7月



7月2日

冷めた気持ち



冷めた目で色々な物を見る時があります。テレビ番組もそういう目で見ると実にどうでもいいと思う物が多く見えます。「どうでもいい」という白い目で物事を見てばかりいるとなんだか何をしてもつまらなくなります。こういうような汗をかかない生活は、今のうちなら通用するけれども将来はちょっときついかなと思います。

でも、冷めた目で見る事はまた別の物を見る事ができるようにも思うのです。ダイナミックに活動している事が望ましいのでしょうが、ある時ちょっと離れた視線で同じ物を一望する事ができればまた新たなる物を見いだす事もできるのではないかと思います。現実には100%手前に引く事はできない(例えば男女関係のような)とは思いますが、いわゆる公平に物事を考える時にこういう事もいるかと思うのです。



7月3日

楽天家



楽天家に憧れます。世の中のは色々な悪事が横行していますが、今自分と直接は関係ないのでそれらを一応は疎遠(良い言葉が浮かばなくてちょっと違っていますが)のものとします。でも、自分の世界の中から完璧に抹消しようとしているわけではないので存在を否定しているわけではないし、ましてや言及することもあります。そんな中で今の自分の暮らしを一番良いものと考えて、楽しく生きることができるようになれれば大したものではないですか(今ぼくがここにこのような文を書いている時点でもうだめ/女性にはこのような人が多いように見えますが)

反対は厭世家です。世界を何でも厭(いや)なものと思って生きるのです。また客観的に物事を見ることができないような人達、常に1,2人称なニヒリズム系の生き方のような根底よりもよっぽど人生が明るく過ごせられるような気がします。



7月4日

むかつく!!



むかつくという言葉は一般的には若い人の間でよく使われるものと承知しています。この言葉の使われる状況をわけてみようと思います。まず言う人が第三者の場合は批評というものでストレスは溜まりにくく大人になっても思う事があるでしょう。次に、私あなたの関係で使われる場合のうち一般の道徳(場所によって変容しますが)にそぐわない行為等をしてそれをつかれた場合です。これは、ぼくの場合に即すると未熟に思います。これを減らしていくのが成熟するという説明の一つになり得ると思います。最後に一般の道徳に合わない事を言われた時です。これには差別という事が含まると思うのです。ここには言及しませんがこれが一番難しい事だと思います。

道徳というのは人によって微妙無からず違ってくるので複合する場合もあると思います。また両者が一般の道徳に合っているかそれがよくわからない場合、その時の言葉の交わりは議論という事になります。



7月5日

I was born



人間は親によって生まされて今ここにいるということを言われます。このことは親に対してあなたはほとんど偶然で生まれてきたわけだし、その時の私達の苦労もあるわけだから私達に感謝しなさいという意味で言っているように聞こえます。でも実際子供にしてみれば勝手に生まされたわけで意識外のことを感謝しなさいと言われてもどうにも道が通っていません。

この状態から親に感謝していく状態に持っていくにはもう子供自身で気づくしかほとんど道は残されてないように思います(気づいた時にはもう子供でないかもしれませんが)。子供のうちに気づく場合というのは、その間に親が亡くなってしまうとか病気で倒れるとか衝撃的な事実を与えられた時ぐらいでしょうか。



7月6日

自立率



子供が育っていく過程で親の影響力はどうしても大きいものになってきます。その影響される量が男女によって微妙に違ってくるように思います。女の人は男の人より親(女の人の場合は母親、男の人の場合は父親)によって影響される量が多くなっていると思います。それによって「自立率」が変わってくるとも言えるかもしれません。

男の人の場合は親からの影響が比較的に小さいので出てくる人の幅が広くなってくるように感じます。自分で色々なものを認めようとする割合に幅がでそうだと言うことです。だからほとんどの人は虚無的なものを含まれたままになっている人が多いのではないかとも思うのです。

また、少し前から言われているいわゆるマザコンは普通一般よりは多い親の影響力があり、そのために自立しにくくなっている男の人ということになるのではないでしょうか。



7月7日

児童殺害事件に寄せて1



昔、戦前戦後あたりの小中学校の様子を描くものを見るとまず今との違いで目に付くのは、ガキ大将と暴力教師という印象です。ぼくがそんなところに放り込まれたら生きていく自信がありません。それほどこの面での根性が腐っていると思います。ですが時代はひたすら変わっていきます。あのころのような力で押さえ込むような教育は、我が子を過剰に(ずれて)大事にする母親達の要求によって非道徳的とみなされるようになったと思うのです。

それで、一本調子の教育のシステムがはっきりと見えてくるようになり皆が脱線の恐怖を味わって、とても考えが萎縮してしまうように思います。また脱線した人達への風当たりは強くもとの道に戻るに戻れない状態が続いてしまっています。こういう人達を生み出さないようにするための教育のシステムについて一考の必要があるのではないでしょうか。



7月8日

児童殺害事件に寄せて2



自分が死ぬのが嫌だと思うのは自分が成熟していく過程の一つであるように思います。それは進むにつれてだんだん周りの人まで広がっていきます。そうして命は大事だということが据わっていきます。このことを確実にするためにも家庭での支えが大いに意味をなすと思うのです。もし自分の命が無くなったら、もし親の命が無くなったらと考えると命をなくすことと言うのはひどく悲しみと苦しみを伴うことが解ります。非現実の世界を体験することが多い中では実際の死に対する意識が朦朧としてきていると思います。これを家庭で身近なことから教育することがいいのでないでしょうか。

今回の事件にあてはめると、このひどい悲しみと苦しみというのは加害者、被害者の両者のことを考えるときついくらいに解ると思います。これはこのことを考えるいい機会でもないでしょうか。



7月9日

児童殺害事件に寄せて3



今回の事件はあれこれ考えるのにはいい機会だと思うのですが、実際の内容はとても残虐に思います。普通一般に生きていたら中学生で心境がああいう状態になることはあってもあそこまで残虐な行為を出きるとはとても思いかねます。

ぼくが中学生の頃(2年前ですが)に考えていたことといっても特に覚えていませんが、みんな普通に学校に行っていても考えるという機会があまりないので「なんとなく」日々の生活を送っていたという気がします。本当になんとなくです。勉強している目的といえば、遠い大学受験とかその先のことしか思い浮かびません。しかし、そのこともほとんど親から言われているようなもので自分のものではありません。もうそこでは極端にいえば単なる集団意識というか、多数派についていくという感じでしかなくなっているような気分だったように思います。



7月10日

児童殺害事件に寄せて4



それでいて実際の現実・非現実の境目と各々の内面のそれが、ただでさえも現在の情報文化の中でかみ合わない面が多くなっていて、その解らなさに自分を閉じこめてしまうような人も一部にいるかもしれません。年が過ぎていくのに一回でも自分を肯定していく人が現れず、それにもまして周りが攻撃するような人ばかりで自分の入っている殻はとことん厚くなっていき、人から客観的に見れば暗い場所に入っているように見えます。自分自身にしてみればそこは聖域であるいは白銀の世界に見えるかもしれません。

その聖域で現れる現象は、人間の基となる行為を引き起こす時があるかもしれません。すなわち、普通一般の目から見れば非社会的に見える行動;血祭りを容認するような行為であったり、今の文化社会で言うとホラー映画に関心を持つような現象が起こりうるかもしれません。

最後に、この考えは起こる事が可能であっても、その確率は限りなく低いように思います。しかし最終段階にはいる前にこのような身のあり方は幾分親などによって打開できる事だと思うのです。何とか危険因子は摘んでおいて再発は防ぎたいものです。



7月11日

健康食品



昨今、健康食品が結構出回っています。家の近くに健康食品専門の店があり毎日おばさん方でにぎわっています。なぜか家にも変なものばかりが転がっているのですが、それの多くは味が変わっているものばかりでおいしいと言えるものは少ないです。おいしくなくて健康という感じがするのかもしれませんがそれを毎日続けることは、僕がまだそういうことに神経を使わなくてもすむというだけとも言えますが、とてもむなしく思えます。

自分の体が後退期に入っていったならばそういうことをすることが理解できようとも思うのですが、今のうちに少しは自分に食べ物に関して抵抗をつけたりして癖をつけておけば良いのでしょうか。成人病の呼称が生活習慣病に変わって、それらの病気を身近に感じさせようとしています。でも若いうちはそんなことを気にも留めなくても病気にはかからないと信じ込んでしまっているので、時に忘れがちになると思います。



7月12日

余裕をつくる



色々なことから溜まるストレスの解消をすることができるような人は本当に心の支えになります。一人で生きていくよりは心に余裕が生まれて、些かこの社会で生きていくために有用なことだと思います。自分がどん底に落とされることがあって、それを巻き返すためには結構時間やらがかかりその分無駄なのですが、その時間でさえ有効になると期待を持っています。

しかし、そこが一番の盲点で心が多くの部分で融通し合っているのは破綻したときのリスクや後遺症が生々しく大きくて恐れてしまいます。このことが盾になるからこそ破綻するのでしょうが、微妙なところだと思います。後は個人の細かな力にかかっているような気もしますが、未来はどうなるかは読めない部分もあると思います。



7月13日

同じ



色々話しているうちに、その考え方は僕と同じだと思うことがありました。でも変な気分です。かなり理屈っぽく見ると同じというものとは無いかもしれません。というより無いと思います。コピー用紙百枚にしたって一枚一枚は同じ形同じ材質であっても違うものです。だから僕がある物事を見る目と、相手がそれを見る目は絶対に同じことは無いのです。が、ある部分似ているような気がするということだけが接点を持ったと感じることができる気持ちに思えます。

大部分の(本当は全てですが)違っている部分を、はたから見ればちぐはぐのままに両方とも全て自分の考えることと相手の考えることが同じだと思ってしまうことは危険だと思います。人それぞれ見るものが同じということはないと思うので、少し本能的にその部分を避けられたらなと思います。



7月14日

表裏



表向きに悩む態度を見せつけることは相手との距離が広がりやすいと思います。親しい人にも普段は大抵明るげに接しておいて、重たいものは割り切って持ち込んでいったほうが良いような気がします。こういうことは当然のことかもしれません。ですが、ぼくは(別に自分を特別視しているわけではありません)他人への接し方というのは兎角気を使ってしまうものです。

後で考えるとそうなるのです。実際は自分の疲労度は特に関係なく状況に応じて気楽に行動していると思います。またそれに向けて少しは努力をしているのかもしれません。今までできたこのオリジナリティー(ある意味プライド)は崩すに崩せないものです。

----何か変わった文章なのはとても今眠くてしょうがない!!ということを付け加えておきます。



7月15日

普通一般



周りの数人が許しても世間の目が許さないということは、将来に自分の進む道を塞ぐどうしようもない障害物になりそのことについて頭を痛めるようなことが耳から入ってくる情報により予感されます。世間の目とは普通一般と誰もが思っているだろう一線のことです。この架空の線に全てはまっている人はいませんがここに向かうように表面上は思って無くとも潜在的には向かっている人がほとんどだと思います。ここで自分のオリジナリティーを形作ることに目に見えない抑圧がかかっているような気がします。

でも、まだ高校や大学の段階では抑圧が比較的小さいのではないかと思います。今のうちに自分の形を大きくしておいた人が将来にその抑圧とはあまり関係のない職種に就いていると思うのです。



7月17日

視野1



自分の視野はとても狭いと思っている。この視野を拡げていくことによって自分の世界が広がっていく。だから視野を拡げることの努力はしなければならないと思う。しかし、それには多少の勇気がいる。なぜなら自分にとって未知の領域というのは暗闇の世界で、触れるのに恐れを伴う。そして、人によって、また物事によって、暗闇の度合いは様々に変わってくるように思う。

この変わり方の一つにある重要なことは、育ってきている環境にあると思っている。環境によっては、とてつもない暗闇になっている場所がでてくることもある。そして、集団心理等でそこに足を踏み入れたいと思うようになることは当然ある。それが集団でいるときはまだしも、一人のときは(最初の一回が最大であるが)とんでもない勇気を必要とするかもしれない。また、踏み入れる先が周りで日々の生活に密着しているように見えれば見えるほど、そこへの理解は必要になってくると考えると、必要なものならば少し勇気の加勢になると思う。しかし、この壁を登れない苦痛はしんどい。



7月18日

視野2



日々生活していく中で普通一般が清純なものだと決めているものは大人になる時期も早ければそういう人も多い。しかし不純だといわれるものは、年は増していてもこれに関して子供とは言わざるを得ない人の方が多いと思う。この不純だといわれているものというのは、視野を広げていくという積極的な態度をしていても気づきにくいと思っている。これに何かの拍子で気づくことができ、そのことについて考えることができたならば、今までの体験や考えを通して不純の「不」がとれていくようなことがあると思う。

この間、ある拍子で「性」のとてもプライベートなことを考える機会を持たせてくれるものに出会った。この性は醜いものに見える。それは言い換えると否定的な受け止め方をしているということになると思う。日々の生活の中で欠かさないところまで密着していることであるのに、清純といわれているものと比べて、それに対する考え方自体まるで違うものになっていると思う。

----昨日と今日は、別に書いた文なので文体がいつもと違っていましたが、これからも突如文体が変わることがあるかもしれません。



7月19日

妄想



信じ込むまではいかないけども、希望願望を映し出して色々感じるシミュレーションのことです。ぼくは大きい行動を起こすとき、その立案をするには大体このシミュレーションを初めて、最後まで可能かを図ってみるものです。しかし、自分が何かやろうと前に心に決めたときは大体のことが日の目を見るのですが、現実に出てくる前に前述の壁に阻まれてしまうことの方が圧倒的に多いです。何度も後悔するのですが学習能力は微々たるものです。これに関しては、もう少し積極的だったらなと思います。

この壁に進む道は遮られていることは解っているのに、色々とシミュレートするときもあります。これは、未開の地を見てみたいという欲求からなっていて、いくらシミュレートしても叶うものではないと思います。ここにはいくらかばかりの現実での積極性が必要です。が、まだ怖いです。



7月20日

好奇心1



未開の地を見てみたいという欲求とは、好奇心のことです。もしも、自分を一つのボールの中にいるとしてみます。ボールの外にある空間とは、現実の無限の広がりを表します。ボールの中には、自分の知り得る世界が広がっているとします。また、現代の日本では、外の世界を知りたいならばいくらでも見ることができます。このボールの殻が澄んでいればいるほど好奇心旺盛と言うことになります。逆に曇っていれば控えめな人と言うことになります。

そして、外での声はいくらでも(気にしてもしなくても)聞こえてくるので、中には積極的に勧誘してくるものもあります。ただ単に自分のボールを大きくするのではだめだと思います。大きくしなくてはいけないのですが、外には中に害をもたらすような危険なものも含まれているからです(勧誘してくる割合も高い)。それに対抗するための免疫を自分の中でつくれているならば害は防げると思います。



7月21日

好奇心2



生まれたときからどんどんこのボールは広がっていきます。小さい頃はがむしゃらにいろんなものに興味を持って自分の中に取り入れていきます。しかし、中学生あたりになると、害をもたらすようなものが誘ってくる対象にします。これには、今までがむしゃらにただ取り入れてきた整理のついていない自分のボールではすぐに取り入れてしまうような感じがします。高校程度になれば何と無く整理がついてきて、殻が曇ってくる人が出てきます。

そこで、なるべくいろんなものに目を向けようとしてボールを大きくしようとしなければ、世界に対して小さくうずくまった視野の狭い人になると思います(なぜ、視野が狭いといけないかまでは考えが及べなくてすみません)。この、きれいな透明ガラスのままずっと入れたらぼくは、素晴らしいと思うのです。



7月23日

成熟の果て



今のこのモラトリアムの時期を乗り越したならば、そこには何が見えるのだろう。今、感情の波が上下することがよく起こっていると言うことは、それが起こらなくなるのでしょうか。仮にそれが起こらなくなるとしたならば、色々な事象に関して知り尽くしていると言うことになります。そして何らかの自分の原型が形作られているでしょう。でも、もしそうだとしたら、なんでもう波の上下が起こらなくなるのだろう。「何らかの自分の原型」はなぜ崩れないのでしょうか。

一つ考えられるのはプライドです。今ぼくが自分で持っていると思っているいかにも個人的なプライドではなくて、何かもっと先のものに対するようなプライドで、はっきりしませんが、守られているように今、考えます。このプライドを明かせられるならば探ってみたいと思います。



7月24日

現実への嫌気



教師が育ってきた時代と生徒が育ってきた時代が違っているということは、教師が教わったもの感じたものと生徒が生きているところの現実とでは、歯車のずれのようなものがあるのではないでしょうか。今の40代前後の教師が仕込まれたものというのが、今問題にするはみ出したものへの徹底的な弾圧なのではないでしょうか。生徒のそこへの疑問が不安定な思春期にあるモラトリアムの時期に、重くのしかかる現実への嫌気になるような気がします。

また、嫌気に対する抵抗の程度が特に積極的でなくなっているような気もします。十年くらい前の三無主義というものはまだ引きずられていて、疑問に対する積極的でない陰険な反抗が横行しているように思うのです。しかし、ここで生徒が求めている「教師」はどんな人であるのだろう。どんな教師に生徒が感心を示すのでしょう?。



7月25日

どうでもいい感性



意味の分からないほとんどがはしくれのような詩を目にすると、この遠回しの訴えはどんな意味があるのだろうと思います。単刀直入にいわなくて、周りから婉曲にいった方が芸術的な観点から見れば良いものとしてとらえられるのでしょうか。

十分な根底のある人の婉曲というのは、それを見いだせたとき感銘を受けますが、そのような遠回しを根底のない素人がそれを実行した場合、全く意味のないばかげたものに見えるときがあります。その産物について、素人が決まって説明を加えるがそれでは意味がないと思います自分だけの勝手な自己満足で終わっていると思うのです。

何か作品を残すときの要は表現するもののあやふやなものをなくしていった方がいいと思います。たとえ表そうというものが「あやふやなもの」という目的があったとしても、もうその時点で立派に基盤があると思うのです。



7月26日

プラグマティックな処理



二世代前の人達のラジカルな感覚の圧力を受けて、ぼくの年頃の人達は基本的に無関心で最小限度のことをプラグマティックにこなしているように思います。みんなでまとまって何かをするということが多分昔に比べて苦手で、一つの共通の目標に向かって全体が進もうとすることができがたいと思います。小さな共通点でみんなが結びつくことが上からの抑圧で忘れ去られていて、個々の不満も個々で(陰険に)処分しているように見えます。

もしかしたら今の世代の結びつきというものは、自分で作り出した考えによるものはほとんどなくて、マスメディアによって作り出されたある一線が結びつける大部分の原因になっているかもしれないと思うのです。だから、自分の頭を使うようなことはさかんに敬遠されて、プラグマティックに処理されているような気がするのです。



7月27日

表向きの表情



表向きは良いけど実は駄目のような捉え方ではなくて、駄目なものが良く見せる仮面を故意に付けているという捉え方のほうがあっていると思います。会話としてわざと表向きの表情だけをしゃべり交わすことは、別に良いと思います。けれども、話題の物事に関して自分の中にあるまとまった全体像の一角を示しているということを暗に自覚してしゃべり交わさなければならないと思います。

だけど、普段の会話では場の雰囲気や社交辞令的なものがいつもあって、全体像をありのまましゃべり交わすということは少ないと思います。いつも表向きの表情ばかりを話しているので、時に裏にある全体像を無視してしまうことがあり、現実よりも話の方向がずれていくことが起こっていると思うのです。



7月30日

後悔



自分か自分たちが原因で起こる後悔は次に生かすことができ、経験が増えて刺激になります。ですが、もうひとつの自分たちが原因でない(と思ってしまう)後悔はとことん覆い隠すほうが多少良いと思います。今の時点や過去を振り返る余裕なんてないし、時間の無駄に思えるので、埃だらけだけど先のほうに顔が向いていたほうが良いと思います。表面上、自分の目から出る光線が埃に反射してきらきら光っているほうが、真っ暗を突き進むよりまだ良いと思うのです。

しかし、後悔が起こった事柄に対しての自分の努力のようなものが、結果的に満足のいくものになっていなければ、こんな体験はないです。まあ、意味は後からで良いと思うので、今のうちはどんどん先に進んだほうが良いと思います。

----2日も落としてしまいました。言い訳は部活の大会とかあったから。明日から合宿でまた数日間空いてしまうような。



連絡板へ書き込む




DIARYのindex


Mameへはmame@sun-inet.or.jp