場面での種は「小麦」の種であり、ブドウではないようだ。この例えで「畑」は人間の心(頭脳)である。人の心には、正しい知識(小麦)が茂る事もあれば、間違った知識(雑草)が入りこむ事もある。終りの日には、この中から正しい知識だけが残される。(御使いが選り分ける)そして、個人から組織が発生した時、ブドウの木の例えが適用されるのだ。個人と組織は、分けて説明されているわけだ。
実を人々に分かつ事ができるほどに成長した個人は、既にブドウの木になっている。その人は、一人であっても神の組織として成立している。彼が得た理解は、彼を通して多くの人々に分かたれる。彼の理解はその時始めて人々の手でもぎ取られ、彼の枝を離れて行く。彼の得た啓発が、群衆の中に広がって行くのだ。
パリサイ人の実
パリサイ人のように伝統にこだわっていると、「種」という表現の意味や「実る」という言葉の意味を正しく理解できない。表面では知識を持った人のように、多くの聖句を口にできるが、彼は本当の理解を得ておらず、悟りを加える事も無い。種が落ちても取り去られるというのは、せっかく王国の知識を教えられ理解を分けてもらっても、それを活用できない(行動に移せない)人々であり、増やせない人々だ。パリサイ人はそうした存在だった。
神からの聖霊は、更に多くの謎を解き明かし、何十倍も実を結ばせる。そういった人は、自分から多くの悟りを開くだけでなく、それを人々に与えずにはいられない。しかしその場合でも彼は「受動的」だ。それは、彼が動けないブドウの木だからである。(動き回る存在を、聖書は蝿に例えた。しかし、ここでは取り上げない)
それでこの場合、イエスから褒められる人とは「弟子を多く作る人」ではなく、み言葉を更に深く掘り下げ探求し、「正しく理解する」人々なのだ。生活苦からそうした努力を止めてしまう人は、確かにいばらの中に種の落ちた人だろう。
そして、当時のパリサイ人や宗教指導者達にはこうした部分が欠けていた。だからこそイエスは彼らを叱責した。しかしそんな彼らも、「弟子獲得」に関しては、文句の付けようが無いほど熱心であり、遠方まで出かける事もいとわなかった。その点で評価するなら、彼らは弟子作りには頑張っていたのだ。それがなぜイエスから糾弾されたのか?実が無かったのか?それとも、実が腐っていたのか?
「イエスの関心は、途中から弟子作りに
移った」などと主張する人がいるだろうが、
イエスの指示は、途中から変わるはずはない。
なぜなら、地上にいた有利な期間中に、全てを
伝えておかねば、後からの変更は弟子達に
混乱を引き起こし、また神の敵に利用される
余地を与える。そうした危険を犯してまで、
変更の余地を残すはずがない。
敵は何とか塗り変えたいだろうが、イエスは
そうできないように工夫している。
パリサイ人や宗教指導者達に欠けていたのは、「私は哀れみを望み、犠牲を望まない」という次の聖句への「理解」だった。いや欠けているというよりも、間違った理解(腐ったもの)を持っていたのだろう。イエスはこう述べた。
マタイ 9:13
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
いけにえ(神への提出物)は、無理な人には哀れみがかけられた。では、「私には伝道などできません」という「必死の願いを」蹴飛ばす事、無視する事がどれほど哀れみに欠けている行いかを考えてみよう。宣教活動のストレスで、糖尿病になる人が一人でもいれば、神の是認はその組織から吹き飛んでしまうだろう。
邪悪なしもべ(奴隷)は「理解」を埋めてしまう
では、せっかくの「悟り」という宝を受けても、人々に発表しなければどういった事になるのだろうか?
マタイ 25:14
天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
マタイ 25:15
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
マタイ 25:16
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
マタイ 25:17
同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
マタイ 25:18
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。マタイ 25:19
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
マタイ 25:20
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
マタイ 25:21
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタイ 25:22
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
マタイ 25:23
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタイ 25:24
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
マタイ 25:25
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
マタイ 25:26
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
マタイ 25:27
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
マタイ 25:28
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
マタイ 25:29
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
マタイ 25:30
役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。
このタラントの例えも、弟子を作る伝道活動に結びつけている人々がいる。しかし、最初に主人が奴隷に預けるのは弟子ではない。弟子だと理解した場合、マタイ 25:25の「地の中に隠す」という表現とは相容れない。弟子をどこかへ隠すというのだろうか?
マタイ25:25
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
それゆえ、これは間違いなく「理解」であり「悟り」である。ほかの奴隷達は、理解を分けてもらい、熱心に追い求めて更に多くの理解を得た。それを人々に提供していたので主人は喜んだのだ。また、この聖句の中の、「タラントを恐れる(恐いもののように隠す)」という表現も、次のように説明できる。
25:26で彼の主人が、「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集める」とある。これは、神が、神の畑ではない場所(別の宗教の領域あるいはサタンの蒔いた畑)からも、悟った人々(または知識)を集めるという意味であろう。
この神の行動を最も恐れているのはサタン自身である。それゆえ彼が、神からの知識(正しい理解)をできるだけ広めないでおきたいと願うのは当然だろう。彼は理解を誰にも伝えず、隠してしまう。霊者サタンから影響を受けている人間は、神を理解すればするほど恐ろしいと感ずるからこのような行動を起こすのだ。
銀行とは何か?
ここで、不可解な例えがある。次の聖句だ。
マタイ 25:27
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
・・・
さて、「銀行」とは何だろうか?
「神の探求」というものは、宗教界以外も続けている。「科学界」である。それは、神を否定しているようだが、実は、じりじりと神の発見に近付いている。彼らにもし、創造者についての知識の一部を明らかにしておけば、彼らなりに探求を進めるはずである。それは、少しの利息に相当する。ゆっくりしか進まないからだ。それでも、科学は、宇宙の謎への探求を止める事はない。つまり、確実な利息が期待できるのである。確かに、一世紀当時の科学界は未熟だった。しかしそれに代わって哲学の世界があった。こうした「学問として森羅万象を論じる人々」に預けておけば、神に関する知識はわずかでも利息が付いたはずである。
「種(穀粒)」と「実」との違い
さて、蒔かれた種(穀粒)が、神に関する啓発であり悟りであるとするならば、「実」についても一つの理解が浮かび上がって来る。果物の果肉は、動物のためによく考えられた食料であり、それが種を包んでいるからこそ動物はそれを運ぶ。その場で食べて近くに落としてくれてはありがたくない。果物の種は、できるだけ遠くまで行って土に落ちるのが理想である。
公の理解と私的な理解
つまり、果物は、「種」という「理解」を遠方に運んでもらうためセットされた「巧妙な仕掛け」でもあるのだ。その種蒔きは、ごく自然に行われる。「実」と「種」の違いは、それが、木のような大きな組識を起こす力を秘めているか、あるいは個人レベルの啓蒙に終わるかという部分にありそうだ。
つまり、もう一つの組識を起こすほど、強力な理解や悟りは「実」に相当し、種(穀粒)は、個人が啓発され生き方を変えるような、私的な理解であるに違いない。(更に研究中)
一つの宗教組識の偽善を暴く大きな知識は、「実」の中に詰まっており、家庭生活の改善などを教えてくれる個人の知恵は、小麦のような「種(穀粒)」なのだろうか?
人物にも関係する
知識は、人間の頭の中にある。それゆえ、悟りや理解も人間の心の中に位置している。ということは、「小麦」や「毒麦(雑草)」という表現は、人間が関係していなければならない。様々な理解は、人と共にあるゆえ、小麦を刈り取るという事は、それぞれの知識を持つ人間を刈り取る(判別して集める)という風にも取れる。
同じ畑に育った穀物でも、注意深く選り分けられる。しかし、穀物そのものが人間というのではなく、人間は畑の一区画(土)であるはずだ。以下は、人間が土に関係が深いという聖句である。
創世記 2:7
その後、神であるヤーは、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
・・・
この聖句は、人間は土(ちり)から創造されたと記している。またアダムというのは、「土の人」という意味である。神から見て人間が土を象徴しているという事が、次の聖句からも読み取れる。
創世記 3:19
あなたは、顔に汗を流して糧を得、
ついに、あなたは土に帰る。
あなたはそこから取られたのだから。
あなたはちりだから、
ちりに帰らなければならない。」
このように、土が人間を象徴しているため、イエスは次のように話した。ここで、「良い地」というのが人間を示す。
マタイ 13:23
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
ここで、「実」を弟子にこじつけたいと考えている人々は、「土」が人間である事を無視せざるを得ない。「種」を人間とし、「実」も人間(弟子)と考えたがるからだ。そうすると、全てが狂い始め、後戻りできなくなる。種は生命体ではあっても、DNAという複雑な情報のカプセルである。つまり、「情報」を表していると考えなければつじつまが合わなくなってくるのだ。
人を見分けるもの
刈り取られるのは、それら人間の心の傾向である。つまり、麦と毒麦は心の中がどうかというフラッグ(旗)に他ならない。神は、人それぞれの心の傾向をそうしたフラッグから読み取るのだ。それは、人間には見えない印であり、神が目安とするものだ。これがあるため、行動だけを整えても神の目はごまかせない。偽善は通用しないという事だ。しかも、それは白い旗や黒い旗が風になびくように、神にははっきりとした目印なのである。
-------------------------------------続き
エレミヤ書からの理解
エレミヤ書 21:11
ユダの王家のために。――
「ヤーのことばを聞け。
エレミヤ書 21:12
ダビデの家よ。ヤーはこう仰せられる。
朝ごとに、正しいさばきを行ない、
かすめられている者を、
しいたげる者の手から救い出せ。
さもないと、あなたがたの悪行のために、
わたしの憤りが火のように燃えて焼き尽くし、
消す者はいない。」
エレミヤ書 21:13
「ああ、この谷に住む者、平地の岩よ。
あなたに言う。――ヤーの御告げ。――
あなたがたは、
『だれが、私たちのところに下って来よう。
だれが、私たちの住まいにはいれよう。』と
言っている。
エレミヤ書 21:14
わたしはあなたがたを、
その行ないの実にしたがって罰する。
――ヤーの御告げ。――
また、わたしは、その林に火をつける。
火はその周辺をことごとく焼き尽くす。」
・・・
ここでは、「行いの実」という言葉が出てくる。聖句では、
朝ごとに、正しいさばきを行ない、
かすめられている者を、
しいたげる者の手から救い出せ。
と諭されている。つまり、指導者に「公正」が要求されているのだ。特に、「虐げられている弱者」に注目すべき事が理解できる。宗教組織であれば、自分達の傘下に寄りそう「信者達の扱い」への注意となる。
弱者といえば群れの中の「子供」である。子供に無理がかかっていないか、組織上層部は目を皿のようにして見張っていなければならない。では、以下のような事柄が見出されるならどうだろう?
「この話、長いねえ」
「シッ!黙っていなさい」
「だけどぼくもう我慢できない」
「一時間も座れないの?悪い子だ」
「ちょっと外に出ていい?」
「そんなに言うなら来なさい、
お仕置きします!」
「わあー!」
この子供は、トイレでお尻をひどくぶたれた。この親の態度を見てイエスはどう考えるだろう?・・・彼は親よりまず、「主催者」に注目するだろう。彼らこそが、指導者の立場に立っているからだ。
子供は、時間の感覚が大人よりはるかに長く、大人の1時間を2時間以上にも感じる。しかも集中力は15分しか持たない。それは、子供が悪いのではなく、「神がそのように設計している」からだ。子供の訴えは、無理も無い事なのである。
では、そうした子供を、長時間椅子に座らせて難解な話を強要する事は、「虐げ」にはならないのだろうか?組織の外見のために、弱者に無理を押し付けているとは言えないのだろうか?
それは、神の目から見れば、間違いなく「虐げ」である。子供達はいつも夜中に枕を涙で濡らし、声にならないうめきを上げている。神を怨んでいる。神はその弱者の声を間違いなく聞いている。
時間の感覚の違う子供を、大人と同様のプログラムに組み込む事自体、無理な事である。大人と子供を同等に扱う事は、「不公正」だと言われても仕方が無い。また、雄弁な人と、無口な人を同列に置く事も・・・
こうした「世話」が行われる組織を、神はどう見るだろう?彼らの「行動の実」を喜んでいるだろうか?もちろんそんな事は無い。神は責任者の無理解による虐げを怒りの目で見つめ、眉を吊り上げているに違いない。そんな組織に、神は聖霊を送らない。むしろ、次のような心配が昇ってくる。
「あなたがたの悪行のために、
わたしの憤りが火のように燃えて焼き尽くし、
消す者はいない。」
・・・
批判や糾弾の火が、やってきた時初めて、彼らは事の重大さに気付くのかもしれない。弱者の顔色をないがしろにした行いの重大さに・・・
------------------------------------続き
ホセア書からの理解
以下で、神の口から出た表現によって、「実」の意味と神の信者達への考え方を確認しておこう。
ホセア書 14:1
イスラエルよ。
あなたの神、ヤーに立ち返れ。
あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。
ホセア書 14:2
あなたがたはことばを用意して、
ヤーに立ち返り、そして言え。
「すべての不義を赦して、
良いものを受け入れてください。
私たちはくちびるの果実をささげます。
ホセア書 14:3
アッシリヤは私たちを救えません。
私たちはもう、馬にも乗らず、
自分たちの手で造った物に
『私たちの神』とは言いません。
みなしごが愛されるのは
あなたによってだけです。」
ホセア書 14:4
わたしは彼らの背信をいやし、
喜んでこれを愛する。
わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。
ホセア書 14:5
わたしはイスラエルには露のようになる。
彼はゆりのように花咲き、
ポプラのように根を張る。
ホセア書 14:6
その若枝は伸び、
その美しさはオリーブの木のように、
そのかおりはレバノンのようになる。
ホセア書 14:7
彼らは帰って来て、その陰に住み、
穀物のように生き返り、
ぶどうの木のように芽をふき、
その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。
ホセア書 14:8
エフライムよ。
もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。
わたしが答え、わたしが世話をする。
わたしは緑のもみの木のようだ。
あなたはわたしから実を得るのだ。
ホセア書 14:9
知恵ある者はだれか。
その人はこれらのことを悟るがよい。
悟りある者はだれか。
その人はそれらを知るがよい。
ヤーの道は平らだ。
正しい者はこれを歩み、
そむく者はこれにつまずく。
14章8節に注目できる。そこから、「樹木」とその「実」と「信者達」との関係が理解できるだろう。
神の民(信者達)は神の木を選び、その木から実をもいで食べる。それは「選択」という行動(自由意志)が関係している。その行動は、「その木の世話を受ける」という意思の表明である。
この「実」に関する「表現と意味」は、人類の歴史がエデンで始まって以来、ずっと変っていない。
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→海を耕す
「肉的」な意味と「霊的」な意味「実」とは何か?(5) (みとはなにか5)
創世記では、ヤコブ(イスラエル)が「実」という言葉を含めて予言している。
創世記 49:1
ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。
(中略)
創世記 49:3
ルベンよ。あなたはわが長子。
わが力、わが力の初めの実。
すぐれた威厳とすぐれた力のある者。
・・・
このように、「実」という言葉は、「子供」という意味で使われていた。
それである人々は、「弟子」を「霊的な子供」と解釈して「実」であると主張するかもしれない。確かに、肉的な事柄に対比して、霊的な意味での「子供」を「実」とできそうである。
ではここで、「子供」という存在を、別の言葉に置き換えてみよう。するとそれは、「自分の体から出た分身」という事になる。
「自分の体から出る」
これが、「実」に関するキーワードである。
ヤコブも創世記で、その意味で「実」を使っていた。子供達は、自分から出ているからだ。
しかし、「弟子」は自分の体から出た存在ではない。肉的には「他人」は「実」ではない。人は、「子孫」だけを「実」と呼ぶことができるのだ。
では、霊的な意味ではどうだろうか?
「弟子」は、自分が「集めてくるもの」であり、他人である。しかし、彼が組織に入って、「身内」となった場合は、「実」と呼んでも良いのではないのだろうか?
それでもそれは、「組み込まれたもの」であって、「産み出したもの」とは違っている。
つまり彼は「組織に組み込まれる」のであって、組織にいた誰かが「弟子」と名を変えるわけではない。それで、霊的な意味でも、「弟子」は「実」と表現できないのだ。
聖書では、
「組み込まれたもの」
は、
「枝」
という表現を使っている。
「他人」である「弟子」は、必ず「枝」となっているはずだ。
それは、彼が、組織に組み込まれて
「延長される」
という事を意味している。
これが霊的な意味でも、
矛盾を生じない「弟子」の用法である。
そして「実」の方はやはり、
「組織が産み出す生産物」
を指しているのである。
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イチジクの民実のない樹木 (みのないじゅもく)
以下は、神の民がイチジクに例えられている聖句である。
しかし、ちょっと見ると、イチジクの「実」がそのまま「イスラエルの民」を意味しているように感じるだろう。
エレミヤ書 24:1
バビロンの王ネブカデレザルが、エホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのつかさたちや、職人や、鍛冶屋をエルサレムから捕え移し、バビロンに連れて行って後、ヤーは私に示された。見ると、ヤーの宮の前に、二かごのいちじくが置かれている。
エレミヤ書 24:2
一つのかごのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものである。」
エレミヤ書 24:3
そのとき、ヤーが私に、「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いのは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」
エレミヤ書 24:4
すると、私に次のようなヤーのことばがあった。
エレミヤ書 24:5
「イスラエルの神、ヤーは、こう仰せられる。この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。
・・・
ここまでで考えれば、イスラエルの「補囚の民」がそのまま「いちじくの実」として描かれているかのようである。しかし、次の聖句を見てみよう。
エレミヤ書 24:6
わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。
エレミヤ書 24:7
また、わたしは彼らに、わたしがヤーであることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。
・・・
6節には、「もう引き抜かない」という記述がある。それでこの場合の「イスラエル」は「樹木」に例えられていることが判る。即ち「イチジクの木」こそがイスラエルの民であり、「イチジクの実」は、彼ら補囚の民が「産み出したもの」を意味している。「彼ら自身」でないことは明らかだ。
結局ここでも、ユダの民自身は、やはり「樹木」・・・つまりこのような「善い実」を産み出した「イチジクの木」であるということになる。神は、「彼らの産物」という意味で、「彼ら」と言っているのだ。
また、正反対の樹木も描写されている。
エレミヤ書 24:8
しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように、――まことにヤーはこう仰せられる。――わたしは、ユダの王ゼデキヤと、そのつかさたち、エルサレムの残りの者と、この国に残されている者、およびエジプトの国に住みついている者とを、このようにする。
エレミヤ書 24:9
わたしは彼らを地のすべての王国のおののき、悩みとし、また、わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。
エレミヤ書 24:10
わたしは彼らのうちに、剣と、ききんと、疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」
・・・
つまり神は、彼らの行い(実の善し悪し)に応じて、結果を宣告しているのである。
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宮の再建 (みやのさいけん)
実家への連絡
「もしもし」
「はいはい」
「柿の実、送ってよ」
「それが、実をつけてないんだよ」
「えーっ!去年もダメだったでしょ?」
「そうだった」
「処分して、別の木でも植えたら?」
「そうしようか」
・・・
「世界の樹木」は、検分を受けた。
それが、『実』をつけているかどうか。
既に樹木は成長を終え、実を付けるべき時期にさしかかったからだ。
→ 「終わりの日」を考える
この時期、実をつけていなければ「無価値」と判断される。
神がまず吟味するのは、「イチジクの木」だ。
聖書には、「神の選民」(広義では世界の宗教組織)が「イチジクその他」に例えられている。
ホセア書 9:10
わたしはイスラエルを、
荒野のぶどうのように見、
あなたがたの先祖を、
いちじくの木の初なりの実のように見ていた。
ところが彼らはバアル・ペオルへ行き、
恥ずべきものに身をゆだね、
彼らの愛している者と同じように、
彼ら自身、忌むべきものとなった。
(※ここで「イチジク」とは、イエスが出現する前のイスラエル。イエスに関係した追随者は「ぶどう」と見なされる。)
「選民」には、陰陽二つが存在している。
「中東イスラエル」と「極東日本」だ。
(厳密には、「中国」なども)
一世紀以降、イスラエルから出た「イエスの教え」が世界に広まったため、
西洋諸国の大多数は、「キリスト教」を奉じている。
それが、「新ユダヤ教」とも呼べる「ぶどう」の勢力だ。
しかし、「旧来のユダヤ教(イチジク)」も残されている。
「中東イスラエル」がそれだ。
この状態に関して、イエスはこう告げた。
ぶどう園のイチジク
ルカ 13:6
イエスはこのようなたとえを話された。
「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
ルカ 13:7
そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
ルカ 13:8
番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
ルカ 13:9
もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」
この記述が指し示す「イチジク」は、「ユダヤ教国家・イスラエル」だ。
イエスをキリストだと認めない彼らは、「救世主が出現する以前」と同じ状態にある。
(先祖達と同様の「イチジク」状態)
また、『極東のイスラエル』であるはずの「日本」も、識者には「ユダヤ教国家」と目されていた。
しかし実際には、「イチジク(ユダヤ教)」という表現には当たらない。
なぜなら、メシアである「イエス(イシェ)」を受け入れ、「伊勢神宮」に奉戴し、共に暮らしてきたからだ。
(「伊勢=イエス」と解明されている→ 石とイエスと伊勢神宮)
そのイエスが、「私はぶどうの木」と告げている。
ヨハネ 15:1
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
ヨハネ 15:2
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
従って日本は、「ぶどうの木」の一本ということになる。
ユダヤ教の匂いはするが、実は「隠されたキリスト教国」である。(天照大神は「イエス」)
(「中国」は、イスラエル十部族の流れを引くが、彼らの歴史にも「メシア受け入れの痕跡がある」と睨んでいる。→ 大陸の秦一族の影響→ ぶどう)
従って「イチジク」という表現が当てはまる国家はやはり、現在ただひとつ。
「中東イスラエル」のみだ。
この観点から推せば、
「イチジクの木」に葉が茂り、収穫期になった頃にも実がなければどうなるのか?
イエスから、「処分」が告げられる。
マタイ 21:19
道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
終わりの日になって、「このイチジク」は実をつけていない。
それは、世界が黙認する状況だ。
イスラエルには神の哀れみを感じない。
まるで諸国民であるかのように、周囲に攻撃的な目を向ける。
エレミヤ書 6:23
彼らは弓と投げ槍を堅く握り、
残忍で、あわれみがない。
その声は海のようにとどろく。
シオンの娘よ。彼らは馬にまたがり、
ひとりのように陣備えをして、あなたを攻める。」
イスラエルの中に「哀れみ」を見い出せば、あのイランからの態度も違っていただろう。
その意味で、イスラエルに向かう敵意は「『鏡』の反射」である。
しかし、「ぶどうの木」にしても、神に満足を与えているとは言えない。
ミカ書 7:1
ああ、悲しいことだ。
私は夏のくだものを集める者のよう、
ぶどうの取り残しの実を
取り入れる者のようになった。
もう食べられるふさは一つもなく、
私の好きな初なりのいちじくの実もない。
ミカ書 7:2
敬虔な者はこの地から消えうせ、
人の間に、正しい者はひとりもいない。
みな血を流そうと待ち伏せし、
互いに網をかけ合って捕えようとする。
ミカ書 7:3
彼らの手は悪事を働くのに巧みで、
役人は物を求め、
さばきつかさは報酬に応じてさばき、
有力者は自分の欲するままを語り、
こうして事を曲げている。
ミカ書 7:4
彼らのうちの善人もいばらのようだ。
正しい者もいばらの生け垣のようだ。
あなたの刑罰の日が、
あなたを見張る者の日が来る。
今、彼らに混乱が起きる。
神が楽しみにしている「実」は、
敬虔な者
正しい者
正しく裁く司
悪事から清い役人
正道を歩む有力者
哀れみを率先する者・・・
「彼らの正しい行い」を神は欲している。
なければ、悲惨なことになる。
このように、
「2011年に至る検分」は、神の民「イスラエル」その他に対して行われてきたということだ。
神は、「神の民」を自負する中東イスラエルに、「正しさ」を見い出したのだろうか?
彼らは、神がするように、虐げてきたパレスチナへの親切を始めただろうか?
ヨエル書 2:13
あなたがたの着物ではなく、
あなたがたの心を引き裂け。
あなたがたの神、ヤーエに立ち返れ。
主は情け深く、あわれみ深く、
怒るのにおそく、恵み豊かで、
わざわいを思い直してくださるからだ。
市民を犠牲にしてまで、「中東の夜明け」を闇の中に引き止めようとしたではないか。
カダフィーに援軍を送ったのは、実は、イスラエル政府から許可を受けた「軍事下請け会社」だと言われている。
その援軍は戦闘を長引かせ、多くのリビア市民の命や財産を奪った。
このイスラエルが、世界の舞台裏で行った暗躍が数知れないにしても、それらは全て神の目に明らかになっている。
とすれば、
「終わりの日」は彼らにとって、
「終わりの火」となるだろう。
ルカ 3:9
斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
ヨハネが告げた通り、
やってきた救世主は「その斧」を行使する。
今、謙遜になれ。
そうすれば救われる。
※ その時期、日本はどうなるのか?
→ 日本の望みは信仰にあり→ 「虚しい信仰」からの脱却
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今、再建の時「虚しい信仰」からの脱却 (むなしいしんこうからのだっきゃく)
道徳が退廃した今の日本で、「宮の再建」といえば、「崇拝の再建」を意味する。
隠されたイスラエルである大和民族には、今が大切な再建の時期である。
ハガイ書 1:1
ダリヨス王の第二年の第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアとに、次のような主のことばがあった。
・・・
預言者ハガイに、お告げがやってきた。
冒頭の聖句には、『主』という代名詞があるので、こう思うかもしれない。
「なぜ、『ヤーエ』ではないのか?」
それは、以下の理由である。
「神ヤーエは、御使いを通して人に語る。」
従って、預言者が直接ヤーエの言葉を聞くのではない。
彼は、「主」・・・「つまり御使い」を通してヤーエのお告げを聞く。
「代弁者」の言葉を聞いた預言者は、自然と次のように表現する。
『主』は、「『ヤーエ』がこう告げられた」・・・と語った。
上記はそうした微妙な部分を再現して「主」を残してあるのだ。
ではこの時期、神は民に何を期待しているのだろうか?
ハガイ書 1:2
「万軍のヤーはこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」
(ここでも、「主の宮」とした理由を説明しよう)
日本での、崇拝中心地は「伊勢神宮」だ。
その宮は、神の子である「イエスの宮」となっている。
イエスはこう言った。
「私を見たものは父をも見た」
つまり、「イエスの宮」はその父である「ヤーエの宮」でもあるのだ。
崇拝は、イエスを差し置いてその父ヤーエに祈ることはできない。人と神との「和解」がまだ終わっていないからだ。現代人は、イエスを通してヤーエに祈るしかない。
イエスはこう言う。
「私を通してでなければ、誰一人父の元にはこれません」
従って神の宮は、ヤーエの崇拝場所だが、そこに祀られているのは「御子イエス」というわけだ。イエスが「崇拝の取り次ぎ」をしてくれるからである。
そのイエスは代名詞「主」で呼ばれている。
ゆえに、 神の宮は「主の宮」という表現でかまわない。
(ただし、その中での崇拝は『ヤーエ』を崇拝する)
ハガイ書 1:3
ついで預言者ハガイを通して、次のようなヤーのことばがあった。
ハガイ書 1:4
「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。
ハガイ書 1:5
今、万軍のヤーはこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。
ハガイ書 1:6
あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。
ハガイ書 1:7
万軍のヤーはこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。
・・・
「窮状」には理由がある。
「神の祝福」が途絶えているのだ。
それは、世の中に殺伐とした精神が広がり、人々が神を忘れているからである。神を持たない「獣の精神」が広がっている。
これを、正しい道に引き戻さねばならない。
ハガイ書 1:8
山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。ヤーは仰せられる。
・・・
それは、「崇拝の再建」を意味している。
ハガイ書 1:9
あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。――万軍のヤーの御告げ。――それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。
・・・
現在の世に建っている家は「進化論」であり、「自分本位の精神」だ。
「自分さえ良ければいい」・・・「弱肉強食」の思想が蔓延している。
小泉内閣が押し進める政治姿勢には、そうした「弱者切り捨ての精神」が貫かれている。
そのため、伝統的な大和の心は異質なものに変化し、神は怒った。
景気はいっこうに良くならない。
ハガイ書 1:10
それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。
ハガイ書 1:11
わたしはまた、地にも、山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも、地が生やす物にも、人にも、家畜にも、手によるすべての勤労の実にも、ひでりを呼び寄せた。」
・・・
「不景気」と「人心の退廃」は連動しているため、現在の不況は無理もないことなのだ。
しかし、
現在、少しの望みがある。
日本の中に、「人の道」を叫ぶ人々がいる。
彼らは、「大和民族の精神」を再建しようとしている。
「哀れみを思い出せ」と叫んでいる。
民は彼らに従うだろうか?
ハガイ書 1:12
そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民のすべての残りの者とは、彼らの神、ヤーの御声と、また、彼らの神、ヤーエが遣わされた預言者ハガイのことばとに聞き従った。民はヤーエの前で恐れた。
ハガイ書 1:13
そのとき、ヤーエの使いハガイは、主から使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる。――ヤーエの御告げ。――」
ハガイ書 1:14
ヤーは、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍のヤーの宮に行って、仕事に取りかかった。
ハガイ書 1:15
それは第六の月の二十四日のことであった。
・・・
これらの成就は、いつのことだろうか?
ハガイ書は、「バビロン陥落以降」に対する予言となっている。現代に当てはめると、それは「今」である。
イラクは、象徴的なメディア・ペルシャ(米英)の連合軍により倒され、「ダリヨス支配」が行われている。
この時期は、大和の国に「宮の再建」が起きると予想される。
(以下の聖句からは、「万軍のヤー」・・・という語句を、日本での神の通称『ヤオヨロズ』に翻訳して読み進めてみよう。これは「ヘブライ語では同義」である。)
八百万の神とは
ハガイ書 2:1
ダリヨス王の第二年の第七の月の二十一日に、預言者ハガイを通して、次のようなヤーエのことばがあった。
ハガイ書 2:2
「シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者とに次のように言え。
ハガイ書 2:3
あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。
ハガイ書 2:4
しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――ヤーエの御告げ。――エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――ヤーエの御告げ。――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――『ヤオヨロズ』の御告げ。――
・・・
このゼルバベルとは誰だろうか?
大祭司ヨシュアとは誰だろうか?
(いずれ判明するだろう)
とにかく我々の神は、嬉しい励ましをかけてくれる。
ヤーエを慕う人々は、ヤーエの助力を得ており、「ヤオヨロズ崇拝」を強力に再建する。
ハガイ書 2:5
あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。
ハガイ書 2:6
まことに、『ヤオヨロズ』はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。
ハガイ書 2:7
わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。『ヤオヨロズ』は仰せられる。
ハガイ書 2:8
銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――『ヤオヨロズ』の御告げ。――
ハガイ書 2:9
この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。『ヤオヨロズ』は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――『ヤオヨロズ』の御告げ。――」
・・・
テロリストが支配している世の中で、平和が与えられるとすれば、それは『ヤオヨロズ』の守護だろう。
そんな神の民の平和とは逆に、世界の人々の心には激震がある。
ヤーエが真実を送り出すからだ。
ところで、ある人々はこう言うだろう。
「伊勢神宮は、既に存在している。」
「『神殿』は、既にあるではないか。」
「また、『崇拝』もその中で捧げられているではないか。」
「それなのに、なぜ『神殿の再建』なのか?」
ここで、ヤーエは不思議な問いかけをする。
ハガイ書 2:10
ダリヨスの第二年の第九の月の二十四日、預言者ハガイに次のような主のことばがあった。
ハガイ書 2:11
「『ヤオヨロズ』はこう仰せられる。次の律法について、祭司たちに尋ねて言え。
ハガイ書 2:12
もし人が聖なる肉を自分の着物のすそで運ぶとき、そのすそがパンや煮物、ぶどう酒や油、またどんな食物にでも触れたなら、それは聖なるものとなるか。」祭司たちは答えて「否。」と言った。
ハガイ書 2:13
そこでハガイは言った。「もし死体によって汚れた人が、これらのどれにでも触れたなら、それは汚れるか。」祭司たちは答えて「汚れる。」と言った。
ハガイ書 2:14
ハガイはそれに応じて言った。「わたしにとっては、この民はそのようなものだ。この国もそのようである。――ヤーエの御告げ。――彼らの手で作ったすべての物もそのようだ。彼らがそこにささげる物、それは汚れている。
・・・
この意味はこうである。
せっかく国の中に「聖なる宮」があっても、同時に汚れた品々が満ちていればその全体が汚れる。
よって、現在捧げられているせっかくの崇拝は汚れている。
日本の中に満ちる、偶像や悪しき神々のため効果を発揮しないのだ。
しかし、事は簡単である。
これらは、大祭司天皇の意図で清めることができるからだ。
天皇の一声が、この国を変える。
その後、どのような祝福があるかを神は告げている。
ハガイ書 2:15
さあ、今、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。主の神殿で石が積み重ねられる前は、
ハガイ書 2:16
あなたがたはどうであったか。二十の麦束の積んである所に行っても、ただ十束しかなく、五十おけを汲もうと酒ぶねに行っても、二十おけ分しかなかった。
ハガイ書 2:17
わたしは、あなたがたを立ち枯れと黒穂病とで打ち、あなたがたの手がけた物をことごとく雹で打った。しかし、あなたがたのうちだれひとり、わたしに帰って来なかった。――ヤーエの御告げ。――
ハガイ書 2:18
さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。すなわち、第九の月の二十四日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。
ハガイ書 2:19
種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリ-ブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。」
・・・
24日は、何らかの節目となるのだろうか?
その日付が繰り返されているところを見ると、深い意味を含むようである。
その後、様々な祝福がある。
この予告は、疲弊した現在の日本にとって、本当に喜ばしい。
しかし、実際の激動がやってくる。
世界の国々は戦渦に巻き込まれるかもしれない。
ハガイ書 2:20
その月の二十四日、ハガイに再び次のような主のことばがあった。
ハガイ書 2:21
「ユダの総督ゼルバベルに次のように言え。わたしは天と地とを揺り動かし、
ハガイ書 2:22
もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。
ハガイ書 2:23
その日、――『ヤオヨロズ』の御告げ。――シェアルティエルの子、わたしのしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る。――ヤーエの御告げ。――わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。――『ヤオヨロズ』の御告げ。――」
・・・
激動の世の中を、「ゼルバベル」の率いるその国は乗り切って行くようだ。
最強の神、『ヤオヨロズ』が彼を選んでいるからである。
さあ、「ゼルバベル」よ
大祭司「ヨシュア」よ、
強くあれ。
あなた達を、ヤーエが後押しする。
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「形だけの信仰」と「本物の信仰」モーセの采配 (もーせのさいはい)
イザヤ書 59:21
「これは、彼らと結ぶわたしの契約である。」とヤーエは仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。」とヤーエは仰せられる。
・・・
イザヤ59章21節にある、
「あなたの口に置いたわたしのことば」・・・とは、
「古代ヘブライ語」である。
イザヤの時代から已還(このかた)、その言葉を話しているのはこの日本人だ。
日本語は、「古代ヘブライ語」そのものだからである。
従って、イザヤのこの聖句は「我々大和の民」に向けられたものだ。
(大陸の十部族にも言葉の共通点があるが、『火(原爆)の中をくぐった神国』という意味では日本しかない)
事後の分析によれば、神に頼って総力戦に臨んだ日本に『神の護り』など無かった。
「祈り」への答えは『敗北』であり、『屈辱』だった。
どうしてなのか?
神国の司達は、「なぜそうなったか」を反省しただろうか?
「なぜ祈りが聞かれなかったか」を追求しただろうか?
イザヤ書 58:1
せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。
イザヤ書 58:2
しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。
イザヤ書 58:3
「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。
イザヤ書 58:4
見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。
民を虐げ、弱者を虐げ、周辺諸国との争いを好んだ司達。
神の命じたこともない戦いに、乗り出して行った。
「我々を勝利させたまえ」
・・・この祈りは、聞かれなかった。
「信仰の証」として断食をしていた過去のイスラエルだったが、「『形式』が満足をもたらすのではない」と神が教えている。
彼らが、陥っていた過ちは、
「高慢」だった。
彼らは、「哀れみ」を忘れていた。
イザヤ書 58:5
わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。
イザヤ書 58:6
わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。
イザヤ書 58:7
飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。
イザヤ書 58:8
そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、ヤーエの栄光が、あなたのしんがりとなられる。
イザヤ書 58:9
そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、
イザヤ書 58:10
飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。
日本人にとって、民族を導くこの『主』は、「イセ」であり、古代から「天照大神」と呼ばれてきた。その実体は、創造主から遣わされたユダヤの救世主「イエス」だ。
その導きから離れたら、我々には何もできない。
イザヤ書 58:11
主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。
イザヤ書 58:12
あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。
イザヤ書 58:13
もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、
イザヤ書 58:14
そのとき、あなたはヤーエをあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。」と主の御口が語られたからである。
神に聞いてみよう。
「日本はあれほど頑張ったのに、神国なのに、・・・
なぜ戦争に負けたのでしょうか?」
すると答えがある。
イザヤ書 59:1
見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
イザヤ書 59:2
あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
イザヤ書 59:3
実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。
イザヤ書 59:4
正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。
イザヤ書 59:5
彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇がとび出す。
イザヤ書 59:6
そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。
イザヤ書 59:7
彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。
イザヤ書 59:8
彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。
2.2.6で、大祭司「天皇」を激怒させた『勇者達』は、
神をも怒らせた。
それ以後、神は顔を隠し、日本は「大東亜の闇」の中に突っ込んでいった。
イザヤ書 59:9
それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。
イザヤ書 59:10
私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。
イザヤ書 59:11
私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。
イザヤ書 59:12
それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。
イザヤ書 59:13
私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。
イザヤ書 59:14
こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中にはいることもできない。
イザヤ書 59:15
そこでは真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。
国民は一色に染まり、もう誰も「道理」を口にできなくなった。
後は、奈落への一直線だった。
そして敗戦。
戦後の日本は、「公儀」も「真理」もぐらついていた。
汚職にまみれた悪人が、我が世の春を謳歌した。
まともな崇拝に携わる人は皆無となった。
イザヤ書 59:16
主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。
イザヤ書 59:17
主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。
正しい崇拝の消滅した日本。
そこにやって来た我らの「神」は、自力で崇拝の場を築き始めた。
ここから、急速に信仰が回復される。
知識の流布と、復讐が始まる。
討ち叩かれ、『犬』に成り下がった日本の民は引き起こされた。
今、悪人には応報があり、誤導する司には糾弾がやってくる。
日本の神の御名(ヤオヨロズ)は、
「西洋」にも知れ渡るだろう。
日本上空には、「ヤーエの栄光」が留まるようになる。
イザヤ書 59:18
主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をする。
イザヤ書 59:19
そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、ヤーエの栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中でヤーエの息が吹きまくっている。
「太陽風」のように、神の息が吹き付けてくる。それはある種、「エネルギーの海」に、世界が入るのかもしれない。
人々の心を、「恐れ」が揺すり続ける。
それでも、善良な人が恐れる必要はない。
イザヤ書 59:20
「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」――ヤーエの御告げ。――
イザヤ書 59:21
「これは、彼らと結ぶわたしの契約である。」とヤーエは仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。」とヤーエは仰せられる。
このとき、民の話す「その言葉」が、いかに重要なものであったかが知れ渡るだろう。
その言葉で語る「本物の信仰」は、神を喜ばせる。
太古から大和民族が所持した「神への畏れ」は、「神の霊」によるものだ。
「虚栄心」を捨て、「哀れみ」と「真実」に満ちた言葉をもって
神を喜ばせよう。
そこに、祝福が返る。
我々は、「神との契約」に囲われているのだから。
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モーセの罪 (もーせのつみ)
応援する軍師
世間一般で、「応援の声」といえば『フレー』だろう。
【フレー】hur・rah, hur・ray
万歳!、 フレー!
→hip,hip,hurrah!
歓呼[万歳]の声
万歳を唱える
◎ 擬音語
「これは、日本語の『奮え』に相当する」・・・という説がある。
奮え = フレー
Hurray!
Hurrah!
「応援」と「奮え」は、確かにピッタリだ。
しかし、発音としては、日本語の「はらえ」にも似ている。
関係する系列が、二つあるようだ。
1. 奮え
2. 祓え
当初は「軍事用語」であったらしく、
『祓え』にも関係が深い。
大祓詞(おおはらえのことば)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大祓詞(おおはらえのことば)は、神道の祭祀に用いられる祝詞の一つである。中臣祓詞(なかとみのはらえことば、略して中臣祓)・中臣祭文(なかとみさいもん)とも言う。
以下は付録に:
古代の軍師は采配によって軍を動かしたが、それが「何を意味するか」は、あまりはっきりしていなかった。
ところがその由来は、信仰深き「古代イスラエル文化」の中に見い出せるのだ。(後述→ モーセの采配)
軍で多用した采配の形は、短い「はたき」か神道の「幣(ぬさ)」のようだった。
【采配】さいはい
(1)武将が士卒の指揮に用いた具。白紙や朱塗り、箔(ハク)置きなどをした犬の革などを細長い短冊状に切り、柄の先につけたもの。
(2)指図。指揮。
「『さいはい』をとる」
「『さいはい』を任される」
(1)『さいはい』を振る指図する。
指揮をとる。采配をとる。
「社長に代わって『さいはいを・ふ』るう。
・・・
采配は、軍の「優勢・劣勢を決する」ほど重要な小道具だ。
理由は、聖書にある『モーセの采配』から推理できる。
出エジプト記 17:8
さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
出エジプト記 17:9
モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」
出エジプト記 17:10
ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
出エジプト記 17:11
モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
出エジプト記 17:12
しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。
出エジプト記 17:13
ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。
出エジプト記 17:14
主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」
出エジプト記 17:15
モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、
出エジプト記 17:16
「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。
・・・
これが「采配」の原形だろう。
「采配」には、イスラエルの『神の力』が関係していた。
指導者が、「神の杖」を持って、これを振り上げると「軍の勝利」に繋がる。
そうした出来事が『書き物』に記されて後代に伝えられている。それで、イスラエルの流れを汲むと思(おぼ)しき日本にも、似た風習が伝わっているのだ。
モーセの采配は「杖」だったが、日本での采配は「房」がある。
おそらく、長い年月の間に風習が混合してしまったのではないだろうか。
1. 指導者や軍師は、采配を振るって「神の力」を軍に呼び寄せる。
2. 神道の神主は、「幣」に宿した神の力で「魔霊」を退散させる。
「サイハイ」という言葉は、
「サーイ(ヘブライ語で「悪魔」・「敵」)」+「ハーイ(敗?・排?)」
の合成ではないか?・・・と考えている。(現在の推理)
「モーセの采配」を知る民族が、軍を応援して『奮え・祓え』と叫んでいた情景が浮かんでくる。その叫び声が、英語の『フレー・フレー』に流れたのかもしれない。
「フレー」から逆流した「奮え」や「祓え」の掛け声が、「モーセの采配」に端を発していると考えると、
歴史ロマンは、更に広がってゆく。
(資料:広辞苑 第五版CD-ROM版)
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付録:大祓詞(おおはらえのことば)続き
大祓詞は、毎年6月と12月の末日に行われる大祓で、犯した罪(神道の観念による「罪」であり、犯罪とは意味合いが異なる)・穢れを祓うために唱えられた祝詞で、中臣氏が京の朱雀門で奏上していたことから中臣祓の称がある。6月と12月では異なる文言であったが、6月の方だけが残った。
※ 神道の『罪』の概念が、いわゆる「犯罪」とは違う・・・という理由は、それが聖書でイエスが告げていた『罪』の概念と共通のものだからである。それは、『不完全さ(tune miss)』を意味する。
『延喜式』巻八「祝詞」には「六月晦大祓」として記載されており、「十二月も此に准へ」と注記がある。今日使用されている大祓詞は「六月晦大祓」の祝詞を元にしたものである。
その成立については賀茂真淵は天智・天武朝説を唱え、本居宣長は文武天皇朝説を唱えているが、いずれの説もその原典になる文章がそれ以前の時代には存在したとしている。
当初は、大祓の際に参集者に対して宣り聞かせるものであったが、後に神に対して唱えられるようになった。中世には陰陽道や密教と結びつき、陰陽道の呪言や仏教の経典のように、唱えるだけで功得が得られると考えられるようになった。さらに、唱えれば唱えるほど功得が増すと考えられ、何千回、何万回も唱えるようになり、より唱えやすくするために、大祓詞の要点だけをまとめた「最要中臣祓」「最上中臣祓」が作られた。特に仏家神道、儒家神道で重視され、『中臣祓訓解』『中臣祓風水草』などの大祓詞の注釈書も書かれた。
現在では大祓の際に参拝者自らが唱えるほか、神社本庁包括下の神社では毎日神前にて唱えられている。神社本庁のほか、各種の教派神道・神道系新宗教の一部でも使われているが、延喜式記載のものから内容に改変が加えられており、教団によっても多少の差異がある。
(詳細は、『ウィキペディア(Wikipedia)』で)
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解明不能?黙示録 5章-6章解説 (もくじろく05しょうかいせつ)
以下の聖句が述べている事柄は、ある人々にとっては謎のようだ。偉大な指導者モーセは、約束の地に入れなかった。
申命記 31:2
言った。
私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。ヤーは私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない。」と言われた。
申命記 34:5
こうして、ヤーの命令によって、ヤーのしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。
「モーセはなぜ、約束の地に入れなかったのか?」これについては、キリスト教国のメディアでさえわからないと述べている。そんな番組を見た事がある。しかし、理由は以下の聖句から推測できる。
民数記 27:12
ついでヤーはモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。
民数記 27:13
それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。
民数記 27:14
ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい、その水のほとりで、彼らの目の前に、わたしを聖なる者としなかったからである。」これはツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のことである。
民数記 27:15
それでモーセはヤーに申し上げた。
民数記 27:16
「すべての肉なるもののいのちの神、ヤーよ。ひとりの人を会衆の上に定め、
民数記 27:17
彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立ってはいり、また彼らを連れ出し、彼らをはいらせるようにしてください。ヤーの会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」
民数記 27:18
ヤーはモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。
民数記 27:19
彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。
民数記 27:20
あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。
民数記 27:21
彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のためにヤーの前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、はいらなければならない。」
民数記 27:22
モーセはヤーが命じられたとおりに行なった。ヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、
民数記 27:23
自分の手を彼の上に置いて、ヤーがモーセを通して告げられたとおりに彼を任命した。
・・・
モーセは、自分が約束の地にまで民を導けない事を聞かされて、後継者を据えるよう神に嘆願している。ここで言及されているモーセの罪の原因は、過去に「ツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水」のところで起きた事件にある。
では、モーセの人生の最後を決定した事件を、出エジプト記から振り返ってみよう。
出エジプト記 17:1
イスラエル人の全会衆は、ヤーの命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
出エジプト記 17:2
それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜヤーを試みるのですか。」と言った。
出エジプト記 17:3
民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」
出エジプト記 17:4
そこでモーセはヤーに叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」
出エジプト記 17:5
ヤーはモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
出エジプト記 17:6
さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
出エジプト記 17:7
それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「ヤーは私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、ヤーを試みたからである。
・・・
水に関して、民とモーセの間にいざこざがあった事は確かである。しかし、これだけでは本当に罪を犯したかどうかは判らない。モーセは忠実に神の命じた通りに行ったように見える。しかし、もっと詳しい記述が民数記に記されている。
民数記 20:1
イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。
民数記 20:2
ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。
民数記 20:3
民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちがヤーの前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。
民数記 20:4
なぜ、あなたがたはヤーの集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。
民数記 20:5
なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」
民数記 20:6
モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。するとヤーの栄光が彼らに現われた。
民数記 20:7
ヤーはモーセに告げて仰せられた。
民数記 20:8
「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」
民数記 20:9
そこでモーセは、ヤーが彼に命じられたとおりに、ヤーの前から杖を取った。
民数記 20:10
そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
民数記 20:11
モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
・・・
民数記20章10節に注目してみよう。そこでモーセは、民にこう述べている。
「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
モーセは明らかに、「私たちが」・・・水を出す・・・と述べている。彼は、「神の力」によって水を出す事を宣言していなかったのだ。モーセは、自分をののしり憤りをあらわにする民によほど腹を立てていたに違いない。
実際民はモーセを尊敬せず、言い逆らってばかりだった。モーセは自分の威厳を保とうとして、思わず神に栄光を帰する事を忘れてしまったのだろう。しかしそれは非常にうかつな事であった。「高慢の罠」に落ちていたからだ。その結果を神は、すぐにモーセに告げている。
民数記 20:12
しかし、ヤーはモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
民数記 20:13
これがメリバの水、イスラエル人がヤーと争ったことによるもので、ヤーがこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。
・・・
これらが「モーセの罪」の全容に違いない。この時からモーセは、自分が約束の地に入れない事を覚悟していたのだろう。モーセにとっては残念な事だが、かえってこの方が良かったのかもしれない。
というのは、モーセの死後、イスラエル人達はヨシュアを指導者として戦闘の日々に明け暮れるからである。老齢のモーセにとって、そうした過激な日々は耐えられなかったかもしれない。こうして、モーセの後を継いだ若い指導者ヨシュアは、いくつもの危機を乗り越えて民を率いていったのである。
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謎の巻き物黙示録10章解説 (もくじろく10しょうかいせつ)
黙示録には、七つもの封印がされた不思議な巻き物が出てくる。いったい何だろう?
黙示録 5:1
また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。
・・・
この巻き物はいったい何だろうか?それは多分、サタンの行いによる「数々の罪状」が記された記録に違いない。ゼカリヤ書には、「巻き物と呪い」についての記述が見られる。
ゼカリヤ書 5:1
私が再び目を上げて見ると、なんと、巻き物が飛んでいた。
ゼカリヤ書 5:2
彼は私に言った。「何を見ているのか。」私は答えた。「飛んでいる巻き物を見ています。その長さは二十キュビト、その幅は十キュビトです。」
ゼカリヤ書 5:3
すると彼は、私に言った。「これは、全地の面に出て行くのろいだ。盗む者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれ、また、偽って誓う者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれる。」
ゼカリヤ書 5:4
「わたしが、それを出て行かせる。――万軍のヤーの御告げ。――それは、盗人の家にはいり、また、わたしの名を使って偽りの誓いを立てる者の家にはいり、その家の真中にとどまり、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす。」
・・・
このように、巻き物はある者達の罪状と、糾弾や告発が記されているようだ。それは、神の裁きの目安とされる。
そして七つの封印は、相当厳重な封印という意味だろうか?あるいは七回の猶予が関係しているのかもしれない。その封印を解くというからには、「罪を暴く」という意味なのだろう。
しかし、「内側にも外側にも文字が書かれている」というのだから、開かなくても「見え見え」の罪なのかもしれない。もちろん、「書き切れない」ほどの罪状をも連想させる。
黙示録 5:2
また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。
黙示録 5:3
しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。
黙示録 5:4
巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。
黙示録 5:5
すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
・・・
悪辣なサタンの罪を暴く事ができない天の状況は、啓示を受けたヨハネをさぞ悲しませた事だろう。彼は泣いていた。しかし、遂にその巻き物を開く(糾弾する)存在が現れる。
この、ユダ族の獅子とはイエスの事であるが、「勝利を得たので」という言葉通り、イエスは地上に来て、忠実と忍耐と従順の死を遂げた。それで、これが可能になったのだ。それはサタンの「へ理屈」が、間違っている事を行動で証明したからである。
黙示録 5:6
さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる。――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。
黙示録 5:7
小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。
・・・
イエスは屠(ほふ)られる子羊である。つまり、十字架にかかって死を遂げたが、あらゆる意味での犠牲であった。そして、天に復活してから巻き物を開く事になる。
「角(つの)」は、宗教組織同士の戦いの際に使われる武器である。それを7本持っている子羊は、論戦では無敵である。また、7つの目は、「全世界に遣わされた神の七つの御霊」であるので、世界の片隅で起きるどんな小さな不正も謀(たばか)りも見逃さない、「完璧な観察眼」や「洞察力」を意味しているのだろう。
黙示録 5:8
彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。
黙示録 5:9
彼らは、新しい歌を歌って言った。
「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
黙示録 5:10
私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
黙示録 5:11
また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
黙示録 5:12
彼らは大声で言った。
「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
黙示録 5:13
また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。
「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
黙示録 5:14
また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。
・・・
こうした大勢の天の注目の中で、サタンの罪状は次々と暴かれて行く。それは、サタンの支配がいかに多くの弊害を生み出したかを描写している。
黙示録 6:1
また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。
黙示録 6:2
私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。
・・・
この白い馬を、イエスだと思うかもしれない。しかしそうではない。この馬に乗っているのは「サタン」である。彼は、自分の「偽善」によって地上を塗り固めてしまう。「偽善を内包したサタンの宗教が世の中に満ちる」・・・という意味である。白い馬に乗っているのは、神に化けたサタンなのだ。
この描写が「第一番」に来ている事に注目しよう。偽善は、神の最も憎む事柄なのだ。イエスが地上で戦ったのは、政治支配者ではなく、このような偽善を常とする宗教指導者達だった。神の民の中でさえ、憎むべき偽善が横行していた。では、それ以外の民の中ではどうだろう?推(お)して知るべしである。
黙示録 6:3
小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
黙示録 6:4
すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。
・・・
サタンの支配の特徴は、数多くの争いを黙認したり引き起こしたりする所にある。サタンの支配下の地上では、数え切れない戦争によって多くの血が流された。これがサタンの許し難い罪の一つである。神は、その責任をサタンに問う。
黙示録 6:5
小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。
黙示録 6:6
すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」
・・・
サタンの身勝手な支配は、「自分だけ良ければ・・・」という精神を地上に充満させ、数多くの弱者を虐げてきた。「小麦一枡は一デナリ」というのは、法外な値段である。
(以下参照聖句)
マタイ 20:8
こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
マタイ 20:9
そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
(・・・つまり、一日の賃金が一デナリであるから、一日働いても小麦一枡しか手に入らないということになる。この予言が書かれた「老人ヨハネ」の頃には、貨幣価値はもっと下がっていたかもしれない。)
貧困層には食物も当たらない。「オリーブ油とぶどう酒」は、基本的な調味料であり、料理に食事に「最低限必要なもの」であった。
この中で、飢饉の神はこう言っているのだ。「おまえ達、最後の調味料も無くならないように注意しろよ」・・・と。情け容赦の無い言葉である。サタンは、貪欲が引き起こす飢饉で人々を苦しめて楽しんでいたのだ。
(四つの生き物は、計測や記録などを司る「神のコンピュータ」とも考えられるので、「声」は、「記録データ提出」を意味しているのだろうか。)
(もう一つの示唆もある。当時は、「油そそぎの儀式」を行っていた。いわゆる「任命式」である。王になる人物の頭に、油を注いで任命した。・・・油としては、「ナルド」などの高価な香油もあったが、通常は安価なオリーブ油だっただろう。それをさえ損なってしまうと、「任命式」ができなくなる。つまり、「王」という「適材枯渇」までこの聖句が言い表しているのだろうか?・・・だとすれば、その元凶として暗躍しているのはサタンである。)
黙示録 6:7
小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。
黙示録 6:8
私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。
・・・
死や疫病はどうだろう?これもサタンがもたらしたものだ。サタンは疫病で人々が倒れ、困っていても救おうとはしなかった。元々最初の親達に、死の遺伝子を持ち込んだのはサタンである。サタンの罪状は、人類に死をもたらした事にある。寿命も疫病も、健全な遺伝子が正常に働いていれば発生しない。イエスの奇跡による治療はそれを示していた。
また、地上の猛獣も、サタンの環境操作によって現れたものだ。詳しく書けば長くなるが、黙示録にも、「ライオンがわらを食べる時代」が来る事が書かれている。遺伝子の正常化によって、世の中から肉食獣は消え去る。そのような世界(肉食獣のいない世界)が神の元々の計画だった。サタンはそれを「異常化」して「自分の面白い世界」を作ったのだ。それで、現代のような「老化」と「弱肉強食の世界」を作り出したサタンの罪は重い。
黙示録 6:9
小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。
黙示録 6:10
彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実なヤーよ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
黙示録 6:11
すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。
・・・
これは、神が自分の選民であるイスラエルの中に遣わした「多くの預言者達を、殺した罪」である。神は自分の民を、正しく指導し、導こうとしていた。そんな神が遣わした義人達を、ことごとく殺し、神の邪魔をした。こうして神の選民達も、正しい道から何度も足を踏み外した。その結果、彼らの悲劇の滅亡が起きる事になった。これらは、神にとって怒りが収まらない悪事だろう。
サタンは自分に与えられた支配民だけではなく、神の選んだ民にまで支配を広げようとして、数多くの妨害を仕掛けたからだ。これは明らかに、最初の約束から逸脱している。他人の畑に踏み込んで、荒らしまわる行為だからである。
神の選民が立派に生きて、自分の支配民が堕落している場合、はっきりと明暗が分かれ、「サタンの支配の失敗」が暴露されてしまう。それで、サタンは相手の畑を荒らして、自分の失敗をごまかそうとしていたのだ。
黙示録 6:12
私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
・・・
これは、メシア(キリスト)殺害に関する罪である。「太陽」はメシアであるイエスを表している。彼を処刑させる事により、神の選民を軌道修正させる神の試みを砕こうとした。
月は血のように
月は太陽ほど明るくはないが、それでも闇夜に少々の光は与えている。それでこれは、イエスの弟子達を表しているのだろう。彼らは、イエスの死によって、心の中が悲しみと苦しみで満ちた。「月はその前面が血のようになった」のである。
バプテストのヨハネの処刑を当てはめる事もできる。ヨハネは首を切られて死んだが、当時はまだ復活していない。それで、ヨハネの弟子達にはイエスの弟子よりもさらに大きな苦しみが満ちただろう。イエスに復活があり、ヨハネに無かったからである。今はこれらの詳細を、はっきり特定するには至っていない。
星が落ち、イチジクが揺れる
黙示録 6:13
そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。
・・・
落ちた星は、月よりも更に暗い。それはユダヤ教の中の、誰かだろうか?ユダヤ教の中にも少しは、イエスへの理解者はいたはずだ。サタンは、彼らの理解を奪ったのだろうか?
星はサタン
この部分は理解が加わった。以前の理解はこのようだった。
1. イチジクの木を揺らした風は、霊者からの影響。
2. 「イチジクの木」は、「ユダヤ教組織」。
3. 振り落とされた「青くてまだ食べられない実」は、
イエスによって啓発を受け、目覚め始めた
ユダヤ教組織内の一部の人の反省と努力。
4. 振り落とすために吹いていたのは、「サタンからの風」。
・・・
しかし、「天から落ちた星は、サタン」だと理解した。全く逆である。そう理解すると、この記述が太陽であるキリスト・イエスの「従順と勝利の死」の記述の後に来ているのも肯ける。サタンは、この後すぐに「天から落ちる」からである。つまりこれは、「サタンの天での地位失墜」という事件を描写した場面なのだろう。
サタンが、なぜ星として表現されているかというと、それが「夜を支配する存在」だからだ。「キリスト」という「太陽」が沈んだ後、「夜の時代」が来るが、その期間を支配するのがサタンなのである。サタンは夜の期間に活動する。
また、このイチジクの木は、サタンの息のかかった組織(当時のユダヤ教組織)であるので、サタンの地位失墜は、その組織にとっても大きなショックとなった。風はサタンの風ではなく「神からの風」となる。修正後は以下の通り。
1. イチジクの木を揺らした風は、神の風。
2. 「イチジクの木」は、「サタンに影響された
ユダヤ教組織」。
3. 振り落とされた「青くてまだ食べられない実」は、
イエスによって啓発を受け、目覚め始めた
ユダヤ教組織内の一部の人の反省と努力?
4. 木が大風で揺れているという表現は、
サタンの糾弾と地位失墜を意味する
「神の側の風」。
イエスがやってきた時、そこにあった大きなユダヤ教組織は神の意図から逸れていた。それは、サタンが神の振りをして組織を牛耳っていたからである。このような組織を、イエスは憎み、糾弾する事により枯らしてしまう。
(イエスは普通、「ブドウの木」だ)(以下参照聖句)
マタイ 21:17
イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。
マタイ 21:18
翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
マタイ 21:19
道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
マタイ 21:20
弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
マタイ 21:21
イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。
マタイ 21:22
あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
(マルコ11章11節から26節も参照)
・・・
神はユダヤ教組織(イチジク)に、実が付いていない事を知った。実のないイチジクの木は枯れることになる。それは信者達を苦しめるだけである。・・・許すことができない。イエスの行動は、そのような神の気持ちを描いていた。
イエスの出現により、その組織の権威は失墜してしまう。その組織は、イエスを殺す事で大きな罪を犯した。やがて、神の公正によって絶滅する。つまりイチジクの木が枯れた原因は、「イエスの出現と死」であった。イエスは出現し糾弾し、死を遂げる事により、この組織を枯らすのだ。
ユダヤ教組織の中にも、ニコデモのようなイエスの親派がいた。イエスの教えは、その人々に影響を与え始めていた。しかし、彼らはその組織に留まれば、その実は実らない。サタンの支配するユダヤ教は、実を付けないまま、やがてローマによって壊滅する。(斧はその根本に置かれている ルカ 13:6〜13:9)
イエスを処刑したユダヤ教組織は確かに悪かったが、それでも神のイスラエルの末裔である。彼らが絶えてしまうのは、神にとっても忍びない。サタンはその滅亡の根本原因だ。
天の消滅
黙示録 6:14
天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。
黙示録 6:15
地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
黙示録 6:16
山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
黙示録 6:17
御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
・・・
イエスが広げていた「天」つまり、それまでの温和な民衆支配は巻き取られた。しかしその「天」は、いつかはまた広げられる事になる。それで、それは巻き物のように巻き取られたのだ。それは保管されており、消え去ってはいない。
イエスの死によって、全ての体制がサタンの手中に納まった。神の民でさえ最後の牧者を失ったため、さ迷う可能性が強くなった。しかし、弟子達がその後を引き継いで頑張らねばならない。
ここで、6章15節からの「人々の恐れ」は、しばらく後のリアクション(揺り戻し)が関係している。イエスの死の40年ほど後に、エルサレムの町はローマによって包囲され壊滅したが、人々はこの時に、「イエスがメシアであった」事を悟った。それで、ここでの「神への恐れ」は、イエスの死の直後の出来事ではなく、40年も後の描写である。
6章16節で人々が山や岩に向かって、「私達を神の怒りから守ってくれ」と願っているのは、「自分達はメシアを殺害してしまった」という恐れを抱き、彼らの中の宗教指導者達に、神の怒りを和らげるように願っている姿である。「山」は宗教組織であり、「岩」はその中の牧者達(・・・彼らが教えた『神』・・・つまり偽物の神)である。
ローマに包囲された後、実際の滅びに至るまでのエルサレムの中では、こうした光景が繰り返されていたのだろう。
サタンのメシア殺害により、天での怒りは頂点に達した。これらの記述はその時の神の怒りが、「四方の風」で表現されている。
黙示録 7:1
この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。
・・・
これは、卑劣なサタンのやり方を目撃していた天の全軍と、神の憤りの描写である。天の全軍(霊者達)は、今にもサタンの組織を壊滅させるため襲い掛かろうとしていたが、神の計画がそれを押しとどめた。サタンの残り時間が、まだ尽きていなかったからである。
人々が自分達の滅亡に直面し、偽の神に祈る時期から、実際に風が吹く時までどれくらいの期間があるかは不明である。「民衆が十分に状況を理解するまで」と考えれば、おそらく一年ほどあったのかもしれない。
「現代の成就」で考えれば、次のような場面が浮かんでくる。
1. 現代のユダヤ教イスラエルが、メシアがすでに来ていたことを悟る。
一つの事件がきっかけとなって、認識の修正が起きる。
2. この頃、イスラエルとアメリカは敵対するようになっている。
ユダヤ人が、アメリカを操縦していた。・・・このような「ユダヤ人の陰謀」がすっかり表に出ているため、アメリカはイスラエル嫌いになっている。「彼らのおかげで、9.11の惨事が生じた」という分析さえ飛び出すようになる。
この頃、「もう一つのイスラエル」が世界に登場する。アメリカは「『偽物』を応援していた」という恥と怒りからイスラエルへの援助を停止し、数々の要求を突き付ける。
しかし、鷹派の首相がイスラエルを率いているため、イスラエルは折れてこない。アメリカはイスラエルを攻撃する。黙示録は現実となる。
イエスは彼らユダヤの都市にいる人々が、滅んでしまわないための警告を発している。
「そこから出なさい!」
というものである。
これから先、どのような選択がなされ、どのような結果が生じるかは未知数である。しかし、このイエスの警告だけは変わることがない。人々は風を読み、身軽でいる必用があるだろう。
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二つの流れ黙示録11章解説 (もくじろく11しょうかいせつ)
キリスト教は、世界中に知られている。しかし、その起源はユダヤ教である。それはキリストイエスが、ユダヤ教の民から輩出したからだ。そしてイエスは、古来からの教えを「破棄するのではなく、成就するために来た」と述べている。
それでキリストは、二つの宗教の世界にまたがって立っていることになる。どちらの宗教にとっても、キリストの神(ヤー)は共通であるからだ。ただ、ユダヤ教はイエスをメシア(キリスト)と認めず、別に現れるメシアを今も待っている。
では、そのキリストの立場を踏まえた上で、以下の聖句に目を通してみよう。
黙示録 10:1
また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。
黙示録 10:2
その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、黙示録 10:3
ししがほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。
黙示録 10:4
七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。
黙示録 10:5
それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、
黙示録 10:6
永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。
黙示録 10:7
第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」
黙示録 10:8
それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」
黙示録 10:9
それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
黙示録 10:10
そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。
黙示録 10:11
そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」
・・・
10章1節の記述から、ここに出現した「強い御使い」は、「キリスト・イエス」であることが疑えない。なぜなら、その顔は「太陽のようである」とされているからだ。「太陽」はイエスに当てはまる象徴表現である。
また、続く10章2節では、「右足は海の上に、左足は地の上に置き」と記されているが、ここでの「海」は「諸国民」を表し、「地」は、「イスラエル人」を表している。
キリスト教が、地上の大半の民族に広がっており、古来からのユダヤ教は現代イスラエルなどユダヤ教を信じる国に擁護されている。キリストは、この両方を管理する権利を有しているのだ。そして、この日本の国もまた「地」に属するユダヤ教国なのである。
それはつまり、日本は「キリストの支配下にある」という意味である。その事実については、やがて明らかになるだろう。日本の古代人は、キリストを知っていたはずなのだ。(日本の旗印が日の丸であるというのは、驚くべき偶然である。それは『イエスの旗印』だからだ。)
何を告げようとしているのだろう?
では、ここに出現した御使いは何を告げに来たのだろうか?その声は、ししがほえる声のように大声であった。これは、多分「糾弾」を意味している。イエスはユダ族の獅子(ライオン)と呼ばれているが、地上に出現した時行ったのは、「宗教指導者への糾弾」であった。それを聞いて、当時のイスラエルの宗教指導者達は震え上がった。
彼の頭上には虹がある。その意味は、それを「記憶している」ということだ。彼が古い時代から「人類を見守ってきた」ことを教えている。
なぜなら、「虹」という表現は、「ノアの大洪水の象徴」であり、「再出発した人類」の象徴でもあるからだ。虹は地球が受けたバプテスマを意味している。それはまた、「サタンの支配がすでに一度失敗した」という意味でもある。
「火の柱」のような足は、「神の導きの足跡」だろう。古代イスラエル民族は、エジプト脱出を果たした時、神の設けた「火の柱」によって、導かれて行ったからである。
出エジプト記 13:21
ヤーは、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
出エジプト記 13:22
昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。
ネヘミヤ記 9:19
あなたは、大きなあわれみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。昼間は雲の柱が彼らから離れないで、道中、彼らを導き、夜には火の柱が彼らの行くべき道を照らしました。
・・・
それで、「この御使いの足跡は、イスラエルの民の行くべき道を照らした」という意味であり、その記述はやはりイエスにあてはまる。
雷の意味
「雷」は、「神の声」を意味しているのだが、それがどうして封印されるかが不思議である。その時点で封印を必要としていたのは、宗教に関する秘密が七つあり、それは現代まで伏せられてこそ意味を持つからだろうか。
「神の声」は、「証明に属するもの」が多いので、これも「神からの七つの証明」であり、それは伏せられなければならなかったのだ。なぜなら、一世紀当時のイエスは、自分がキリストであることをわざと伏せるように弟子達に指示しており、「伏せること」に意味があったようだからである。
当時の宗教指導者達は、イエスがメシア(キリスト)であることへの証を要求していたが、イエスはそれを突っぱねた。なぜなら、証は心の純粋さを通して受け取るべきもので、決して誰にでも与えられるものではないからだ。それが、「神の選び」に関係しているからである。
それで、雷の声の一つ目は、イエスが本当に唯一無二のキリストであったことを述べていたに違いない。二つ目は、多分その直弟子の「ペテロに関する証明」だろう。「イエスの跡継ぎは、ペテロ以外にはいない」つまり、「彼だけを是認した」声だったのだろう。
三番目は、さらにその弟子達に関する是認であり、五人が名指しされていると思われるが、今はわからない。
開かれた小さな巻き物とは
では、10章2節にある「開かれた小さな巻き物」とは何だろうか?それはどうも、封印が無いようである。それで多分、現代に流布しているキリスト教の「公式教義」かもしれない。そして、それは「口に甘く、腹に苦い」というのだから、相当な「偽善」が含まれているのだろう。
つまり、公に流布しているキリスト教には、数々の偽善が含まれることを示唆しているのだ。確かに、キリスト教は過去数多くの偽善を行ってきた。異端審問や魔女狩りがそのいい例である。これらも全て、神の知るところとなっている。それは、教えの中に偽善が紛れ込んだ結果なのだ。
:黙示録11章に続く
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吟味の始まり黙示録12章解説 (もくじろく12しょうかいせつ)
「太陽の御使い」・・・つまり王としてのイエスが再臨した後、地上の糾弾が始まる。
ノミは象を知ることができない。
つまり、大き過ぎてもその存在がわからない場合がある。イエス到来の様は、それに似ているかもしれない。
この再臨が始まると、地上に異変が起きる。世界各地で、隠された罪や不正が飛び出してくる。イエスは「開かれた小さな巻物」・・・つまり、封印されていない「宗教の罪状」(偽善)が書かれた巻物を持っている。それに沿って、信仰に関する不正は暴かれて行くようである。
寸法を測ろうとする意図は?
次の記述も謎めいている。
黙示録 11:1
それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。
黙示録 11:2
聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。
・・・
杖のような測りざおで聖所や祭壇、礼拝者を測れという命令が出る。これはどういう意味だろうか?
「大きさや人数を調べる」という意味ではないようである。
聖書での「測る」という行為には、「吟味」という意味があるようだ。それは、「不足がないか?」という調査に相当する。「不正」や「間違い」、「偽り」や「増長」があればこれが報告される。
この測りざおが「杖のような形状」である意味は、それが「信者に対する世話」に関しての評価だからだろう。彼らが信者を、どのように扱ってきたかが吟味されているのだ。「杖」は牧羊の手だてであるゆえに、「宗教指導者の資質が問われる」という意味だろう。
サタンの不正の暴露は終わっているので、次は「人間の側の調査」となっている。ただ、順番としては最初に神の選民から始められる。人間は小物を最初に裁き、大元のボスは最後に残す。しかし神の裁きは逆で、中心から外に向かう。
「聖所」と「祭壇」、「そこで礼拝している人」などは、宗教組織の中枢部だ。イスラエルなら、「大祭司の崇拝場所」であり、カトリックなら「法王の祭壇」に神が踏み込んで行く。
しかし、「異邦人に与えられた外庭を測らない」という表現がある。「異邦人への吟味は後回しにする」という意味だろう。その間、「聖なる都」が異邦人に踏みにじられるというのだ。ではそれは、「イスラエルに他の民族が住み着く」という意味だろうか?いずれにしても、カトリックやプロテスタントはここでは関係しない。
この場合一番の関係者は、「古来よりのユダヤ教国」である「日本」かもしれない。日本に流れ込んだ天孫族は、「真正イスラエル」(系図上のイスラエル)だからだ。すると、「そこで礼拝している者」は「天皇」に該当する。
「神の調査」が、天皇家に入るというのだろうか?
裁きの意味
神は不完全な形のままで栄光を与えることはない。やって来る栄光の前には、まず裁きが来る。しかし、日本の天皇がどうして裁かれなければならないのだろうか?
それは多分、以下のような理由であるかもしれない。
1. 仏教伝来を許した
蘇我氏と物部氏の戦いを眺めつつ、天皇自身が体を張って神道の純粋を守らなかった。これは、モーセの態度とはかなり離れている。モーセは、イスラエルの子牛崇拝(偶像崇拝)を知って激怒した。(神から授かった十戒の石盤を打ち割るほどだった)
当時の天皇家は、むしろ仏教を奨励して清い崇拝を汚してしまった。国内に偶像を放置して、神がこの国を守り切るはずがない。つまりある意味で、太平洋戦争における日本惨敗の責任は、「国内を清く保て」という神の要求に気付かなかった歴代の天皇にもある。
2. 弱者の放置と腐敗の容認
日本の神は、弱い者に目を向ける「哀れみの神」である。政治に関しては、弱者に目を向けた政策を第一にしなければならない。しかし、天皇家は政治面に疎く、一時期を除いて日本の弱者への配慮は失われていた。
これについては、イスラエル歴代の王達にも不足があった。個々の王は、それぞれの責任で裁かれている。理想はダビデのような、哀れみに満ちた執政である。ダビデ以後は、キリストの手本がある。日本にそのような天皇が何人いたのだろうか?
3. 政権放置の責任
神の喜びは、祭事などの充足にあるのではない。つまり、政策による実際の民の幸福こそ、ヤオヨロズの喜びとなる。大祭司である天皇は、その意味では道徳や政治を正しい道に引き戻す責任を担っている。「国家元首」という立場は無くとも、大臣や司法関係者の暴走を叱責するくらいの意気込みが必用とされている。この点もきっと、神の吟味が結論を出すだろう。
これらの矯正が終わってから、日本は世界の檜舞台への道が開かれるはずである。
(もし仮に、こうした神の吟味が今現在の日本で起こっているなら、異邦人への裁きはあと三年半後ということになる。)
「中東イスラエル」への吟味とは?
中東にはすでにイスラエルという国がある。しかし神の目は、彼らを「セムの系図」の中に見い出していないだろう。なぜならそれが、「アシュケナジー・ユダヤ」であるためだ。(それはヤペテの子孫)
彼らはしばらくは裁きに無縁かもしれない。神から「異邦人」と見なされ、吟味が後回しされる可能性が大きいからだ。その場合、彼らには42ヶ月の猶予が与えられる。それは、年月に換算すると、
42 ÷ 12=3.5
つまり、三年半となる。
異邦人への裁きは、「本家イスラエル」が裁きを受けてから多分三年半後である。
また、その間「聖なる都が踏みにじられる」(異邦人の時)という場合、それはただの三年半ではないだろう。おそらく「別の意味」は、一年を一日として抽出されるのかもしれない。
42 x 30=1260(一ヶ月を30日として)
歴史上の「猶予は約1260年間」である。
それは何を意味し、いつからいつまでのことだろうか?
それは、「異邦人」が「キリストの弟子の座」を占める「異邦人の時」であるに違いない。キリスト教が世界で膨張し、拡大しきる温室のような日々を意味しているのだろうか?
また、「聖なる都」が別人種によって「わがものとされる日々」もだろうか?
起点を現在に仮定して単純に計算すると、
2003 − 1260=743
となるのだが、これでは意味が解らない。その当時、ユダヤ地方に何かが生じただろうか?聖地エルサレムにはイスラムのモスクが建っている。この意味は?そして、そこ(イスラエル国)がアシュケナジー・ユダヤによって建国されたという歴史上の意味は?(今はまだ調査中)
二本のオリーブとは?
黙示録 11:3
それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
黙示録 11:4
彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
・・・
この聖句にある、二本のオリーブの木とは何だろうか?
彼らは「二つの燭台」とも書かれているので、「神ヤーの預言者」であるに違いない。
なぜなら、「燭台」の意味は、「神からの光をともして民を導く」というものだからだ。彼らには、神からの音信を民に伝え、正しい方向に誘(いざな)うという責務がある。
ではなぜ「オリーブ」なのだろうか?
イスラエルでのそれは、「油を産出する樹木」であった。また古来から、「王に任命される人の頭に油を注ぐ」という習慣があり、その油はオリーブの木が提供したはずなのである。つまり彼らには、「導きを与え」、「王を任ずる」責務と権威がある・・・ということだろう。
古代の預言者達も、神からの命によってイスラエルの王を任ずることがあった。もちろん、それ以外にも意味があるかもしれない。
黙示録 11:5
彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
黙示録 11:6
この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。
・・・
これはどういった意味だろうか?
それはモーセが、神から受けた権威に似ている。
聖句を少しずつ解明してみよう。
○ 火が口から出て、敵を滅ぼす
これは、反論できない強力な論証が彼らに備わっており、うかうか反証できないという意味だろうか。口から出る火は、論戦における「打倒力」を意味するようである。「火」は、糾弾の象徴なので、彼らは数多くの糾弾を行うのだろう。
殺されるという意味は、襲いかかった敵は、まったく無気力にされて活動できなくなるという意味かもしれない。
○ 予言をしている期間は、天を閉じて雨を禁じる
これは、イエスの力に似ている。天候を左右できる力は、神からのものだ。ここでの「雨」は、天から降り注ぐ「啓発」だろうから、彼らが雨を禁じてしまうと、啓発の経路が彼ら以外には無くなってしまう。つまり彼らは、神と通じるたった二つの経路となっているのだ。
○ 水を血に変える
これは、モーセの行った神の奇跡の一つだ。その意味は、宗教界への強い影響だろう。水は各宗教が持っている教えや教理などだが、それを血に変えてしまうとは・・・つまり、宗教組織が信者へ提供している「教理」や「教え」などが、「血」・・・つまり「苦しみそのもの」へと変えられてしまうのだろう。どうやってそうなるのだろうか?
それは多分、「偽善の暴露」によってだろう。
○ 思うままに、何度でも災厄で地を打つ
これは、「地」・・・つまり、「真正イスラエル」の民を「支配する力」を意味しているようだ。彼らの方針や導きに逆らう者に関しては、ヤーからの災厄が下る。こうして、「地」であるイスラエルは、「二本のオリーブの木」に従えられて行く。
彼らがいつ出現し、どこでどう活躍するかを知りたいものだ。
:以下制作中
黙示録 11:7
そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
黙示録 11:8
彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
黙示録 11:9
もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。
黙示録 11:10
また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。
黙示録 11:11
しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
黙示録 11:12
そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
黙示録 11:13
そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。
黙示録 11:14
第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。
黙示録 11:15
第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。
「この世の国は私たちのヤーエおよびそのキリストのものとなった。ヤーエは永遠に支配される。」
黙示録 11:16
それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、
黙示録 11:17
言った。
「万物の支配者、常にいまし、昔います神であるヤーエ。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
黙示録 11:18
諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」
黙示録 11:19
それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。
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天の救助組織とサタン黙示録13章解説 (もくじろく13しょうかいせつ)
サタンの人質となっている人類を救うため、天では一つの組織が発足した。それは、キリストイエスを地上に送り出してサタンに対抗する組織である。
黙示録 12:1
また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。
・・・
一つの宗教国家は、女性として象徴される。それは、聖書の中の記述方法だ。この「女」が着ている「太陽」は、光を与えるキリストを象徴している。それでこれが人類に「光り」(真理)をもたらす大きな組織である事が理解できる。
月は、キリスト以前の預言者達であり今までに出現して、神の民に啓発を与えてきた存在だろうか。それを足の下に踏んでいるのは、その組織の出現が「預言者達を終わらせた」という意味にも取れる。事実イエスは、「私は律法と預言者を終わらせる(成就する)」という意味の話しをしている。
あるいは、地上の神の組織であるイスラエルの指導者達を、その間違った教え故に、踏みつけて沈黙させるという意味かもしれない。
では、頭の「十二の星の冠」は何を意味しているのだろう?それは、その組織が12の座に就いて裁く12人の長老からなるものであり、イスラエルの12部族への支配権を持っているという意味だろうか。
当然ながらこの女は、イエスを生んだ「母マリア」をも予表している。
黙示録 12:2
この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
・・・
この記述は、その組織がキリストを送り出すという手はずにおいて、それが並大抵の苦労ではなかった事を述べているのだろう。
黙示録 12:3
また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。
・・・
竜(龍)は、サタンの組織を示している。それは頭に特徴がある。頭は一つ一つが別々の考えを持つ。それで、頭が七つあるという事は、七つの主義がその組織を率いており、意思決定がまとまりにくい組織である事を暗示しているのだろうか。また十本の角は、その組織が使う宗教が、十種類あるという事かもしれない。それによって神の組織と戦い、人類を支配するためである。
黙示録 12:4
その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
・・・
天には、数多くの霊者が存在したが、サタンが影響を与え、彼の意志に同意した霊者達が、サタンに追随して行動するようになる。三分の一の軍勢が、サタンの主張に賛同して地上に降り立ち、人類を支配する楽しみを求めたようだ。古代に、「神々が地上に降りて支配した」という数々の伝説は、この記述が確証している。
「女」である天の組織が発足した時、そこから送り出されるたった一人のキリストを、奪い去ろうと画策した。自分達の支配を邪魔させないためである。
黙示録 12:5
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
・・・
鉄の杖は、木の杖のように折れたりしない。彼は、決して失墜しない権力を持って、アダムの全子孫を導き、支配できる権利を得る立場である。しかし、「そのはず」という形で書かれているのは、試みがあり、それを克服すればという条件がある事を教えている。
生まれた子供が、すぐに神のみ座に引き上げられたという記述は、危害から守られるように保護の手がガードしている事のようである。
実際に、イエスが生まれる時、当時の支配者だったヘロデ王は、予防線を張って、「生まれた男の子を全て殺せ」と命じている。このヘロデは、当然サタンの操縦を受けていた。しかし、神の保護はマリアをエジプトに逃れさせて、母と子を保護した。
黙示録 12:6
女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。
ここから先は、キリストが誕生して成人し、サタンの試みを打ち破って勝利した後の描写だろう。天の組織が送り出したキリストが、「最後のアダム」として人類を引き継ぐ権利を得たので、ここで清算がなされる事になった。
・・・
黙示録 12:7
さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、
黙示録 12:8
勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
黙示録 12:9
こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
2対1の戦いであったため、天の軍は圧勝した。サタンの軍は、天から放逐され全ての影響力は無くなった。彼らが実際の神からの命令や世話の中に影響を混入する事はもはやできない。彼らは、地上の人間に直接神の振りをして近付き、操縦するやり方に切り替える。
黙示録 12:10
そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
黙示録 12:11
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
・・・
子羊の血は、イエスの流した血である。サタンはキリストを殺して勝利したように見えたが、実は敗北を意味していた。しかしこの時、二つの道がありキリストが死なないでイスラエルが改心する筋書きもあったようである。神は公正に自分の民イスラエルの前に二つの道を提示し、彼らが滅亡の道を進まないで助かるようにも配慮していた。
しかし、どちらの道もサタンの敗北という結果には変りなかった。もし、イスラエルがヨナの時代のニネベのように悔改めていたら、神は別の驚くべき筋書きで人類を解放しただろう。サタンの偽善的支配は、天での摩擦も多く、周囲に悪臭を振り撒いていた。神の属性は公正と哀れみなので、いずれにしてもサタンのようなやり方は長続きしなかったはずである。
サタンの特徴は、「規則重視」、「哀れみ軽視」という人間社会の支配者のやりかたの中によく出ている。これは天でも悩みの種だったようで、サタンが消えた天での喜びの大きさがよく理解できる。
イエスの苦痛や、天の組織、地上の弟子達など多くの「兄弟達」の辛抱によって、やっとこれが実現したのだ。人類も解放される事になった。とはいえ、実際の開放は、まだまだ先である。それは、サタンの支配の先行きがはっきりするまで待たねばならない。人類社会にとっての問題は、これからである。
土は人間(?)
創世記の中で、神はアダムにこう述べている。
「あなたは土だから土に返る」
それは、アダムが土から取られた(土の成分を使って創造された)からである。イブは、アダムから取られたため、アダムが実質、全ての人類の父祖である。以後、人類社会は、「地」という言葉で表現されているはずだ。
土=地=人類社会
このように、人類を神が見る時、「地」として表現する事は想像できる。では、12節の「地」という言葉に、「人類社会」という意味を当てはめて考えてみよう。
黙示録 12:12
それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」
・・・
「地」と「海」は両方とも人類に関係しているが、「地」は人類社会、「海」は民衆を示しているようである。サタンが落ちてから、地上では戦争や災厄の嵐が吹き荒れる。それは、サタンの八つ当たりである。彼らは、鬱憤晴らしに、人類社会を引っ掻き回す。
さらに地上に残された、イエスの組織を錯乱させようと様々な手を使う。中でも、イエスの残した純粋な教えを狙っている。
注:この「地と海」の記述に関しては、後程深い意味が判明した。「地」は神の選民であり、「海」はサタンの支配民である。アダムは最初、神の世話を受ける人として誕生したので「地の人」という表現がされている。また、上記のごとく「土の成分を使って創造されたから」とも考えられている。あるいは、天の霊者達の霊の体に対応して、物質世界の体であったためこう記述されているのかもしれない。・・・しかし、アダムとイブはサタンの策略に陥り、その後サタンの組織の世話する民(海の民)に変化してしまう。それでも神は、エノクやノアといった自分の選民(地の民)をわずかに持つことになった。(海の面積と陸の面積を比較すると興味深い。それは、サタンの民と神の民の勢力差を表しているはずである)
黙示録 12:13
自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。
黙示録 12:14
しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。
・・・
17節の記述から、ここでの「女」がイエスの残した弟子達の組織である事が理解できる。イエスの母マリアにも他の子供達がいたが、彼らも少なからず難儀に遭っている。二重の成就があるため、話しは複雑である。女が「鷲の翼」を与えられて、怒り狂うサタンを逃れるが、これは以前の「マリアのエジプト脱出」とどう違うのだろう?
これは、イエスの死後の老齢のマリアとその家族に関連する予言かもしれない。彼女達は、何らかの手立てでサタンからの保護を受けているはずである。また、天の組織に関連して、イエスの弟子達にも攻撃と保護の手が伸ばされた。
今の所、詳しくは解説できない。
「水」は偽物の教え
さて、その「組織の後ろ」に、龍が吐き出す「水」とは何だろう?それは、同じ源から流れ出ていると見せかけた「混ぜものだらけの教理」だろう。
黙示録 12:15
ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。
黙示録 12:16
しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。
・・・
つまり、弟子達の中に、サタンの配下を忍び込ませ、彼の口を通して純粋な教えに付け足し、水増しして背教させてしまおうとしているのだ。しかし、「地」が口を開いてその水を飲み込んだ。これは、どういった意味なのだろうか?
それは、「人類」がそれを吸収してしまったという事のようだ。その龍の教えは、全人類に広がっていった。女の後ろに吐き出された水を、「女が源」であると勘違いした人類は、その水、つまりキリストの教えに見える「サタンの教え」を受け入れてしまった。
この記述は、「サタン」の吐き出した偽りの教えが、「イエスの教え」として「全世界に広く定着している」事を示唆している。さらに、この聖句は、この後に出てくる、「神の怒りの酒ぶね」の描写と関連する。しかしいずれにしても、これ以後のマリアの子供達や、イエスの弟子達の行く末には困難が待ちうけているようである。この後の記述はその戦慄を十分感じさせる。
:注 このサタンの虚偽の教えは、イスラエルの民に浸透したとも考えられる。それは、地がイスラエルの民(選民)を表す用語だと判明したからだ。(実際、古代イスラエルの宗教指導者達は、その民衆を「地の民」と呼んでいた)
この表現は、神の民の背教を予言しており、現在地上に残存する彼らも、すっかりサタンからの偽りの教えを受け入れた状態になっているはずだ。しかしそれでも、「女」(組織の中枢)そのものは崩壊しなかった。これはサタンにとって、嬉しくない状況だ。
:余談 現代日本を、この聖句に当てはめることができる。日ユ同祖論では、日本の天皇家はイスラエルの王家の末裔とされている。つまり、黙示録 12:14で、女が鷲の翼で飛んでいった「荒野」は極東の地・・・「日本」だということになる。
では、「そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われる」というのはどういった意味だろう?日本が鎖国状態を解くまで「海外と接触しなかった期間」を指しているのだろうか?(まだ理解できていない)
竜の「水」は仏教か?
そして、その日本に「仏教伝来」があった。これは、女を追いかけてきたサタンの策略だろうか?純粋だった神道は、「天皇自らそれを奨励した」という不可思議な経緯で日本に定着した。これは、女(天皇家)の背後からやってきた敵の流す水(仏教)が、天皇の口を通して流れ、日本の民衆に広く受け入れられ浸透してしまったかのようである。
しかし、天皇家そのものは、その水で流されることはなかった。神道の中心である天皇家はしっかりと神道の政(まつりごと)を行いながら、今日(こんにち)に到っている。民衆も何事も無かったかのように、神社に参拝しながら、しかも仏壇をも奉っている。これは、仏教で女の掃討を図った竜にとっては、不本意なことだったはずである。この理解なら、竜が憤った状況も肯ける。
黙示録 12:17
すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。
黙示録 12:18
そして、彼は海ベの砂の上に立った。
・・・
黙示録13章に続く
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→鷲の翼と日本
竜は全世界へ黙示録とニネベの滅亡 (もくじろくとにねべのめつぼう)
黙示録 12:17
すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。
黙示録 12:18
そして、彼は海ベの砂の上に立った。
・・・
上記聖句は、話しの流れをつなぐ上で掲載した。以前の解説で、竜が海の主(ぬし)であるとは触れなかったが、彼(サタン)は海の中に権力の座を据えている。最近の理解では、「海」は「諸国民」を表すことが明らかになっているので、上記の聖句は荒野に逃げて養われている神の組織への直接攻撃を諦め、自分の領土である「海の支配」への工夫により、「女」に対抗しようと考え直したサタンの方針転換を意味しているようである。
そしてその目標は、「イエスのあかしを保っている者たち」つまり、真理を正しく理解している者達である。狙いは、その正しい理解を曲げることにある。つまり巧妙な背教だ。
サタンが海と陸をつなぐ境目である「海辺の砂」の上に立ったのは、そうした計画の出発点であった。最初にまず、地の民から海の民への教理の移植のため、橋渡しをする人物を特定しなければならない。そして彼こそが、「砂」に相当する。この人物については別の考察「ペテロとパウロ」に解説されている。
一方、この時期に、女の領域である「地」にはサタンの水が浸透し、純粋さを失っていた。サタンは、そちらは放置してもよいと考えたのだろう。黙示録12章の注にあるように、その女を日本に当てはめるとぴったりくるのだ。(中東イスラエルの国自体も女性に例えられる事があるが、こちらの女は「荒野」に逃げていないためその限りではない)
ここで竜が水を吐き出した時期は、日本に仏教が押し寄せた時期に合致するかもしれない。それゆえこの「水」は、神道の純粋さを保っていた日本に、どっと流れ込んだ「仏教」だろう。黙示録のこの部分を理解する上で、「日本」というキーワードは避けて通れない。
ここからが13章である。解説は別の考察と重複したり違っていたりする事もある。
黙示録 13:1
また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。
・・・
これは、竜が地の民から海の民へと教理を移植した(キリストの教えを伝えた)結果である。それゆえ海の中からキリスト教に根差した獣(国家?)が輩出してくるのだ。それはおそらく七つの源(種族)があり、十の勢力に育っている。そしてその全ては他の国家を圧倒する征服者である。十の冠がそれを物語っている。
海に関係した獣は、サタンの支配する民(諸国民)から勃興する強国であるという説から入れば、それは「ギリシャ以後の世界強国」をまとめた表現かもしれない。それ以前に聖書に登場する民は、エジプトやアッシリアやバビロニアなど東洋人の強国である。しかし、サタンの顔は主に西洋人に向かっているので、ギリシャ以後となる。
イスラエルを中心に考えれば、エジプトもアッシリアもバビロンも地続きの地域である。一方、西の海から船でやってくるのは地中海を船で行き来した西洋人に違いない。彼らはイスラエルからすれば「海の民」に見えたはずである。事実パウロも、ローマへの宣教旅行にはほとんど船を使っている。当時は陸を伝って行くよりも、この方がずっと便利だったからだ。
この「白人達」はサタンの支配の要であり、サタンはヤペテの子孫(白人種)を気に入っていたようだ。中でも、白人系アーリア人種の国は、歴史の中でいつも強い帝国として登場している。それで「海から来た獣」に当てはまるのは、「ギリシャ以後の白人主体の世界強国」だろう。ざっと考えればそれは、
ギリシャ・ローマ・スペイン・イギリス・オランダ・フランス・イタリア・ドイツ・ロシア・アメリカ
となる。・・・それは、世界に進出し、植民地を建設し、貿易を行い、あらゆる利権を握り各時代に主導権を握って強い影響力を与えてきた国々である。その中には、豹や獅子や熊のような象徴を頂く国も存在している。これらの国々は、ギリシャ以外がキリスト教国であり、それは七つの会衆のどれかに属している。同じキリスト教でも、宗派が違っているのだ。
では、獣は「西洋の強国」なのだろうか?その答えは既に、黙示録 13章18節に記されている。そこには、「思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」・・・と書かれている。
獣の数字が人間を指している・・・つまり、獣が人間の誰かを意味している。つまりそれは、国家の顔とも言える個性の強い独裁者であり、彼に率いられた帝国も含んでいるのだろう。ユダヤのゲマトリアという姓名判断にその数字を当てはめるなら、人物は特定できそうだ。(アドルフ・ヒトラーなどは既知である)ただそれは一人ではなく、歴代の独裁者達(そして独裁政権)なのだろう。なぜなら、その獣は、豹の特徴や、熊や獅子の特徴を併せ持っているからである。
つまり、獣が生きている期間(象徴的な四十二ヵ月)に、次々と西洋独裁政権(海からの獣)が歴史に登場し、その後ろ盾に竜が関与しているという意味になる。
複数の獣ではなく、一頭の獣に複数の頭がある場合、「何度も出現するが基盤は同じ」という考え方ができる。これはすべて「女」への対抗措置であり、「女」を誘い出し巻き込むための「罠」になっているはずだ。
では「頭に神を汚す名がある」という部分は、いったいどういう意味なのか?
神を汚す「主」
普通に考えれば、神の代名詞である「主」を使うことには、何の問題も無いように感じる。しかし、この代名詞の「主」と同じ名前の神が存在するのだ。その場合、意味は違ってくる。
カルタゴという北アフリカの強国の主神は「バール」という神であり、その神は生け贄を要求する神であった。事実カルタゴでは、数多くの幼児や嬰児が生け贄に捧げられていた。その痕跡は、今日でも発掘されている。この国は、周辺諸国からは忌み嫌われていたようである。ヘブライ語での発音「バール」は「主」を意味する。これが歴史的トリックなのだ。(言葉の杜 「主人のように威張るな」、「主」という名前の研究 参照)
このバールへの信仰の起源は古く、その悪習は古代イスラエルにもはびこっていた。人身御供(ひとみごくう)は聖書の神の最も嫌う事柄である。神はそうした生け贄を決して望んでいない。イスラエルの神「ヤー」は「バール(主)」という名前を非常に嫌っていた。
しかしイスラエルにおいてでさえ、神「ヤー」を代名詞である「主」(ヘブライ語でバール)に置き換えて呼んでいる間に、いつのまにか「バール」(バール神)=「ヤー」という錯覚が蔓延していたようなのである。それは異教の神(バール)を自分達の神(ヤー)に置き換える行為に等しい。イエスが去った後、七つの会衆が熟成する頃には、この勘違いの習慣(神を代名詞で呼ぶ)が定着してしまっていたようだ。
つまり、七つの頭(七つの会衆から発展した勢力)の中にある「神を汚す名」とは、「主」という名前なのだと考えられる。
神を「ヤー」と呼ばずに、「主」と置き換える習慣はイエスの周囲には無かった。(イエスの信者達は行っていないはず。しかし、パリサイ派などは疑わしい。)目上の人や主人を「主」と呼ぶのはかまわないが、神(ヤー)を「主」と呼ぶのは問題だ。それは、敬謙な行為に見えるが、実は巧妙なバール崇拝への「すり替え」だからである。そしてそれは、現代のほとんどのキリスト教の中に定着している。ここでの獣はこうした宗教の中で育ち、そうした宗教に精神基盤を置いているため、こう書かれているのかもしれない。
黙示録 13:2
私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。
・・・
歴代の独裁政権の中には、確かに豹のような政権や熊や獅子のような政権もあった。その詳細はさて置いて、次の聖句はどの勢力を指しているのだろうか?
黙示録 13:3
その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、
黙示録 13:4
そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。
・・・
ここで、「全地」という表現を掘り下げてみる。それは「全世界」の人々なのだろうか?しかし、それならなぜ黙示録 13章7節に、「あらゆる部族、民族、国語、国民・・・」とわざわざ記されているのだろうか?それゆえこれは、「海」に対する「全地」なのだと推測できる。それは、イスラエルの子孫達だろう。
中でも、軍国路線を直走っていた当時の日本は、第一次大戦の時にはドイツを敵としていたが、ナチス政権になってからの奇跡の復興とあまりの強さに驚き、諸事情も絡んで逆に手を結んでしまった。昨日の敵が今日の同盟者となった。ついに「女」は竜に誘い出され巻き込まれてしまった。罠にかかった日本は、根底から国家体制を覆される道を進み始めた。
ナチスは宗派
ナチスには、「党」という名前が付けられているが、それは一つの「教団」のような存在である。その活動は鍵十字に象徴される「変形キリスト教」に他ならない。彼らが押し進めたユダヤ人蔑視の政策も、新約聖書の中の「キリストを処刑したユダヤ人」を憎む気持ちの延長である。
ただヒトラーは、日本がイスラエルの末裔だと知っていただろうか?背後の竜は、間違いなくそれを知っていた。暴走する宗教国家・・・これが、サタンの練り上げた手段だった。竜は巻き込みに成功した「女」を、どうやって倒すかを考え続けていた。
黙示録 13:5
この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。
黙示録 13:6
そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。
・・・
先に述べたように、13章3節の、打ち殺されて死んだように見えた頭の一つは、第一次大戦の痛手から信じられない復興を遂げた、ナチス・ドイツにはっきり当てはまる。ただ、その総統であるヒトラーもまた、投獄され政治生命を絶たれた時期があった。にもかかわらず、奇跡のように返り咲いている。打ち殺されたように見えた獣の頭の描写は、彼にも当てはまっているのである。
そのカリスマを飾っていた過激な演説には、「ユダヤに対するけがしごと」が確かに含まれていた。神の名前をののしったかどうかは定かではないが、ユダヤ人を十二分にののしった。ナチスドイツの闊歩する町中で、またユダヤ人の強制収容所で、数多くの冒涜的な言葉が聞かれたに違いない。
黙示録 13:7
彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
黙示録 13:8
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
・・・
ナチスは確かに強かった。兵士の志気も高く、圧倒的な装備と訓練で他の国が歯の立つ相手ではなかった。一つ違えば、第二のローマになっていたかもしれない。それで当時のナチズムのファンは、世界中に存在している。
また、その台頭以来、地球上には彼らの影響力が広がった。日本の民も、相当数が彼らを支持していただろう。終戦後、ナチス起源の科学技術は世界に蒔かれ、彼ら起源の民衆洗脳も密かに行われている。解体後もそれは強い影響力を残したのだ。それ以後の世界は確かに変化した。今でも南米には、ナチス崩壊以前に逃れ出た首脳達の多くが潜んでいるという。
黙示録 13:9
耳のある者は聞きなさい。
黙示録 13:10
とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。
・・・
ナチス絶頂期に、レジスタンスなどの抵抗運動に身を投じた人々は、多数の犠牲者を出すことになった。迫害を受ける者にとって、「剣をとる者は剣で倒れる」というイエスの言葉の意味は重要だ。早い時機に逃げたユダヤ人は助かり、そうしなかったユダヤ人の多くは倒れた。
ナチス・ドイツほどの大きな影響力を、黙示録の予言が外しているとすれば、逆に不思議なことである。それは、ユダヤ人達に多大な打撃を与えた存在であるからだ。(聖書は神の選民中心に書かれている。つまり、ユダヤ人に絡む国は、残らず記述されている。では日本はどうか?・・・日本もまた彼らとイタリアを含む三国同盟によって、悪の枢軸として巻き込まれた。その意味では影響下にある。)
この獣の存続期間は、第二次大戦が終了後もしばらく続く。竜が女に対抗する手段を整えてから象徴的な四十二ヵ月活動するのだ。それは、あの「女」を倒すまで続くはずであった。(起点は日本への仏教伝来だとすれば、それから四百二十年である)
地から上る獣とは?
黙示録 13:11
また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。
・・・
聖書の理解では、「地から上る」というなら「神の民イスラエルからの出現」を想起するしかない。これはまさに軍国日本に当てはまる表現である。イスラエルの末裔である日本の民が、軍事政権を擁立した事実が、本当にこのような形で黙示録の中に記されているのだろうか?そう考えることもできる。無理に別の理解もできるが、ドイツと同盟関係にあった日本の大陸進出と太平洋戦争という大きな出来事は、神の目からは無視できないはずである。
ついに「女」は、サタンによって巧妙に誘い出された。神国日本は、行くべき道を間違っていた。
肩肘張っていた日本の態度は、先輩の獣の真似事のように見えたかもしれない。当時の日本はナチスドイツを見習い、学生服にまでその軍服を模倣した。日本は、確かに致命的な傷の癒えた最初の獣に追随していた。
日本はドイツを尊敬し、そこから多くを学んでいた。軍事技術や各産業における最新技術は、見習うべき点が数多くあった。実際、第一次大戦でドイツから分捕った船舶のエンジンは、日本の技術で作った最新型より耐久性があったそうである。
黙示録 13:12
この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。
・・・
日本政府が自国民に対して、ドイツへの崇敬の念を持つように指導したのは確かだろう。上記聖句での「地」は同胞達であり、「地に住む人々」は自分の影響下にある民衆を意味しているのだろうか。
黙示録 13:13
また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。
・・・
これを日本の「真珠湾攻撃」だと考えれば、辻褄は合う。それは全世界の驚きとなった。そして、歴史に深く刻まれている出来事でもある。
黙示録 13:14
また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。
・・・
ここでの「像」は何を意味しているのだろう?これは歴史上のどんな出来事に相当するのだろうか。文字通りの像を造るというなら、意味が通じなくなる。
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続き
日本における像
「像を作った」という話しは、モーセの時代の「子牛崇拝の罪」が象徴的だ。神を崇拝せずに、アロンに作らせた金の子牛をイスラエルの民は拝んで神を怒らせた。像は、神への崇拝を逸らせてしまうための策略に用いられる。
像は、実物の模写であり、神への崇拝を奪う存在である。この意味では、見えない神への崇拝を見える目の前の人間に移し替えようとする行為は、彫像を刻む行為に相当する。
金の子牛は拝んでも、本物の子牛を拝む人は少ないだろう。それは、牛という生物がどんどん成長し、やがては寿命で死んでしまうからだ。人間は、模写を本物より尊重し、崇拝したりするおかしな性癖を持っている。それで目の前に与えられた像があると、本物より熱心にそれにひれ伏すのだ。
ヒトラーのような独裁者の模写を、自国(日本)に据えるとすれば天皇しかいない。しかし元々の天皇は祭司であり、独裁する立場ではなかった。ところが戦時下の天皇は、「現人神(あらひとがみ)」と呼ばれ、古来の神よりもその「像としての天皇」を崇拝させた。当時なら、崇拝しない人は、文字通り殺されたかもしれない。
黙示録 13:15
それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
・・・
ここでの「殺す」という表現は、「帰依させる」という意味を持っているので、その崇拝を「強制する」という使われ方のようである。
イスラエルがそうした偶像崇拝に陥った時、神はそれを罰するか保護の手を控えて敵の手に渡している。あのサタンが、「女」である日本を滅ぼすため(神の保護から引き離すため)利用するならこの点だろう。
日本は神国ではあっても、神ではなくドイツを手本とした独裁者を据え、「像としての現人神」を拝んでいたのだ。どんな戦争にも勝てるはずが無い。では、「像に息を吹き込んでものを言うことさえもできるように・・・」とはどういう意味だろう。
ものが言える像は、つまり「模型でありながら話す」という意味で、やはり「現人神」に相当するのだ。
古代エジプトから現代に到るまで、神を名乗り、自分を崇拝させた歴代の王達は「現人神」であり、像でありながらものを言う立場であった。特に創造神は、宇宙より大きな存在なので、決して地上には降り立つ事ができない。それで、神を地上に置くとすればその模型としての像になる。そしてその像がものを言うとなれば、人間でありながら、神を騙(かた)る「現人神」となるのである。
以下の聖句は、戦時下の統制された経済を思い起させる。しかし、今の所それが正しいかどうかは不明である。これから未来に向かって、さらにこうした社会経済が待っており、それこそがぴったりと当てはまるのかもしれない。
黙示録 13:16
また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
黙示録 13:17
また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
最後に、以下の有名な数字は、ユダヤに伝わるゲマトリアを駆使しなければ確かな事は言えない。しかし、人間の数字を調査して、これから出現する独裁者を割り出す事は充分可能だろう。
黙示録 13:18
ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。
・・・
このヒントを無駄にせず、思慮ある者が数字を数えて警告を発して欲しいものだと思っている。
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黙示録のヒントモルモン経とアメリカ (もるもんけいとあめりか)
非常に難解で、象徴表現の多い聖書預言は、いくつかの「小予言書」から始まっている。それらの締めくくりとして「黙示録」は機能している。そして小予言書には、過去に実在した世界強国が登場する。それらの国々は、当時圧倒的に強く、周辺諸国を占領し、栄耀栄華を極めていたが、やがて神の鉄槌により滅亡する。
神の民であるイスラエルは、この歴史の流れの中でいつも大海の中の小船のように翻弄されてきた。しかし、最後の黙示録に至るまで、神のイスラエルは歴史の中で何とか存続している。(いろいろな形態で)一方の世界強国は、跡形も無く滅亡する事が多い。
ナホム書の中に描かれている強国アッシリアも、当時不滅の強さだと思われたが、突然の滅亡、あっけない陥落という運命をたどっている。そしてその滅び行く様は、現代の私達の住んでいる世界にも深く関係する「雛形」(ひながた)である。現在、世界を牛耳る世界強国の滅亡もまた、このような形で起きるだろう。それは、小成就と大成就の関係になっている。
当時のアッシリアは、惨忍な事でも知られていた。国々に攻め入り滅ぼす最には大虐殺があった。捕虜となった者もあるいは残虐に殺され、あるいは過酷な労苦につく奴隷とされた。
当時神の選民は、二つの王国に分裂していた。そのうち南のユダ王国は助かった。しかし、北のイスラエル王国は敗北し占領された。国民は悲惨な状態に陥った。
哀歌などの内容は、歴史上に何度も起きた民の悲劇を伝えている。このような事が敗北と占領の度に起きたのである。
神からの報復
神が自分の民の罪のため、彼らを見放して滅亡を黙認する事がある。しかし、神は必ずその民についての復讐を果たす。自分の選民に手をかけた相手を、罰する事を控えない。北のイスラエル王国で起きた残虐行為の責任は、その仕掛け人であるアッシリアが取る事になった。
ナホム書は彼らに対する刑の宣告である。アッシリアの首都はニネベなので、「ニネベに対する宣告」と書かれている。また、これらはイエスの時代を経て、黙示録の指し示す遠い未来への予言でもある。
ナホム書 1:1
ニネベに対する宣告。エルコシュ人ナホムの幻の書。
ナホム書 1:2
ヤーはねたみ、復讐する神。
ヤーは復讐し、憤る方。
ヤーはその仇に復讐する方。
敵に怒りを保つ方。
ナホム書 1:3
ヤーは怒るのにおそく、力強い。
ヤーは決して罰せずにおくことはしない方。
ヤーの道はつむじ風とあらしの中にある。
雲はその足でかき立てられる砂ほこり。
ナホム書 1:4
ヤーは海をしかって、これをからし、
すべての川を干上がらせる。
バシャンとカルメルはしおれ、
レバノンの花はしおれる。
・・・
上記の聖句は、キリストの出現当時のエピソードを思い起させる。イエスは湖で嵐に遭遇した時、風や水を叱って鎮める事ができた。自然現象をコントロールできたのである。(以下はその出来事)
マタイ 8:23
イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
マタイ 8:24
すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
マタイ 8:25
弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
マタイ 8:26
イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
マタイ 8:27
人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
・・・
神が「海を枯らす」という表現は、神の子イエスもまた似たような潜在的能力を持っている事を物語る。また、「海」そのものは、以下の聖句のように、「民衆」を表しているが、神が「直接海を枯らす」というのは、一国の民衆さえ「絶滅」させる力を発揮できるという事だ。イエスの場合は、民衆の中の「公正を求めて揺れ動く人々」の欲求不満を解消することで、ざわめく波を静めた。
:新しい理解 「海」は「諸国民」であり、「地」という表現の「イスラエル」と対比されている。「海を叱ってこれを枯らす」という表現は、諸国民の持っていた幻想を砕くということだろう。
イザヤ書 57:20
しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。
静まることができず、
水が海草と泥を吐き出すからである。
イザヤ書 57:21
「悪者どもには平安がない。」と
私の神は仰せられる。
イエスの時代の民衆の多くは、宗教指導者達の偽善に踊らされて、荒れ狂う海のようになる事があった。イエスの処刑に荷担した人々は、神の目からはこの海のように見えただろう。
水の吐き出す「海草」や「泥」は何だろうか?
現時点では、「水」(宗教の教え)に混じる不純物である「偽の組織」や「偽りの宗教家」だとしておこう。(未解明)
またイエスは、イスラエルの宗教指導者達の教えを、「その偽善を暴露する」事によって干上がらせてしまった。「川の水」は、「宗教組織から流れ出す教え」である。面目をつぶされた指導者達は、イエスに向かって憤る。しかしその不動に見えた権威は、失墜してしまう。
ナホム書 1:5
山々はヤーの前に揺れ動き、
丘々は溶け去る。
大地は御前でくつがえり、
世界とこれに住むすべての者もくつがえる。
ナホム書 1:6
だれがその憤りの前に立ちえよう。
だれがその燃える怒りに耐えられよう。
その憤りは火のように注がれ、
岩もヤーによって打ち砕かれる。
・・・
これらの聖句には、黙示録の中の象徴表現がちりばめられている。「山々」は、宗教都市を象徴しており、その延長で宗教組織を示している。「丘」というのは、何だろう。当時、人々は丘の上で祭壇を築き犠牲を捧げていた。それで、丘は山に次いで「神事を司る場所」に相当するのだろう。山が「総本山」なら、丘は「分教区」の様なものだろうか。
こうしてイエスの出現により、イスラエルの伝統ある宗教組織は揺れ動いた。彼らの中に偽善が満ちていたからだ。
火のように注がれる神からの憤りは、当然その民を誤導していた指導者達に向かっていた。「打ち砕かれる岩」とは、その指導者自身を示しているようである。
:さらには「本物の岩」である「ヤーエ」と対比される「偽の岩」つまり「偽りの神々」が当てはまる。
では、「大地」と「世界」という表現は何だろうか?大地は人々の「心」つまり、心理状態かもしれない。当時、権威ある指導者層の偽善を、民衆がはっきり知らされる事は無かった。イエスによる「偽善の暴露」を目の当たりにした民衆は、仰天した事だろう。
:「大地」は、「終わりの日」に突入した現在では、「世界に散ったイスラエル民族」を対象としているかもしれない。
また、「世界」は「畑」つまり種を蒔く場所を指しているようだ。ナホム書の聖句は、「ヨナ」のニネベに対する宣教を思い起させる。ヨナ書ではこうなっていた。
ヨナ書 3:1
再びヨナに次のようなヤーのことばがあった。
ヨナ書 3:2
「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」
ヨナ書 3:3
ヨナは、ヤーエのことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった。
ヨナ書 3:4
ヨナは初め、その町にはいると、一日中歩き回って叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と言った。
ヨナ書 3:5
そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。
ヨナ書 3:6
このことがニネベの王の耳にはいると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。
ヨナ書 3:7
王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。
ヨナ書 3:8
人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。
ヨナ書 3:9
もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」
ヨナ書 3:10
神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。
この時のヨナの宣教は多いに功を奏し、ニネベは滅亡を免れている。しかし、この出来事は後にイエスがエルサレムの町にやってきて、種を蒔いた時の様子をも示している。ある時イエスは、宗教指導者達には「ヨナのしるし以外は与えられない」と述べていた。それは、イエスが殺されてから復活までの三日三晩、墓の中に眠る様子を指し示している。
助かる道もあった
このニネベの滅亡からの逃避は、後のエルサレムも「そうしたチャンスを与えられていた」という「雛形」でもある。つまり予言の成就とはいっても、二種類の結末があるわけだ。イエスを殺したエルサレムの町は、その悪い方を選んだ。彼らはローマによって滅亡したが、それが神の最初からの目的ではない。もし、エルサレムがイエスの出現によって悔改めていたら、彼らの滅亡はヨナの時代のニネベのように、「免除」されていたはずなのだ。以下は、そうした神の気持ちを示す聖句である。
エレミヤ書 36:2
「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。
エレミヤ書 36:3
ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。」
預言者が警告を発している間に立ち返れば、助かる道がある。これが、神の公正と哀れみである。しかし、多くの場合、民衆は預言者を殺して、神の声を無視する方を選んでしまう。イエスは、そのようにして殺された最後の預言者である。
なお、この時の滅亡はイエスが出現してから約40年後(西暦約70年)であったが、ヨナのニネベに対する宣告も「40日後」となっている。つまりこれは、一日を一年と換算するべき雛形なのである。(イエスの出現時期とは、キリストとして任命された西暦30年当時であり、生まれた年ではない)
さて、ナホム書の時代のニネベは、もうすでに逃げられない罪の中にあり、免除はあり得ない。彼らの罪は、ヨナの時代に起きた「背教の罪」ではなく、北のイスラエル王国という「神の民」を責め滅ぼした「血の罪」だからである。
ナホム書 1:7
ヤーはいつくしみ深く、
苦難の日のとりでである。
ヤーに身を避ける者たちを
ヤーは知っておられる。
ナホム書 1:8
しかし、ヤーは、あふれみなぎる洪水で、
ヤーに逆らう者を滅ぼし尽くし、
その敵をやみに追いやられる。
ナホム書 1:9
あなたがたはヤーに対して何をたくらむのか。
ヤーはすべてを滅ぼし尽くす。
仇は二度と立ち上がれない。
・・・
ここでは神は、二つの存在に同時に語りかけている。それは、「ニネベ自身」と、その中に捕われている捕囚となった「神の民イスラエル」である。罪は双方にあった。神の民は、神への不従順の罪のため捕囚となった。またニネベは、北イスラエルでの殺戮と虐待の罪を負っていた。
ナホム書 1:10
彼らは、からみついたいばら。
大酒を飲んだ酔っぱらいのようであっても、
かわいた刈り株のように、
全く焼き尽くされる。
「大酒を飲んだ者」という表現は、偽りの宗教によって硬直化し、異質化した人の心を示しているようだ。ニネベという宗教都市の中では、その種の締め付けも多かったはずである。それらは、神の介入によって糾弾され正されるだろう。
ナホム書 1:11
あなたのうちから、
ヤーに対して悪巧みをし、
よこしまなことを計る者が出たからだ。
・・・
北のイスラエル王国が滅んだ理由はこれである。内部の宗教指導者や民の多くが悪くなっていた。
ナホム書 1:12
ヤーはこう仰せられる。
「彼らは安らかで、数が多くても、
刈り取られて消えうせる。
わたしはあなたを苦しめたが、
再び、あなたを苦しめない。
・・・
彼らとはアッシリアの住民である。強大な帝国だったが滅亡に至る。後半は、捕囚の身で苦しんでいる神の民への救済の宣言だろう。二度とアッシリアによる横暴は及んでこない。
ナホム書 1:13
今、わたしは彼のくびきを
あなたからはずして打ち砕き、
あなたをなわめから解き放す。」
ナホム書 1:14
ヤーはあなたについて命じられた。
「あなたの子孫はもう散らされない。
あなたの神々の宮から、
わたしは彫像や鋳造を断ち滅ぼす。
あなたはつまらない者であったが、
わたしはあなたの墓を設けよう。」
・・・
イエスの時代に、民は解放され神殿が清められた。「もう散らされることのない『あなたの子孫』」とは、イエスの弟子達という意味かもしれない
。一方、イエスに従わなかったイスラエルは、反逆者のままである。それでもイエスが処刑された後、しばらく続いていた。しかし西暦70年頃、ローマがやってきて絶滅させてしまった。彼らは設けられた墓に入った。一方、イエスの弟子達はイスラエルから出て散っていった。
絶滅したイスラエルの墓は、この時代から下った「現代イスラエル」のユダヤ教徒達が守ることになる。
以下の聖句は、「救世主」が訪れている間にもたらされる祝福を述べている。
ナホム書 1:15
見よ。良い知らせを伝える者、
平和を告げ知らせる者の足が山々の上にある。
ユダよ。あなたの祭りを祝い、
あなたの誓願を果たせ。
よこしまな者は、もう二度と、
あなたの間を通り過ぎない。
彼らはみな、断ち滅ぼされた。
・・・
救済に先立って、神は何らかの預言者を起こす。それがヨナであり、ナホムであり、イエスであった。そして将来に向けて、この予言は更に続いている。現代の世界強国に対しても、この予言は適用される。これらは、イエスの活動に最もよく当てはまっている。
イエス以後のイスラエルの場合、二つの勢力に分割される。「滅ぶ勢力」(墓に入る勢力)と、「生き残る勢力」(あなたの子孫)である。この二つに対して予言は同時に語っているため、相反する表現が繰り返されているのだ。
ナホム書 2:1
散らす者が、あなたを攻めに上って来る。
塁を守り、道を見張り、
腰をからげ、大いに力を奮い立たせよ。
ナホム書 2:2
ヤーは、ヤコブの栄えを、
イスラエルの栄えのように回復される。
――かすめる者が彼らをかすめ、
彼らのぶどうのつるをそこなったからだ。
・・・
出てくる表現には、「古代ニネベ」、「イエス以後のイスラエル」、「現代の世界強国(象徴的ニネベ)」に全て当てはまる共通の表現が見られるはずである。以下は、ニネベを滅ぼした「バビロンの兵士」と、エルサレムを滅ぼした「ローマの兵士」の特徴がダブっている。
ナホム書 2:3
その勇士の盾は赤く、
兵士は緋色の服をまとい、
戦車は整えられて鉄の火のようだ。
槍は揺れ、
ナホム書 2:4
戦車は通りを狂い走り、
広場を駆け巡る。
その有様はたいまつのようで、
いなずまのように走り回る。
ナホム書 2:5
貴人たちは呼び出され、
途上でつまずき倒れる。
彼らはその城壁へ急ぎ、防柵を設ける。
ナホム書 2:6
町々の門は開かれ、宮殿は消え去る。
ナホム書 2:7
王妃は捕えられて連れ去られ、
そのはしためは鳩のような声で嘆き、
胸を打って悲しむ。
ナホム書 2:8
ニネベは水の流れ出る池のようだ。
みな逃げ出して、
「止まれ、立ち止まれ。」と言っても、
だれも振り返りもしない。
ナホム書 2:9
銀を奪え。金も奪え。
その財宝は限りない。
あらゆる尊い品々が豊富だ。
ナホム書 2:10
破壊、滅亡、荒廃。
心はしなえ、ひざは震え、
すべての腰はわななき、
だれの顔も青ざめる。
ナホム書 2:11
雄獅子の住みかはどこにあるのか。
それは若い獅子のためのほら穴。
雄獅子が出歩くとき、
雌獅子と子獅子はそこにいるが、
だれも脅かす者はない。
ナホム書 2:12
雄獅子は子獅子のために、
十分な獲物を引き裂き、
雌獅子のためにかみ殺し、
そのほら穴を、獲物で、
その巣を、引き裂いた物で満たした。
ナホム書 2:13
見よ。わたしはあなたに立ち向かう。
――万軍のヤーの御告げ。――
わたしはあなたの戦車を燃やして煙とする。
剣はあなたの若い獅子を食い尽くす。
わたしはあなたの獲物を地から絶やす。
あなたの使者たちの声はもう聞かれない。
・・・
ニネベを守るアッシリアの兵士達は、非常に残虐で勇猛だったはずだが、獅子に投影された彼らの強さも、進軍してくる緋色の戦士達によって、肝を抜かれたようにうちしおれてしまう。町の中では恐怖が満ちる。しかし彼らは、今までに繰り返した残虐行為の報復を受けているに過ぎない。
ナホム書 3:1
ああ。流血の町。
虚偽に満ち、略奪を事とし、
強奪をやめない。
ナホム書 3:2
むちの音。車輪の響き。
駆ける馬。飛び走る戦車。
ナホム書 3:3
突進する騎兵。
剣のきらめき。槍のひらめき。
おびただしい戦死者。山なすしかばね。
数えきれない死体。
死体に人はつまずく。
・・・
このおびただしい「死体のある場所」を、後のイエスは話しの中で引用している。しかもその話しは、それから先の出来事、そしてずっと将来の出来事に関する予言の中のキーワードでもある。
ルカ 17:26
人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
ルカ 17:27
ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
ルカ 17:28
また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、
ルカ 17:29
ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
ルカ 17:30
人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。
ルカ 17:31
その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。
ルカ 17:32
ロトの妻を思い出しなさい。
ルカ 17:33
自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
ルカ 17:34
あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。
ルカ 17:35
女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」
ルカ 17:36
[異本に三六節として「ふたりの男が畑にいると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます」を加えるものもある]
ルカ 17:37
弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」
・・・
イエスは明らかに、ナホム書から引用して話している。それは、黙示録の中の未来予言にも関係する。ではこの「死体のある場所」とはどこなのだろうか?
それはおそらく、「絶滅の際のニネベ」に象徴される「イエス以後のイスラエル」及び「現代の世界強国内部」での出来事に違いない。それは、神の霊者による「義人の救出」が行われる場所だ。イエスは「ロトの日」に言及している。ただ、ニネベの滅亡をエルサレムの滅亡と同列に置けないのは、微妙な救出の方法の違いがあるからだ。
ロトのような救出
ロトは、退廃した町、ソドムとゴモラの滅びに際して、御使い(神の霊者)から救出を受けて助かった。イエスの表現には「一方が連れて行かれ、他方は捨てられる・・・」とあるが、厳密に考えると、こうした救出は「エルサレムの滅び」の際には当てはまらない。
なぜなら神の民である彼らは、「自分の判断」で逃げるしかなかったからだ。(宗教指導者達は、引き留めようとした)それでイエスが述べるこの「死体のある場所」については、エルサレムが象徴する神の宗教組織(宗教都市)ではないかもしれない。(文字通りの死体と解釈して)
西暦70年に、ローマによって滅亡したエルサレムの町でも、死体はたくさん出たが、そこでの滅亡は「長期間の包囲」によるものであり、ニネベの瞬間的な滅亡とは違っている。(餓死者が多かった。かなりの死体は埋葬されただろう)また包囲されてからは神の霊者による救出は無かった。
ローマ軍がユダヤでの反乱鎮圧のため、一度やって来て人々が驚いた後、なぜか彼らは撤退してしまった。(ローマ側の都合)彼らがもう一度やってくるまでの長い期間、都市の門は開かれており、その間に人々は「自分の判断」で山に逃げる事ができた。(何ヵ月もの猶予があった)つまり一度目の包囲は「デモンストレーション」のように見えたはずだ。それにピンと来た賢い人々は、イエスの警告通り山に逃げただろう。しかしそれ以後は、ローマ軍の包囲の中で城門は閉じられ、蟻一匹脱出は不可能になっている。
しかし、「死体」という言葉を、象徴的に解釈すれば、予言はエルサレムに当てはまる。なぜなら、宗教指導者達の誤導や偽善によって、民はマインドコントロールされ、精神的に死体のようになっていた。厳格さと画一化に塗り固められた偽善の組織の中では、自分の意志を使えない人々(死体)は数多かった。イエスもこう述べていた。
マタイ 23:27
忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、
マタイ 23:28
あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。
・・・
表面だけきれいに整えられた彼らの組織・・・その中には、象徴的な「死体」と「死人の骨」が満ちていた。最初横たわるのは死体(象徴としての)なのだが、宗教指導者達によって、その肉が取り去られ、最後には骨にされてしまうのだ。「骨」は死体より更に無活動の状態である。
厳密な分類
イエスが述べている話しの中では、「人の子の日」と「終りの日」という二つの言葉が出てくる。これらは厳密には「二種類の滅亡」について述べているはずである。聖書の中では、どんな言葉もいいかげんな使い方はされていないからだ。それらが弟子達の記述の中で、混同して使われていたにしても、イエスは二つの用語をはっきり使い分けていたはずである。
「終りの日」はイスラエル人に当てはまる滅亡であり、「人の子の日」は異邦人に当てはまる滅亡としたいところだ。しかし、イエスを信じる人々は、世界中に広がっている。そう単純ではない。ここでは、ヨエル書が「人の子の日」について話している事を知っておこう。それは、神の民を絶滅させようとした異邦人に対して神が「報復する日」でもある。
「終りの日」は「人の子の日」と重なる?
終りの日とは、人の子の日と厳密には違っているが、多くの部分で重なっている。それは、当初イスラエルだけに広めたイエスの教えが、やがて全世界に広がって行ったからだ。それは、イエスの警告を当てはめる人々が、多重世界にまたがっていることを意味している。そのためイエスは、純粋なイスラエルと、それ以外の異邦人との両方に共通する話しをしなければならなかった。(以下聖句から:25節に注目・・・それは区切りである)
マタイ 24:3
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
マタイ 24:4
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
マタイ 24:5
わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
マタイ 24:6
また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
マタイ 24:7
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
マタイ 24:8
しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
マタイ 24:9
そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
マタイ 24:10
また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
マタイ 24:11
また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
マタイ 24:12
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
マタイ 24:13
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
マタイ 24:14
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。
マタイ 24:15
それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
マタイ 24:16
そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
マタイ 24:17
屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
マタイ 24:18
畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
マタイ 24:19
だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
マタイ 24:20
ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。
マタイ 24:21
そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
マタイ 24:22
もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。
マタイ 24:23
そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
マタイ 24:24
にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
マタイ 24:25
さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。
マタイ 24:26
だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。
マタイ 24:27
人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。
マタイ 24:28
死体のある所には、はげたかが集まります。
マタイ 24:29
だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
マタイ 24:30
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
マタイ 24:31
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
マタイ 24:32
いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
マタイ 24:33
そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
マタイ 24:34
まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
マタイ 24:35
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
マタイ 24:36
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
マタイ 24:37
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
マタイ 24:38
洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
マタイ 24:39
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
マタイ 24:40
そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
マタイ 24:41
ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
マタイ 24:42
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
・・・
マタイ24章24節までとそれ以後(26節から)では、「文脈が変化している」事に気付くだろうか?25節では、「さあ、わたしはあなた方に前もって話しました。」と結んで一度話しが終わっている。それ以後は、同じ話しのようだがイエスの到来と救出の話しである。
弟子達は、エルサレムの滅亡に際して、イエスが王として救出に来てくれることを期待していた。終りの日と、人の子の日の二重成就である。しかし、一世紀当時こうした救出は無かった。25節以降の「報復と救出」はその後、数百年も後の出来事である。
西暦70年にイスラエルを滅亡させたローマ帝国は、長期間の繁栄の後に、東方から来たアッチラ大王やゴート族などの力で滅びに向かう。その時こそが神の復讐の日であり、「人の子の日」でもあったのだ。
それでマタイ24章25節以降のイエスの話しは、後の時代の「異邦人」(つまりローマ市内のキリスト教徒)に対しての警告のようである。ロトの家族が神の使いに導かれて逃げ出した様子は、「緊急脱出」そのものであり、エルサレムの住民のようにのんびりと逃げる事はできなかったのだ。
それで先のルカ17:37の聖句の中で、弟子達はこの話しが「エルサレムに関係する話しではない」事を察知し、イエスに「どこでですか?」と問い掛けたのだろう。もしそうでなければ、イエスの話しは「いつも神の民(直系のイスラエル人)に向けられている」と決まりきっていたため、そのような問いかけは必要ではなかったはずなのだ。
まず「終りの日」がやってくる。それは、神の民やイエスを信じる人々に関係した、「滅亡と混乱の時」である。義人は、「自分の判断で」逃げなければ命を落とす。
しかし、「人の子の日」はそのかなり後に訪れる。それは、神の民を滅亡させた相手を「断罪する日」である。それは神の民の「開放と救出」を意味しているはずである。
このようなわけで、ナホム書は、「人の子の日」という意味合いが強く、「異邦人」つまり神の民イスラエルに「滅亡の苦痛」をなめさせた「世界強国」に向けられた断罪の予言である。しかしその国の中に捕囚や奴隷として存在する神の民にとっては、それが救出を意味するのだ。その時の、神の復讐による滅亡に巻き込まれないためには、「速やかな行動」(脱出)が必要とされるだろう。
実際にその時の滅びは、「後ろを見る間も無い」ほど素早いものとなる。同じ流れは黙示録に続いており、それらの謎は両者を見比べれば解明される。しかし神の復讐は、わけのわからないうちに終わってしまうような浅いものではないはずだ。それは、当事者がはっきりと「神の存在と憤り」を認め、自分達の罪を振り返るような現実味に溢れたものとなるはずである。
それで以下に続くナホムの聖句も、現代に流れを受け継ぐ神の民を虐げた「世界強国への宣告」だと受け取ってもいいだろう。
ナホム書 3:4
これは、すぐれて麗しい遊女、
呪術を行なう女の多くの淫行によるものだ。
彼女はその淫行によって国々を、
その魅力によって諸部族を売った。
ナホム書 3:5
見よ。わたしはあなたに立ち向かう。
――万軍のヤーの御告げ。――
わたしはあなたのすそを顔の上までまくり上げ、
あなたの裸を諸国の民に見せ、
あなたの恥を諸王国に見せる。
ナホム書 3:6
わたしはあなたに汚物をかけ、
あなたをはずかしめ、
あなたを見せものとする。
ナホム書 3:7
あなたを見る者はみな、あなたから逃げて言う。
「ニネベは滅びた。」と。
だれが彼女を慰めよう。
あなたのために悔やむ者を、
どこにわたしは捜そうか。
ナホム書 3:8
あなたは、ナイル川のほとりにある
ノ・アモンよりもすぐれているか。
水がこれを取り囲む。
その塁は海、その城壁は水。
ナホム書 3:9
クシュとエジプトはその力。
それは限りがない。
プテ人、ルブ人もその助け手。
ナホム書 3:10
しかし、これもまた、捕囚となり、
とりことなって行き、
その幼子たちもあらゆる町かどで八裂にされ、
その高貴な人たちもくじ引きにされ、
そのおもだった者たちもみな、鎖につながれた。
ナホム書 3:11
あなたも酔いしれて身を隠し、
敵から逃げてとりでを捜し求めよう。
ナホム書 3:12
あなたのすべての要塞は、
初なりのいちじくを持ついちじくの木。
それをゆさぶると、食べる者の口に落ちる。
ナホム書 3:13
見よ。あなたの兵士は、
あなたの中にいる女だ。
あなたの国のもろもろの門は、
敵のために広くあけ放たれ、
火はあなたのかんぬきを焼き尽くす。
ナホム書 3:14
包囲の日のための水を汲み、
要塞を強固にせよ。
泥の中にはいり、粘土を踏みつけ、
れんがの型を取っておけ。
ナホム書 3:15
その時、火はあなたを焼き尽くし、
剣はあなたを切り倒し、
火はばったのようにあなたを焼き尽くす。
あなたは、ばったのように数を増し、
いなごのようにふえよ。
ナホム書 3:16
あなたの商人を天の星より多くしても、
ばったがこれを襲って飛び去る。
ナホム書 3:17
あなたの衛兵は、いなごのように、
あなたの役人たちは、群がるいなごのように、
寒い日には城壁の上でたむろし、
日が出ると飛び去り、
だれも、どこへ行くか行く先を知らない。
ナホム書 3:18
アッシリヤの王よ。
あなたの牧者たちは眠り、
あなたの貴人たちは寝込んでいる。
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モルモン経とは門徒と黙示録 (もんとともくじろく)
モルモン経は特異な書物である。その内容はまるで聖書の姉妹書のようであり、神の選民であるヘブライ民族のアメリカ大陸における古代の栄枯盛衰が記されている。そのあまりにも突飛な内容から、それを疑う学者も多い。しかし、調べれば調べるほどこの書物は本物としか思えない・・・というのは、いくつかの理由がある。
まず、「地球の反対側」に聖書と同じ内容の書物が存在したという事。これはそっくりなコピーではなくヘブライ民族の子孫に対して書かれた別の歴史だ。しかし、モルモン経は唐突に出現しているため、発掘、翻訳者ジョセフ・スミスが意図的に「創作したのだ」と疑われた。私自身も、疑いが皆無だったとは言えない。しかし、内容の膨大さと歴史の状況が、その疑いを徐々に拭い去っていった。
アメリカ先住民
だれがどう見てもアジア系でありセム族のアメリカインディアン。中には、日本人の親戚のような顔も見える。彼らは、古代にはアメリカ大陸に広がって平和に(?)暮らしていた。では、彼らの先祖はどこから来たのか?
モルモン経は驚くべき物語を告げる。彼らは古代に「中東から」海を渡ったヘブライ民族の子孫だというのだ。つまり、インディアンの祖先は、東回りではなく「西回り」でアメリカ大陸に渡ったのだと。
子孫の悲劇
モルモン経は一言で言って、彼らの悲劇を綴っている。ユダヤ地方から船に乗って出発した数家族の人々は、未知の領域であるアメリカ大陸にたどり着いた。(そこには、既に滅んだ太古の文明の痕跡があったという)そこで子孫は大陸に満ちていった。しかし、彼らの神イスラエルの「ヤー」を忘れて何度も道を踏み外し、部族同士の戦争に明け暮れた。最後には最も強く野蛮な種族が勝ち残る。
しかし彼らには最終予言が与えられていた。「神の命令を捨てて生きるなら、白い顔をした新しい住人達によって絶滅が来る」・・・と。それは自分達の同胞を滅ぼした報いである。歴史はその通りになった。最後の反逆者ジェロニモは、この予言を知っていただろうか?
彼らはキリストも知っていた
聖書の中でキリストは、「私には他の羊がいる」と述べている。聞いた人々は不思議に思っただろう。しかし、この言葉はアメリカ大陸のヘブライ人達にぴったりと合致するのだ。キリストは復活後彼らにも出現したことが、モルモン経の中に記されている。しかし、この記録を代々書き残していた種族は絶滅し、記録は金板として地下に埋没された。これが、後にジョセフ・スミスによってクモラの丘から掘り出され、翻訳された後、再び隠されて現在に至っている。
それでモルモン経は、聖書と併読して初めて意味を成す。この書の中では、何度も聖書(ユダヤのあの書物)に言及されている。
歴史学者達は色々な証拠を検証し、本物だ偽物だと断定しようとする。歴史上の出土品には確かに偽物も多い。だが、このような「聖なる書物」に関しては、別の観点からの検証が必要だろう。それは、「神の都合」である。
神の側の心を読む
神は地上のどこにいても、自分の選民であるヘブライ民族からは目を離さない。当然、彼らへの導きも与え続ける。そしてその場合に、何らかの書物を必ず記録させている。
もし、アメリカという広大な地域に広がった民族が、ヘブライの末裔であれば、その歴史は詳しく残されているはずだ。彼らが「アメリカ・インディアン」として絶滅してしまったとしても、その栄枯盛衰が世に知られずに終わるはずが無い。
終りの日に、神は全人類に全てを明かす。それは、歴史を通じて犯された人類のあらゆる罪を裁くためである。それなら、アメリカ大陸のインディアンを絶滅させた、「侵入者の罪」も想起されなければならない。そして彼らが裁かれるためには、アメリカインディアンが「神の民」であった事も知られなければならない。それには、それを記録した書物が無ければならない。
疑いと真実
発掘者ジョセフスミスが、この物語を「創作」したのだと述べる人々は、次の点を見落としている。つまり、彼が「自分達の種族の罪」を明確にする事の意義である。
スミスは、インディアンを滅ぼした白人の子孫であり、そのインディアンが「神の民であった」と発表すれば、彼の「祖先の罪」を自分が告発した事になってしまう。
スミスは、聖書についても知っていただろうから、自分が翻訳した金板の内容が、何を告げていたかに気付いていたはずである。それは、「先住民の絶滅の理由」と共に、その生き残りを滅ぼした「白人の罪の確定」でもあった。
モルモン経の存在は、インディアンが神の民ヘブライ人であったとする「証拠」である。すると、その民を「絶滅に追いやった人々」もまた、神の前に言い開きができない。このような書物を、白人のうちの誰が「創作したい」と考えるだろうか?
有名になろうと偽書を発表するような人物が、そうした自虐的な内容の書物を創作できるだろうか?また、時間をかけて膨大な内容の書物を書き上げるエネルギーは、想像を絶するものだ。
いずれにしても、疑いに捕われてこの書物に正面から取り組めない人々には、神からの真理の啓発もやって来ないだろう。それだけは確かである。
モルモン経の存在意義
白人の恐れる聖書の神は、インディアンの神でもあった。いや、そうではない。インディアンの神が、白人の神でもあったのだ。それは、聖書の神が「直系のイスラエル」を自分の選民とし、愛(め)でていたからに他ならない。白人種は選民ではない。人種としては、セム族(インディアン)の方が神に近いのである。このように、モルモン経は白人にとって、鋭い棘を持つ「糾弾の書物」となっている。
同時に、アメリカのインディアンにとっても、心の痛む歴史書である。平和に見えた古代アメリカの地で、これほど多くの血が流され、人々の悲しみが埋まっていた。だからこそ、彼らの神はその腰を上げて事を清算し、経緯を記した書物をも残した。・・・これが、聖書の神の性格を知る人々が到る結論であろう。
モルモン経は、インディアンに対して「祖先の罪」を教えている。深く考えるネイティブアメリカンは、この書物から「自分達の神」と、現在の「境遇の理由」を知るだろう。
モルモン経は震源となる
そのような訳で、現代アメリカ人は、モルモン経を掘り下げる事を恐れている。インディアン絶滅と、その背後の事情を知れば知るほど、自分達に向けられる聖書の神の怒りを感じるからだ。しかし、もはや時は満ちた。やがて、その原版となった「金板」が発掘されるだろう。それは、神の予定通りの「事件」である。その時には、世界中の歴史が覆される事になる。モルモン経は世界を揺るがす大地震を引き起こすのだ。
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→他の羊とは?
選びの自由
今の世で、「創造論」というのは「一つの宗派」のように扱われている。
つまり、「創造論者は、創造論の『門徒』だ」と観られているのである。
【門徒】もんと
同じ宗派に帰依して宗教生活を送る人。
本来は、同一の系譜に連なる僧侶を指したが、浄土真宗において在家の信者の意に用いられたため、中世後期以降、もっぱら真宗信者一般に対する呼称となった。
『もんと』物知らず
門徒宗の者が阿弥陀如来の称号を唱えるばかりで他を顧みないのを他宗の者があざけっていう語。
ちなみに、
日本語の門徒は、仏教用語だと思われているが、英語の「(山に)登る」と同義の言葉である。
もんと→ マウント
【マウント】mount(1)
1 〈山・階段・王位に〉登る
2
a 〈馬・自転車などに〉乗る、またがる
b 〈人を〉〔馬などに〕乗せる 《★しばしば受身で用いる》
3
a 〈像・大砲などを〉〔…に〕据えつける、装置する 〔on〕
b 〈写真などを〉〔…に〕はる 〔in,on〕
c 〈宝石などを〉〔…に〕はめる 〔in〕
d 〈標本を〉〔スライドに〕固定する 〔on〕
4 〈展覧会・展示会などを〉開催する: 〈劇・コンサートなどを〉上演する
5 〈抗議・デモ・攻撃・戦闘などを〉準備する、開始する
6 〈見張りを〉〔…に〕立てる 〔on,round〕
7 〈動物の雄が〉(交尾のため)〈雌に〉乗る
1
a 〔…に〕上る、登る
b 〈血が〉〔ほおに〕上る
2
a 馬に乗る
b 〔馬・自転車などに〕乗る
3
a 〈費用などが〉上がる、増す: 〈緊張などが〉高まる、つのる: 〈問題などが〉増加する
b 〈費用などが〉〔…にまで〕上がる
◎ ラテン語 mons,mont- 「山」の意: ⇒MOUNTAIN
・・・
聖書での決まりは、「『山』=宗派」とされているから、「もんと(登る)」は、「(その宗派に)帰依する」という意味になる。
つまり、『門徒(もんと)』という言葉は、ある宗派に「マウントされた人々」を指し、
日本語でも「マウン(山)+ト(人)」を意味するのではないかと考えている。
古代ヘブライ語の発音は、マウントに近いものだったのだろう。
地上には様々な宗教があって、人は分かたれる。
その意味では、「進化論」もまた一つの宗派だろう。
現在は、どの宗教も正しそうに見える。
それは、森羅万象の真実が、おぼろげに霞んでいるからだ。
しかし逆に、「全て」が明らかになっていればどうだろうか?
「神の存在は現実だ」
すると、「損得ずく」、「欲得ずく」で行動する人々は神妙になり、バイアスがかかって選ぶ自由を失ってしまう。人の選別(神の選び)はなされない。
従って、人が自分の中の傾向により、制約なしに「神の側」「世の側」など、「それぞれの道」を選ぶためには、人間の中にある傲慢さが最大限に発揮されていなければならない。
それが正に、「今の状況」なのである。
神の「門徒」選び
「創造論」と「進化論」という二つの門徒に限って考えよう。
その選択は、自由にされている。
聖書は、侮られるほど「素朴な文体」で書かれ、いくらでも論駁できそうに思える。一方、世の中にはもっともらしく飾り付けられた「進化論」が流布されている。
人が、自分の心の傾向により、どちらでも選べるようになっている。
「聖書を信じるのも馬鹿にするのも自由」
「進化論にマウントするのも自由」
神を望まない人々を無理に創造論に引き入れても、その人々は結局、いつか離れて行かざるを得ない。論戦があるとはいっても、今は人々が「沈殿すべき場所」に落ち着く「静かな時期」だ。
「最初の選別」というものは、それほどの厳密な分離がない。
というのは、モーセに率いられてエジプトを脱出した群衆の中には、かなりの不満分子も混入していたからだ。彼らは旅の途上で群衆の不平不満を扇動し、モーセに圧力を掛けて悩ませる。
同様に、ハルマゲドン以降に「キリストの千年王国」が実現してから後、その中に含まれていた不満分子が蜂起する。これを更に精錬するために「閉じ込められていたサタン」が再び解き放たれる。
黙示録 20:1
また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
黙示録 20:2
彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、
黙示録 20:3
底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
黙示録 20:4
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
黙示録 20:5
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
黙示録 20:6
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
黙示録 20:7
しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
黙示録 20:8
地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
黙示録 20:9
彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
黙示録 20:10
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
黙示録 20:11
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
黙示録 20:12
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
黙示録 20:13
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
黙示録 20:14
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
黙示録 20:15
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
黙示録 21:1
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
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『地獄の裁き』の実施される時期は、黙示録の記述を「順番通り」読み取ればこのようになる。(黙示録20:1〜21:4)
1.「子羊の結婚」→ 「正式な神の民」の認定
2.「王の王、主の主」の戦い→ 「地上の王達」が「神の軍」に対戦(論戦?)
3.獣と偽預言者の捕縛→ 火の燃える硫黄の池への投棄(マスコミの嘘が終止)
4.残りの者は神との論議で敗北→ 主の口の剣で、個々の反論が終止
5.殉教者達が復活→ 王座に就く
6.再びサタンの扇動→ 千年王国末期の反逆
7.天から下る火→ 暴徒達が神からの介入で焼き尽くされる(天の論駁?)
8.白い御座→ 神の直属政府設置、人間政府の消滅、国家の区切りは消え去る
9.最終的裁きと第二の復活→ 大規模な『地獄の裁き』
10.「新しい天」と「新しい地」→ 新しいエルサレムによる神の支配が始まる
この流れ予想が正しいかどうかは知らないが、「マウント」された「門徒達」の苦労は報われ、彼らへの誹りは消え去る。
「進化論者」に馬鹿にされ、笑われてきた「創造論者」だが、
「彼らが正しかった」と叫ばれる日が近付いている。
それにしても、「選る(エル)」という名で呼ばれる神は、
実に巧みな手法で人を選別するものだ。
(資料:広辞苑 第五版CD-ROM版)