教育を考える

〜統合教育のすすめ〜        

2001.2.23

いきなり結論を延べよう。「教育とは、能力の向上を目指す営みである前に、子どもの人間

としての”やさしさ”や”思いやり”を深め、あたためていくところに本質がある」

 口には出さないが、誰もが実感していることであろう。これまでの日本の教育は、確かに子ど

もを利口にし、諸々の技術を身につけ、社会的地位を向上させることに役立ったが、弱い立場

にある人を侮辱し、困っている人を平気で見捨てるような人を作ってしまったということを、薄々

感じているはずである。 

 だから、様々な「17歳」事件に現われるような「人の痛み」が分からない子になってしまう。

これを是正していく為には、いわゆる健常児と障害児との統合教育を進めていくことが、望まし

い。何故そうかを述べる前に、今の日本の教育の現状について考察してみよう・・・。

  現行の学校教育では、子どもの「能力」が教師の期待した水準に早く達するか否かによって、

子ども達を序列化するばかりではないか! その最大の武器が、テストである。テストの成績が

「人間としての価値」のように思われている。

 子ども一人一人は、勝手に序列化されたくない、自分の個性や天分を伸ばしたいと願ってい

る。だから、子どもにとって必要なのは、自分に勝手な物差しを当ててくる教師ではなく、自分の

一切のありのままの姿を真っ直ぐに見て、受けとめてくれる先生なのである。

  序列化とは、差別化である。人は、差別を受けた時、最も悲しい。同じ人間であるのに、何故

自分だけがひどい仕打ちを受けないといけないのかと、憤る。この憤りは、差別を受けた人を

暗くする。そして、ついにはうっぷんが爆発する。

 みんな明るくいたいし、子どもとは本来とても目立ちたがりやの明るい存在なのである。

 みんなその子らしく、命を輝かせて生き生きと生きたい。「生きている」という生の悦びや楽し

みを存分に感じていたいのだ。

 このような教育の歪みは何処に原因があるのか。まず上げたいのは、日本の場合、明治に

スタートした学校教育が「富国強兵」の手段となってしまったことである。教育を国家の繁栄や

立身出世の手段として捉える様になってしまっていることが、悲劇の始まりである。従って、

明治以来の日本の教育は、お互いの騙しあいの醜い競争で充満し、弱い人間を踏み台にして

自分の立身と利益と快楽の追求に血道をあげるものになってしまった。

 本来教育とは、繰り返すようだが、一人一人の人間の尊厳を守り、その子の独自の取り柄を

伸ばし、生きる喜びを創造することを援助する営みのはずである。にも関わらず、親は我が子

を過酷な競争の渦中に投げ込み、我が子の才能に賭けるようになっていく。社会全体が経済

技術への貢献度によって、人間を価値づける傾向は、他方で貢献度の低いと思われる人間を

価値のないものとし、社会の片隅に押しやる事になる。

 今こそ必要なのは、出し抜きと騙しあいの人間関係から、愛と信頼の人間関係へと教育の質

を転換することである。

 能力の高低、結果の如何に関わらず、限りなく努力し、自己実現に向うことが大切にされなけ

ればならない。

 全ての子どもが望まれて生まれてきた。そして、かけがえのない存在であることを認め合える

社会にしなければならない。

 次に注意すべきは、本来個性的な一人一人の子どもを、イメージとしての「期待する像」へ向

ってつくりあげていくことが、目立つことである。教育という仕事を建築家が設計図通りに建物を

作って行く作業と混同してはいけない。人間は教育者の手で作られるものではない。子どもには

自ら成長する力があり、他の誰とも取り替えることのできない自己を実現しつつある存在である

ことを忘れてはならない。教育者ができることは、子ども自身の自己実現を援助することである。

  そして、教育の評価とは、単に出来ないことが出来るようになったということを見るのではなく、

その子なりに精一杯前向きに努力したか否かになくてはいけない。

  しかるに、富国強兵の手段としての教育からは、与えられた課題により、巧により沢山より早く

決まった答えを出す子供が要求される。

 またまた繰り返すが、このような教育からは、他人を押しのけ、出し抜き、もっぱら要領の良い

人間が出来あがってくる。また、個性のない平均的な鋳型人間が出来上がってくる。

 私たちは、これとは反対のものを目指すべきである。それは、新しい課題を自ら発見し、創造し

仲間とともにその解決に取り組む。また、その取り組みを通して、その子らしさを発揮する活動で

なければならないと思う。

 これまでのような人間を道具視した考え方がはびこると、障害児は、利用価値の低いもの、利用

するのに手間がかかる存在として、教育枠外に見捨てられてしまうことにつながる。しかし、本当に

そうなのであろうか。

 もし、真に今までの教育を見直す気があるなら、障害児の存在こそが真の教育のヒントになるの

ではないだろうか。ここに統合教育の重大な意義を見出すことができる。何よりも、今までの障害

児に対する偏見を是正していくために、障害児と直接肌をふれあう機会を作ることが必要になって

くる。障害児に対する認識不足は、特殊教育、盲学校、聾学校、養護学校などが、通常の教育の

場から切り離されていたことにも由来する。分離教育が、障害児に対する無知や誤解を助長して

きた。分離教育においては、障害児を社会の共存者として、受けとめていこうとする姿勢がみられ

ない。人々に競争に対する適応ばかり求め、落伍者を侮辱しておく社会は、けっして幸福な社会

ではないはずである。今すぐ、全ての幼稚園、保育園、小学校、中学校に障害を負っている子の

入学を当然のこととしていく。そして、社会全体が、障害児の成長を援助する体制を当然のことと

していくこと。さらには、社会が障害児の生きるよろこびを当然のこととして、配慮していくことへの

転換をしなくてはならない。

  この世に存在理由のない人間は一人もいない。しばしば言われるのは、障害者に対して、いか

にも分かったような口ぶりで、「障害に苦しみながら生き長らえることは、かえって不幸であろう」と

いうものいいである。この言い方には、社会に役に立たない人間は、無益な存在であるという思考

が隠されているのではないか。

  私たちは、全ての子どもが社会にとって、かけがえのない存在であることを再認識したい。そし

て、教育現場で統合教育を推進することで、みんなの道徳心、民主主義の思想、正しい人間観を

育成しなくてはならない。

  実際欧米では、障害児教育のレベルが、その国の文化一般のレベルを示すバロメーターとして

考えられていて、外国からの訪問者に対して、真先に障害児教育の現場を見せ、その国では、

一人も見捨てず、全ての教育の権利を保障していることを誇らしげに示すというのである。

  我が国でも、憲法第26条にうたわれている教育権を正しく理解し、全ての国民がその能力に

応じて、等しく教育を受ける権利を確保していかなくてはいけない。そしてまた、この憲法の精神を

具現化するための教育基本法第3条の教育の機会均等の規定や、第10条の諸条件の整備の

規定も正しく理解される必要がある。

  憲法や教育基本法の「能力に応じて」の「能力」とは、一人一人の子どもの個性のことに他なら

ず、「応じて」とは、その個性をかけがえのないものとして尊重しつつ、ということである。けっして、

何かに役立つかどうかということで、差別化、序列化することは意味しない。

  このように考えるならば、教育が障害を持つという理由で、半減、歪曲、剥奪されてはならない

し、そうなることは、障害児の生存そのものを否定することにつながる。むしろ、「他のものより恵ま

れないものは、それゆえにそれだけ教育を受ける権利がある」と、捉えるべきであろう。

  障害児こそ、教育の権利が十分保障されるべきである。

  教育は、子どもたちの人間としての「やさしさ」や「思いやり」を深めていくことに本質を見出すな

ら、統合教育は不可欠である。障害児と共にくらすことで、他の子ども達も弱い仲間をいたわること

を覚える。社会には、弱者が存在し、それを助ける義務が人間にはあることを学ぶからである。

  最後に更にくりかえす。

  強者がのさばる社会は、人間本来の目指す社会からは程遠く、むしろ、野獣の世界である。

事実、現代社会において、競争に勝つはずの人間がいつもイライラしている。彼らは、いつ他の

強者と決戦しなくてはならないかとたえず緊張している。又、いつ敗者となって、人々の軽蔑の対象

におちいってしまいはしないかと、不安に怯えている。

  だがしかし、障害児教育の現場は、ほのぼのと温かい。他者との能力の比較で人間を序列化

し、強者が弱者をしいたげる姿はない。相手を騙すとか、落としいれようというはしたない人もいな

い。まさに、障害児こそ、もって生まれた個性や天分をおおらかに開花させうるのである。