12月1日

男性の責任



 男性は女性よりも「責任」を多く負うことになるのか。「責任」という言葉は身を縛る原因だ。人は一人では生きていけなく、周りの大勢の人達に囲まれてやっと生きていける。そのために、一人の人間にたくさんの「責任」が生じる。しかし、今の社会では男女の責任の差が多分にあるように思う。

 産んだ子供が女の子であったから、育てるのが楽だと言う親がいる。男の子が産まれた家は大変だとも言う。女の子は将来男にもらわれていくという発想なのだろうか。男の子は将来女の子を守っていく責任があるということなのだろうか。男性は就職したときに人生の半分が決まるという。結婚したときにもう半分が決まるという。その型にはまってしまえば、あとは他人からみれば責任を果たすために動く機械に見える。きっと、人の夢というのはそういうものに押し潰されていく運命なのだ。それに、ずっと耐えてこそ大人なのだろうか。

 一般的な男性にしてみれば、機械的な毎日から浮かぶ女性像というのは、毎日好きなときに寝られ、好きなときに菓子を食べられるというようにうつるのであろう。また、女性からしてみれば、出勤前の朝と疲れきった夜に毎日機械的に顔を合わすだけになっているだけの男性のことを、本当に機械に思っているのではないか。それに、主婦という立場に新しい風が吹き込むことは少ない。あまりにも波が立たない生活に憂鬱になっているようなことがあると思う。男性に対して、会社では波があるという想像のもとねたむことがあるのではないか。男女間に最低限の義務に対しての過大な権利の主張のぶつかり合いが起こりうる。波を求めてしまうのである。

 女性は男性によって使われることが良くある。セクシャルハラスメントもその一つである。男性はそれによって欲望を満たすことができるが、女性からすれば、明らかに被害を受けている。しかし、注目すべき点はここで女性には二つの選択があるということである。居直ることが可能なのだ。居直ったからといって全くのマイナスということではなく、選択的にはそれで生活することも可能になっている。その点、男性は迫害を受けたときに居直ることができない。居直ったら生活がしていけなくなる。逃げてでも、自分で資金を稼がなくてはならないのだ。一般的に男性が経済的に扶養することになっていて、「経済的な」面からして女性は受け身なのである。そこに男性は「責任」を見いだす。責任は女性を養っているのだという感覚に結びつく。しかし、人間はそれだけでは生きていけないのである。身辺を管理するという生活力も必要なのだ。この二つは互いに関係しあっているが経済力の方が重要だと男性は考えてしまうのである。これを、相互不可侵の状態でおいておく先は、互いを見えなくし互いを機械だと思いこみ家庭内離婚へと続くのである。

 そういう意味で男性の「責任」というのは、社会が作り上げた一方的な責任なのではないか。相互不可侵の壁を解体しようとしている社会ではあるけれども、二分された責任はいまだ権力構造によって社会的に認められることに段差がある。この段差はまた、女性が居直ることのできる特権を使うことをやめない限り残るものであるとも思う。

***98/1/10の非公開文章を校正して社研部部誌に投稿したものです。



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