日近城祉
日近城祉

 広祥院由緒書によれば、慶応2年(1339)足利尊氏の命により執権高師氏が
ここに寺を建て、深恩山総持寺と号した。後にいなりの女房(高師の女)
比滋賀卿(広祥院領)を譲渡されているが、室町末期にかけて寺は衰微し、
文明10年(1478)に至り、奥平貞昌が広祥院を中興した。
日近城は奥平家西進の拠点として築城された山城で、小規模ながらも原型が
保持されている中世山城の典型で、山頂に本丸、土手、空堀、馬場、曲輪、井戸
の跡を窺うことができる。山麓には貞昌を始め奥平家一族の墓所があり、端屋
(みずや)と称する隠居屋敷と伝えられる平地の東に、仙丸、おふう、貞子
(おふうの祖母)
の墓もある。家臣の墓は城下にはなく、上流の井口にまとめて
あったが
近年整理されて奥平氏家臣之墓一基だけ残っている。
この城が戦場になったのは弘治2年(1556)年日近合戦で、今川家に背いた貞勝
と徳川方との戦いは戦史に名高い。

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