『史記』
今まで「春秋・戦国列国志」では、ほぼ東周時代のエピソードを紹介していくだけだったし、もうちょっと歴史サイトらしい事もしてみようと思い、こういうコーナーを作ってみました。今回は「基礎編」として『史記』に関する基本事項をまとめてみました。
(2001年8月18日 訂正・増補)
基礎編
【司馬遷について】 【『史記』の構成】 【版本と注釈】 【図版】
研究編
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基礎編
まず最初に、一般に『史記』の著者とされる司馬遷の略伝を述べていきたいと思う。「太史公自序」(『史記』の最後にある司馬遷の自伝部分)によると、彼の遠祖は西周王朝に代々仕えた史官の家系に当たり、その中でも直接の祖先は秦の恵王に仕えた司馬錯であると言う。父の司馬談の代に、漢王朝の太史令の官に就いた。これは史官の長官であるが、天文の観測・暦の作成・国家の祭祀が主な業務であり、国の歴史を著述していくことはその職務の一部に過ぎなかった。司馬談は唐都から天文を、楊何から易を、黄子(黄生)から道家の説を学んだ。
司馬遷の生年については諸説あり、前145年(景帝の中元5年)と前135年(武帝の建元6年)が有力とされている。今の陝西省韓城県の竜門の出身である。幼い頃から『春秋左氏伝』・『国語』等の古文(始皇帝の焚書坑儒を逃れるために、孔子の子孫の家の壁の中に隠されていたとされる儒家のテキスト。古い篆書の字体で書かれていたのでこの名がある。)長じてからは孔安国に『書経』を、董仲舒に『春秋公羊伝』を学んだ。
彼は20歳の時に、父の命令で遊学を行った。まずは華南の長江・淮水流域に出掛けて、洞庭湖や禹穴(禹の墓)のある会稽山などを見て回った。その後斉・魯(今の山東省一帯)に向かって孔子の故郷である曲阜を訪ね、戦国の魏や楚の故地を巡り、それから都・長安へと帰還した。この旅行中に司馬遷は土地の古老から伝説や言い伝えを聞き、あるいは周の諸侯の記録を得て、後の『史記』の著述の材料となったとされている。
彼は遊学より戻ると、郎中として武帝に仕えることとなった。そして前110年(元封元年)、病身の父に代わって、武帝が泰山で封禅の儀を行うのに随行することとなった。その直後に父を見舞った時に、彼は司馬談から、遺言として自分が果たせなかった歴史書著述のことを託されたのである。前108年(元封3年)、父の死を受けて太史令となった。まずは公孫卿・壺遂らとともに太初暦の制定に尽力した。
しかし前99年(天漢2年)、運命の李陵事件が起こる。李陵は武帝の命を受けて李広利らと匈奴征伐に向かったが、合戦中にその大軍に囲まれて降伏してしまったのである。その李陵と彼の一族の処遇をめぐって論議が行われ、司馬遷は李陵を弁護したばかりに武帝の怒りをかい、宮刑に処されることになった。彼は歴史書著述の大志を抱いていたのでこの恥辱を受け入れ、やがて武帝にも許されて中書令の官に就いた。そして『太史公書』、後に『史記』と呼ばれる歴史書の著述を続行したのである。司馬遷は『史記』の草稿を完成させた後、数年後に亡くなったと考えられている。その没年についても複数の説があるが、おおむね武帝の崩御した前87年(後元2年)の前後に亡くなったのであろうとされている。
『史記』の草稿は前漢の宣帝の時代に世に出て、後に正史の筆頭とされるようになった。
『史記』は本紀12巻・表10巻・書8巻・世家30巻・列伝70巻の計130巻から成っている。黄帝を初めとする五帝から夏・殷・周の三代、秦、漢楚抗争期を経て前漢の武帝までの歴史を著述した通史である。『漢書』以後の正史はみな一代の王朝のみを扱った断代史となったが、本紀と列伝を中心とする紀伝体の形式は以後も受け継がれた。
1.本紀
五帝から漢の武帝までの帝王の記録。各王朝ごとの政治的事件を年代順に記した部分である。また漢以後は皇帝一代ごとに巻を改めている。殷周の戦いなど太古の歴史については、主に『書経』を引用して著述が為されている。始皇帝以前の秦の歴史を記した秦本紀を置き(本来は諸侯の歴史を記した世家に入れるべき内容である。)、五年の覇権しか持ち得なかった項羽の事跡を記した項羽本紀を設け、そして呂后本紀を置いて恵帝や少帝の事跡もそこに含ませたのが変則的で、それについては古来議論が行われ、その正否が問われてきた。
秦本紀や項羽本紀を挿入したのは、周から秦、秦から前漢に移る過渡期の歴史を読者がより良く理解出来るようするための処置であると考えられている。また呂后本紀を置いたのは、恵帝から二人の少帝の時代は呂后を始めとする呂氏一族が実権を握っていたからである。当時の一般的な認識からも、恵帝本紀や少帝本紀を置くよりも、呂后本紀を置いた方が自然とされていたのであろう。
2.表
表は太古の王朝の系譜・東周期や漢代の諸侯の年表・漢王朝の官吏の在職年表等を記した部分である。名称の通り、内容を表にまとめて一覧出来るようになっている。
3.書
書は音楽・天文・治水・経済など古代の文化史・制度史をまとめた部分である。礼・楽・律・暦・天官・封禅・河渠・平準の八つに分かれている。ちなみに書は『漢書』以降の正史では、志と呼ばれるようになった。
4.世家
周代から前漢に至る諸侯の国の歴史を、本紀と同様に編年的に記している。呉太伯世家・斉太公世家などの周代の封建諸侯の歴史を著述した部分と、留侯世家・蕭相国世家などの漢王朝の功臣や王族の伝記を書いた部分とに分かれている。前者は『春秋左氏伝』と共通のエピソードが多く、特に春秋時代の部分は『左伝』のダイジェストとの印象を受ける。後者の内容は列伝とあまり変わりが無い。事実、漢王朝の功臣で諸侯となった者でも、韓信のように後に謀反人として処刑された者の伝記については、淮陰侯列伝など列伝の部に入れられている。
また孔子や陳勝・呉広らの伝記も世家に分類されている。彼らの伝記は本来なら列伝に入れるべきなのだが、司馬遷は彼らの果たした歴史的な役割を鑑みて世家に分類したのである。
5.列伝
列伝は個人の伝記を集めた部分で、その個人の生涯を通して社会的・文化的な様相を描き出している。いわば政治史を追った本紀・世家を内容的に保管する役目を持っている。
列伝は商君列伝・孟嘗君列伝など基本的に1人の伝記を記した単伝、管晏列伝・孫子呉起列伝など2〜3人の同じ類型に属する人物の伝記を集めた合伝、そして酷吏列伝・貨殖列伝・游侠列伝など同じグループに属する人々の伝記を集めた類伝の3つに分かれる。中でも光彩を放っているのが、循吏・儒林・酷吏・游侠・佞幸・滑稽・貨殖といった類伝の部分である。また列伝部分の記述には、司馬遷が遊学中に得た体験なども盛り込まれており、(孟嘗君列伝の末尾、司馬遷が孟嘗君の領地であった薛について述べた箇所など)本紀や世家以上に多様な史料を用いて著述したことを想像させる。
司馬遷の父・司馬談は、『史記』を著述することにより天人相関説(天が常に人間の行いを監視し、良い行いをした者には福徳を下し、悪い行いをした者には罰を与えるという因果応報の思想。)を人間の歴史の中から明らかにしていくという構想を持っていたとされる。事実、例えば戦国時代の秦の武将・白起の伝記を扱った白起王翦列伝では、白起が趙との長平の戦いで降伏した敵兵40万人を結局騙して生き埋めにしてしまったことが天の怒りに触れ、結局白起自身も無実の罪で死ぬことになったと書かれている。ここでは悪業を行うといずれ天からその罰が与えられるという因果応報の法則が明らかにされているわけである。
ところが伯夷列伝では、伯夷・叔斉の兄弟や孔子の弟子であった顔回のような賢者が貧困の中で不本意な死を遂げたこと、それとは逆に盗蹠(とうせき)のような大泥棒が天寿を全うしたことを挙げ、「天道是邪非邪」(天道は是か非か?)と、天人相関説に対して疑問を投げかけている。これは言うまでもなく司馬遷が宮刑を受けたことが影響している。司馬談と司馬遷の天命に対する見方には、少しくズレが存在するわけである。
司馬遷の手によって著述された『史記』は、前漢の宣帝の時代、その外孫にあたる楊ツ(よううん)により世に出たとされている。しかし一部草稿が完全でない部分には、少孫らが補筆を加え、また早くに失われた孝武本紀は、後人が封禅書の記述を用いて補った。そして唐の司馬貞は、三皇本紀を著述して五帝本紀の前に付け加えた。
更に『史記』の注釈も多くの学者によって作られたが、その中でも最も有名なのは、六朝・宋の裴(はいいん)の『史記集解』(しきしっかい)・唐の司馬貞の『史記索隠』・唐の張守節の『史記正義』の3つである。この3つの注釈を合わせて三家注と呼ぶ。これらの注釈は『史記』本文とは独立して刊行されていたと考えられているが、宋版以降は割り注の形で本文とともに併載されるようになった。
現存する版本の中で最古のものが、北宋仁宗景祐監本である。それ以後本文と単数・複数の注釈を併せた集解単刻本、集解索隠合刻本などが印刻されるようになったが、時代が下ると、三家注と『史記』本文をまとめた三家注合刻本が作られるようになった。その最古にして最良とされるのが、南宋慶元黄善夫本である。これは日本にも現存し、もともと妙心寺の僧・南化が所蔵していたが、後に友人の直江兼続に譲り、直江家の断絶後、主君である米沢藩主・上杉家の所蔵に帰した。現在では国立歴史民俗博物館に移されて国宝に指定されている。
元代にも彭寅翁本等が刊行された。しかし元以後の版本は、三家注の中でも『正義』の削節が甚だしい。(前述の南化や直江兼続は、南宋慶元黄善夫本によって『正義』の逸文を集め、その復元を図った。)ともかくこれら宋版・元版はいずれもごくわずかしか現存しておらず、『史記』原文を校勘していく上で貴重視されている。
また奈良時代以降の日本にも『史記』のテキストは伝来し、当時の学生がもとのテキストから書写した古鈔本(古い写本)が現存している。これらを今日伝わる版本と比較するとかなりの文字の異同が見られ、やはり原文校勘の上で貴重視されている。
明代に刊行された版本の中では、震沢王延楓{がテキストの古形を残した善本とされるが、やはりわずかしか現存していない。その他に凌稚隆撰・李光縉増補『史記評林』が編纂された。これは本文・三家注に、それまで色々な学者によって書かれてきた多くの評論を合わせて掲載したものであり、明代までの『史記』研究の集大成とも言うべき書であった。これは日本にも伝来して大いにもてはやされた。清代には考証学が興隆した影響で、顧炎武・黄宗羲・趙翼を始めとする多くの学者が『史記』の校勘・校訂・注釈・その他の研究に携わった
中華民国期に刊行された顧頡剛(こけつごう)・徐文珊(じょぶんさん)点校の『白文本史記』は、テキストに初めて標点(句読点)と分断(段落に分ける)が施された。1927年以降に商務印書館から刊行された百衲本(ひゃくのうぼん)の正史二十四史は、それぞれ元の形をよく留めていると思われる版本を影印(写真製版)したものである。『史記』については南宋慶元黄善夫本を影印しており、優れたテキストであるとされている。中華人民共和国成立後、1959年以降中華書局から二十四史の標点本の第一弾として、三家注合刻の『史記』が刊行された。これは清朝の同治年間に刊行された金陵書局本を底本とし、国中の研究者を動員して本文と注釈に新たに標点・分断を施したもので、精密な校勘記も巻末に付けられており、今日では日本でも一般的なテキストとしてよく用いられている。
日本で刊行されたテキストの中で最も優れているのは、滝川亀太郎『史記会注考証』(東方文化学院・1932〜34年)である。これもやはり金陵書局本を底本とし、テキスト本文の校訂には日本に古来から伝わる古鈔本を用い、注釈には三家注のほか、清朝の考証学者や日本の江戸期の学者の説もふんだんに取り入れている。ことに張守節の『史記正義』の佚文(いつぶん=散逸した文)を諸版本より多く収集し、復元したことは評価が高い。これを底本とし、『史記』各版本の文字の異同を整理したのが水沢利忠『史記会注考証校補』(1957〜62年)である。また明治三年に、『史記評林』に訓点を附して出版された和刻本も、汲古書院から和刻本正史シリーズの一つとして刊行されている。
百衲本・和刻本・中華書局版・『史記会注考証』・『史記会注考証校補』については、こちらに図版を入れておいた。
1.史学への影響
『史記』は前漢の宣帝の時代に世に出て以来、劉向(りゅうきょう)や揚雄といった学者によって愛読された。特に劉向は『史記』の列伝に影響を受け、『列女伝』や『説苑』を著した。そして『史記』に触発されて、多くの人がその続編を著述した。その中でも有名なのが、後漢の班固の『漢書』である。これは『史記』の紀伝体の形式を踏襲したが、『史記』とは異なって前漢一代の断代史として編纂された。断代史・紀伝体という形式は、後続の正史の編纂の際にも受け継がれた。
しかしその『漢書』の中の「芸文志」には、『史記』は『春秋左氏伝』・『国語』・『戦国策』・『世本』等と同様に春秋類に分類されている。当時は、書籍を分類するのに「歴史書」という項目は無く、儒教の経典(けいてん)の中で、東周時代の魯の国の歴史を記した『春秋』に近い書物と考えられていたのである。三国魏以後、経(儒家の経典や注釈)・子(諸子百家の書)・史(歴史書)・集(詩文集)の四部分類が行われるようになって歴史書が春秋類より独立し、『史記』も史部に編入された。この四部分類は唐代以後、経・史・子・集に順番が代わり、以後清代に至るまで書籍の分類にこの方法が用いられた。
2.古文復興運動
漢の次の魏晋南北朝期には、貴族の間で四六駢儷体(しろくべんれいたい)と呼ばれる華麗で形式的な文体が流行した。この流行は次の隋・唐にも引き継がれたが、韓愈や柳宗元といった人々はこの駢文を否定し、魏晋南北朝期以前の古文を復興すること、つまり文学のルネサンスを提唱した。彼らは具体的な古文の見本として「左国史漢」、つまり『春秋左氏伝』・『国語』・『史記』・『漢書』といった書物を重要視したのである。
次の北宋期になるとこの古文復興運動は、唐宋八家文に名を連ねる欧陽修・蘇洵・蘇軾・蘇轍・曽鞏・王安石といった、科挙を経て官職に就いた士大夫層の手で更に推進された。そして彼ら士大夫によって『史記』の評論も多く書かれた。その中でも蘇軾の「留侯論」・「范増論」、王安石の「読孟嘗君伝」(孟嘗君伝を読む)等が代表的な作品である。殊に欧陽修は『史記』を愛読し、彼の手になる正史『新五代史』(正式には『五代史記』)は、特に『史記』の影響が強いとされる。その他、司馬光が『史記』以下の歴史書をまとめて『資治通鑑』を編纂したのも重要事項として見逃せない。
3.小説への影響
『史記』の後代の娯楽への影響としては、まず馮夢龍(ふうぼうりゅう)の『東周列国志』や京劇の「覇王別姫」など、直接『史記』の歴史物語から題材を得たものが挙げられる。
それ以外に、唐代伝奇と呼ばれる短編の伝奇小説群のほとんどが、『史記』列伝に影響を受けていると多くの学者によって指摘されている。唐代伝奇には確かに友人・知人からの伝聞という形で、列伝の形式に倣ってある特定の人物の伝記を描いたものが多い。韓愈の「毛穎伝」(もうえいでん)などは、明らかに『史記』列伝のパロディとして書かれている。内容的にも例えば、「聶隠娘」・「謝小娥伝」といった女侠物は、直接的・間接的に「刺客列伝」や「游侠列伝」のエピソードに影響を受けていると思われる。
明・清期の白話小説についても、例えば『水滸伝』が突き詰めれば「游侠列伝」から影響を受けているといったように、列伝部分からの間接的な影響がそれぞれの作品ごとに指摘されている。
小竹文夫・小竹武夫『史記』(ちくま学芸文庫・全8巻・1995年)
当初、1956年から翌年にかけて弘文堂より『現代語訳史記』として刊行され、後、1962年に改訂を経て「筑摩世界文学大系」に収録されたものを文庫化したものである。全訳本の中では最も入手しやすい。ただし「表」は序文の訳のみ収録し、本体の表を収めない。また、詳しい訳注が無いのも難である。
小川環樹・今鷹真・福島吉彦『史記列伝』(岩波文庫・全5巻・1975年)
『史記世家』(岩波文庫・全3巻・1980〜91年)
滝川亀太郎『史記会注考証』を底本とした部分訳。ほぼ逐語訳となっており、原文と対照させて読むには便利な本である。各編の巻末には詳細な訳注が付いており、そういった点では上記のちくま学芸文庫版よりもお薦めである。ただ、『史記列伝』は「扁鵲倉公列伝」及び「亀策列伝」を訳出していない。また、『史記世家』は現在絶版となっている。『史記世家』の復刊と、残る本紀・書・表の訳の刊行が望まれる。 ※
※ 『史記世家』は2000年7月に復刊された。
野口定男・近藤光男・頼惟勤・吉田光邦『史記』(平凡社・中国古典文学大系・全3巻・1968〜71年)
ちくま版と同様、『史記』の全訳本であり、やはり「表」は基本的に序文のみを訳す。ただ年表のみは写真版を挿入している。また「書」に関しては図版を入れてわかりやすくするといった工夫をこらしている。
吉田賢抗・水澤利忠『史記』(明治書院・新釈漢文大系・1973〜96年以後続刊)
こちらは訳文や簡単な注釈に加え、『史記』の原文と書き下し文も収録。現在本紀・世家・書の全文と列伝の一部が訳出されている。
一海和義・田中謙二『史記』(朝日新聞社・朝日選書(中国古典選)・全3巻・1996年)
刺客列伝・項羽本紀等、有名な部分を抜き出した抄訳。上巻が春秋戦国篇、中巻が楚漢篇、下巻が漢武篇となっている。原文・訓読・口語訳からなる。文章がこなれていて読みやすく、初学者にもお薦めである。所々に挿入される解説も秀逸。かつて文庫版、ハードカバー等、様々な形態で刊行されたが、現在ではソフトカバーの朝日選書で刊行されている。
『アジア歴史事典』(平凡社・1984年)
『アジア歴史研究入門 1』(同朋社・1983年)
宮崎市定『史記を語る』(岩波文庫・1996年)
池田英雄『史記学50年−日・中「史記」研究の動向−』(明徳出版社・1995年)
水澤利忠編『史記正義の研究』( 汲古書院・1994年)
また、中根東竜さまのご助言により、本文に訂正・補足を加えました。(2001年8月18日)
研究編では文字通り、歴史学を中心とした現代の『史記』研究の成果をまとめていきたいと思っています。具体的には、『史記』と語り物・『史記』と出土史料(甲骨文等)との比較・『史記』の引用史料・「世家」と「表」の編年の矛盾といったテーマについて触れていく予定です。
資料の下調べから始めて各テーマの内容がまとまり次第、順次更新していくつもりです。時間的に大分間が空いてしまうでしょうが、どうか気長にお待ち下さいませm(_ _)m