伝統の三河花火(11)ー岡崎を中心に、その歴史と見方ー


    戦後の花火(2)

ー菅生祭と観光花火大会(つづき)ー
経済の復興、発展に伴って一般用の納涼花火、
玩具花火の需要が高まってきた。
 稲垣金太郎(現在の(株)稲金花火店)の二男
・三郎は三河をはじめ半田、津島、犬山など尾張、
金沢や伊勢など県外の花火大会の開催に力を尽く
し、三河の花火師たちとともに参加し、戦後花火
の復興に貢献する。
 玩具花火にも工夫を凝らす。乱玉の星詰めなど
製法を研究し、量産に成功するとともに「ロー
ビ」を少し大型化し、竹びこの先に薬剤を入れた
紙筒をつけた「すすき花火」を考案。火花の美し
さを楽しむ玩具花火をつくっている。
加藤喜平(現在の加藤煙火(株))は、昭和二十
三年(1948)頃からパラシュート花火をつく
り、玩具花火製造に活を入れる。
 加藤徳雄に花火の技術を学んだ増田孝一(現在
の増田煙火(株))は、石川孫一郎(現在の(資)
石川煙火とともに2B弾を改造して昭和三十六年
(1961)こ音薬にアルミ剤を使用した「安全
2B弾」をつくり出す。
 打ち上げ花火の「玉」のサイズは、三寸玉、五
寸玉と言っていたが、昭和三十九年から号数で呼
ぶようになる。一寸は約3センチだから、玉の直
径が約9センチのものを3号玉という。約15セ
ンチの玉は五号玉、一尺玉は十号玉である。
 花火が戦前以上に親しまれるとともに、都市化
が進んで、花火の安全性が強く求められるように
なった。
 昭和二十五年(1950)には「五色玉」「一
発打ち上げ」などの玩具花火が禁止される。
 花火卸商である八帖の杉浦兼次郎(現在の(株)
稲垣屋)は全国に販売網を広げるとともに、玩具
花火の製造業者に安全確保を求めて、この禁止解
消に奔走し、成功を得る。
 昭和二十五年に花火販売業者によって十日会が
結成され、三河玩具花火卸業組合となる。杉浦を
中心に、その後も続く玩具花火の製造、販売禁止
問題と、安全性を高めるために力を注いだ。
 稲垣三郎は仕掛け花火の名手であった。昭和二
十六年の岡崎観光夏まつり花火大会で、仕掛け花
火コンクールに岡崎城と菅生川を組み、帆掛け舟
が進んでいるように描いて優勝する。以後三年連
続優勝し、通産大臣表彰を受けている。
 構想豊かな仕掛け花火をつくり出すとともに、
仕掛け花火の耐水性を高める工夫をした。花火に
雨は禁物で、仕掛け花火にとっては大変である。
蝋(ろう)引きの紙テープを接続個所に巻くなど
の工夫をしている。
 彼は花火の製法にも研完を重ね、ラベル自動貼
行機、細管製造機、紙片送出装置など数多くの特
許、新案登録など品質と生産性の向上に努めた。
また愛知県煙火組合長、日本煙火工業会副会長な
ど数々の役職を歴任している。 稲垣三郎、杉浦
兼次郎の戦後三河花人発展に尽くした功績は大き
い。
昭和二十八年(1953)の「岡崎観光夏まつり
花火大会」で、豊田の花火師・近藤金松は三尺玉
(三十号)の大玉を打ち上げ、三河花火の伝統の
技を発揮する。しかし、都市化、建物の高層化が
進んで、花火打ち上げの安全性はますます強く求
められ、大玉は上げられなくなった。このため、
打ち上げ花火は多彩な変化に技が競われるように
なった。
 「戦後の打ち上げ花火の名人」と、伊賀の花火
師・磯谷釘作(現在の(株)磯谷煙火店)は称え
られている。
 平成九年(1997)五月、「愛知万博」のP
Rを兼ねて三河花火がパリで打ち上げられた。蒲
郡市に住む花火師・加藤利宏さん(博之氏の長男)
が中心になって打ち上げられ、パリ市民らが歓声
を上げて、
  「星空の中にいるように美しい」
と、褒(ほ)めている。

 おもちゃ花火で遊んでいる子どもたち

 八重芯冠柳

  

 

 

 

 


 

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