マリアナ時報 号外 ・ ポツダム宣言( Potsdam Declaration )
戦 後 の 民 主 主 義 の 起 点
Jul 26. 1945 ワシントン発 ・・・ 編集:Jun 10. 2015、口語訳追記:July 27 2015 JA2TKO


1、マリアナ時報 号外 (下記の2枚の写真参照)

・この戦時下の号外は、 B-29 搭乗員がマリアナ諸島から帰還時に本国へ持ち帰り終身大切に保存したものである。

10年前、その米兵の息子のMark Little が父の亡きあとに私におくってくれたセピア色の文書です。

彼は、この文書は如何なる文書かと私に尋ねた。私はポツダム宣言の英文のSite を知らせ、彼が喜び日米親善となった思い出の文書です。

このマリアナ時報号外は、戦時下の米国の対日戦ビラ (伝単)で、爆撃機から日本の軍民の頭上にばらまいた。

当時、本土決戦を進める日本軍にとっては最高の機密文書で、当時は、このビラを所持し読んだ者は食料配給は止めれれ生存権を奪われたという。 その内容は、2項の中日新聞・特報と ポツダム宣言・ウキペディア(英文、邦訳、現代語訳掲載)が詳しく伝える。

3項には、ポツダム宣言の口語訳全文を掲載(2015.7.27)しました。

そして、戦後日本の民主主義の起点となったことは公知の事実である。

・なぜ今取り上げたか? 戦後70年の節目、憲法九条が国を挙げて議論される最中の、国会答弁で安倍首相は野党の質問に、 ポツダム宣言は『つまびらかに読んでいないので、論評は差し控えたい』という。

時の首相が詳しく読んでいないということは、戦争をしらない戦後生まれの国民の多くもつまびらかに読んいないと想像できる。

この機会に、日米親善の思い出の文書を公開し、日本の国民に、『ポツダム宣言』をつまびらかに読み、それぞれに何故そうなったかを考えてほしいのです。

・写真説明
セピア色の号外をじっとご覧ください。70年の歳月は、日本人に読んでほしかった13ヶ条の文字もにじみ判読が困難です。
文体からは、日本人識者が、日本人を慈しみ、早期受諾に思いを馳せて書き込んだと思われます。

ワシントン発の公電は、各地で傍受され、この号外の文章はハワイの真珠湾捕虜収容所の日本人の捕虜(ジャーナリスト)4名が徹夜で 翻訳し、仕上げ、米軍が確認しマリアナ時報・号外としてB-29 に積み込まれ、戦場へ、日本本土へ投下した。

この写真は70年生き延びた貴重な1枚と思われます。 なお、国会図書館にはこの号外が保存されているが、豊田市郷土資料館へ確認するとないという。


2、2015.6.9 の中日新聞・特報 『ポツダム宣言 戦後の起点』

・中日新聞・特報、 この記事をじっくり読めば、ポツダム宣言をつまびらかに(詳しく)読んだことになると思われたので、全文を紹介します。

特に、戦争を体験していない今の政治家にも、つまびらかに読み解いてほしいと思います。

下記のポツダム宣言は、70年前の日本語で、戦後育ちには読みずらので、3項に、ポツダム宣言の口語訳の全文を掲載しました。

また、本記事の識者2名のポツダム宣言コメントも、つまびらかに読むための助けになると思います。




3、ポツダム宣言 口語訳の全文(21015.7.26 中日新聞 朝刊 総合2面 抜粋)

・口語訳の全文が中日新聞に掲載された。しかし。文字が小さく高齢者は、 つまびらかに読み解くことができませんので、
そのコピーを拡大し掲載します。2015.7.27 追記 JA2TKO


4、1945.7.26 のポツダム宣言の黙殺に思う

・マリアナ時報・号外の見出しは、 日本に対し戦争終結を提議 ・・・ 荒廃か 平和か 決断の秋至る ・・・

この見出しの裏には日本帝国はメンツを重んじ即座の受諾はありえず、 秋までには決断せよとの含みが読み取れる。その裏には、米国は既に原爆実験に成功し、その威力を試すための口実にし、 人道的な批判を和らげたい思いが感じられる。

特に気になるのは、『決断の秋至る』の文言だ、決断は秋まででいいよ、その間に原爆投下の被害を確認し・・・ さらに、戦争終結後のソ連をけん制するためにも原爆の威力を試したい思いがあったと思われる。

当時、マリアナ時報・号外のために徹夜で翻訳した日本人捕虜は早期終結を熱望したというが、 日本帝国は決して受諾するとは思わなかったという。

当時、ポツダム宣言をいち早く翻訳した外務省は、早期の受諾を進言したが軍部の反対で、原爆投下とソ連の参戦での遅すぎた受諾となったという。

そのことは、意見を聞かない組織・集団は破滅を招くことを日本の国民は学んだのだ、もし、ポツダム宣言を直ちに受諾していれば その後の多くの無駄死にはなかったのだ。

1年前にサイパンが陥落し、絶対に勝ち目のない戦争を継続し、多くの国民を戦地(死地)へ送りこんだ当時の日本帝国は、 一般常識からみれば狂気の集団と思える。

そして、この戦争で、310万人の犠牲者とその数倍以上とも思える東南アジア諸国の国民を犠牲にして得たものは、 ポツダム宣言を起点とする欧米型の民主主義であり、憲法九条であった。

終戦70年、そう思う国民は激減しているようにも思える。 ご訪問の皆さん、如何お考えでしょうか?

《関連サイト》

@ ポツダム宣言・ウキペディア(英文、邦訳、現代語訳掲載)

A NPJ 通信『メディア傍見』33 ・空から撒かれた 「国家の最高機密」
・・・ビラを作った捕虜収容所のジャーナリストたち・・・

B 伝単(でんたん)とは、
・・・戦時において相手国民、兵士の戦意喪失を目的として配布する宣伝謀略用の印刷物(ビラ)・・・




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