blueball.gif (1613 バイト) 基礎知識 blueball.gif (1613 バイト)


氏姓制度

先秦期の人々、少なくとも貴族階級の人々は二つの名字を持っていた。それが「姓」と「氏」である。簡単に説明すれば、姓は部族の名前である。例えば王朝の王族は「」、太公望を始祖とするの公族は「王朝の末裔は「」、王朝の末裔は「ji.gif (126 バイト)」(じ)といったようにそれぞれ部族別に固有の姓を持ち、分家・本家を問わずその子孫は全て同じ姓を受け継ぐわけである。同じ姓を持つ者は同じ一族というわけで、同姓同志の結婚は基本的に認められない。また姓に用いられる字は女偏が付くものが多い。

では氏とは何か?氏は、部族より範囲の狭い一族の名称である。基本的に「」・「」・「」など自分たちの領地や住んでいる土地の名前、あるいは「」・「」など祖先の名前や字の一部、または「司馬」・「」・「」(理)など祖先の官位を氏とする。氏は姓と違って何度でも変更が可能である。一族挙げての土地の移動、分家、本人の身分の変化といったイベントがあるごとに氏を変えていくのである。

その例を1つ挙げてみよう。戦国時代のの国で宰相として改革を行い、を強国に押し上げた商鞅(しょうおう)である。彼は元々という国の王族であり、「公孫鞅」と呼ばれていた。それが国を出て孝公に登用されると「衛鞅」と呼ばれるようになった。その後に宰相として功績をたて、(お)の地を与えられると、「商鞅」と呼ばれるようになった。このように場合によって氏を一生の中で何回も変えることがあったのである。

基本的に男子は、管仲とか管夷吾(この場合、「」が字で「夷吾」が諱)といったように、氏と諱(もしくは字)を名乗り、女子は妲己(だっき)のように、字・姓の順で名乗る。(「」が字で「」が姓である)

しかし姓や氏を持てたのは、広い意味での貴族階級(士・大夫と呼ばれる)だけであった。庶民が氏姓を持てるようになったのはの天下統一以後と考えられている。

こういった氏姓制度は次第に、厳密に守られなくなり、前漢の頃には氏と姓の区別がつけられなくなっていた。また女性も男性と同様に氏と名の順で名前を名乗るようになったのである。氏を商鞅のように何回も変えるという習慣も無くなった。ただ同姓同志は結婚しないという風習は、氏が同じ者同志は結婚しないというふうに少し形を変えて、後の時代にも行われた。

追記

「氏」に関しては、特に春秋時代には多くの氏を同時に用いていた傾向があり、「氏を変える」というより「氏が増える」といった方が適切なのではないかという、danさまのご指摘がありました。

また同様に、『春秋左氏伝』隠公八年の伝(岩波文庫版では番号9)に、貴族が自分たちで勝手に氏を変えるのではなく、王や国君が家臣にそれぞれ氏を与えるとの記述があると、ご指摘をいただきました。

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諱と字

諱(いみな)とは、本名のことである。基本的に両親や主君以外からは呼ばれることが無い。同輩や目下の者からは、字(あざな)で呼ばれる。古代の中国では、その人の名前を知り、呼ぶことでその人の人格を支配したり、呪いをかけたり出来るという言霊信仰が存在した。だから字が本名である諱の代わりに日常的に使われた。諱で人を呼ぶことは、たいへん失礼なことだったのである。

字は、その人が成人した時に人に付けてもらったり、自分でつけたりする。基本的に「」や兄弟順を表す「」(あるいは「」)・「」・「」・「」に、諱に関連する一字を付ける。例えば孔子の本名は孔丘と言うが、これは孔子が生まれた時に頭の形が「尼丘」という山に似て真ん中がくぼんでいたからである。彼は次男であったので字を「仲尼」とした。「」とは、「尼丘」の「」である。「」を字に付ける例は、孔子の弟子の子路子貢の政治家・子産など数多く見える。その他、一字の後に「」(「ほ」と読む。「」字で代用することもある。)を付けるというパターンもある。の重臣、季孫行父の「行父」がこれにあたる。

ただしこれらはあくまで基本原則であり、諱と関係の無い字を付けたり、字を「」とか「」とか兄弟順を表す一字だけにするというパターンも見られる。管仲劉邦がこの例である。(劉邦の字は「末っ子」を表す「」一字である。)

字はあくまでも諱の代わりに使われるものなので、「劉備玄徳」のように氏姓と諱・字をつなげて呼んだりはしない。劉備の場合であれば、普段は「玄徳」、あらたまって呼ぶときに「劉玄徳」と言ったりする。『史記』でも項籍を「項羽」と字でもって呼んでいる。

女性の場合は、特に名前を隠さねばならないとされていた。諸侯の妃なども、「斉姜」・「驪姫」(りき)といったように、姓の上に出身国名を付けたり、あるいは「孔姫」のように夫の氏や領地の地名を付けるといった形で呼ばれていた。諸侯の国は、王室から分かれ出た国が多く、従って諸侯の娘も「○姫」と名乗る者が多かった。ここから、王朝が滅びた後も貴人の娘を「」と呼ぶようになったという。

追記

「諱」に関しては、danさまより『春秋左氏伝』桓公六年の伝(岩波文庫版の番号5)に諱の付け方についての記述があるとの指摘をいただきました。以下、これを要約して記す。

1 信…生まれた時の特徴で名付ける
2 義…徳にちなんだ名を付ける
3 象…その子の容貌に似たものを名とする
4 仮…いろんな物の名前から名を取る
5 類…父と関係することから名付ける

また同文中には、国名・官職名・山川の名・病気の名称・祭祀に用いる家畜、器物、玉帛の名称を君主の名前に用いてはならないとある。というのは、中国には古代から近世まで、君主の諱に使われている漢字を書物などで使ってはならないという決まりがあったからである。もし君主の諱が官職名と同じならば、大抵は官職名の方を変更してしまうのである。例えばでは武公の諱が司空であったため、司空の官は司城と改められた。

このような名称の変更によって無用の混乱が起こるのは言うまでもない。だから特に君主が自分の子を名付ける時は、官職名・山川名などを避けたのである。

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諡号

前の項で説明した「諱」と「字」は基本的にその人が生きている時の名前である。死後には、特に王や諸侯・高位の貴族の場合、「諡」(おくりな)が付けられる。諡号(しごう)は、王や諸侯の場合は「」・「」・「」・「」など生前の業績にふさわしい一字に「王」・「公」を付ける。例えば「文王」・「桓公」といったようにである。貴族の場合は「文子」・「簡子」のように末尾に「子」の字を付け、氏と合わせて「季文子」・「趙簡子」と呼んだりする。

女性の場合は、独自に諡を付ける場合もあるが、大体は亡くなった夫と同じ諡が付けられる。例えば聖叔の妻は聖姜といったようにである。

また諡には、それぞれ良い意味を持つものと悪い意味を持つものがある。「」・「」などの字は名君に付けられることが多く、「」・「」・「rei2.gif (119 バイト)」(れい)といった字は暴君や暗君に付けられる。どの字が諡としてどのような意味を持つか、あるいはどんな字が諡として使われるかは、諡法(しほう)としてきちんと定められている。

追記

当初、良い意味を持つ諡として「」・「」の次に「」を挙げていましたが、danさまから春秋・戦国時代に「明公」という君主はいないのではないかという指摘がありました。自分でも調べてみましたところ、「」の諡を持つ君主はどうも以後にしか存在しないようです。そこで本文からこの部分を削除いたしました。

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身分制度

先秦期の身分制度は、下のように定められていた。

〈上位〉   王   公   卿   大夫   士   庶人   工商   奴隷   〈下位〉

このうち、王から士までが貴族階級である。王はの王、公は各地の諸侯を指す。公は王家の分家が多く、大夫は諸侯の家からの分家が多く、士は大夫の家からの分家が多い。大夫(たいふ)は、一般に宮殿に出入りし、政治に参画する権利を持つ貴族である。その中から、首相級の卿(けい)が選ばれる。士は貴族というものの、庶人と同様に貧しい暮らしをしている者も多かった。孔子も士の階級出身である。

庶人は、いわゆる農民のことである。政治には参加出来ないが、一応自由民とされた。工商は職人と商人を指す。彼らは奴隷ではないものの完全な自由民でもなく、職業選択の自由が無かった。彼らが経済の発展により力を得たあとも、長い間卑しい身分とされていた。

また、元々下級の貴族や庶人であった者が、戦争で捕虜となったり、経済的な理由で身分を放棄し、人身売買によって奴隷となることがあった。彼らは君主や貴人に召使として仕えた。男の奴隷を「臣」、女の奴隷を「妾」(しょう)と言う。その職務によって「隷」・「僕」・「圉」(ぎょ)・「台」などと呼び分けられることもある。奴隷は基本的に一生奴隷だが、百里奚(ひゃくりけい)のように、主君から才能を認められて重職に抜擢される者もいた。

しかしこの身分制度は、春秋時代の終りから戦国時代にかけて徐々に崩壊していった。元来、戦争には大夫・士といった貴族しか参加出来なかったが、庶人や奴隷も歩兵として戦争に参加出来るようになったからである。当然彼らも、手柄を立てれば庶人や貴族階級に昇格出来る。逆に能力の無い貴族が庶人や奴隷に降格されることも起こるようになった。こうして身分の流動化が進み、士と庶人、庶人と奴隷の境目がだんだんと曖昧になっていったのである。

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戦争の方法

中国の戦争と言えば、一般に騎馬と歩兵での戦いを思い浮かべることが多いであろうが、から春秋時代にかけては、まだ騎兵は存在していなかった。ではどうやって戦争を行っていたかと言うと、戦車を使っていたのである。戦車というのは、戦闘用の馬車である。人が三人乗れるくらいの幅を持った長方形の箱に、両側に大きな車輪を付け、二頭、或いは四頭の馬をつないで戦場を走らせるのである。

戦車の乗組員にはそれぞれ違った役割を持っている。戦車の真ん中に乗る者は御者として車の運転を司る。戦車の右側に乗る者は、戈(か=矛や槍の一種)を持ち、これを振り回して向かってくる敵の首を斬りとる。左側に乗る者は弓矢を構えて敵を狙い撃つ。この射手は車長といって、戦車の乗組員のリーダーとなる。乗組員はそれぞれ立ち乗りして敵と戦ったのである。戦車に乗れるのは、貴族だけであった。また戦車一両につき、歩兵十人が付き従い、弓矢や戈にやられて車から落ちた敵将の首を取ったりした。この歩兵は、貴族に仕える従臣たちが務めた。

春秋時代半ば頃から戦国時代にかけて、次第に小回りの利く歩兵が戦闘の主力となってきた。そこで歩兵の数も、戦車一両につき十人から三十人、更には七十人と増やされ、それに伴って一般の農民や奴隷もこの歩兵として戦争に参加出来るようになったのである。

そして戦国時代になって、武霊王が北方の遊牧民族から騎馬戦術を導入したのである。国は機動力のある騎馬を導入したことによって一躍、軍事大国へと発展した。の次に騎馬戦術を導入したのはであった。はこれによって次々と列国を滅ぼし、天下統一を成し遂げたのである。これ以後、中国の戦争は騎馬によるものが主流となっていくこととなる。

追記

当初本文では、戦車には座って乗るというような記述をしていましたが、danさまから戦車は立ち乗りするのではないかという指摘をいただきました。確かにその通りです。本文の該当部分を訂正いたしました。また、戦車に貴族しか乗れないのは、戦車を乗りこなすのに相当の訓練が必要だからではないかという意見もいただきました。

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都市と城壁

「春秋・戦国時代とは?」のコーナーで述べているように、太古から始皇帝の天下統一までの歴史は、都市国家による兼併の歴史であると言える。ではこの都市国家の構造は、一体どうなっていたのであろうか?

まず、めいめいの都市のことを代には(ゆう)と呼んだ。そして時代が進み、春秋時代になって勢力の強い都市国家が弱小都市を配下に収めるようになると、中心となる都市(つまり首都)は(国)、地方の小都市はと呼ばれるようになった。なお、古いの都市の名に宛丘・営丘・雍丘など「丘」のつくものが多く見られるため、当初都市は一般的に小高い丘陵の上に建てられていたという説もある。

これらの都市は基本的に城壁で囲まれている。これは古代に限らず、他の時代でも同様である。だから中国では昔から「城」と言えば、城壁で囲まれている町や都市のことを示す。なおかつ城壁が撤去された現在でも中国語では町や都市のことを「城」・「城市」と言ったりするのである。

余談はさておき、この城壁は版築という方法で、杵で土を突き固めて作られた。初めこの城壁は一重であったが、時を経るにつれ、人口の増加による都市の拡大と防衛上の問題により、もう一重城壁が築かれるようになった。この都市の内側の城壁を、もしくは内城と呼び、外側の城壁を外城と呼ぶ。二重の城壁が敷かれるようになると、内城の内側には国君の住む宮殿が築かれるようになり、外城の内側には人々の住居などが築かれるようになった。更に外城の外側には田畑が広がっており、人々は日中、城の門から城壁の外に出て耕作に励んだのである。

日が暮れると合図の太鼓が鳴らされ、城門が閉じられてしまう。この時に城壁を登って町中に入ろうとする所を見つかると、どんな身分の者でも厳しく罰せられた。

さて、他国との戦争の時には、人々は外城)の中にこもって戦うこととなるが、このが陥落した時点で都市を防衛する側の敗北が決まったのである。だから各国は外城の補強に努め、一方の内城は手入れもされず、朽ち果てたまま放置されるようになった。そういったわけで、後には外城であるのことを「」と呼ぶようにもなったのである。

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都市の生活

前項では都市の城壁について説明したが、では都市の内部の構造はどうなっていたのであろうか?まず人々の居住区には、縦横に(がい)と呼ばれる大通りが通っている。そしてそのから、(く)と呼ばれる支道が出ている。そので囲まれた区域を(り)と呼ぶ。

このの中に、民家が左右に分かれて建ち並んでいるというわけである。このや民家の周囲も土壁で囲まれている。(これをと言う)の中に入るには、閭門(りょもん)という入り口を通らなければならない。閭門も日が暮れたら閉められてしまうので、人々はその前にここを通って田畑から家に帰らねばならなかった。この閭門から縦に、それぞれの民家の前を(こう)という道路が通っている。このが狭い路地である場合は、陋巷(ろうこう)と呼ぶ。『論語』に言う「陋巷に在り」陋巷とはこれのことを指す。また閭門の周りにはと呼ばれる空き地があり、子供達がここで集まって遊んだと言う。

特に大都市では、の一つを当ててという区域が作られた。というのは名前の通り、商取引の場であり、所狭しと商店や露店が並び立っていた。戦国時代に入ってからは他国からの物資も市に流入するようになった。または商売だけでなく、娯楽の場でもあったのだ。では毎日のようにドッグレースや闘鶏といったギャンブルが行われ、演劇やサーカス・音楽・講談、時には公開処刑も娯楽として人々の注目を集めたのである。『史記』に書かれているエピソードも、元々はこので行われていた演劇や講談をそのまま採用したのではないかという説もある。

これら都市国家の人口は、春秋時代の頃には多くても一万戸(一万世帯)であったが、戦国時代に入るとの都・shi2.gif (125 バイト)(りんし)に代表されるように、七万戸を越える大都市が出現し始めた。

こういった都市の体裁はの天下統一後も存続した。王朝のもとでは、それぞれの都市の規模に応じて県・郷・亭といった区分けを施され、これが後漢の頃まで残ったのである。

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覇者と会盟

春秋時代と言えば五覇を思い浮かべる人も多いのではないだろうか?いわゆる春秋五覇とは、斉桓公宋襄公晋文公秦穆公楚荘王呉王闔廬呉王夫差越王句践らのことを言い、覇者の中でも最も有名な五人を挙げたものである。この覇者のシステムは、どういう経緯を得て出来上がっていったのであろうか?それを見ていくには、まずの東遷について触れなければならない。

前770年、西周の都・鎬京犬戎という異民族の侵略を受けて陥落し、東の洛邑へ都を遷さざるを得なくなった。この時から王朝の勢力が急激に衰え、諸侯の治める都市国家の盟主から、事実上弱小都市国家へと地位が転落したのである。当然王朝は他の諸侯を統制する事が出来なくなり、勢力の強い諸侯たちは弱小な都市国家への侵略を開始し、領地をめぐっての諸侯同士の争いも頻発するようになった。

それと同時に、北方ではと総称される異民族が南下を始め、南方でも国が勢力を伸ばして陳・蔡・鄭・宋といった国々を脅かし始めた。魯・斉・晋・燕・衛・宋・陳・蔡・曹・鄭といった国々は同盟を結び、協力してこれらの異民族に対抗して領土を守っていく必要に迫られた。また、特に弱小国は諸侯同士の紛争を調停出来る強力な指導者をも欲したのである。本来は全て王朝が担うべき役割であったが、これらを弱体化した周王に代わって執り行ったのが覇者である。

最初に覇者として現れたのは斉侯であった。釐公僖公)・襄公の代から国勢を強めて諸侯同士の紛争を調停したりしていたが、桓公管仲の補佐を得て更に国力を高め、諸侯から覇者に選ばれることとなった。桓公は自ら王となることはせず、尊王攘夷を唱えて周王を尊び、を代表とする異民族を打ち払うことを宣言したのである。

その後、覇者の地位は呉・越が勢力を伸ばした時期を除けば、主としてが担当することとなった。秦穆公・楚荘王は中原から外れた地域の覇者であったと言える。特には、陳・蔡・鄭といった南方の弱小国をまとめて自前で同盟を結成し、の同盟勢力と対抗した。陳・蔡・鄭などの弱小国は状況によっての傘下に入ったり、に寝返ったりしていた。それによって自国の保全を図っていたのである。

覇者は諸侯をある土地に集め、会盟を開いて諸々の案件を取り決めた。では一体どういう事を取り決めたのであろうか?吉本道雅氏の『春秋晋霸考』という論文(『史林』76巻3号)に詳しくまとめられている。これを参考にして見ていくと………

1.同盟もしくは同盟国の保全を目的としたもの

同盟外の勢力(異民族)の侵略に対する共同防衛・同盟国同士の紛争の調停・同盟国の災害の際の援助・同盟から離反した国への制裁・その制裁を終えた国の同盟復帰承認・同盟の更新・その他同盟を維持していくための取り決め………

2.周王朝・覇者への優位性の確認を目的としたもの

勤王の精神の確認・覇者への義務(朝見・貢納・軍役)の確認………

3.同盟外勢力と特定の関係を結ぶことを目的としたもの

晋・楚の講和・との関係樹立………

つまり、同盟国は覇者に対して貢納・朝見・軍役といった義務を負う代わりに、自国が異民族や他国に侵略されたり、紛争を起こした場合は、覇者からの援助や調停が得られるという仕組みになっていたのである。

この枠組みが崩れだしたのは、前546年のの盟における晋・楚講和以後である。これによりを中心とした異民族から国を守るという同盟の趣旨が曖昧になった。また、同盟を司るべき君が氏・氏・氏といった貴族たちに圧倒されて勢力を失っていったのも原因の一つである。覇者体制は、同盟国から貢納などを受け取るだけで覇者が満足に働かないという、一方的な収奪の体制へと変化し、それに失望した諸侯が次々と同盟から離脱して覇者体制は解体していった。

時に時代は春秋から戦国へと移りつつあった。大国は統治技術の発達により、弱小国を傘下に納めるのではなく、直接弱小国を併呑して自国の領土とするようになった。また諸侯が自ら王と名乗るようになり、尊王攘夷の精神も完全に失われてしまったのである。

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