好きなことだけをするのはいいけれど、それでは後に続かないような気がして……。自分を取り巻く欲望は、なんて小さなものの集まりなのだろう。将来に対して、睡眠時間を削り、食べたくなったらすぐに食べ、性欲もすぐに晴らしてしまう。将来によい時間の使い方なのだろうか。決めたことをやれない。決められたことを守れない。大きい欲望の小さな一歩は、小さい欲望の大きな誘惑に負けてしまう。楽しさを求めて、虚しさが残る。 自制を効かさなければならない。適度な生活がいいと思う。でも、どこに楽しみを見つけるのだろうか。多分、それは、前提というものが自分の中にはあるのだろうと思う。前提の上で楽しむ。前提は決まり切ったものであるかというとそうではなくて、あやふやなものである。そんな中で楽しみ、また道ばたで殴られるのである。 |
人によって対応は様々だと思うけれど、少なからずまわりの雰囲気に影響を受けると思う。まわりが皆熱心に勉強をし、休み時間の会話はもっぱら勉強の事という環境にいれば、嫌でも勉強をせざるをえなくなってくる。尊重すべき自分の意志は当然あり、それを助けるための環境の設定は有効である。自分で自分の環境を模索すべきだと思う。 まわりの言っていることに関して自分が劣っていると感じたときに、自分のふがいなさを感じる。上には上がいることは解っているのだけど、何かもどかしい。そんなときに、まわりに頼っている自分の姿が浮かぶ。しかし問い詰めていくと、まわりには頼ってしまうけれど同時に利用もできることに思い至る。環境の設定で重要なことは、物、場所もそうだが、一番であることは人だと思う。それを意識せずには、目標は達成されないだろうと考える。 |
平穏無事に進んで行くよりも、窮地で焦っていながらもなんとかやり遂げる方が、私は人間的に見て楽しいと思います。演奏会を見に行ったとき私が感動するのは、上手な演奏もそうですがそれ以上に、少しずつミスはあるものの全体として向いている方向が同じで、そのミスも却って抑揚の極みになっているようなときです。それは、必死に練習してきた跡が、良く見えて人間的であることです。 「時間があればできた」というのは嘘だと思います。時間がないからできるのです。いつも何かにせき立てられていて、慌ただしく過ごしている方がちょうどいいと思います。慌ただしいながら、頭上にはちゃんと向かうべき星があります。完璧でなく墜落もしていないそんな生活が、人間的であって、私は好きです。 |
割り込みを許さないこと。自分の今進んでいる道を、自分から逸れることが無く、他人から逸らされることも無い。ただ極める。 「知る」という行為の範囲が違う。奥深くの専門的なことを知るまでが、「知る」だ。そして、その行為に楽しみを覚えるのである。入りだしたら、関係のないことは一切遮断されるのではあるが、「知る」行為の速さがとても速い。理系的なのかもしれない。また、これから必要な人材だと思う。重い物を背負っていくのに、この細やかで迅速に動く手は必須である。 私に何かしら疎外感やプレッシャーを与えてくれる彼らには、いつも自分を揺るがされる。しかし、ふと思うと自分にもそういう面があると感じることもある。この心の揺らめきをも糧にしたい。 |
顔を合わせたその場だけでも平等であろうとして、自分の本当のところを押し殺し、まわりをじっくり観察する。自分の中よりも外に対してフェティッシュを感じて、コミュニケーションに重点を置く。自分の道は他人の道の上に建つ。 だから気になる、あの曲、あのTV、あの雑誌。自分の道を究めることも生きている理由になるのだけれど、それよりも大きくまわりとのコミュニケーションがある。コミュニケーションが重要であるので、実は「自分は自分」的なものが根底に秘められている。しかし、それも重要視しすぎた成れの果て、殆ど表面的になり「技」だけが冴えてくる。「自分は自分」なものは、多く「技」に吸収されていく。そして、立派に人が使えるのだと思う。 年功序列な社会の予備軍だと思う。私が少し前まで頑丈だと思ってきた親の地位が、実は結構壊れやすい物だと感じた。それは、学校での友達同士の駆け引きに似ていた。 |
どんなにひねくれてみても、ささやかに楽しいひととき。意を決しきれない歯がゆさと、そんなことはお構いなしに流星のごとく振ってくる現実。いかにささやかな情事であっても、本能的に心の負担は大きいと思う。表向きと真実を使い分けられるようになり、さらに絡み合いは複雑さを増す。赤い糸が見えたらどんなに楽なことだろう。 自分のあらゆる所を見せてくれるという面で、恋は素敵だと思う。自分の汚さも、かっこ悪さも、不備な性格も。あるいは、今までになく楽しんでいる自分も、体のことを気にもしていない自分も、解らせてくれる。自分の欲望に少し従えば、自分って何なのだろう?という言葉が返ってくる。振り返らなくていいから、目の前にある義理チョコを変えてみようとすれば、また、不思議と元気が出てくるのかな? |
私がより大切にしたいと思うことのひとつは、参加することです。逃げの姿勢をとり、その場をごまかすこともできるけれど、わざわざこの貴重な時間を潰すことはないのではないかと思います。できなくてもいいから、できるだけ自分の心とともに参加していくようにしたいのです。 人に認めてもらいたいという欲望がとても強く渦巻きます。見た目などを気にしたりして、自分をよりよく見せようとします。その意気込みで乗り越そうとすることは必要です。でも、いざとなるとそれにどっぷりと浸かり夢中で表現できるような、「参加」をしていたいのです。変形したプライドが輝いている自分を見せてくれて、却ってそれがあるからできるような気持ちでいます。ある面では控えて、また別の面では欲望に身を任せて。 |
いろんなことを知ることでより罪深くなる。しかし、その罪深さは巧妙で臨機応変さに繋がっている。自分と他人の関係や、自分の欲望をいつも良好に保っていられる。欲望に関しては感覚が麻痺してくることも多いのだけど。 それには、行き詰まりを必要とする。自分の前に壁が現れなければならない。臨機応変に行動できるためには、経験が不足していてはできない。自分の前に道が用意され、それに従わねばならないといった状況では、進んでいて壁にあたらないどころか、進むのをやめてしまう。そうして巧妙なずる賢さを得ずにエゴイスティックになるのである。壁を乗り越したときの快感を知らない。教えない。自分の生きている満足感をそこで味わわないままになってしまう。本当はすぐに壊れてしまう「人」は、巧妙さを身につけて強くあれるのだと思う。 |
自分で理解のできない心の動きを抽象化して整理することで、落ち着かせることができる。あるがままを理解すると、散漫になった頭の中はそのうち耐えきれなくなるし、応用が利かない。色々なことを結びつけて、大きな根幹から派生させながら理解をしていくと、初めての場面に遭遇したときであっても融通がある程度効いて機敏に動けると思う。 違う面では、自分の考えを固めてしまう。新たな物を受け入れようとするときに、根幹だけは固持しようとする。それを壊すと昔の混沌に舞い戻るかもしれないと言う恐怖を心のどこかで感じる。しかし、突き詰めるとエンドレスになるので、根幹のもろさだけを考えればよいのかもしれない。また、時間とともに具象とのずれが生じる。変わっていく具象を認めきれないでいると、本質を見失う。 もし、できるだけグローバルな包括を求めていくならば、あらゆる知識を持ってあらゆる抽象化をし続けなければならない。そうでなくとも、自分の欲望を効率化させるために、この能力は有効だと思う。 |
全ての元気を忘れてしまっている。表面的なつき合いの虚しさや、理屈をこねた生き方の重苦しさにほとんど無気力になっている。自分の頭でやりたい(やらなければならない)と思っている事柄の四分の一もできない。今まで苦労して続けてきたことが、急に意味もなく感じてしまう。それらは、風邪という体調の悪さのせいならば良いのだが。 それでも、理屈をこねるというのは幾らか抑止しなければならないと思う。普段の淘汰しようとする心の動きに押されて、目の前のコミュニケーションが疎かになるような気がする。物事の構造というのは知らなければ何もできないし、色々と知ろうとすることは必要だと思う。でも、それは暗に心に留めておくだけしておいた方がいいのかもしれない。多くのことを考えると、多くのことが解る。しかし、体が当然のように動く銘戒は、感覚的な時間の中で自然に解っていくのではないか。自然に笑えて自然にこなせる力に憧れる。 |