第1回 自分のことを伝えよう
 

「もうポンコツだからとか、勝ち目があるとかないとか、そんなことじゃない。そうして今まで生きてきた。そしてこれからもだ。」

青春真っ只中の頃、必死に読んだ漫画の中のセリフ! それは強烈にオレの中の何かを刺激した。障害者として生きてきて二十年。「なんで普通の人がやっていることがオレに出来ないんだ!」と自分の中の怪物が暴れ回っていた頃だった。

みんな就職をして、仕事をして、自分の生活を作っているのに、このオレは「あれも出来ない」、「これも出来ない」と、出来ないことばかりが目の前に迫ってくる。

親に面倒を見てもらい、親が亡くなったら、兄弟の所か施設に行って一生を過ごす。「そんな人生しかないのか!」 オレの中の怪物は悲鳴をあげて叫んでいた。そんな時、このセリフと出会う。

「障害者だから」とか、「出来るとか出来ない」とか、そんなの関係ない。オレが生まれてきた意味や自分らしい生き方を本当に考え出した。 「出来ないことを出来るようにするためにはどうすればいいのか?」、「社会の中で楽しく生きるためにはどうすればいいのか?」、そして一番考えたのは、「そのために自分は周りの人に何をしたらいいのか?」。

悶々とした日々の中で、いつもこのセリフをオレの支えにしてきたように思う。

 

年寄り臭い言葉だが、今の若い障害者は、制度が整い始め年金もそれなりに支給されるようになり、「こんなものか」と思ってしまえばそれなりに生きて行けるようになってしまい、そこで落ち着いてしまっているように見える。

「もっとやりたいことがあるのではないか? もっと言ってもいいのに!」と思うことがよくある。

「何がしたい?」、「何処に行きたい?」、「何が食べたい?」、「どんな服が着たい?」と聞いても「何でもいい。何処かに連れって行って欲しい」という言葉が返って来てビックリする。

 

他人任せで人生を過ごしては、誰の人生かが分からなくなる。自分のやることと他人に頼むこととをしっかり区別しないと、結局自分の望むような人生は歩めない。

変わり者かもしれないが、オレは他人にやってもらうのがあまり好きではない。遊びでも、誰かと一緒に行く時には、行き先は自分で決めたい我儘な人間である。

親切な人と釣りに行くと、仕掛けから取り込み、餌づけと全部やってくれる。釣れたら一緒に喜んでくれる。嬉しいのだが、「何か違う」と思ってしまう。これではオレが釣ったのではなく、釣らせてもらったという気分になってしまう。

動きの悪い手で釣り糸を結び、指を血だらけにして餌をつけ、車いすから落ちそうになりながら海に仕掛けを投げる。そうして釣れた魚は、まさしく「釣った」と言える。

出来ない所を手伝ってもらっても、糸の結び方、仕掛けの作り方を指示する力があれば、それはやはり「釣った」と言える。

人生も同じではないだろうか?

 

“他人に何かを頼む時の自分の思いの伝え方”をしっかり身につけないと、知らないうちに「他人任せ」の人生になってしまう。

 

頑固と言われようが変わり者と言われようが、自分の生き方を見つけてそれに近づいていくことが、理解者を増やし豊かな人間関係を作ることだと思う。

口で言うのは簡単だが、なかなか難しいことだ。でも、大きな壁があるからこそ、乗り越えた向こうの景色が美しく感じられる。

スマートに自分の欲しい物を手に入れるより、泥臭くいろんな方法で失敗を重ねながら手に入れる方がオレは好きだ。

自分の可能性を自分で限定するような行き方は、生きている意味がないとさえ思えてしまう。

 

金があるとかないとか、体が動くとか動かないとか、そんなことはどうだっていい。何がしたいか、何が欲しいか、どんな生き方がしたいか、周りにどんどん発信しながら、我儘と怒られたり、けなされたりしながら生き方を探して行くことが一番面白いと思える。

苦労するためや、辛い思いをするために生まれてきたわけではない。面白く、楽しく生きるために生まれてきたことを忘れないようにしたい。

 

そのためには、自分のやるべきことをしっかり自覚していかなければ・・・

 2013.09.24


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