第4回 差別と特別扱い

 オレは小さい頃から障害を持って生きてきた。でも、「みんなと同じことがしたい」と思ってきた。運動会も遠足も修学旅行も勉強も「特別扱いをされることが大嫌いな」人間だと思ってきた。

近所の子が凧揚げをしたり、独楽をまわしたりしていると「オレもやりたい」と親に言って買ってもらっていた。オレの親も偉いなと今思うのは、「お前になんかできない」とは言わなかったことだ。買って自分で出来ないことを知らせたかったのかもしれないが、その時は同じ物が手に入り、嬉しかった。

でもその後で、出来ないことを知ってがっかりした。そんなことの繰り返しをしてきた。今思うとすごくわがままな、可愛げのない子どもだったことが想像できる。

独楽の糸が巻けない。風がなければ走らなければ凧は揚げられない。そんな挫折感を味わいながらも己を知らないオレは何でもやってみた。母の手に引かれ買い物に行くと、おもちゃ屋で珍しいものを見ては、せがんで買ってもらった。

外国製の独楽やその当時はなかったが、大人になってからゲイラカイトが出たときは真っ先に手に入れた。小さい頃できなかった悔しさを持ち続ける、シツコイ性格・・・。

学校に上がってからも、友だちが悪いことをすれば、面白がって一緒に騒いだりいたずらもした。しかしおかしなことに、軽度の障害は持った生徒は怒られるのに、オレは見逃されていた。これはおかしいぞ!重度な障害を持っているだけで同じことをやっても怒られないのはなぜなのかと、子ども心に不思議に思っていた。(それを悪用もしていたような気もする)

ある時、新任の先生から頭を拳骨で殴られた。「痛い!」と思ったが、妙に嬉しかった。同じように一緒にやっていた連中も殴られた。その時から「この先生は信頼できる。本気でオレを見ている」と変な信頼感が湧いたのを覚えている。

学校を卒業してもやはり特別扱いをする人間の中で生きてきたような気がする。年頃になり、異性を好きになって告白しても、第三者を通して断られたりしたこともあった。これはかなり応えた。後からどうして「直接言ってくれないのか」と言ったことがあったが、『傷つけるのが悪い気がして』と言われ、一人前の男と見られてなかったことを痛感した。心の中で「直接言われるよりよっぽど、大きく傷ついた」と本人に向って叫びたかった。

そんな頃、ある障害者運動の会の代表と会った時、両親と一緒に行ったオレを見てその代表の人は言った。

20歳を過ぎた男が親に連れられてきて、喜んでいるんじゃない!」

 「何も喜んで連れてきてもらったわけじゃないわ、他にいないじゃないか!」と怒りも湧いたが、同時に「この人、オレを対等な男と見て叱ってくれている」という思いに強く動かされた。
他人に頼むことをせずに、親しかいないと思っていたオレの努力がなかったことを教えられた。生まれて初めて人としての責任の取り方について問いかけられた気がした。

特別扱いに慣れてしまうと、親しかいない。障害者なのだからこれぐらいは許されるというような甘えが出てきてしまう。そしてだんだんそのことに麻痺してくる。

展覧会や博覧会で長い列を作って順番を待っている人たちを横目で見ながら、涼しい顔で入れてもらうことがオレは嫌で仕方がない。主催者は好意でやってくれるのだが、なぜかとても嫌な気がする。もちろん、病弱で体力のない人は見られないようなことではいけないし、見る権利はある。そこには合理的配慮は必要だが、みんなと一緒に並んで入れたときの喜びを共感できる関係を作りたい人は、並んでもいいのではないかと思う。障害者だから優先的に入ると言うより、並ぶか並ばないかを選択できるといいと思う。行列の出来るラーメン店では決してそんな配慮はされていないし、早く食べたければそこに行かなければいいのだから・・・。

障害者と対面した時、普通の人は慣れていないので、不自然に丁寧に対応したり、優しすぎる手を差し伸べてくれる。これはとても居心地が悪い。かといって、逆に無視したり、荒く扱われたり、言葉を選び過ぎて会話が成り立たないようなこともある。

オレは普通に扱ってほしいだけなのに、障害者を特別な存在とまだまだ見られているような気がする。障害者だけが苦労している訳ではない。人として生まれた限りは、人生の試練は誰にでもある。そのことをみんなが理解して、対等な人間として付き合うこと。

人権、権利もすごく大切だが、そのためには、自分でやるべきこと、責任を取ることが必要になる。難しいことではなく、自分のやれることをしっかりやる。人が悪いことをしたら障害があろうがなかろうが、責任をとってもらうようにしていくことを自分にも課して行きたいと思う。

出来ないことも多い、出来ることもいっぱいあることを障害を持った人たちにわかってもらいたい。普通に扱ってくれることを障害者は一番望んでいる。

社会的な経験不足とは、人と会う機会が極端に少なかったり、失敗する前に誰かが手を差し伸べてしまうことではないかと思う。オレ達が望んでいるのは、手を差し伸べる優しさよりも、失敗を許し、危険を冒すことを認めること。それが「人間としてどうなんだろう?」という目で、対等な立場で注意し合える関係を作りたい。

 2014.2.12


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