☆秋の七草(あきのななくさ) 秋の代表的な七種類の草花。ハギ・オバナ〔=ススキ〕・クズ・ナデシコ・オミナエシ・フジバカマ・キキョウ。 ⇒春の七草 ☆明智光秀(あけちみつひで/1528-1582) 戦国・安土桃山時代の武将。美濃(みの)の生まれ。通称、十兵衛(じゅうべい)。日向守(ひゅうがのかみ)。近江坂本(おうみさかもと)城主。 織田信長(おだのぶなが)に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺(ほんのうじ)に信長を襲い自害させた。 同13日、山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、逃走中土民に殺された。 これを俗に「三日天下(みっかてんか)」と呼ぶ。 ☆朝比奈泰彦(あさひなやすひこ/1881-1975) 有機化学者、薬学者。東京生れ。東京帝国大学名誉教授。 1905(明治38)東京大学薬学科卒業し、植物成分の分離、構造決定に多くの成果をあげた。 1909(明治42)ヨーロッパ 留学。帰国後、東京大学教授。漢薬の化学成分を研究。 1923(大正12)学士院賞、受賞。1930(昭和 5)ビタカンファーを発見。 地衣類その他各種植物の成分を研究し、分類学的研究に業績をあげる。 1943(昭和18)文化勲章、受章。著書は『地衣研究』など。 ☆足利尊氏(あしかがたかうじ/1305-1358) 室町幕府の初代将軍(在職 1338-1358)。初名は高氏。 元弘の乱(1331)で建武の中興(けんむのちゅうこう)のきっかけをつくる働きをし、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の諱(いみな)尊治の一字を賜り改名。 のち天皇にそむき、1336年光明天皇を擁立し、室町幕府を開いて南朝と対立した。 夢窓疎石(むそうそせき)に帰依し、天竜寺などを建立。 ☆足利義昭(あしかがよしあき/1537-1597) 室町幕府一五代将軍(在職 1568-1573)。義晴(よしはる)の子。1568年、織田信長(おだのぶなが)に擁されて将軍となる。 のち不和を生じ信長を討とうとしたが、73年京都を追われ、幕府は滅亡した。 ☆足利義満(あしかがよしみつ) (1358-1408) 室町幕府三代将軍(在職 1368-1394)。義詮(よしあきら)の子。法号は鹿苑院(ろくおんいん)。 1378年室町殿(むろまちどの)を造営。92年南北朝合一を成しとげ、有力守護大名を抑えて幕府権力を確立し、94年将軍職を義持(よしもち)に譲る。 97年北山に金閣寺(きんかくじ)を建て、北山殿(きたやまどの)と呼ばれた。1401年明(みん)に入貢、貿易につとめた。 ☆敦盛(あつもり) (1)人名。平敦盛(たいらのあつもり)。 (2)能(のう)の曲名。二番目物。世阿弥(ぜあみ)作。 熊谷直実(くまがいなおざね)が出家して、手にかけた平敦盛の菩提(ぼだい)を弔うため一ノ谷におもむき回向(えこう)していると、敦盛の亡霊が夢に現れ、一門の没落を嘆きわが身の最期を語り、供養を謝して去る。 (3)幸若舞(こうわかまい)の一。熊谷直実(くまがいなおざね)が平敦盛を討ち、出家に至るまでを脚色したもの。 能(のう)の「敦盛」とともに浄瑠璃(じょうるり)・歌舞伎(かぶき)の素材となった。 ☆アリストテレス(Aristoteles/前384-前322) 古代ギリシャの哲学者。プラトンの弟子。アレクサンドロス大王の師。アテネ郊外に学園リュケイオンを創設。 その学徒は逍遥学派(しょうようがくは)(ペリパトス学派)と呼ばれる。 プラトンのイデア論を批判し、形相(エイドス)は現実の個物において内在・実現されるとし、あらゆる存在を説明する古代で最大の学的体系を立てた。 中世スコラ哲学をはじめ、後世の学問への影響は大きい。 主な著作に、後世「オルガノン」と総称される論理学関係の諸著書、自然学関係の「動物誌」「自然学」、存在自体を問う「形而上学」、実践学に関する「ニコマコス倫理学」「政治学」、カタルシスを説く「詩学」などがある。 ☆アレクサンドロス(Aleksandros/前356-前323) マケドニアの国王(在位:前336-前323)。フィリッポス二世の子。遠征軍を率いてペルシャを滅ぼし、インドのパンジャブ地方まで進出。 ギリシャとオリエントを含む空前の大帝国を建設し、東西文化の融合を図りヘレニズムの下地を作る。 凱旋(がいせん)後急逝し、帝国は分裂した。アレキサンダー大王。 ☆飯沼慾斎(いいぬまよくさい1783〜1865) 近代植物学の開拓者、蘭学医・化学者・植物学者。 天明三年(1783)、三重県亀山市の西村守安の次男に生まれ、大垣の医師飯沼長顕に学び、さらに京都の福井丹後守に入門、学成って大垣で開業し、長顕の嫡女・志保と結婚し、嗣子となった。 文化元年本草学の大家小野蘭山に入門。これが植物学研究の発端となった。 文化三年宇田川榛斎に入門し、文化十二年大垣に戻り、再び医業に当たった。また文政十二年十二月二十六、二十七日の両日、弟子の浅野恒進と今村葬所(現大垣市本今町)で刑屍体の解剖を行っている。これが岐阜県下では最初の人体解剖である。 天保三年(1832)五十歳で家業を義弟に譲り、自らは大垣郊外長松に別荘「平林荘」を築いて、植物学の研究・著述に没頭した。慾斎の調査・研究活動は徹底しており、自ら伊吹山、白山、御岳をはじめ、富山県、愛知県、三重県、和歌山県の山地奥深くに入って、植物を採集し、野山から帰るとそれらを1本1本手に取り、大きさや形、色合いはもちろんのこと、花の中まで綿密に観察し、肉眼で見えない所まで顕微鏡を覗きながら写生した。 著書には「草木図説」(草部前編二十巻、木部後編十巻)があるが、これは本邦最初のリンネ分類法の植物図鑑である。草部は彼の在世中の安政三年(1856)から文久二年(1862)にかけて全二十巻版行され、木部は昭和五十二年に出版された。 墓は大垣市安江町の縁覚寺にあり、大垣公園に顕彰碑が建っている。また生誕二百年を記念して解剖記念碑が建てられた。 ☆池野成一郎(いけのせいいちろう/1866-1943) 植物学者。東京生まれ。帝国大学農科大学教授。 帝国大学理科大学植物学教室の初期の卒業生であり、1896年(明治29)ソテツの精子(せいし)を発見したが、当時の職は農科大学助教授であった。 種子植物とシダ植物の類縁を明確にし、植物分類学に貢献。 ローマ字論者で「実験遺伝学」をローマ字で著す。 ☆伊藤圭介(いとうけいすけ/1803-1901) 日本における近代植物学の祖、江戸から明治の自然科学を拓いた人。 江戸の末期には蘭方医・本草学者・洋学者として、明治に入ると植物学・物産学の分野で活躍。 町医者西山玄道の次男として、名古屋の呉服町に生まれ、初めは漢方であったが後には蘭方に転じて、種痘(しゅとう)の導入やコレラの予防・治療などに努めた。 本草学(ほんそうがく)は水谷豊文を盟主とする尾張学派の伝統を継承して、植物・動物・鉱物の観察と実験の共同研究をすすめ、当時の日本で最高の科学的成果をあげた。 蘭学では、吉雄常三にオランダ語と蘭方医学を学び、またシーボルト(1796-1866)に西洋植物学を学んで、トゥーンベリの『日本植物志』を翻訳注解して『泰西本草名疎』を刊行した。 明治維新後は、植物園・博物館・博覧会の創始や、植物学会・学士会・洋々社の事業に参画した。 明治元年(1868年)、廃藩置県の際、蘭法医学の必要を強調、愛知県に対し、同志と共に西洋医学を講ずる学校の開設を建議し、これが容れられ名古屋藩の元評定所に初めて医学校が創設された。 これが今日の名古屋大学の濫觴(らんしょう)となる。 明治14年(1881)、79歳で東京大教授になり、わが国最初の理学博士の学位も受けた。 田中芳男(たなかよしお/1838-1916)の師でもある。死に臨んで、学者として初の男爵を授けられた。 ☆伊東玄朴(いとうげんぼく/1800-1871) 幕末の蘭方医。肥前の人。名は淵。シーボルトに学ぶ。江戸で医業のかたわら、象先堂塾で門人を養成。 神田に種痘所を創設し、のち、その後身の医学所取締となる。著「医療正始」など。 ☆いね=楠本いね(くすもと−) ☆今川義元(いまがわよしもと/1519-1560) 戦国時代(1467〜1568)の大名。駿河(するが)・遠江(とおとうみ)・三河(みかわ)を治め、京都進出を謀ったが、桶狭間(おけはざま)の戦いで織田信長 (おだのぶなが/1534-1582)の奇襲を受け、敗死した。 ☆今西錦司(いまにしきんじ/1902-1992) 生物学者。京都府生まれ。京大教授。岐阜大学学長。1949年(昭和24)棲み分け理論を提唱。のちに哺乳類の生物社会学研究に着手。霊長類の研究を進めた。 ⇒棲み分け(すみわけ) ☆岩崎潅園(いわさきかえん) 江戸時代を代表する植物学者、本草学者。 著書「本草図譜(ほんそうずふ)」は、日本で最初の一大植物図譜。96巻92冊からなる(巻5から始まり巻96で終わっている)。岩崎潅園が直接目にした草木を写生し彩色した図に簡潔な解説が付記されており、特に図が科学的で彩色が美しい。全体の構成は本草綱目の分類によっている。本書には野生種のみでなく園芸品種の草木も含まれ、約2,000種が掲載されている。ほとんどが著者の自園で鉢植えされたもので、20余年の歳月を費やし文政11年(1828)に完成した。 本書の刻本は巻5〜10の6冊のみで、他は全て原本を画家に模写させた写本で、予約者のみに配本された。配本は文政13年(1830)に開始され、弘化元年(1844)に終了した。この間、天保13年(1842)に著者が病死したため、巻55以下は著者の息子信正と門人小山広孝により配本が行われた。伝本は写本が多く、本学所蔵資料も写本である。本来92冊からなるが、本学所蔵資料は71巻以降が14冊にまとめられているため、全80冊となっている。 他に草木育草(そうもくそだてぐさ/1818)など。 ☆右方高麗楽(うほうこまがく) 雅楽(ががく)の曲目分類用語。左方唐楽(さほうとうがく)に対をなし、雅楽の器楽曲(狭義の雅楽)を二大分する。 現行の右方高麗楽(うほうこまがく)の曲はすべて舞楽(器楽合奏と舞)で、篳篥(ひちりき)・高麗笛・三ノ鼓(さんのつづみ)・鉦鼓(しようこ)・太鼓の五種類の楽器を用いる。 古代に伝来した各種の外来楽が日本風に整理された結果の分類名称で、それ以前の三韓楽(新羅(しらぎ)楽・百済楽・高麗楽)と渤海(ぼつかい)楽がこれに含められた。右楽(うがく)。 高麗楽(こまがく)。 ☆宇田川榕庵(うだがわようあん/1798-1846) 宇田川榕菴(うだがわ・ようあん1798-1846)江戸幕末の蘭医。大垣藩医江沢養樹の長男で、宇田川玄真の養子。 美作国(みまさかのくに=岡山県北東)津山藩医。シーボルトから譲られた植物書を独力で判読し、『植学啓原(1833年)』を著す。 また、西洋音楽理論や音声学など蘭学研究の範囲は広く、コーヒーを日本に紹介したりもしている。 多数の訳書により西欧の化学・薬学・生物学の紹介をするとともに「厚生新編」の訳業にも参加し昆虫学の分野を担当。 幕府天文台の翻訳員としてショメール百科事典などの蘭書の翻訳にも参加し、日本最初の化学書『舎密開宗(せいみかいそう)(1837年)』を著す。 シーボルトが江戸参府の折(2回目の来日)には西洋学術について質疑するなど親しく交流。 日本における近代科学の確立に多大な貢献を果たした。 ☆エイサー・グレイ(Asa Gray/1810-1888) 東アジアと北米東部の植物相に共通性があることを提唱した米国の植物学者。 ハーバード大学の教授であったグレイは,奇しくも同じ年に出版されたダーウィンの『種の起源』をアメリカでいちはやく認め、賛意を表したことでも有名。 アメリカ合衆国艦隊ペリーの遠征記録はアメリカ合衆国政府によって『ペリー日本遠征記』として1856(安政3)年に出版されたが、グレイ(Asa Gray)はその報告書中に彼らが採集した植物標本の分類研究の結果として多数の新植物を報告した。 また宮部金吾(みやべきんご)はグレイの知遇を得て、ハーバード大学に留学し『千島植物誌』を完成させた。 サンカヨウDiphylleia grayiにその名を見ることができる。 ☆遠藤吉三郎(1874‐1921) 海産植物学、藻類学者。東京帝国大学理学部卒。北海道帝国大学農学部教授。岡村金太郎と並び日本藻類学の創始者一人であり、函館に生家やお墓がある。 大正5年には、ノルウェーに留学していた北大水産学科の遠藤吉三郎教授が新しいスキー(ノルウェースキー)とスキー理論を持ち帰り、両杖スキー技術の軽快さを紹介した。 その後、2本杖のノルウェー式が流行し、この頃から、一本杖から両杖の時代へと変化していった。さらにはスキーは山野を走ることができるという考えが発展してジャンプ競技へと成長した。 著書に「莫語花」(1909裳華房,東京)、「海産植物学」(1911博文館,東京)など。 ☆大井次三郎(おおいじさぶろう/1905-1977) カヤツリグサ科を専門とする植物分類学者。 1953(昭和28)年、それまでに知られていた日本の植物を網羅した「日本植物誌」を著した。 1969(昭和44)年、千葉県に固有な植物として知られるアワチドリをウチョウランの変種として見出したのが大井氏である。 ☆大村益次郎(おおむらますじろう/1824-1869) 陸軍の創立者。周防(すおう)の人。一時、村田蔵六と称した。 適塾(てきじゅく)で蘭学を修め医師となる。 のち長州藩で兵学を講じ、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では官軍を指揮して彰義隊(しょうぎたい)を討伐。 1869年(明治2)兵部大輔(たいふ)となり、兵制の近代化に尽力したが、同年守旧派に襲われ死去。 ☆岡研介(おかけんかい/1799-1839) 江戸後期の蘭方医。周防の人。 名は精、字(あざな)は子究、号は周東。研介は通称。 漢学を広瀬淡窓(ひろせたんそう/1782-1856)に、蘭学・医学をシーボルトに学び、大坂で開業。著「生機論」「蘭説養生録」など。 ☆織田信長(おだのぶなが/1534-1582) 戦国時代(1467〜1568)の武将。信秀の三男。 1560年、今川義元(いまがわよしもと)を桶狭間(おけはざま)に破って勢威をつけ、以後諸群雄を攻め従え、73年将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放し室町幕府(むろまちばくふ/1336〜1573)を滅亡させた。 安土城(あづちじょう)を築いて全国統一に乗り出す。寺社など中世的権威を破壊する一方、貿易の奨励、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)の設置など革新的諸事業を断行したが、雄図 (ゆうと)半ばで明智光秀(あけちみつひで)の急襲を受け、本能寺(ほんのうじ)で自刃(じじん)。 ☆小野小町(おののこまち) 平安前期の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。 伝未詳。恋愛歌で知られ、古今和歌集をはじめ勅撰集に六二首が入る。 絶世の美女とされ伝説も多く、謡曲・御伽草子(おとぎぞうし)・浄瑠璃(じょうるり)などの題材となった。家集「小町集」 ☆小野蘭山(おのらんざん/1729-1810) 江戸後期の本草学者。京都生まれ。本姓、佐伯。名は職博(もとひろ)。通称、喜内。 松岡恕庵に本草学(ほんそうがく)を学ぶ。 薬用にとらわれず、日本産の動植鉱物を実証的かつ網羅的に研究整理し、江戸時代の本草学を大成。シーボルトにより「東洋のリンネ」と称される。 ☆オングストレーム(Anders Jonas Ångström/1814-1874) スウェーデンの物理学者。太陽大気中に水素の存在を発見。太陽スペクトル図を完成するなどスペクトル分析の研究に貢献した。 ☆Å(オングストローム/angstrom) 長さの補助単位。10の−10乗=百億分の1メートル。電磁波の波長測定や、原子物理学・結晶学・分子学などで用いる。 記号 Å または A で表す。スウェーデンの物理学者オングストレームの名にちなむ。
☆疥癬(かいせん) 疥癬(かいせん)虫の寄生によっておこる伝染性皮膚病。 かゆみが激しい。指の間・わきの下・陰部など皮膚の柔らかい部分を冒す。皮癬(ひぜん)。湿瘡(しつそう)。 ☆禾本科(かほん) イネ科の旧称。 ☆雅楽(ががく) 雅正の楽の意。奈良時代に朝鮮や中国などから伝来した音楽、およびそれに伴う舞。また、それを模倣して日本で作られたもの。 右楽(うがく)(右方高麗楽/うほうこまがく)と左楽(さがく)(左方唐楽/さほうとうがく)に大別される。 舞を伴わないものを管弦、舞のあるものを舞楽(ぶがく)という。神楽・東遊(あずまあそ)び・久米舞(くめまい)・催馬楽(さいばら)・朗詠などを含めてもいう。 宮廷音楽として平安時代に栄え、寺社でも演奏された。正楽(せいがく)。 ☆襲装束(かさねしょうぞく) 舞楽(ぶがく)で主に文の舞(ぶんのまい)に用いる装束。鳥兜(とりかぶと)・袍(ほう)・半臂(はんぴ)・下襲・表袴(うえのはかま)・忘れ緒・石帯・糸鞋(しがい)などをつける。平舞装束(ひらまいしょうぞく)。常装束(つねしょうぞく)。かさねそうぞく。 ☆歌舞伎(かぶき) 江戸時代に大成した日本の代表的演劇。慶長(1596-1615)頃の阿国(おくに)歌舞伎に始まり、若衆歌舞伎を経て元禄期(1688-1704)に劇的要素を主とする演劇に発展した。 女優の代わりに女形を使い、また舞踊劇・音楽劇などの要素をも含む演劇。歌舞伎芝居。歌舞伎劇。 ☆紙 植物の繊維を水中で密にからみ合わせ、薄く平面状にのばして乾燥したもの。中国、後漢の蔡倫(さいりん)がその製法を発明したといわれる。 絵や文字を書いたり、物を包んだり、障子や襖(ふすま)に貼ったりするのに用いる。 和紙(Japanese paper)は日本古来の製法による紙。コウゾ・ミツマタ・ガンピなどの靭皮(じんぴ)繊維を原料として、手漉(す)きによって作られる。 鳥の子紙(とりのこし)・奉書紙(ほうしょがみ)・檀紙(だんし)など。強く、吸湿性に富み、工芸用にも使用される。わがみ。 洋紙(Western‐style paper)は木材パルプなどを原料とし、これをくだいて溶かし、サイズ剤・填料(てんりよう)・色素などを加え、抄紙機(紙漉(かみす)き機)で機械的に仕上げる。 最近は合成繊維からも作られるようになった。 ☆カルビン(Melvin Calvin/1911- ) アメリカの生化学者。光合成(こうごうせい)における暗反応(あんはんのう)の機構を解明。生命の起源の化学的過程(化学進化)についても論じる。 ☆ガン(cancer) 悪性腫瘍。一般には悪性腫瘍をさしていう。 ☆観阿弥(かんあみ) (1333-1384) 南北朝時代の能役者・能作者。名は清次(きよつぐ)。芸名、観世。法名、観阿弥陀仏(観阿弥・観阿)。世阿弥(ぜあみ)の父。大和の人。 猿楽大和四座の一つ結崎(ゆうざき)座(のちの観世座)の始祖とされるが、異説もある。足利義満(あしかがよしみつ)の後援を得て能の質的向上を図る。 近江猿楽や田楽(でんがく)の長所を摂取して幽玄な芸風をうち出し、曲舞(くせまい)を取り入れて謡を改革した。作品「自然居士」「卒都婆小町」など。 ☆宦官(かんがん) 去勢された男子で貴族や宮廷に仕えた者。古代オリエント・ギリシャ・ローマ・イスラム世界にみられ、中国では春秋戦国時代に現れてしばしば権力を握り、後漢・唐・明の滅亡の一因をなした。宦者。 □寺(こんじ)。寺人。閹官(えんかん)。刑余。 ☆鹹水(かんすい) 塩分を多量に含んだ水。塩からい水。海の水。 ☆乾酪変性(かんらくへんせい) 壊死(えし)の一種。結核性の病巣に多く見られる病変で、組織が乾燥しチーズ状になるもの。 ☆橄欖(かんらん) カンラン科の常緑高木。インドシナ原産。葉は羽状複葉。 春、葉腋に白色小花を円錐状につける。果実は卵形の核果で、白緑色に熟し食用になる。 種子を欖仁(らんにん)といい、油を採るほか、数珠を作る。ウオノホネヌキ。 ☆距骨(きょこつ) かかと付近にある七個の足根骨(そっこんこつ)の一 ☆ギリシャ神話 古代ギリシャ民族が生み出した神話・伝説の総称。ホメロス・ヘシオドスらによって大綱が与えられ、ローマ帝政期に体系化が行われた。 天地創造、主神ゼウスおよびオリンポスの神々の神話、ヘラクレス・オデュッセウスらの英雄伝説などからなり、西欧文化に広く深い影響を及ぼしている。 ☆金閣寺(きんかくじ) 京都市北区にある鹿苑寺(ろくおんじ)の舎利殿(しゃりでん)の通称。臨済宗相国寺派の寺。山号は北山。寺内に金閣のあることからこの名がある。 西園寺公経(さいおんじきんつね)の別邸を足利義満(あしかがよしみつ)が譲りうけ、1398年頃には豪華な山荘として完成したが、その死後、遺命により夢窓疎石(むそうそせき)を勧請開山とし、禅宗の寺院とされた。 宝形(ほうぎょう)造りの楼閣で、下から寝殿造りの法水院、武家造りの潮音閣、唐様の究竟(きゅうきょう)頂の三層からなる。 内外に金箔(きんぱく)が貼られていた。1950年(昭和25)に焼失したが55年再建。 ☆草野俊助(くさのしゅんすけ/1874-1962) 理学博士。粘菌学者。相馬市名誉市民。福島県相馬市坪田に生まれ、東大理学部卒業後、ドイツ、イタリア、アメリカに留学。帰国後、東大教授、同名誉教授になり、昭和21年日本学士院会員になる。 草野コレクション(変形菌約200点)とは、東京帝国大学に在学・在職中、小石川植物園や駒場農場で採集した変形菌標本。 これらは、日本人により初めて本格的に採集された日本産変形菌標本であり、1904年にイギリスの A.リスターによって発表された日本産変形菌第1報に引用された標本の重複標本を含んでいる。 ☆楠本いね(くすもと−/1827-1903) 日本最初の西洋女医、父親は長崎出島のオランダ商館医・シーボルト。 遊女・其扇(そのぎ)(本名・たき)との間に生まれた。 誕生の翌年、シーボルトはスパイ容疑で国外追放(シーボルト事件)。 たきは、いねを連れて再婚。いねは医学を志し、10代半ばからポルトガル語を学んだ。 のちに明治三年、江戸から呼び名が変わった東京築地で西洋産科医院を開業。 宮中御殿医にもなるなど、新時代にふさわしい医術の腕をふるって「オランダおいね」と名声を馳せた。 ☆軛(くびき) 車の轅(ながえ)の先端につけて、車を引く牛馬の頸の後ろにかける横木。 ☆熊谷直実(くまがいなおざね/熊谷次郎直実) (1141-1208)鎌倉初期の武将。武蔵国熊谷の人。通称二郎。石橋山の合戦(1180年)では平家方だったが、のち源頼朝(みなもとのよりとも/1147-1199)に仕え、一ノ谷で平敦盛(たいらのあつもり)を討った。 久下直光と所領を争い敗れて出家(しゅっけ)、法然(ほうねん/1133-1212)の門に入った。法号蓮生。 クマガイソウ(ラン科アツモリソウ属)は、同種でよく似たアツモリソウに比べ、花色が地味で性質が強剛なことから、平敦盛 (たいらのあつもり)を討ち取ったむくつけき板東武者の熊谷直実をこれになぞらえて花名とした。 ☆クリック(Francis Harry Compton Crick/1916- ) イギリスの分子生物学者。ワトソンと共同でDNAの二重螺旋(らせん)分子構造モデルを提出。 ☆鍬形(くわがた) 〔古代鍬の形に似ているからとも、また、先端の形状が慈姑(くわい)の葉に似ているからともいう〕兜(かぶと)の前立物(まえだてもの)の一。 眉庇(まびさし)につけた台に、金銅(こんどう)・銀銅・練り革などで作った二枚の板を挿して、角(つの)状に立てたもの。平安時代から行われた。 ☆桂皮(けいひ) クスノキ科カシア(東京(トンキン/現在ハノイの肉桂)の樹・枝の皮をはいで干したもの。日本では肉桂(にっけい)の樹皮・根皮をはいで干したものをいう。 古来生薬として、健胃・発汗・解熱・鎮痛などに用いる。 ☆ケチュア語(Quechuan) ラテンアメリカ-インディアン語ケチュマラ大語族に属する言語。コロンビア南部・ペルー・エクアドル・ボリビア・アルゼンチン・チリに分布する。かつてのインカ帝国の言語。さらに10以上の小言語に分けられる。放出音をもつ。 ☆ケルト(Celt) インド-ヨーロッパ語族に属する民族。紀元前ヨーロッパに広く分布、前五〜一世紀に活躍したが、ゲルマン・ローマの発展により衰退。現在はアイルランド・ウェールズを構成する主要民族。 ☆ケルト語 インド-ヨーロッパ語族に属する一語派。紀元前にはヨーロッパ中・西部に広く分布。現在は限られた地域に残存する。アイルランド語・ブルトン語・ウェールズ語など。 ☆合成繊維(ごうせいせんい) 化学繊維の一。合成高分子化合物を、種々の方法で紡いで繊維としたもの。 ナイロン(nylon)・ポリエステル(polyester)・ビニロン(Vinylon)など。人造繊維。合繊。 ☆幸若舞(こうわかまい) 主として室町時代(1336〜1573)に流行した舞曲(ぶきょく)。 桃井(もものい)直詮(幼名、幸若丸)の創始という。語りを主とし、扇拍子・小鼓・笛などの音曲に合わせて舞う。曲舞(くせまい)の一種で、曲節は声明(しようみよう)・平曲・宴曲を融合したもの。 軍記物語に題材をとり、戦国武将が愛好した。大頭(だいがしら)・笠屋(かさや)の流がある。現在は福岡県山門郡瀬高町大江に残るのみ。幸若。舞。舞舞。 ☆郡場寛(こおりばひろし/1882-1957) 世界的植物生態学者。青森県出身。元弘前(ひろさき)大学学長。 青森市栄町出生 。世界的植物学者。1907年東京帝国大学植物学科卒業。 青森県文化財保護協会の初代会長。著書は「植物の生態」「植物生理、生態」など。 ☆後醍醐天皇(ごだいごてんのう/1288-1339) 第96代天皇(在位 1318-1339)。名は尊治。後宇多(ごうだ)天皇の皇子(おうじ)。親政(しんせい)を企てて正中の変(1324)・元弘の変(1331)に敗れ、隠岐(おき)に流された。 1333年脱出し、新田義貞(にったよしさだ)・足利尊氏(あしかがたかうじ)らの支援で鎌倉幕府を滅ぼして建武(けんむ)新政権を樹立。 のち公武の不和から親政は失敗し、尊氏らも離反、36年吉野に移り南朝(なんちょう)を立てた。
☆西園寺公経(さいおんじきんつね/1171-1244) 鎌倉前期の公卿(くぎょう)。藤原氏。承久(じょうきゅう)の乱(1221年)後、内大臣、太政大臣。京都北山の別荘に西園寺を建立、これが家名となる。 歌人としては新古今和歌集以下の勅撰集に114首入集。 ☆蔡倫(さいりん) (?-107) 中国、後漢中期の宦官(かんがん)。字(あざな)は敬仲。樹皮・麻くず・魚網などを材料に初めて紙を作り、和帝に献じたという。 ☆佐々成政(さっさなりまさ/?-1588) 安土桃山(あづちももやま)時代の武将。尾張の人。織田信長(おだのぶなが)に仕えて越中富山を領す。小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い (1584)では豊臣秀吉(とよとみひでよし)と戦って敗れ、降伏。秀吉の九州平定後、肥後に封じられたが、一揆(いっき)を鎮圧できず、責めを問われて切腹。 「クロユリ伝説」の主人公として「百花物語」にも登場、 浜松城にいた徳川家康(とくがわいえやす)に逢うため、厳冬の「サラサラ越え」は史実としてあまりにも有名。 ☆札幌農学校(さっぽろのうがっこう) 北海道大学の前身。1872年(明治5)、ケプロンの建策により東京芝に開拓使仮学校として開校。75年札幌に移転。翌年札幌農学校となる。 初代教頭クラーク(William Smith Clark/1826-1886)のキリスト教精神の感化を受け、内村鑑三(うちむらかんぞう/1861-1930)・新渡戸稲造(にとべいなぞう/1862-1933)・宮部金吾ら多くの人材を出した。 ☆左方唐楽(さほうとうがく) 雅楽(ががく)の曲目分類用語。右方高麗楽(うほうこまがく)と対をなし、雅楽の器楽曲(狭義の雅楽)を二大分する。 現行の左方唐楽(さほうとうがく)には管弦(器楽合奏のみ)と舞楽(ぶがく)(器楽合奏と舞)の二様式があり、前者には笙(しよう)・篳篥(ひちりき)・竜笛(りゆうてき)・琵琶(びわ)・箏(そう)・羯鼓(かつこ)・鉦鼓(しようこ)・太鼓の八種類の楽器を用い、後者には琵琶・箏を除く六種類を用いる。 古代に伝来した各種外来楽が九世紀に、日本的に整理された結果の分類であり、それ以前の唐楽と林邑(りんゆう)楽がこれに含められた。左楽。唐楽。 ☆左舞(さまい) 雅楽(ががく)の左方唐楽(とうがく)の舞。左方の舞楽(ぶがく)。 装束(しょうぞく)には主に赤系統の色を用い、舞人(まいびと、ぶにん)は舞台の左方から登退場する。さぶ。 ⇔右舞(うまい) ☆式楽(しきがく) 儀式に用いられる音楽や舞踊(ぶとう)。能楽(のうがく)=能(のう)は徳川幕府の式楽(しきがく)であった。 ☆紫宸殿(ししいでん) 内裏(だいり)の正殿。南面して建つ入母屋(いりもや)造り檜皮葺(ひわだぶ)きの建物。 正面九間の母屋の四方に廂(ひさし)を設け、母屋と北廂の間に賢聖障子(けんじようのそうじ)を入れる。 もと日常の政務を議する所であったが、大極殿(だいごくでん)焼失後は即位などの儀式も行うようになった。 南殿(なでん)。前殿。現在の京都御所のものは1855年の造営。 ☆紫石英(しせきえい) 紫水晶(むらさきずいしよう)の別名。 ☆シーボルツ・チルドレン シーボルトが江戸時代に日本からオランダに持ち帰った植物のうち、オランダのライデン大学付属植物園(ホルタス・ボタニクス)に現在も生きつづけている大木(シーボルト・ツリーと呼ぶ)の子供たちのこと。 つまり、種子から育った苗木です。ツタ、フジ、ケヤキ、イロハモミジ、アケビ、オニグルミの6種が同植物園から国立歴史民俗博物館に寄贈され。 とくにアケビは、シーボルト・ツリーのシンボルにされている。同植物園には13種15本のシーボルト・ツリーがあるが、その約半数が贈られたことになる。 ☆柴田桂太(しばたけいた1877-1949) 植物学者。東京生まれ。 東大教授。資源科学研究所長。植物生理化学の基礎を築く。 ☆シーボルト(Philipp Franz von Siebold/1796-1866) ドイツの医者・博物学者。1823年オランダ商館医官として来日。 長崎の鳴滝塾(なるたきじゅく)で診療と教育を行い、多くの俊秀を集めた。高野長英(たかのちょうえい)、伊藤玄朴(いとうげんぼく)、高良斎、二宮敬作(にのみやけいさく)ら多数の日本人を蘭学者に育てた。 28年離日の際、日本地図の海外持ち出しが発覚、国外追放となる(シーボルト事件)。59年再来日。 長崎に滞在中にできた娘(楠本いね)は、のちに日本最初の西洋女医になった。 著「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」など。 シーボルトが日本で調査・研究した分野は、宗教、政治、習慣、法律、地理、農業、音楽、美術、風俗、言語、民族、鉱物、動物、植物、薬草、医学、歴史、日蘭貿易、日本の周辺地域など多岐にわたる。 また、シーボルトが日本で収拾し、持ち帰ったものには、工具、調度品、硬貨、衣料品、楽器、漆器、陶磁器、生活用品、書物、地図、玩具、植物、動物標本、絵画、彫刻品、論文、面、武具、武器、アイヌ関係品など160種類にものぼる。 ☆シーボルト事件(1828年) 洋学者(蘭学者)に対する弾圧事件。 シーボルトが、任期を終え、1828年秋に帰国する際に、幕府天文方の高橋景保らから手に入れた日本略図や、蝦夷地図、葵の紋服などをオランダに持ち出そうとしたことが発覚。 シーボルトは国外追放、再来日禁止の処分を受け、高橋景保は死罪、そのほかにもオランダ通詞や高良斎、二宮敬作(にのみやけいさく)らシーボルト関係者二十三人が入牢、洋学者など多数が処罰された。 ☆沙参(しゃじん) 中国産トウシャジン、またはその近縁の国産ツリガネニンジンの根を乾燥した生薬。漢方用薬として、鎮咳・去痰・強壮などを目的に処方される。 ☆蛇紋岩(じゃもんがん) 蛇紋石を主成分鉱物とする岩石。超塩基性岩の一種で、造山帯に貫入岩体として出現する。 ☆蓚酸(しゅうさん) カルボキシル基二個が結合したカルボン酸。化学式 C2H2O4 普通二分子の結晶水をもつ。 水に溶けやすい。植物界にカルシウム塩・カリウム塩として広く分布。 染料の原料や漂白剤などに用いる。自然科学では「シュウ酸」と書く。 ☆種痘(しゅとう) 天然痘(てんねんとう)を予防するため、痘苗(とうびよう)を人体の皮膚に接種すること。1796年、ジェンナーが牛痘ウイルスによる人工的免疫法を発見。植え疱瘡(ほうそう)。 ☆彰義隊(しょうぎたい) 1868年、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)側近の旧幕臣を中心として結成した有志隊。 慶喜護衛・江戸警備の名目で上野寛永寺に拠ったが、大村益次郎(おおむらますじろう)指揮の官軍によって壊滅。 ☆装束(しょうぞく) 特別の場合のための、整った一そろいの服装。衣冠(いかん)・束帯(そくたい)・直衣(のうし)など、一定の法式にかなった装い。また、それで盛装すること。 ☆樟脳(しょうのう) テルペン類の一種。化学式 C10H16O クスノキの根や枝を水蒸気蒸留して得る無色透明の結晶。 水に難溶、有機溶媒に可溶、特有の芳香をもつ。テレビン油から合成され、医薬品・香料・殺虫剤・防臭剤などに利用する。 医薬分野ではカンフルという。 ☆浄瑠璃(じょうるり) 語り物の一。一六世紀に、三河地方で盲法師の語り物として発生し、琵琶(びわ)や扇拍子(おうぎびょうし)を伴奏として語られていたが、やがて矢作(やはぎ)の長者の娘浄瑠璃御前と牛若丸との恋物語を語る「浄瑠璃姫物語」(「十二段草子」)が広く迎えられ、同じ節回しで他の物語も語るようになり、これを浄瑠璃と呼ぶようになった。 一七世紀初めから三味線を伴奏として人形芝居と結びつき、人形浄瑠璃が起こり、初め京都で、のち三都に流行した。 初期には江戸の金平(きんぴら)節・土佐節・外記節、京都の伊勢島節・角太夫節・加賀節、大坂の播磨節・文弥節などの古浄瑠璃が盛行した。 1684年竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が大坂の竹本座で義太夫節を語り始め、ここに浄瑠璃は義太夫節の異名ともなった。 のち豊後節やその系統の常磐津節・清元節などの歌舞伎浄瑠璃、また一中節・河東(かとう)節・新内節など座敷で聞かせる唄浄瑠璃など諸浄瑠璃が派生した。 ☆須川長之助(すがわちょうのすけ/1841-1925) バラ科の常緑小低木のチョウノスケソウ(長之助草)の発見者として学界に不滅の名を残す。 延元(1860)年函館に渡来したロシアの植物学者カール・ヨハン・マクシモビッチに仕え、元治元(1864)年マクシモビッチが帰国するまでの3年間あまり植物採取助手として、日本植物を広範に採取して彼の研究を助けた。 その後も日本国内の採集旅行を続け、その押し葉標本をロシアに送り、植物分類学発展に陰の功労者になった。 マキシモヴィッチは須川に感謝し多くの植物学名に「長之助」の名前を付けた。 彼の採集標本は現在レニングラードのコマロフ植物研究所に保管されている。 ☆世阿弥(ぜあみ/1363頃-1443頃) 室町前期の能役者・能作者。二代目観世大夫。幼名藤若。通称観世三郎。実名元清。芸名世阿弥陀仏(世阿弥・世阿)。 観阿弥(かんあみ)の子。大和の人。 足利義満の支援を得て、父と共に能を大成した。 特に、観阿弥以前のものまね中心の能から歌舞中心の幽玄能に改変し、夢幻能という新しい形式を完成させて、能の芸術性を高めた。 作「老松(おいまつ)」「高砂(たかさご)」「井筒」「西行桜」「砧(きぬた)」「班女」など多数。能楽論「風姿花伝」「花鏡」「至花道」など。 ☆聖徒祭(せいとさい) 11月の第一日曜日をキリスト教会では永眠者記念日としています。 ハローマスとか万聖節(ばんせいせつ)とも呼ばれています。 万聖節というのは、亡くなった人の意味ですから、万聖節というのはまさに永眠者の記念日ということになります。 万聖節の前夜祭はハロウィン。 ☆セム語 古代近東の北東のメソポタミア、北西のシリア‐パレスチナ、南西のアラビア半島の3つの地域で話されていた言語。 アッカド語が属する東セム語と、西セム語に分けられ、後者はまた、ウガリト語、フェニキア語、アラム語、ヘブライ語などの北方系と、南方系のアラビア語、南アラビア語、ゲエズ語、アムハラ語、ティグレ語などに分けられる。 普通は子音のみが表記され、それは今日のヘブライ語やアラビア語でも同様である。 セムとは、アダムとイブから始まって10代目のノアの3人の子どもセム・ハム・ヤペテの長男の名前で、このセムの系統からユダヤやアラブ民族が派生したことから、この系統の言葉をセム語またはセム人種と一般的に呼ぶようになった。 ☆蠕虫(ぜんちゅう) ミミズやゴカイなどのように細長くて足がなく、うごめいて移動する下等動物の俗称。 ☆千振(せんぶり) リンドウ科の越年草。乾いた丘陵地に生える。茎は高さ約25センチメートルで紫色を帯び、広線形の葉を対生(たいせい)。 秋、枝頂に紫の線条のある白い花をつける。この時期に引き抜く。 全体に苦みが強く、乾燥したものを当薬(とうやく)といい、煎じて健胃薬とする。和名は千回振り出してもまだ苦いという意。医者倒し。 ☆相輪(そうりん) 仏塔の最上部にある装飾部分。 下から露盤(ろばん)・伏鉢(ふくばち)・請花(うけばな)・九輪(くりん)・水煙(すいえん)・竜舎(りゅうしゃ)・宝珠(ほうしゅ)の七つから成る。 相輪全体を九輪と称することもある。青銅製・鉄製・石製などがある。 ☆ソクラテス(Sokrates/前470-前399) ギリシャの哲学者。アテナイで活動。よく生きることを求め、対話を通して善・徳の探求をしつつ、知らないことを知らないと自覚すべく自己を吟味することとしての哲学により、自己の魂に配慮するように勧めた。 しかし、この活動は反対者の告発を受け有罪とされ、獄中に毒杯をあおいで死んだ。著作はなくプラトン・クセノフォンなどの書物により伝えられている。 ☆足根骨(そっこんこつ) 下腿骨(かたいこつ)である脛骨(けいこつ)と腓骨(ひこつ)につながり足根部(そっこんぶ)を形成する七個の骨の総称。 距骨(きょこつ)・踵骨(しゅうこつ)・舟状骨(しゅうじょうこつ)・三つの楔状骨(けつじょうこつ)・立方骨をいう。□骨(ふこつ)。
☆ダーウィン(Charles Robert Darwin/1809-1882) イギリスの博物学者。測量船ビーグル号で南半球を周航して動植物・地質を調査し、また育種動植物の変異の観察などをもとに、自然選択説を提唱、生物進化を説明。 生物学ばかりでなく社会思想にも大きな影響を与えた。著「種の起源」「ビーグル号航海記」など。 ☆ダート(Raymond Arthur Dart/1893-1988) オーストラリア出身の解剖学者・人類学者。南アフリカで発見された猿人化石を最初に研究し、アウストラロピテクス-アフリカヌスと命名した。 ☆平敦盛(たいらのあつもり) (1169-1184)平安末期の武将。経盛(つねもり)の子。一ノ谷の戦いで熊谷直実(くまがいなおざね)に討たれた。 笛の名手。能(のう)・幸若舞(こうわかまい)の素材となった。 アツモリソウ(ラン花アツモリソウ属)は、唇弁(しんべん)が大きく膨らんだ花形から、それを武者の鎧(よろい)の上に羽織る母衣(ほろ)に見立てて名を付けた。 ☆高野長英(たかの-ちょうえい/1804-1850) 蘭学者・蘭医。名は譲、のち長英。号は驚夢山人・幼夢山人など。 陸奥(むつ)国水沢の人。吉田長叔に西洋医学を学び、長崎に行きシーボルトの鳴滝塾 (なるたきじゅく)に入り、のち江戸で開業。渡辺崋山 (わたなべかざん)らと尚歯会を組織。 「夢物語」で幕政を批判し投獄(蛮社の獄)されたが脱走。沢三伯と変名し兵書などの翻訳に携わった。のち隠れ家を襲われて自殺。 ☆武田久吉(たけだひさよし/1883-1972) 日本山岳会の創設者の一人、日本自然保護協会・日本山岳会・日本山岳協会などの会長を歴任。 登山家にして高山植物を専門とする植物学者。 千鳥が淵公園前の桜並木を東京市に寄贈した英国公使として知られる幕末から明治期にかけて活躍したアーネスト・サトウの次男。東京生まれ。 丹沢(たんざわ)と尾瀬(おぜ)の自然を愛し、その保護につとめた。著「尾瀬と鬼怒沼」「尾瀬」「民俗と植物」など。 尾瀬は戦前から水源として開発の目をつけられ、戦後になって尾瀬ヶ原を水没させてダムを造る計画が立てられた。 それに対し武田久吉らが中心になって保護運動が起きたのが、これが日本における自然保護運動の始まりであった。 尾瀬は日本の自然保護の原点なのである。 ちなみに「池溏(ちとう)」は湿原にある溜まり水または池の意で命名者は武田博士で「池塘」とも書く。 ☆竹本義太夫(たけもとぎだゆう) (1651-1714) 江戸中期の浄瑠璃太夫(じょうるりだゆう)。摂津国(せっつこく)の人。本名、五郎兵衛。 義太夫節の始祖。初め清水(きよみず)理兵衛や宇治嘉太夫(加賀掾)に学び、清水理太夫と名乗る。のちに1684年大坂道頓堀(どうとんぼり)に人形浄瑠璃の竹本座を開設。 名を竹本義太夫と改め、98年頃受領して竹本筑後少掾藤原博教と称する。 近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の作を語って人形浄瑠璃隆盛の礎を築き、その芸風は豪放な語り口の中に細やかな情愛を表す。 なお、二世義太夫は竹本政太夫が継ぎ、小音ながら写実的な情愛を語るのを得意とした。 ☆田中芳男(たなか-よしお/1838-1916) 明治前期の博物学者。 信州飯田の人。伊藤圭介(いとうけいすけ)の弟子。文部省博物局にあって博覧会・博物館の開催・開設など産業技術や理科教育に尽力。 著「有用植物図説」など。 ☆谷文晁(たにぶんちょう/1763-1840) 江戸後期の画家。江戸の人。名は正安。写山楼・画学斎と別号す。 南蘋(なんびん)派・狩野(かのう)派などの諸派を学び、南画・西洋画・大和絵の手法を取り入れて独自の南画を完成。 江戸文人画壇で重きをなした。代表作「集古十種」の挿絵(さしえ)など。 ☆田村利親(たむらとしちか/1856(安政3)-1934.5.18(昭和9)) 明治・大正・昭和期の果樹研究、栽培先覚者。今日宮崎の特産物として良く知られている日向夏(ひゅうがなつ)ミカンの研究者。高知県出身。 幼年時代に漢学、少年時代は英学を修め、更に高知県陶冶学舎で修行、 1878(M11)〜86(M19)にかけて高知県・宮崎県下で教育者として過ごす。宮崎県属となっていた87在勤中栽培されている「カンキツ」が優秀であることを認め、「日向夏蜜柑」と命名。 91頃、郷里の父に穂木、苗木を送り、父親が苗木の増殖、栽培を始めた。高知県下では単に小夏と呼ばれることが多いが、標準和名は「ヒュウガナツ」。その後、鹿児島県属、拓務省、東京府属、農商務省に勤務する。 鹿児島県時代は南九州、沖縄県のカンキツ・糖業の指導、拓務省時代には台湾への出張、農商務省に勤務してからは果樹調査とカンキツ指導のため全国各地に出張。08退職。 自宅で果樹園「南海園」を経営。新品種の導入、試作に努めるとともに、数多くの苗木を育成し販売。柑橘新種の開発と、海外からの新種導入に寄与した功績は大きい。 墓前には後年、溝渕増巳高知県知事から贈られた頌徳碑が建立されている。遺稿として「日本支那楊梅録」(S4未完稿)、『世界柑橘叢説』(3巻・S5、第二巻不明)がある。これらの資料は高知県立図書館に保存されている。 ☆近松門左衛門(ちかまつもんざえもん) (1653-1724) 江戸前期の浄瑠璃(じょうるり)・歌舞伎作者。本名、杉森信盛。別号、平安堂・巣林子。越前の人。 浄瑠璃で竹本義太夫(たけもとぎだゆう)と、歌舞伎で坂田藤十郎と協力、数々の傑作を生んだ。 最新の事件を劇化した際物(きわもの)「曾根崎心中」の成功で世話浄瑠璃をもっぱらとし、義理人情の葛藤(かつとう)により生じる悲劇を多く著した。 浄瑠璃「出世景清」「国性爺(こくせんや)合戦」「心中天網島」「女殺油地獄」、歌舞伎「けいせい仏の原」など。 ☆チョウノスケ=須川長之助(すがわちょうのすけ) ☆テオフラストス(Theophrastos/前372頃-前287頃) ギリシャの哲学者・生物学者。アリストテレスの後継者として彼の学園リュケイオンの学頭を務めた。 アリストテレスの動物の分類にならい、観察に基づく植物の分類を行なった。 植物学の祖。著「植物誌」「植物の本源について」「性格論」など。 ☆適塾(てきじゅく) 1838年、緒方洪庵(おがたこうあん)が大坂に開いた蘭学塾。 大村益次郎(おおむらますじろう)・福沢諭吉(ふくざわゆきち)・橋本左内など幕末から明治にかけて活躍した人材を輩出した。緒方塾。適々斎塾。 天然痘(てんねんとう)☆=痘瘡(とうそう) ☆痘瘡(とうそう) 法定伝染病の一。痘瘡(とうそう)ウイルスの感染による。発疹は、あとに瘢痕(はんこん)を残す。伝染力がきわめて強く、死亡率も高い。 予防は種痘。1980年、WHO により絶滅宣言が出された。天然痘(てんねんとう)。疱瘡(いもがさ)。 ☆痘苗(とうびょう) 弱毒化された痘瘡(とうそう)ウイルスを含む液剤。種痘に用いる。 ☆徳川家康(とくがわいえやす/1542-1616) 江戸幕府(1603〜1867)初代将軍(1603-1605)。三河岡崎城主松平広忠(まつだいらひろただ)の長男。幼名竹千代(たけちよ)、のち元信(もとのぶ)、元康(もとやす)、家康(いえやす)と改めた。 はじめ今川義元(いまがわよしもと)、のち織田信長(おだのぶなが)と結び東海に勢力を拡大、信長とともに甲斐(かい)武田氏を滅ぼす。 豊臣秀吉(とよとみひでよし)の天下統一後はこれに協力、関八州を与えられ、1590年江戸入府。 関ヶ原の戦勝(1600)を経て1603年征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、江戸に開幕。将軍職を譲った後も大御所(おおごしょ)として実権を握り、大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、天下統一を完成した。 ☆豊臣秀吉(とよとみひでよし/1536-1598) 安土桃山(あづちももやま)時代の武将。尾張中村(おわりなかむら)の人。織田信長(おだのぶなが)の足軽木下弥右衛門の子。幼名日吉丸(ひよしまる)。 初名木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)。のち羽柴秀吉(はしばひでよし)。 織田信長に仕え、軍功によって重用され、筑前守(ちくぜんのかみ)となる。本能寺(ほんのうじ)の変後、明智光秀(あけちみつひで)を討ち、四国・九州・関東・奥羽を征して1590年天下を統一。 この間、85年関白、翌年豊臣姓を賜って太政大臣(だじょいだいじん)となり、91年関白を養子秀次(ひでつぐ)に譲り太閤(たいこう)と称した。 また、検地・刀狩りを実施、兵農の分離を徹底し、幕藩体制に至る基礎を築いた。 文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役(えき)(1592〜98)で朝鮮に出兵、戦果があがらないまま、伏見城(ふしみじょう)で病没。 ☆鳥兜(とりかぶと) 舞楽(ぶがく)の襲装束(かさねしようぞく)に用いる兜(かぶと)。 錦(にしき)・金襴(きんらん)などで鳳凰(ほうおう)の頭(かしら)にかたどり、頂が前方にとがり、錏(しころ)が後ろに突き出たもの。
☆中井猛之進(なかいたけのしん/1882-1952) 植物分類学者。理学博士。東京大名誉教授。元国立科学博物館館長。小石川植物園四代目植物園長。 昭和2年、国立公園選定の準備調査の中に、上高地の河原で日本で初めてケショウヤナギを発見。 著書は「朝鮮植物誌」など。 ☆ナノメーター=nm 長さの単位。 1000nm=1um。ナノは単位に冠して、10-9 すなわち10億分の一の意を表す語。 ☆鳴滝塾(なるたきじゅく) 1824年、オランダ商館医のドイツ人シーボルトが長崎郊外の鳴滝に開いた診療所兼学塾。 全国から集まった弟子たちに蘭学を指導しながら、日本に関するテーマを与えて論文を書かせ、自分の日本研究の手伝いをさせた。 高野長英(たかのちょうえい)・伊東玄朴(いとうげんぼく)ら多数の蘭学者を輩出。 ☆南京虫(なんきんむし) トコジラミの別名。 ☆肉桂(にっけい) (1)中国南部、インドシナ半島産の東京(トンキン)肉桂のこと。古来、生薬として用いられる。カシア。 (2)セイロンニッケイのこと。 (3)クスノキ科の常緑高木。暖地で栽培、庭木ともする。葉は革質で狭卵形。夏、淡黄緑色の小花を開き、液果は楕円形で黒く熟す。インドシナ原産。江戸時代中国を経て渡来。根皮は辛く香味があって健胃・発汗などの薬用とし、また菓子の香料に使う。 (4)(3)の根皮を乾燥したもの。香辛料・健胃薬とする。にっき。にっけ。 ☆二宮敬作(にのみやけいさく/1804-1862) 幕末期の蘭方医。伊予の人。長崎に出てシーボルト(1796-1866)の弟子となり、シーボルト事件に連座。のち、宇和島で医業を開く。種痘 (しゅとう)の普及につとめた。 若くして医学を志し、十六歳の時、長崎に遊学。 1823年(文政六年)シーボルト渡来の時から六年間師事した。師シーボルトから誠実な人柄を愛されるとともに学問への情熱を認められ学資の援助を受けた。 1828(文政十一年)四月には、シーボルトに委託され、富士山の高さを測量し、山頂の気温まで実測した。 シーボルト事件連座後幕府に長崎から追放され、1830年(天保元年)帰郷。大洲市新谷の上須戒村で開業したが、同年のうちに宇和島藩主の命で卯之町の中町に開業した。 一時、シーボルトの娘イネを養育し、「父君も産科に長じたまへり。なんじも助産を専門とさるべし、外科はその第一歩なり」と諭して、女医に育てた。 敬作は、名利を追うことなく、酒を愛した。患者に誠意をもって接し、貧しい人々に献身的に施療することを天職とした。 幕府に追われた鳴滝塾(なるたきじゅく)の同窓、高野長英(たかのちょうえい)を匿い、宇和島藩主伊達宗城の依頼を受け村田蔵六を招聘(しょうへい)した。 師のシーボルトを生涯変わることなく敬愛し、再渡来した師に長崎で再会した直後に病死した。 墓は、卯之町の開明学校の背後と長崎の皓台寺にある。皓台寺の墓はシーボルトの娘イネが建てたものである。 ☆能(のう)(a No(h) play)=能楽(のうがく) (1)日本の中世芸能で、舞踊と劇の要素を含んだもの。猿楽能(さるがくのう)・田楽能(でんがくのう)・延年能(えんねんのう)など。 (2)(1)のうち、特に猿楽能(さるがくのう)のこと。 南北朝・室町時代に観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子が将軍足利義満(あしかがよしみつ)の保護を受けて大成した歌舞劇(かぶき)で、江戸時代は幕府の式楽(しきがく)として栄えた。 明治以降は能楽(のうがく)ともいうが、この場合広義には狂言(きょうげん)を含む。 舞(まい)と謡(うたい)と囃子(はやし)の三要素から成り、囃子(はやし)は笛・小鼓(こつづみ)・大鼓(おおつづみ)・太鼓(たいこ)の四楽器で奏される。 主人公を演じるのはシテ方、その相手役を演じるのはワキ方、楽器を演奏するのは囃子方と、それぞれの役が専門職として分化している。 それぞれに流派があり、現在シテ方には観世・宝生・金春(こんぱる)・金剛・喜多の五流がある。 謡(うたい)の詞章は謡曲といい、題材は源氏物語や平家物語など古典からとられることが多く、現在上演可能な作品として約235番を伝えている。 これらは五番立てで演じられる際の上演順によって、脇能物(初番目物)・修羅(しゅら)物(二番目物)・鬘(かずら)物(三番目物)・雑物(四番目物)・切能(五番目物)に分類され、俗に、神男女狂鬼(しんなんによきようき)という。
☆春の七草(はるのななくさ) 春の代表的な七種類の草花。セリ・ナズナ・ゴギョウ〔=ハハコグサ〕・ハコベラ〔=ハコベ〕・ホトケノザ・スズナ〔=カブ〕・スズシロ〔=ダイコン〕。 ⇒秋の七草 ☆パルプ(pulp) 木材などの植物体を機械的・化学的に処理してほぐし、セルロース(cellulose)繊維を分離し水に懸濁した状態や厚紙状にしたもの。 製造法により化学パルプと機械パルプの二種に大別され、紙・人造繊維などの原料とする。 ☆蛮社の獄(ばんしゃのごく/1893) 1839年、江戸幕府が渡辺崋山(わたなべかざん)・高野長英(たかのちょうえい)らの蘭学者に加えた言論弾圧事件。 モリソン号事件を契機とし、崋山は「慎機論」、長英は「夢物語」を書いて幕府の外国船撃攘策を批判。 幕府は幕政批判のかどで、崋山を国元蟄居、長英を永牢とした。「蛮社」は「蛮学社中」の略。 ☆脾臓(ひぞう) 脊椎(せきつい)動物のリンパ系器官 ☆平瀬作五郎(ひらせさくごろう/1856-1925) 植物学者。越前の人。 画工として帝国大学理科大学に奉職(ほうしょく)、後に植物学教室の助手となったが、在籍期間は僅か10年間。 1896年に世界的発見であるイチョウの精子発見を植物園の大イチョウで行った。 ☆広瀬淡窓(ひろせたんそう/1782-1856) 江戸後期の儒者・漢詩人・教育家。名は簡、のち建。字(あざな)は廉卿、のち子基。旭荘の兄。 豊後日田の人。学塾咸宜園(かんぎえん)を開き、敬天を旨とする教育を行う。門下に大村益次郎・高野長英らを輩出。著「淡窓詩話」など。 ☆風化(ふうか) 地表あるいは岩石が長年月の間に、温度、雨、流水、波、結氷などの物理的・化学的作用によって、次第に崩れて細かな粒子になると同時に、成分にも変化をおこして土になること。この現象を風化という。 ☆舞楽(ぶがく) 雅楽曲(ががくきょく)のうち、器楽合奏(きがくがっそう)を伴奏として舞(まい)を舞う曲。 左方唐楽(さほうとうがく)を伴奏とする左舞(さまい)と、右方高麗楽(うほうこまがく)による右舞(うまい)に二分される。 ☆藤井健次郎(ふじいけんじろう/1866-1952) 石川県出身。植物細胞学者。細菌学、遺伝学者。 東京帝国大学で日本初の遺伝学講座を開講し、メンデルの研究を日本に紹介するとともに世界的な細胞学専門誌『キトロギア』を主宰した植物遺伝学者。 業績としては、細胞核中の染色体のラセン構造を発見、紡錘体原形質の研究などが特に有名。金沢に野球を紹介した人としても知られてる。 1950(昭和25年)文化勲章受賞(85歳)。 ☆プラトン(Platon/前427-前347) 古代ギリシャの哲学者。ソクラテスに師事し、遍歴ののち、アカデメイアを創設。 知識・倫理・国家・宇宙にわたる諸問題を考察し、イデアことに善のイデアを探求し、学問的認識の方法としてディアレクティケー(弁証法)を唱えた。 著「ソクラテスの弁明」「パイドン」「饗宴」「国家」「テアイテトス」「ソピステス」「ティマイオス」「法律」のほか約30編の対話編など。 ☆文の舞(ぶんのまい) 舞楽(ぶがく)の曲の種別で、剣・鉾(ほこ)などの武器を持たずに常装束で舞う文官の舞で、舞姿がゆるやかな動きのもの。春鶯囀(しゆんのうでん)や青海波(せいがいは)などの類。 平舞(ひらまい)。 ☆ヘッケル(Ernst Heinrich Haeckel/1834-1919) ドイツの動物学者。海産無脊椎動物を研究。ダーウィンの進化論に基づき生物の進化類縁関係を系統樹で示し、個体発生と系統発生の関係について生物発生原則を提唱。 著「人間創成史」 ☆法然(ほうねん/1133-1212 浄土宗(じょうどしゅう)の開祖。諱(いみな)は源空(げんくう)。諡(おくりな)は円光大師(えんこうだいし)・明照大師。 黒谷上人(くろだにしょうにん)・吉水上人(よしみずしょうにん)とも称される。 美作(みまさか)の人。比叡山で源光・皇円、次いで黒谷別所の叡空に師事。 のち善導(ぜんどう/613-681)の「観無量寿経疏」や源信(げんしん/942-1017)の「往生要集(おうじょうようしゅう)」に啓発され、1175年専修念仏の教えを唱えて浄土宗を開いた。 京都東山の吉水に庵を結んで布教に努め、主に武士・農民の帰依(きえ)を得た。旧仏教からの激しい圧迫を受け、1207年専修念仏は停止され四国に流されたが、のち許されて帰洛。 著「選択本願念仏集」など。 ☆宝形造り(ほうぎょうづくり)=方形造り 屋根の形式の一。四方または八方の隅棟(すみむね)が屋根中央の一つの頂点に集まっているもの。頂部に露盤(ろばん)と宝珠(ほうしゅ)をのせる。四注造り。 ☆戊辰戦争(ぼしんせんそう/1868-1869) 1868年(慶応4)戊辰の年に始まり、維新政府軍と旧幕府側との間に16か月余にわたって戦われた内戦。 正月の鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍は、四月江戸城を接収、上野にこもる彰義隊(しょうぎたい)はじめ関東各地で旧幕府主戦派を討滅。 奥羽越列藩同盟を結んで対抗する諸藩をも会津戦争を頂点に10月には帰順させた。 翌年5月、最後の拠点箱館五稜郭(ごりょうかく)を陥落させ、内戦は終結、明治絶対主義国家確立への途(みち)が開かれた。 ☆母衣(ほろ) 鎧(よろい)の背につける幅広の布。流れ矢を防ぎ、また、旗指物(はたざしもの)の一種としても用いられた。 平安時代には単に背に垂らし、時に下端を腰に結んだが、のちには竹籠(たけかご)を入れた袋状のものとなった。 ☆本草学(ほんぞうがく) 古く中国で発達した不老長寿その他の薬を研究する学問。 主として植物を対象としたのでこの名がある。 日本へも奈良時代に伝わって普及し、江戸時代に最も盛んとなり、動物・鉱物におよび博物学的な研究に発展した。 明治に至って、主に植物学・生薬学に受け継がれた。 ヨーロッパの博物学が自然の事物を客観的に観察するという科学的なものであるのに対して、本草学はもともと自然の事物がいかに人間の役に立つかを研究することを目的としていた 本草。
☆マイクロメーター(micrometer) 長さの単位。1000um=1mm。100万分の1メートル、すなわち1000分の1ミリメートル。ミクロン。um。 ☆牧野富太郎(まきのとみたろう/1862-1957) 植物分類学者。土佐生まれ。小学校中退。独学で植物学を研究、広く植物を採集し、1888年から「日本植物志図篇」を出版し多くの新種を記載。 また、すぐれた植物図を作成して一般の植物知識普及に努めた。 近代日本の植物分類学の確立者。 ☆マキシモビッチ(Karl Ivanovich Maksimovich/1827-1891) ロシアの植物学者で「東亜植物の父」。 アムール川地方や沿海州などの植物を調査した。1860年頃の数年間、日本にも滞在し、日本産植物を採集、命名した。 延元(1860)年函館に来日。 箱館に1年2カ月の滞留。雇人で当時20歳の須川長之助(すがわちょうのすけ)に採集整理の技術を教え、箱館山および近辺の植物を採取した。 元治元(1864)年に帰国。露国帝国植物園学術部長。 ☆松村任三(まつむらじんぞう/1856-1928) 植物学者。常陸(ひたち)の人。東大教授。最初矢田部(やたべ)教授の助手として勤め、矢田部教授非職の後、植物学教授となった。 ドイツに学んで、植物解剖学の手法を導入し、また「植物名彙」を著わし、植物学の近代化、日本の植物分類学の確立と発達に貢献。 初代小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)の園長となる。著「日本植物名彙」「新撰日本植物図説」など。 ☆水谷豊文(みずたにほうぶん/1779(安永8)-1833(天保4) 本草学者。通杯助六、諱を豊文、字は伯献、鉤致堂と号す。父は尾張藩士水谷友之右衛門(号覚夢)、その長子として生まれ享和二年三月家を継ぎ、禄二百石、馬廻組。同三年十月大番組、文政六年広敷詰となる。松平君山門下の本草家であった父の影響を受けて本草に志し、浅野春道、次いで小野蘭山に師事、さらに尾張初の蘭方医といわれる野村立栄から蘭学をも修める。 のちに藩の薬園の監督を命ぜられ、御園町の自邸内にも植物園を作り、その種類は二千余に及んだといわれる。一方、伊勢、近江、美濃、木曾などに採集旅行も行っている。門人に大河内存真・伊藤圭介兄弟をはじめ、吉雄常三・石黒済庵・大窪昌章・舎人重巨など多くの俊秀があり、江戸・京都・美濃などの諸大家とも交友が広く、尾張本草界の中心人物となった。 文政九年、江戸へ向かうシーボルトを熱田に迎え、自製の植物標本類を示した。これを機会に両者の間に交渉が始まり、シーボルトは豊文に対して高い評価を与えている。また、同志を集めて本草会を開き、相互の研究の場とし、のちに嘗百社と名づけられ、豊文の没後も続いた。天保四年三月二十日病死。 著書は代表作『物品識名』『物品識名拾遺』をはじめ『本草綱目記聞』『木曾採薬記』『山草譜』などがある。 ☆箕作佳吉(みつくりかきち/1857-1909) 動物学者。江戸の人。津山藩医箕作秋坪(しゆうへい)の三男。 東京帝大理科大学長。日本での発生学の草分け。 慶応義塾、大学南校で学んだのち、米国に留学し、動物学を専攻。英国に移りケンブリッジ大学で動物発生学の講義をを学ぶ。 帰国後、日本人として初の動物学東京大学で開始し、のち東京帝国大学理科大学学長となる。 主として動物分類学・動物発生学を研究。御木本幸吉(みきもとこうきち)の真珠(しんじゅ)養殖を指導。 養蠣(かき)事業などわが国水産事業にも多大な貢献を果たした。 ☆南方熊楠(みなかたくまぐす/1867-1941) 世界的な天才博物学者・生物学者・民俗学者。和歌山県生まれ。 大学予備門(後の旧制第一高等学校)中退。同期生には、正岡子規、夏目漱石、山田美妙(びみょう)らがいた。 また、日本民俗学に貢献。博覧強記・奇行の人として知られた。著「十二支考」「南方閑話」「南方随筆」など多数。 イギリスの大英博物館で東洋調査部員として考古学や人類学を研究し、明治26年(1893)イギリスの科学雑誌「ネイチャー」に論文が掲載される。 熊楠は記憶力抜群、19ヶ国語に通じ、海外で大活躍。また孫文との親交も有名。 帰国後は、植物の宝庫といわれる田辺市で粘菌学者として菌類の採集研究に力を注ぎ、「ミナカテラ・ロンギフィラ」など70種もの新種を発見しました。 その頭脳と行動力は、近代日本の黎明期である明治時代、そして、大正、昭和の初期の時代にあって、幅の広い国際的な業績の数々を残したが、生物、民俗、鉱物、文学、宗教学などほとんど独学での研究であった。 柳田国男をして"日本人の可能性の極限"と評させた。柳田国男(やなぎだくにお)と並ぶ偉人。 昭和4年には、紀南地方を訪問された天皇陛下に粘菌の標本を手渡し、さらに昭和37年に再び来られた天皇陛下は「雨にけふる神島をみて紀伊の国の生みし南方熊楠を見ふ」と熊楠を偲んで詠まれました。 ☆源頼朝(みなもとのよりとも/1147-1199) 鎌倉幕府初代将軍。義朝(よしとも)の三男。平治の乱(1159)後、伊豆蛭ヶ小島に配流。1180年以仁王(もちひとおう)の平氏追討の令旨(りょうじ)に応じ挙兵。 石橋山に敗れ安房(あわ=現在の千葉県南部)に逃げたが、東国武士の来援を得て関東を制しつつ鎌倉にはいって根拠地とした。 同年、平維盛(たいらのこれもり)の追討軍を富士川に破る。 83年、東国支配を認める宣旨(せんじ)を得、ついで弟の範頼(のりより)・義経(よしつね)を西上させ、85年壇ノ浦(だんのうら)で平氏を討滅し全国を平定。 その後、義経追討を口実に全国に守護(しゅご)・地頭(じとう)を設置、武家政治の基礎を確立。92年征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられ、鎌倉幕府 (1192)を開く。 ☆宮部金吾(みやべきんご/1860-1951) 植物学者。江戸下谷の生まれ。札幌農学校に学び、キリスト教に入信。 樺太・千島・北海道など北方植物を調査研究し、 「高山植物」という用語を日本ではじめて使ったとされ、生物分布境界線(宮部線)を設定。 また、日本の植物病理学の基礎を築いた。北海道大学教授。 ☆みょうばん(明礬) カリウム・アルミニウムを含む硫酸塩鉱物。六方晶系。白色あるいは黄・褐・紅をおびた白色の塊状・繊維状または葉片状でガラス状光沢がある。 噴気や熱水で変質した火山岩中などに産する。 ☆三好学(みよしまなぶ/1861-1939) 植物学者。岩村藩(岐阜県)出身。東大教授。わずか18歳で、小学校校長(光迪小学校)に就任。 その後、東京大学理学部生物学科を経て、大学院へと進み、植物学の研究を続ける。 在学中、ドイツ留学を命ぜられ、帰国後35歳の若さで東大教授に就任、理学博士の学位を受ける。 東大教授在学中に発表した研究論文は、100編におよび、その著書も100冊といわれ、わが国植物学の基礎を築き、植物生態学を生理学から分離。 桜と菖蒲(しょうぶ)の研究における、世界的な第一人者として著名。 また天然記念物など植物保存の面では、啓蒙活動が実り1911年(明治44年)、帝国議会で「史蹟及び天然記念物保存に関する建議」が可決され、1919年 (大正8年)に、史蹟名勝天然記念物保存法が制定された。 『桜』『最新植物学』『植物生態美観』など。 ☆夢窓疎石(むそうそせき) (1275-1351)鎌倉末・室町初期の臨済宗の僧。伊勢の人。諡号(しごう)、夢窓国師。 天台・真言などを学んだのち、無隠円範(むいんえんぱん)・一山一寧(いつさんいちねい)・高峰顕日(こうほうけんにち)について臨済禅を修めた。 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)や足利尊氏(あしかがたかうじ)らの帰依(きえ)をうけ、甲斐の恵林寺(えりんじ)や京都の臨川寺・天竜寺を創建。 門下に五山文学の中心をなした春屋妙葩(しゅんおくみょうは)らが出た。造園術にすぐれ天竜寺・西芳寺などに築庭。また、天竜寺船による貿易を促進。著「夢中問答集」など。 ☆メンテ(Menthe) ギリシャ神話の女神メンテー(Methe、ミント)に由来する。 メンテーは冥府(めいふ=地獄)の王ハーデースに愛されたが、彼の妻ペルセフォネに殺されハッカになったとされる。 ☆メンデル(Gregor Johann Mendel/1822-1884) オーストリアの植物学者・修道士。 修道院の庭でエンドウの人工交配による遺伝実験を行い、「メンデルの法則」を発見、遺伝学の基礎を確立。 しかし生前は認められず、1900年の再発見まで埋もれたままであった。著「雑種植物の研究。
☆矢沢米三郎 博物学者。信濃山岳会の発足に尽力。初代信濃山岳会長。ウェストンが3度目の来日をはたした1911(明治44)年11月、信州在住の登山家たちによって「信濃山岳研究会」が結成された。 この「信濃山岳研究会」には、長野師範学校卒業生の矢沢米三郎、河野齢蔵、小田四十一、田中貢一らの「信濃博物学会」が母体となり、100人余りの県内在住者が集まった。 会長は当時長野県松本女子師範学校長であった矢沢米三郎で、副会長は同校の教頭だった河野齢蔵だった。その後、信濃山岳会(大正8年(1919)が発足。(昭和14年(1939)頃自然消滅) 会長・矢沢米三郎、副会長・河野齢蔵、幹事に百瀬慎太郎、手塚順一郎、穂刈三寿雄ら。 著書『白馬岳』の中で、「山の名は初夏、馬の雪形が出る。農家はこれを田んぼの代かきをはじめる農事暦としたので、正当な当て字をすれば「代馬」で、とくに雪形の馬は雪がとけて地肌が出たもので、黒いのだから白馬ではない。 近年軽薄な登山家や心なき人々の間で呼ばれがちな「ハクバ」の名はおだやかでない。 さすがに植物学者はこの山特有な植物にみな「シロウマ」を冠するのは、正しい名称をそのまま残す慎重な態度がうかがわれていかにも奥ゆかしく思われる……」と嘆いている。 ☆矢田部宣言(やたべせんげん) 明治23年10月発行の植物学雑誌に英文で矢田部教授が発表した『泰西(たいせい)植物学者諸氏に告ぐ』という宣言文の意義は大きい。 この中で、矢田部は「日本植物の研究は以後欧米植物家を煩(わず)わさずして日本の植物学者の手によって解決せん」ということを述べたものである。 東京大学における研究水準がようやく国際的に植物学といえる状態になったという自己評価がこの宣言であったとみることができる。 その水準を評価する物差しとなったのは研究内容そのものの他に、ハーバリウム(標本室)とライブラリー(図書室)の充実があった。 実際に矢田部宣言以降、矢田部を中心に松村任三(まつむらじんぞう)、牧野富太郎(まきのとみたろう)らにより日本からの新植物の記載が盛んに行なわれ、全国規模で日本の植物相の全貌解明に向けての研究が緒についた。 ☆矢田部良吉(やたべりょうきち/1851-1899) 植物学者・詩人。伊豆の人。号は尚令居士。1887年(明治10年)に東京大学が創立されたおり、初代の植物学教授に就任。 1880年に米国へ留学し、コーネル大学を卒業。1900年に、植物学雑誌に「泰西植物学者に告ぐ」(矢田部宣言(やたべせんげん))を発表して日本でも種の同定(どうてい)ができることを宣言した。 その前後にキレンゲショウマ(Kirengeshoma palmata Yatabe)を新属として発表している。 理科大学教頭も務めたが、1901年に非職となった。 東大教授ののち、東京高師校長・東京博物館長を歴任。 主に植物分類学を研究し、科学として体系づけた。 1882年井上哲次郎・外山正一らと「新体詩抄」を発行。著「日本植物図解」「日本植物篇」。 ☆UV( ultraviolet rays)⇒紫外線(しがいせん) ☆洋紙(ようし/Western‐style paper) ⇒紙 ☆吉野善介 備中の植物研究者。 ナツアサドリは岡山県を中心に、広島県東部から兵庫県西部に分布する落葉の低木。 1899年に吉野善介によって発見され、1902年に牧野富太郎によって新種として記載された。 アサドリは岡山地方でグミの仲間の呼び名であり、初夏(6月)に果実が熟すので、ナツアサドリという。葉の表裏にはグミの仲間特有の星状。
☆ラテン語 古代ローマ帝国の共通語。インド-ヨーロッパ語族のイタリック語派に属す。現代のロマンス諸語の源。 紀元前後に文章語として確立した古典ラテン語は、ローマ教会下の中世西欧世界の文章語・公用語となり、今日でも学名(がくめい)など学術語として使用される。 ☆竜骨(りゅうこつ) 船底の中心部分を縦貫している力材。 人間の背骨にあたり、船体構成の基礎となるもの。まぎりがわら。キール(keel) ☆リンネ(Carl von Linne/1707-1778) スウェーデンの医学者・生物学者。「自然の体系」「植物諸属」を著し、雌雄蕊(ずい)分類法による植物の二四綱分類を発表。また、生物を属名と種名で表す二名法(にめいほう)を確立、分類学を大成した。 ☆瘰癧(るいれきscrophula) 頸部(けいぶ)リンパ節結核の古称。 少・青年に多い疾患であったが、最近ではまれ。結核菌が顎下部・側頸部・鎖骨上窩などのリンパ節に侵入し結節を形成。 次第に乾酪(かんらく=チーズ)化、化膿して瘻孔(ろうこう)を作る。 ☆露盤(ろばん) 方形屋根の頂部をおさえる方形の台。宝珠(ほうしゅ)・伏鉢(ふくばち=覆鉢)などを受け、相輪(そうりん)の基盤となる。古くは相輪全体を呼んだ。
☆和紙(Japanese paper) ⇒紙 ☆渡辺崋山(わたなべかざん/1793-1841) 江戸後期の洋学者・南画家。三河国田原藩の家老。 名は定静(さだやす)、通称は登、崋山は号。儒学を佐藤一斎・松崎慊堂に、南画を金子金陵(?-1817)・谷文晁(たにぶんちょう)に学んだ。 さらに西洋画の技法を研究し、肖像画など写生画にすぐれた。また、藩の海防掛に任じたことから蘭学にも通じ、高野長英(たかのちょうえい)・小関三英らと交わり尚歯会の一員となる。 幕府の対外政策を批判した「慎機論」を著し、蛮社の獄(ばんしゃのごく)に連座、国元に蟄居(ちっきょ)中に自殺。作「一掃百態」「鷹見泉石像」など。 ☆ワトソン(James Dewey Watson/1928-) アメリカの分子生物学者。ケンブリッジ滞在中クリックと協力して DNA の二重螺旋分子構造モデルを確立。
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