4月27日

作業



ジュケンセイとは、理性も感情も捨てたロボットになることか、もしくは、飴に釣られた幼稚園児になることかもしれない。黙々と"作業"をしているとそう思うことがある。特に、意義は十分に解っているはずなのだろうけれど、自らの興味からそがれかけているものに取り組む時というのは、どうしてもきちんと座っていられない。"普通"のことなのだと、とりあえず合理化して作業を進める。

とはいうが、快感に浸る教科もある。目の輝きは押さえきれ無く、多分無駄なことなのだろうが時間を多く費やしてしまう。好きなことをする時の体の欲望は止められないものである。

意味はどこにあるのか。自分が、この難しい数学や昔の文章を読むことになんの意味があるというのか。"ジュケンセイ"の称号を与えられた者にとって、このことに一度は疑問の念を抱いたはずである。

思い返してみると、私がはじめて学んだと感じた時というのは覚えていない。忘れたどころか、自分がこの世に生物として生まれたその瞬間から、学ぶことは始まっていると思える。小さい頃はというのは、まず学ぶ量というのが半端ではないし、親や他人から教わることに関してなんの疑問も抱かなかった。それが、成長していくに連れて、親からの学ぶことへの押さえつけを認識するようになり、ちょっとした防衛機制を働かせ、学ぶことも選ぶようになっていく。だんだん、合理化の技が冴えてくる。嫌なことも小手先で済ませてしまえるようになっているのだ。

そんな中で、自分の"好きなもの"とも出会っている。自分の好きなことをするというのは、満ちている瞬間である。嫌なことをどうにか避け好きなことをするという、逆らっていないずる賢さが増すのは当然である。

感情を割り切って直面したものを見ることはできないと思う。その上で、意味を探しても明確な答えは出てこない。人生の中で、最終的な"結果"は出てこないのだから、結果を知り得ない中で意味を探るというのは、あまり価値が無いと思う。自分を合理化する目的で、───この社会で自分のとりとめのない欲望をできるだけ開花させる目的で───意味を付け加えることには、価値があるかもしれない。



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