他人が好きだというものは、今まで自分が無関心だった世界に光を当てるきっかけとなることが多いです。例えば、ぼくは***というバンドが好きだと言ったらそのバンドについて少しは聴きたくなるものです。ほかに、自分があんまりいつもは気にかけないで身につけているものなどを、他の人自身が好きだと言えばそのものをちょっとは気にかけます。 友人がたくさんいることの良さは、自分の未開拓の世界をのぞけられるチャンスがたくさんあるということです。自分が以前まで敬遠していたものでさえ、好きになってしまうこともあるでしょう。自分が一番好きなもので結構知り尽くしているものでも、さらに別の角度から見られて新鮮味を感じることもあるでしょう。本当に自分に合っているものを探すのには友人は大切だと思います。 |
昨日学校の文化祭であった音楽祭で叩いたドラムが区切りです。もう(多分)当分の間スティックを持つことは無いのではないかと思っています。部活という方法で得られたこの技量はぼくに色々教えてくれました。またどこかでやる機会を探っていけばいいのですが、半受け身的にやらされていた活動には終止符が打たれます。これからは自ら出張っていくことのみです。 自分のちょっとした得意分野(まだまだ未熟なことは請け合いなのですが)を作ることができたのには、学校の政策に感謝しなくてはなりません。本心は何らかの形で永続していきたいと思っているけれど、今はそこまでして続けるかどうかの葛藤の段階でどちらに転ぶか解りません。生活が安定する時期になれば自然にまたやっているとは思いますが。 |
今日は一日昨日の文化祭の代休でした。ぼくが家で寝ているときに、実行委員の人達はまだX次会をしているのかなと思っていました。実行委員の人達というのは文化祭という祭り自体では楽しまないのにその後で快感を得ているのでしょうか。彼らは祭りと祭りの準備で自分の体をこき使って、マゾヒストになっているように見えます。しかし、終わった後の満足感の味が一度味わったら忘れられないものなで、自分の存在をより固められるものなのでしょうか。 ぼくは、毎度大体応援の役にまわるのが常です。自分の怠慢さにはいつも押されています。友達が汗を迸らせながらがんばっているのをみて、すごいなぁと思っています。今度はぼくも前線に身を投じてマゾヒストになってみますか。 |
どうでもいいことしながら、気を張っている。気を張るのが興深いときはいいけれど、大抵は落ち着かない。どうでもいいこと言って気を紛らわす。素直に楽しければよいけれど、喉につかえるものがあるときは後に尾を引く。自分には無関心なこと言われたときに「どうでもいい」と言ってみる。そんなに気にしないでとこっちも気にしている。 どうでもいいことを楽しんでしまえばもう自分の世界。この時を楽しむどうでもいいことが一番大切なことにさえ思える。本当に無意味な行為に覚えることのできる楽しさが、なぜかすごく嬉しい。世界中に散らばっているたくさんのどうでもいいことの中で今目の前にある一番どうでもいいことが一番意味を持っている気がする。 |
過去も未来も愛さないで今の一点だけを愛せられるのだろうか。今かけられた優しさや、今の点から起こる何にも恐れない感慨を持ち合わせられたものには、負けてしまう。負けるというかとても強く見える。この感覚が好き。「敵」を潰すことなんて思いつくこともしないで、敵よりもまず自分が抜きんでる。絶え間ない自己主張の中での思いやりが美しく、幸せに見える。幸せでいることがいつの間にか「敵」をも潰しているように思う。 無邪気に見えるこの感覚を、そっと落ち着いた心で見守ることが夢である。たまに見せる弱さも強さのうち。背筋を伸ばして冷静にこの感覚を享受していよう。過去や未来の虚像は愛せられないものだと気づき、ほかの誰でもない自分に気づく。 |
どうも、17歳の絵巻は第三章に入った模様。予想通りこの絵巻はかなり濃密。カクテルのために千鳥足ながら他人の情話を聞き入る姿。たくさんの出会いと別れを静観していても、挑発されてヒステリックになってしまう。また、過去で身近な人達は風邪をひいたかのようにみな鼻濁音を出している。どうも、自分だけでは生きることはできないらしい。さらに、これからもそうする気も起こりそうにないように見える。 ヒステリック化現象の理由は、とんでもない広さの世代間とともに若っけの現れ。自分を取り繕う最強にニヒルな笑いは、後で自分に溜息。やはり入り口が大切だと思う。初め変な形で入ってしまったらずっとそのまま突っ走るしかない。入り口の扉の前で相手を弄ぶかのようなニヒル笑いをかまして、制御しましょ。なんだかいまブームなもの→体言止め。 |
小さい頃の勉強というのは親の義務で強制的にさせられるものです。子供が嫌だといっても教育のためにはやらさせなければなりません。だんだん成長して高校の猶予期間になると、表面上はもう本人の意思ということになります。ヒステリックな教育ママの支配下にある子は、いつまでもママの意志で勉強し続けています。自分から動くのではなく常に他人に頼っていて、スパルタ教育に快感を覚えているようにみえます。一世を風靡したときより目立たないように、影で根強くそのパイプラインは作動しています。何か改革しないとこんな人が増えるのではないでしょうか。 偏差値教育云々と言って忌み嫌うけれど、逆手にとって利用しましょう。自発的に勉強しようとすることは、目標が至って曖昧でも将来社会に少しでも影響を与える人になると思います。一を聞いて十を知る的なものに目覚めている人ならば、この努力が必要な山を効率よく切り裂いていって自分のものにできるように思います。 |
男子トイレの小便器は人権無視だ!と怒鳴ってみる。小便にしても用を足しているときを人に見られるのは痴態を曝していることだと思う。個室にしてくれとは言わないけれど、迫めて便器の配置場所を通行人が通るトイレの入り口が死角になるような所に配置して欲しいと思う。 最近の感覚で行くと、自分の部屋を掃除するのが好きで、赤色がとても好きであり、スポーツ万能で、だけど女に欲情する男が普通に存在している。男らしさ女らしさの範疇は浸透膜だけで分けられているように思う。男の放尿シーンに欲情してもいいけれど、女の場合のそれと同じように日常ではまだタブーである。大体は美意識があり下品なことは軽蔑すると思う(逆に商品化している人もいますが)。だから、トイレはちゃんと仕切ってくれませんか? |
本当に何もすることの無いような休日の昼下がりには、色々な妄想に頭を働かせてもいいけれど、体をとても自由にさせてあげたらいい。特に晴れた日なんか窓際に座って風でも感じていれば、なぜか気持ちよくて楽しい気分に駆られるものだと思う。いつもなにかしら頭とか体とか使って忙しそうに動き回って、たまには気持ちと反する愛嬌でも振る舞っているように、気付かぬうちにたまっている疲れを癒やすことが必要。 いつも取り繕っている仮面を、そのままもう自分のしたいことだと受け止められるなら本望なのだけれど、欲か何か邪魔してあまりそうならないと思う。そして、休日の開放感に浸っているときの自分が一番そのままの自分だと思う。日向で寝ている猫のように。 |
たまたまテレビをオンにしたら、NHKで江川紹子VS原宿美容師という番組が放送されていました。原宿美容師というのが奇抜な格好の方で、江川さんの髪型が彼の手によって狂気じみたものにされていました。江川さんは彼との会話で彼を探って行くのです。 最近は髪型とか服とか一昔前では街で見かけることの無かった変わったものでも普通に通用しているように思います。また、個性的というような格好をする人がよく目に付きます。以前の習慣では隠蔽されていた変わった格好が許されるようになってきたということです。自分を変えたいという欲望が昔の範疇よりも広い範疇で満たすことができるようになってきています。自分を探るための手段として色々なものに挑戦ができるのでしょう。 |
理想の自分を想像して、理想の自分になりきっていること。実際はまだ行動していないのに、「理想の自分」ならこうするだろうなと言うことを本当の自分に過去形で刷り込まさせている。理想を目指すのはあるかもしれないけれど、まだ実行に移ってもいない段階でありもしない事実を捲し立てるのは不安を造る一つの要因だと思う。 さらに、理想は一人称だけではとどまらない。自分の理想を象って接していると、相手をいつの間にか制限している。自分の考えを傲慢にして振りまくので、なかなかコミュニケーションが難しい。少しでもずれた行動をすると、それは覆い隠されるか不機嫌にされる。 きっとの感情で壊れやすいと思っているものを防御している。 |
純粋な子供ということに理由があるとしたら、人付き合いのことでしょうか。大人の方々が言うには、社会に出てから或いは大学位では、何か前提みたいなものに引っかかって「純粋」でない人付き合いになってしまうのだそうです。今、確かに自分をどっぷり他人に預けることことをしています。もちろん引き替えに相手もどっぷり入り込んできます。このことが純粋なのでしょうか。 知りすぎた子供は、今なにもしないで座っているだけで大人の喚きが否応なしに耳に入ってきます。しかしそれが故聞く耳だけ肥大化して、ついでに体まで肥大化して出不精になってしまっているような気もします。 いずれにしろ、子供の得意な大人達から見る純粋さを享受できる今が数々の幸せに感じられます。 |
君を見ていても話していても君の本意を得ることはないのです。いくら動かない殻を見ても、コミュニケートしても何を思っているかなど、年月を経ても、いくら知っても解るはずなどありません。全ては自分の感じ方です。しかし、相手も思っていることを全てありのままに表立って表現されることがありません。だから、教えてください。今の世あの差別をまだ守ろうとすることをしなくてもいいとは思いませんか。 自分の進む道は点線ではなく、一本線だと思います。どんなにカーブしていても他の線にひっつくようなことはないのです。1が1/2になるのは違っていると思います。二つの自分の道に互いに共感して伸ばしあうことだけで繋がれているのです。 |
未知のものを含めて世界は自分が立っているここから、上下左右どこまででも宇宙のように広がっています。今見ている範囲というのはとても狭くて、本当にある一部分しかライトアップされていません。その周りはぼんやりとしていて、しかしいつでも手を出せる範囲です。また、この宇宙には光らない星が未知数有り、その光らない星達を光らせるのは自分です。ライトアップされればされるほど光っていくのです。 しかし、その時に自分が立っている場所というのもあります。そこが基礎です。すべては立っている場所から始まります。また、立っている場所は光りきった星達で出来ています。それはだんだん大きくなっていくのです。そしてさらに遠くの星に向かって手を伸ばせられるのです。ただ、焦ってまだあまり光らないうちに取り込んでしまうと、足下が不安定になり崩れかけることもありますので注意! |
色々なことを知ろうとする行為は自分を幸せにするための行為である。知っていることは何事も楽しいと感じることができるが、知らないことは楽しむことができない。知らないことを知ろうとすることはまだ見ぬものに始め恐怖を覚えるが、楽しさを増すためのことで気にすることではない。 知らないことは、二つに大別できる。努力をすれば知ることができるものと、どんなことをしても一切知ることはできないものである。そして、どんなことをしても一切知ることができないものも二つに分けることができる。それは、容易にただ一つのものが想像できるものと、まったく何なのか解らなく想像が多岐に及んでしまうものである。まったく何なのか解らないことが、不安になるのである。 |
小さい頃というのは、あらゆる嫌なことから逃げて、好きなことをやろうとしたものです。子供のわがままぶりの発揮です。それは、親などによってこの社会に合うように矯正されていきます。叱ることはこの社会に出て恥ずかしくない人にするために必要なことですね。そして、お叱りを受けながら成長していくのですが、子供にとっては納得がいかないわけです。その時子供なりに何か思いこんで納得がいくようにすると思うのです。それは人それぞれの「仮自己」だと考えます。紆余曲折の後その人自身の自己に到達します。 幼い頃の消極性、積極性は大人になってからのそれらとはまた違っていると思います。小さなことで選択される(遺伝かもしれないけれど)逃げ方によって起こる一時的なものであると思うのです。それらの過程達の中全てで今の自分ができあがっていると感じます。 |