15. 神秘なるアンコールワットとベトナム2都物語
7 日 間 (2012/2/18〜2/24)


ベトナム旅行は、昨年、同国縦断の旅を思い立ったが、諸般の事情で不発に終わった。 一月末、夕刊の表記旅行広告に妻が関心を寄せる。

私は、ドイモイ政策下で経済発展が進むベトナムには日々の情報を通して関心があったので、 この機会に右の写真の世界遺産の見物を兼ねて、ちょっぴり取材に出かけることとなった。

出発当日、中部国際空港に集まった参加者は、60代前半から80歳までのシニアー16名です。 一行の奮戦状況と現地を覗いたその場その場の私の思いを沢山の写真を添えてレポートします。

レポートは、長々です、したがって、時間が有り余る定年退職者にお勧めのSiteです。ごゆっくりお楽しみください。

〔両国紹介〕
@ベトナム社会主義共和国:人口:8,579万人、面積:日本の90%、ベトナム語、仏教徒70〜80%、日本との時差:-2時間、通貨:ドン
Aカンボジア王国:人口:1,340万人、面積:日本の50%、クメール語、仏教徒80%、日本との時差:-2時間、通貨:リエル

〔日程〕
@第1日目2月18日:中部国際空港10:55発⇒イノバイ国際空港⇒ハノイ郊外市内観光・80Km・・・SUNNY 3 HOTEL泊
A第2日目2月19日:ハノイ市内観光⇒ハロン湾地区観光・240Km・・・SAIGON HALONG HOTEL泊
B第3日目2月20日:ハロン湾⇒バッチャン村観光⇒ハノイ市内観光⇒空路シェムリアップヘ・・・ROYAL ANGKOR RESORT泊
C第4日目2月21日:アンコール遺跡群観光⇒夕日鑑賞⇒宮廷舞踏ディナー・・・ROYAL ANGKOR RESORT泊
D第5日目2月22日:アンコールトム観光⇒OP:トンレサップ湖クルーズ⇒アンコール国立博物館⇒空路ホーチミンへ
・・・RANANA SAIGON HOTEL泊
E第6日目2月23日:ミトー観光・メコン川クルーズ⇒ホーチミン市内観光⇒空港へ
F第7日目2月24日:タンソンニャット国際空港00:30発⇒中部国際空港7:35着

ベトナム、カンボジア観光エリアマップ

〔編集〕
このSiteの他に、ハロン湾クルーズ・アンコールワット・アンコールトム・バイクシティー、ホーチミンの写真集を、 それぞれ、フルスクリーンのスライドショウで編集しました、各取材記の見出しにリンクしましたのでクリックしてください。

各写真の撮影時間は、現地時間=JST-2時間、



1、ハノイ & ハロン湾、2月18,19日
『ハロン湾クルーズ』スライドショウ
『ハロン湾クルーズ』動画は、You Tube/3'19" で、



”ベトナム航空機” 15:32

エアバスA321/184席は、定刻にハノイ近郊のイノバイ国際空港着、 しかし、参加者の中のビジネスクラス5名が早く降りて行方不明のびっくり事件があった。

ベトナム航空機のマークはハスの花を表し、仏教国に相応しい。この旅で、同型機を4回利用したがサービスもよく不安はなかった。

旅の準備は、豊田市内の銀行で米ドル300$をゲット、現地支払通貨はすべて米ドルで問題なく、チップも1$で喜ばれる。

空港から、市内へ向かう途中の田園風景を眺める、一回目の田植えの時期で水牛と人力であった、日本のS30年代の農作業を思う。





”ローコア遺跡” 17:06

ハノイ近郊の古寺、周辺に2000年前の土塁が残り、数百年前に建てたという古刹が現存する。

周辺は農地で、生活環境は中国の農村のようで、寺の前の通路はゴミだらけであったが、 家の横のバナナの木の前にパンティーが干してありほほえましい。





”ホーチミン廟” 18:37
夜の市内観光となり、ホーチミン廟と一柱寺界隈を歩く、

廟は、本人の意志(遺骸を火葬して北部、中部、南部に分骨して埋葬すること、戦争勝利後は農業合作社の税金を1年間免除すること)に反し、 ベトナム労働党政治局はこの部分を削除して遺書を公開して民族独立の父として崇め、遺体を永久安置するために南北統一後建設した。

大理石づくりの廟は、ハスの花をデザインし、入り口には、銃剣を捧げた衛兵が立つ、昼間は見学も可、

横長の看板には、ベトナム社会主義共和国の文字、

ホー・チ・ミン

”水上人形劇場” 21:46

ベトナムの伝統芸能、上演時間は1時間で、演目は全17編、農家の日常生活、龍や獅子も登場し、コミカルな動きが笑いを誘う。



”水上人形劇場” 22:14

最後に、
水中操り人形を操作していた”タンロン水上人形劇団員”が顔をだし、びっくり仰天で面白い。

水上人形劇 You Tube 動画・7分43秒

”ハノイの朝” 7:18

ホテルの窓からの市街地の様子です。
ビルの建設も目立ち、ドイモイ政策が進みます。しかし、屋上にある大きな水槽は、断水に備えたもので、全土に見られるようです。

それは、水道のインフラがまだまだで、断水が発生したり、水道の普及率は、都市部で70から80%、農村ではかなり低いようです。

その水も、配管の漏えいが原因で、汚水が混ざったりで、必ず沸かして使用するそうです。



”電柱に蜘蛛の巣” 7:47

ホテルの前の電柱です。この蜘蛛の巣は、ITが急速に普及したため?、電話線、CATV,インターネット回線などが混乱し、トラブルも多く、 その都度新たに回線を引き、古いものはそのまま放置されるといいます。

市街地は、地下ケーブルにする計画があるがなかなか進まないという。





”ソ連製ミグ21戦闘機” 8:02
午前中はハノイ市内観光です、タンロン城址前の広場にベトナム戦争で頑張った戦闘機ミグ17、ミグ21、 米軍からぶんどった大型のヘリなどが展示される。
その奥には、ベトナム軍の現司令部などが隣接し、ベトナム戦争を決して忘れない思いが感じられた。

そこで、このミグ21は、米国のB-52を撃墜したか?調べると、
北ヴェトナム空軍(NVAF)は、1972年12月26日にファム・トアン中佐が MiG-21でB-52を1機撃墜したと主張した。
しかし、米空軍はB-52はヴェトナム戦においては被撃墜が18機(その他事故損失が13機)でしたが、 いずれもSAM(ソ連製ミサイル)によるものとしています。

ベトナムでは、撃墜され池に墜落したB-52をそのまま保存しているとガイドのタンさんはいう。 私は、それを取材したいのだが、

”タンロン城址” 8:05

11〜19世紀にタンロンの名で栄華を極めたベトナム王朝の城址『世界遺産』、 中に入ると、11世紀頃の遺跡発掘状況がガラス越に保存される。

城郭に登り、ハノイの中心部を眺める。



”タンロン遺跡巡り” 8:25

タンロン城址近くの施設をぐるぐる巡る。中庭で盆栽に出会う。



”巨大盆栽” 8:27

苦難の歴史に耐え、北爆にも耐え、展示される。



”解放軍地下指令室ルート” 8:33

ベトナム戦争当時の北爆下、米国の原爆投下を恐れ、
解放戦線の司令部を、ソ連の支援で司令部の地下37mに設けた、地下へのルート図、

一同地下へ入る。



”地下司令部の電話器” 8:43

ベトナム解放軍の米軍包囲網の作戦図と電話器、



”司令部地下会議室” 8:44

ベトナム解放軍は、ここで作戦をたて、サイゴンの周辺まで地下壕を張り巡らせた。その本部、

”ホーチミンの写真” 8:44

会議室正面に掲示される、

彼は、ホーおじさんと国民に親しまれ、その理由は、フランスの植民地時代に諸国を巡り、レーニン、スターリンそして毛沢東とも会談した。 しかし、共産主義を盲信せず、純粋にベトナムの主権回復(独立)と国民の幸せを願った。

しかし、ベトナム戦争では、300万人の同胞を犠牲にし、400万人の負傷者を出した。

”ベトナム解放軍無線機” 8:50

ソ連製と思われる無線機が保存される。右のブロワーは、送信機の冷却用





”躍進するHONDA” 11:31

ベトナムとHONDA、1970年代以降ベトナム国内で本田技研はスーパーカブやドリームを普及させた。 その実績がビジネスバイク普及の発端となった。

扱い易さ、燃費、修理、経済性のみならず、本田技研の想定範囲や先進国の安全常識では到底考えられない異常な酷使、 過積載、子供まで含めての4人乗りといった曲乗り状態も珍しくない。

これに耐えるオートバイを提供したHONDAは彼らの生活の道具としてユーザーから強い支持を得た。

ヤマハ、スズキ、中国、韓国が進出する現在でも、HONDAのシェアは32%でトップ、

”鉄路” 12:18
ハノイとハイフォン間の鉄路です。一日5本、ゆっくりゆっくり民家の前を走ります。 この鉄路の遊び時間は、通学路や通勤路となります。並行する道路より安全です。

向こうの山の奥は、ホンガイ(ホンゲイ)無煙炭の露天掘り山地、バスの中から時々見える。

ベトナム南北高速鉄道計画
2007年から日越で高速鉄道の建設に向けて共同委員会が設けられた。 2010年には、前原誠司国土交通大臣がベトナム政府へ「日本の新幹線方式」の売り込みをした。 ベトナム政府は承認したものの、ベトナムの国会では総投資額540億ドルという「巨額」がネックとなり、 ベトナム国会にてこれらの政府案は否決された。

”ハロン湾迫る” 12:26

ハノイから150Km余、車窓からの眺めです。
海岸に石灰岩のクボミが列をなす。

時々、セメント工場があり、日本の会社も進出するという。





”ホンガイ観光” 13:36

ロンテイン寺巡り、





”ホンガイ観光” 14:28

ハロン市場、ハロン湾の幸がづらりと並ぶ、





”ハロン湾の水上生活村” 14:42

市場の2Fの展望デッキからの眺め、





”サイゴン ハロン ホテル” 7:23

ホテル前で、一行の出発を待つ”HANA TOUR”の韓国製バス、

ベトナムでは、日本製は高額でマイクロバスも、乗用車も含めて経営面で採算にのらないという。 日本の高級車は、税金で賄う公用車かわいろで稼いだ役人が乗るという。

ガイドのタンさんは、何回も自国を”わいろ主義”いった。



”携帯電話の中継アンテナ” 8:25

ベトナムには携帯電話会社が7社ある。各村々にアンテナが7本必要だ、

各社の方針もあると思うが、このような民家の屋上に建てる方式がかなり目立つ。

屋上の物置は中継器、非常電源などの容器となる。また、ケーブルを室内へ引き込む家もある。 ベトナムは、台風もなく、通年穏やかという。しかし、落雷には敏感で、家々に避雷針を設ける。



”火力発電所” 8:29
この火力発電所は、1945年以降にソ連の援助で建設され、ベトナム戦争の北爆で破壊された。その後修復され稼働している。 燃料は、近くのホンガイ炭、
このすぐ近くに、日本のODAで建設された火力発電が稼働していた。ソ連製に比べ高性能という。

ベトナムの電力事情は、日本の企業進出、電化製品の普及もあり受給不足が続き、現在も計画停電が行われている。
今後も年率数パーセントの経済成長を進めたいので、産油国ですが原発を計画推進中という。

1号機は、すでにロシアと契約し、2号機を日本のODAで進めようと交渉中という。

この国は、日本の真似は似合わないのだが、”わいろ主義”の実力が試される。



”バッチャン村観光” 11:25

ハノイ(川内)郊外のホン川(紅川)対岸にある焼き物の里を訪ねます。

遅れましたが、現地ガイドのタンさんを紹介します。
彼は、愛知県の自動車部品会社で長年頑張った37歳の青年で、その時に日本語を習得した。 豊田市のR248もよく知っている。

ベトナム語を昔のように漢字表記すれば日本語と非常に似ていて覚えやすいという。



”バッチャン村観光” 11:27

活躍する三輪車、戦後日本の復興期を思い出す。





”バッチャン村観光” 11:28

これが、ハイブリッド輸送です。

天秤棒で運べば燃費が世界一なのだ、





”バッチャン村観光” 11:33

この様な焼き物店がずらりと並ぶ、





”バッチャン村観光” 11:49

伝統的なバッチャン焼き工房で、絵入れをする職人、

一行は、バッチャン焼きの夫婦湯呑をお土産にいただく、



”北部ベトナム料理” 12:57

ホン川にかかるODA(有償で30年返済)で建設の有料橋を通り、ハノイ市内の南国風レストランへ、

メインディッシュは、ライギョのフライ、食事も、飲み物もおいしかった。

ライギョは、車窓の風景からため池での養殖魚と思えた。丸いため池は何かとガイドに聞くと、 B-52が落とした爆弾のくぼみという。ベトナム戦争の残影を思う、

市内を行くと、ホン川にかかる鉄橋が残る。フランス統治時代にエッフェル塔の設計者エッフェルさんが設計し、 資材をフランスから運んだ。その橋は北爆で破壊されたとタンさんは説明した。



”文廟” 13:57

孔子を祀るために、1070年に建立された。

境内にはベトナム初の大学として建てられた建物があり、ベトナムの学問のシンボル、





”文廟の中庭” 14:06

ベトナム(南越)全国から秀才を集め素晴らしい環境で学んだ、



”文廟、亀の石碑” 14:11

この石碑には、歴代の科挙合格者名が刻まれる。

現地ガイドのタンさんは、誇らしげに自分のひ曾祖父の名もあるという。



”あなたは横断できますか?” 14:32

ハノイの道路です、ガイドのタンさんは、このような流れの中を歩いて渡るノウハウを説明する。

正解は、ゆっくりゆっくり進めばぶつからずに渡れる。急に走ったり、止まったら危険という。

しかし、ツアー参加者はだれも渡らなかった、
ベトナム人は、ぶつかる前に止まる習性があるようだ、私も、ぶつかる前に止まるをモットーに半世紀無事故であったが、 実は、最近ぶつけられた。



2、シエムリアップ & アンコール遺跡、2月21,22日
『アンコールワット』『アンコールトム』は、スライドショウでどうぞ!


”タイスキ料理” 19:53

18:50シェムリアップ国際空港着、

市街地のレストランへ直行しカンボジアのなべ料理です。



”シェムリアップの朝” 7:45

南国の強烈な日差し、明るい、

ホテルのプール越に市街地、TV塔、周辺の様子を眺めます。

”プールサイド” 6:57

朝食を早めに済ませのんびりです。

韓国から来た家族は、子供さんをプールで泳がせます。 、



”プールサイド” 7:06

ホテルの庭を一回り、象も出てきました。



”王様の像?” 7:57

ホテルのアプローチ前の像はだれか?取材を怠った、

後日、アンコールトムの『ライ王のテラス』で見た、ライ王がモデルと思えた。

”カンボジアのタクシー” 7:55

ホテル前には、客待ちのタクシーが10台ほどたむろする。

個人旅行者は、彼らの世話になり、欧米人は、気軽にる利用します。

”高床式住居” 10:24

観光道路沿いの農村風景です。乾期のせいか人影はない、



”乾期の農地?” 11:55

一帯は乾燥地が続く、雨季になれば農地?それとも地雷原?



”フォトギャラリー” 12:29

昼食前に、日本人経営のクッキー店へ、土産を買い、2Fへ上がる。

そこは、カンボジアを愛した日本人写真家”藤井秀樹氏”のフォトギャラリーであった。

訪問の記念に、
彼の略歴と、 彼の思い を紹介します。

”米咲(まいさ)” 12:42

クッキー店の前に、日本食レストラン”米咲(まいさ)”がある。

ここは、日本のTVでも紹介されたと参加者は言う。



”クメール料理” 13:16

昼食は、ホテルのレストランです。

日本の重箱を丸くしたような盛り付けでおもしろい。

昼食後は、ホテルで2時間休憩してからアンコールワットへ、



”アプサラダンス” 20:33

シェムリアップの夜です、
大劇場のアジアンビュッフェ、ディナーショウは、

カンボジアン宮廷舞踊『アプサラダンス』You Tube 1'55"です。

”アプサラダンス” 20:00



”アプサラダンス” 20:29





”暁” 伊藤さん撮影

朝5:00発のアンコールワット朝陽鑑賞です。

私は、ホテルでのんびり、

”朝陽” 伊藤さん撮影

朝5:00発のアンコールワット朝陽鑑賞です。





”OP.トンレサップ湖クルーズ” 伊藤さん撮影

水上生活村の住居、

”OP.トンレサップ湖クルーズ” 伊藤さん撮影

水上生活村の商店、



”OP.トンレサップ湖クルーズ” 伊藤さん撮影

小学校の下校時は、母親が小舟で迎えに来る、





3、ホーチミン & ミトー観光(メコン川クルーズ) 2月23日
『バイクシシティー』 スライドショウ


”ホーチミンの朝” 7:43

ハノイからに南へ1200Km、強烈な朝陽、青い空、

ハノイに比べて、明るくきれいなように思う、

”RANANA HOTEL” 8:01

出発前に、
散歩に出かける。ホテルマンがしきりにスリに気を付けろとゼスチャー、

帰ると、バスが来ていた、これも韓国製、

”ロータリー” 9:50

ベトナムはフランス統治の時代より車は右、
大きな交差点にはロータリーが多い、

”現地ガイド”10:01

ホーチミンエリアのガイドのティエンさん33歳、

”サイゴン大聖教” 10:02

市街の中心に建つ、フランス統治時代の置き土産、1880建立

二つの尖塔を持つ赤レンガつくりの優美な教会、中に入り祈る。

”中央郵便局” 10:20

フランス統治時代の1886〜1891年に建てた、ヨーロッパ駅舎風の建物、

大聖教の右横に建つ、年中開局するが、現在は観光の名所でもあり、中には土産物が並ぶ、

”局舎ホール” 10:23

ホールは広く、沢山の窓口があり、正面にホーチミンの肖像画、

手前の人だかりは土産店、

”局舎ホール” 10:23

ホールの左上に、当時のインドシナ半島の地図、ヨーロッパ各地の時計、

”ベンタイン市場” 11:41

ありとあらゆる物が並ぶ、2000以上?の店、値段は顔を見て決める。

何でもあるというので、ベトナムミュージックのCDを探す、

なんとか見つけて、値段の交渉を楽しむ、欲しくても欲しそうな顔はだめ、CD一枚10US$から5US$でOKとした。 ニコニコしたので倍の値段?

”ベンタイン市場” 11:45

店員風情、携帯でしゃべる、飯を食べる、隣の店員とおしゃべり、

ストレスがないのか、皆さん健康的、

”市場前の風情” 11:43

町は明るくきれいだ、前方の高層ビルが、2010に完成したホーチミンの新しいランドマーク、

名前は、デビクスコ・ファイナンシャル・タワー、68階建てで49階に展望台、53階にヘリポート、

”シェラトンホテル” 12:22

当日、参加者の体調不良があり、駆け込み寺となったホテルです。

ここで休憩すると、300US$、ここから病院送りで点滴をすれば、保険でOKといい、当事者は、点滴を選んだ。

”郊外の風景” 12:30

大都市近郊の道路の建設は進む。

これは一般道ですが高速もあり、ホーチミンからミトーへの時間は30分短縮され1.5時間となった。

”エレファントフィッシュ” 13:40

最後の昼食のメインは、ミトー名物の”エレファントフィッシュ”のから揚げ、

”エレファントフィッシュ” 13:49

4人で一匹、大きな鱗もガリガリ食べる、

”エレファントフィッシュ” 14:03

今回のツアーでの人気者のWさん、

大きな骨もバリバリ食べる、聞くと、 自分の歯は、80−34と自慢する。

”水タンク” 14:52

レストランのトイレでお湯が出るという、見上げると屋根にもタンクあり、

断水用のタンクは温水ECOヒーターでもあり、シャワーにも使えそう、

”メコン川クルーズ” 14:52

メコン川クルーズのチケット売り場のスタッフです、

ここから、メコン川を巡り、中洲のトイソン島観光に出かけます。
島の大きさは、幅1Km,長さ11Km

”出航” 14:54

アオザイ姿のガイドさんが迎える、

”メコンの流れ” 14:56

インドシナ半島にメコンという大河あり、チベット高原に発し、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアを通り 間もなく海に達する。

今、その川の水は、4800Kmの長い長い旅を終える。

”ミトー美人” 14:57

現地ガイドのティエンさんは、ベトナムの要人の奥さんは、ほとんどミトー美人という。 クルーズガイドのハンさんこそミトー美人と紹介した。

ハンさんは、フランス語が専門ですが、最近は日本の観光客が多いので日本語も学びながら頑張っている。 素晴らしい、メコンの女性です、

”メコン大橋” 14:57

遥か前方の大きな橋は、川幅2Kmのメコンを跨ぐ、

この橋も日本のODAで建設されたようだ、

”トイソン島上陸” 15:12

上陸したら島特産品の説明、販売促進員に変身します。

”椰子の木陰” 15:13

果物の試食をすすめるハンさん、

”鈴なり” 15:16

島は、果物の宝庫のようです、

”はちみつ” 15:17

島は、はちみつの産地です、巣箱を増やすには、如何にして女王蜂を増産するかいろいろ話す、

”休憩” 15:42

島のはちみつはおいしいです、

そこか摂れる”ロイヤルゼリー”をお土産にどうぞ、 皆さん、試食してうっとりです。10カップで、はちみつ1本おまけで1万円、 日本の1/20とすすめます。

”ニシキヘビ” 15:45

女性参加者で一番元気な、I さんの奥さん、健脚の登山家で余裕あり、



”ニシキヘビ” 15:46

取材記者、蛇の重みで、へっぴり腰でこわごわ、

補助する女性が、蛇をかごから引きずり出した、太い腕、

”ニシキヘビ” 15:46

添乗員のMさん、感極まる、

”耶蘇の実”15:51

ココナッツともいう、十分に色むと中はココナッツジュース、今回も1個いただく、

”ドリアン”16:02

フルーツの王様、魔王などとともよばれる、

ジュースも濃厚でおいしかった。

”島の花” 16:02

はちみつの原料?

”フルーツブレイク” 16:04

島めぐりの中休みで、沢山の果物が出てきました。

何れも始めて食べる果物です。

”ミトーの歌姫” 16:11

島の美女軍団が、ベトナム歌謡を披露します、

うっとり代は、チップ1ドル、

”島のお墓” 16:23

島民は土葬で、お墓は一人ずつ、これは夫婦の墓で並べて葬ります。

夫は妻より一回り大きい、

”ニッパ椰子”16:41

水路を小舟で巡ります、ワニが出ないか心配ですが、近年はいなくなったという。

何故いなくなったか、枯葉剤の影響?

ニッパ椰子を鉈で切って、屋根の材料、島では、竹と丸太とニッパ椰子でマイホームを作ります。

”母船” 16:44

母船に乗船すると、椰子の実ジュースが渡されます。

”サイゴンの夜” 19:10

ミトーから、メコンの夕日を背にホーチミン(旧サイゴン)戻ります。

夕食前に、サイゴンの銀座道りという”ドンコイ道りを散策、

そこは、ドイモイ政策の優等生?、西側資本のわいろの成果?

”サイゴンの夜” 19:17

高級デパートのルイビトンのショウウインドウ

”サイゴンの夜” 19:32

高級デパートのグッチのショウウインドウ

”サイゴンの夜” 19:25

サイゴン・コンチネンタル・ホテル



〔ベトナム & カンボジア チョッピリ取材&学習メモ〕


1、ベトナム

戦火も治まり、ドイモイ政策(1986年)が始まり26年目のベトナムの今を垣間見て思うこと、学んだことをコメントします。

@日本のODA・・・ Official Development Assistance(政府開発援助) ODA wikipedia
現地ガイドは、道路も橋も発電所も日本のODAで建設したという。
それは氷山の一角と思う。ベトナムの経済成長は、あらゆる分野で日本のODAに支えられているようだ。 人材、農業、貧困、インフラ構築にハード、ソフト両面で更なるODA支援が継続されるという。

ベトナムの経済成長は、日本企業の利益にも貢献する。 しかし、原発を輸出してまでベトナムの電力事情を改善させる行動は疑問に思う。私は、決して日本の浪費構造を 輸出していけないと思う。

ODAの悲しい事故!
ベトナムでの橋梁桁崩落事故 (2007年9月26日)、ベトナム南部のビンロン(Vinh Long)省で、 日本の政府開発援助(ODA)約248億円をかけて建設中の橋(カントー橋) が崩落し、 作業員など少なくとも52人が死亡、100人以上が負傷する事故があった、日本国内ではほとんど報道されなかった。 これに対して当時の木村外務副大臣が現地を視察、被害者に遺憾の意を示し、 遺族には各75万円、重傷者に各57万円の一時金が支払われた。

この度の取材で、ベトナムでは、自販機、スーパー、コンビニを見なかった。今後、この様なものがベトナムにはびこらないことを願っている。 もしも、そうなったら、日本政府と外務省のODAのありかたが問われ、ベトナムの”わいろ主義”にも責任がある。決して、日本の都合で ベトナムを動かしてはならない。

Aバイク事情・HONDA と 2000年中国ショック
はじめに、保有台数などを確認すると、自動車保有台数:約130万台(2010年)
★バイク保有台数: 約3,000万台(2010年)
 ⇒ 保有台数では中国、インド、インドネシアに次ぎ世界4位、普及率では3人に1台と世界1位、 バイクは運搬手段の他に、「デート手段」、ヘルメット着用義務は2007年から、

何故、普及率世界1位?
HONDAが頑張り、一時は、バイクのことをHONDAと呼び、ヤマハのHONDA言った。そかし、そのバイクは10万円と 80%を占める農民にとっては高額すぎた、

普及に火をつけたのは、2000 年初頭の「中国ショック」である。

中国の二輪車メーカーは1990 年代後半の不況で大量の在庫を抱えたことか らそのはけ口を模索し、二輪車が高価で庶民への普及が進んでいない隣国ベ トナムに目を付けた。かくして、2000 年頃から大量の中国製二輪車がベトナ ムに輸入され、それらは日本ブランド車の4 分の1 から3 分の1 という圧倒 的な低価格で未開拓であった都市および農村部における中・低所得層市場になだれ込んだ。

B韓国製品
今回のツアーで出会ったTV、バスはすべて韓国製品であった。カンボジアもしかりです。
日本の製品がアジア市場に君臨した時代は終わったと実感した。 韓国は、日本の技術者を引き抜き学び、現地にあった商品をタイムリーに生産したのだ。

今後も、日本のODAで経済成長するベトナム市場は、多くを韓国、中国製品で埋めつくされると思う。
また、日本は、マニュアル人間が増えたという、現地事情に臨機応変に対応できる人材を育てないと没すようにも思えた。

Cわいろ主義
ベトナムは、社会主義共和国であるが、現地ガイドは”わいろ主義”という。

ベトナムの政治家や公務員は、他の国と比べて汚職度が高く、 実際、ベトナム政府の調査結果でも3割の公務員が賄賂を受け取りを認めるという。
例えば、交通違反を取り締まる警察官はベトナムの公務員の中でも高給取りという。 それは、公務員としての給料が高いのではなく、交通違反あるいは交通違反にならない行為に対しも違反だと言い、 違反キップを切らず、そのまま罰金を自分の懐に入れるためです。

 また、税務調査で会社に調査官が来た際、税務調査はほとんど行わず 昼食時に会社担当者を高級料理店に誘い、お酒を飲み、家族へのお土産まで注文し、 調査官は午後の調査もせずにそのまま帰る、会計も二重帳簿もあるとか。
 現在、ベトナムは海外からの投資が続く、投資するには、投資許可証の取得など役所の許可が要る、 その際も、役所の担当者から露骨にいくら払ったらいつまでに許可証を出してやると言われたとか、

わいろ主義は何故はびこるか?越南は、過去1000年に及ぶ中国の支配下にあった、今でも中国の文化圏であると思う。 日本人は。わいろは悪いことと思うが、その文化は生きるための生活の知恵であり、常識とも思えた。

社会主義=わいろ主義 のように思えるが、中国文化と思えばうなづけるかも、ロシア文化も、日本文化も  わいろははびこっているではないか、

D最低賃金
ベトナム政府は2011年8月、企業や合作社、農場、個人事業者、労働者を雇用する各機関等で働く労働者に対する 地域別最低賃金を規定したDecree70/2011/ND-CP号を公布した。(外国企業と国内企業差なし)
・第1地域(大都市)200万ドン・約1万円/月
・第2地域 178万ドン・約0.9万円/月
・第3地域 155万ドン・約0.8万円/月
・第4地域(農、山村など)140万ドン・約0.7万円/月

1年間の収入が、バイク1台、

E枯葉剤後遺症
ハノイで、大きな土産店に入った。店のフロアーの1/4を占める場所に、大勢の女の子が並んで刺繍をしている。 こんな時間に学校にも行かずにいるのかとびっくりした。 目を凝らし暫くして、それは枯葉剤後遺症の40から50歳の女性であると理解できた。

ベトナム戦争は、アメリカにとって物量の規模からいえば第二次大戦をしのぐ史上最大の戦争で、 およそ300万人近くのベトナム人が死亡、400万人のベトナム人が負傷しました。 また5万8千人以上のアメリカ兵が死亡し、アメリカにとっても大変な戦争であった。

アメリカ政府の発表によると、 ベトナム戦争に使った費用は3520億ドルで、延べ650万人の若者が動員され、直接戦争に参加した米兵は、 1969年のピーク時に、南ベトナムの地に54万3千4百人が駐屯した。
この戦争のあいだに、アメリカは785万トンの爆弾(銃弾は含まない)をベトナムに落とし、7500万リットルの枯葉剤(ダイオキシンを含む) を南ベトナムの森林、農村、田畑にばら蒔きました。あの第2次世界大戦中にアメリカが各戦場に落とした爆弾の量は205万7244トン だったことを考えると、面積あたりの爆弾はとんでもない量になります。

アメリカが北ベトナムに落とした爆砲弾は、ベトナムの各施設を破壊しつくしました。小学校から大学までの各学校2923校、 病院、産院、診療所1850ヶ所、教会484ヶ所、寺、仏塔465ヶ所が灰燼に帰した。

最初はケネディの時代から、アメリカはベトナム解放を阻止するため、1961年には介入を開始し、本格化するのは1963年である。 しかし枯葉作戦はそれよりずっと前、1961年11月には開始されています。 そもそもの目的は、第一に解放戦線の隠れ家であるジャングルを絶滅させること。次に、解放区で作られる農産物を汚染し、 食料としては使えなくすることを目的とした。

枯葉剤後遺症は、戦後に生まれた多くの子供が犠牲になった。また、戦争に参加した米兵の家族にも同様の犠牲者があり、訴訟も起きたが 賠償金を支払い隠密に済ましたようだ。

Fベトナムの将来を思う
ベトナムは、冷戦のはざ間で甚大な後遺症を背負った。しかし、訪ねると明るく元気のようにも思えた。 見かけ以上に、まだまだ深刻な問題を抱えていると思います。
しかし、資源国であり、石炭、石油、天然ガス、鉱物、農水産物も豊富である。食料、繊維製品の輸出も多い、 ODAで巨額な負債をともなう新幹線をあわてて作らなくてもいいと思う。わいろ主義を正して、一歩一歩地道に進んでほしいと思った。

1、カンボジア

カンボジアは混乱を脱し、1993年の新制カンボジア王国誕生から19年が経過する、その観光地シェムリアップを覗いた感想です。

@アンコール遺跡の観光収入
カンボジアは最貧国の一つと思う。

主要産業のGDPの内訳をみると、農業(GDPの33.5%)、縫製業(GDPの9.1%)、建設業(GDPの6.3%)、観光業(GDPの4.5%)であり、 農業国である。(2010年、カンボジア政府資料)

アンコール遺跡の観光収入?
カンボジアへの観光旅行者は2009年の統計で年間220万人です。
国別でみると、ASEAN 70万人、 S,KOREA 20万人、 USA 15万人、 JAPAN 15万人、 CHINA 14万人、UK 11万人、 FRANCE 10万人、で、 そのほとんどがアンコールを訪ねると思う。
ビサ代、空港税、ホテル、遺跡入場税、土産などなど一人5万円使えば、1100億円の収入となる。 この金額は、カンボジアの経済に大きく貢献しているように思う。

A韓国の進出
カンボジアへの旅行者は、韓国がトップである。遺跡を歩くと日本人はシニアーばかりですが、韓国は元気な中年が目立ち、 バスもTVもすべて韓国製であり、ハングル文字も目立ち元気な韓国が感じられる。

韓国は、企業の進出も盛んである。首都プノンペンに42階建ての高層ビルを建築し、 プノンペン郊外に20億ドル規模の新興都市を建築中で、都市の名前は、カンボジア (CAM) と韓国 (KO) の国名の頭文字を採って、 CAMKO CITYと命名された。多くの韓国企業がカンボジアに進出するとあって、 現在カンボジアでは韓国語ブームが起き、プノンペンだけで17の私立韓国語学校が存在するという。

シェムリアップで、私が耳にした日本は、日本の観光客、日本人経営のクッキー土産店、レストラン、日本人写真家の名前、 、ユニクロのジッパー999円(カンボジア製)及び国土の多くを占める農地にも今なお埋まる無数の地雷除去のODAであった。

Bアンコール遺跡の建設
遺跡はどに様にして造られたか? ホテルのロビーに当時の建築作業の様子がイメージ出来る左記の絵画が飾ってあった。

写真をクリック拡大して目を凝らしてみてください。沢山の像が活躍しています。

古代アンコール王朝は、優秀な人材とエレファント・パワーに支えられた。
現在のカンボジア王国は、すべてを失い、すべてをODAに支えられ、復興の途上にある。

おわり、



今後も、楽しい旅の想い出をこのページに掲載します。お楽しみ下さい。
I publish the recollection of an enjoyable trip in this page. Please have fun.


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