この特別資料室は、読んではいけない

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保護者の皆様へ

このページには、青少年に対する配慮が必要な部分が含まれています。

このページを見るときは、部屋を明るくして、離れて見てね。

 
クラシックは潰れる      
ロジャーノ・リントン      
サイモン・うトル      
小シ尺征児      
朝日名 隆      
U野功芳      
J・シノウポリ      
H・F・カラヤン      
       
E交響楽団      
園田高弓ム      

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クラシックは潰れる

クラシックの圧死?

 公園やスポーツクラブに置いてあるような器具に良く似た名前の季刊誌があります。
 私は勢いで一度だけうっかり買ってしまって、それに懲りて以来買ったことはありません。専ら斜め読みで用を足しています。(えっ?本屋さんで立ち○便は困りますよ、お客さん! 立ち○ンも困りますけど・・・)
 最近発売日だったようで、店頭に出ていました。

 この雑誌って、いったいどーなんでしょう。

 まーず、オタクの星と言っていいでしょう。なんともマニアック。その筋の向きが喜びそうなデータで埋め尽くされています。それがまた横文字というのが泣かせてくれます。マニア心をくすぐるのでしょうね、こういうのが。
 最近はディスコグラフィーがとても充実しており、コレクター必携という様相も呈しています。

 肝腎のレヴューのページはというと、これはもう紙の無駄使いとしか言いようがありません。半分以上(の面積)がデータとジャケット写真という有様です。
 私はコメントを読みたいのであって、データなんかどうでもいいんです。そんなものはそのレコードを買えば分かるんですから。(でもデータオタクもいるからな。音楽聴かずにデータ眺めて感動してるか・・・うすら寒い。)
 そのコメントの面積が半分以下。しかも後のほうになるとコメントは単なる付け足し(蛇足)のような扱い。ページの水増しとしか思えません。
 データやジャケット写真の羅列なら、それはカタログとなんら変わりはない。カタログが欲しければメーカーに言えば喜んでタダで送ってもらえる。キングなんて、買ったら5000円ぐらいしそうなぐらい立派ですよ。(だからコメント・レヴューが重要なんだ、と)

 それでも演奏者だけでも国産表記になったのは、驚異的な進歩といえよう。以前は演奏者すらさっぱり分からず、とても読む気になれなかった。(この国には日本人が多いのだということをお忘れなく。ただし日本語も現代語だけにしてほしいものだ。「あれ」は流行りのピリオド日本語だろうか・・・。)
 
 その代わりといってはなんですが、余分なCDが付いてしまったもんだから、ゴワゴワしてまた斜め読みしにくいんだな、これが。
 サンプルCDなんて、かのレコ芸でさんざんな評価なのに、なぜその轍を踏もうとするのでしょうか。「こんなもの付けるぐらいなら、もっと安くしろ!」と。
 それともこの雑誌に限っては許されるのだろうか。さあ、どうなんです?

 ふーん、これで1400円ねー。2枚組みが買えてしまう。しかし裏を返してまた驚いた。アニ?2200円。
 クラシック関係の雑誌には誤植が多いとは定説だが、定価の誤植とはこれまた珍しい。

 いやー、ベンチ・プレスって、本当にいい運動になりますね。それじゃーまた、ご一緒に楽しみましょう。
('01/09/03/月)。


クラシック・LZH

 ついでにもう少しクラシック圧縮をねぶっておきましょう。

 私が先日某レコード店で聴いたクナのブル#9も載っていました。
 「おー、これこれ、このコミックCDよ。で、なんだって?」

 どうもブル#9以外にも何かカップリングされているらしい。シューベルトの未完成などは壮絶な演奏のようだ。(「凄絶」というのは当て字なのだろうか)
 んで、肝心のブル#9は?
 曰く「クナのいい(やり?)たいことがよくわかる」
 ?なんじゃそりゃ。その「いいたいこと」が何かってことが知りたいんじゃないの。それとも、「それは聴いてのお楽しみ」か、あるいは「知りたかったら聴いてみろ」ってことか? だけど聴いてみたらそれはギャグだったなんて、人によっちゃー詐欺ともとられかねません。
 それで一体何がいいたかったって? はっきりしてや偏執長。

 ときおり「ネコケン」という名称は目にしていました。私はてっきり「猫科犬志」とかいう奇妙な名前の人でもいるのかと想像してたんですが、科猫犬志氏が公然とそう呼ばれているのですね。あるいは自称なのでしょうか?
 
 このコネケン氏、チョンのブラームスを不調であったような旨の発言をしています。
 みなさんの夢を壊さないよう、あたりさわりのないことしか言わない(あるいは何を言ってるのかさっぱりわからない)評論に比べれば、こういう「正しい」評論をされる方は貴重です。それでもさすがに友人(U野氏か?)に確認してみないと不安なようでした。
 「なっ、やっぱりそうだったよなっ、オレもそう思ったんだ。」
('01/09/04/火)


大きな親切

 この雑誌、買わないまでも、無料で得られる情報源としては利用しない手はありません。

 少し前までは、近所の本屋さんでもちらほら見かけたのですが、やっぱり?ご多分にもれずジリ貧なのか、もう限られた本屋さんでしか見ることができません。「あっれー、この本屋さん、前の号は置いてあったのに・・・。」
 それにしても読むところの無い雑誌?です。立ち読みも10分で十分です。ある意味では助かりますね。疲れないですし。
 
 猫犬氏、○トルのベートーヴェンについて語ってますが、音楽的知識が豊富なのは結構なんですが、我々(いや私だけか?)にそんなこと言われても、さっぱり訳わかりまへんわ。楽譜示してここがどうの、あそこがこうの・・・。編成が何人だからあーだ、拍がこーだ・・・。
 んで、結局どーだったのよ?と聞きたくなります。そりゃ、一言「素晴らしかった」。それじゃ記事にならないから、こうやって根掘り葉掘り原稿枚数稼ぐわけよ。

 あっ、さいですか。

 Kyさん。なに言ってるのかさっぱりわかりませんわ。だんだん雲の上の人になりつつあるようで(役職?と同じで・・・)。
 
 蜻組組長の登場ですか。オーディオ的要素を取り入れ、だんだん(ソフト&ハード)総合系雑誌に向かってますね。やっぱし最後はそういう方向に向かわざるを得ないでしょうね。

 肝腎?なのか冷やかしなのか知りませんが、少なくとも私が一番興味あるレヴューなんですが、目に止まった記事は2、3ヶ所です。
 何と!C・デイヴィス/LSOのドヴォルザーク8番が載っているではありませんか。1年前なら「おお!」と感激したでしょうが、今頃では「バックナンバーかいな?」といぶかってしまいます。

 こうして見ると、私がここで新譜などの紹介をするのも、あながち意味のないことではないのかな?と思い直さざるを得ません。
 私はこんなところでそんなことをしても、読む人にたいしたタメにはならないだろうと想像しているからです。私がそんなことをしなくても、あまたあるサイト、掲示板でそういう情報は「いや」というほど得られるのではないかと。だから、私は私にしか書けないことを書いて、皆さんに「笑って」もらえればそれでいいのではないかと。
 だから、「真面目」な話なんて、ほとんどしたことないんですけどね。ホントに。
 でも、私が「いい」と言ったものが、後からよそのサイトや雑誌などで推薦されているのを見ると、つくづく考え込んでしまいます(ナーンチャッテ)。
 
 さて、「冗談」はこれくらいにして、肝腎?の「雑誌」ですが。

 あとはもう資料(データ)の山です。この雑誌の唯一のアイデンティティといってもいいでしょう。こういう資料に価値を見出す向き以外には、この雑誌、さほど興味ある対象ではないのでは。
('01/12/11/火)


ロジャーノ・リントン

話題沸騰の

ノリントン/シュトゥットガルトRSOの名古屋公演に行ってきました。
 問題のマネジメントや聴衆(耳、鼻、喉の悪い人が本当に多いんだから、もうってば・・・。特に耳が!?)のことはさておき、やっぱり、ノリさんは私の求める音楽をやる人とは違うようだ、ということが、はっきり認識できました。
 以前にも少し書きましたが、ケネディ/BPOとのブラームスのVn協奏曲で、珍しく感激して以来、ノリさんには少し興味を持って、数枚のCDを聴いてみたんですが、どうもしっくりきません。
 もともと古楽系の演奏を聴くと、がっかりしてしまう私のことですから、だいたい想像はできていたことですが。
 
 それでも、今回敢えて聴きに行こうと思ったのは、シュトゥットガルトRSOの方に興味があったからです。ザンデルリンクとのブルックナーの7番で、「20世紀最後の名演」を聴かせてくれたオケだったからです。
 誠実さや、やる気は感じられましたが、難を言えば、奏法にも関係することでしょうが、荒っぽい、雑な印象を受けました。
 いつも申しますが、ここでも同じです。「問題はオケではない。大事なのは指揮者だ。」
 
 ただ、ノリさんのやりたいと思っていることは、なんとなく理解はできました。その方法論には共感できますが、方向性が(私と)違うということでした。

('01/11/16/金)

◆◆◆

多分・・・、ノリさんとの訣別

 全国一千万人のエアチェックファンの皆様、お待たせ致しました。(いや、一千人ぐらい・・・でしょうか?)
 
 ロジャーノ・リントン指揮の「グレイト」を聴きました。諏訪内昌子のバヨリンも、ちらっと聴きました。(「ロジャーノ・リントン」も「バヨリン」も、私にはどうしてもそういう風に聞こえてしまいました。)

 FMを聴くのも5ヶ月ぶりくらいでしょうか。よりによってノリさんの「グレイト」なんて、生中継かと思いましたよ。
 それにしても、想像以上の過激さでした。一体、こういう曲をこういう風に演奏して、どこがいいのでしょうか?
 ブンチャカ、ズンチャカ・・・運動会の鼓笛隊か、町の軍楽隊(ンなもん、あるかっ!)でも聴いているかのように錯覚してしまいました。
 
 「こういう曲」だと思い込んでいるのは、(あるいは私だけの)単なる先入観にすぎないのかもしれません。
 しかし、この曲を「こういう曲」だと思わせてしまったのは、F・トヴェングラーや、W・ルターや、K・レンペラーや、K・ルベームらの妄想の産物であり、あるいは間違ったイメージを持たせしめたる犯罪行為であったとでもいうのであらうか? 古楽派のみなさん。
 ちなみに、私はこれらの指揮による演奏を、この曲のベストだと思っているわけではありません。最大公約数として、このあたりがスタンダードだと思われているだらうという想像です。

◇ 

 やっぱり、どれを聴いても、何度聴いても、ノリさんは私には合わないようです。いえ、「私がノリさんに合わない」と言った方が正確でしょうか。ノリさんが私ごときに合わせる必要は全くないわけで。
 私には、ノリさんの先進性はとても理解できません。もう10年ぐらい修行が必要なようです。私は常に流行の最後端を歩く男なのです。

 ○参照ディスク
 ベートーヴェン:交響曲第2、8番/ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ(Virgin)
 ベルリオーズ:幻想交響曲/同
 メンデルスゾーン:交響曲第3、4番/同
 シューマン:交響曲3、4番/同
 
 ハイドン:交響曲第104番/シューマン:交響曲第2番/SWR(Haenssler)
 ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス/同
('01/11/19/月)

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サイモン・うト

ヤダモン・うトル

 FMfan(No15)によりますと、うトルが2002年からのベルリン・フィルとの契約を保留して(ゴネて)いるそうです。うトルはベルリン・フィルの利益を守る立場で「州」と条件を交渉しているが、折り合いがつかないということです。
 
 「ほう。」と思いました。「おもしろいじゃないですか。」
 これは全くの推量ですが、うトルとしても「自分の芸術に万全を期す」のに、オケを自由に操れるようにするための戦略(布石)なのでしょうか。「オケの待遇をよくしてやった」という恩着せをして。
 州も財政難などで、ベルリン・フィルへの援助?も厳しいとの噂も聞いた事があります。そんな事情を反映してか、有力奏者が相次いで退団したとか、(だから)重要なポストに空席が多いとか。

 うトルはかなり強気の構えだそうですが、果たしてどうなることでしょう。
 
 私としては?
 そりゃ、もちろんこの話(ラトル就任)がなかったことになって、また一波瀾起きたほうがおもしろいですよね。(もし、そうなったらMゼルやB・ボイムが再浮上するのだろうか?・・・クワバラクワバラ。)
 うトルにはとことん筋を通してもらいたいところです。変なところで妥協するのなら、始めからそんな話を持ち出さないで欲しいですよね。(どこかの政治家と同じ腰クダケ・・・。)
 それにしても、州や市の財政難といい、それがためにベルリン・フィルの存続すら危うくもなりかねない話です。今やどんな一流企業がつぶれてもおかしくない時代ですから、オケとて例外ではないでしょう。

 でも私にとって、今のベルリン・フィルの監督(常任)に誰が就こうが、たいした問題ではありません。ラトルが就いたとて、私の欲する音楽をやってくれるわけではなし・・・。何なら、ベルリン・フィルが本当になくなってしまっても一向に構わないんです。
 私の聴きたい指揮者は、もうすでに過去の人になってしまったか、ほとんどなりつつある人ばかりなのです。
('01/07/06/金)


ウィーン・フィルハーモニー玄関が九段・・・

 さあ、今日は待ちに待った「倒団」の名古屋公園でした。久しぶりにコンサートに行ってきました。考えてみれば、かのチョン・キョンファ/ローマ・サンタの横浜公園(5/18)以来5ヶ月ぶりという有様?です。
 一体なんということでしょう。このペースでは今年のコンサートは5回ぐらいに終わりそうです。いかに聴くべきものが少ないかということです。

 さて「倒団」と呼ばれるオケが、少なからずあるようです。ウィーン公共楽団、ドレスデン・フィルザーモニー、アムステルダム・ゲバントヘボウ管弦楽団などです。
 これらのオケを「倒団」と呼ぶ人たちは、一体どういう立場にいるのでしょうか。
 私の常識では、その団体に所属しているか、又はその団体の株でも所有しているか、どちらかぐらいしか思い当たりません。
 ファンクラブでもあって、そのメンバーにでもなっていればこう呼べる立場なのでしょうか。
 
 今日の倒団はフィーン・ザルウィーモニー管弦楽団です。サイモン・うトル指揮、独奏ブレフレット・アルンデルでした。(スパゲティと傘とかつらを合わせたような名前だ・・・。)
 
 考えながら文章にするのも大変なので、箇条書きのように書きなぐります。
 尚、東京公園で「感動してやろう」と目論んでいる方は読まない方が身の為でしょう。妙な先入観を刷り込まれる恐れがあります。知らぬが仏です。
 また、当日都合で行けなくなって、チケットが無事売れた人は幸いです。

 前プロ、ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番。
 
 冒頭を聴いた印象。オカマのベートーヴェンがニヤッと、顔を出した。私はなにか寒いものを感じました。
 独奏は、ミスタッチボロボロ。ありていに言えばヘタクソ。「ピアニスト引っ込めー」と野次りたい衝動に駆られた。どうせヘタクソなら、見て楽しいピアニストでも連れてきたら?
 技術的?に限界が来ているのなら、潔く引退されたほうが身のためではないのだろうか。「アルンデルも晩年?は・・・。」なんて言われてしまいます。○ントも浅○奈もそうですよ。
 
 とんでもないカデンツアが飛び出す。もうダメです。席を立ちたい衝動に駆られた。早く終わってくれるのを祈るばかり。私は演奏者のオリジナリティなどというものは認めません。そんなことがしたければ自ら(全曲)作曲して世に問えばよいのです。
 作曲者のカデンツアがないのなら、広く親しまれた定番?のそれで十分。この曲に作曲者のカデンツアがあるのかどうか、そんなことさえ、さほど興味がないので知らないが。

 第一ヴァイオリンの5プルト目、いかにもトラか試用期間中?というような若造だったが、こいつがまあチンタラチンタラ、全くやる気ない様子。腹が立ってくる。員数合わせなら、奥の見えないところに座らせろ。
 全体に弦の音にまったく芯がなく、フワフワ。これはデリケートなのではなくて単にたるんでいるだけのように思えた。要するに手抜き。
 サクラブラヴォーさえ出ない。いかに迷演であったことか。
 こんな演奏でも結構喜ぶもんだから、オケメンが当惑していたようにすら見えました。「こんな演奏で、こいつら(いや失礼。「このお客様方」)は、なにをそんなに喜んで(拍手して)いるのだろう。○本公園はこれだから楽で、やめられまへんわ。テロの危険なんてなんのその。」これは単に私の妄想であるが。

 メインプロ、ベートーヴェン/交響曲第6番「田園」
 
 編成が前プロより絞られている。ヴァイオリンは4プルト。あの若造は何だったのか。
 第一楽章。「あれっ、なかなかいいじゃないの。さすがに全曲(前後)総崩れってことはないな。」うトルも変にエキセントリックにやらなくたって、こうやって普通にやればちゃんと音楽になるのに。
 第二楽章。一転、もうメロメロ、フニャフニャ。「あらら、やっぱりダメか。」何か勘違いてるんですよね。P協4番にしても、女性っぽくしよう、というわけでもないんだろうけど、それが裏目?に出るのか、やっぱりカマっぽくなってしまうんですよ。「しなやか」になればいいんですが、「骨抜き」になっていました。これは似て非なるものです。
 あとはもう野となれ山となれ。
 
 全体に、
 ちょっと緻密なところへくると、アンサンブルがガタガタ。がっかりして思わず頭(首?)をうなだれてしまいます。溜息が出ます。椅子からもずり落ちそうになります。
 弦同士は合わないし、弦と管との掛け合いも悪い。
 退行配置も結構だが、第ニヴァイオリンなんて、楽器が向こう(後ろ)向いてるんだから、音が全部後ろいっちまって、肝腎なこちらにこねえっての。
 ティンパニも、古楽風の、あのポンポコリン。あの音を聴くと私は「がっかり」します。あんな音で(田園4楽章の)雷は表現できません。
 確かに、弦の音は素晴らしかったです。しかし「そんなもの」は必要条件にしかすぎません。単なる「音」です。「そこから先」が音楽なのです。

 うトルはやっぱり自意識過剰なのではないか。あざとすぎ。それがみえみえのサル芝居のようになってしまう。洗練されていないっテユーカー・・・。単なる部分狙いで、全体がまるで見えていないっテユーカー・・・。
 私が言うのも失礼だが(いや、とっくに失礼のし放題だが。)結局まだ若いんです。青いんです。まだまだこれからですね。10年後です。
 いや、10年後にでも開花しそうな若い才能が貴重で、それを見抜ける「あなた方」に慧眼がある、と仰りたいのかもしれませんが。
 でも、私は「それから」聴ければ十分です。
 
 最後まで、ステージで(あるいは一生懸命)演奏している指揮者とオケメンしか見えなかった。これは何を意味するか。私の場合、演奏者が見えなくなって初めて「音楽」が現れると考えている。ベートーヴェン(作曲者)が姿を現すのである。
 今日の音楽は、指揮者とオケのそれであって、ベートーヴェンではなかった。少なくとも私の求めるベートーヴェンはどこにもいなかった。
 一言で言えば、安心して聴いていられる音楽ではなかった。

 これで39000円(名古屋では)ですよ。高い授業料でした。
 日本に来るウィーン・フィルなんて全く聴く価値(この値段では)はないですよ。現地で聴くものなんでしょう、やっぱり。数百円?からせいぜい数千円で聴くのが最高のCPになるようにできています
('01/10/16/火)


ある夜、

 「さあ、もう寝ようか」と、TVのスイッチを切ろうとしたら、偶然うトル/VPOの演奏会の模様が放送されました。「あれ、何だろう」と見ていると、土筆哲也(ニュース23)がうトルにインタヴューをした模様でした。

 大意として、
 :「次世代の指揮界を担うのは、ラルトさんだと言われているようですが・・・。」
 :「誰がそんなことを言っているのですか。不安(心配)になってしまいます。」

 私もまさにそう思いました。とても不安に思えてきました。寒々としたものを感じました。うトルさんのおっしゃる通りです。いやー、さすがの見識、すっかり見直してしまいましたよ。

 その後の「バカ」発言もなかなかのものでしたし。
 :「長年BPOでヴァイオリンを弾いていた方に聞いたことがあるんですが、『我々は指揮台に誰がこようと関係ない。我々の音楽をやるだけだ。』と、言っていましたが・・・。」
 :「その人はバカです。」
('01/11/16/金)

◆◆◆

うトルは「何か」に勝ったのでしょうか

 さて今回、(2001年)9月にウィーンで演奏した「第4番」「第7番」では、ますます自信にみちたラルトの指揮ぶりが絶賛されているところだ。
 ベートーヴェンの「交響曲全曲」演奏にあたり、ニキシュ、メンゲルベルク、アーベントロート、ワインガルトナー、トスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラーからカルロス・クライバーに至る録音をラトルが徹底的に研究したことは想像に難くない。
 ここで先人たちがどうあがいてもラルトの方が有利なのは、20世紀末、21世紀初頭に活躍する指揮者として、時代の先端を行くコンテンポラリー作品に精通していること、同時に1970年代あたりから隆盛をみたピリオド楽器による古楽演奏を、身をもって実践していることだ。
 いわば、ここ100年間の、考えられる限りのありとあらゆる演奏解釈をすべて自家薬篭中のものとした上で、ラルトはベートーヴェンに対峙していることになる。
山山奇 睦

 「有利」だと仰られます。
 私は音楽の演奏に、有利とか不利という概念が持ち込めるなんて思ってもみませんでした。
 自分の感性(のみ)を信じて、「ベートーヴェンとは何か?」を表現するのが「芸術」なのではないかと思っていました。

 他人の音楽(同曲異演?)を研究して、やっと初めてベートーヴェンが分かる?
 うトルがこれを聞いたら、いったいなんと言うか聞いてみたいものです。実際そういうインタヴューがあるのかもしれません。私はもちろん狭小な見聞ですから知る由もありません。
 しかしこれをうトルが聞いたら、「○○○氏はバカです。」
 こう言うのではないでしょうか。またこう言うのが本当の音楽(芸術)家なのではないだろうかと、私は思っています。
 それにですよ、「時代の先端を行くコンテンポラリー作品に精通してい」たら、それこそ何でベートーヴェンの演奏に有利なんでしょうか?チャンチャラおかしいですよ。

 有利だの不利だの言うのでしたら、ベートーヴェンに一番近い時代の人が最も有利なのではないのでしょうか。あるいは、「祖父がベートーヴェンと親交があった」「父はベートーヴェンの実演を聴いた」という世代のほうが。
 すなはち、この中ではニキシュが最も有利であり、ラルトが最も不利である。

 「そんな不利な逆境のなか、うトルはよくがんばった、感動した!」と、あの人はやはり言ったのだろうか。
('01/11/21/木)

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小シ尺征児

 

「新潮45」の小澤問題

 小シ尺を血祭りに上げてみましょう。いや、すでに上がっているわけだが、それについて別の見方をしてみようという企みです。

 「なぜ、小シ尺がウィーン国立オペラの音楽監督に指名されたか」がまことにわかり易く解説されている。
 今回の人事は、芸術云々とは関係ない完全なショービジネスの世界の話であるといっているのだ。(もちろん小シ尺の芸術的能力が低いことは、重ねて語られているが。)
 コロンビアアーティスツという組織が、ウィーン国立オペラの収益改善のために利用しやすそうな人事をしただけのことだというわけだ。どこかの会社のやることと同じことだ。
 これでウィーン国立オペラに物好きな日本人が集まり、スポンサーが付き、劇場やホテルや航空会社がもうかり、観光地に金が落ちればそれでいいと考えているのだ。
 日本人の指揮者や聴衆がいくら来ようが逆に来るまいが、ウィーンの芸術の基盤は一向に揺らぐことはないという確固たる裏づけがあっての企てだろう。

 VPO(国立歌劇場O)にしても、指揮者なんて誰でもいいんだろう。鬼(あるいは神)のようなコンマスがいれば、指揮台に誰が立っていようと、あるいは立っていまいと関係ないのだ。そんなことでは微動だにしない彼らだけの伝統があるのだ。(ドレスデンの、某オケも同じらしい・・・)

 決して芸術的全権をこの指揮者に預けたわけではない。ただのあやつり人形だ。小シ尺の芸術的、音楽的才能や実績とは何の関係もないと言っているのだ。
 小シ尺も可愛そうである。それに利用されただけで、最後は笑い者になって捨てられる運命にあるのだろう。いま消えつつある準一流の指揮者のように。

 また、小シ尺本人が殊勝にも、仮にこの申し出(人事)を断りたかったとしても、それはできなかっただろう。もしそんなことをすれば、その瞬間に彼の指揮者生命は断たれたことであろう。
 「日本のどこにも居場所がない」と本人が言うように、また世界のどこにも居場所がないに違いない。だからボストンに25年も居座らざるを得なかったのではないか。
 ボストンでも、本当は小シ尺の前にC・デイヴィスに今のポストを要請したが、断られたので止む無く他の指揮者(結果小シ尺)に当たらざるを得なかったらしい。

 私は昔から小シ尺の音楽には全く共鳴するところがなかった。だが、特に今回の事件?を知って、さすがに同情せざるを得ないような気持ちになってきた。
 かといって、もちろんそれで小シ尺の音楽が認められるわけではない。

 結局、西洋音楽を日本人がやろうとしたり聴こうとしたら、こういう身内同士での傷の舐め合いや同情票集め(○○ガンバレ!)のようなカタチにならざるを得ないんだろうな、と思った。
 そして「日本人が日本の演奏家を聴かなくてどうする」と訳のわからないオピニオンに(ミス)リードされて、日本人演奏家が過大評価されていくのだろう。(但し、日本人演奏家の全てがそうだというわけではない。)
 私はあくまでも西洋音楽を聴きたいのであって、浪花節を聴きたいわけではないのだ。
 
 聞くも涙、語るも涙の、まことに可愛そうな話であった。
(2000/10/21)

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小シ尺痛恨のバッハ

 しばらく前にNHK教育で、小シ尺によるバッハのロ短調ミサが放送されました。(原題:小シ尺入魂のバッハ)
 
 有名どころのサイトでは、こういうばやい早速に絶賛の声が上がるものですが、この演奏については(「限っては」とは言いませんが)全くの沈黙を保っているようです。いったいどうしたんでしょうか。
 巷には物好きなこの指揮者のファンがいるものですが、さすがに今回はどうにも誉めるところがなく、だんまりを決め込んでいるのでしょうか。
 だとすれば、この指揮者好きの人たちの中にも、いちおう聴く耳を持った人はいて、こんな演奏を誉めないのはさすがだと、U野さん流に申し上げておきましょう。
 万一間違ってこんな演奏を誉めてしまったら「あいつはどういう耳をしているのだ、アホか」と笑われるだけですからね。
 
 演奏を一言で言えば、演歌か民謡を聴いているような音楽でした。日本人の日本人による日本人のための音楽です。こういう音楽は日本人にはわかりやすいかもしれません(んなことはないか)。しかしこれはバッハではありません。
 独唱陣が一生懸命(かどうかはわかりません。ただのお仕事してただけかもしれないですが。)バッハ(キリスト教)を唱おうとしておるのに、オケや合唱がお経か祝詞のほうに引っ張っていってしまうもんだから、まったくちぐはぐで「見ちゃいられない」状態でした。(もちろんこれは指揮者の責任です。)

 他にも問題はたくさんあります。長くなりますので、これはまた後日です。

 私が(不覚にも)この放送に注目した
のは、独唱がキルヒシュラッガーとボニーだったからです。それ以外の理由は一切ありません。これは録っておいたほうがいいかな、と思って見はじめたんですが、やっぱりどうにもいけません。全く保存の価値なしと、早々に録画をやめてしまいました。
 またの機会を待ちましょう。
(2001/01/05)


小シ尺ノーコンのバッハ

 直接演奏とは関係ないんで、どーでもいいといえばどーでもいいんですが。もー少し、いちゃもんつけてみましょう。

 指揮台に上った指揮者が、目を閉じて何か考え込んでしまいました。きっと出だしを忘れてしまったので、一生懸命思い出していたんだと思います。
 ようやく思い出すと、手を前で合わせてお祈りを始めました。きっと無事最後までたどりつけるよう神に祈りを捧げていたんですね。さすが!ミサを演奏しようというときに何という殊勝な心がけでしょうか。
 しかしその格好のぶざまなことはなかったですね。「構えて!ヨーイ」というアレを思い出してしまいましたよ。「ダンミダコリャ」
 
 何を思ったのか、まさに突然アインザッツをきりましたね。テレビで見ていた私でさえもびっくりしてしまいましたよ。「いきなり何すんだよ」。
 あれで出られる楽員もたいしたものだと思います。目を閉じて見えていないのに、あんな姿勢からいきなり振り出されたら、緊張して音にならないんじゃないですか?
 私はもちろん指揮なんてしたこともないし、演奏だって中学のときに音楽の授業で合唱したのが最後ですから、演奏者の気持ちなんて全然わからないんですけど、あれでまともに出られる奏者というのは、プロというのはさすがですねーとしかいいようがなかったです。
 すばらしいカマリスですね。

 私の乏しい経験では
、偉大な音楽家ほどさりげなく音楽を始めます。肩の力を抜いて。そしてある場合には、聴衆なんてお構いなしにやっているように見えます。

 自信のない音楽屋ほど、聴衆に謹聴を要求したり(「静かにしろ」というような身振りをすること)、拍手を抑制したり、逆に拍手を強要するバカもいますね。

 えっ?カリマス?カリスマ?・・・・何でもいんですよ。しょせんカリモノでしょう。
(2001/01/06)


小シ尺大根のバッハ

 シリーズ完結編で、もう一回いじめてみます。

 合唱陣のひどさも特筆物でした。「東京オペラシンガーズ」というのでしょうか。この団体はプロではないのでしょうか。まるでシロートの臨時の寄せ集めのようでした。内容、演技?、外観(風貌)、とも、とてもプロとは思えませんでした。

 特にひどかったのが、女声陣の服装です。あれだけバラバラでは、出てくる声も同じようにバラバラに思えてしまいます。男声陣にしても、みっともない風貌のヤツが混じってました。

 (プロとして)ステージに立とうというのなら、もう少し気を使ってもいいんじゃないですか?それともこの団体はアマチュアなんでしょうか?服装(外観)なんてどうでもいいよというななら、本当にジーパンTシャツでやって、感動させてみせて欲しいところです。
 第九の国立音楽大学のほうが、まだましなように見えました。

 コンマスにも力不足を感じました。私は久保さんも決して嫌いではないんですが、やはりコンマスの器ではないし、テクもちょっと怪しいです。それに宮本も工藤もパッとしません。
 まともな奏者は、もうこんなイヴェントには参加しない、と聞いたこともありますが、どうなんでしょう。
 
 こういう音楽でも、大多数の人はきっと満足するんでしょう。(・・・・・本当だろうか?) ある意味、こんなマニアック?な曲を聴こうなどと思う人は、かなり「ツー」な人だと思うんです。
 「あのさあー、こないだたまたまオザワのバッハきーてさあー、チョー感激して、クラシックファンになっちゃったー」 なーんてことが、あるはずがないのです。
 
 NHKには受信料を払わされている手前、文句を言わせてもらう権利はあります。聴かなければいいじゃないか、では済まされません。ただでさえ限られたクラシック音楽の時間に「最高」のものを提供しないのは、犯罪である。

 こんな音楽で「感動」とまではいかなくても、満足された方は、どこかで何とか言ってみてくださいな・・・。
(2001/01/07)

お詫びと訂正
 
この記事に対し、ある方からお便りをいただきました。

 当初「コンマスにも力(役)不足を感じました」と記述していたのですが、「力不足」と「役不足」は全く逆の意味で、併記するのはおかしいとのご指摘でした。
 私の全くの勘違い、認識不足で、これらは同義語だと思い込んでおりました。
 お詫びして訂正いたします。(久保さんには謝らなくてもいいんだろうか?)
 
 ご指摘いただいたHさん、あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。

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言うじゃん、FMfan

 どこかで、U野氏がとんでもない意見を吐いている面妖なページがある、と聞いたのでFMfan(2001年1月?日号)を買ってきました。

 どういう趣旨のことだったか忘れましたが、U野氏の担当ページは1ページだけのようなので、多分そこのコラムに自分のコンサートの宣伝めいたことを書いていることにクレームをつけているんだろうと思いました。
 確かに読みようによっては気にならないこともないですが、他の人のを読んでみても、なんだかてんでバラバラに好き勝手なことを言っているようなので、「お好きに」という編集部の意向なのではないでしょうか。
 だとしたら、別にそう目くじら立てることでもないんじゃないの?と思えます。
 笑ってバカにして無視していればいいことです。H林氏も「クラシック、マジでやばい話」の中でそう言っています。

 それより問題なのはあんた!
 104ページの「編集部のコーナー」ですよ。(そんな名前のコーナーかどうかは定かではないが。)
 ひさびさにぶっとばしてもらえましたねー。
 これぞまさしくマジでやばい話で、あまりに過激すぎるので、全部伏字にしなくてはとても恥ずかしくて公開できないんですが、それではなんのこっちゃわけわからないので、モロ出ししますが、

 ベルリン・フィル来日公演でソリストを務めたのが、表紙のヒラリー・ハーン嬢。
 直前に行われた某トップ・オーケストラのふがいない演奏に心と財布を傷めていた国民にとって、本物を聴く喜びを教えてくれた一人です。

  これは無記名です。すなわち編集部の(を代表する)意見であり、共同通信社の意見であります。
 「国民」というのがなんとも泣かせるじゃないですか。まるで国家的大イヴェントがあったかのようです。たかだか1%の国民しか興味のない、ドマイナーな趣味の世界の話にですよ。
 それに「心を傷める」なんて、そんな感傷的で乙女チックなことを言っていていいのでしょうか。だからナメられるですよ。断固怒らなければならないのではないでしょうか。
 
 でも、これっていったいどこのオーケストラのことなんでしょうか?直前とはいったいいつなんでしょうか?
 ヴァント/NDRのことなんでしょうか?NDRをトップ・オーケストラと定義するのにはやや無理があるでしょうか?
 BRSO、バンベルク、フランクフルトRSO、ECO・・・。
 「トップ」なんて極めて個人的かつあいまいな価値判断基準(形容)で、どれもそうとも言えるし、そうでないとも言えるようです。
 うーむ・・・謎は深まるばかりです。

 ちなみに私はその頃、○シ尺と某ィーン・フィルが来日するなんて、全く気にも留めていませんでした。とるに足りない出来事でした。
 (えっ!もしかして、これのこと・・・シラジラシー)

【後日談】

 小シ尺入魂のニューイヤーコンサート(2002年)

 2000年の来日公演では、まだ彼らの関係が十二分に練られたものではなく、意志の疎通になんらかの障害があったのであろう。正直ぼくも、はらはらするところがあった。しかし今年のニューイヤーコンサートを聴いて、それが全く杞憂であることが確認できた。もとより勉強熱心な小シ尺のこと、ひとたび彼らの伝統を咀嚼し、それを我が血と肉とすれば、一段と強い信頼関係の上に、この華麗なる楽団の音楽史上に偉大な足跡を残すことであろう。
 このコンビの輝かしい未来は約束されたといえよう。

 あ〜〜〜サブ! 21世紀の音楽界の見通しは極めて暗いといえよう。
(2001/01/09)


誤名希望

 レコ芸2001年1月号に、非常に興味深い記事が載っていました。

 國
潤○氏による、小シ尺/サイトウキネンのバッハに関する記事です。
 私は以前、TVで放送されたこの演奏に対して、こんな演奏でも誉めるところがあれば、誰か何とか言ってくださいと言ったら、こんな意見が載っていたのを後から発見して、それはそれは驚きました。
 だいたい、公式なメディアに載るのに、批判的な意見なんていうのは、まずあり得ないわけですが。
 
 でも、今日の問題はそこではないんです。氏がそのなかで述べているある一節なんですが、

 「新潮45」という月刊誌の中で、八田利一なる偽名の人物の(これをペン・ネームと筆者は解釈しない。
 悪意に満ちた文章を本名で発言するだけの根性も信念もない、下劣極まりなく、矮小な精神のこの筆者の小心さか、それとも一抹の羞恥心が、このあさましい偽名を名乗らせているのだろう)不快極まりない小シ尺征爾批判が、先だって2ヶ月にわたって掲載されたが、・・・(以下略)

 氏は「偽名」と「ペン・ネーム」を厳密に区別しようとしています。

 ペン・ネーム/ハンドル・ネーム/ニック・ネーム/偽名/芸名/匿名/少年A/名無し・・・
 
 世の中にはいろいろな名前があるようですが、これらはいったいどこがどうちがうのでしょうか。
 本名でないこと以外、本質的には何も変わりないように思えます。

 ですから、「匿名で意見を言うな」と「偽名(の類)」で意見を言う人を見ると、滑稽でしかたがありません。
 そういう人達に対して、いちばん相応しい回答はこれしかありません。
 「オマエモナー」
 
 でも、このレコ芸の記事は、國
潤○氏の偽名か、ペン・ネームだと思いますよ、きっと。
 こんなブラック・ユーモアをもった出版社が危機に瀕しているなんて、残念でなりません。さあみなさん、今すぐ本屋さんに走りましょう。
(2001/01/14 初出)

2.無銘評(立場の不明な批評)。
 誰が「どういう立場」から「どういう視点」で書いているのかが曖昧なものは、匿名の落書きと同じでまったく批評として機能しない。(中略)
 批評側も自身の「名」を賭けて評すべし。
 それが出来ないならどこかのトイレに落書きするだけで我慢しなさい。
(吉木公 隆)

 そうかー。便所といい、トンネルといい、橋桁といい、コンクリートの壁とみれば落書きする連中がいるのはこのせいだったのか。
 こんなことを推奨するとは、吉木公某は道徳を乱す輩として糾弾されて然るべきではないのだろうか。


不思議な団体

 レコ芸2001年1月号に、不思議な団体の不思議な広告が載っています。

 例のオザワ/サイトウ・キネンのバッハ/ロ短調ミサのCDの広告なんですが、これが「来日記念盤」なんだそうです。他にも盛んに「来日」という言葉を使っています。
 
 メンバーのほとんどが、外国に定住しているからなんでしょうか? 明らかにこのクニのものであるとういう認識を放棄しているようです。
(2001/01/15)


2002年度レコードアカテ゛ミー賞

ニューイヤーヅコンサート
小シ尺/結納PO


 このレコード、発売直後から世界中で爆発的な売れ行きを示しているようです。もう社会現象と化しているようです。昨夜のニュースバラエティ番組では、このレコードを買うために行列までできているとか、わざわざ報道してました。(銀座・山里予楽器かと見た。)
 
 は゛かですねー。信じられません。
 
 しかし、これで2002年度のレコードアカテ゛ミー賞およびリーダーヅチョイス最優秀ディスクは決定したといえよう、といえましょう。
 優秀だから人気がある。人気があるから売れる。その逆もほぼ真だと言って差し支えないでしょう。
 だとすればこのレコードが選ばれない理由は全くありません。もしこのレコードが選ばれないとすれば、やはり恐ろしく本音と建前の違う世界である、と言わざるを得ないでしょう。

 「いやー、一時的に売れたものの、いざ聴いてみたら内容がさんざんで・・・。」
 「3回も聴いたら飽きてしまって、後は棚のこやしさ。」
 「大衆は上辺だけしか聴いてないから、本当に優秀なものは別なんだよ。」
 「あのレコードは、そういう次元を超えた別格のものである。重要文化財にも値するといえよう。」
 さて、何と言い訳するのでしょう。
 それとも1年もたてば、こんな昔のことはとうに忘れ去っているのでしょうか。49日過ぎればみんな忘れちゃうもんだから、リリースも急ぐこと。
('02/01/20/日)


雷印の
 不正表示が問題になっているようです。
 大したことではありません。「松坂牛」が、ほんの些細な誤植や勘違いで「松阪牛」になっていることは、よくあることです。何ら驚くにあたりません。
 
 こんなことは、クラシック業界通の諸兄には当たり前のことでしょう。
 ライヴだと謳いながらスタジオ録音をこっそり混ぜる。
 うっかり、別の団体のテイクを使ってしまった、なんてことだって一度や二度ではないらしい。あくまで「うっかり」なんです。悪意はないんです。
  
 そういえば、小シ尺/某ィーンフィルのニューイヤーヅコンサート。心配になって広告を見てみたら、ほらほらやっぱりそうでした。
 収録2002年1月1日(ライヴ)とはっきり書いてあるんですよ。でも実際には過年度の古い録音も入っているらしいんです。これはあくまで噂ですけどね。
 現物には一体どう表示してあるのか、私は持ってないですから確かめようがないんですが、これだけでも十分不正広告にあたりますね。製造年月日のごまかしです。公正耳又引委員会に垂れ込まれたらひとたまりもありません。
 くれぐれも事無きをお祈り申し上げる次第でございます。

 小シ尺も〆ータも、某ィーンと同じユーラシアというちっぽけな島国出身の人間なんです。東洋も西洋もないんです。「洋」なんてのは、島の外の分類にすぎません。
 記憶違いだったらご免あそばせ。
('02/01/18/月)

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朝日名 隆

毛ーストリー2000年10月号

 
ある評論家が、ある演奏家のコンサートを評した文が掲載されていました。

 9月11日(月)
 サントリーホールで〇〇〇 〇と新日本フィルのブラームスチクルス第1夜。
 (中略)
 「交響曲第1番」は予想外に早いテンポで、終演後の楽屋で巨匠いわく「実はこの間クレンペラーのレコードを聴いたのでね。フルトヴェングラー大先生の真似したらバチが当たるけど、クレンペラーならまあいいかなってんで、今度はちょっと試してみた。ハハハ」。92歳になっても相変わらずしゃれっ気の旺盛な人だ。
西条石頁夫

 私はこれを読んで「こいつは、バカか。」と思った。反射的に心底そう思った。
 それをヘラヘラ書いているこの評論家も同罪だなと思った。

 だが、偶然とはいえ、ひょんなことからこの雑誌を読まなければ、こんなこともおそらく永久に知らずにいたであろうわけで、少し奇妙な気分である。
 元々私はこの演奏家は全く評価してはいなかったから、どうでもいいといえばそうなんだが、改めてその評価が正しいことを思い知らされた。

(
2000/10/24)


 涙が出るほどありがたい

 世の中には(当たり前のように)不思議な人が(たくさん)います。
 そういう不思議(特殊)な人達が寄り集まって「フツー」の「一般」の人々を形成しているわけです。これまた、なんとも不思議なことです。

 特にU野氏らの意見に対しては、「私物化した」「とんでもない」「あきれた」など、言いたい放題の「個人攻撃」「罵詈雑言」「誹謗中傷」(宇里予氏に対する)と思われる意見を聞くことがあります。
 
 しかし、本当でしょうか?
 例のFMfanですが、そのコラムの中で氏は非常に興味深い発言をしています。(ここで私は、このFMfanのU野氏のコラムに対して、批判的な意見を言った人がいる、とは言っていませんよ、ヨロシク。)

 「アダージョ朝日名」ができたので、是非ブルックナー入門用に、また、批判用に(自分なら違う選択をするぞゴルァ、と)聴いて下さい、というのです。
 私ゃ、おそろしくオメデタイのと、情けないのとで涙が出てきましたね。
 それって、「有料」なのでしょうか?それとも「ただ」(この場合、2つの意味にとれるな・・)のサンプル盤なのでしょうか。
 天下のレコ芸にお願いすれば、新春ミレニアム特別増大号の付録にでも付けてもらえるのではないでしょうか?
 レコード番号もきちんとついているようですから、「非売品」でもないようなんですが、いずれにしても定かではありません。


 
以前、「クラシック音楽を普及させよう」なんて、とんでもない考えを持った人達がいることを知ったのですが、そういう人たちから見たら、それこそ「ヴァントがU野氏の前にひざまずき、ひれ伏す」のではないでしょうか。(朝日名が、か・・・。)
 これほど朝日名やブルックナーを普及させるのに貢献できる企画は、他にないといえよう。
 「普及組」や、朝日名ファンの人達は、これに対してどういう意見を持っているのでしょうか。
 こういう場合、賛成意見はなかなか出てきません。自分がそんなものに賛同しているのを知られるのが恥ずかしいからですか?
 寡聞にして、このレコードが「特選盤」に選ばれたとか、「アカデミー賞」を受賞したという話はまだ聞きません。

 それにあんた!
 こんなところででも宣伝してくれなきゃ、そんなモノがこの世に存在することすら誰も知ることができないじゃないですか!

 ちなみに、私は決して「普及」させようなどと、おこがましい考えでこういう場をもっているわけではありません。間違った価値判断に対し、異議を唱えようとしているだけです。
 「本当にそれが素晴らしいものだと思っているのですか?」、「もっと素晴らしいものがあるのを知らずに、その程度のものでヨシとしていませんか?」、と。(このほうがよっぽどおこがましいのもまた確かである。)
(2001/01/11)

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U野功芳

合唱指揮者功芳 

 FMfan(2001年1月10日頃発売号)の宇里予氏のコラムの後半ですが、そこで氏は戦前の歌謡曲や童謡、流行歌を題材にして女声合唱のコンサートを披いたというのです。
 素晴らしいではありませんか。もともと氏は合唱指揮が専門であったということで、こういう活動をしている限り、賞賛こそ受け、批判など受ける余地もなかったことでしょう。
 
 でも、こういうところでも氏は「やりたい放題」にやるのでしょうか? 私は合唱には全く興味がないし、ましてやU野氏の指揮によるそれも聴いたことはありません。 また、「やりたい放題」といっても、氏のオケもんも聴いたことはなく、もっぱら噂による想像でしかないのですが、おそらく
 ((フルトヴェングラー+クナ+メンゲルベルク)×シェルヘン)^2
ぐらいの、ビッグバンを思わせるようなフォルムを形成していることでしょう。

 私には、こんなものに投資できるほどの財力と時間はとてもありません。どうせ一回聴いておしまいの「聴き捨て」になることは目に見えているからです。
 これも繰り返しになりますが、私にはまだまだ何度も聴きたいベートーヴェンが、すでに手元にごろごろしているんです。そう思いながら、半年も1年も眠ったままになっている「真に偉大」な芸術が山ほどあるんです。
 でも、くだんの合唱においても同じコンセプト?をとられているとしたら、私は氏を心から尊敬申し上げます。
 
 ところで私は、氏の文章を読んで思うに、完全に趣味か余興でやっているのではないかと感じるのです。
 書いたものが売れようと売れまいとどちらでもいいよ、生活に困っているわけではないから。だから言いたい事、やりたい事やっているだけさ。こんなことはいつやめてもいいんだよ。でもぼくが書いた文章は、よきにつけ悪しきにつけ売れるから、出版社はそれを利用するし、ぼくもそれを楽しんでいるだけなんだ。
 
 そんな雰囲気が感じられるのです。ですから、そういう氏の文章に真面目に反論したり、過剰に反応する人達を見ると、私は笑えてきてしまいます。あまり好きな例ではないですが、お釈迦様の掌で、孫悟空が必死で暴れまわっているような・・・。そういうところを見て、氏はさらに笑い転げているような気がするのです。
 
 でも、氏は確かに本質を見ぬく審美眼を持っています。熱心なファンがいることも確かでしょう。(あまり公に聞いたことはありませんが。)

 それで私? 私は、さらにそれを利用して、パロってやろうと目論んでいるのですが、果たしてうまくいっているでしょうか?
(2001年1月12日(金))


H・F・カラヤン

シベリウス 交響曲第5番/ベルリンフィル (DG)’65

 
カラヤンのシベリウスを聴いた。積極的に聴いたわけではない。カムのシベリウスのカップリングにオマケで付いていたから、恐かったんだけど・・・聴いてしまったんですよ。

 へー、「楽譜に忠実に」演奏すると、実はこうなるんですか?わたしゃ、たまげましたよ。目が(耳が)眩んできましたよ。まるでブラスバンド編曲版のように聴こえましたよ。

 私はこの曲のスコアを持ってないし、繰り返しますが、あったとしてもまともに読めないから、「これが楽譜に一番忠実な『完璧』な演奏なんですよ」、とのたまわれれば、「ははー、そうでございますか」と平身低頭するしかない。
 この人は録音にもすこぶるうるさかったそうですから、当然モニターキッチリ、一点の曇りもない「録音芸術」なんでしょうね?(修正つぎはぎバンソーコーベタベタの)
 その割にフィナーレ(コーダ?)のティンパニはさっぱり冴えませんねー。
 聞くところによると、ここは前打音付きの難所らしいです。ところがこの録音では、そのあたりがちっとも聴こえてこないですねー。
 なーんか、変なのー。

 しかし、これがシベリウスですか?
 いかにも場違いな高級外車(それもハリボテのようなアメ車)で乗り付けて、北欧の美しい自然の風景をぶちこわしにしていませんか?

 もちろんこの一曲だけでこの人を評価しようとは思いませんし、この後この曲の再録もありますから、これだけがカラヤンのシベ5とは言えませんが。(たいして変わるはずはないですけどね。変わったとしたら、そのほうがおかしい。)

 少なくとも、このカラヤンのシベ5は「トンデモ」である。これは、
「水洗」をつけてもいいレコードかもしれませんね。
(2000/10/07)


モノクロヤン

 カラヤンの初期の頃の来日演奏会の模様が放送されました。 私は軽く聞き流しました。
 まるでチェリストのようでした。この人、盲目だって聴いてたんだけど、目はちゃんと見えてるようです。
 それにしても、腕ごと指揮棒を振りまわしているだけで、指揮棒を持っている意味は全くないようです。ただのかざりものにすぎないようでした。
 いちおう指揮棒もってないと、なんのために立ってるのか、わからないこともありますからね。
(2001/40/29)


空ヤン

 「レコ芸」2001年5月号のリーダーズチョイスは「カラヤンのベスト盤はこれだ!」です。
 このランキング表を見ると、おもしろいことに気付きます。

R・シュトラウス/アルプス交響曲
新ヴィーン派管弦楽曲集
R・シュトラウス/英雄の生涯
チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」
ブルックナー/交響曲第8番
マーラー/交響曲第9番
オペラ間奏曲集
ヴェルディ/ドン・カルロ
R・シュトラウス/ばらの騎士
プッチーニ/ボエーム
ベートーヴェン/ピアノとヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲
12 アダージョカラヤン
12 ニューイヤーコンサート
12 R・シュトラウス/ばらの騎士
12 ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」
12 ビゼー/カルメン
12 ブラームス/交響曲第1番
12 ブルックナー/交響曲第7番
12 ワーグナー/ニュルンベルクのマイスタージンガー
  その他 46
  合計 103

1.まず、オペラ関係が多いようです。

2.アダージョカラヤン、ニューイヤーコンサート、こんなものをベストに挙げるなんていうのは、これもまた噴飯度が高いです。

3.それ以外の一般?の楽曲をざっとながめて私が思うのは、いかにも中身のない音だけの音楽がやはり得意なようだな、ということです。いえ、彼が得意だと思っているかどうかは別として、聴くほうはそう思っているのだな、ということです。
 
 例えばブルックナーにしても、8番なんて恐くて聴く気になれませんが、9番はLP時代に中古で安く手に入ったので聴いたことがありますが、見事な音(だけ)の狂演でした。
 7番。これはけっこういろんなところで推薦されています。しかしやはりまともに買う気は起きず、最近バシェットで再発されたのを発見して、「まあ、この値段なら、失敗?してもいいか。いちおうチェックしておかないとな・・・。」と手にしました。
 こんなことも珍しいのですが、そう思いながら、やはり結果が見事にはずれだったなんていうこともそうそうありません。やはり音だけが淡々と流れていくだけの、とても空虚なものにしか思えませんでした。
 
4.さて、このランキング表で最も興味深いのは、見事に票がばらけていることです。
 トップでさえ、たった6票。(しかもそれがアルプス交響曲だなんて・・・。私だったら投票する身になってみても、される立場になってみても、恥ずかしいですよ。)
 そして、その他が46票ということは、これらがすべて1票ずつであったことを示しています。全てが名盤で、恐れ多くて順位などつけられないのでしょう、きっと。

 しかしこれは、いかに決め手がないかということが暴露されている、と私は考えます。
 つくづく思いました。なんて中身のない・・・空ヤン。これ以上ピッタリな表現がないほど、みごとにハマリました。
(2001/6/14)

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J・シノウポリ

シノウポリ氏勇退!?

  有力な情報筋によると、シノウポリがドレスデンにおける現在の職務をすべて辞任し、勇退するとの急報が飛び込んできました。
 これは朗報です。
 
 私は何故シノウポリなんかがドレスデン(シュターツカペレ)に居座っているのか、不思議でなりませんでした。一説には、ただ政治力だけでその地位を維持している、との噂も聞いたことがあります。
 
 さて、これで今後のシュターツカペレが俄然楽しみになってきました。後任には一体誰が座ってくれるのでしょうか? 何分、急なことだったらしいので、まだ未定のようです。
 ザンデルリンクやC・デイヴィスがあたってくれれば最高なんですが、そんなことは夢のまた夢なんだろうな・・・と、それでも一縷の淡い期待をしています。

 ところで!何故また急にシノーポリが辞任することになったのでしょうか?・・・・・
 あっ、只今第ニ報が入ってきました!

 ・・・・・!

 どうやら、お亡くなりになったようです。それじゃ止むを得ないですね。
(2001/04/25)

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E交響楽団

トホホな楽団

 
スウィトナーとのブラームス3番がTVで放送された。最後の来日公演ということで、VTRに録りながら見た。

 しかし、なんだこれは。
 何とアバウトな演奏。だんだん腹が立ってきた。しょせんこれがE交響楽団の実力か。(N交響楽団と書くと実名になってしまう! 別にいいんだけど。)
 解説者は「秋の何とやらの・・・名演?」と言っていたが、私には「冬の砂漠?の枯れ木を思わせる、お寒い迷演」に聴こえた。
 マエストロの体調も、やはりかなり悪そうであった。集中力も弱かったろう。ある程度はやむを得ないか。
 終演後の拍手もパラパラ。10秒もしないうちに席を立つ客がゾロゾロ。この部分は編集(カット)なしの連続したシーンに見えた。放送局も、もう少し気を使ったらどうだ。
 ブラームスの3番である。メインプロであったろうと思う。前プロならともかく。
 
 その後のJ・シュトラウスのワルツ?ポルカ?もひどいもの。幼稚園のお遊戯かと思えた。耳も目も背けたくなる。
 さっさとオリンピックに変えた。(私は、そもそもJ・シュトラウスなんぞは一切聴かない。)

 最後の来日公演ではこれが一番マシであったのだろうか。最後でなくても、これはと言わせるものがあるはずだ。 いくらなんでもこれでは保存に値しない。

 (私は、スウィトナーが嫌いなわけではない。むしろその芸術は高く評価している。このときの演奏が、オケの技量も含めて、あまりにも不出来であったということである。)
(2000/9/25)


「クラシック笑撃の事件簿」 音楽之友社

 この本は、今のところ買ってはいない。立ち読みだけで済ませている。一度手にとってパラパラ見たところ、一番おもしろそうな話題が、雑誌に紹介されていたアシュケナージとメータのベト協のエピソードだったからだ。

 ところが、最近ある図書館に早々とこの本が蔵書されていたので、腰を据えて読んでみたところ、訳者である山田シ台○氏の加筆した、自身の体験したエピソードと、それに対するコメント・オピニオンの方が、数段読む価値があることがわかった。

 本題のほうの話は、いずれも「そういうことがあった」という事実の記載であり、笑い話かマンガの域を出ない。ところが山田氏のほうは、そこに主義主張があるから読み応えがあるのだ。
 こんなことなら、全編山田氏がオリジナルで執筆したほうがよかったのではないか。
 しかし残念ながらもう遅い。こんなカタチで小出しにしてしまった以上、同じ企画で行くのは難しいかもしれない。だが、なんとか実現できないものか。

 山田氏オリジナルの部分で印象に残ったのが、E交響楽団のことだ。
 スケジュールの手違いで、ホールの改装工事中にコンサートを披くはめになり、前半の本番中に工事の雑音が入って、ぶちこわしになってしまった。
 すると後半のメインプロ(ブラ#3)ではオケの威信?を賭けて、空前絶後の入魂の演奏をしたというのだ。
 山田氏はこのオケの「こんな演奏」を聴いたのは「後にも先にもこの時だけだ」と述べている(指揮者は失念。そんなに有名な人ではなかったと思う)。

 私は、またも失望した。(元々このオケには何の期待もしていないが。)
 このオケも、普段はテキトーにチンタラチンタラお仕事しているだけなのだ。なにか特別な事情がない限り「本気で音楽する」なんてことはないのだ。
 我々は普段そんなものを聴かされている「可能性がある」のだ。

 この件に関して、山田氏は特に批判的な意見は述べていなかったと思う。だが仮に、たまたまいい演奏が聴けたから、何か「儲けた」というような印象をもつようなら、その聴き手も大したことはない。ただのお人よしだ。
 
 この楽団(や指揮者)に限らず、おそらくどんな演奏家でも多かれ少なかれそういうことはあるのだろう。もちろんすべての演奏家がそうだというわけではない。

 そんな中で「本物の音楽家・芸術家」を捜し当てるのは並大抵のことではない。
 だまされてはいけません。聴く耳(本当は頭であり心である)を持つことが必要です。
(2000/10/27)


世界のE交響楽団

 来る’01年10月7日(日)のN響アワーでは、ヨーロッパ公演の模様が放送されるようです。
 プログラムは武満他となっており、詳しいことはわかりませんが(調べてでも知ろうという情熱もないが)、この公演のレヴューがレコ芸10月号に載っています。
 レコ芸は「買わない派」が多いようで、立ち読み、斜め読みではなかなかこんな細かいところまで気づかないケースが多いと思いますので、私めがわざわざ労をとって特にご紹介いたしましょう。

 八月二十七日のデュトワ指揮NHK交響楽団は、アルゲリッチがソリストとして出演することもあって、最も早く売り切れた公演の一つだった。
 最初の武満の《セレモニアル》は、宮田まゆみの笙とのバランスが良く、幸先良いスタートとみえたが、続くアルゲリッチ独奏による得意のプロコフィエフのピアノ協奏曲第三番は、ピアニストに今一つ精彩がない(途中爪を割ったと開く)。デユトワもオーケストラも彼女を追いかけるのにおおわらわで終わってしまった。
 ヨーロッパの聴衆は技術があっても楽しくない音楽には冷たい。
 残念ながら最後のショスタコーヴィチの交響曲第五番は、指揮者とこのオーケストラの間に何の情熱もないことを公衆の面前にさらけ出す結果となった。

ロンドン 下田季美○

 私としては、武満なんかどうでもよく、是非共アルゲリッチやショスタコが聴いてみたいんですが、「残念ながら」こういうお目当ての曲に限って「時間の関係」で聴けないんですよね。
('01/10/05/金)

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園田高弓ム

ニッポンの音楽家

 さて、今日のN響アワーはシューマンのピアノ協奏曲ということです。誰なんだろうと思って番組表を見て噴き出してしまいました。(いや、失礼失礼・・・。)
 園○だそうです。
 おう、待ってたぜ。この御仁には是非共言っておきたいことがあったんです。唐突に言っても、「いきなり何を・・・。」と思われますのでチャンスを待っていたんですが、ここで会ったが百年目。
 2〜3年程前だったですが、彼のドキュメンタリー番組が放送されていました。その中でこういうことを言っていました。
 「女(性)の演奏するベートーヴェンなんて・・・。」

 私は思いました。「日本人(のあんた)の演奏するベートーヴェン(西洋音楽)なんて、誰が聴いてやるか!」
('01/12/02/日)


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