「絶対の客人」という存在
 絶対の客人の、「絶対」ってどういうことだろう。やはりこれは、パンツァー世界の人間にとって「絶対の存在」だということだろうか。絶対の客人はパンツァー世界では死なないし、例えセストレンであろうと絶対の客人を妨害することは不可能だ。このような絶対的な存在をどう定義すればいいのか・・・それを考えるためには、宇宙の構造から説明する必要が出てくる。

宇宙は「閉じた4次元時空」
 我々が住む宇宙は、現在は「閉じた4次元時空」だと言われている。「4次元時空」というと訳が分からないが、3次元空間と時間を合わせたものが4次元時空と言われるだけの話で、難しく考える必要はない。「閉じた」というのは分かりにくい表現だが、簡単に言えば「外には出られない」という意味である。もし仮に、地球から宇宙の果てを目指して飛んだとしても、宇宙の外には出られず、また地球に戻ってきてしまうと考えられている。
 3次元空間を自由に動けるように、4次元時空を自由に動けるのか(つまり、未来や過去も自由に行き来できるのかということ)という問題があるが、現時点では因果律の関係で過去には行けないということになっている。未来には行けないことはないが、現在に戻ってくることは不可能である以上、時間旅行は無意味な行為なのかもしれない。

世界は「階層構造」なのか
 フラクタル理論というのをご存じだろうか。これは幾何学の理論らしいのだが、世の中に溢れる不規則な造形を数学的に説明することができる。基本的な考え方は、例えば端がギザギザの「木の葉」があったとする。そして、ギザギザの部分を拡大していくと、なんとそのギザギザの部分は、「木の葉」全体の形で出来ていて、やはり端がギザギザになっている。そして、さらに拡大すると・・・(以下繰り返し)。こう書いてしまうと、素人の私など「そんないい加減な理論でいいのだろうか」と思ってしまうが、この理論に基づいて描かれたCGは実に見事に自然物を表現している。このことから、「我々の世界は、このフラクタル理論のような階層構造なのではないか」と言う人もいる。つまり、我々の宇宙の外側には別の宇宙が存在し、我々の宇宙を内包していて、さらに我が宇宙も別の宇宙を内包しているということである。宇宙自体は「閉じて」いて「外側には行けない」ことになっているが、内側に存在する宇宙には行けるのだろうか。「内側→外側」は無理でも、「外側→内側」は可能だと思うのだが。

 これを我々が住む世界と、パンツァー世界にあてはめてみると、まず我々の世界(宇宙)があって、その内側にパンツァー世界があるということになる。パンツァー世界は内側に存在するので我々は関与することが可能だが、さすがにその世界の住人ではないので、我々はその世界の住人の力を借りて登場することになる。それがたまたまアインでは「カイル」、ツヴァイでは「ランディ」、AZELでは「エッジ」だったのだ。

因果律適用除外
 さて、そんな我々が、なぜパンツァー世界では絶対的な存在になるのだろう。それは多分、我々が外の時空の住人だからだろう。つまり、我々はパンツァー時空の住人ではないので、パンツァー時空の決まりには縛られないのだ。具体的に言えば、我々は自分の世界では、因果律の関係で過去には戻れないが、パンツァーの世界では過去に戻ることができるのである。考えてみてほしい。我々プレイヤー=絶対の客人は、例え冒険に失敗しても過去にさかのぼってやり直せる。根気さえあれば、絶対の客人の思い通りになるのだ(開発者=絶対神には逆らえないが)。パンツァーの住人にとっては、絶対の客人は神のようなものだといえる。逆に言えば、帝國にとっては悪魔なのだが。

 よく考えてみれば、「過去にさかのぼることができる」絶対の客人というのは、セーブやロード、リセットやゲームオーバーを繰り返しながらクリアを目指すゲームプレイヤーそのものだ。「プレイヤー=主人公」ではなく、むしろプレイヤーは神の立場に近い。神の立場にいながら、主人公とシンクロしてゲームを進めていく、それがゲームの楽しみの一つだと思う。RPGでよく言われる、「プレイヤー=主人公でなければならない」論は幻想ではないだろうか。(あ、だからファンタジーなのか)

エッジ達には絶対の客人はどのように見える?
 絶対の客人は、エッジ達にとっては外の時空の住人なのではっきりと認識できない。旧世紀の技術で作られたアゼルや護り火でも、「何か変だ」と感じる程度である。エッジも、セストレンでは存在を感じ取ったようだが、それまではどのように感じていたのだろう。

 おそらく、エッジ達にとっても、「自分の気持ち」と明確に区別できなかったはずである。ランディの残した日記には、シェルクーフを追いかける時の気持ちが書きつづられているが、恐怖感は消え、何か使命感のような気持ちが心の奥からわき上がって来た、と記している。ランディはその理由を、「ラギのドラゴンとしての意志が自分を動かしていただけなのかもしれない」としているが、これは、我々絶対の客人の意志の反映ではないかと思われる。ランディは、「もう一人の自分」ともいうべき絶対の客人の囁きに、無意識のうちに勇気づけられ、シェルクーフを目指したのだ。

 さらに、絶対の客人は決定的な役割を果たしている。乗り手自身にとっては一方向しか見ることができないが、絶対の客人はレーダーで全方向を確認できる。要するに、ドラゴンは周囲の敵の座標を捉えることができるわけで、その情報を絶対の客人に送る。その情報を見た我々が視点変更をすると、乗り手は「見えてないはずの」後ろの敵とかを一瞬で破壊するわけである。そして忘れてはならないのは、絶対の客人は「因果律を超えた存在」ということ。その気になれば何度もやり直して「練習」もできる。我々はパターンを覚えて遊んでいるに過ぎないのだが、乗り手は「不思議な力に導かれた」と感じるだろうし、帝國軍に言わせれば「乗り手は凄い反応速度だった」ということになるのだろう。

我々の世界にも絶対の客人が?
 今回は、「世界が階層構造である」という前提で話を進めてきた。となると、我々の世界にも絶対の客人のような存在が「宇宙の外側から」訪れているとも考えられる。もしかしたら、我々が「神」と呼ぶ存在がそれに該当する可能性もある。

 どんな宗教でも、神は絶対的な力を持っていることになっているが、たいていの場合「奇蹟」を起こすのは神に選ばれた人間である。神にとって、人間の世界は「別の宇宙」であり、直接は手を下せない。そこで、間接的に人間を動かし、奇蹟を起こすのだ。まさにパンツァーにおける絶対の客人そのものであり、ゲーム全般におけるプレイヤーの立場にも通じるものがある。

 うろ覚えで申し訳ないが、キリスト教では、選ばれし人間(キリスト?)、聖霊、主が一体になった者を神と定義していて、その様を「三位一体」と称している。パンツァーでは、選ばれし少年、ドラゴン、絶対の客人の三者が奇蹟を起こした。パンツァーの住人にとっては、三位一体の神だったのだろう。

 身近な例を挙げれば、スポーツの世界でもあり得るかもしれない。スポーツの世界では、作家もクサくて書けないような神がかり的なことが平気で起こる。もしかしたら、「勝利の女神」とも呼ばれる存在が、試合に関与しているのかもしれない。後ろから選手を動かして、ホームランを打たせたりとか・・・(よく考えれば、これも野球ゲームに通じるものがある)。もちろん、突拍子もないバカげた考えだが、「あ、今のは絶対の客人が関与してたのかな」と考えながらスポーツ観戦というのも、たまにはいいかもしれない(そうか?)。

1999.8.6(1999.12.2修正)


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