12月



12月1日

好きになること



生き物でない物を好きになるときと、人を好きになることでは違う点がある。物を好きになる場合は、ほとんどいくらでも近くに置いておける。こちらからの投げかけにまったく答えてくれないものであるけれど、それは自分に嫌なことなど一言も行っては来ない。そして、それは毎日の生活の中で大きな時間を占めている。また、嫌いになってしまえば傷なしに無関心になれる。

人を好きになる場合は様相が違ってくる。いつも近くに置いておくことはできない。こちらからの投げかけに様々な反応をする。嫌なことも言ってくる。しかし、好きという意識には変わりないので、どうしても近くに置きたいと心のどこかで思っている。だから、難しい。

物でも人でも好きになるということは本能的だと思う。また、嫌いになるあるいは無関心になるということも本能的だと思う。自分の生理現象と割り切ると、少しは楽にまた上手く行くかもしれない。



12月2日

聞き上手



自分の言いたいことを話すだけ話して、後は他人の話を聞こうとしていない傾向。また、自分から話すことはそうないのに、他人の話を聞くときには目をそらさずに熱心に聞いてあげる傾向など、注意してみると談話の席にはそれぞれの人に役割的な傾向がある。口が達者な人はリーダーシップをとることが多い。そしてそこには聞き上手が必ずいる。

いくらおもしろいだろう話を持ちかけても、話なんて聞きたくないないと心で思っている人に話したのではつまらなくなりどちらも不快になる。逆につまらないだろう話をいつも目を輝かせて聞いてくれる人に話したのであれば、つまらない話がいつの間にか楽しい話になっていることがあると思う。特に自分のしたいことが塞がれるようなことがなければ、熱心に聞いてあげることは相手への思いやりとなり、またその場の雰囲気を保てると思う。人の話を聞く心の余裕がないときは注意が必要かもしれない。



12月3日

負けず嫌い



負けず嫌いという心で自分を向上していこうとすることは確かによいことだと思う。何もかも貪欲に取り入れていこうとすることもよいことだと思う。だけど、僕としてはある程度の基礎の上に一つのものを極めたい。その一つのものは、負けず嫌いになることで、さらに向上していく。一つでなくとも、自分で面倒をみきれる範囲に極めようとすればよい。自分より凄いと思う度に負けん気になっていては、そのうちに自分を喪失しかねないと思う。

これはある程度の基礎の上に立つもので、それもしっかりとしなければいけない。上に立つものの基礎もこの基礎に一致しているので同時進行はする。自分の基礎は貪欲に受け入れて固めていく必要がある。固めていくといつの間にか上に立っているものに同化して、さらに上へと進んでいくものだと思う。



12月4日

感情移入



相手の体験を聞いているときに、自分にも経験があることだと相手に感情移入することがある。経験が無くとも強い印象を自分に与えるものであったならば相手に同化することがある。相手の楽しみや痛みといった感情を、頭の中で納得するだけでは無く肉体的にも感じられる。精神的に感じているはずのことが肉体的に感じられるほど、感情移入することは時に強いショックとなって自分に訴えかけてくる。

そのときに自分との比較で相手が劣っているだとか勝っているという基準で判断することは、間違っていると思う。目を自分に向けて今までの行動を問い直して礎の基を固めていったり、周りにある社会のことの問題提議だと捉えて考えてみたりすることが訴えを有効にいかせられると思う。自分の経験に基づかないものはショックを受けないのだから。



12月6日

かえられないもの



それは今自分がここにいるということ。果てしない宇宙のことを教えてもらうと、地球で生き物が生きているということが何なのか全く解らなくなる。壮大なスケールの中で、本当に小さくて気にさえできないような地球の生き物には、いったい何の意味があるのだろうか。楽しいと思うこと、悲しいと思うことは下界の騒ぎでしかないように思える。

でも、僕が今こんな考えができることはとんでもない偶然の重なりではないだろうか。地球ができたこと、生命が誕生したこと、それから、両親が出会ったこと、僕を生んでくれたこと。自分が今持っているもの、できること全てが偶然であると思う。色々考えることができるのも、大きな宇宙の流れの中で生まれたもの。楽しむことも、悲しむこともみんなあわせて、今ここにいることが一番かえられないもの。



12月18日

メモリアルデイ



ぼくは何をしているのだろう。いまが一番なんでもやれる時期だというのに。大人達が言うように後で悔やむのだろうか。完璧な自分など将来にも不可能であるのだから、失敗を恐れるほど自分が拘束されることはない。失敗を恐れることは、この社会というか他人の目に押さえつけられて、自分のやりたいことが歪曲させられてしまうことだと思う。自分の持っている先天的なものは変わらなく、それをいかに出して生きられるかではないか。出さないことも一つの先天的なことかもしれないけれど、それはそれで出していると思う。

したいことをするための下準備に知力を使ったら、あとは何も考えずに自分を信じて行動してみる。そうすると、どうしようかと考え込んだ挙げ句の結果よりもよい結果が生まれてくると思う。それは、自分の先天的なものが出せたからであり、社会や他人の目を振り切ったからであると思う。そして、もはやその結果に賞罰は無意味である。



12月19日

体の調子心の調子



自分の体の調子が悪いとき、また心の調子が良くないときに原因として疑ってみるものに、健康管理がなっているかということがあると思います。十分な睡眠や十分な食事などが体の調子を整えるのは当然ですが、心の調子もそれに拠るものが多少はあると思います。なんだかむしゃくしゃして怒りやすいときや、原因不明の苦しさなどを味わっているときに、ご飯を食べるとか、とりあえず寝てみるというのが効果を示すと思うのです。

逆に、それらの生理的な欲求が過度に満たされ続けると、身体が甘えてしまって欲望を抑えることができなくなってしまいます。身体のことを考えると、欲求を抑えることはマイナスに傾くことになることが多いと思いますが、この社会に適応していくためには、その欲求を抑えることがいくらか必要になってきます。ここは、知力を働かせて効率の良い選択をすることであると感じます。



12月21日

メモワール



中途半端なことは、色々と弊害をもたらすと感じた。やれないと思ったものは早い内に手を引くべきだと思った。そして、やっているものは最期体が動かなくなるまでやるべきだと思った。自分の気持ちが中途半端なまま、それを闇に押し込めて無理に過ごしてきたのではないか。その、「謎」が溶けた瞬間に今までの苦痛の一部がこれによるものだとわかり、これからは無駄な苦痛をしまいと思った。

自分が「知りたい」と思った欲望を、社会や人の目によって押さえ込まれていた。自分の純粋な感情や、知力も必要だが、意力も必要。自分の気持ちが何かおかしいと感じたときに、中途半端なことがあるかもしれないと疑ってみると結構あるものだ。それを知力・意力で処理する力があれば、気持ちをすっきりさせるものだと感じた。



12月22日

自分の中のナイフ



人間は成長する。それは人それぞれだけれど、自分のことを知らないで無責任に生きるよりも、自分のことをよく知って生きたほうが自分にも楽しくあれる。人による度合いの違いは、相性の違いや見合うべき人の違いを起こさせる。殊に女子中学生が先生を好きになるようなものだと思う。

とにかくマザコンに成り下がっているままでずっと蜂起しようとしない男というのが、ぼくのまわりにもたくさんいる。その甘えは自分の仮面を脱ぐ機会を無くさせている。また、そんな枠の中で一人抜けだそうとしても、それは結局意味をなさない。そんな苦しさの中でも、自分の中のナイフを輝かせて、切り裂いていくような自分を出していくように、頑張り続けることは決して無駄でないと思う。



12月23日

動かすもの



「普通」にこだわる。「普通」な人間などいないと思うのだけど、神聖化された「普通」がいる。良く目を凝らしてみるとみんなどこか異常だというのに。みんなの神様である「普通」は、それこそ一つの宗教のように戒律がある。自分だけ抜けだそうとしても結局は抑えられてしまい、注意人物に指定される。自分がやりたいことをやろうとして何も恐れずにと向かっていく先は、注意人物に指定された挙げ句滅却されるのである。

しかし、初めの意気込みが簡単には壊れない頑丈なものであり、一度や二度その襲来を乗り越えたならば、今度はその状態で「普通教」の仲間入りをするのである。だが、その襲来はあまりにも陰険である。とてもねっとりとした粘着テープの上を進まなくてはならないのだ。これは、いうならば現代的ミーハーの原理ではなかろうか。



12月24日

とりとめのないこと



何かしら不条理に思うようなことはある。それは、なぜ行うのか。それは、なぜ存在するのか。意味を尋ねても誰も答えてくれない。「そういうものだ」という言葉に埋もれてしまう。世間体の戒律によって定められたしきたりには、誰も反論しない。反抗すれば、ひどい仕打ちにあってしまう。仮面をかぶっていい顔をずっとしていとでもいうのか。

人それぞれのヒエラルキーの中で、知識の浅い人が強要されるとき、なぜ解らないものをやらされるのかという疑問を抱く場合がある。この疑問は、社会で一度抑えておかなくてはならないものなのか。焦ってこの疑問を暴くことまではしなくとも、疑問をいずれ解体するべきだと思う。その疑問の中には、人の欲望が絡みついた解体すべき疑問が数多く含まれていると感じるからである。



12月25日

信じるもの



自分にとって意味の分からない疑問を暴こうとするには、かなりの鋭気がいるように思う。自分個人の欲望を抑えることができなかったならば、疑問は暗黙了解となる。自分の名誉と財の隆盛を願っているからである。ぼくたちが疑問の解体に必要なことは、名誉と財に関する個人の欲望を捨て去ることがあると思う。

と、意気込んでも、実際には縛るものが増えてなかなか達成できないことだと思う。圧力によるストレスを発散するためには、一人では難しい。そこに良い協力者が必要なのだが、身を縛る要因にもなり得る。しかし、強い意気込みで動くことを求める。試行錯誤でぶつかっていかなくては、何も起こらない。この信念はいつまでも忘れたくはないものである。



12月27日

他人の幸せ



他人の幸せを聞いたときに自分はどう思うか。例えば、自分と比較してどうにも良かったならば、間違わず羨望の眼差しで見る。瞬間に嫌がらせかと思い自分を責めたりする。そして、いくら文句をたれても自分も進もうと決意することができる。自分のやり方で進められるなら良いが、焦って進もうとするとき見事に墜落する。そして悪循環が始まってしまう。

しかし、羨望の眼差しで見るにしろ他人の幸せは嬉しいものだと思う。自分の活力に繋がる。特に、自分が他人の幸せを助けたときなどはとても嬉しいものだ。生活が質素であっても自分に余裕があるとき、他人の幸せは自分の幸せになる。しかしそこには、逆に考えれば他人の沈んでいるところは敬遠しがちになることがあると思う。



12月30日

無機質の雨



今生きている世界には様々な無機質のものが入り込んでいる。それは時代が進むに連れて、便利になるということと引き替えに入り込んでくる。無機質のものの中にひとり埋もれると、ある時自分を壊すかもしれない。楽しいとか辛いとかの感情は、対人間味を感じるときに起こるものだと思う。その起伏を避け、安定を求めるならば無機質の空間は絶好の場所である。

そういう意味で、無機質のものは人間が使うのではなく、逆に使われることがよくあるのだと思う。もとをたどれば、無機質のもののほとんどは裏に人間の功績があるはずである。極端にいえば、自分の作ったものに使われ、自分が制御できなくなることが起こっている。周りに人がいるからこその感情だと思う。

無機質の雨を降らせている雲の向こうには太陽があることを知らなくては。



12月31日

安定への動き
〜一年の終わりに〜



今年はステップアップの年でした。今は落ち着いていますが、そうでないときが今年は幾度もあり辛くありました。いかに、落ち着かない自分を落ち着かせるかに、頭を使っていたように思います。今までの様々な思いこみを解いたり、また新たに思いこんでみたりと試行錯誤を重ねました。そういうことで、自分は変わるものだと感じました。しかし、別の面で、三つ子の魂百までというように変わらないものだとも思いました。語弊があるかもしれないけど、心をどれだけ開けられるかということに思います。

気兼ねせずに物事につっこんでいくことが、自分を出せて、結果はなんでも自分にとって良いものができあがると思いました。また、中途半端で解らないままにしておくことのリスクの大きさも感じました。乗りかけた船は最後まで乗るということです。

1998年を迎えるにあたっては、引き続き強烈な出会いと強烈なショックが起こることを期待します。さらに、気兼ねしない心と、集中力に伴う機転を効かせる力を、常に持っていたいと思っています。そして、自分を支えてくれている他人に感謝できる余裕を持ちたいと願って、有意義であった1997年にお別れをしようと思います。



連絡板へ書き込む




DIARYのindex


Mameへはmame@sun-inet.or.jp