滝 山 城 祉



 天正元年(1573)9月27日(太陽暦〕その前夜、作手の亀山城から、石堂が根を
超えて滝山城に立ち退いた奥平貞能・信昌は、武田方にそむいて家康に従う
あかしをたてた。武田方五千の軍勢は、滝山城(一名亀穴城)南面下の万足平
に押し寄せた。滝山城が険しく攻めにくい。家康の援軍 本多広孝・同康重・
松平伊忠と別に平岩親吉・内藤家長がこれを包囲したので、さすがの武田勢も
退却した。これを追撃した奥平勢は田原城で激戦に及んだ。敵の殿(しんがり)
はなんと武田方についた同族であった。
 この合戦に中金の郷士竹下正峰は味方の誘導に功を奏し天正18年(1590)
関東移村となったが、地元百姓連の留任運動もあってこの地に止まり、子孫は
百姓になり今日に及んでいる。東の峰直下の滝にはつきることのない清水が
流れている。


滝 山 城

滝山城は亀穴城ともいわれ、額田町大字宮崎の中心集落西端の北側に威容を見せる滝山上に伝えられる。
滝山は標高370メートル、比高250メートルの山稜である。
県道岡崎・清岳線に面する額田町森林組合より東へ50メートルほどのところに亀穴城の石碑がある。
滝山城へいたるにはここから一気に直登するか、宮崎神社の裏から登る。

滝山城の曲輪は尾根筋にそって存在するがいずれも切岩がはっきりしたものでない。
神社裏から中腹の曲輪を経て、アンテナの散る三段に削平されている曲輪群に出る。鞍部を経て
100メートルほど北に進むと、山頂の曲輪群に至る。全体では100メートル以上に及ぶ、くの字形の曲輪群であるが、
自然地形も含んでいる
山頂西と尾根北端ニヶ所に腰曲輪がある。
北端東下から派生する主尾根を東に50メートル進むと比較的はっきりした
曲輪群がある。
この北東に滝山城のなかでは唯一城郭構造として明らかな堀切が二本残っている。
手前の第一堀切は浅いが、巾は3メートルほど、第ニ堀切は、幅が約5メートルで
深さも二メートルを超える大きいものでこの先も尾根が続いている。
堀切から先の東北方向にも城域を認める見方もあるが長大過ぎるし堀切の意味を考えれば
ここまでを範囲と考える。
滝山城は天然の要害に依存する城郭であるが、城郭としての遺構ははっきりせず、
尾根上の削平地も曲輪かどうかは判然とせず、城の施設であるかも不明である。

この城は元亀四年(1573)武田氏により砦として取りたてられた。「武徳編年集成」によれば、元亀四年三月には
[信玄設楽郡(額田郡の誤り)宮崎村瀧山ニ砦ヲ構フ 此砦山家三方衆三千騎ズ、ニテ守ル」とある。前年の暮れ、
三方が原の合戦で徳川家康を討ち破った武田信玄はこの年正月、野田を(新城市)襲い、京都への歩を進めようと
していた。このとき岡崎への橋頭堡として滝山に兵を置いたのであろう。当時武田氏に従っていた山家三方衆
(奥平氏・田峯菅沼氏・長篠菅沼氏)に守備を命じたのである。しかし信玄はこの年四月には没することとなるのである。
天正元年(1573)八月には、武田氏から離反した奥平貞能が作手を退去して滝山城に篭った。堀切はこの時の
築造になるか。奥平氏は城下の宮崎にいくつかの館を構え、さながら作手に次ぐ本拠地の様相を呈した。
よって滝山城は詰めの城としての機能を持っていたとも推測できる。
また滝山城のある尾根はかって尾根道として使われたというから、尾根上に構えられた通路を扼する
城郭のひとつでもあった。

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