white day

March 14, 1998

欲が激しくなる。今まで制限し隠蔽されていたものが途端に開放される気分を味わうのである。

st. valentine's day

February 14, 1998

虚心坦懐の振り。実際は虚白。過ぎて、憑かれたように虚心。次元が二三違っているような。今日、殺害された 聖valentineは愛の聖人であった。万人に対し愛を注ぎ戒律に触れ殺される。社会儀礼とは違う。酷く平和である現代では内面に病んでいる。非我とともにではなく非我を限りなく利用しようとする心である。蒼惶としてその中で自我を保つ。世渡り上手で、笑みが常になっている。焦眉の急も断然無何である。真詮を誹り面交に徹する。夢に描く錦は消極的で、足踏む事もできず、結局殻を厚くする。世の中の虚風に揉まれて行き着く先は、退化である。或いは、虚心であった方が明晰であれるのかもしれない。心を惑わす、実在の人物とだけの語らいの日だと信じてしまう。

national foundation day

February 11, 1998

空は晴れていた。それは、ずっと太古からある変わらぬ姿だと認識している。自分が晴れた空を見て、心が晴れた気分になるのは、そういう風に誰かが言い、それを自分が認めたからだ。この空がずっと変わらない太古の昔からあるというのも、認めたからそうだと言えるのだ。皆が認めあっている。地球という一星座の上の人間という、剰りにも冴えている生き物のはみなそうしてきた。その絡み合いは他の生き物よりも複雑だ。先導者、委員が認めると、以下の人達全て認めたことになる。抱える人が増えれば、より慎重さを増す。結局はなんであろうか。認め合う。目に見えない、複雑怪奇となしている。靄掛かり見通せない丘。それは、誰も好まない。しかし、見捨てれば、乱雑に生える雑草。先は常に暗い。その中を駆け抜けようとしてはいけない。さらに填っていくのみである。今信じられるのは、この心が晴れると認めた“空”だ。認め合いは、黒が濃くなっていく。十字架は何のためにあるか。承知の通りである。認め合っているだけの不安定な“国”。こんな日も、空は晴れていた。

coming-of-age day

January 15, 1998

景気づけ、である。21世紀最初に迎えて、徒党の年輩者に期待されるのであろう。多様に動け。といわれて幾多に填るわけである。改革を望んでいるのか、型に填めようとしているのか解せない。自分の間近だけは固定し安心しようとする一方、全体的には危機を感じるのである。全体的な危機は、そのうち日常まで影響される。しかし、その時になっても、覆い隠そうとしまるで身勝手なのだ。どんなに情報が早く、察知がうまく行っても殆ど、解っていると口では言っても社会の軋めきは通じない。虚栄は便佞さをエンファシスし潰滅に向かわせる。体感し得るのは結局おじさんの顔の恐怖なのである。今となってはあまりに同世代が多方向に向いていて、同調することなど不可能だ。しかし完全に変革しきれなかった先例をもとに、今この状態が世界を逆転できると信じている。実は横への根は暗黙に確実に太さを増している。

new year's day

January 1, 1998

新たな一年の始まりの日。この日に様々な人達の様々な想いが駆けめぐる。新たな息吹を感じ、今年一年の糧にする。変わり目というのは、自分の前向きな感情のタンクを給足させる。しかし、その高ぶりにイデオローグとなる。軟弱な意力しか持ち合わせていないのに、自らの渺渺とした可能性に酔う。しかし、それは三日後には記憶の彼方に追いやられているのである。何もやれないと嘆いてばかりいる。自分の無力さに気づいては嘆く。しかしそこから先は無い。偶に、動き出したものの、三日後にはすでに等閑になる有様。もう、既に現実を幾らでも離れられることのできる世。自然成長はあり得ないのか。このまま放って置いたら革まるばかりである。この、新たな光を機に小さなところから堂々と歩いて行くべきである。

new year's eve

December 31, 1997

一年間で一番終わりの日である。だれが、一年というものの始まりと終わりを決めたのだろう。有名な画家の、始点と終点が見えない絵のようであってはならないのか。それとも、エンドレスリングには、繋ぎ目がないと信じられないものなのであろうか。殆どはやはりヒトが拵えたものであり、ヒトの利益である。時が行くのを矯め直し、印を付ける。ヒトの踏んできた一直線の道には、様々な刻みがある。その中で、何人のヒトが誕生し、何人のヒトが逝去したのだろう。これこそ、エンドレスではないか。やはり、繋ぎ目は明確にするのである。ヒトは、地球が太陽の周りで円を描いてまわっていることを知っている。とにかく、無限回遊には繋ぎ目を作らないと気が済まない。ヒトの命が儚くあるように、無限であるものには毛嫌いを起こすらしい。分子の中には無限個の何かが詰まっている。それは、無限であり得るとは信じないヒトにとって、印が重要である。ヒトの感情も無限である。感情に印を付けようと、姿形を表す。神はヒトを慮り幾つもの伝説を与えた。その伝説は私達には見ることができないはずであるが、様々な形で著されている。受胎告知然り。とはいえ、結局は、出た杭は滅却される世の中であることは間違いない。こんな一夜も神に同意するのであろうか。

christmas eve

December 24, 1997

あまりにも淋しい日にしようと思っていた人達で蹲れている、繁華街。毎年のように聖歌隊が高らかに歌を奏でている中で酔っぱらったおじさん達と、小さい子供を連れた家族連れの中に、同姓集団がいる。割合的には一番多いであろう連れ合う方々も、何を見に来たのか佇んでいる。ゆっくりと立ち上げたオーケストラに乗せて、この烏合は何処に向かおうというのか。一体、何を確認しあっているのだろう。互いの心は、遥か遠い場所から既に気にしていないというのに、未練がましく追おうとしている。未知の誰にも知り得ない場所から、いや誰もが知っている場所から降誕してくる幻に向かって祈りを捧げる。諸人が挙って自分の魂と重ね合わせ、それを糧にして歩き出そうというのか。無常の世の中にとって、この一瞬の祈りでさえ有効なのか。私が理解することのできない文字列を、濫読するのは自分にとって納めがつくということなのだろうか。それが解らない。日常の軌から外れているように見える行事も、実は軌を基にした拘束であるように見える。この、違和感を抑えるためには祈らなくてはならないのか。神は私に解る言葉で説明してくれないものだろうか。少ない経験により、あまりにもかわいい疑問が世にも解らない疑問であるかもしれなかったとは、甚だ不思議である。お堅い星に向かって、鸞輿に乗り連れていけるパートナーは唯一人である。