9月



9月1日

節目の始業式



長過ぎの夏休みが終わってしまって、今日二学期が始まりました。今年の夏休み、友達はみんな色々あったようでおもしろい話がたくさんありました。ぼくは運が良かったのか今までで一番色々なことがあって満足しています。少し積極的に行動をするように今年の夏は心がけていたのがひとつの要因かもしれませんが。

二学期の始まり方もいきなり前途多難で、初日からハードだったので先行きまた色々なことが起こりそうで仕方ありません。だから「ミーハーになりきれない上昇気流はどこまでも高く天井を破りそうな勢い」なのですよ(内輪ネタ)。というか、最近の信条は少し積極的もあるけれど、妙な明るさなのです。今は運がいいからかもしれませんが将来を見るとやはり不安なのでとりあえず(一生)下準備の毎日。



9月2日

どうも情緒不安定



新しい世界への効率の良い順応が先天的にできない人ですから、努力で世界を拡げていくタイプです。一発的な「破壊」ならば少しの間だけなので耐えられることが多いのです。けれども、足を一歩踏み入れてしまった長期的な不安は、時間時間の圧力は小さいけれど持続するので気分が落ち着かないです。自分の思い描く夢を達成したいという反面、先行き不透明な不安が立ちこめるのです。

今までの少ししか無い経験でいくと、変にこわばらない方が結果的に良い結果に向くと思うのです。今、ぼくの前にそびえ立つ山は頂上がどうもとても高そうで、踏ん張りが要りますね。まあ、普通は頂上なんて無いと思いますし、いつの間にか下り坂にいるかもしれないですけど。



9月6日

蟠りの幻想



実はいい加減な幻想ゾーンに突入しただけかもしれません。あまりにも普通のことではないと、新しい事柄を特別視し過ぎていたと感じました。幸運にも、自らの捉え違いからそのことに気づくに至りました。今までの解決の方法は行っては駄目だという考えが支配していたので、自分には慣れない自分らしくないものを使って行動をしていたようでした。その不自然さが自分の中で齟齬を感じる結果となっていたのだと思います。

自分の蟠りでできる不自然な思考は、行動に負担がかかると思うのです。これは自分で外そうとしても簡単には外れるものではないのでしょうか。ほんの小さくても外からの影響によってふっと気づくときが偶然のごとく起こってくるように思うこともできます。



9月8日



虫が嫌いになっているみたいです。今日、部屋にカナブンのような虫が飛び回っていたときには何事かというように驚きすぎてしまいました。小さな頃はぼくも蝉とか何とか良くさわっていたように思いますが、いつの間にかそのようなものに触れなくなってからは自身も受け付けるものではなくなってしまったように感じます。

ぼくもすっかり電狂に染まってしまっています。電狂的清潔感という少し冷徹なものを含んだ意識によって、自分の生き生きとした感覚はことごとく画面の中に吸い込まれていくのです。画面から訴えるならば、思考回路が逆流の泥沼と化しても何をされてもすんなりと受け止めてしまうのです。もし、画面が虫だといえば自身が虫になるのです。



9月9日

何にもないの?



なんにもないですよ。余分な想像をしないでくださいよ。今までにあった数多のストーリーと同じ展開になるとは誰も言ってはいないじゃないですか。どうしてそのような下心のような展開を求めるのですか?

この物足りなさはいかにも自分勝手で仕方ないです。みんな普通一般が好きだから考え方まで同じになってしまったのでしょうか。そんなことはないと思うけれど、表面上のまた表面では兎角同じだということを発しているように思うのです。

大人にさせてくれない社会に生まれてきたのだから、いつまでもどこまでも普通一般にみな絡んでいくのは特異なことではないですよね。いつかは自分の高負担な振る舞いがなぜだろうか不思議と馬鹿らしくなってくる時が来ると思うのです。でも、その気づきが遅かろうくて。



9月10日

どこまでも楽に



でも、じつはみんな気づくための糸口はつかんでいて、いつでもそれを展開できるようになっていると思うのです。実はすでに、ある場面では展開済みなところもあるでしょう。だから、根があまりにも幼稚ということはないのです。ただ、高校生にして結構な惰性が許される程上からの力が弱々しいので、みな楽な方に逃げてしまって糸を引っ張ることを避けたままでも生活できると思うのです。

解ってはいるのだけれどまかり通ってしまうから、わざとそのステップを踏まないのです。逆にみれば、自分の存在する場所の幅が増えたとも捉えられるのではないでしょうか。一本の大筋があるといっても幅だけを見れば、上の力からして一段と大きくなっていると思います。とにかく、今はどこにも転ぶことができる自由な時だと思うのです。



9月11日

埋め合わせ



表面的にだけでもオプティミストを振る舞うことは今のところ結構上手く歯車が回っていて、悪くはない傾向だと思います。でも、オプティミズム毎日それだけで過ごしていると心の隙間みたいなものが日に日に増えていくのです。ここに埋め合わせをしておかないと隙間の広さが限界を超えたときの虚しさというのは、どうしようもなく酷いのです。また、格好だけを見ているとどうも無責任に見えがちで、どうしても表面的オプティミストだったならばある程度の土台が必要だと思います。

ぼくの埋め合わせの方法は多分、この日記に拠っていると思っています。足下を見つめると外からくる影響に対する一つ一つの輪郭がはっきりしてきて、自分の居場所に揺れが少なくなってきます。結局はこの弱い心臓を自分で守っていかなければいけないですね。



9月12日

ディスコミュニケーション大会



【意味不明も請け合い】眠気には勝てないと思うよ。みんなそれぞれが微妙にずれていて一度たりとも収束することは無く、目が冴えている人にとってはこの霞んだ個室では長い間素っ頓狂な感覚に見回れること請け合いだと思う。眠気という欲望はどうにも隠すことのできないものだから、そこには好き嫌いの感情とともに起こるあらゆる行動さえも押さえられてしまって後々の影響を避けられもしない。

まともな会話ができそうにもない空間でどのようにしてコミュニケーションをとるかというのは避けられないこともあって問題。だいたい人が眠っているそばでラウドスピーカーを鳴らし続けるというのも、矛盾に満ちた空間になるに違いない。密度でカバーするにも大御所がいない今不可能になってしまった。今、長く続く荒野に向かおうとしている。



9月15日

自信を持った上昇気流



今年二度目のどん底は突然やってきてしまった。やはり破壊は精神的にきつい。初めはあまり考えないようにしようということだったのだけれど、考えないようにしようと考えてしまうのでどうしようもなかった。昼間気を紛らわすために外にでていったが、なぜか舞い戻ってきたときにはさらに増幅されていて何もすることができなかった。ということで、逃げるのはもうやめて正面から考えようして、実際に考えた。そして、文章化し終わった時点で妙にさっぱりして晴れていた。

今日は昨日まとめた理念を基にした再出発一日目だけれども、今年一度目の時のような超無理なことは考えなかった。だから、ちょっと気を持つだけというような感じで出発した。一日目から攻撃にあったけれど、ちゃんと防御できた。なんだかんだあったけれど、また自信を持った上昇気流を獲得しつつある。結構、結構。



9月17日

意味のない不安



明日のことを考えて不安がるのは、今の自分を暗く灯してしまうことになる時がある。明日のことを気にしなければ「今」が楽しくなる。いつもとっても落ち着かないのは意味のない不安をして、自ら輪郭をぼやかしていただけ。「ま、いっか」の原理は明日を先取りするのをやめた得策。とにかく「今」です。勇気を出そう!

昨日のことを思い出して嫌になるのは、今の自分を暗く灯してしまうことになる時がある。昨日のことは忘れた方が「今」が楽しくなる。いつもとっても落ち着かないのは意味のない不安をして、自ら輪郭をぼやかしていただけ。「ま、いっか」の原理は昨日を振り返るのをやめた得策。とにかく「今」です。元気を出そう!



9月18日

未来への不安



準備がそろわないと実行できないと言う消極性がつきまとっている。これは、未来のことを意識し過ぎていて不安にかられてしまって手がでないということ。この消極性は自分の心に無駄な圧力を加えていることになっていると感じた。普段の小さいことならばこれでいても耐えられるのだが、少し大事になるともうこの圧力に押し潰されてしまっている。まさに無駄では無いのか。

ゆえに、未来のことを考えることをやめてしまう──自分に先のことを恐れない勇気を持つ──ことが最善の策だと思った。完全に新しい世界が見えてこないと行動に移せないと自分で決めつけていたが、少しでも勇気を持ったならば気分がとても楽になっていることに気づいている。



9月19日

素敵だよ



今日、最近の動揺に自分で終止符を打ち新たな出発点にします。誕生日の展望がそのまま形になって現れたという感じで、心にとっては苦痛を味わうとともに感激もしています。気づかされたのはとにかく未来をいつも空想することです。今までの不安のほとんどはこのためにでていたようなものです。

今という時を過去のすべての偶然が作り上げていること。そして、今は未来のためにあることを感じさせてくれた。自分を責めるのはつまらない。自分を好きだと思うと気分も良くなる。他の人を気にしないで自分のしたいことができるようになりたい。ぼくは、今日で区切りをつけさせてもらうよ。心との葛藤をさせてもらっただけで素敵だよ。



9月21日

まだら雲



あっという間にぼくに戻ってしまった。戻ったけど違うことといえばオプティミストのふりでもしてればだったのが、利用した方がいいに変わった事かな。大胆な峠をさっぱり通り過ぎてしまったから、これからは補強といきますか。(ある何かが)進行しない限りここら辺の土盤は雨降って地固まるという感じで大丈夫でしょう。

まだら雲がゆっくり動く季節に、秋っぽい感傷を味わった後の汗が気持ちいい。大きい声が出せたり、潔く返品できたりする活力がおもしろい。とっても好きな音楽をずーっと聞きながら暮れゆく空を見るのがいい。でも、いきすぎると地動説になりかねないから注意しながらもう一つ。あくまで暖かいニヒルな応答を試すのもいいですね。



9月23日

滴る小雨で今を獲得



辛いときの気持ちが一段と自分を見せてくれる。自分を見たときに思うのは、自分の容姿についての欠点やどうなるか解らない不安を抱えていること。けれども、そのことはどうにもならないことに気づく。もっと気分が楽でいたい。楽でいるためにはどうしたらよいか、と考えるととりあえず今を楽しんでみること。それでは逃げではないかと思うとき、万年「将来のいつかの楽しい時を夢見ての下準備状態」になる事は避けようと思い至る。また、昔のいつを恨んでも仕方がない。いつも自分らしく。他人の仮面を貸してもらおうとすることは自分を隠して窮屈で結果いい方には向かない。飄々と自分を追求できながら生きていければと思う。とりあえずはしたいことを勇気を持ってすること。しかし、優しさをも持ち合わせて。



9月25日

楽器を弾こう



どうなったかな、どうなったかなと気にしすぎるのは不安になる一つの原因に思う。どうなったかよりもしたことの方に重点を置いた方が賢い人かもしれない。いちいち不安がっているよりはその時間をほかに回せられればそちらの方が有効だと思う。ということで、結果を気にしすぎ。

自分の信念をもって生きられる時代だから、それを持って能動的に生きることが良いと言われた。人から言われたことをはいはいとそのままやるのではなくて、自分はこういう風にやってやるんだという気持ちでそれに向けて努力をすることが大切だということか。そう、そういう努力をいつも怠らないならば結果なんて意味をなさない。楽器を弾くことは、こういうことを教えてくれる。



9月26日

楽しみ



ただ、だらだら事を進めていくより、オンステージを目標に進めていく方が身に入りやすいですね。ステージで演なうのも楽しみだけど、ぼくが一番楽しいと思うのは目標に向けて練習することです。練習は大抵きついものだけれど、しているときを楽しめれば身にはいるのも早くて一石二鳥だと思います。あと、何か人とかものとかを自分ではどうしようもないほど好きになることも幸せだと思います。いつかは冷めるときが来るかもしれないけれど、今好きということに意味があります。

嫌いなものより自分の目を向けている範疇からは外れているものの方が絶対に多いです。洋楽はあんまり聴かないよ、と言うときには嫌いと思うかもしれないけど別に無関心なだけのときが多いのが本当ですよね。



9月28日

地球に生きている



普段立っている地面というのが地球です。地球といつも接しているのに、ぼくはそれを気にしてないし、気にすると色々厄介そうで隠滅しています。でも普通はどうやっても地球と関わっていかなければならないですから、今の環境の現実は何をするにもつきまとってくると思います。

目をそらさないでいることが必要になってきます。今の厄介的な存在という様ではなくなって、習慣的に個人個人が生きていくのに必要な心構えの一つに付け加えられれば良いと思います。寝る前に歯を磨くだとかご老人に席を譲るという感覚で。

今、環境破壊の現実に目をつぶったままでいた先の地球はやはり荒廃しているのでしょう。できるだけ尽力して様々な問題に対処して行かなくては。そして、これからこの地球はどうなっていくのでしょうね。



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