blueball.gif (1613 バイト)  宮城谷昌光の古代中華世界  blueball.gif (1613 バイト)


今回は遂に宮城谷小説についてコメントすることにします。代表作の『重耳』とか、短編集の『孟夏の太陽』なんかも読んでいるのですが、取り敢えず今回紹介するのは以下の三編です。


晏子
新潮文庫・全四巻

時は春秋時代も半ばを過ぎた頃。の国は覇者であった桓公の頃の勢力を既に失い、覇権はに移っていた。時の君主・頃公に対抗して覇権を再び取り戻さんとし、主人公・晏弱との戦いに赴くが・・・国内外に渦巻く陰謀を乗り切り、国のために力を尽くした晏弱・晏嬰父子二代の活躍を描く。

『重耳』・『孟嘗君』などとともに、宮城谷氏の代表作のひとつ。晏嬰よりも親父の晏弱がやたらと格好良いとか、崔杼の悪役ぶりがすばらしいというようなことは散々語られ尽くしていると思うので、ここではこの『晏子』と私個人との因縁を語ることで、紹介文に替えることにしたい。

第四巻のあとがきに、春秋時代金文(青銅器に刻された銘文)である叔夷haku.gif (125 バイト)(しゅくいはく)の、叔夷という人物が晏弱と同一人物であると仮定してこの作品を書き上げたというような事が書かれている。 何という偶然か、私はこの叔夷haku.gif (125 バイト)を卒論のテーマとして取り上げることになったのである。このあとがきの記述に気が付いたのは、卒論のテーマを決めた後であった。ただし卒論の本来のテーマは、叔夷晏弱であるかどうかを考察することなどではなく、銘文を一字一句解釈していくことと、器の制作年代を考察することであった。師匠にこの話を持ち出したところで「そんなもん小説家のたわごとやで!」と笑い飛ばされるのがオチである。だからこの件は私の心の中で、卒論の裏のテーマとすることにした。

この叔夷haku.gif (125 バイト)の銘文からは、確かに小説にあるように、叔夷が元々の公室の子孫であったが、に亡命して霊公に仕え、何らかの功績を立てたことによって(らい)という土地に領土を与えられたことが読みとれた。金文学の大家である孫詒讓郭沫若は、この叔夷『春秋左氏伝』襄公六年の伝に記されているところの、国の国滅亡に大功を立てた者であろうと考察している。それはかの晏弱が大功を立てた戦いでもある。しかしどの学者も叔夷晏弱だなどとは指摘していない。

それもそのはず、肝心の晏弱の方の系譜がはっきりしないので、「叔夷=晏弱」だとは安直に断言できないのである。そもそも宮城谷氏が参考にした白川静『金文通釈』では、この叔夷haku.gif (125 バイト)による国滅亡以前に作られたと書かれているのである。結局この件は自分の中で「所詮小説家の勝手な想像であろう。」と結論づけた。

その後、卒論を提出してから何ヶ月かあとに、このサイトの掲示板でこの小説と晏嬰の系譜についての話題を出したところ、「系譜資料に晏氏は斉の公族の子孫と記述してありますよ。」とのご指摘をいただいた。その系譜資料自体の信憑性はともかくとして、「叔夷=晏弱」説が自分の中で更に弱くなったのは確かである。

孟嘗君
講談社文庫・全五巻

時は戦国時代の国では重臣の氏が君主の位を乗っ取り、太公望以来の氏に替わって王位に即いていた。没落貴族の風洪は隊商の用心棒を勤めて自分と妹の身を養っていたが、ある日ひょんなことで一人の赤子を拾った。この赤子こそがの王族・田嬰の子、田文であった。後の孟嘗君である。風洪(後の大商人白圭)と田文、義理の父子二代の活躍を描く巨編。

主人公・孟嘗君のほか、商鞅・孫hin.gif (128 バイト)・蘇秦・張儀などこの時代の有名人が続々と登場し、戦国オールスター総出演の様相を呈している。また『晏子』と同様、主人公の父親(この物語では風洪)がやたら格好良くインパクトが強いが、その親父の書きっぷりが『晏子』の時と比べて更に磨きが掛かっている。宮城谷氏の他の作品と比べて明らかにエンターテイメント指向になっているのである。

エンターテイメント指向は、物語の設定にも如実に現れている。その設定とは、の王族の系譜である。『史記』においては、孟嘗君の父・田嬰威王の末子で宣王の弟ということになっている。しかし本作品のあとがきによると、『戦国策』『竹書紀年』、或いは『資治通鑑』の記述と比較して、田嬰は実は威王の弟ではないかと推測し、作品中でもそのような設定にしたのだという。

宮城谷氏はそう考えた方が歴史の実相に合うとか何とか書いているが、この「田嬰が威王の弟」という系譜を採用した理由は、もっと他にあるはずなのである。恐らく「田嬰威王の弟ということにしてしまえば、hin.gif (128 バイト)ばかりか無名時代の商鞅孟嘗君と同時期の人物として無理なく登場させられる。ということは物語がもっと面白くなるぞ、ヨッシャー!!」というような細々とした計算をしていたはずなのである。

そういう計算(?)のかいあって、終盤がどうでもいいような展開となったことをのぞけば、見事なエンターテイメント大作に仕上がった。宮城谷氏の場合、下手に純文学的な方向を目指すよりも、こういう娯楽大作的な方向を目指す方が面白い作品を書けると思うのだが、どうであろう?

太公望
文芸春秋・全三巻

時はの末期。族の族長の子・呂望は一族の者をの軍隊に殺され、その戦禍の中を同族の少年達と逃走していた。彼はこの手で殷王朝を滅ぼすことを心に強く誓う・・・殷周革命の実相と、呂望こと太公望の活躍を描く。

実は私、宮城谷作品は文庫化されてから購入するようにしている。氏が割と多作であるため、ハードカバーの作品まで買っていては金銭がもたないからである。しかしこの作品だけは我慢しきれずにハードカバーで購入した・・・のだが、読んでみると『晏子』・『孟嘗君』と比べてどうも見劣りがする。いまいち文章に心が引き込まれないのである。その原因を色々と考えてみたのだが、まずひとつ、無闇やたらと似たような登場人物を出しすぎたというのが考えられる。

そしてもうひとつ、魅力的な主人公の父親(もしくは義父)が登場しないということが、見劣りのする最大の原因ではないかと思い当たった。これについては、人づてに気になる噂を聞いた。というのは、宮城谷氏が多くの読者から「主人公より脇役の方が格好良いというのはいかがなものか。」とか「どの作品も主人公の父親が魅力的というのは、ワンパターンすぎるのではないか。」という指摘を受け、この『太公望』では敢えて脇役が主役を食わないように気を配ったというのである。

宮城谷氏は『孟嘗君』のあとがきでも「主役のかたわらにいる人物に大いに惹かれるという心の癖はむかしからあ」ると告白している。上記の噂が事実であるとしたら、何とむごいことであろうか!君たちは、脇役が主役を食っていないけどつまらない宮城谷作品と、ワンパターンだけど確実に面白い宮城谷作品のどちらを読みたいというのか!(無論ワンパターンでなく、しかも面白い作品が読めればそれにこした事はないが。)ここから考え合わせると、『太公望』が他の作品と比べてつまらないというのも納得出来るのである。

その他、作品中には色々とおかしな点が見られる。例えば、物語の中にという主人公の部下が登場する。宮城谷氏は、呂望の字もというのだが、このと紛らわしくなるのでと名前で呼ぶことにすると断り書きを付けている。だったらその部下になどという名前を付けなければ良いと思うのだが。そもそもというのは実在の人物でも何でもないわけであるし。そういった点からも「高い買い物をした」と思わされる作品であった。


トップページへ

タイトル順インデックスへ