なぜ釣りをするのか

 釣りは小学校の低学年からしていました。私の両親はまったく釣りをしない人ですから、一人でしていました。友達がなく、一人で釣りをするしかなかった訳でもありません。普通に友達と鬼ごっこや野球などをしていた普通の小学生でした。海の近くで育った関係で、釣りをしている人を日常的には見ていました。なんか面白そうといった単純な動機で始めたんだと思います。「魚を食べたい、」とか「男のロマンだ!」なんて叫びながら、ハゼを釣っていた記憶はありません。
 夏休みなど、毎日釣りにいっていました。新聞の潮見表を見て、満潮に向かっての釣りをしていました。一人で朝早く起きて、麦藁帽子をかぶり、竿をしばりつけ、自転車を漕いでの釣行でした。エサを買うといった習慣がないものですから、海辺でゴカイを掘って、自作のえさ箱に入れてからの出陣です。なんか適当に投げいれるとプルプルと沢山釣れた記憶があります。毎年わが家の軒先には正月のコブ巻用のハゼがのれんのように干してありました。でもそのために釣りに行った訳ではありません。
 それから約40年という気の遠くなるような月日が過ぎましたが、今でも釣りはしています。そして「魚を食べたい」とか「男のロマンだ」とか「狩猟本能がなせる行為だ」とか「自然とのふれあいだ」なんて叫んではいません。
 食料としての魚を、釣りで調達するのは確率が悪いし、ましてやフライフィッシングではなおさらです。
 また仕事の調節をしながらの釣りをしていて、ロマンにひたれるような現実が何処にあるというのでしょうか、残念ながら私にはありません。
 これまた狩猟本能がうんたらと聞きますが、アマゴ、ヤマメ、イワナ相手に狩猟もなにもあったものではないように思います。狩猟という限り、命と命のやり取りような感じがします。これらの魚相手では、力だけとったら圧倒的に私たちが上です。引き味なんていったら、綱引き大会に出たほうがきっとすごいと思います。
 自然とのふれあいはしています。石につまずき、転んだり、フライを回収するために、木に登ったり、突然の雨に立ち尽くしたり、足をすべらし、泳いだり、もう泣けてくるほどのふれあいです。
 どうも私の中で釣りに行きたくなるのは魚とのふれあいだけのようなのです。
プルプルといった魚さんの返事が欲しいようなのです。魚さんとの語らい、対話がしたいのです。
いくつものプレゼント(フライ)を用意してに川に通います。振り向いて欲しくて、川にフライを流します。気に入って欲しくて、どんどん流します。「これならどお?」「こっちなら気にいってくれる?」せっせと飾りたてたフライをプレゼントします。人間にするよりずっと熱心です。たまに気に入ってくれると、心臓が高鳴り、どきどきしてしまいます。「ヤッター」とか「ワオーッ」とか叫んでしまいます。そして「きれいだ!」とか「うつくしい!」とか歯の浮くようなことを言い、川に帰します。どうもそこには、愛の匂いがただよいます。
 もうストーカーのようですね。少々自分が怖くなってきました。
でも事実です。一方的な片思いなのです。魚さんにとっては迷惑以外なにものでもない行為です。
とても気高く美しい魚に、告白できた時が最高のときです。満足します。
 これで終わればいいのですが。しばらくすると、「もう一度味わいたい」「もっときれいなのがいい」「もっときれいなのを数多く」「外人もいい(人間のことではなく、海外の魚のことでくれぐれも誤解のないように)」もう訳が解らなくなります。
 かようにして釣りに行く訳です。「アマゴさん、君はなんて可愛いんだ」「イワナさん君のぬるぬるはきれいだ」「ヤマメさん、君を食べてしまいたいほどだ」「なんて素敵なバディーだレインボーさんは」・・