8月



8月5日

夏休み



今年の夏休みも、去年までと同じで8月中旬まで毎日部活が続きます。いつものことなのですが今年が最後の最高学年と言うこともあるのか、極端に疲れています。毎朝はいつもの学校と変わらない時間に家を出るので、全然夏休みという感じがしません。この夏のいかにもぐったりする気候も手伝って、いつにもまして体がついていっていません。

しかし、もう部活も最後。なにをするにも、普段当然していたことがどれももう最後ですから。家に帰ってぼーっと、この疲れを楽しんでいる感です。嬉しいことに事の締めは衝撃的に散れる演奏会ですから、得したものです。最後、今までで一番いい形で終わりたいものですね、今度引退するみなさん。



8月6日

容姿



自分の体について悩むことがよくあると思います。親から自分では意識されずにもらった体なので、つべこべ言っても仕方ない事は解っているのですが、ついつい不満に思ってしまいます。親に宣戦布告したところで何も始まりませんからね。外に出ると変に気にしすぎても滑稽に見えると思ったり、勝手に自信を持ったりしてもそうだと思うときりが無いというかある一瞬、それでさえ滑稽に思えてきます。

家では自分の醜態をどんなに曝して悩んでも良いのですが、外では半分居直って常識以上に明るいほうが気分的に良い感じで、悪い風には見えないと勝手に思っています。



8月7日

従え



リーダーが部下達を従えることは、微妙な問題があると思います。部下達に完璧に命令に従わしたり、命令以外のことを禁止したりすると反乱が起こるかもしれないし、またまとまったとしたら次期のリーダーが育たないということになると思います。逆にある程度自由に行動ができるようにしたときの部下の失敗が困り者です。この失敗の部下への禁止ではなくフォローがリーダーの役目です。

しかし、ぼくはこの座ってできる従えが今の疲れの原因の一つではないかとも思うのです。体がなまっているようです。



8月8日

ちょっといい感じな場所



どのようにしたら楽に生活できるか、ということを考えると流れに逆らわずに「普通」に固執していけばいいかなと思うのですが、楽になるために意味のない努力をするというのも矛盾しています。では、流れに逆らって自分の世界を自由に生きていけばいいのですが、「普通」からの圧力が楽でありません。しかし、三無主義に突入してしまうと楽かもしれないけれども、自己規制ができなくなり何をしでかすか解らなくなるおそれがあります。

そのときにちょっとした楽天主義を借りて、自分の前を高スピードで通り過ぎる波を、ショーウインドウを次々と見るように一個ずつ鑑賞していきつつ、その場その場に対応する的確な自分をつくっていたほうが、幾分楽で向上心も同時に得られられるちょっといい感じな場所のような気がします。



8月10日

さあ、前日



とうとう吹奏楽部最後の日の定期演奏会を明日に控えています。部活では色々なことがあり色々なことを学びました。これまで学んだことの集大成を明日出さなければと思っています。まぁ、がんばるつもりです。

ここまで来るのは長かったと感じています。たしか、入ったときは何と無く入った(友達が入るとか小学校の名残とかを含めて)ような気がします。初めのころはゴムの板を打つ毎日でしたが別に苦しみは感じていません(当然、初めのころは、、)。そのうちに後輩を教えることをするようになり、2年前にはパートリーダーになっていました。そして明日本番です。厳しい思い出もありましたが、全てが上向きの思い出と、今はなっています。



8月12日

定演終わり!



終わってしまった。もう終わりかと結構実感無いかもしれません。未だ少し未練があるのかと、この通過儀礼のような気持ちに思ってしまいます。でも、あらためて振り返ってみると気分は爽快ですし、自分の中で盛り上げた感慨の気持ちも後になって忘れられないだろうと思います。

ある特定の形の中にある光にはもう未練がましいことはいっていられないのですが、そこで得られた経験はずっと後になっても僕の体と一緒に引きずられていくことは確かだと思います。

僕は、自分の地位が向上したり技量が増したときにどうしても起きてしまう厄介者のうぬぼれの度合いが、謙虚さよりもまさってしまったときにもうそれ以上の技の発展はなかなかみられなくなってしまうと考えました。でも、リーダーシップと自分の技を磨くことの両立もなかなか難しいとも思いました。



8月13日

二日過ぎて



二日たって、一年前までのほうが今年より感動できたということを、まだ実は続いている、これからどこかでまたやるということを暗示していると自分の中で解釈しています。

今日ドラムをさわる機会があったので叩いてみると、折角の今の技量を持続させたいと頭の奥底で思っているのに気がついた感覚にとらわれました。少しでも間が空いてしまうと途端に実力が落ちてしまうものです。叩くことが機械的だったならば戸惑いも起こらないのですが、それがとても心地よいと感じているから大きな未練が残っているようです。でも本当のところは、それでも高校のうちはきっぱりあきらめてしまおうと思っています。時間に少し余裕があればまた別の何かを好きになることができるかもしれないからです。今のうちは色々なものを好きになっておきたいですから。



8月14日

破壊しないでくれ



本当は破壊されたほうが後々頑丈になってくれるのだけれども、そのときの衝撃がやはり負担になるのです。最近は異様に怠慢で、ひどく自己陶酔な風潮で歯車が回りに回って未開拓ゾーンまで遠出してしまったもので、そのあおりが今来ている感じです。ということで、今日はとことん破壊される予定です。でも、もうちょっと自分では奈落の底に落ちないと気づかない気もしますが、解釈を改めて破壊されたぼろぼろな道に新しいきれいな道を付け加えて統合する作業をしてしまおうと考えています。

正義の味方というのは(こういうことをいっているのが自己陶酔だけど)謙虚なところが第一条件だと勝手に思っています。自分では一線を越えてしまった感があるのでもう少し謙虚なほうがと思っています。なぜか怒りっぽいのもこのせいかと考えています。



8月15日

いつも通り



いつも通りなのですよ。自分にとって変わった世界は安心できるほどに取り込んでからでないと目が向けられません。こういうのは二分するとすれば積極的なほうだけれどもその中の手法という基準では全く消極的なのです。このことを自分では改善していこう、甚だ積極的にしていこうとするのです。今のままが嫌なのは、とても安全な過ごし方だと思うのですがそのために少し損をしていると思うことが結構あるからです。「火」から颯爽と逃げ出してしまうのが常です。

勝手な思いこみや未知なものへの不安がいつも邪魔して行動を制限しています。また、たまに火に立ち向かっていこうとしたときの失敗が後々までに苦になり続けるのも助長していると思います。まぁ、その苦が昨日で言う「破壊」になるのですが、こう考えると僕はまさに世界が狭いと思うのです。



8月25日

東京逃避



東京は暗くて汚いかんじするけど、色々な人がいて色々な言葉があっておもしろい所に感じました。何か渋谷にいる高校生と秋葉原にいる高校生は人種が違うのかとさえ思います。以降、東京であったことの箇条書き。

  • 都庁はなんのためにあそこまで背が高いのか。確かに展望台からは色々眺められたけど、そのすぐ下では職員がお仕事しているかと思うと変な気持ち。
  • 山手線回っていて田端という駅で降りたら南口はここ東京かと思ってしまった。妙にこじんまりしているもので。
  • 国分寺は治安がよろしくないと感じた。ここには住みたくない。その後行った東久留米なら住んでもいい。
  • 水戸や宇都宮にも寄った。あそこら辺に住んでいる人はしゃべり方がみんなつぶやきシローで怖いと思った。

東京へ行ったのはただの逃避なので、旅行じゃないです(と勝手に決めつけ)。だから、旅行記録には書かないのだ。



8月26日

超無気力症候群



なんだか昼間から体がだる過ぎるのです。もう秋だって言うのにクーラー付けっぱなしだからという要因もあるけれども、それ以上に重力が異常に重い。何もする気が起きないのに食欲だけが張って、お腹がはち切れそうなのに満足しないような体の怠慢さにはめいっていました。テレビを見ていてもつまらないし、パソコン付けても、本読んでも、歩き回っても、重力の強さに押し負けてしまう。こんな時に勉強なんて机向かっただけで冷や汗でた。

そのうちにこの重力肥大現象の原因が解ってしまった。ちょっと頭を改めてさわってみたら、熱があった。東京から名古屋へ来た時に起こる地域差熱みたいなものがでてきたのか。でも実際は体力的には勿論だが、精神的にもかなりやられていた疲れが本当のところだとは思うけども。



8月27日

完全に檻の中



逃げ場が無い。この窮地をどうやって抜け出すか。未練など無かったならば窮地ではなくなるのだけども、新しく世界を創っていく自信が見受けられない。ほんの些細なことなのに大きな岩で塞がっているような気持ち。誰かに打ち明けたい。でも弱い自分は男としては恥ずかしいというか格好悪いみたいな幻想もある。後ろに厄介なものを背負っていては色々とやりにくいし離れていくかもしれない。

昨日の夜の気分は、ちょっとした齟齬からここまで神経質になるような気分だったのかと思うほど今日から思えば馬鹿らしい。一晩寝て、散歩をすれば全然違うところに糸口が見つかるではないか。まだこの物語は終演してないのだけど、思いつかなかった相談役によって出口は明るいような気もする。結局、ぼくは夜の闇が怖いだけなのだろう。



8月28日

土台



自分がいる土台は、周りの人の全員がいて成り立っているようなものだと思う。自分の立っている下には、色々な高さの土盛りがある。その高さが今、付き合っている人達の友好度みたいなものになる。これは自分の目からだけで積み上げられる高さで他人が思っているのとは違う。高さが高い友人はそれが削れた時に酷い心傷を得てしまう。また土には色が付いている。一番良く会っている友人は一番カラフルで目立つ。

親とかは、高さは高いが余りカラフルでないのが高校生。逆に片思いの人とかの土は全然高くないのに異常に目立つ。新しく開拓していって友達を増やすと、端っこのほうは視野からはずれる。自分の視野の範囲が色が付いている範囲。自分で見ているものだから幻想も見える。というか、全部幻想だけど。幻想と実際は大体は似ているけれど、たまに大きく違う場合もある。そこを踏み違えた場合の心傷は余りにも残酷だと思う。



8月30日

また破壊



一ヶ月に二度も破壊されている様。今度の滅多打ちは前とは反対の意味で起こっている。殻に閉じ籠もって仕舞うのでは無く、多分、嬉しい筈なのにそこを酷く追撃されて仕舞っている。以前に一度も経験していないのが起因だとは解っているが、半月前の自分の中で生じた取り敢えず動いてみようという信条の所以で、半ば想像もしていなかった運命的な事の運びとなって仕舞って気が気でない。

今の心の蟠りは、(多分)普通に落ち込んで文章も書けないという物なら何度か経験しているのだけど、何というか溜息を百回吐いても収まらないような、夜も眠れないような拠り所の無さ。がむしゃらにでも足を踏み入れてしまった後は、もうその息でこの難関に飛び込んでいかなければ更なる破壊が待っているような気がする。時も解決してくれ無さそう。



8月31日

公園の雑草



何かね。少し淋しいような時代が変わったような気持ち。小さい頃に遊び倒していた一番近くの公園を久しぶりにのぞいてみたら、砂場とか草がしげしげと生えていたのです。周りの人に聞いてもあまり公園で遊んでいなかったという人は結構いるけれど、草が生えるほど家に閉じこもりっぱなしな状態を見ると、ぼくたちの世代が最後の野山(実際はコンクリートとかの上だけれど)を駆け回った世代かと思ってしまいます。

電狂時代に突入していって、自由に自分だけの世界が簡単に作られてしまう感じがあると思います。それぞれの輪の中での秩序を基にして動いていて、自分の輪を開ける鍵は簡単なことでは合わなくなっているかもしれません。親などは初めから輪の中にはなくて、自分だけの世界を作る環境を作ってくれる人になっているかもしれません。



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