5月31日

対話



自分の弱さというのは、人に隠すべきものなのだろうか。自身の気弱な性格にこの問いのような思索をあてがい、試練を与え続けてきた。完璧主義の矛盾から生まれるわだかまりが、傲慢さは確固たる自分であるために必要だということを気づかせた。

自分にないものへの欲望は、気の強い前線に立つ人々への興味を駆り立てる。

それらの人々は、惜しみもない声量を発し、人一倍の頭のキレと、行動力を擁している。概して、自らの輪が大きく独創的な"自分"ができている。その自らの大きな輪の所為で他人が見えなくなりがちではあるが、間違いなく社会を先導している人々である。

私がそれらの人々に興味を駆り立てられる原因の欲望には、他人との対話(自己表徴)の快活さに惹かれているものがある。この社会で自己の確立を図るためには、他者との対話の快活さが重要な位置を占めていると思う。人間の理性がある限り、社会での自分の状態を認知できる意味で、対話は自分らしくあるための必要条件である。

しかし現代では、対話の方法が多様化し、その相互には不干渉なものが多い。そのために、小さな範囲でしか自分の状態を認知できなくなる場合がある。社会への適用範囲が狭い自分では、多くの時間を引き籠もってしまう。

多くの人に受け入れられるような自己を確立するためには、それらの人に共通な基本概念に則る対話が必要である。その上で傲慢で積極的な心構えによる、人それぞれに合った自己主張が必要となるのである。



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