タイへの翼

民宿「たましろ」の夕食、波照間島、沖縄
我輩はタイ探検を思い立ったが良い船がない。ないことはないが
金がない。
何しろシンガポール上陸のときにはメキシコ銀で3ドル
しかないという惨めな状態だった。当然シンガポール・バンコク間
の船賃があるわけがない。行こうと望めばまた無賃乗船しなければ
ならない。どうしたらいいかとシンガポール公園のベンチで腕を組
んで考えた。思わず、
ああ翼が欲しい、と叫んだ。
するといつのま
にか背後から様子をうかがっていたずらしようとしていた黒人の子
供が、我輩の声に驚いて逃げ出す。インド人巡査も驚いてヤシの木
陰から現れた。赤道直下の昼間、木の陰は色濃いが周囲の風物は漠
然として風も吹かない。我輩は考えるのに疲れ、眠気のままに眠っ
てしまった。香港のケーブルカーに乗って途中で落下した夢を見て
目が覚めた。見るといつのまにか我輩の傍に日本人が1人腰掛けて
いる。うかつに日本語で話しかけるとマカオでやったときのように
失敗するから慎重になって静かにしていた。すると相手が声をかけ
てきた。いろいろと話してみるとこの男はシンガポール・バンコク
間を往復するノルウェー汽船の料理人だとわかった。ちょうどバン
コクへの適当な船を探しているわけだから、この男の話を聞いてい
ると一筋の光明が見えたような気がした。どうだ、船長は連れていっ
てくれるだろうかと尋ねると、それはわからないと言う。確かに船
長の心はこの男にわかるわけはない。
「君、我輩のために無賃乗船を頼んでくれないか?」
「私は英語がうまく話せませんから、あなたが直接話してみたらい
いでしょう」
そこで我輩はこの男を連れてノルウェー汽船に船長を訪ねた。途
中で男が荷物船だから承諾するのは難しいだろうと言って逃げよう
とするのを無理に引っ張って波止場からボートを雇って汽船に入っ
た。すると船長がちょうどいたから丁寧な言葉を使って便乗を依頼
した。船長はすぐ承諾してくれたのでホッと一息吐いた。船長の名
はゲリーソン。自分の船ノルウェー号とともにバンコクにウエスと
いうドイツ商会に雇われタイ米をシンガポールに輸送するのが仕事
だという。年は60を越えアゴと頬のヒゲは白く頭髪は半ばハゲか
けている。しかし幾十年潮風に吹きさらされた顔は血色がいい。こ
れでは中途半端な若者では足元に及ばない。
出航は翌25日だというので一度別れて翌朝8時にやってくると
2000トンのノルウェー号は煙突から黒煙をムラムラと吐いてい
た。飛びのってタラップを駆け上ると、船長は出迎えて
「ハロー、勇気ある日本人旅行家!」
と痛くなるほど手を握った。
やがて錨を抜いてシンガポールを出港した。翌朝マレー半島を左
に見ると同時に、右の遥かに安南の陸影を眺めた。航海4日、28
日午後1時チャオプラヤー河口に達したが、バンコクまでにはなお
16キロほどを航行しなければならなかった。
午後3時ノルウェー号はウエス商会の桟橋に着いた。我輩は下船
するにあたって船長ゲリーソンに精一杯のお礼をしなければならな
い。
面識のない極東の貧しい書生をここまで親切にもてなしてくれ
るとは我輩も最初から予期しなかった。今となっては航海中イモの
皮むきしかしなかったことが恥ずかしい。
我輩は船長の手を堅く握
り厚く礼を言って立ち去ろうとした。すると船長はタイ視察を終え
て再びシンガポールへ帰られるならば遠慮なく申し出てください、
いつでも連れて帰りますと言ってくれた。この言葉に深く感謝した。
当時のバンコクの在留邦人は100人足らずだ。職業は大使館員
領事館員、飾り職、写真家、画家、医師、理髪職、コーヒー店など
で、あまり大きな声では言えないが女郎屋も2軒あった。この女郎
屋に有名なやり手婆がいるそうだ。女は日本を出てから30年に
るそうだ。最初はお決まりの甘い言葉に乗せられ日本を脱出し、上
海に着くとすぐに売り飛ばされ、その後流れ流れてバンコクへ来た。
人は上海婆と呼んでいるそうだ。
バーン・パインの駅でコラットまでの列車に乗りアユタヤに着い
た。ここはタイの旧都で150年前までは人口50万人だったそう
だ。山田長政はここで権威を持った。彼の業績は今更話すまでもな
く我々の記憶にはいつも新しい。この付近に日本人町の名称が残っ
ているのが何よりの証拠だ。もし彼があと10年生きていたら、そ
の業績は一段と華々しくなっただろう。その魂は今はどこをさまよっ
ているのだろうか。立派な建物も荒れてアユタヤの過去の栄光は今
求めることはできない。長い年月を経てもなお情の深い人はその感
慨に耐えることはできない。
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