伝統の三河花火(5)ー岡崎を中心に、その歴史と見方ー


 
    和火と洋火

 吉田(豊橋)に、仙賀佐十という近代花火の祖と
いれる人がいる。元治元年(1864)禁門の変が
起き、仙賀は志を立てて京都に行ったが、既に戦い
は終わっており、失意の足を長崎へと向けた。そこ
で花火の研究をし帰郷した。
 塩素酸カリウム(塩剥=えんぽつ)を用い、鮮や
かな光を放つ花火をつくりあげた。世に「仙賀流」
といわれる。
 黒色火薬を主に、樟脳(しようのう)や鉄粉を混
合する「和火」に対して、塩素酸カリウムのような
発行剤や金属化合物の色火剤を配合したものを「洋
火」という。これら新しい火薬が明治十年代に輸入
されるようになり、日本の近代花火が始まる。
 仙賀は「洋火」を試みた先人であった。
 塩素酸カリウムが、明治十二年(1879)頃に
輸入された。高温で燃焼し、花火の鮮光度が高なっ
た。
 さらに、賞賛ストロンチウム(赤色)、硝酸パリ
ウム(緑色)、硫酸銅(青色)などの色火剤が輸入
されてきた。
 江戸時代以来、硝石(硝酸カリウム)と硫黄、木
炭「黒色火薬」で花火をつくってきた花火師にとっ
て、これらは目を見張る薬品であった。かくして多
彩な色火を発する花火へと移行して行った。
 しかし、塩素酸カリウムは、他の酸化薬品を混入
すると不安定になり、ちょっとした打撃や摩擦で爆
発する危険がある。花火師たちは、命がけの研究を
して行った。
 洋火の先駆者・仙賀佐十は明治十三年(1890)
二月十一日の「帝国憲法発布記念花火」を東京・不
忍池(しのばずのいけ)で打ち上げ、その絢爛(け
んらん)たる美しさに、見物の人々を魅了した。三
河花火の名を全国に高からしめたが、明治三十五年
(1902)に花火の研究中、突然の爆発でこの世
を去った。享年五十歳であった。
 豊橋出身の貿易商・中村甚大は、東三河の花火を
アメリカヘ輸出し、花火輸出の先鞭をなす。
 豊橋にあった燦煙(さんえん)社は、明治十四年
(1881)に疋田又衛門をアメリカに派遺して、
ポストン、ニューヨーク、フィラデルフィアなどの
各地で花火を打ち上げさせ、宣伝している。大いに
人気を博したという。
 西三河では、鶴田民蔵の技術を受け継いだ同郷の
加藤龍蔵が、洋火を取り人れて一派を編み出した。
「熊野流」と呼ばれた。仕掛け花火や打ち上げ花火
は素晴らしく、門弟は三百人を越え、静岡県にまで
広がっている。

 

 

 


 

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