| ユリアーネ・バンゼ |
シャイーのマーラー(演奏会)
管弦楽 : ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
指揮 : リッカルド・シャイー
ソプラノ独唱 : ユリアーネ・バンゼ
プログラム : バッハ/管弦樂組曲、マーラー/交響曲第4番
日時 : 2000年2月24日(木)
会場 : 愛知県芸術劇場コンサートホール
最近のオーケストラものでは、久々に感動できる演奏であった。誠実さが伺えるし、指揮者と楽員の信頼関係の強さを感じたからである。この指揮者が伊達に長年この地位にいるわけではないと納得した。シャイーを改めて見直した次第である。
ソプラノ独唱のバンゼは、やや線の細さを感じるものの、心をこめて歌っている様子がうかがえ、好感が持てるものだった。
また、暗譜であったのには、「感心」した。
ところで、この「感心」というヤツであるが、これが芸術を鑑賞する上で、一つの曲者だと常々感じている。ヴイルトーゾ的要素が問題となる(すなわち演奏に技巧が要求される)楽曲の場合、その難所をミスなく弾ききればそれがそのまま素晴らしい演奏だと、ある意味勘違いしてしまう方がときどきおられるからである。
特に楽器を弾くなど、ご自分で演奏される方に多いようだ。
「(自分より)上手ねえ〜。全然違うね〜。すごかったね〜。なんであんな風に弾けるんだろう。」なんて、大変「感心」して、おそらくそれで満足して帰って行かれる。
プロたるもの、「上手に」弾けて当たり前、その上で何がどう示されたかが重要であると私は考える。
あちこちで言われるように、音楽の楽しみ方は人それぞれであるから、それで満足される方は結構だし、とやかく言うつもりはない。しかし、「だから素晴らしい演奏会であった」という空気が他の聴衆や演奏者に伝播し、これでいいんだ、もっと言えばこんなもんでいいんだという雰囲気のようなものが蔓延することに強い危惧を感じる。往々にして会場からの帰り道で、演奏(技術)のうまさだけを誉めておいでになるからだ。しかも大声で。するとそれを聞いた、なんだかよくわからなかった人たちまで、「ああ、やっぱりいい演奏会だったんだ」と勘違いされてしまうからだ。(そんなことはないか)そういう風潮が強くなると、全体が何か間違った方向に流れていってしまいそうで心配なのだ。「心配」というのは、それによって私が求める質の演奏会がだんだん少なくなっていくようで、結局自分が寂しい思いをするからである。
かつて、さるヴァイリオニストのリサイタルでバッハのシャコンヌが演奏されたことがあった。その時、近くに座っていた中学生(か、あるいは小学生)の女の子が終演後「なんかよくわからないけど、何となくあの曲がよかった」と感想を漏らしていた。
ああ、この子はちゃんと「バッハの音楽」に感動しているんだなあ(技術的にうまかったどうのこうの言わずに)と、私はうれしく思ったことがある。
もちろん、この演奏技術の問題だけでそういう風になっていってしまうという単純な話ではない。これは、たとえば大音響を好む向きにも言えることである。大音響=ブラーヴォという公式がしっかりメモリーされてしまっているかのようだ。
どんなに汚く、うるさい「騒音」であろうと、フォルテッシモでフィニッシュすればブラーヴォなのである。私は非常に気が小さいので!こういう時とてもブーイングを出すことはできないが、常々だれかそういう見識を持った方が見えないかと期待している。もしそう言う方が見えたら私はその方にブラーヴォを送ろうと考えている。
ブラーヴォといえば、この演奏会では、私の席の隣に外国人の夫妻が座っていたのだが、彼らは終演後「ブラーヴォ」と「小声で」頷きあっていた。私はその「ブラーヴォ」という言葉を「原語」で聞いたことにある種の感動を覚えた。(といってもその夫妻がどこの国の人で、「ブラーヴォ」というのは本来どこの国の言葉かは、よく知らないが・・・。)
ああ、この言葉はこういう風に使われるべきなんだろうなと、何か新鮮な気持ちになった。
終演後のカーテンコールでは、何とかアンコールを聴こうと期待している人たちの気配が強く感じられた。しかし、私は全くそんな気持ちを抱くことはなかった。これだけの名演を聴かせてもらえれば、その必要は全くなかったし、かえってその余韻を壊してしまうようなアンコールなら、聴かないほうがましだと考えるからだ。
たくさん聴いたら得した気分になるとか、アンコールがあるのが当たり前、場合によってはアンコール込みの料金だなどとのたまわれる方も見える。
先日お参りしたさるコンサートでは、交響曲2曲のメインの後、小品を4〜5曲用意していたようだ。「ようだ」というのは、メインがあまりにもさんざんで、これ以上その席に居たたまれず、さっさと出てきてしまったからだ。
ところがロビーを出るときに「もう」アンコール曲目が、まるで用意されていたかのように貼り出されているのだ。まだ一曲も始まっていないというのに、である。そりゃ、予定の行動かもしれないけれど、客がどれほど望んでいるかもわからないのに、そんなのありかよ、と思った。もしかしたら2曲目ぐらいでだれも拍手してくれなくなるかもしれないじゃないか。それとも日本人はお人よしだから、お付き合いで拍手し続けてくれるとでも思っているのだろうか。
私がここで強く感じたのは、そんな余力があるなんら、もっとメインに力を入れてまともな演奏を聴かせてちょうだいな、ということだった。
時々、「今日はアンコールはありません」と解説してくれる指揮者もいる。おそらく本人は親切心からそうしているのだろうが、私は非常に不愉快な気分になる。これは、例えば「いまからベートーヴェンの交響曲第○番の第一楽章の演奏を始めます」と言っているのと同じように聞こえるからだ。こういう人の演奏会(全体として、そういう解説をしなきゃならないレベルの演奏会)には二度と行きたいとは思わない。
なんだか、いい演奏会だったのに文句ばかり言っているみたいだが、私の求める感動がこれからも一回でも多く得られますようにと、まさに祈るばかりである。
’00年6月
「バンゼのマーラー」を聴く
マーラー:交響曲第4番
ユリアーネ・バンゼ
ピエール・ブーレーズ指揮/クリーブランド管弦楽団
(DG POCL10252)
今日は、バンゼのマーラーを買ってきた。
シャイー/コンセルトヘボウとの来日時の同曲がよかったので、この歌手のレコードを揃えようと思ったからだ。
それまでは、このレコードなど、そもそも買う理由が全くなかった。(こわいもの見たさ、聴きたさで、冗談半分で買う以外は。) ところが、ある日ふとソプラノ独唱が彼女であることを知り、これは買っておこうと思い立ったわけだ。
「前奏曲」が3曲ほど並び、(聴きようによっては、腹が立ってくるような演奏だ)いよいよ本命バンゼちゃんの登場である。(ほんとはユリアーネちゃんというべきだな。)
ところがなんだこれは。私は愕然とした。異常にせかせかしたテンポで、まるで追いたてられているかのようだ。詩情もなにもあったもんじゃない。
あわてて、コリン・デイヴィスのものを聴き直した。4楽章冒頭から目がうるうるしてくる。(バンゼのも、かわいそうでうるうるしてくるが。)
一体これはどういう指揮者なんだろう。あまり聞いたことのない名前だが、どうもフランス人のようだ。この指揮者の見識はどこにあるのだろうか。それともこの人にとって、指揮なんてただのアルバイトなんだろうか。
’00年6月
無謀にもバッハを語る
バッハ:ミサ曲ロ短調 BWV232
ヘルムート・リリング指揮/シュトゥットガルト・バッハ合奏団
ゲッヒンゲン聖歌隊
シビラ・ルーベンス(S)/ユリアーネ・バンゼ(S)
インゲボルグ・ダンツ(A)/ジェイムス・テイラー(T)
アンドレアス・シュミット(Bs)/トーマス・クアストフ(Bs)
henssler HCD 92.070(2CD)
正直申し上げて、私は声楽界にはそれほど詳しくありません。しかし「解説」によると、これはかなり豪華かつ強力なメンバーのようです。私がこのレコードに興味を持った動機は不純極まりなく、バンゼが聴きたい、その一点しかありません。
バンゼの魅力は何か? 声が低いことです。
ソプラノなのに低い? そう、低域がしっかりしているんです。太いと言ってもいいのでしょうか。アルトでも通用するのではないか、と思えてきます。
土台(ベース)がしっかりしているから、その上に乗る高域が伸びる。結果、全体としてきつくならない。とても柔らかく余裕があります。
これは体の構造も関係しているのかもしれません。あの45度にもなろうかという「なで肩」。
そいういう柔らかでしなやかな声質で発せられるドイツ語やラテン語。そのギャップが何ともたまりません。容姿に似合わない落ち着いた歌唱がいいですね。
本盤を最初に聴いた印象では、最初と最後はかなり入れ込んでいるようだけど、中間部はあっさりしているように思えました。しかし何度も聴き込むうちに、その整理された音響と、やはり声楽陣の充実も手伝って、じわじわと聴き応えが出てきました。
きちんと階層化された音が重なっている。混濁感や飽和感がなく、すっきりしています。これは録音によるところも大きいでしょう。
henssler。このレーベルの録音は今のところ外れがありません。ただし、この録音では空気感はやや不足しているかもしれません。
全体としては、比較的サクサクしたペース進んでいきます。私は大したバッハ聴きではありませんが、本来バッハというのはこのように淡々と進んでいくべきものなのかもしれません。
しかし、ジュリーニ(SC/BBC)のこの曲の魅力にはまってしまうと、こういう表現は少し物足らないようにも感じます。ジュリーニではたっぷりした芳醇な音楽に浸りきれます。
なお、日本語ジャケットでは、表記が「ジュリアン・バンズ」となっていますが、お間違え、お見逃しなきよう。(おいしそうなジャム・アンパン?のようだ・・・。)
少し難を言えば、国内仕様盤はちょっとお高く、4500円です。でも、プラケースが豪華版なのと、きちんと日本語解説も入ってましたので、許す気になりました。
それにしても、最近のキング・インターナショナルさん、いい仕事してはりまんなー、私は本当にそう思います。扱うレーベルもリリースされるアイテムも、とてもいいものが多いですね。
hensslerにしても、この内容で本来ミッド(〜バシェット)なんです。よく勉強しておられます。
2002年1月26日(土)
ブラームス:ドイツレクイエム
プレヴィン/VPO(GNP)
プレヴィンって薄味なんでしょうか。
いえ、違います。このVPO盤を聴くと認識が変わってきます。これはジュリーニとケーゲルのいいところを合わせたような演奏です。中途半端なのではありません。ジュリーニの濃厚さと、ケーゲルの繊細な、透明な音響美を合わせ持った秀演なのです。「おぉ、プレヴィンもここまでやるか。」と唸らされる演奏です。多分一連のVPOとのR・シュトラウスシリーズと共通する音楽だと思います。
この録音で注目すべきところは多いです。
まず、ソプラノがバンゼです。しかし、ここでのバンゼは少し冴えません。この演奏?を聴いても熱烈なファンにはなれないでしょう。不安定な印象も受けます。たまたまこの日、不調であったのかもしれません。
しかし、はたと気付きました。これは’96年12月のライヴなのです。「ははーん。」この時点ではまだバンゼも発展途上であったのだ(今でも、かもしれませんが)。これ以降成長して、現在の姿があるのだろう。なるほど。
このレコードでの表記は「Juliane Panse」となっています。うーむ、もしかしたらこれは別人なのであろうか。
2002年2月7日(木)
リーム:ルカ受難曲
バンゼ/イリス・ヴァーミリオン/コーネリア・カリッシュ/クリストフ・プレガル
ディエン/アンドレアス・シュミット/
ヘルムート・リリング指揮/シュツットガルト・バッハ・コレギウム・カントライ
henssler CD 98.397(2CD)
フランス近代の弦楽四重奏、室内楽曲集
ミヨー:弦楽四重奏曲第1番
ルクー:夜想曲/断章〜「アンドロメダ」
ショーソン:終わりなき歌
ラヴェル:弦楽四重奏曲ヘ短調
ペーターゼン・カルテット/ヴルフラム・リーガー(P)/J・バンゼ
CAPRICCO 10860