遍路はじめて一年

お遍路を始めて1年、足摺岬の手前40キロあたりに到達した。
1番、徳島の霊山寺からはじめて約550キロ、もうすぐ高知の38番金剛福寺。やっと半分といったところ。
なんとなくおもしろそうな感じだけで始めたが、いまだに少しもいやではない。
1年たった今も、“何となく面白い”という中途半端な、答えの分からないままのお遍路。
特別な信仰心、特別な悩みがあるわけでもなく、供養のために歩いているわけでもない。
要素があるとすれば、子どもの頃、父と一緒にお経を読むことだけは好きだったことかな。
寺で読む般若心経はここちよく耳に響く。
なんとなく面白いし、健康のためにもいいだろうと続けている。
もうひとつ続いている要因に、四国の人たちから受けたお接待がある。アメをいただいたり、みかんをいただいたり、弁当をいただいたり、ときには現金をいただくこともあった(くれぐれも何かをもらえるから歩いているのではないですよ)。
私には一回のことでも四国の人にとっては日常的にお遍路さんが歩いていて、いつもいつもお接待をしているのかと思うと、熱いものが込み上げます。
そんなお接待をいただいたとき、私の中で思っている“いい日本”を感じる。昔の日本ってこんなだったよなあと思えます。私が子供の頃、日常にあったようなことが今も綿々と続いている。
そしてもっとも大きな魅力は、お遍路での出会いです。多くの人が、自分への挑戦として歩いている。
60才を過ぎて、自分の人生を振り返りながら、きつい歩き遍路に挑戦しようとする人たちは魅力的です。20代の若い人も達成感を求めて歩いています。どんなに若くても連日の歩きで足のどこかに痛みがでます。足を引きずりながらも結願めざして歩きます。理屈を超えた美しさです。
私もそんな仲間に入れて欲しいのです。
私は区切りながら進めていますが、通しで始めた人はだいたい40日から50日くらいの間に結願し、お遍路を終え、日常に帰っていく。
結願の報告が届くと、うれしいのですが、自分だけがおいていかれたような寂しい気分になるものです。
自分もいつか、遍路で知り合った人たちに結願報告を出したいと思います。
遍路道で知り合い、たった半日とか1日一緒に歩いただけなのだが、貴重な仲間のような気がします。
残す所あと半分、ゆっくりでもいいから、結願めざして歩こう。
その頃には、“何となく面白そう”から、もうすこしはっきりとした答えが帰ってくるのだろうか。
ひょっとするとそのときも“何となく面白かった”というかもしれないが、それはそれでいいのだろう。
多くの人から聞かされた、八十八番、結願の寺、大窪寺についた感激を私も味わいたい。