今日も少々寒いが、I君の呼びかけで安城3団の雄志で花見を開催。何が話題になったかというと、今年は役員改選で新しいコミッショナー体制になる。問題はボーイスカウト部門担当のO。今でも刈谷のベンチャー指導者はOがいるからと言って出てこない。ひどく不人気。27,8歳であるが、碧海地区では一応富士スカウト第1号。県連の偉いさんの前ではでは‘こび’を売って人気取りをする。ところが同年や、下の者(年上でも地区役員でない指導者を含む)に対しては、言動が横柄、時の権威にへばりついて虎の威を借りる。また以前、愛知ローバースの議長をしていたことから、何かにつけて偉そうな口を利く。その目に余る言動は、県下でも有名。同年代の青年からは特に嫌われている。そういう人間をなぜ地区で停滞しているBS部門へ配置したのか?解せない。協力が得られずもっと低下してしまうだろう。もう一人運営委員長になるH(もう50をとうに過ぎている)も、どうしようもならない人間である。非常に横柄で専制的。大丈夫かな?まあ、人間関係の絡みは大変だ。やらせたい任せたい人間は忙しくてなかなか出られない。やらせたくないやって欲しくない人間は暇で時間がある。結局そうなってくる。職場でも人望があるから忙しくなる。ボランティアまでは手が回らない。そんな井戸端談義もあったが、親子連れでの参加が多かったので小さい子どもたちが大騒ぎで、そんな光景を目の前にすると「しあわせ」を感じない訳にはいかない。のどかな一時だった。
世の中に‘非行少年’と言われる子どもがいる。‘非行’は‘非幸’から起きる。「幸」は人格が受け入れられていれば感じることが出来る。‘非幸’はそれが受け入れられない、または否定される‘疎外感’‘孤立感’である。それをずっと我慢して極限に達したとき、そのストレスが爆発する。C君は小学校でひ弱で、おまけに「ドジ」だった。みんなの輪にも入れずに校庭の片隅で一人遊びをしていた。そんな彼を担任は「グズ男」と呼び、「ハイ」と返事をさせられた。みんなも「グズ」と呼んだ。中学では、同じ小学校の生徒だったのが、それを担任にバラした。その先公は、悪のりして翌日から名前代わりに「グズ」と呼ぶようになった。C君は‘何でオレばっかり恥かかせやがるんや!’とむかついていた。そして、ある授業中、いきなりイスを振り上げ教卓に走り寄り、素手を含めて数回にわたり男性教諭(32)を殴り、全治二週間のケガを負わせた。4年半余にわたり、C君の存在そのものを、学校という社会が否定し続けた結果の事件だった。ちょっと図式してみよう。
教師…校内暴力
家庭 不安 感情袋 爆発 親 …家庭内暴力
→ → → → 弱者…いじめ
学校 不満 ストレス エネルギー 自己…自虐・自傷行為
自殺・不登校
C君の例からも分かるように、‘いじめ’や‘学級崩壊’は集団の持つ雰囲気が大きな影響を持つ。教育現場の病根は‘学級の雰囲気’の中にある。今のところその雰囲気は‘担任’により醸成される。ペーパーテストで高得点をあげ、従うことに慣れきってしまった優等先生に‘疎外された子ども’や‘屈折した環境に育った子ども’の気持ちは理解できない。そういう先生は学校で何を教えるか‘損や得’しか教えず‘力’で従わせる。C君に殴られた担任も、他の生徒には気に入らないことがあると暴力を振るっていた。往々にして先生というのは‘権威’を守ろうとして横暴になる。従わないと‘脅す’。脅して表面的には何もないかのごとく振る舞う。一皮むけば腐っている。子どもはストレスを抱えている。クラスの雰囲気はよいはずがない。同様にボーイスカウトも同じ。月に1,2度しか合わないのに、子どもは正直である。怒ってばかりの専制的なリーダーの下では、ストレスをためたスカウトになる。それに耐えきれずに爆発する代わりに辞めて行く。ボーイスカウトの指導者訓練でも‘従うことで学ぶ’というのがある。これは貧しく(物質的に)豊かになろうという時代の産物である。今は、価値が多種多様化している。だからこれからは“合意形成”をしていく時代である。その手法を我々指導者は学ぶ必要がある。
もちろん先生も指導者である。生徒との間に“合意形成”する必要がある。先生たちは全く時代の流れに無頓着である。上意下達で言われたことをマニュアル通りするしか能力がない。それを力ずくで遂行してしまう先生が有能視され管理職になる。だから上昇志向者は、組織に忠誠的にならざるを得ない。そこでは‘画一・統一’が絶対視されるので、個性(いきかた)はなくす必要がある。閉鎖的な封建社会である。個性(いきかた)を発揮しようとする先生は育ちにくい。寛容な先生は排除される。だから教育力は衰退する。‘目先の結果’が重要で『将来の結果』はどうでもよくなる。将来能力を発揮する生徒がつぶれる土壌が見事に出来上がっている。将来能力を発揮する人間は今の枠に当てはまらない。どうしてもはみ出てしまう。残念ながら今の学校体制ではそれを受け入れる器量はない。画一・統一はユニークネスを否定するものだから。ユニークな校長が出現しない限り、生徒の才能は将来開花しない。ユニークな人は排除されてしまうから、校長にはなれない。特にこの愛知県というのは99%不可能。だから外部校長に期待したいのであるが、ままならない。仕方がないから、そっとその生徒の才能を認めてやる。そして現実が将来の夢に叶うように“希望”を渡してやる。生徒がその“希望”をどう育てるか見守る。今年はどんな“希望”を生徒に渡してやろうか、と思うとワクワクして「しあわせしあわせ」だよ。
2001.4.1
今日から、銀行が合併して巨大化するようだ。巨大化したところで不良債権はなくならないのにねぇ。毎日新聞に面白い記事が載っていた。“全国の銀行の融資などは531兆円ある。これを‘大木’に例えると、銀行が掃いても掃いても、大木から不良債権という‘枯れ葉’がどんどん落ちてくる。カブの含み益を掃除の原動力にしてきたが、株価がバブル後最安値を更新し、「掃除力」はガクンと落ちた。このままでは銀行が枯れ葉の山に埋もれる。つまり経済の動脈の金融機能がマヒしかねない。春になれば、普通枯れ葉は落ちてこない「陽気」、つまり「景気」がよくなれば不良債権問題は解決するという見方もできるが、陽気にならないので政府は大木の周りで「経済対策」という名の‘焚き火’をやって、春を演出しようとしたが、上手く行かなかった。”“大木は日本経済そのもので大木が腐ってしまった。あちこちの枝れ葉は虫に食われ、幹も弱って「陽気がよくなってもこの木はロクな花も実もつけることはできない」と。ダメな枝葉は切り落として枯れ葉の発生源を絶ち、新しい花と実を咲かせる方に養分を振り向けないと、大木(日本経済)が倒れる。”“ダメな枝れ葉は衰退産業、つまり土木建設業界などで、新しい花と実がIT(情報技術)産業である。”“不良債権は、お金を融資しても意味のない事業や投資にお金が回った結果だ。それでバブルが生まれ、木(日本経済)はブクブクと大きくなり、葉は生い茂ったけど、ちょっと陽気がおかしくなると、葉がすぐに枯れるようなひ弱な木でしかなかった。”
‘枯れ葉’は‘物欲’の結果である。この‘物欲’は麻薬と同じで、一度はまると止められない。モノがあってもあってもなお、欲しくなる。止められない。そして物欲はついには人間を‘悪魔の化身’に変え、強盗や殺人鬼にしてしまう。先進国はみんな一度はそうした経験をした。そして環境破壊という思わぬしっぺ返しをくらい、循環社会構築に始動した。資源効率とエネルギー効率を高め、廃棄物をなるべく出さずに、モノもエネルギーも緩やかにめぐるというのが循環型社会である。日本も昨日から「リサイクル法」が施行されたが、今の技術水準では、勘定に合わないし、地球環境に貢献するともいいがたいようだ。それ以上に心配なのはやみに葬る不法投棄の増加だろう。個人ではなかなか出来ないから業者が一手に引き受けるのだろうね。銀行は自分の生き残りしか考えていない。もっと庶民の生活に貢献しようとする意志が必要だろう。ブクブク太ることしか考えていないから、いつか庶民に切り倒される。ひょとして暴動があり得るかもね。
それはさておき、自然界は生産者(植物)−消費者(動物)−分解者(バクテリアなど)と分業が明確で循環している。この中で一番重要な要を担うのが『分解』である。人間界における“リサイクル”は人工的な分解機能を果たす。循環型社会の最大の課題は、この“リサイクル”の位置づけである。今は非効率であるが、近い将来効率的な循環システムができあがることを信じたい。それには、まず企業は人のライフサイクルに再資源化しやすい商品の導入や優遇が先行させる必要がある。そして個人も“グリーンコンシューマー”となり環境に配慮した購買になじむことがいい。「ああ、もったいない」と言って使う。民間は企業努力していると思うが、官公庁は果たしてそうだろうか?どうも無駄が多い気がする。学校だってISOを取得する努力は必要だと思う。それなのにうちの学校では、新聞は‘リサイクルBOX’に入れずにゴミ処理場へ…なんて書いてあった。どういうことなんだろうか。新聞の記事をストックしている僕にとっては個人的に不都合だなあ。なくなってしまうと図書館でコピーしなくてはならない。資源の無駄遣い。ゴミ処理にまで効率を導入していては…。でもこうしてやりにくい状況になればなるほど、新たに工夫する余地が生まれる。そういう意味では有り難い。「しあわせしあわせ」だね。
2001.4.2
朝から、環境研修会の資料作りで大わらわ。まだ出来ていない。しかし、真っ昼間から美味しいお弁当とお酒をいただきご機嫌、「しあわせしあわせ」。この“ご機嫌”というのは、普段が味気なく素っ気なく、なんだか物足りなさを感じるから“ご機嫌”になれる。つまりご機嫌で「しあわせ」なのは、大部分がそれ以外の「しあわせ」でないからである。そんなこと当たり前なんだけれど、その「しあわせ」に浸るともっと続いていて欲しいと願ってしまう。なぜ願うのかといえば、「しあわせ」は長続きしないと思うからである。でも本当に長続きしないだろうか。仕事で忙しくて休んで寝る暇もない人にとって“何もなくボケッとしていられる人”を見れば「しあわせ」に見えるだろうし、仕事がなく、その日の暮らしにも困っている人にとっては、忙しく働いている人は「しあわせ」に見えるだろう。そうなればあらゆることが「しあわせ」になる。ところがそれに気づこうとしない人が多い。気づこうとしないから「しあわせ」と思えない。僕もこうしてモノを書いていても、お酒で眠たくて、トロトロしながらやっている。トロトロできるから「しあわせ」だなあと思う。戦時下だったらとてもこんなトロトロやっていられない。あの“アンネの日記”のアンネ・フランクは「しあわせ」だったのかなあ?ふと気になった。気にできる僕は「しあわせ」だよ。
<お母さんは、人におこるときは長く/自分が失敗したら/「へへへ。」/と言い、すぐ終わり。私がちょっと注意しただけで/逆ギレしてまたすぐおこる。/人を注意するのに15分で/失敗した時は、ヘヘヘフフフを15秒間/とっても短い。/お父さんも手が出せない。/かわいそうな私とお父さん。/ちょっとムカつく。><おかあさんの手、たいおんけいみたい。/ちゅうしゃのとき/おかあさんが/てをおでこにあてた。/おかあさんは、36どといった。/わたしはしんぱいだから/たいおんけいではかったら/36どだった。>京都の小学校教諭笠井文範さんのHPにある。
こういう“詩”で毎日を表現するのもイイねぇ。<窓の外を見ていると、ワゴン車が走っていく。/空がどんよりしていてる。/よく見ていると、イモムシが大急ぎで家に帰るようだ。>人間は“目で感じる”ことが出来る。その目の奥には自由な無限大の空間がある。あらゆることを作り出せる人間の作業場である。目を空いていると見えるモノしか見えないが、目をつぶると何でも創造できる。そして何でも出来る。笠井さんは教室でみんなで読み合うと「共感やつながりが広がる」と言っている。これ重要なんだ。“わかちあい”だ。最近人間関係が希薄になったと言うけれど、この“わかちあい”がないからだと思う。自然体験や環境の研修会には“わかちあい”がつきもの。だからとても気持ちがよくなる。落ち着く。笠井さん「事実だけを書けばいいよ」と言っている。そうすれば、言葉の隙間から、気持ちがポタポタにじみ落ちてくるそうだ。大人も思春期の入り口の心を開いて聞きたい。夜も飲めてホロ酔い気分「しあわせしあわせ」。「しあわせ」がいっぱい。お酒は神さまだね。もちろん悪魔も神さまだよ。嗚呼、うつらうつら。
2001.4.3
ようやく来週の環境研修会の内容を決定した。隊集会の活動を取り入れ、それを「つながり」と「わかちあい」につなげる。取り入れる活動は「新聞ちぎり」「縄ずもう」「引っ越しゲーム」である。単純にゲームとしてあそぶと‘新聞をいどれだけ早く長くちぎれるか’‘一本の縄を引っ張ったり巻き付けたりして相手を倒す’‘安全地帯を「引っ越し」という合図で鬼にタッチされないように渡り回る’こんな風になる。ただ“愉しかった”だけにするのではなく、もう少し視野を広げてみると「この新聞って、何で出来ているんだろう?」「相撲に勝つには何が必要だろう?」「最後までタッチされなかった人は運がいいだけだろうか?」など関わり合う内容を問いかけてみようと思う。そして参加者にそれぞれ感想を述べてもらい、分かち合う。
このことはとても重要なことだと思う。今の学校も家庭でもみんな‘やりっ放し’。反省はするが、反省するのはその結果だけ。結果だけ反省し、マイナス部分を改善しようとする。何か忘れている。反省は“振り返り”でもあるが、“わかちあう”こととは少し違う。先のゲームでもゲームである以上“勝ち・負け”がある。一般に考えると、「勝ち」がいいように思えるが、『負ける』のも重要なんだと言うことをほとんど伝えていない。『負ける』ことは勝った相手を喜ばせている。喜んで「しあわせ」、つまり「しあわせ」をあげていることになる。それも、互いに一生懸命やって相手が勝ったわけだから相手は嬉しいのである。反対に自分は、一生懸命やって“くやしい”という「しあわせ」をもらえた。そこには“次は勝とう!”という『希望』が生まれる余地が出来たのである。もちろん悔しくていじけるのも一つの選択である。「さあ、君はどの選択をする?」そう問いかけることが出来る。逆に勝った場合は、『油断』という大敵に向かうことになる。また“次も勝たなくては!”と気負うかも知れない。これは『不安』じゃあないだろうか。“いや、次も勝つんだ!”という『自信』になるかも知れない。ここで重要なのは、人生は『勝ち・負け』がつきもの。‘勝ち’にこだわると「しあわせ」は勝ちにしかなくなる。“負け”の「しあわせ」がなくなってしまう。なぜそうなるか?勝ち=善、負け=悪、そう考えるからだろう。
これを解消したスポーツがある。“ゴルフ”である。ゴルフはグロス(実打数)で競えば、練習をして上手い人が常に勝つ可能性が高い。それでは面白くないのでネット(ハンディ制)を導入して面白くした。さらに“ダブルペリア”と言って、隠しホールを作る。そのホールは、どんなに悪いスコアであってもみんな「パー」になる。だから、色々な人に優勝の可能性がでるのである。要は愉しむために工夫されたアイディアである。それでも僕なんか全くダメなんだから、よっぽど下手なんだけどね。でも時々外でプレーして遊べるんだから「しあわせ」だと思う。そして下手さ加減を披露するわけだから、勝つ人が出来る。優勝者に「しあわせ」を献上したんだから、そんなに嬉しいことはない。優勝者から商品をもらってもイイかもしれない。今の競争社会を解消するのは簡単。一番敗者が一番いい商品をもらえばいい。勝とうとする人が減るのは目に見えている。競争社会というのは、「物質的豊かさ」という餌につられて走っている‘お馬さん’の社会だった。餌がなくなれば走る気力は萎える。
受験もくじ引き合格にすれば一気に片づく。入学まで競争させるのではなく、入学してから、自立競争・自律競争をさせたらいいと思う。「何を自分はしたいのか・出来るのか・する必要があるのか」を考えてPDCA(プラン・ドゥー・チェック・アクション)する人材を育成したら、きっとユニークな人間が世の中を闊歩するようになると思う。‘型にはまって決められたことしかできない人間’の時代はもうお終いにしよう。‘何事もつつがなく’より“何が起きるか分からない”方がはるかに人生はドキドキして面白い。ただ、「暗記力≠学力=創造力」をいかに社会通念にするかが問題だろう。そして人生の‘勝ち負け’は結局五分五分である。今日はこんな風に創造できて「しあわせしあわせ」。
2001.4.4
世の中は本当に深刻なんだろうが、あまり実感してこない。また経済ばかりでなく、農林水産業も不漁不作。テレビを見ていると、悲観的な様相を見せている。根室のウニなんて全く捕れない。さらにロシア船が大量入荷する。しかし、値が張らない。市場が言うには「もうそんな高いものを買う‘あぶく銭’を持っているのがいない」。そこにも‘デフレ’の波がある。深刻には違いないが、「春秋」(コラム)には“銀座を歩いていると、若い人たちが愉しそうに買い物をしている。日本は危機だというが、どこが一体、危機なんだ”とドイツ外交官。それに対して“確かに街に失業者が溢れているわけではない。人々は相変わらず豊かさを謳歌しているように見える。日本は「ぜいたくな悲観主義」に陥っているわけだが、企業内失業など危機は潜んでおり、痛みを伴う構造改革に踏み出せば問題は表面化する。”と答えても理解されない。このドイツ人の目と日本側とのギャップは大きい。
日本の社会構造だろうね。定職に‘つけない’‘つかない’青年層を許容する“親たち”が多いから、相変わらず青年は‘悲観的’にとらえていない。どこまでその“親たち”は子どもを許容するのだろうか?きっと右隣も左隣もみんな解雇され出すと実感するだろう。それが本当の姿なんだからした方がいいが、政府のあの態度、公的資金を投入したり、ペイオフを延期したりして、悪徳銀行を救済している。熱を出している患者にドンドン抗生物質を投与しているのと同じ。このツケは大きな副作用として返ってくる。熱を出したら、隣の冷えた部屋で寝間着だけで寝ていればいい。すっと解熱する。‘幻の景気’をいつまで追っていくのか。
変な話し、甲子園。春はまだ寒いやらでいいが、夏の甲子園。高校生の熱戦の模様がNHKで放映される。その高校生の白球を追う姿に国民は感動する。主役の高校生は、ボロボロになるのが多い。生き残って、プロで大成するのは0.01%程度じゃあないだろうか。プロ野球だって真夏の炎天下で連投なんかしない。それをあんな炎天下でやらせて見せ物にしている。ところが誰もそれを非難しない。これまでマスコミは『甲子園』を非難しただろうか。なぜしないのか。はっきり言って‘日本残酷ショー’だよ。まだ身体が出来ていない高校生にあれだけの負担をおわせば、身体が壊れるのは明か。それを残酷物語と言わなければ何と表現するのだろう。日本の銀行とかけて炎天下で倒れた高校球児と解く。その心は“くたばっているのを無理矢理起こさないで欲しい”。「景気」という幻想を夢見て行われる銀行救済は、倒れた球児に「甲子園」という幻想を抱かせ水をかけて発憤させるようなもの。一時的に目が覚めるが、疲れはとれない。高校球児もつぶれたように、銀行もくたばってしまうのはそんなに遠くないだろう。止めて欲しいなあ、あれは。代わりに“大学選手権野球”を放映して欲しい。19歳までは無理に体を使わない方がいい。高校生までは監督次第でどうにでもなる。指導者の采配で高校生は成果や結果を出す。
女子はいい。倒れる前に「もうダメ!」と言って倒れてくれる。だから、練習は8時間でもイイ。それも毎日。そしてやった分だけ身につく。男子は倒れたらもう病院送り。練習は2時間が限度。2時間集中して練習する。また男子は個人技もチームプレーには大きな要素である。いずれにせよ基本は「考える」こと。“考える生徒”は伸びる。考えないで才能だけの生徒は、上がり下がりの波が激しい。あの未完の大器のKがそうだ。まあ、いずれにせよ、大人は純粋な高校生を売名行為の道具にすべきではない。監督に必要とされるのは「こころ」を教えること。「いきかた」である。「いきかた」は“個性”。つまり、監督は“個性”を見いだしてやることが仕事なのだろう。指揮官とはそれが責務だと思う。
「決して“勝つ”ことに意義があるのではない」ことをしっかり教える必要がある。昨日のぶり返しであるが、‘勝つ’と学ぶことはないかもしれないが、“負ける”と学ぶことが非常に多い。学ぶことが多いから人間は成長していける。学ぶから強くなれる。勝ってばかりのエリートはもろい。ちょっと足を踏み外すと一気に奈落の底に転落して行く。僕のように負けてばかりで、危機をたくさん乗り越えてくると、ちょっとやそっとでは潰れない。確かに、危なかったことも多い。しかし、こうして毎日「しあわせ」を感じられる。嗚呼よかったなあ、と振り返ることが出来る。“負け”が多くて本当によかったと思う。「しあわせしあわせ」。銀行も負けさせてやらなければ、国民にも火がつかない。混乱を避けていてはいけない。痛みを避けていては行けない。ドン底は早く経験した方がいい。いつまで‘エリートブリっ子’しているんだよう。親たちも、早くパラサイトを追い出せ!子どもに“負け”を教えなさい。
2001.4.5
ああ、よう働いた。17時までいるなんて久し振り。明日の準備で、5時過ぎまで勤務した。石原知事も訓辞で「公務員だから5時で帰れると思ってもらったら困る」と述べていた。一般企業に比べたらとてもぜいたくな話しだが、準備準備だった。時間割、座席表、清掃区分及び区域の表示。そして「SANSHII-KURABU」いわゆる学級通信の作成。NO.1を書いた。担任の紹介で以下を公開。「
氏名、生年月日、星座、血液型、キャラクター、家族、住所、TEL、M-phone、i-mode、E-mail、http://、学歴、職歴、趣味、特技、自己PR、座右の銘、いきかた(個性)、嫌うこと」これを作った。これだけ公開すれば、十分でしょう。丁寧にやるので結構時間がかかった。久し振りの担任であるのでドキドキだね。しかも3年生。学年主任はかろうじて避けたが、気がつくと、担任では僕が一番年長者である。
それはともかく、公務員も次第に能力給に移行するが、公務員の能力給は一体どうやって査定するのだろう。教員の査定は校長の一存。ニコニコ顔で笑って嬉しそうに従うのが最良なのかな。だから監督責任者の思うままの人間が査定価格が上がる。ただ給料等に影響することはないが、客観性項目がないので、独断と偏見に満ちていることを否定できない。なぜ公開しないのか。都合の悪いことばかりやっているんだろう。プライバシーの保護だと言うが、そうすると確実に“自分発見”が遅れるだろう。独自の偏見で塗り固められた個人が出来上がる。情報は公開が必然。でないとあの‘機密費’のようになる。中小企業も個人経営もいくらでも私的流用は可能である。ある意味ではバブルまでは美味しかった話である。今苦しいのは、それを捨てきれないからで、簡単に政治に責任を押しつけるのは疑問だ。基本的に自己努力をしない‘身勝手本願’である。自分の都合しか考えない。だから、パンクする。これは大手企業も同じ。公家企業は破綻。野武士企業は生き残っている。
これは人間にも当てはまる。部屋の中で守られた人間は、体力も気力も精気も萎える。室内外を比較してみると:
(室内) (屋外)
発汗 少ない 大きい
直射日光 当たらない 明るさの変化大
明るさ一定
視界 狭い 拡大
音 反響良 吸収
風雨 守られている さらされている
運動量 少ない 多い
声量 小さい 大きい
何もしない便利・快適さを求めると知的な部分は満足できるが、本来持つ人間の野生とか野蛮な部分は欲求不満になる。つまり、人間のストレスはその野生性を開放してやれば解消できるのである。跳んだりはねたりなんてまさにそのものズバリの人間の野生性である。顔つきを見ても分かる。顔がブラックホールに入りそうな顔した学者が時々いる。また目がギョロッとしていたり、話すときに口が歪んだりする人結構いるいる。みんな室内生活の弊害だろう。人間個人にしても外で働いている人は生き生きした表情をしている。外で体を動かして適度の疲労をしてそれを終えたときの開放感を過ごしている人に‘うつ病’はない。じっと頭の中で考えてばかりいるから閉塞感に襲われる。今持っている全能力を出し切る生活が『心の健康』にも役立つ。知的労働は、給料はいいかも知れないが体の健康に補償はない。肉体労働は、賃金は安いかも知れないが、身体はすこぶる健康でいられる。特に外での労働は人間に合っている。
「仕事」はやりたくなくてもやらなければならないのは、ほとんど知的デスクワークに当てはまる。「趣味」はやりたいとき好きなときだけやる。双方にはそういう違いがある。しかし、‘好きなこと’を仕事にしているからと言って「しあわせ」とは限らない。好きな「碁」をしているプロは厳しい。常にそれを考えていなくてはならないのはストレスである。大多数の失敗者の上にプロは成り立っている。努力しても「運」と「偶然」が味方しないとプロで食べられない。王貞治も「野球(仕事)以外の時に野球は考えたくない」と言っていた。そうなると“趣味”というのもストレス発散になる。僕は、道楽で仕事やっているから、もうそれだけで愉しい。対象が生きているから刺激的だと思う。次に何が起きるんだろうとドキドキできる。ワクワクできる。それだけで嬉しいじゃない。だからすぐに「しあわせしあわせ」。今年は久し振りに担任業務。また色々なドラマが展開される。嬉しいねえ。これが、ビクビクになる人はストレスになってしまう。同じことでもとらえ方でまるっきり違ってくる。あなたは仕事ワクワクですかビクビクですか?
2001.4.6
慌ただしい1日だった。始業式で学校が開始。書類組み替え整理や大掃除、ついでにクラス役員まで決めてしまった。以外にも室長の引き受けを申し出たのですんなり決まった。校舎は5棟で一番古い。しかも放れ小島の離島って感じ。他にも総務なので雑用が多くてバタバタと仕事と言うより作業に勤しんだ。何とか『写仏』へ出かけた。そして夜、カブ隊のナイトプログラムの前にデンリーダーの懇談をしたが、カブスカウト教育の本筋はデンリーダー中心にプログラムが展開されるのであるが、やはりそれは‘幻の理想’でしかない。どう見積もっても‘お手伝い’である。それ以上の意識がないのが現実。組集会の主催なんてとても出来ない。もちろん要求も出来ない。その現実に出くわして‘ショック’は隠せない。進歩課目なんてとてもやれないのが現状である。遊ぶ面倒も見られない、と言うより見たくない。
スカウトの面倒を見ると言うより、連絡をしたり、隊集会でついて歩く、アクティビティ進行の手伝いをする、キャンプでは食事の手伝いをする。そんなくらいかなあ。そして進歩課目のことは、壁掛け表を作ってスカウトにシールを渡して貼らせるくらいしかできないことが、話をしていて分かった。それ以上の要求はとても無理。よく耳にするのが、「どうして決まった人しかデンリーダーをしないのか?」「順番でみんな平等でやるべきだ」「半年だと言われて引き受けたら1年だと言われて…」「組は編成し直さないで欲しい」。結局よく聞いていると‘やらされている’という感覚から抜け出せない。この感覚は指導者の‘やってやる’という感覚に類似する。何とか“やさせてもらう”“やらせて欲しい”という意識にしたい。しかし、現実は無理。やはりお母さんが中心だからである。家事、育児、子供会など一切を引き受けている以上、時間的な余裕は99%ない。父親や祖父母などの協力がない限り出来ない。
だからお父さんが引き受けてもらえると実にスムーズに行く。お父さんは家事をほとんどしない、育児にもあまり関与しない、子供会にはでないことが多い。今、リーダーになってくれたKさんは、お父さんデンリーダーからリーダーになってもらえた。しかし、お父さんなら誰でもやってもらえるわけではない。本質的に、雑用からスカウト指導までが好きじゃないとやれない。そんな人との巡り合わせがあると指導者になってもらえる。Kさんはそれなりのお酒も飲めるし、夜も強い。ボーイスカウトリーダーにはもってこいである。そして何よりも、こまめに雑用を「それやりましょう」といってやってもらえる。かつての自分もそうだった。BS隊だけを担当していた。あれもこれも考えて様々なことに取り組んでやった。情熱を持ってやった。その情熱が、現在のCS隊、BS隊、VS隊の隊長になった。今考えれば、直接的であれ間接的であれ将来の仕込みをしたのである。その「つながり」が重要である。しかし、その後が育っていないのが問題である。
新たに後継者育成をすればいい。あまり深刻に考えても仕方がない。とりあえず、僕が貢献できるのは、大学生年代を上手く指導者に育成することぐらい。今日はデンリーダーの現状がよく分かったのはとても参考になった。“やらせてもらう”方向性が目標になった。いいことだ。「しあわせしあわせ」。
2001.4.7
久しぶりにTV寺子屋を見た。長倉洋海(写真家)がアマゾンへ取材に行った話をしていた。“物がないと人と人が濃密になれる。そこには生きる知恵がある。200人が共同で暮らしているので壁がなくプライバシーもない。『こんにちは』という言葉がなくニコッと笑うだけ。しかし子どもは色々な人と接することで、自分は何が好きなのかなど自分が見えてくる。”この“プライバシー”であるが、現代社会はプライバシーの侵害だと言ってプライバシーを守ろうとする。‘引きこもり’はプライバシーが守られる社会で起きる。便利で豊かな社会ではできるだけ人との接触を減らそうとする。それが‘引きこもり’を誘発する。なるほどこれは一つの現代病理だろう。
“彼らは『ボディペイント』をしているが、これは『名刺』代わりである。種族ばかりでなく、悲しい気持ちや嬉しい気持ちも描かれている。”“『祭り』。祭りには祖先がやって来るという。祭りが美しく楽しければまた先祖は安心して帰って行く。自分が死んでも、子孫の祭りへ行ける。大きな川の中に祖先〜子孫までがつながっている。だから彼らは‘死’をとても嫌うものではないと言う。”“「私」は『宇宙』そのものである。宇宙には無駄がない、全て必要。全てに価値がある。”これは重要な感覚。‘価値’なんて人間が勝手に決めたもの。‘人は何かするために生きている’と思っている。しかし、「人は何もしなくてもいいじゃないか。ただ生きているだけで価値があるし、素晴らしいことなんだ。」現代社会でセコセコした世の中では、生き甲斐だ、目標だ…と言っているが、それは単なる相対的な価値の幻想に過ぎない。絶対的な価値は、『宇宙』があってその中に『地球』があってそして『人間も他の生き物もいる』。ただそれだけで価値がある。「私」も「あなた」もみんな『宇宙』なのである。あなたと私は違うのではなく、ともに宇宙の一部である。
アマゾンの人たちはもう既にこんな感覚を持っているなんて凄い!未開だと言われている。野蛮だと言われている。しかし。、実際は薬草を1000種類も知っていて使い分けられる。草がガサガサとすれば、何の生き物かすぐに分かる。コンクリートジャングルの塀に囲まれて、ギクシャクする人間関係の中で、機械とにらめっこしたり、時には機械に使われたりしている人間にそんな能力があるだろうか?どちらが「しあわせ」を感じられるか。写真集の表紙に17歳のお母さんが赤ん坊を抱いてニコッと笑っている。その笑顔が実に美しい。何を見て笑っているのかというと“サルががけを登っているのを見て笑っている”。えっ?何でそんなことがおもしろいのだろうか。“普段はジャングルの中をゴソゴソやっているサルが、今日はがけを登っているので、とても珍しい。それを見て笑っている。”「人は何もしなくてもいいじゃないか。ただ生きているだけで価値があるし、すばらしいことである。」その通りだね。人間は生きているからには何かしら義務がある、と決めつけている。何もしなくても出来なくても、生きているだけでいい。これは仏教にもある。仏教なんかもっと過激。悪いことをしても大丈夫。信じれば、念じれば、みんな救われる。そう教えている。いいねぇ。懸命に努力している(きっと我欲のために)人は腹を立てる。ところが、相手のために、他人のために、地球のために…、そう努力している人は喜ぶだろう。あなたはどちらですか?悪いことしても、サボっても、だましても、信じれば救われるよ。なんて言う人がいたらどう感じますか?僕は、喜んでいる。アマゾンへ行きたい!しかし金銭的余裕がない。
10時から専門学校の入学式。サクラ吹雪の中で入学写真。ああ何ていい日和なんだ。クラスは8名。担任の先生は、J先生で上海出身の中国人です。もう結構長く日本にいるみたい。ちょっとした説明を聞いて今日は終わり。その後は、花見。20人くらい集まっただろうか。卒業生のE、M、M(1年の時担任した生徒)も来て愉しく半日過ごした。やはりサクラ吹雪で、お酒の中にも花びらが入って花酒。いい気分だった。「しあわせしあわせ」。世の中何かしなくては、と焦っている人がいる。
2001.4.8
今日から授業が始まった。形態を変えたので、準備が大変であるが、授業は比較的楽である。生徒は仲間と作業で、僕自身は個別指導に専念すればいい。クラス内は多少騒がしくなるが、生徒はストレス発散になるだろう。学年集会があったが、やっぱり‘脅し’で押さえるしかないんだなあ。整列させるのに怒鳴るしかできない。教員の習慣づけが出来ないので生徒は静粛に整列できない。また家でも叱られたことがほとんどないのが実状である。そういう人間を怒鳴ってもねぇ…。一つの刺激として‘脅し’を利用するのではなく、押さえつけておとなしくさせる手段である以上、脅しは不満と不信と偏見しか残らない。‘嫌なやつ’という印象しか残らないけれど、身体的実害がない限りはとりあえず騒ぎ立てるものでもないからまあ、イイっか。イヤミの多い先生がいるが、そんなに茶渋のように生きなくてもいいのにね。苦い味を出すことない。もっと“するめ”のように噛めば噛むほど味が出る生き方がいいと思う。まあ、40代前半まではいいが、後半になると‘ごう慢さ’が牙をむき出す。苦くさびた臭い味になる人が多い。何故だろう。心の中の栄養不足が変容して言動の基になるんだろう。心身には“無欲”が栄養源。心身はどんどん豊かになる。‘欲’は心身から逆に栄養を奪って太っていく。
さあ、この生徒たち。2/3が無事に職にあり就けるか。あり就いても2,3年は止めないで欲しい。仕事ができるようになるまで嫌でも3年は続ける。バイキング食べ放題で“仕事し放題”。そうすればその仕事は身につく。それまでは辞めない方がいい。それ以上に社会規範も学べる。家や学校では学べない。そのために“仕事に就く”。色々なことをしてマナーも学べる。トレーニング場である。好きなときに辞められるフリーターでは何も身につかない。ここで注意すべきことは「これは自分が求めていた仕事ではない」と思う思い違いをして真剣にならないことである。往々にして‘こんなくだらない仕事は自分の仕事ではない’と拒否するバカにならないこと。本当に『仕事ができる人間』は、自分が求めていない雑用も早い。くだらない雑用を嫌々やらない。猛スピードで終えてしまう。会議には無用無駄はあるが、仕事に無駄はほとんどない。幸い僕もテスト採点など雑用は早い。「つまらないと思える仕事が、私の仕事だ」。黙々とやれば何となく気づく。
また、毎日くたくたになって帰ってくる仕事人間がいる。良く後悔しているようだが全く後悔する必要もない。それだけ身についているわけだから、そんなに嬉しいことはない。「しあわせ」である。ただ欲を言えば、他の仕事もできるようになるといい。嫌なのは基本的に人間関係。仕事ではないのでは?それもきっと無理に自分を認めさせようとするからだろう。認められない相手は相手にしなければいいのだが、それができないから悩むわけであるが…。そういう相手は「あんなアホには私の偉大さは分からない」と思っていればいい。何か言われたら、「ああ、そう?」と言っておけばいい。もっとひどいことを言われるなら「あなたにお金をもらっているわけではないから、従う理由はない」。そういう勇気があれば問題ない。どうしたら持てるか。各自違うから一概には言えないが、何か優越感をもてるものを持てるといい。
今日はオリエンテーション。月曜日と水曜日が実習日。試験は1日実技試験がある。何とか切りとかやるみたい。出来るまで何度でも再テスト(有料)やらされる。名前付きのコック服やコック帽を身につけると何となくその気になった。いいなあ。いい気分で「しあわせしあわせ」。替え用で2着ある。自己紹介をした時、棚田の話をしたら、J先生も薬膳で古代米なんか使うようなことを言われた。Tさんは“長崎チャンポン”を作りたいそうだ。教科書は7冊ある。「食文化概論・衛生法規・公衆衛生学・栄養学・食品学・食品衛生学・調理論」がある。ロッカーがあって置いていけるからいい。手ぶらで行ってもいい。さあ、明日から勉強が始まる。学校では“勉強し放題”。イイネ「しあわせしあわせ」。
2001.4.9
朝は定期健康診断だった。レントゲン、聴力、心電図、採血、血圧と15分あまりで終えなくてはならないから大忙し。まあ忙しいのは授業のある1限目だけ。あとは担任会(5限)とLT(6限)だけ。担任会では“進路”から説明があった。
もう来週から“面接指導”を始める。まず、「名前は?」「趣味は?」といった元原稿作りである。これは就職も進学も両方共通である。改めて感じたが、高等学校というのは就職者(進学者)の養成機関なんだ。学び、学問を愉しむというのはもうない。社会が要求する生徒製造器になり下がったのか。6限のLTは面接に役立てた。3人と話したが、目標を定めている生徒。絵を志す生徒、何も決まっていないで将来を不安に思う生徒。そうした現状が明らかになってくる。
ところで‘友がいない’のはなぜか。‘自分を崩さない’からである。他人から悪いことを言われぐちゃぐちゃに壊してもらうと成長して行く。その中から自分に合っているのは何かを見つけて行く。悪いことも言うのが友である。そんな‘理不尽’なことあるかと思うが、世の中は‘理不尽’だらけ。良いものが売れなくて悪いものが売れることもある。と言うことは、徹底的に‘理不尽’なことを学べばいい。そんな中から新しい発見があるものだ。そしてそんなに辛い努力をしなくて‘楽(ラク)して’生きたい人もいる。そういう人は楽してのっぺいり生きて、死んでいけばいい。さあ、徹底して軽蔑しあう他人を作って理不尽なことを考えて見るのもいいかも。いいことばかり言ってくれる人より悪いことばかり言ってくれる人から学ぶ方が、緊張感があっていい。「しあわせ」は案外、近くのイスのしたかも知れない。
授業が始まった。栄養学で新しい発見。細胞はドンドン生まれ変わっている。それでは、生きているって何だ?生命は?寿命は?と疑問が湧いてきた。そこで見つけたのが「生きている」ってことは“細胞の代謝行われている”っていうこと。代謝がなくなれば死ぬのである。こんな簡単なことだった。そしてその代謝には『栄養素』が必要である。3大栄養素は“タンパク質”“脂質”“糖質”である。これに“無機質”と“ビタミン”が加わって5大栄養素になる。食品衛生学では、中毒がドンドン増えている。調理には配慮が必要。こんなことを学んだ。学ぶのはいい。「しあわせしあわせ」。
2001.4.10
いやあ、身体も慣れてきて、学校も軌道に乗りだして、調理修行も順調で絶好調。今日は何と言っても「包丁研ぎ」。調理実習オリエンテーション。I教務部長が担当された。かっこいい!熟年の生きに入りかけの見た目もなかなか色男であるが、デモンストレーションで見せてくれた包丁さばき、実に軽やか。思わず見入ってしまった。タマネギのみじん切り。にんじんのシャトー。さすがに教官だけあってすごい。コックコートとネッカチーフの着こなしも実に決まっている。包丁はセットをもらった。中華包丁、牛包丁、なまくら包丁、出刃包丁、ペティナイフ。そして牛包丁で研ぐ実習。やっぱり上手く行かなかった。糖分刃物研ぎをやることになる。右手の固定が上手く行かない。泳いでしまうし、力が入ってしまう。手が立ってしまって、刃は立たない。爪の中は真っ黒け。研ぐだけだったが、実習は愉しい。いい気分だ。「しあわせしあわせ」。好きなこと、やりたいことをやっているというのは実にいい気分である。思わず顔がほころんでしまう。
今朝ニュースで「オランダは安楽死を法的に認めた」。すごいね、先日は同性の結婚を認めたばかりだというのに。悪い言い方をすれば「神への冒涜」、いい言い方をすれば「人間開放」。しかし、自然死をしていればこんな問題は起きない。人間の欲で長生きしたい、長生きさせたいと欲するからこういう問題が出たに過ぎない。やはり運命が来て「死」を迎えたとき、素直にそれに従う“意志”を今のうちから身につけておいた方がいい。人間死ぬ気になれば何でも出来る。そのためには『運命に従う意志』を持つことである。それも一つのトレーニングだ。“あるがままに”“なすがままに”。実に落ち着いて豊かな気持ちでいられる。天とか宇宙とかにお任せ。それに逆らって自分の心が‘欲するままに’するから苦しむ。例え自分の心でも、いい心とは限らない。悪い醜い心も同じ心の中にある。
しかし、良い悪いと言っても、それは人間の価値判断でしかない。地球上の他の生き物には全く無意味なものである。ところが、人間はこの地球上で唯一賢い生き物だと思い込んでいる。それは別に構わないが、“賢い”という一方だけでその裏側の“愚かな”という方を受け入れていないから、問題が起きる。人間の叡智なんてたかが知れている。宇宙に比べたら存在しないに等しい。もっと目を広げて見る。「しあわせ」はすぐそこにあることに気づく。僕はたっぷり気づかせてもらっている。やれることをやっているだけであるが、今日も絶好調。「しあわせしあわせ」。そして“運命に従う意志”を持っている。だから無鉄砲と受け取っている人がいるかも知れない。でもその人は不幸な人だと思う。きっとストレスマニアだと思う。キチッとやろうとしてどんどんはまっていく‘甘い罠’。実は‘苦しい罠’でもある。‘これでもかこれでもか’と追求して止まない。追求してどんどん立派になっているように感じている。しかしどこまで行っても切りがない。あなたは大丈夫ですか?僕は運命に従っているから、今を満足している。
2001.4.11
今日はちょっといただけない。生徒の頭髪指導を学年で指導してきた。クラス写真が撮れるようにOKが出るところまでやって来た。ところが今日撮れたのは3/8クラスだけ。結局、執行権を持つS教諭が許可しなかった。ねえ、何のための学年指導だったののか?Sは今の3年生の学年主任だった。脅すだけ脅して学年を崩壊した。担任団の意向を無視して突っ走ったから、担任がついていかなかった。2年生の学年主任は、自分のことしか考えていないやっぱりS教諭だった。その無気力さが学年に反映していた。結局、そのS教諭は学年主任を外された。この3年生諸君は、ある意味では、教員の無能さの被害者だと思う。そのために何人退学していったのだろうか。分かっとるのかこのバカ野郎!と思うのは僕だけではないはずだ。学年がやってきたことを無視して、クラス写真に並んで立った時点で「これじゃあ撮れないから、どけ!」じゃあ、生徒じゃあないけれどやってられないよ。そんなに気に入らないなら、どうして事前に自分で指導しなかったのか?1度来たきりで、それも脅しまくっていただけ。あれじゃあ、生徒も教員もバカにするよなあ。
さて団塊の世代は、‘貧しい時代’を育った。一生懸命働いて稼いでものを持つことが幸せだと信じて懸命に働いた。どんなに怒られても無理強いされても不当に扱われてもガマンしてきた。非常に使いやすい世代だった。それ以下の世代は、‘モノ’の価値が実感できない。モノがあるようになった世代には‘ひもじさ’は理解できない。だから彼らに賃金を倍払うからと言っても誰も懸命に働かない。しかし、彼らの能力は団塊の世代より遙かに優れている。ITも使えるし、スマートでもある。何が彼らに必要かというと「容認」である。ひもじさを体験していないから、ただ闇雲に働くことに服従できない。納得出来ないのである。説明してやればいい。そして「これはどうしたらいい?」と訊くと“○○した方がいいです”と提案してくる。それを「そうか、じゃあお前に任せよう」とやらせる。潜在能力があるから、団塊の世代よりはるかにいい仕事をする。そしたら「素晴らしい。お前のおかげでこんなに上手く行った。これからも頼むよ。」そう言えばいい。訳の分からない無理押しをすると皆そっぽ向く。
生徒も同じ。髪が茶色い。何がいけないのか?説明してやらなくては生徒はやりたくない。単位不認定でもそうだ。6単位とか2科目単位が取れなくて原級留置(留年)なんて、文部省が聞いたら怒っちゃうんじゃあないの?そこまで保護者が知らないからいいものを、もし訴えて裁判沙汰にでもなったらどうするつもりだろう?無気力な生徒を作り出しているのはまさに学校。もうとうに時代遅れの‘偏差値’でがんじがらめに縛っている。そしてさらに枠からはずれることを許さない教育が、生徒をダメにしている。何をダメにしているかというと「自分」である。“自分がやりたいことが分からないまま”卒業している。もう一つは、“やりたいこと”を親が認めない。進学したい学校も、就きたい職業も、親が認めない。親の思うように子どもはガマンさせられている。つまり、“やろう!”という動機がない。だから、来てしまった先で嫌なことがあるとすぐに辞めてしまう。
‘偏差値’で縛られているから“思い悩んでいない”。挫折して迷って苦しんでいない。人間は思春期に思い悩み色々やって『自分探し』をする。その経験がない。これが大きな思春期に大きな力となる。今は、‘偏差値’で縛られて、自分探しなんて全く出来ない。思い悩んでいることを大人の都合で無視していいのか?子どもにも命を懸けて追いかけている『夢』がある。それを見守る大人がいてやる必要がある。何もしてやらなくていい。ただいてやればいい。子どもは大人がいてくれるだけで安心する。受け入れてやろうじゃない。彼らのやることに文句を付けてはいけない。ただ黙って“容認”してやればいい。容認する許容量がないから、脅しという手段しかない。幸い僕は、今日も「バと刃は使いようだ。明日は撮れるようにしてきなさい」と軽く言っておいた。有能な人間を活かすのもまた人間である。この出会いを『運』という。
実力があれば『運』も呼び寄せることが出来る。“いい加減に”努力している人間が報われる。僕には、容認してやる生徒が今年はいる。ただ、受容しているだけで何か求めているのではない。僕がいることで“強運”をもたらせるだろう。そうなれば「しあわせしあわせ」だね。思っていれば何とかなっちゃうものだ。
2001.4.12
今日で始業後1週間。穏やかで落ち着いていい気分で、俗に言う“充実感”たっぷりの1週間だった。なぜだろう?何が例年と違うのだろう?『いい加減』に徹していたからである。無理せずサボらず、いい加減に。昼間は先生、夕刻は生徒、夜中は趣味、の世界に生きる。無駄はないが無理していない。専門学校は“ひばり”の前にあるので、毎日通って1杯だけ飲んで休憩して帰宅。そして文筆や絵手紙制作。流れのある、山のある日常生活を送っている。不思議にどれもこれも面白い。ただ必死にやっているという実感は全くない。飲んで眠たくなれば居眠りしてイスから落ちそうになったり、ボケッーとしている時があったり、だらけて寝坊しかけたり…。とても活力満ちて意気揚々としているという姿は全くない。でも充足感たっぷり。“欲がない”からいいんじゃあないのかなぁ。そして“気ままに・気軽に・気長に”生きている。つまり、『気』の中にいきる実践をしているだけである。ああしようこうしようということもない。毎日生きられたことに感謝して、「しあわせ」を感じるだけ。完璧ではなく、どちらかと言えばかなり“不十分”なライフスタイルである。別の言い方をすると“やりかけがいっぱい”で出来なかったことばかりである。欲を出してあれもこれもやり遂げていない。あれもこれもやりっ放しで終えていない。「ウーン、まっいっか?でも、今日もこれだけ“しあわせ”だったね」と思って寝るだけ。
他人は「一人だから出来る」と言うだろう。そういう人はきっと嫉妬だろうね。自分が出来ないから、何かしら理由を付けて否定したい意思の表れ。僕の実践は、‘家族がいるから出来ない’ことをやっているわけではない。いる、いない何て全く関係ない。人は「〜したい!」という気持ちが強くなると、期待感からストレスになる。例えば「僕の真似をしたい!」何て思ってやろうとしたらとんでもないことになる。他人と同じことなんてできっこないんだから。自分が過ごした今日1日を「しあわせ」だったね、と振り返るだけでいいのに。他人と比べるからいけない。比べた瞬間に「しあわせ」はなくなってしまう。「へ〜、そんな『いきかた』があるんだ、そんな『いきかた』しているんだ」と受け入れるだけでいいのに、自分も真似してみようと欲を出すから「しあわせ」は逃げていく。「しあわせ」というのは自分の『しあわせ』であって、決して他人と同じ「しあわせ」ではない。自分にしか感じない「しあわせ」である。みんないっぱい持っているのになぜ感じないのか。家族がいたら、「しあわせ」何てその数だけは増えると思う。その代わり、‘嫌なこと’もその数だけある。それを‘嫌なこと’はいらなくて「しあわせ」だけを求める。
一人でいるから出来るのは、独りで寂しく辛い思いもある。‘独りで寂しく辛い’から‘嫌だ’と思うか、‘独りで寂しく辛い’のを享受するか、の違い。つまり、それがいいとか悪いとかいう判断をしないで、そのまんま受け入れているだけ。「寂しい」とか「辛い」とかいうことを良いとか悪いとか誰が決める?決められる人がいるだろうか?誰もいないはずだ。勝手に‘これは「しあわせ」’‘あれは不幸せ’と判断しているに過ぎない気がする。それでは「しあわせ」は決して感じられない。‘独りで寂しく辛い’のは「人といて温かさを感じられる」素である。人生の味わいの素である。そう思うだけ。それ以上でも以下でもない。寂しさや辛さを感じるから、温かさや優しさが分かる。優しくなろうとか親切になろうとかいうのは、他人から嫌なことを言われたり、傷つけられたりした経験があるから出来ることである。あるいは自分がしてしまって、後悔したから、優しくなれる。ただ闇雲に「人に優しくなりなさい」と言ってもできっこない。
優しさは残酷さの裏返し。優しい人間は「残酷さ」も持っている。残酷な人間は「優しさ」も持っている。ただ残酷な人間が多いと殺伐として息苦しくなるのは事実だろう。‘ウソや偽り’の教室にいれば‘いじめ’は当然起きる。そうすると面白くないと感じる生徒が増える。そのまま社会人になれば、どうなるか。生きにくい社会が出来る。それよりも、人の優しさを引き出した方がいい。誰もが持っている優しさを引き出してやる。優しさが出る人間を育ててやれば、どんな社会になるか。どちらの社会を選択するか。それは個人の自由である。人間はみんな同じ資質を持っている。何が出るかは条件次第。家庭、学校、職場、社会の条件次第である。僕は『蒼天の夢』を見た吉田松陰のごとく“性善説”の立場である。人はみな全て善である。しかし、それが出てくる条件がいる。それは‘小悪体験’である。かつての町や村では、カキ泥棒や野菜泥棒など子どものイタズラは日常茶飯だった。今はそんな体験できる場がない。先日の切越(棚田ハイク3/31)のAさん曰く「わしら、カキ泥棒なんか毎日やったけど、その仲間で刑務所に入った奴は一人もおらん」。小さい迷惑ごとをして‘悪いこと’だという意識を持つと、“大きな悪”に対しての抵抗力が出来る。今の子ができるのは、スーパーでの「万引き」だろう。本当はお店もその分だけ値段に含み益を入れている。それを奨励するわけには行かないから、「買い物体験」から、盗むとどういうことになるか話してやる。そこから色々な話をしてやることで「大きな悪」に対しての抵抗力を生むことが出来る。そんな仕掛けをどうやってつくるか。甘みを引き立てるために塩を入れるのと同じ。穏やかにのんびり生きられる社会になればいいなあ。
2001.4.13
汐見さんの記事(おーい父親)の一部。新婚旅行から帰ってきて、ようやく新居にたどり着く。さすがに疲れている。荷物を置いて、一息入れようと座り込む。その時夫が妻に「あーあ、疲れた。悪いけどお茶入れてよ。」と言う。その時、あなたが妻ならどうしますか。(その時のあなたはどうだったですか?)その時、台所に行ってお茶を入れたのなら、以後その関係が続いているはず。つまり、妻が夫のためにお茶を入れるのが当然となり、夫も男と女はそういうものだと学習してしまい、職場でも、女性が下働き的な仕事をするのが当たり前と思ってしまうかも知れない。疲れて帰ってきたのは夫も妻も同じ。それなのに女性だけがお茶を入れなくてはならないのはおかしいと疑問に思わないのもおかしなもんだ。あなたのところはどうだったですか?
思いやりとか優しさというのは、自分が疲れて帰ってきたときでも、相手のためにお茶を入れてあげようと思うことであって、男でも女でも変わらない。「お茶でも入れてよ」と言われたなら、「そうね、私がお湯湧かすから、あなたは急須の用意してね」と一緒にやるのがいい。‘共依存’という言葉がある。相手のためにと思って、実は相手の自立を妨げているのに気づかず、世話をしている自分が夫にそういう形で依存している、というような状況である。いい夫婦作りは、‘共依存’から自由になることが大事だ。「あ〜あ、疲れた。お茶入れて」と夫が言ったときに、妻が「いいわよ。その代わり夕飯支度してね!」と言ったら夫はどうするだろう?そうすると夫の中で「養われているくせに理屈こくな!」と言うのがいるだろう。それを契機に“経済的自立”を目指す妻が続出するかも知れない。夫も家族と団らんするために仕事していればいいのにね。家族を養うために働く日本の夫たち。職場では汚いカッコウをしてねぇ…。うちの学校にもいるいる。概して、妻も収入がある先生はまあまあイイ格好をしている。
夫婦間だけでなく、親子間でも同じ。よかれと思って色々子どもにやってやるが、実は自分が子どもに依存したいのである。そして子どもがその期待を見事に裏切ると、親は激怒する。子どもが横道にズレると、嘆いたり腹を立てたりする親は大抵‘共依存’だろう。子どもから自主的判断の機会を奪ってしまっているのに気づかない親で、過干渉である。世の中暇なんだろう。親が子どもに干渉する時間がある。なんて「しあわせ」な国民なんだろう。
僕は、料理を芸術だと思いだしている。もし夫婦になる機会があるとしたら、きっと、愉しい仕事と愉しい家事になるだろう。よく言うが「結婚したらそんなに出来なくなる」というのはやっぱり僕には当てはまらないだろう。学生時代も「働くようになったら、そんなに遊べなくなる」何て言っていたが、僕は働くようになってからの方がはるかに遊んでいる。結局仕事も家事も僕にとっては全て“遊び”の一環に過ぎない。“生活の目標”を『あそぶ』と言っているくらいだから当たり前と言えば当たり前。だから“いきる目的”に叶う。『愉しむ』。道楽で“仕事”、必要な“家事”、暇つぶしに“趣味”をしている。その時に応じてどれかが比重が高くなる。ただそれだけ。「しあわせ」ないきかたである。自分でもそう思う。
2001.4.14
富士山が見える町、富士市へ行った。Sちゃんところでボーイスカウトの隊指導者研修会で環境のことを取り上げて欲しいという要請を受けて出かけてきた。10:00〜16:30まで研究会をやってきた。今回は新しい要素を取り入れた。プログラムヒント集を利用してみた。より身近になったのでは?とても愉しい研修会だったと思う。『つながり』『ふりかえり』を意識してもらった。午前中はずっとゲームやって遊んだ。今回のメニューは「あいさつごっこ」「だっこちゃんオニ」「つながりを見つけよう(ヒューマンノット)」「ジャンケン列車」「カッコウとウグイス(ハンカチ落とし)」「瞬間冷凍動物(氷鬼)」(PW)。部屋に入って「血液型集合ゲーム」でグループを作って「水の言葉」(PW)。昼食を取り、「さんんぽ(手話)」、スカウティングと環境教育(「いきかた」の講義)「新聞ちぎり」、そして隊集会企画。全て環境を意識するアクティビティで実施展開した。PWはプロジェクトワイルド(生態系を学ぶシュミレーションゲーム)である。この“瞬間冷凍動物”が大騒ぎで走り回った。ちょうど草地があってよかった。昼食を取って講義、嗚呼、眠たい。みんなよく我慢してくれた。
ここで数人の感想を見てみる。「子どもを育ててきて、人様に迷惑をかけない良い子に育てと望んでいたことが、迷惑をかけても良い、みんなの輪からはみ出しても良いのだと教えていただいて少しほっとしました」「血液型グループに分かれての勉強会はとても楽しかったです」「手話ソング1曲覚えられたこと、とても嬉しかったです」「環境とは人と自然を主に考えていました。今回の研修で人と人も環境問題で大事なことを改めて学びました。人と自然、人と人、その他のつながりのことを学び、自分のいる廻りをもう一度見直して生活したいと思います」「笑いが多い研修で楽しかった」「外でのゲームは皆で楽しく遊びながらも、自然界のつながりを知ったり、環境問題につながっていたりと、広い分野でものを見ることが出来る…ということを知りました」「初対面の方とも挨拶や笑顔で親近感を持つことができ、共に考えたり、語り合ったりと、有意義な時間を過ごすことが出来てとても嬉しかったです」「子どもに対して、口うるさく言っていたことが間違っていると知りビックリしました。これからは言わないようにしなくては…と思いました。早いうちに間違いに気づかせていただいて本当に良かったと思いました。有難うございました」「全てゲームを通して環境ってことを伝えることが出来ることの素晴らしさ。自分も改めて環境について考えることが出来た」「グループ作業の結果の発表に対しての評価が良いところだけを評価するという方法。そして補足説明をするというとても分かりやすいもので、感心いたしました。有難うございました」「ちょっとしたゲームにも“つながり”と“ふり返り”を取り入れたいと思います」「“よい社会”とは、色々な人間が暮らしやすい社会。“人の迷惑を受け入れる人間”を目指すべき、という点に気づきました」。
だいたいこんな内容の感想をいただいた。有り難いねぇ。僕の意図したことを理解してもらえて「しあわせしあわせ」。環境から派生して共育のことも話したが、これもよかったようだ。ついでに多分にお車代を○○円いただいてしまってイイかしらと思うが素直に嬉しい。ウッシッシ「しあわせしあわせ」。やっぱり僕にお金を持たせるのはよくないかな。ウーン、明日は給料日、関係ないか!ただSちゃんが「美味しいお酒を持って行って」と言われて、手渡されるのを忘れてしまって残念。それにしてもまた知り合いが出来て輪が広がった。Sちゃん曰く「みんな真剣に考えていたね」。「水の言葉」ではO型グループは笑いの渦だった。AB型は深刻に考えまくっていた。B型はわれ関せずマイペースで明解に手早く完成。A型は、まあ日本人かなあという感じがした。隊集会企画では、AとABのグループはBV〜VS(RS)までの一環プログラムと考えた。OとBはBVだけのプログラム。ここで発見は、Aが入った人間は、言われたことを忠実に守ろうとする習性があるのかな?そんな気がした。Oタイプはあっけらかん。Aタイプは気難しそう。Bタイプはすっとぼけた感じがした。血液型グループ分けはその場で思いついてやってみたが、これがなかなか好評だった。本当に今日も、ゲーム展開での諸注意などが学べたしよかった。「しあわせしあわせ」。夕方は、近くのうどんファミレスのようなところで食事をいただいた。ここでもよく飲んで喋った。19:48新幹線で帰宅。愉しい一日だった。
2001.4.15
タマネギのみじん切りをした。目の前のK君がいきなり、ペティナイフでスパッと切ってしまった。僕の目の前だった。勢い余って反対の手の親指の付け根を切った。戻ってきて聞くと5針縫ったそうだ。ギェッ。ぎこちならざるを得ない。タマネギが目にしみてしみて…。繊維を破壊してしまうから目にしみるんだということも分かった。料理には包丁というものが命なんだということがよく分かる。ペティナイフもすぐに黒ずんで灰汁がついた。タマネギの形がナイフに残ってしまった。きっと包丁を見ればその人の料理の腕が分かるのだろうね。ところで、調理の専門学校というのは、ホントに資格取得のためだめの学校なんだ。料理の腕は自分で磨くものなんだということが分かる。調理なのに坐学が3/5もあるんだから。結局国家試験免除のためにはそうせざるを得ない。そう言えば、キャンプディレクターの資格でも、訳の分からないほとんど意味不明な専門家でも知らないような内容のテキストを使用していた。それと同じ。僕にとっては坐学の衛生学などは面白く愉しめるが、他の生徒にとってはチンプンカンプンだと思う。実習の様子を見ていて料理の腕を磨く場所ではないということがよく分かった。もちろん基本的な調理方法は身につくが、料理の腕前を磨く場ではない。今日は神経使った。目は痛いし、包丁は怖いし…。ブイヨンの作り方とミルクとバターと小麦粉のシロップのようなもの(正式名忘れた)の作り方を教えてもらった。実際にやったのはタマネギのみじん切りと包丁研ぎ。ぎこちなく汗だくになりかけたが、愉しいには違いない。でも、終わったらドッと疲れたが、いい気分で「しあわせしあわせ」。
2001.4.16
今日はやたら眠たい。昼間も居眠り、夕刻もコックリしかけた。ところが、夜になると元気。そんなもんかなあ。こういう時「一体俺って、何だろう、どうしたんだろう?ただ疲れているのかなあ?疲れたという実感はないのだが…」と考えてしまう。眠たい−疲れている−無理した。こういう構図があるが、無理した理由は何か。己に対する‘執着心’である。夜更けにもかかわらず少しでもテレビ見て楽しみたい、そう思って少々だらしなくなった。ウツラウツラして目が覚めたら、眠気かが覚めてちょっと起きていた。自己の欲望に執着した。ただそれだけ。自分を制御しコントロールするなんて出来ない。したくない。スレッサーになる。ところが不思議なことに、しなくてもストレッサーになってしまう。結局、生きている以上‘ストレス’から逃れられない習性が日本人にはある。生きるのはストレスと共生すること。共生すれば愉しくもあるが、反目し合えば健康を損なうだろう。
さて、クラスの生徒であるが、どうも問題を抱えていそうな生徒が数名いる。さらにコンピューターお宅のような生徒も何人かいるし、暗くて陰険そうな生徒もいる。最初に感じた雰囲気はそのものだったなあ。何となく去年の某クラスの生徒は暗い気がする。そして、今日面接をした生徒であるが、全く顔を上げて話ができない。「なんで学校へ来ているのか?」と聞くと「実家にいるから」。「この学校を選んだ理由は何か?」と聞くと「…」。「誰かに勧められたのか?勉強が帰来できたのか?この学校へ来た理由が何かあると思うが」と聞くと「…、どういう意味か分からない」。こういう生徒だった。不思議だねぇ。‘BMX(小型自転車らしい)が上手くなりたい’らしい。さてこれからどうなっていくのか楽しみだ。
どうして勉強するのだろう?ちっとも役立たないのにどうして勉強しなくちゃあならないのだろう?と思ったことはないだろうか。多分多かれ少なかれあったと思う。そうした疑問の背景には「勉強を理由にして苦しい現実から逃げようとしている自分がいる」ことに気づいたらいい。問題は‘勉強’にあるのではなく、勉強をする自分自身にある。逃げたら追っかけてくる。そのために『仏法』は、あらゆるこの世の苦悩の根本原因を自己の心の中(ウチ)に見出し、迷い苦しむ自己の心のあり方を明らかに知ることによって、苦悩を超えた本来の命の世界に目覚めしめる教えなのである。問うべき問題は、苦しい現実にあるのではなく、役に立たない勉強にあるのでもない。現実から逃げようとする自分自身なのである。現実を苦しいと言っている自分に問い、勉強が役立たないと嘆いている自分の“心のあり方”こそ問うべき問題である。
自己に問いかけたとき、そこに見出されるのは、本来公の“いのち”を私有化し、現実を自分の思い通りにしたいという愚かな飽くなき自己への‘執着心’である。現実の問題は、この自己に対する飽くなき執着心なのである。一切の問題や苦悩は、根本問題である自己自身を問い、明らかにして行くための貴重な手がかり、つまり『ご縁』である。毎日の生活の中で起こる様々な問題を『ご縁』として自己自身を聞き開いていく。人間生活はみな聞法道場となっている。
今僕の身にふりかかっている‘暗そうな雰囲気’は自分の中にある陰湿な部分が共鳴しているだけなのだろう。自己の中にある心の暗さを払拭するいい機会である。そう気づけたことは「しあわせ」である。いい『ご縁』だ。ああ、それにしても今日は眠い、眠い…。
2001.4.17
昨日、川島英五が死んだ。18年前、新任教諭の集いに彼がコンサートに呼ばれて名古屋に来た。その時、新任の教諭の一人として舞台に上がった。何か僕が一人で、色々なことをしゃべり出してしまい、彼にしゃべる暇を与えなかったと思う。その時、彼に「面白い先生ですね。本当に新任ですか?」と言われたことがある。ウン、まだ48歳か。肝臓を患っていたようだ。僕も毎日、クロレラを飲んでいるが、それだけでは不十分。これから料理を覚えたら‘作って食べることをしようと思う’だけかも知れないがそれもまたそれでいい。また、最近勉強した栄養学によると、緑黄色野菜をもっと摂取した方がいい。皮膚のガサガサなんかやっぱり野菜不足が大きいだろう。いつでも飲めるように購入しておこうと思いつつも、人間何かと忘れてしまう。意外に夜の学生の時に色々勉強して発見が多い。今日は、水曜日で料理実習。和食のデモンストレーションで、色々な切り方を見せてもらった。ついでに“出汁巻き卵”を作ったのを試食させてもらった。その時確信した。“味つけ”に関しては、非常に敏感に反応できる!“出しの取り方”を勉強した。基本はコンブとカツオ出し。やはり時間の関係で、その場で即席的に取ったコンブ出しなので、出汁巻き卵は味が雑だった。それにすぐ気づいた。「美味しい」と言う生徒もいたが、僕はあまり美味しく感じなかった。何となく優越感を感じる瞬間。調理、味付けはきっと他の生徒よりも負けない。問題は、包丁さばきである。どこかで練習させてもらわなくては…。実技試験は、「桂むき」と「千切り」のつま作りらしい。普通は4,5pのところ、8cm幅の60cmの桂むきをする。包丁がしっかり切れないとできない。それにしてもワクワク「しあわせしあわせ」だ。
昨日に続き、浄土真宗の教え(鶴田義光)について発見。人間が生きる愚かな現実の姿をごまかさずに見つめ、苦悩や空しさが起きる‘迷いの構造’を明らかにし、生かされている道理に目覚め、この世に満足を得る教えである。神秘的な神や仏の存在によって救われるのではない。生かされている道理により救われる。南無阿弥陀仏という道理に目覚めた知恵を『信心』と呼び、信心によって南無阿弥陀仏という道理を思い起こすことを『念仏』という。この教えにより、愚かで弱く自分勝手な心でしか生きられない自分自身を深く信じられるようになった。だからどんなに苦悩や矛盾に満ちた人生であろうとも生きるに値する。念仏一つで十分。宗教や神や仏などあってもなくてもどちらでもいい。親鸞上人の言葉:煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみまことにておわします。“念仏の真があるから、煩悩具足の凡夫のままに、そらごとたわごとである火宅の無常のこの世に満足しつつ、安心して迷っていればいい。”そう鶴田氏は言っている。
『安心して迷う』『安心して苦悩する』。苦悩していても大丈夫。それだけで生きている価値がある。無価値なものはこの世にない。全て価値あることばかり。だから安心して迷えるのだ。僕はそう感じる。そう思えば、世の中全て愉しくなる。「しあわせ」に一層磨きがかかる。苦悩して苦しむのは、一生懸命に生きている証。その結果、愉しく生きられるのは、一生懸命に生きるご褒美。苦しまなければ愉しさは分からない。苦しみを取り除いて愉しみだけ欲するから、苦悩から抜け出せない。安心して迷い苦しめばいい。どっぷり浸かっていないから、明らめられない。『明める』とは、この世の中全て無駄がなく価値があると気づくことである。明めている僕は「しあわせしあわせ」である。
2001.4.18
せっかくだから、今日は『南無阿弥陀仏』について考えてみる。まずどういう意味か。
「南無」→帰依します。「阿弥陀(サンスクリット語の音写)Amita」=無量寿・無量光→人間の知恵を持って思い量ることの出来ない「人生(寿)=凡夫の命」とこの「世界(光)=凡夫の生きる世界」。「仏」→目覚めたるもの。つまり「量り知れないこの世に目覚めたものに頼ります。お願いします」という意味になる。我々凡夫は、ひたすら阿弥陀仏に南無するしかない。声に出して念仏するしかない。いつでも、どこでも南無阿弥陀仏と称えよ。こんな風にとらえればいい。
世の中、「ユニクロ旋風」が吹き荒れている。セブンイレブンとヨーカドーの間に割って入った。中国で生産して輸入して販売する。賃金格差が8倍あるので、ボロ儲けである。逆にセーフガードと言って、輸入が多すぎて高関税をかけて輸入制限しているものもある。「しいたけ・ねぎ、たたみおもて、タオル」である。結局、プラスマイナスゼロになるのだが、プラス部分だけ欲して、マイナス部分を拒絶している。非常に身勝手だよね。他国に自由貿易を要求し、自国は保護貿易を実施する。もらうものはもらうのに、出すものは出さない。Aくんから分取れるだけ取っておいて、自分は何も出さない。それでいいはずがなくても…。「ボロ儲け」を規制しないからそうなる。痛手を受けるとセーフガードを敷いて、ボロ儲けには規制がないのは片手落ちだと思う。損失を救うのなら儲け過ぎも規制しなければ。そういうことを言う政治家もいないなあ。
田中真紀子議員が「1年間で100兆の借金を作った。なんてカブ上げて喜んで、頭がバチッと切れておだぶつさんになった。自業自得ですよ」と言って橋本派の反感を買い、小泉氏の応援を自粛することになった。何で反感を買うのかよく分からない。この国は本当のことを言って何が悪いのだろうか?要は、橋本派にとっては小泉大人気が気に入らないだけでしょう。それよりも、郵便局長が投票に際して「橋本と書け」とか白票集計をやっていること自体の方がはるかに大きな問題。既得権益を守るのに必死。郵便局解体が始まれば、郵便で甘い汁を吸っている橋本派や優勢族は大打撃。地方は小泉氏がリード。果たして、国会議員がその意見に同調するだろうか?派閥の締め付けが厳しい中で、一体何が出来るのだろうか?橋本総理で、参議院選大敗で衆議院解散というシナリオもいいのではないか。“渡す世間は鬼ばかり”の中で“カズ”が「大人は都合が悪くなるとすぐに大声を出す」という下りがあった。あまりにもストレートで当たっているので思わず笑ってしまった。大声を出して怒鳴るのは、‘自分に都合が悪い’からである。その通りだ。すぐに怒鳴るのは、自分に都合が悪いから、怒鳴って相手を叱責して責任を転嫁する。あたかも相手が悪いかのごとく…。よくある話。怒鳴りたくなったら『南無阿弥陀仏』と唱えたらどうか。そして自己執着を明らかにする。明められなくても真実は一つ「今ここにある私」。それだけで「しあわせ」なのにね。
2001.4.19
俗に言う「価値が一つしかない」としたらどんなに不幸なことだろう。その一つ以外はみな不幸になってしまう。ところが、あれもこれも価値があるとしたらどうだろう。その不幸がほとんど「しあわせ」になる。愚かな人間だから、唯一なものを‘価値がある’と思う。つまり‘貴重なもの’に価値を置いている。貴重=価値がある。それは希少価値でしかない。人間を欲に駆り立てるものがそれである。それに取り憑かれた人間は苦しまない。苦しみどころか‘喜び’を感じている。それを手に入れることで‘優越感’という喜びを感じている。こうしてみると‘喜び’も一つの‘苦しみ’である。喜びがなければ悲しみや苦しみであるとすると、やはり喜びも苦しみを引き起こす原因となり得る。人生には喜びも悲しみも楽しみも苦しみもみんなある。では人間以外の生涯には何があるのだろう。犬の生涯には何があるのだろうか。賢いと言われるイルカの生涯には何があるのだろうか。ダンゴムシの生涯には何があるのか。喜びや苦しみは人間にしかないのだろうか。これ以上人間が変容するとどうなるのだろう。やはりその感情は存在し続けるのか。理性はどうなるのだろう。人間にしかないとするのなら、どうしてなのか。そんなことを考えていくと“不思議な世界”に引き込まれていく。
この‘価値’は求めても求めなくてもどっちでもいい。そう思うことできっと欲望や苦しみから逃れられる。人間が勝手に決めた価値。他人が勝手に決めた価値。自分が決めた価値…。ゴミだってゴミになる前は必要だと望まれたもの。用が済んだからゴミになっただけ。このゴミも有形無形がある。お父さんが粗大ゴミになる受難の時代である。お母さんを粗大ゴミというのを聞いたことがない。つまり、元々家族にはお父さんはいてもいなくてもよかったのである。お父さんは家族の外面。一方お母さんは山の神である。威張っているお父さん、実は飾り物であることが多い。お父さんの価値って一体何?経済的な柱。もめ事の仲裁。代表。ガードマン。社会とのパイプ。子孫繁栄パートナー。そんなような‘役割’があるが、一体価値は何だろう。きっといるだけで“価値”がある。いるだけでいい。人間にとっては“父親(役も含め)”はいるだけでいい。憎まれても疎まれても、いるいないではやはり違うだろう。母親もまた然り。
「価値が一つしかない」というのは、勉強が出来る子がよいという一つの価値ではない。出来ない子も価値がある。一つとは“いる”ことである。いるだけで価値はある。誕生し存在することが価値あること。生き方は問題ではない。“いる”ことが重要なことである。健常や身障は大したことではない。そこにあなたも私も生きとし生けるものみんな“ある”ことが重要なのだ。しかし、‘なくなる’ことで価値もなくなるのではない。元々なかった。ただ“ある”ことで、“存在する”ことで、人間はその“価値”に気づくだけである。そして気づいて「しあわせ」になる。
2001.4.20
今日は、歓送迎会。英語科が幹事である。僕は「司会」で例のごとく“めい司会”だった。ただ喋っただけだけれども、まあまあ好評だった。面白かったそうだ。よかったよかった。4次会まで行った。酒が飲めて「しあわせしあわせ」。16:30始まりだったので0:30くらいまでには帰ってきた。何か、席上S先生が攻撃の的になったようだ。途中で怒って帰ってしまったらしい。まあ攻撃されても仕方がないが…。それにしても大忙しだった。朝から、自転車を東岡崎へ運んだ。1,2,3限と連続授業で4限目は離任式、写真を撮って、英語科主任のお嬢さんからは、「学習計画表を書いて下さい」と叱られていたので、途中中抜けして作成。ようやく日程が終わった。昼食抜き。帰宅する途中、自転車用の鍵を購入。ところが、セットの仕方がどうも違っていたようで開かなくなってしまった。イライラしながら時間はドンドン過ぎていく。慌てて新安城から電車に乗って東岡崎。やっぱり電車は速い。5分。自転車で会場のホテルまで行ったが、迷ってウロウロしてしまった。雨が降る降る風は吹く。何とか開始25分前に到着。転出者の記念撮影をして準備が整った。予定より7分遅れて開始。
2次会は、うちのクラスの副担任のYちゃんの実家がやっているT(チェーン店の居酒屋)。初めて知った。Yちゃん、見かけがすっ飛んでいるように思えたが、どうしてどうして感情表現がとても豊かでイイ感じ。その後、転出者のO先生が先頭で何とかという所へ行った。さあ帰ろうかと思ってみんな東岡崎の駅へ来たら、長老のH先生と出会って「やあ、やあ」ということで結局、M(チェーン店の居酒屋)で1時間ほど翌日まで飲んだ。電車がない、お金もないので長老に金一封を借りてタクシーで帰宅。東岡から新安まで3600円だったかな。無事到着。早く寝なくては、明日は田圃作業だ。久し振りに4次会まで行った。お酒の“ご縁”に連れられていい気持ち、いい気持ち「しあわせ」。
1次会では3年学年主任のYさんに「Yさんの好きにやって。フォローして行くから」。2次会ではKさんに2001年版ヨネザワイズムをちょっとお話した。「生徒の居場所がなくならないようにつながっていてやりたい」。そんな話をしたっけねぇ。やっぱり“蝶番”でいたいね。何となく“陰徳”ってかんじでイイじゃない。目立たないように、見えないところで生徒のお役に立ってやる。プロだねぇ。自画自賛できるのは「しあわせ」だね。40世を過ぎればそろそろ“イズム”を持つ年頃である。そろそろ“イズム”ありますか?
2001.4.21
今日は少々二日酔い気味。10時に岡崎市蓬生町の「ホタルの里」近くの棚田へ出かけた。沖さんの説明でまず草刈り。最近の草刈り機は、ブタンガス燃料で動く。小一時間作業して、次は水路作り。その当たりでお昼になった。昼食をいただきながら自己紹介。名古屋から見えているTさん。定年後、あちらこちらで畑を借りて、ブドウ、もも、栗、リンゴ、ナシなどあらゆる果物を作っているそうだ。アメリカへ環境学を2年間学びに行ったHさん。幸田から来たIさん親子。息子が「今登校拒否しています」と言っていた。カブスカウトを幸田2団でやっていたそうだ。岡崎の9団のカブ隊のSグループが、11名でF隊長も来て昨日作業をしたようだ。保護者の中には“ヘビ大好き”のお父さんがいて、まむしのベビーを見つけて大喜びして帰ったみたい。そして沖さんが岡山の赤米のお酒を持ってきてくれた。回し飲みした。意外にさっぱりしている。
さて昼からは作業の続き。水路を作ってその後、畦の壁を作った。水を張ったとき、泥を畦の壁に塗るために用意しておく。これが結構、作業としてはきつい。鍬の先が曲がっているし、一度鍬を入れると、土が鍬に付いてしまう。二度手間がかかるのである。普段トレーニングをしていないので、腕が疲れ、休み休みよやく終えた。それにしても‘ヒノキ花粉’が雪のように風に舞い踊っていた。もう花粉だらけ。その頃豊田のIさん一家がやってきて、イチゴを差し入れてくれた。大きくて細長く甘いのをたらふく食べた。「しあわせ」だったねえ。いつも買ってくる‘とちおとめ’はまずい。おチビさんたちが、水の張られた南側の田んぼで泥遊びを開始し出した。泥遊びは楽しいそうだ。いい風景だね。「しあわせ」な気分だね。
労働もやっぱりこんな自然の中でしていると気持ちがいい。こうして田んぼ作り、農作業をやると食べ物作りの苦労が分かる。田んぼは畑よりはるかに簡単だけれど、もったいない気持ちは確実に身につく。聞くだけじゃあダメだ。やってみて初めてそういう気持ちが芽生える。子どもの頃からこういう体験は重要だろうね。作業はきついが、肉体的な疲労が心地よい充実感をもたらす。α波も出る。病気は治るよ。精神も活きる。引きこもりもうつも直るよ。農作業は心のオアシスを見つけられる。枯れた心の泉にも次第に一杯に満たされる。生命が復活する。この世に生まれた自分の“確かな証”を見つけるかも知れない。地球の偉大さ、生命の大切さを実感する。その時、今確かにいる自分を観るだろう。デスクワークだけでなく、肉体労働も出来るといい。アリストテレスなんか筋肉モリモリだった。色んなことが出来るといい。特に農業がいい。生命に関わる仕事。これからの半世紀の内にやれるようになるといい。自分で自分の食べるものを作れる人間は確実に生き残る。
まあ、若いうちはあまり農作業に気が向かないかも知れないが、年を重ねて年輪が増えるにつれて、母なる大地に魅せられるのは道理かも知れない。自然に対しての畏敬の念を無意識に受け入れていると思う。人間にはそういう機能が備わっている。ふとそんな気がした。今日も、いい一日だった。「しあわせしあわせ」。まだちょいと酒が残っているようだが…。人間も体を動かすことで、生命活動の一環(農作業)に組み込まれることで、活気を持つのは間違いない。みんな、農業をしてみるといい。田植えは5/12−13とやります。あなたも来ませんか?首にタオルを巻かなかったので風呂に入ったら首筋がヒリヒリ、しかし心地イイ刺激だ。
2001.4.22
今日は少々からだが張っている。いわゆる‘痛い’というやつ。幸いメチャクチャ痛くはないが、ドーンとぎこちないからだが自分の後からついてくる。肉体と影がややずれている。言葉にするとこんな風になるが、別段外見は全く変化があるようには見えない。‘病は気から’そのものズバリである。人間は普段マイナスイメージを持っていると、ちょっとしたことでもとても悪いように思えてくる。肉体的に病気でなく健康であっても、精神的には‘病’にかかっていて心が暗くおどろおどろとした状態になる。いわゆるもやもやが晴れないのだ。健康は維持することはさして難しくないが、崩すのも簡単である。僕の場合は心地よい痛さである。生きているから感じる痛さである。そして苦しいとは思わない。また苦しいから嫌だとも思わない。苦しく辛いことがあると逆に“生きている実感”が湧くのである。「辛さ」「苦しさ」を受容できる。受容できないと‘病’になり精神がズタズタに引き裂かれていくだろう。肉体的な病気は原因がはっきりしているが、精神的な病ははっきりしないが、多分‘自己否定’であろう。だから人を病に陥らせるのはいたって簡単。「ダメだ。ダメだ」と相手を否定すればいい。
幸い僕は“自己肯定”するだけ。自己否定をしない。他人に対しては‘否定’しない代わりに“他己受容”する。そういう意味では間違いなく「しあわせ」な人間である。今日、M先生に「先生のクラスは明るくていいですね。凄くいい雰囲気です」と不意に言われたのでビックリ。僕自身は、ウソー、マジー?である。遅刻欠席常習、下向いて文句言っている…、こりゃ大変だと思っていた矢先の好評を得た発言にビックリ。その時ふと気づいた。僕は相手に対してかなり高い要求している。そのために自分自身のゴールも知らず知らずのうちに高くなっている。内心では、まあボツボツのんびり1年かけて柔らかくなればいいと思っていたが、もう既に生徒は柔らかくなっている。そんな感じの誉め言葉をいただいた。まだ始まって1ヶ月経っていない。M先生によれば「先生の朗らかな人柄でしょう」とまた誉められた。嬉しいねぇ。「しあわせしあわせ」だね。
今日の調理実習は中華のデモンストレーション。青椒肉絲。青椒と肉は材料で絲は切り方。基本的に中華のメニューは材料と切り方が書いてあるので分かりやすい。それも初めて知った。クラス担任の先生が中国人の中華担当のJ先生である。レシピは全て中国語だそうだ。そのうち慣れるそうだ。中華鍋も取って付きが北京鍋。両サイドに手持ちがついているのが上海鍋。包丁も四角が北京包丁。ナイフ型が上海包丁。手首を上手く使って切るそうだ。切り方が上から剥いていくように切っていく。よくあれで手が切れないものだと感心してしまった。またあの大きな包丁での細工は見事。「一刀走天下」という。中国料理で大切なのは「人との和」である。だから円卓のテーブル。ところで揚子江の上が北京料理(寒いので辛い)。下が広東料理(生ものが多い)。黄河の南北ラインの右が上海料理(砂糖を使う)。左が四川料理という区分で考えると分かりやすい。な〜るほど。
帰りに「ヒバリ」へ寄った。毎日寄っているとエッセイストがやっていられないのでここ2,3日ご無沙汰だった。今日はBさんに明後日の総会資料を手渡した。昔のことで話に花が咲いた。そんなことオレしたんだった。Bさんがスカウトの親で困っていた時に、上手く助言したようで懐かしく思った。まあまあ結構僕も役立っているようだ。いいことだ「しあわせしあわせ」。K君も帰ってきた。最近大型の免許を取って有頂天。人間は好きなことにはもうなりふり構わず夢中になれる。そう言えば先週、免許をもらう日はドキドキで早くから目が覚めてしまったらしい。子どもが好きなおもちゃを買ってもらうように興奮してしまったようだ。そして今、1100CCのバイクに乗っている。僕のワゴンRよりもエンジンがでかい。でかいバイクは、大学時代に借りて、750CCに乗ったくらいだなあ。あの風切る快感はとてもいい。何となくいい気分でちょっぴり余分に飲んだ。飲んだ。
2001.4.23
自民党の次期総裁が小泉純一郎になった。派閥解消を訴えて当選した。本当に解消して、健全なシステムに移行する気配が見られれば、この夏の参議院選挙は自民党が安定するだろう。逆に派閥の親分がしゃしゃり出てきて横車を出し、やっぱり小泉でもダメかとなると惨敗する。僕は派閥の論理構造の権化の橋本総裁で参院惨敗を期待したのだが…。さてどうなるか。中央にもの申すことが出来るから、この予備選挙は面白い。それにしても地方の閉塞感を派閥の意向に従ってしか動けない政治屋は感じないのかなあ。地元の意向に従って自分の身体を決めるのが地元選出の代議員の責務だよね。それはそうと、僕の地元のO代議士は、地元では不人気。やることは環境問題とかに関わって尽力しているようだが、態度が横暴なんだよね。鼻が高くなってしまって…。農政官僚で、安城市長が国会出馬を要請した。橋本派であるが、派閥の縛りを無くせと叫んでいた。そんなに嫌なら派閥から出ればいいじゃないかと思うが出ない。挙げ句の果てに「そりゃ人気のある方に投票しますよ」という始末。節操もない。それにしてもあの野中の「行方はもう分かっているんだから、かっこよくやらなくては…」と言いながらの愛想笑いはミニクイ。あんな愛想笑い初めて見た。「ひばり」ちゃんの口癖を真似すると「バカ丸出し。ターケの子だ」。
今日は初めて自転車と電車で通勤した。自転車は結構汗をかく。自宅から新安城へ1.4q自転車7分。新安城から東岡崎まで8.5q電車で5分。東岡崎から学校まで1.9q自転車で9分。東岡崎は市営無料駐輪場があるのでいいが、新安城にはない。有料しかないので困ったなあ。帰りは電車で知立まで戻る。10分。悠々と食事する時間もある。余裕だ。しかし電車通勤の方が、費用がかかる。ラジオ英会話も聞いている時間がないほど早くついてしまうが、時間はかなり節約できる。仕事が十二分にやれてしまう。余裕でやれる。余裕の分だけ「しあわせ」が大きくなる。のんびりトロトロやって行こう。それにしても無料駐輪場でいつも迷子になりそうだ。どこに自転車を置いたか分からなくなりそうだ。ワイヤーキーを買ってきたが、セットの仕方を間違えて使い物にならない。目印があまりはっきりしていないので、今朝もウロウロしてしまった。まあ、それも春のご愛敬でいい。空気も爽やか「しあわせ」な気持ちで風を切ってケッタマシンをこいで行こう。
2001.4.24
彼女(56)は長男(29)と2人でアパートに暮らしている。長男はかつて「少年D」として報じられた。刑務所を出て6年、自室に引きこもる。
1988年11月、東京都足立区の少年たちが女子高校生を誘拐し、仲間の自宅の一室に41日間監禁、暴行を繰り返して殺害し遺体をコンクリートで固めて埋め立て地に捨てた。社会を震撼させた「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」である。事件当時17歳だった「少年D」は準主犯格として「懲役5年以上7年以下」の判決を受けた。
母親は敗戦直前に貧しい農家に生まれ、15歳で地元の美容店に住み込んだ。小遣い程度の金でこき使われ、体を壊した。20歳で上京、都内の美容室で女主人に気に入られ、勧められるままにその息子と結婚した。長女と長男を生んだが、夫は働かない。長男が3歳の時に離婚、生活保護とパートで2人を育てた。
拘置所で長男は母親のことを「あの人」「おばさん」と呼んだ。母親が接見に行っても、追い返した。なぜ、こうなったのか。長い長い自問が続く。「仕事が忙しくて、あの子を十分にかまえなかった」「私が世間体ばかりを気にして、息子の心に傷をつけてしまった…」
小学校時代。「お宅の息子が100円のガムを万引きした」と近くの菓子店主が怒鳴り込んできた。彼女は長男に確かめもせず店主に詫び、100円を渡した。それを見ていた長男が泣いて抗議した。後に万引きしていないことが分かった。学校でいじめに遭い、抗議に行ったこともある。でも、教師から「問題児だ」と逆に丸め込まれた。「そういうところが自分にはあるんです」と彼女は言う。中学3年で家庭内暴力が起きた。食卓をひっくり返し百科事典を投げる。相談を受けた学校は警察に連絡し鑑別所へ送られた。3週間後、帰宅した長男の暴力は嘘のように静まった。
「彼はこの時点で『母に裏切られた』と思い、母や他者との人間的つながりを失ったのではないか」担当の弁護士は推測する。話しかけると長男は熱心に相づちを打つ。しかし、血の通う言葉がない。事件は「知らない」「見ていない」「何とも思わない」。他人への無関心。あらゆるものへの迎合。弁護士は冒頭陳述でこう述べる。〈被告人には他者と積極的にコミュニケートしようという姿勢がない。自分に攻撃の矛先が向かなければ他人がどうなろうと一切関知しない。そして、被告人はそのことの悲劇性を全く認識していない〉
刑務所から出てきた直後、長男は明け方に飛び起きてオイオイ声を上げて泣いた。母は息子の心の優しさを見た。救われる瞬間もある。結婚した長女が小学生の孫を連れ、アパートに来るときだ。長男は姉にだけは甘え、孫と遊ぶ。(毎日4.8)
これに対する反響は、共感と批判が相半ばだったようだ。批判は「加害者に同情的すぎる」というもの。共感は、引きこもる息子を扶養しながら経済的にも精神的にも追いつめられている痛ましさに対するもの。ある読者が「一読してどう評していいのか分かりませんでした。被害者の女性のみになって考えると、どれだけ謝罪されても謝罪されても赦せるわけがありません。でも、お母さんもそれこそどうしようもない思いだと思います」。
何が罪を作るのだろう?人間の理性か感性か?いや、罪を犯すのは人間の本能だと思う。しかし「罪」とは一体何なのか。国語辞典を見てみた。(1)人間がしてはならない行い;í尊いものをけがしたり世(共同体)の秩序を乱したりする行為!法律・おきてに背く行い"道徳や宗教の教えに背く行い#むごいこと(2)正しくない行いをした結果として、問題にされるもの。(1)からすれば、人間の範疇でのみ「罪」が存在する。(2)からすれば、やっぱり他の人間が「罪」だと判断する。!"は基準があって分かりやすい。しかしその基準もやっぱり人間が作っている。結局、人間が作った基準にはずれる行為が「罪」になる。では‘人殺し’がなぜ「罪」になるのか?戦争で、‘殺し合いごっこ’で成績がいいと英雄になるのに…。戦争の人殺しも「罪」しなければ本当に「罪」とは言えないのではないか。軍人は殺しても良くて民間人はけないとか、兵器による殺戮は良くて、大量虐殺や化学兵器はいけないとか。勝てば、原爆を使っても良いとか…。誰がどんな基準を作るのだろうか?#のむごい、というのも分かりやすいが、主観的で基準が不明瞭。
‘人殺し’で少年Dは、「罪」を償った。その結果、彼はひきこもった。その母親も苦しんでいる。大変「むごい」と思うが、そういう結果を「罪」だとは誰も言わない。逆に‘自業自得’だと言う。結局、人間が作った基準にはずれた行為をすることが「罪」を犯すことで、「罪」を犯したら、また今度も人間が作った償いをする義務が「罰」として課せられる。従って、今のところ「罪」に当てはまる行為をしたら、定められた「罪」を償うのであれば、‘人殺し’もやれる。それがむごければ、死刑になることもある。それを覚悟なら…。
いやいや、ちょっと考えさせられたが、今日は調理学校で“かつら剥き”をやった。まだまだ厚いが、結構面白い。1年生の僕らは5p幅のを剥いた。2年生は8p幅のを剥いていた。やっぱり2年生は上手い。6月のテストは、8pで長さ60pのを剥くのだ。でも何とか行けそう。僕は面白くてたまらない。包丁の持ち方とコツをちょっと感じられた。大根でつまを作る。「つま」は別名“あしらい”とも言うそうだ。男性強権の時代の名残である。つま作りで包丁を打った。トントンだけではいけない。サクサクと響かせることも大切。トントンサクサクと包丁が鳴り響く。その実感はやってみると分かる。いい音だなあ。「しあわせしあわせ」。美味しいものを食べさせてあげられる喜びっていうのあるよなあ。
2001.4.25
昨日の毎日新聞「遺伝子を操る」(新神への挑戦第3部)に、米オレゴン健康科学大霊長類研究センターで今年1月、生殖細胞段階でアカゲザルの遺伝子組み替えに成功したと発表した。アカゲザルの遺伝子に緑色に光る発光クラゲの遺伝子を入れ組み替えた。生まれた子ザルにクラゲの遺伝子が働いていることが確認された。「本当はサルの身体が緑色に光るはずだったが、遺伝子の作る発光タンパク質の量が少なく、そこまで行かなかった」と研究チームのアンソニー・チャン博士は話す。サルに人間の遺伝子を入れて病気を起こせば、人間の病気に近い状態が再現できる。それが研究チームのねらいだ。
僕はどうも西洋の研究にはなじめない。人間すら‘もの化’している気がする。科学技術の進歩を大儀にして、地球をコントロールしようとしている。その一環として、植物の遺伝子組み替えの技術を‘治療’をカモフラージュに人間にも迫りつつある。以前述べたがアメリカでは、2週間まで実験が許されている。このまま行けば、自然変容ではなく、人造変容の可能性がかなり高くなるだろう。これを神への冒涜と言わずして何というか。神はもちろん、法則神でバランスのことである。バランスが崩れると存在するもの全てに影響してくる。人類が医療の発達により寿命が延びた分、新たな問題が起きだした。同じことが遺伝子組み替えでも起きるだろう。ワクワクすれば「しあわせ」ビクビクすれば不幸せ。僕は基本的にはワクワク、自分には人工的な処置は望まない。寿命が来れば仮の世を去るのみ。この世に未練を持って生きながらえようとは思わない。生きながらえようとして上手く生きながらえた人には“命拾いして、よかったですね”と言い、拒んだ人には“勇気を持ってこの世を生きる素晴らしい生き方ですね”と言うだけ。あなたはどうですか?
今日は、あの雪印が没落した原因の‘黄色ブドウ球菌’を学習した。人間の身体には皮膚、鼻、口腔などいっぱいいる。傷をするとそこに菌が集中して集まる。それが食物につくと毒素の‘エンテロトキシン’を発生しそれが人間に害を及ぼす。くしゃみや、鼻水、咳はもちろん、鼻くそにもついている。そういうものがついた食物には、エンテロトキシンが発生する。冷蔵庫の中でも発生する。さらに黄色ブドウ球菌は、酸にも熱にも強い。一番アブナイのは、人の傷に触れた食物。傷口には大量の菌が集結する。それが食物に付くのだから…。そうそう、頭皮や髪の毛、爪の中にも、指輪にも菌はしっかりついている。調理人はが清潔にする理由がよく分かる。帽子、手袋、マスクをして調理する理由はそこにある。もっとアブナイ話、おにぎりにくしゃみをはきかけ、鼻くそをつけて冷蔵庫に入れておく。翌日、レンジでチンして、憎らしいあ奴に、愛想笑いをして「さあ、美味しいおにぎりどうぞ」と手渡す。すると…。ブルッと身震いしてしまいますね。
味覚の話も聞いた。甘味、酸味、塩味、苦み、うま味、これを五大味覚(基礎味覚)と言う。さらに渋味、 味、えぐ味、アルカリ味、金属味の味覚。人間は酸味と苦味に敏感に反応する。命に関わるものが多いからである。なるほどなるほど。味覚は、舌についている舌乳頭の味蕾が感じる。人により数が違う。舌が白くなるのは、角質がついてしまうから。疲れたときや栄養バランスが悪いときになる。キャンプで舌が白い人時々いる。気をつけてあげなくてはならない。そういう時に何かいいものがあるかと聞いたら、特にないと言われてしまった。休ませるしかないのかなあ?
夜帰ってくると、小泉内閣が出来ていた。田中真紀子外相。石原伸晃行革担当相。竹中平蔵経済財政担当相。女性5人。民間人3人。どちらも戦後最大の陣容だと言っているが、このくらいでちょうどイイくらい。派閥の論理崩壊は出来なくとも、新しい風が吹き込んでいると思う。結果次第であるが、夏の参院選も面白くなる。野党もうかうかしていられない。遺伝子コントロールならん橋本コントロール(黄色ブドウ球菌)の増殖は免れ、‘エンテロトキシン’の毒が回る心配はなくなった。しかし、小泉首相の言うように改革へ行くと‘痛み’が出てくる。僕的に言うと、田中外相や竹中経済財政相をうまくスポークスマンとして活用することが効果的。明るいビジョン、特に具体的な明るいビジョンが国民の前に示されるだろう。石原東京都知事を利用するのもまた一つの手だろう。果たして国民はその痛みに耐えられようか。次は国民の忍耐力が試される。目先の様子に気が動転する国民も増加する。それはこれまでのヒヒジイたちの負の遺産である。そのことをしっかり認識できる国民にしてないので政治家も国民も双方ともに正念場を迎える。暑い夏へ向かってワクワクだね。
2001.4.26
‘ボツリヌス菌’ってすごいんだね。たった6gで全世界の人類を死滅できる。1/10億gで致死量。ただそんなにびくびくする必要もない。すぐには死なないらしい。目がかすんで2重に見えて、口が渇いてきたら気をつけた方がいい。缶詰なんか古くなってプクッとふくれたのに入っている可能性大。まあ、抗菌薬があるからまず死ななくて済むようだが。今日の発見は、‘腐敗菌’と‘中毒菌’は違う。腐敗菌は食べても大丈夫。いやあ、知らなかった。大発見。中毒菌は下痢腹痛を起こす。腐敗菌はタンパク質がアミノ酸になり最後はアンモニアになるので臭い。ただし、腐敗菌に中毒菌が混じっていると腹痛下痢を起こす。なぜそんな話になったかというと、実は例のごとく僕が質問したからである。「先生、腐ったちくわを食べちゃったんですが、腹が痛くならなかったのはどうしてでしょうか?」こう訊いたので話がずれていった。まだ色々質問をした。‘ピックル’の2年ものを飲んだけれど何ともなかったこと。ちょっと変だヌルヌルしているおかしいなあ、と思いつつもサバを食べて、やっぱり当たったことなど。結構みんなに受けてしまった。真面目な質問からズッコケけた話まで色々するので、変な人だと思っているだろう。自分の欠点は、隠すのではなく利用する。そうすればもはや武器になる。それをさらすことで人の注目を浴びる。面白いねえ「しあわせしあわせ」。
田原総一郎と石原都知事の対談が週刊ポストにあった。“消費消費と言っているが、これ以上買うのは消費ではなくて‘浪費’だ。何を消費するのか具体的に示されていない。知事になった宮城の浅野史郎、長野の田中康夫、栃木の福田昭夫、千葉の堂本暁子など、自民党嫌いと言うよりは既存の政党に象徴される政治の全てのやり方、フレームワークを庶民は全く権威と感じていない。戦前は政治は『ロマン』を求め、気宇壮大にやった。それが失敗してからは政治が追いかけるエロスを失ってしまった。夢がない。政治の感性、情念が潤って来るみたいなものがない。ところが戦後日本は大国になってしまったが、『志』を持てない。志を持たない大国なんて犯罪的な存在である。李登輝前台湾総統を人道的観点から呼ぶことでさえ中国を気にして時間がかかってしまう。北方領土で世話になった人に250万円進呈したら学校や病院が建った。北方領土返還は遅れようとも、1億円つぎ込めば、ロシアから独立できなくても素晴らしい自治区が出来る。そういう有効なお金の使い方をすればいいのだが、水爆開発に力を注いでいる中国にバカみたいに3兆円も注ぎ込んで…。国民の不満は、そうした国として主体的に何も発見せず行動も出来ないところにある。政治のロマンはかつては軍隊だった。今は、金融力、技術力、これを上手く束ねてアジアの仲間を呼び込み、日本機軸を作り上げる。訳の分からない景気対策、具体的に何もない構造改革ばかりが議論されている。フレームワークを変えることが必要。日本には、貯金も技術も意欲もある。”
大宇宙の生命と一体化すると『気』が充実して活力がみなぎる。心も無限大に大きくなる。そんな気宇壮大な気分でいられる豪快な人間を育てることが先決。勝ち負けにこだわり過ぎず、潔い「いきかた」が出来る“器”の持ち主でいる。人生の結果は「運」と「偶然」によるところが大きい。与えられた運や偶然と喧嘩しても勝ち目はない。それらは大いに利用すべし。それ以上を求めず、それ以下にならず。幸運には喜び、不運とは仲良くする。それでいい。偶然には挨拶して友達になる。視野も人脈も広がって行く。相田みつを的に言えば「のに」をなくす。思っても言わなければいい。僕なんか全く考えない。どうしても気になるのなら、書いておけばいい。「今日〜のに、…だった。悔しい!」これだけで終わると、ストレス菌が繁殖して心身ボロボロになってしまう。その後に、「この思いは、この紙と一緒にそっと過去に捨てておく。わーすれた」と書いてしまっておく。いつか未来にきっと、イイ思い出になる。自分の心の滋養になったことを思い出す。いい材料になる。不満が多い人はちょっとやってみるといい。
もしあなたやあなたの廻りにそういう人がいるなら、この際だから、徹底的に「愚痴」や「不満」を書き綴ってみることをお勧めする。1年後2年ごと思い出して見てみる。ひょっとして‘不満の箱’とか‘愚痴の箱’とか‘悲しみの箱’とかいっぱい出来て逆に愉しくなるかもしれない。そうなったら是非教えて下さい。しかし、反面ちょっとのことでこだわると、毒素になって襲ってくる。あくまで「そうだね、そうしてみようかな…」くらいでいい。『いい加減でイイ』『いい加減がイイ』。自分の思うようにしようと思わない。自分の思うようにはならないのが普通。なるのは特別な人。僕は普通だから「しあわせしあわせ」。特別だったらきっと「しあわせ」なんて感じないかもね。「しあわせ」は普通の人が感じるものじゃあないかな。特別な人はきっと「しあわせ」をものに換算したい人だよ、きっと。そういう人は経済的に恵まれない人にも恵まれている人にもいる。それだから「しあわせ」なんて感じられるわけがない。
2001.4.27
今日は久し振り(2年ぶり)に家庭訪問した。遅刻の多い生徒K宅。うちの学校は、遅刻の回数が多いと生徒指導部の指導が入る。本人に確認したらそれでもいい(去年もそうだったらしい)と言うので当初そう思ったが、あまり効果なさそうなので考え直して、昨夜電話して僕が直接行くことにした。やっぱり行ってよかった。お母さんはとても安心された。子育てに自信がなくなりカウンセリングを受けている最中だった。話している最中にお母さんは涙をポロポロ流し始めた。母親にとっては辛かったんだろうね。年子の下の子がもっと大変みたい。父親の存在はあるようだが、直接話してくれるようではない。結局母親が一人負担を負っているようだった。僕がお願いしたのは“子どもを受容すること”である。具体的には、“聞くこと”“誉めること”。「私メッセージ」と“善悪の判断をしない”こと。だいたい僕が頼むのはいつも決まっている。お母さんは「心が楽になりました」と喜んでもらえた。「しあわせしあわせ」。よかったねえ。さて遅刻が減るかどうかは分からない。しかし、母子の関係改善はなされると思う。カウンセリングで色々知識はあるようだが、結局、直接子どもを知っている人がアドバイスした方が有効なんだろうね。
先生たちもカウンセリング技術・コミュニケーション技術をもう少し身につけた方がいい。大学で、教える内容だけ学ぶのではなく、理論ではなく実践の指導技術に加え、カウンセリングやコミュニケーションを知った方がいいだろうね。現場経験のない大学教授ではダメだ。看護婦も大学出になるらしいが、結局今の教員みたいな看護婦が多くなるだろうね。もっと地道に生徒や患者の気持ちを酌める先生や看護婦さんでないと、特に教育では結果を求めてはいけない。求めれば求めるほど、生徒を細くひ弱にする。耐久力持久力はドンドン低下する。余分なこと・くだらないこと・関係ないことなんかをやるから、ぜい肉(体験・経験)として蓄えられる。蓄えていれば、いざという時に抵抗力となり威力を発揮する。非常に効率よく(成績だけよい)生活して、ぜい肉がないとパニックになった時、とても耐えられない。良い子がパニックで問題を起こすのは、ぜい肉(体験や経験)がないから耐久力がないために爆発するしかないのである。
内にたまるストレス菌毒素はぜい肉を通して分解される。効率を求める教育をなくす方向性が出てくるといい。ゆとり学習は体験学習である。学力の低下を心配しているのは、他と比較するから気になるのだ。70年代のイギリスの例を出して、詰め込み教育から楽しい教育に転換して学力低下が甚だしくなり、再び詰め込みに向かったというもの。合理的な感覚の民族にはそれでイイだろう。日本人は合理性で生きる民族ではない。情緒を大切にする民族である。相手の気持ちを酌んで生きる美しい民族である。そんな欧米人のサル真似なんかする必要はない。もっと『自信と誇り』を持てばいい。今は社会も停滞気味。竹中経済財政相がニュース23で改革の後これから“日本は「自信と誇り」が生まれる”と述べていた。僕は未だにパックスジャポニカの夢を捨ててはいない。例え僕が出来なくても、それを受け継ぐ人間を育てたいと思っている。『世界一の民族』である。まずはアジアのリーダーになる。過去の失敗の遺物を背負った亡霊に取り憑かれた輩は早く去れ。マイナス成長下での経済の建て直しと共に、結果重視の歪みの教育から、体験から耐性を学び感情コントロールすら容易な『ゼロの教育(可能性が+へも−へも無限大;もちろん期待をゼロにするという意味も含む)』へと目指したい。
栄光を求める本物のチャンピオン。栄光に向かって実力を身につけても、決しておごらず才能におぼれることもなく、しかも努力を惜しまない人間。これは“いい加減な人間”である。おごる・おぼれる・惜しむなどする人間は、‘度が過ぎる人間’である。あせる・いばる・おこる・おこたる・くさる人間も度が過ぎる。逆に『焦らず、威張らず、怒らず、怠らず、くさらない』人間は“いい加減”である。例の「あいおおく」である。これを『ゼロ教育』の原点としたい。思考をめぐらすことにおいては本当に無限大だね。気持ちが大きくなって「しあわせしあわせ」。
2001.4.28
今日も午前中は家庭訪問。「子どもが自立と自律するようにし向けて下さい」という言葉に母親はビックリしていた。「今まで考えたことがありませんでした」。結局様子を聞いていたら‘本人は働きたくない’らしい。そこでそう切り出した。親が何もせずとも過ごせるように‘スキ’を与えているからそうなる。親は親、子どもは子ども、早く自律・自立させたい。「そんなこと今まで考えたことがなかったです。家にいるのが当たり前だと思っていました」という答えだった。「それでは働きたがらないですよ」。そういう話を様々な角度から話したら、納得してもらえた。面白くおかしくトーキングした。親は大学へ行かせたいらしいが成績がちょっと足らない。大学のことも両親ともに全く分からない。本人は、暗いし内気。ただ剣道や空手は段位者である。よいところを聞いても浮かんでこない。ここでもやはり、“私メッセージ”と“誉める”“あいおおく”をお願いした。あまり話していても切りがないので適当なところで切り上げた。
午後から、不二家のでかいプリンとアップルパイを持って吉川野営場(愛知新城)の研修所慰問へ出かけた。あいにく雨。今回は12連休で参加者も多い。ふと気づいたこと。ボーイスカウトは毎年5〜7000人ぐらい減少している。あと20年もしたら1万人台になるのでは?今のままだとドンドン減っていくよ。減少しても誰も責任取らないんだからね。増やさなくてもいいから現状維持して循環するようにした方がいいと思う。定員の上限を作ってそれ以上は増やさない。まあそれ以上に“構造改革”をした方がいい。隊・団・地区・県連・日連登録の区別をする。ディレクターやトレーナー、コミッショナー、各種役員の任期は2期4年以内など管理側の改革をするべきである。もう旧式の時代に取り残された価値観を持った人が牛耳っている限り、減少は防げないだろう。そのことに気がつかない。まっ、いいか。少なくなって維持できなければそれまで。
まず何が重要かと言えば“意識改革”。スカウト活動の原点“推理と観察”重視。指導者自身こなしきれない。技能章なんて最たるもの、発展途上国なら有効だろうが、日本ではとても該当年代の青少年に受け入れやすそうなものは少ない。もっと自然の中だけでなく、都会の中での“あそび”に長けた人材育成を目指した方がいい。制服も最小限の着用に努める。まあセレモニーだけでいい。はっきり言って僕も子供心にカブの制服は着たくなかった。どうしてこんな格好悪い変な制服を着なくてはならないのかと思った。嫌で嫌で仕方なかった。ボーイ以上のは軍隊のイメージが非常に強い。ボーイのハットもベレーも好きでない。結局ボーイスカウト組織だけで通用する観念は捨て去ることだね。制服、規律を重んじるのはもはや少数派の国民である。確かに入隊するのはそれに憧れて入ってくるものが多いかも知れないが、ボーイスカウト組織内のことで、外の様子ではない。外から見れば軍隊の予備軍にしか見えない。そして特に日本は規制が多すぎる。中央の日本連盟にいちいちお伺いを立てなければ、世界のどこへも行けない、何も出来ないのはおかしいねぇ。封建体制そのもの。もっと自由に活動できるように規制緩和すべきだろう。
ある地区のローバー(大学生〜およそ25歳)年代のグループは結構集まりがよく色々な活動をしていたが、「それは“ちかいとおきて”に沿った活動ではないのでコミッショナーとして認められない。」と地区のコミッショナーが、グループの活動に対して方向転換を求めた。そのグループは、スカウト関係者だけに限らず色々なメンバーが出入りしていたのは事実で、若い年代のこと、結構飲み会とかも多くて楽しいグループだったらしい。コミッショナーはそれがどうも気に入らなかったようだ。確かに、コミッショナーの言うことは正論である。コミッショナーとしての仕事(基準の維持)もしている。しかし、もうそれは現実に合わなくなっている。コミッショナーは使命感に燃えるあまり、現実の把握を無視してしまった。約20名くらいが集まって盛り上がっていたグループが、正式なボーイスカウト活動にして立ち上げたら、1,2名になってしまったと言う。そんな“堅苦しいグループにはもう行かない”ということだ。「地区ローバー」発足と共に‘地区ローバーは去って行った’。その地区は本来、うちの碧海地区と同人数を競う地区であったが、今は100人あまりうちより少なくなっている。‘規制を嫌う’今どきの若者の典型的な例である。
団塊の世代は有無も言わず従い努力することで「しあわせ」になれると信じてきた。事実ものが豊かになり「しあわせ」になった。しかしそれがそのまま40代以下の世代に当てはまるとは限らない。特に20代以下には“従う”というのは禁句だろう。従来はボーイスカウトは『従うことにより学ぶ』を美徳としてきた。‘地位や身分、上下関係’を捨てて研修することを求めていた運動である。まさしく、軍隊の民間版とでも言えば当てはまる。それが最近は『体験することで学ぶ』と外部向けの宣伝文句を利用している。研修所(指導者基礎コース)や実修所(同上級コース)の所員も「参加者のみなさんと共に学ぶ」と口では言う。しかし、実際は参加者に‘服従’を求め、‘命令’しているのが実体である。そして参加者が何かを求めようものなら「所員(今はスタッフかな)が迷惑です」とか「それは参加者がやればいい」と素っ気なく返答する。また、スタッフのことは隠したがる。“共に学ぶ”はどこへ行ったのか?スタッフ経験が多すぎて長すぎて、感覚がマヒしている。いつの間にか自分(スタッフ)の方が上位であるという意識が染みついてしまっている。これは、自らが参加者になりその実体を体験することでしか是正できないだろう。そういう努力をしているスタッフを見かけたことはない。スタッフの心許ない感情的な一声でどれだけ参加者が嫌な思いをするか、是非“体験により学んでもらいたい”。
僕は、批判(つまり、スタッフにとっては僕みたいな内情を知っている者が入るとやりにくい訳である)をされながらも、実行した。とても勉強になり参考になった。スタッフの横暴さ加減が目に見えて分かった。それ以上に熱心な参加者が多いことに気づいた。だからこそ、自分が指導的な立場に立ったとき、かなり注意できる。ところが、僕より年齢はいっていて社会経験は多いかも知れないが、新米スタッフでかなり横暴だったり、融通が利かないのがいる。その場の参加者の雰囲気を察知しても、上位に立って押しつけるスタッフがいる。ただ‘時間’‘時間’で「急げ!」と暴っている。本当に軍隊の訓練だよね。そして参加者が遅れたり、スタッフの意に反することをすると「あなた達は、何のためにここで研修しているんですか!」となじったり…。こんな研修をやっているから、スカウトをなじる隊長が出来るのでは…。しいてはスカウト人口の減少につながっているのでは…?
僕が所長なら、スタッフには「“共に学んだこと”を参加者に伝えて下さい」、チューター(グループ担当)には「毎日一つ以上、よいところを見つけて誉めてあげて下さい」と求める。グループの志気を高めるなら、グループのよいところを認めていけばいい。その数が多ければ多いほど“志気”は高くなる。また参加者の疑問・質問・提案には、クエッションボックスを設けて集約する。そしてさらに、参加者自らが、情報を提示し合ってネットワーク作りに取り組める仕掛けを設置する。それにしても“お酒”がないのはもうボーイだけでしょう。国立少年自然の家でも売っている時代にどうして時代に逆行することをやっているのだろう?その割に“禁煙”は求めない。愛知連盟の野営場の自然環境に不釣り合いな‘喫煙用の土管’があちこちにある。
こうした僕の経験は、仕事にしっかり活きている。生徒の立場に立って、生徒の能力を考えて、“生徒が出来ること”を求めるだけである。そして僕は自分の“愉しむ(目的)”に沿った“遊ぶ(目標)”実践をしているし、生徒にもさせている。有り難いことだ「しあわせしあわせ」。最近は“発見”もある。生徒は、知らず知らずのうちに発見体験をしている。そのことを僕は“発見”した。僕が初めて担任をした時から必ず家庭訪問をしている。保護者の信頼を得て、またその不安を解消することが目的である。ボーイのDさんが言っていた「保護者が消費者、スカウトは製品」であるというのを思い出す。Dさんというのは、僕が尊敬できる年長者の一人である。調子に乗ってちょっと長くなってしまった。
2001.4.29
今日から、東京の京王プラザホテルで「21世紀の教育を考える」シンポジウムに参加している。主催は,NPO新生活創造、社団法人生活文化総合研究所。後援は文部科学省、日経・読売・毎日の各新聞社と東京モラロジー協議会。参加費2万円。懇親会込みである。当初町村前文部大臣が出席予定だったが、政権交代で党幹部になったため不参加。遠山文部相はさすがに成り立てで無理。まあそんなような所であるが…。たまたま豊橋の女将のOさん(食材業などの経営)と住職のOさんと一緒に出かけた。
杉原俊雄氏(生活文化総合研究所所長):不安と不満→安心と満足へ、その基盤が「健康=生きる力」。その“いのちの素”は環境が汚れ、生活が満たされなければ入らない。教育も絶対から相対、部分から全体(生涯学習)へ移りつつある。本物の教育は「いのち」の教育である。
寺脇研氏(文部科学省大臣官房審議官):教育の主役は官(19C)→官・民(20C)→民・官(21C)へと代わりつつある。教育改革(文部科学省)批判は学習内容に対するものである。「ゆとり」が‘ゆるみ’‘さぼり’になるおそれがある。厚生労働省との共同プロジェクトは@地域で子どもを育てるA奉仕体験活動…ボランティア休暇。
渡部昇一氏上智大教授が「21世紀に送る教育への提言」と題し基調講演を行った。
「生きる力」に必要なものは@プライド;誇りを持つことA才能・得意を伸ばすこと。1902年に日英同盟を結び、1904年にはロシアに戦勝したのは、明治初期の日本人に“誇り”があった。「オレたちは決して白人に劣っていない。徳川幕府が自然科学を遅れさせていただけだ。勉強すればすぐに追いつく。」そこで考え出したのが『留学』である。留学は日本人が考え出したアイディアである。同じように“家庭にもプライド”がないとものにはならない。家庭内で否定的な話ばかりしていたら決して子どもは育たない。豊臣秀吉も中村村でちょっとは威張れる農家だった。
敗戦後、マッカーサーが日本の民主主義を始めたと言うが真っ赤なウソ。占領軍は日本をダメにする憲法制定を考えた。つまり日本人にとっていいものが入らないように工夫した。『教育勅語』(明治天皇が子どもに正しく租借するための心の基礎を作るものとして制定した)もその一つで占領軍にとっては都合が悪かった。その代わりに“教育基本法”を作らせた。これを変えない限り、“教育改革”は出来ない。ポイントは‘学校の設置基準を止める’こと。この基準があるため容易に学校は作れない。トットちゃんのような学校はもはやあり得ない。戦前は今よりはるかに自由で、融通が利いた。親が教えると言えば学校へ行かせなくてもよかったし、小沢征爾のような人物が桐朋学園で学校の外へ出て自由に超一流の先生の下でレッスンを受けられた。ところが、文部省は‘教師は学校で教えなくてはならない’ということで施設で莫大な資金必要になった。もう都市では学校建設は無理である。
教員免許取得で学校の先生になるために無意味な理論を多く学び過ぎ。例えば何の役にも立たない教科教授法など学ばなくてもいい。地方で一歩も出ないで県大の英文で教員免許を持っている人は優先して教員になれるが、アメリカで1年で収支を取って勉強した人が教員に採用されない。私塾の先生は塾長が認めた人がなれる。本当はそういう学校が増えればいい。学校より悪い‘塾’はないとまで言われる。
「学習指導要領」は一番出来ない子に合わせている。小数点がつくと計算できない子がいるから円周率は「3」にした。“平等”は一番出来ない子に合わせることである。多様性とはデコボコがあることである。出来る子は別にやればいい。平等はよく聞くが、才能を伸ばそうと言われるのはまれである。
敗戦後も日本人は自分の能力をみんな信じて働いて復興した。「日本人の誇り」は“我々の父母や祖父母が白人と対等以上の頑張った。だからアパルトヘイトはなかった”。これは胸を張って言えばいい。学校の設置基準をゆるめ、私学の先生は必ずしも教員免許を必要としない。公立の先生の任免罷免は校長にあるようにしたらいい。
寺脇研氏のコーディネートでパネルディスカッションがあったが、一番印象的だったのは、北村弥枝氏(教委研究会「未来」理事長)の発言。非常に分かりやすく共感できた。あるアトピーの子供を持つ母親に助言したこと。“夫を尊敬し、愛し、捧げなさい。子供にも愛を向けなさい。そのためには、夫が喜ぶことをしてやりなさい。そうしたら、今まで腹が立っていたのに、「許す(愛する)」ことが出来るようになった。そして夫の母にも同じことをしたくなった。最後には自分が喜ぶことが出来るようになった。人はみんな“役立つ生き方”をしてみたい。世の中のためになる。他人のためになる。そうなったら、子どものアトピーはなくなったそうだ。子どもに「点数を取りなさい」と卑屈になっていると子どもはダメになる。「あなたは○○で役に立つ。それを信じてやってごらん。必ずあなたは成功するとお母さんは思うよ」。戦後“女の心”は変わった。男より偉いと思うようになったことである。しかし、「全ては嫁として、妻として、母としての心のあり方次第」「夫も子どもも活かすのは女」「引いて相手を立てる」。それに気づいたから、女である私が女性に説いて回っている。こんな内容だった。アトピーすら治ってしまうんだと感心した。“夫婦愉しく会話をして、生きているだけで「しあわせ」だねと子どもにみせてやって下さい”と言ったことをふと思い出した。それ以上にじゅうような要素を見つけた。北村さんのはこれからいただき。
新宿のシティホテルでのんびり過ごしている。うーん、実り多いいい日だった「しあわせしあわせ」。
2001.4.30