Sir Colin Davis
コリン・デイヴィス

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1927年9月25日 英サリー州ウェイブリッジ生まれ
      ロンドン王立音楽院でクラリネットを学ぶ
1949年 指揮活動を始める。カルマー室内管弦楽団、チェルシー・オペラ・グルー
プを指揮
1957年 BBCスコティッシュ交響楽団 副指揮者
1959年 クレンペラーの代役で、「ドン・ジョバンニ」(コンサート形式)を指揮。サドラ
ーズ・ウェルズ常任指揮者、音楽監督
1960年 ヨーロッパ、日本、オーストラリアツアー
1964年 世界一周ツアー
1966年 12月。3ヶ月アメリカに滞在し、メトロポリタン歌劇場で「ピーター・グライム
ズ」上演
1967年 9月。BBC交響楽団主席指揮者
1968年 11月。ニューヨーク・フィル客演指揮者。
1971年 9月。コヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラハウス音楽監督
1972年 ボストン交響楽団 主席客演指揮者
1975年 ロンドン交響楽団 主席客演指揮者
1980年 ナイト(騎士)身分に叙せられる。コマンダー(上級勲爵士)
1983年 バイエルン放送交響楽団 音楽監督兼常任指揮者
1990年 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団 名誉指揮者
1995年 ロンドン交響楽団 主席指揮者
1998年 ニューヨーク・フィルハーモニック 主席客演指揮者

総論

 サー・コリン・デイヴィスは未だにある種の誤解と偏見を持って、すなはち「予断を持って」見られがちな指揮者である。そ
れは「大多数の人が彼を穏健・中庸だと認識している、と思い込んでいる」向きが、未だにあることだ。
 よろしいでしょうか?「大多数の人が彼を穏健・中庸だと認識しているのではないか」、ではない。(どう書いても難しい・・・。)

 とんでもない誤解である。今や誰も彼をそんな風に見てはいない。過激と情熱の左翼?の人であることを、皆がとうに理解
している。
 神と悪魔の顔を併せ持つ、ある意味では完全な指揮者である。

 C・デイヴィスのハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ベルリオーズ、シベリウスが素晴らしいなんてことは、
誰でも知っている。
 
 しかし、私は敢えてこう言おう。
 C・デイヴィスのメンデルスゾーンは全て素晴らしい。
 C・デイヴィスのブラームスは全て素晴らしい。
 C・デイヴィスの声楽曲は全て素晴らしい。

◆これがC・デイヴィスの欠点だ!

 のっけから物騒な話題で恐縮である。
 しかし、どんな指揮者であれ100%完璧であり、唯一無二ということはあり得ない。こういう見方をする向きもあるということ
を再認識しておこうではないか。

マッテイラ/ドイツ・ロマン派アリア集
Erate 42141-2

 この録音の不満は、コリン・デイヴィスの指揮にある。ソルフェージュ的には完璧な指揮者だし、ドレスデン国立管も美しい。しかし、ドット数の(段階数の)少ないデジタル機器のような”二進法”のデイヴィスの音楽のつまらなさはここでも変わらない。単純な音の増減、持続の連結でしかない(しかし、その整然たる美しさは確かに存在するのだが)彼の音楽へのアプローチは、段階的変化ではなく微妙に揺れ動き、絶えず変化しながら流れて行くべきドイツ・ロマン派の音楽に内包される有機性には、ほとんど対応していない。無機的という一言では片付けにくいが、鋭敏な耳と感性の持ち主である聴き手であれば、第一曲に収められた「フィデリオ」のレオノーラのアリアの前奏を聴いただけで、筆者の言わんとしている内容は理解できるだろう。
 音楽が、単なる物理的な音の振動の足し算・引き算ではなくて、より微妙な情感・情念を伝え得る最上の芸術であることを信じる人間にとっては、このアプローチは、その表面の美しさに反して、物足りない。マッティラの熱気にいささか水をさすデイヴィスの伴奏ゆえに「準推薦」とした。
【しコード芸術】

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◆寄稿

サー・コリン・デイヴィスとPHILIPSへの録音〜ハイドンとドヴォルザーク

 デイヴィスは、90年代初め、イギリスの雑誌インタビューでコンセルトヘボウとのハイドン交響曲集について語っている。これらの曲を聴く上で参考になるのでここに紹介したい。

 『フィリップスで企画された当初は、ロンドン交響曲集として完成させる予定ではなかった。コンセルトへボウが室内管弦楽団のようにとても美しく演奏するので、彼らの努力のおかげで(註:デイヴィスは謙虚な人でいつも「自分の・・・」とは言わない!)だんだん録音が増え、ロンドン・セットは全部揃ったというわけだ。私はこの録音に大変満足している。CDで市販された82・83番と91・92番および93〜104番(ロンドン交響曲集)以外にも、84番の録音テープはフィリップスの倉庫にある筈。自分としては85番以降のパリ交響曲集と88、89番の録音について再開したいとPHILIPSにかけあっているんだが、これが完成できないとすると、とても残念だ。』

 ということは、10年経った現在、とても残念な状態が続いているようである。
 ところで、デイヴィスの録音はもともと「全集」より「選集」が多いことに気づかれている向きも多いと思うが、同じインタビューで、ドヴォルザークの交響曲が7、8、9番だけで何故全集を録音しないのだという問いに対して、

 『7〜9番とそれ以外では作品の完成度に大きな違いがあるので、自分は何が何でも全集を作るのがいいとは思わない。』

 と、その理由をはっきり語っている。モーツァルトの後期交響曲選集やラローチャとのピアノ協奏曲選集もきっと同じ考えなのだろう。

 ハイドンに話を戻すと、インタビューには少し事実誤認があり、86、87、88番は実はLP化されている。(パリセットは82〜87番だから、デイヴィスの希望を叶えるには、85番と(パリではないが)89番があれば良い。) まあデイヴィスくらい録音が多いと、いちいち覚えていられないのかも知れない。それにしても、PHILIPSともあろうものが、何故あと2曲ぐらいさっさと録らなかったのか。デイヴィスとの蜜月がずっと続くと思っていたのだろうか。この際、他のレーベルでも良いから「残念な状態」を早く解消して貰いたいものだ。
 PHILIPSさん、84、86〜88番のCD化も宜しく。

「Classics, March 1992(10〜12ページ)」から引用、意訳およびコメント:富尾 晃正


【LPで聴くハイドン】  
ハイドン:交響曲第86、98番
Ph 9500 678(LP)

ハイドン:交響曲第87、103番「太鼓連打」
Ph 9500 303(LP)

ハイドン:交響曲第88、99番
Ph 9500 138(LP)

ハイドン:交響曲第95、97番

ハイドン:交響曲第101、102番

コリン・デイヴィス指揮/アムステルダム・コンセルトヘボウO

【CDで聴くハイドン】
ハイドン:交響曲第95,96,98,102,104番
Ph 442 611-2
ハイドン:交響曲第93,94,97,99,100,101番
Ph 442 614-2
ハイドン:交響曲第94,96,100,101,103,104番
Ph 464 707-2

これらは何の仕掛けも企みもない、それでいて愛情と威厳に満ちた、まさにパパ・デイヴィスを聴くにふさわしいディスクである。ハイドンを知らない向きにこそ聴いて欲しい。(かくいう私・・・。)

鑑賞記

メンデルスゾーン:
交響曲第3番「スコットランド」
交響曲第4番「イタリア」

C・デイヴィス指揮/BRSO
(ORFEO)


★★☆

隠れ名盤

意外にもメンデルスゾーンのイタリア
 表面的なデュナーミクの限界と内面的な情動のたぎり、そのぎりぎりのバランス。その棒への食い付きのよさ。オケメンをし
てそうさしめるカリスマ。その両者の誠実さ。知情意の極限ともいってよいバランス。この後では、ペーター・マークの演奏で
さえ聴き劣りしてしまう。
 
 スコットランド
も同傾向。カップリングの「真夏の夜の夢」序曲でさえ涙が流れてしまうほど。(それにしてもこの曲には、メンデルスゾーンの天才を感じる。)
 
 この2枚は圧巻。おそらくどんな名盤紹介にも載っていない、「忘れられた名盤」である。
 ただ、これらの曲を風景画としてとらえたい人には不向き。これは心理ドラマである。

メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」

C・デイヴィス指揮/ドレスデン国立O
(2S‐057)
1997年


★★★

2002年度優秀盤

 紆余曲折を経ておりますが、今年の優秀盤の続きです。って、どっからの続きなんだよ、って感じなんですが。

 本盤を入手したのは、かなり以前です。一聴「すげえ」演奏だということはわかりました。いえ「わかりました」なんて落ち着いて平然と言っていられるような代物ではありません。とにかく「すげえ」んです。それ以外に適当な言葉は全く見当たらないんですが「すげえ、すげえ、すげえ・・・」と百回ぐらい繰り返してそれで済めばいいんですが、そうもいかないでしょうから。(いや、案外それで済んでしまうのかもしれない・・・。)

 この演奏、録音を語るためには、先ず「スコットランドとは何か?」から始めなくてはいけない。「先ずカイより始めよ」との教えの通りである。それほどまでに、この曲に対する考え方を根底から覆えされるような問題作なのである。(結論はかくも容易に覆るのである。)

 「スコットランド」とは、メンデルスゾーンが・・・印象やインスピレーション・・・風景画風に綴った・・・哀愁を帯びた・・・甘美な旋律・・・ロマンティシズム・・・情緒的・・・幻想的・・・。
 だいたいこのあたりの言葉を、順列組み合せの技法を駆使して並べ替えれば、百人百様の解説文ができよう。といえよう。
 そして「スコットランド」といえば、10人中8人はクレンペラー、残り2人はマークと答えるだろう。とりあえずそう答えておけば、誰からも後ろ指を差されることはあるまい、という打算的な回答である。
 
 然るに私は「クレンペラーのスコットランド」から始めなければならなかった。いったい世間常識たるスコットランドとはいかなるものなのか。 「対位法の鬼、全身ポリフォニー男」との異名をとるクレンペラーである。(約1名がそう呼んでいるだけのようだが。)その実態は何か?
 どのパートも一定の音量で、かつ一定のテンポで整然と行進するように演奏する。ただそれだけである。(最近TVでよく目にする某国の軍隊の行進のようなものである。)普通の指揮者なら、ここはどのパートが中心だから他のパートは少し押さえてとか、ここは敢えて対旋律を強調させようとか、内声部を強めにとか、自分なりに解釈してプレゼンするものである。
 ところがこのおっさん(クレさん)、そういう能力が全くないのか、全て一律一様なんです。棒読みとでもいうんでしょうか。
 それが「クレンペラーのスコットランド」である。

 対する「マークのスコットランド」とは。
 こちらは3種類ほどあるんですが、どれも素晴らしいです。とりわけ今回はLSO盤(デッカ、’58年)の「弦」に発見がありました。「LSOの弦」です。これは機会を改めて是非触れてみたいと思います。
 
 そういうことで改めて「デイヴィスのスコットランド」です。
 スタジオ録音ではオルフェオ盤が早くから出ています。「意外にもデイヴィスはメンデルスゾーンが良い」とはかねてからの主張?でした。
 さて本盤ですが、この演奏には清涼感のかけらもありません。サイダーやコーラなどのソーダを飲んでスカっと爽やかしよ
う・・・と思ったら、苛性ソーダを飲まされて悶絶した・・・、ような感じ。
 スコットランドに来て、観光船でフィンガルの洞窟に向かっていたら、大しけに遭ってしまって、船酔いはするは、波はかぶるは、あわや難破しそうになるはで、ほうほうの体で引き返してきた・・・感じ。
 いずれもロクな感じではないが、いかに尋常でないかがわかってもらえるだろう。それほど「すごい」演奏なのである。
 この作品がメンデルスゾーン晩年の畢生の大作であることをまざまざと感じさせる、そういう「大演奏」である。
 
 オケはドレスデン。
 しかし、ジャケットには「BRSO」との記載もある。おそらくそれはミスプリであると思うが、仮にオケがBRSOであったとしても、そんなことは最早どうでもよい些細なことに思えてくるのである。それほどまでに「やはりオケは指揮者次第」を実感させる演奏でもある。
 特筆すべきは「弦」である。これが「ドレスデンの弦」なのか。いかなるスタジオ録音からも聴いた事のない艶やかな弦の音
である。決していぶし銀のようなくすんだ弦ではない。
 「デイヴィスのLSOの弦」も素晴らしいが、どこ(のオケ)へ行っても弦を良くする力があるのか。

 録音も極めて優秀。
 生々しさ、臨場感はスタジオ(正規)録音の比ではない。レーベルは違うが、同じ組み合せでの昨年の「ドイツ・レクイエム」は聴いていただけただろうか。あのレベルを想像していただければよい。
 
 これは大ブリテンをも凌駕しそうな大スコットランドである。
 果たしてそれはどういう演奏なのか、どういう録音なのか、気になる向きには聴いてみていただくしかない。結果は聴いたあなたが判断するよろし。

02年12月27日(金)


ベートーヴェン:交響曲全集

C・デイヴィス指揮/ドレスデン国立O
Ph(分売有り)
’91

★★☆
※優秀録音盤

定番の定盤

 知る人ぞ知るとは思うが、ベートーヴェンのエグモント序曲! 同じく交響曲第7番は驚異の名演である。

 もしこんなライブがあったら、総立ちのブラーヴォになること間違いなしだ。これを聴いたら、ただ表面的に熱狂しているだけの演奏がバカバカしくなってくるであろう。
 C・デイヴィスは慌てない、騒がない。最後の最後まで引っ張る。そしてそのぎりぎりの限界のところまでタメて、絶妙のタイミングで爆発させる。そのタイミングが外れるといわゆる不発に終わるのだが、彼は決して外さない。「よし、ここだ!」そこで鞭を入れる。(下品な喩えで恐縮だが。)それがうますぎるのである。
 そしてカタルシスが待っているか、はたまたしらけるのか、それは聴く人の自由である。
 7番が分売されていないのは、メーカーの戦略ではないかとさえ勘ぐってしまう。

交響曲第4番

 
彼のベートーヴェン全集の他の曲に比べ、この曲では、意外に熱い表現をしている。(他の曲ではそれらを内面に隠して
いるということ。その意味ではボールトと近いタイプなのかと思う。単に国籍・国民性だけではないと思うが。)

 この曲をよく聴くようになると、シューマンのあの言葉(ギリシャの乙女)がなんだかウソのように思えてくる。この曲には7番に通じるようなデモーニシュな側面が強いように思えるのだ。(やはりベートーヴェンもスジを通していたのか?)

 かといってクライバーのような表現を手放しで受け入れられるわけではない。彼の音楽はあくまでクライバーの音楽であって、ベートーヴェンのそれから、少し外れているように思えるのだ。どんな曲だって奏者が意識的にやれば、どんな表現でもできるのだ。

 たとえば5番(仮称運命)。インマゼール指揮アニマ・エテルナの実演を出会い頭に聴いたことがある。
 この曲をまるで7番のように(というと7番に大変失礼なのだが、)とても楽しそうに、うきうきと弾いていた。私はその勘違いぶりに唖然とし、拷問のような時間を強制された。一刻も早く逃げ出したかった。
 こういう演奏を聴いて、斬新な解釈と「感心」することもできる。
 しかしそこにはなんの感動もない。ただ奇抜なことをして意表を突いただけだ。後になにも残らない。(いや、私には非常に不快なものが残ったが。)

 ところで、C・デイヴィスである。
 彼の場合はあざとさがまるでない。もったいぶった「間」もとらない。淡々としているようにも見える。
 だが曲の全体をよく把握して、知らず知らずのうちに大きなうねりを作って、聴き手を巻き込んでしまう手腕は素晴らしい。 こういう表現は局所局所を大げさに深刻にやってみせて、なんとか飽きさせないようにしようとする指揮者に比べれば、一見地味で退屈に聴こえるだろう。
 しかし聴き終わって、ああ、いいベートーヴェンだったなー、と実感させるのはこういうタイプの指揮者なのである。これぞ識者といえるだろう。

 全集としても、非常に水準の高いものである。
 それにしても、このオケというのは、C・デイヴィスクラスの指揮者が振って、初めてその真価を発揮するのである。

('00/09/01)

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シューベルト:交響曲第9番「ザ・グレイト」

C・デイヴィス指揮/ドレスデン国立O
RCA(分売有り)
'96

★★☆

 意外に知られていないが、この演奏は同曲のベストに挙げてもおかしくない程の名演である。
 表面的には何事もないかのように平静を装っているが、一旦その内にたぎる熱いものに気付くと、その恐ろしいまでの感動の深さに驚嘆せざるを得ない。
 何度も同じことを繰り返すようだが、これがC・デイヴィスの魅力であり、実力であり、見識である。
 決して大騒ぎはしない。だから、表面的にしか聴けないと、なんともつまらない音楽にしか思えないだろう。

 シューベルトの天才が最高に花開こうとしているのと同時に、あるいはその先の暗黒に気付いていたのか、いなかったのか。その天国と地獄を垣間見せてくれるのがこの演奏である。
 これは同コンビが残した最高の仕事のひとつである。

 8番「未完成」も「凄い」演奏です。どこがどう凄いのかを説明するのは難しいんですが、「鬼気迫る」と言えばよいのでしょうか。「恐い」感じです。
 
 それ以外はどうなんでしょう。
 残念ながら、曲自体にあまり魅力を感じないので、あまりコメントできません。

 最近密かにこの指揮者の偉大さが(再)発見されつつあるようだ。いいことだ。だが、次の巨匠かもしれない、というのは見
当違いだ。すでに巨匠である。
 LSOがロストロや、ブーレーズとしか来日しないなんていうのは、根本的に間違っている。この現代の巨匠率いてこそのLSOであり、またドレスデンである。


シベリウス:交響曲全集

C・デイヴィス指揮/LSO
BMG(分売有り)
’92

★★☆
※優秀録音盤

 ヤン・シベリウスの音楽は、その響き、構成、表現内容がまったく独特なものです。
(コリン・デイヴィス)
 
 このシベリウスは至高の段階に達している。
 今でもBSOとの旧録に、かなり人気があるようだ。そういう演奏スタイルを好む向きがこの演奏を聴くと、つまらないと思えるかもしれない。
 一見(聴)クールで、なんの変哲もないように思えるが、しかし一旦その内にたぎる情熱を聴きとることができるようになると、もうこれは手放すことができない。 逆に旧盤のどことなくギクシャクした造形が、どうにも我慢ならなくなってくる。
 これは晩年?デイヴィスの到達した孤高の境地を端的に示すものだ。
 現在もLSOとのライヴシリーズで驚異的な名演を聴かせるデイヴィスであるが、後で振りかえってみれば、このあたりから巨匠としての片鱗を見せ始めたエポックであったと言われるようになるに違いない。

 私はこの「全集」を、もう何十回聴いたか分からない。いや、とうに百回を超えているかもしれない。しかし何回聴いても決して飽きることがない。シベリウスが聴きたいと思ったら、まずこの全集に手が伸びる。(ザンデルリンクも名演であるが、感動が深いので、たびたび聴くには少々疲れる。)
 
 どの曲も素晴らしいが、特に7番は全体の白眉である。
 いかにもシベリウスらしい、冷涼な雰囲気漂うセンスのいいジャケットも、その価値をさらに高めている。

演奏者が素晴らしい?

 年末年始をブルックナーで過ごし、正月も3ヶ日が明け、次に手に取るべきはシベリウスである。
 いえ、何の必然性も脈絡もないのですが、ただ単に私がそうしただけのことで・・・。

 私は常々、装置の音質を今よりも少しでも良くするにはどうしたらいいかを考えています。そして日々刻々装置の状態を替えています。
 しかしながら、プア・オーディオを身上としていますので、装置やアクセサリーにお金が掛けられるわけではありません。買い替えなんてもってのほか。
 何段にも積み重ねられた安物のインシュレータの組み合わせの順番を替えたり、一旦取り去ってみたり。3点支持は前2点が良いのか、後ろ2点が良いのか、はたまた反則技で右2点左1点がよいのか試してみたり。
 安物のケーブルをつなぎ替えてみたり、また元に戻したり。

 とにかく手持ちのパーツのあらゆる順列組合わせを、ことごとく試しているといっても過言ではありません。
 そんな試行錯誤の泥沼の中、なんとか予測と結果が一致して、そこそこ満足できる音質が得られると、しばらく安心して音楽が聴いていられます。
 しかしそれも長くは続きません。エージングによって劣化が進むのか、だんだん満足度が下がってきます。そしてまた飽くなき探求の茨の道がはじまるのです。
 最近はスーパー・ツィーターに的を絞った活動を続けてきましたが、2、3の改善が効を奏して、また少し良い音で聴ける
ようになりました。
 そして良い音で聴けるようになると、今まで聴いたレコードの中にも、また新しい魅力が発見できるものです。

 このレコードも私の愛聴盤の一つです。「何は無くともC・デイヴィスのシベリウス。」
 やはり、ことあるときも、また無いときも取り出すレコードです。
 このレコードは元々優秀録音として評価の高いものでした。そういう意味でも装置の音質改善のリファレンスにしているレコードです。このレコードがまともな音質で聴けないようでは・・・。
 
 そんな中、このレコードを聴いていて不思議な体験をしました。
 「とてもうまく演奏しているな・・・。」
 「うまい」という陳腐な表現が、これほどぴったり思えたことはありません。息が合っている。奏者同士が、そして、指揮者と奏者が。
 奏者が指揮者の棒に合わせて演奏しようとしている様子が「見えて」しまったのです。
 「ため」や「気配」、そういうものが手に取るようにわかる。次にどう振ってくるか、その様子を窺っている緊張感。

 私はそれまで、「音楽そのもの」を聴こうとしていました。というよりも「結果としての音(楽)」とでもいいましょうか。そしてその音楽の素晴らしさに感動を見出していました。
 しかしここでは、「今そこで、音楽を(再)創造しようとする行為」、大袈裟に言えば「その人間たち(指揮者を含めた演奏者)の営み」に感動してしまったのです。

 私は愕然としました。これは再現芸術としての音楽を聴くことの、根本的なスタンスの問題に直結してくるからです。

 私はそれまで「シベリウス」(あるいはその他の「作曲家」)を聴こうとしていました。そしてそのシベリウスをよりよく聴かせてくれる「手段」としての演奏者として、C・デイヴィスやザンデルリンクを選んできました。
 しかし、ここでは「C・デイヴィスとLSOの演奏」が素晴らしい。もしかしたら楽曲なんて何でもよかったのかもしれない。

 もちろん、こういうことは漠然と、あるいは潜在的には分かっていました(かもしれません)。作曲家(楽曲)と演奏者の関係というのは表裏一体・一身同体の不可分なものであり、切り離すことはできないし、線引きすることもできない。
 しかしこれほどはっきり認識させてくれたのはこれが初めてです。しかもレコードで。
 あるいは、そこまで再現できるようになった成果を素直に喜ぶべきでしょうか。

 例えば、ほんの例えばですが、大植とミネソタ管のステージ(ライヴ)でもそういうことを感じたことがあります。演奏(音楽)自体ははっきり言って、たいしたものだとは思えませんでした。
 しかし、「ああ、彼らには確かに信頼関係があって、一緒に音楽する感動を伝えようとしているんだな」ということを感じることができました。(それだけに今回の中止は誠に残念。)
 最近では、チョン・キョンファ/セント・ルークスの「四季」です。これはレコードですが、チョンや「四季」の良し悪しなど今更何も言う事はありません。ここで素晴らしかったのはセント・ルークスの「献身的」とも言える合奏です。これぞ協奏曲。これぞ協演。(また、繰り返しで申し訳ないですが。)
 
 こういう訳で、また違う観点から(意識して)ほかのレコードも、聴き直してみる必要がありそうです。

 いずれにせよ、演奏良し、録音良し、楽曲良し。この「C・デイヴィス/LSOのシベリウス全集」は、3拍子揃った名盤と言えましょう。
('02/1/4/金)


ドヴォルザーク:交響曲第8番

C・デイヴィス指揮/LSO
(LSO)
’98

★★★★
※優秀録音盤
 
 ある時、手元にあるこの曲の演奏の聴き比べをしたことがある。
 2〜3種類他の演奏を聴いてから、次にこの演奏を聴いた。冒頭の数秒ほどであった。私はそこで(聴き比べに対して)あほらしさを感じた。
 これは別格の素晴らしさである。深みと艶のある音色、リズム感、テンポ感、どれをとっても非の打ち所がない。「完璧」というのは、こういうことを言うのかもしれないと思った。
 しかもこれはライヴである。そうとは思えないアンサンブルと同時に、ライヴならではの感興の高揚もある。

 必ずしもボヘミアンな雰囲気ではなく、典型的なドヴォルザークとは言いがたいかもしれない。しかしこれは交響曲演奏の
ひとつの理想の形であると思う。指揮者とオケの良いところが全て出ており、同コンビの中でも最高の出来と言えるのではないか。

 この演奏を聴き終わって、そこで聴き比べはやめた。それ以来、この演奏がこの曲の決定盤となっている。
 私は、チェロソロが「大嫌い」である。しかしチェロの合奏(ユニゾン・・・でいいんですか?)は逆に大好きである。この演奏では、冒頭のチェロがとびきり素晴らしい。そこだけで完全に出来上がってしまっている。(目がうるうるしてくる状態のこと。)この音を聴いて何も感じなければ、おそらく他のどの弦楽器を聴いても無駄であろう。

ベルリオーズ:幻想交響曲

C・デイヴィス指揮/LSO
(LSO)

★★☆

21世紀最初の名演

 これは、現代最高レヴェルのライヴシリーズの一つです。

 このシリーズの特筆すべき点は、実は、録音も極めて優秀であるということです。
 但し、装置の状態が悪いと、その良さはさっぱりわかりません。何となく貧弱な、冴えない音質になってしまいます。 優秀録音というのは、見かけの派手さはありません。しかし、細部まできちんと再生できるようになると、驚くほどの情報量が詰まっていることが、だんだんわかってきます。
 このレコードも気配感がかなり強く感じられます。(そこで振っている、C・デイヴィスの・・・。)

 これは演奏にも言えることです。「何もしていない」ように見えるから、「部分部分を強調して、わかりやすく」演奏したものを聴き慣れてしまうと、とても素っ気無く聴こえるこもしれません。しかし聴き終わって「ジーン」と残るのはこういう演奏なのです。
 こういう演奏のよさがわかるようになると、部分部分を大袈裟にやってみせる演奏を聴くと「アホちゃうか・・・。」と思えるようになってしまいます。バカバカしくて聴いていられなくなってしまいます。
 
 しかし、音楽を聴く動機や目的は、個人個人で全く違う(本当だろうか?)わけですから、「何か変わったものを」求める向きには、全くお薦めできません。
 これは、ごくオーソドックスな「何の変哲もない」音楽です。しかし、内に秘める情熱には、とても激しいものを感じます。それを良しとするか否か(聴きとれるか)、このあたりがこのレコードの評価のポイントになるでしょう。

 これはC・デイヴィスが最後?にたどりついた境地を端的に表わすものです(か、どうかは私の妄想ですが)。
 このライヴシリーズが今後、少しでも長く続くことを祈るばかりです。
('01/12/07/金)


ブルックナー:交響曲第9番

C・デイヴィス指揮/LSO
(LSO)


★★

 
ごく一部(全国で約5人くらいのようだ)で話題沸騰・煮沸消毒・大地礼賛・賛否両論・車の両輪の一枚である。
 
 周知?のように私はこの曲がさっぱりわからない。かろうじてジュリーニ/VPOでのみ聴き通せる、聴くに耐える音楽である。
 多分あまりにもぎくしゃくしているからだと思う。無機的なのではないだろうか。
 特に強調しておきたいのは、この曲が「未完成」であることを忘れてはならないということだ。「不完全作」なのである。

 ここでのC・デイヴィスは、敢えてそういうことを隠そうとせずに、構造を浮き彫りにしようとしているように見える。ちっとも神
秘的でもなく宇宙的でもない。どちらかというとスクロヴァチェフスキのそれに近いような気がする。だから「私には」いかにもつまらない曲にしか見えない。
 C・デイヴィスの演奏がつまらないのではない。「つまらない曲」を正しく「つまらない曲」としてプレゼンする。要するにアー
ノンクールである。
 私がこの曲がジュリーニでのみ聴くに耐えうるというのは、そのあたりに原因があると思う。ジュリーニは最大限有機的にメロディアスに演奏しようとする。もしかしたらそれがこの曲の本質ではないのかもしれなくても。
 
 この演奏で特筆すべきは「弦」である。現在最高の「弦」を聴かせるのはLSOではないかと思っている。
 枯れた弦。
 おそらく誰もが驚愕するであろう、3楽章の16分20秒のあたり。これは一体なにが鳴っているのだ。
 おそらくブルックナーが息も絶え絶えに最後の力をふり絞って書いたであろう絶筆である。それを彼らは見事に表現したのである。(あれ、これって十分感動しちゃってるんじゃないの?)

 私はクナッパーツブッシュやシューリヒトなどは、今では全く聴かなくなってしまったが、遠い昔の記憶では、彼らがやったブルックナーからはこういう弦の音がしていたような気がする。

 C・デイヴィスは今やクナッパーツブッシュやシューリヒトと並ぶブルックナー指揮者たり得たのである。(と言っておけば、
クナファンやシューリヒトファンも少しは安心するだろう。・・・と、敢えて逆なでしてみる。)

02年11月16日(土)


ブルックナー:交響曲第7番

C・デイヴィス指揮/BRSO
(ORFEO) '87
 
 これは情感や叙情性をうまく表現したものである。
 この曲の魅力のひとつは冒頭の弦楽にあると思う。この演奏ではそこを聴くだけで、なんとも言えない安心感を覚え、心置きなく音楽に浸ることができる。
 失礼ながら、BRSOってこんな弦の音を出せるの?と思わせます。
 
 この演奏では、2、3楽章の順序を入れ替えている。この解釈に賛否両論はあろうが、訳のわからない(古い)版を使うより、よほどましであろう。
 これはライヴであり、拍手に混じってブーイングも聞かれる。これも一興かと。




ブルックナー:交響曲第7番
C・デイヴィス指揮/BRSO
(SACD)
'84
 これは1楽章の木管にミスのある「と盤」である。ライヴ盤ならではの禁断の楽しみといえよう。
 演奏自体はC・デイヴィスらしい、安定感のある名演。落ち着いてブルックナーの世界に浸れます。


エンゲルベルト・フンパーディンク:ヘンゼルとグレーテル

フランツ・グルントヘーバー(B)/ギネス・ジョーンズ(MS)
アン・マリー(MS)/エディタ・グルベローヴァ(S)
クリスタ・ルードリッヒ(MS)/バーバラ・ボニー(S)
クリスティアーネ・エルツェ(S)

ドレスデン国立歌劇場少年合唱団
ドレスデン国立歌劇場女性合唱団
C・デイヴィス指揮/ドレスデン国立管弦楽団

(Ph)
’92
※優秀録音盤

 私は、基本的にオペラは観ないし、ましてやそれをレコードで聴くこともほとんどありません。だから普段はオペラのレコードは買いませんが、時々ジャケ買いをしてしまいます。
 これはその中でもピカ一のものです。これは「顔出し」で飾っておくだけの価値があります。
 
 多分演奏も素晴らしいんだろうと思って、聴いてはみるのですが、やはり言葉がわからないせいもあって、なかなか聴き通
すことは難しいです。
 それでも何となく童話風な、メルヘンチックな雰囲気はよく出ています。キャストがなかなかの豪華陣ですので、意味はわからなくても歌声を聴くだけでも価値はあります。 

 これはまた超優秀な録音でもあります。ちょっとした言い合いのところでは、おいおいツバが飛んでくるんじゃないか、と心
配になってきます。
 遠くのほうから近づいてくる様子もよくとらえられていて、いったい何キロ先からくるんだ、と思わせます。

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シベリウス:管弦楽曲集(2)

C・デイヴィス指揮/LSO
(BMG)
’00

★☆
 
 管弦楽曲集(2)としたが、正式なタイトルにそうあるわけではない。有名どころを集めた先の選集を(1)、無名どころ?を集めた続編を(2)と便宜上識別してみただけである。
 
 さて、チェロソロが嫌いだと再三申し上げている私であるが、このLemminkainen suite を聴いて、少しだけ考えを改めた。
 そもそも、何故嫌いであるのか。
 あの、ゴリゴリがたまらないのである。どうにも力んでしまって、それこそノコギリを引いているようなあの音を聴くと、殺伐とした気分になってくる。どうにも暗くがっかりした気持ちになってきて、頭(こうべ)を垂れてしまう。
 ところが、である。この演奏では少し様子が違うのである。軽いのである。軽やかなのである。音に羽根が生えて飛んでい
くようだ。
 そしてそうなれば当然艶やかなのである。これは俄然私の好みだ。
 それでいてあっけらかんと明るくなってしまうことがない。チェロはあくまでほの暗く、まさにこのジャケットのように、霧のかかった少し寂しい森のような雰囲気を漂わせる。
 うーむ、これぞシベリウスの心境なのかもしれない。デイヴィスでなければ出来ない、とは言わないが、デイヴィスで聴いて
初めて分かった世界ではある。
('01/12)


ブラームス:ドイツレクイエム

C・デイヴィス指揮/ドレスデン国立管弦楽団
(ELS)
'01/5

★★★

2001年の名盤

 ザンデルリンクの「グレイト」と、このC・デイヴィスの「ドイツ・レクイエム」。これが2001年のベストの双璧である。いつも同じことを申し上げますが、非正規盤が必ず上位に来てしまう、この不条理。

 これは、某指揮者の追悼演奏会の模様である。私は本当にこの指揮者に感謝しなければならない。この指揮者が亡くなってくれたおかげで、(ようやく)こんな素晴らしいライヴ(の片鱗)が聴かせてもらえたのである。
 この伝統のオーケストラは、現在ではC・デイヴィスあるいはザンデルリンク、このクラスの指揮者が振ってこそ、ようやくその真価が発揮されるというものだ。

 演奏は、冒頭から荘厳な雰囲気である。とてつもなく大きな何物かに飲み込まれてしまうようだ。全体にかなりスローペースで運ばれる。しかし緊張感が持続しているから、ダレたり飽きたりすることがない。
 但し、合唱にややバラツキがあるのが難点である。
 こういう喩えをすると、とかく噴飯物になりやすいのだが、「大魔人」があの恐い顔で、ノッシノッシとこちらに迫ってくるようだ。まるで神の怒りに触れたかように。そして逃げ惑う子羊たち。会場にいた聴衆はそんな恐怖感を味わったのではあるまいか。スピーカーの前にいる私でさえ、何かそら恐ろしいものを感じてしまう。
 そして、弔われるべきこの死者は神の左に置かれ、その怒りの裁きを受けているかのようだ。

 これは、今まで知っているC・デイヴィスとはまるで別人のようだ。かろうじてライヴで聴ける彼のブラームスはこうではなかった。熱くたぎるものを、ぎりぎりまで押さえて表現していた。
 しかし、ここでは一見冷酷とも思える表現である。「同じブラームス」とは思えない。これはレクイエムだからか?
 
 もしかしたら、C・デイヴィス、いよいよ最期の姿を見せ(始め)たのではないか。これはその兆しではないか。ブルックナー
後期の交響曲にも取り組むようである。名実共に巨匠と呼ばれるのも時間の問題か。

 この曲は、いろんな解釈に耐えられるようにできているようだ。(こういうのを「名曲」というらしい。) 指揮者によってかなり印象が違うのである。そしてある程度どんな演奏で聴いてもそれなりに楽しめる?、そして「外れ」がないのである。
 こういう名曲で、聴くほうを飽きさせるようでは、ちょっと・・・と言わざるを得ません。fon Karayan ?
('01/12/17/月)

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ブラームス:ヴァイオリン協奏曲

竹澤恭子
C・デイヴィス指揮/BRSO

(BMG)’95

★★

 「ブラームスができる人の協奏曲」、あるいは「ブラームスを分かっている人の・・・」と言い換えてもよい。
 竹澤のことではない。C・デイヴィスのことである。いや、決して竹澤を軽視しているわけではない。

 これは、この曲をシンフォニックに演奏して成功している最右翼?であると思う。(私が聴いたほんの数少ない同曲の演奏の中では、であるが。)
 この演奏を聴いた時、これは確かにあの4交響曲と同じブラームスだと実感した。そういう音が聴こえてきた。普通、協奏曲を聴くと、どうしてもソリストに注意が向くものだ。しかしこれの場合は、バックのオケに確かなブラームスを聴くことができる。やっぱりC・デイヴィスでなけりゃ、こんな音楽できないな。

 竹澤もいい。冒頭ではやや力みも感じられるが、曲が進むにつれ、バックと馴染んでくるようだ。フィナーレでは見事な盛
り上がりを見せる。ちゃんとブラームスしてる。
 彼女は確かにただの日本人ソリストではない。(だからと言って、「世界の○○」などという陳腐な表現は避けたい。)別の
ところでも触れているが、モーツァルトを弾けばモーツァルトらしく、シベリウスを弾けばこれまたシベリウスらしく、どんな場合でも決して竹澤くさくなることがない。
 もっと聴きたいソリストだ。


フォーレ:レクイエム

C・デイヴィス指揮/BRSO
(FKM)

'89

★★☆
 
 C・デイヴィスには正規盤にも同曲があるようですが、残念ながら私は未聴です。それも素晴らしいとの噂は聞いております。
 しかしこちらも、それに負けず劣らず素晴らしい・・・のではないかと自負?しております。
 
 言葉に表わすのはとても難しいんですが、冒頭の第1音から雰囲気が違うんです。いかにも今そこで音楽が(再)創造されている。その緊張感がたまりません。一瞬にしてその世界へ引き込まれてしまいます。
 何故か?
 何も足さない。何も引かないからです。
 演奏されたものにできるだけ手を加えずに、忠実に録音(再生)すれば、ちゃんとライヴの緊張感まで再現できるのです。
 
 一般的に正規に録音?リリースされたものは、とっても「おきれい」な音がします。それだけで満足できているうちはいいのですが、こういう演奏を聴いてしまうと、それがほんの表面的に過ぎないものだということに、残念ながら気付いてしまいます。こうなったらもう我慢できません。
 中身のある、即ち魂のこもった、こういう録音を聴かなければはじまらなくなってしまいます。
2002年2月23日(土)


マーラー:交響曲第4番

A・M・ブラーシ(S)
C・デイヴィス指揮/バイエルンRSO
(BMG)

★★☆

マーラー4番を聴く(3)

 このレコードでのデイヴィスは割合濃い表情付けをしています。珍しいことです。普段?の彼は、表情付けを押さえて、我慢して、それでも押さえ切れずにあふれ出てくる、あるいは、かいま見える核心に魅力を感じるのですが。
 デイヴィスのマーラーは、他には1番があります。(「大地の歌」もあるようですが未聴。ついでに私は「大地の歌」も大嫌いである。これはマーラーの隠れ9番なのだ。)
 1番「巨人」。何回もくどいようですが、私はこれも嫌いである。(全く、好き嫌いの激しい性格で、重ね重ね申し訳無い・・・。)あの青くささがたまらない。クラシック音楽界のキューサイといえよう。
 聴いてて本当に恥ずかしくなってきます。一部ではデイヴィスの「巨人」はあまり恥ずかしくない、と聞いていたんですが、私にとっては十分恥ずかしかったです。
 かろうじて我慢できたのは、C・M・ジュリーニぐらいです。さりとて積極的に聴こうなんて気持ちは全くありません。おそらく
後にも先にも、あの(最初の)1回きりでしょう。

 さて、そんな?デイヴィスの4番ですが、これには2つの魅力があります。
 まず録音が優秀なことです。音場がとてつもなく深い。冒頭の鈴なんて、実測?で3メートル位後ろに位置しているんでは
ないかと思えるくらいです。
 この録音が貧弱に聴こえるようなら、装置に大いに問題ありだと思わなくてはなりません。そういう意味では試金石であり、
恐いレコードです。
 
 マーラーの4番というと、デッカのシャイーの録音が超優秀ですが、別の意味合いで、こちらも優秀です。これはどちらがいい悪いという問題ではありません。方向性は違うが、どちらも優秀だと申し上げておきます。
 噴飯ものの比喩ですが、カレーもラーメンも牛丼も、どれもおいしいということと同じです。(ホンマかいな・・・。)
 
 第2に、終楽章が素晴らしい。ソプラノがいい。ブラーシ。
 かなり濃く歌っているんですが、それがこのデイヴィスの珍しく濃い表情とうまく合っています。しかしそれがドロドロになってしまわないところがさすがです。その限界点を心得ているところがデイヴィスたる所以なのです。
 私はこの曲に関しては、数種類しか聴いていませんが、屈指のフィナーレではないかと密かに確信しています。隠れ名盤です。
2002年3月18日(月)


ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番

クラウディオ・アラウ(Pf)
サー・コリン・デイヴィス指揮/ドレスデン国立O
(Ph)

★★☆

アラウのベートーヴェン

 こういう極めて真っ当な音楽(ベトP協)を語るなんて、初めてかもしれませんねぇ。

 これは全集ですが、ツウの間ではかなり人気の高いものです。プロの評論家の選ぶ協奏曲の名盤でよく取り挙げられているのを見かけます。
 
 評論家をバカにしてはいけません。彼らは我々とは一桁あるいは二桁違うほどの音楽、演奏を聴き込んでいるに違いないのです。ですから「良くないもの」でもちゃんとわかっているのです。でもそういうものでも、あたかも「悪くない」もののように言われることがあります。多くの場合「良い、悪い」の中味がすり替わるのです。彼らにとっては「売れるもの=良いもの」なのです。
 
 さて、この(演奏者の)組み合わせを見たら、それだけでたじろいでしまう人が多いでしょう。どうです、この渋さ。渋茶と渋柿とほうれん草を合わせたようなものです。(何でほうれん草が・・・。他に思い付かなかったんで。)
 
 本当はお気に入りの4番を聴いていたんですが、その後始まった3番に少し驚きました。
 「暗くない」んです。この史上最強の晦渋?な組み合わせで聴く3番が暗くないなんて、一体誰が予想できるでしょうか。
 私はこの曲の「暗さ」が嫌いでした。以前別のところでも少し述べたような気がします。ハ短調だから云々、第5交響曲の2楽章に通じる「いやな暗さ」云々。そして、意外にもサバリッシュがその暗さを感じさせない演奏だったと。
 
 アラウはこの曲をチャーミングにやっています。とても意外でした。もちろんパッパラパーになってしまうことはありません。
 時々この曲の冒頭をすごく深刻に、大袈裟にやるのに出くわすことがあります。私はそういうのを聴くと、首をうなだれてどんどん鬱な気分になっていきます。
 でも、こういう風にすっきりやってくれれば、聴いてもいいなと思います。

 ところで、ちょうど今バックには5番が流れています。書き(打ち)ながら、聴くとはなしに聴いているんですが、すっげーですよ。
 思わず手を止めて聴き入ってしまいます。
 やっぱりこれは名盤です。
2002年4月2日(火)


チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
グリーグ:ピアノ協奏曲

クラウディオ・アラウ
サー・コリン・デイヴィス指揮/ボストンSO
(Ph)

アラウのチャイ・グリ

 予めお断りしておきますが、私はチャイコフスキーのピアノ協奏曲なんて全然好きじゃありません。(こんなんばっか・・・。)
 
 アラウのチャイコなんて、ほとんど誰も見向きもしません。私も見向きもしませんでした。
 聴いてみれば納得できます。こんな演奏聴いていても、ちっともおもしろくありません。
 それが演奏に問題があるのか、それとも真っ当な演奏をすれば、実はこの曲ってのは、やっぱり下らない曲だということが暴露されてしまうのか。その判断は聴いてみたあなたにお任せします。私は何もコメントしません。(って、十分コメントしてるか・・・。)

 私は、好きなピアニストは、と聞かれたら、内田光子、エレーヌ・グリモー・・・。強いて男性ではと条件を付けられれば、次にクラウディオ・アラウ。
 アラウには何の手違いか、この曲の録音がありますが、内田やグリモーにこの曲の録音がなくても全く痛痒を感じません。

 さて、アラウのグリーグは、実は結構見向きされています。
 これも聴いてみれば納得できます。冒頭の一音からして音が全然違うのです。「あっ、これはいける。」すぐにそう予感さ
せます。それに比べチャイコのほうの冴えないこと。
 「グリーグならやるけど、チャイコなんてかったるくて・・・。」そう思いながら弾いているのがひしひしと感じられる・・・、というのは単なる私の妄想である。 
2002年4月3日(水)


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