伝統の三河花火(4)ー岡崎を中心に、その歴史と見方ー


 
   三河の花火師たち

 幸田の如意寺の僧・仰空信道(ぎょうくう・しんどう)は、
稲留流の打ち上げ花火に工夫を凝らして一派を編み出し、「良
光流」と号した。
 信道は隅田川の川開きに花火を送り、三河花火の名声を上げ
たと言い伝えられている。
 また、座敷花火を考案して、江戸の大名屋敷や料亭に送り、
玩具花火をも広めた。
 信道は「流星」に長じ、須美神社の奉納花火に大型の流星を
打ち上げ、五十本の傘を開かせたという。信道は文政九年(1
826)に没し、墓は同寺にある。

 

 岡崎地方の花火は、稲留流が中心であったと思われる。文化・
文政期の打ち上げ花火は、矢作の新堀村や西本西郷村の稲留流
の花火衆によってつくられ、打ち上げられている。菅生川原の
花火は彼らによって出された。
 稲留流花火の誓紙が、新掘、西本郷に、寛政十一年(179
9)から明治十二年(1879)までの三十四通が残っている。
花火の製造と打ち上げの許可を求め、技法の秘密と事故防止を
誓ったものと、火術伝授のお礼と秘密を誓ったものがある。
 奥殿村に、仕掛け花火に優れた花火師・鶴田民蔵がいた。稲
留流を伝授され、工夫重ね、文政年間(1818〜29)に火
色と仕掛けに卓越した技術を示した。有名な寺の堂塔や城門を
形どった大がかりなものを仕組んだ。
 奥殿の熊野神社祭礼に打ち上げ花火と仕掛け花火を出してい
たが、彼によって世間にその名を誇るものになった。
 奥殿には、もう一人の花火師がいた。奥殿藩士・中根泰蔵で
ある。稲留流学び、刈谷藩砲術から派生した荻野流花火も研究
し「一光流」を創出した。江戸へ出て研究を積み上げている。
 中根の「火術秘伝」の奥書に、

   元治元甲子年九月
   江戸二而(て)
   認(したため)ル

 とあり、百四十七種類の花火が記されている。
 明治二十九年(1896)の「一光流火術姓名記」には、県
下各地をはじめ、長野、富山、石川の各県にまで弟子が広がっ
ている。

 

 

 


 

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