大石ともみ詩集


その木4

 木が揺れている。その木が揺れている。芽吹いたばか
りのうぶ毛が光って、揺れている。白くかすんだ輪郭が
揺れている。葉っぱがいっせいに揺れている。朝露をは
らうように、その木が揺れている。

 木が揺れるのを見ていると、あのチェリストの言葉を
思い出す。
「バッハの無伴奏チェロ組曲をね、毎日毎日、バイブル
のように弾くんだよ」
 プレリュード、サラバンド、ジーク。繰り返し繰り返
し、ひもとく。楽器を弾くときのひとの姿は、なんて木
によく似ているんだろう。

 楽器を持たないわたしは、その木が揺れるのを見てい
る。芽吹いたばかりのうぶ毛が光って、揺れるのを見て
いる。白くかすんだ輪郭が揺れるのを見ている。葉っぱ
がいっせいに揺れるのを見ている。朝露をはらうように、
その木が揺れるのを見ている。恥ずかしそうに若葉が揺
れている。

 その地面深く、木と同じかたちをした根の姿が見えて
くる。


詩誌 aube 15号  1997 年


[ 戻る]