毎日、何気なく考えずにできる習慣がある。改めて、毎日することの意義を問いただしたときに、それは何かしら役立っているということに考え至る。 もし他人が自分のしていない日課をこなしていたとしたら、なぜそういうことができるのだろうと思う。そして自分にとってその日課が利益あるものだと考え、機会が良かったならばはじめようとするかもしれない。しかし、いざこなしてみようとすると、大抵はできない。ただ、その日課を何とか毎日やり続け長くやっていると苦にならなくなる。果てには、楽しくなるときもある。 人はいきなり多くのものを変えられるはずは無いと思うので、少しずつ細瑾を拾っては根気よく潰していった方がいいのではないか。最初のめいいっぱい意識をする期間を、どうにか努力して乗り越すだけの力を日課にしたい。 |
余裕がある生活に必要だと思うことは、たくさんのことを感じるということです。生きることに少しも気を使わないで生きられるからには、幅広い感謝を持ちたい。緊迫感のある生活する人達がいることを頭の片隅に置いておき、せめて自分はたくさんのことを感じるべきだと思う。そして、他人に動かしてもらっている自分に、自分から動いて態度を示せるようにしたい。 まずは毎日の生活で、本を読んだり、映画を見たり、人からのお話をきいたりなどするときに、少しでも心が動かされたなら、それを何らかの方法で記して残しておくと良いと思う。一行でも自分の気持ちが書ければ、自分の感じて考えたことの結果が行動となって現れてくるものだと思う。 |
日課で自分の欠点を改善していったり、今日の分の勉強をしていくことは、将来に向けての自分づくりである。その将来というのは、何であっても成功したいという気持ち。なにかしら成功したいという欲はあるもので、それはいつもひっついてまわる。かえって、そういう欲がないというのも、もしこの社会で生きていくとしたら受け入れてもらえないものであるかもしれない。なかなか唯我独尊では生きられないのが社会だから。そう考えると、反対にその欲が強すぎても行動をともにできる協力者が得られないと思う。 最終的には結果で人を見られてしまう世の中であるけれど、それを回避しようとすると無気力になってしまう。だから思い至るのは、自分で大きな、実現が相当遠い目標をひとつたてておく。そして、その目標に向かっていくことを念頭に据えれば、日課や、今日の分の勉強に集中できるのではないか。 |
嫌いなものはたくさんあります。そのひとつひとつは自分の経験や、その経験からの想像で作られていきます。自分が嫌いなものを冷静に見つめ返してみると、ある出来事が原因になっていると解ることがあると思うのです。とっさには全身全霊で嫌気を示すかもしれないけれども、原因の何気なさに認めることができるかもしれません。その当時から時間が離れていることもあって。 融通できる生活では、我慢があまりできないために嫌いなものも多くあるように思います。その時々に嫌いになっていったものとの国交を開こうとさえしていないのではないのでしょうか。嫌いなものは、笑い話になるならまだしも、これから失敗する可能性を秘めています。好きにならないまでも幾らかのことは知っておけたらと思っています。 |
私が感じるに、先人の教えというものは悉く当たっていくのでいつも自分の中に取り入れるべきと思います。自分の何倍も生きている、また生きていた人達は、私よりも遙かに経験の数が多くあります。その経験から体得されたものというのは、注意すべき揺るがない思想であります。 しかし、その思想をいくら読んでも、またいくら聞いても氷山の一角しか理解し得ないのではないでしょうか。私は、やはり試行錯誤で経験するべきだと思います。若いうちは、大口を叩いてもその一言一言に重みが感じられないので、まずは行動だと思います。先人の教えは、本当の意味で自分が経験して初めて理解されるものです。その自分の経験の前に先人の思想を、深く読み下しておきたいと思っています。 |
人が失敗するところや、攻撃されているところを見ることに拒否反応を示します。それは、自分が失敗することや攻撃されることを、恐れていることを表しています。 私は、そう貧乏でも裕福でもない家庭で育っています。そのためか、身の周りにあまり事件が起こっていません。特に衝撃的な事件などほとんど体験していません。それ故、小さな事件でも起こったならば、動揺してしまっていてあたふためき敏速な行動はできず、ただ声がうわずっています。その動揺が怖いために、失敗することや攻撃されることに恐れを感じているのだと思います。 すぐに自分をなげうってしまうほど自分を信じていないのです。動揺したときに、まずはその動揺を後に回すことです。そうして、本来の自分の知力によりその事件を解決していくことが有効であると思います。 |
人に期待されて、自分の思うような行動がとれなくなってしまうことがあります。それが、一回きりのことであるならば、そのときの感情を抑えつけ集中して乗り越えることができます。そうして、向かってきたものを俊敏に乗り越えられる強さに憧れます。 継続されて期待され続けることはどうでしょうか。周りの目というのは一つ突破すればまたその次という形で無限に高ぶります。そんな中、自分にはプライドが形作られ、周りの目と拮抗し果てには実行不可能に追い込まれます。そのときは、周りの目が何もなかったかのように無関心になります。 本当に継続し続けようとするものであるならば、周りの目という軽い麻薬のようなものに酔わされてはいけないと思います。あまりに周りに惑わされず、周りにうまく見極めをつけられれば、却って継続できる自分の力となり得るのではないかと思います。 |
学校とは何をするために行くところであるのでしょうか。多く言われるのが、学ぶためであり、どうして学ぶのかと言えば、社会にでて有用な人になるためであります。しかし、今の高校の中にいる人にとっては、そういうような考えはあまりできません。自分を考えられる範囲はほんの目の前までです。とる行動の意味は、ほとんど目前のことが動機になります。そんな中で自分のしたいことをしようという教えは価値が消えています。学校は本来、自分のしたいことをするために学ぶ場所であるはずです。私は、自分の楽しみの感慨は遠くを見た、「したいこと」をすることにあると思います。 高校へ進学するときに、本人の意思はあまり入っていなかったのではないかと思います。周りが作ってくれた道を歩いていきます。義務教育の終わった私は、自分の意志で、またそれが目前だけの浅いものとならないように学校で学んでいきます。 |