駄聴日記('00年第1部)

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なぜCDと呼ぶのか
演奏家別か、作品別か、それとも、、、
心に残る音楽
ちぇりは聴かない

CDにもエージングが必要だ
インターバルは短いほうがいい
ベートーヴェンに予言されていた男

マーラーのレコードは高いから嫌いだ
マーラー5番は??行進曲
英国の指揮者は皆「サー」なのか?
私が聴く曲たち
私が聴かない人たち

不器用な作曲家
何回聴いたら、モトがとれますか?
大予言

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なぜCDと呼ぶのか

 最初に少しお断りするが、私は「CD」のことをどうしても普通に「レコード」と呼んでしまう。
 「CD」という呼び方には、いまだによく馴染めない。
 「CD」ができた時の、技術的あるいは市場的な詳しい背景はよく知らないが、なぜ「レコード」という言葉がはずされたのだろうか?
 せめて「アナログレコード」と「デジタルレコード」ぐらいの違いでもよかったのではないか。
 「記録」という意味合いが変わらない以上、「レコード」でも誤りはないはずだと未だに固く信じている。
 そういうわけで、以下すべて「CD」のことは「レコード」と表記する。
 
 第一、あの雑誌だって「レコード芸術」で通しているではないか!


演奏家別か、作品別か、それとも、、、

 レコードの収蔵方法のことである。
 果たしてどちらが優れているのか。
 大方の皆さんは演奏家別であるかに聞き及んでいる。

 私は交響曲を中心に鑑賞しているが、吉井○彦著「名盤鑑定百科」(春秋社)を自分のディスコグラフィー代わりに利用している。リストのなかで持っているものにマーカーで印を付ける。リストにないものは自分で書き込む。書き込む欄が足りなくなると、自分で表を書き足す。この新規に書き加える作業が楽しみでもある。
 協奏曲は別のノートにリストを作っている。
 こうしておけば「そうそう、この演奏家のもあったよな」と思い出すことができる。でないと、とても憶えていることはできず、何年も放ったまま「お蔵入り」になってしまう。 

 演奏家別にしていると、たとえばある曲の聴き比べをしたいときに、どの演奏家のものを持っているかわからなることがある。(そのためにリストを作っているのだが)こういうときは作品別のほうが良いように感じる。
 だいたい聴きたいと思った曲を、集中的にあれこれ聴くので、同じ曲が一緒にあった方が本当は便利なのだ。
 だが好きな演奏家のものは、やはりまとめて並べておいて「どうだ、これだけ集まったぞ」と、その演奏家への忠誠を誓いたいものだ。
 
 結局、演奏家別に並んだり、作品別にまとまってみたり、なんだかその日の気分で一つのレコードがあっちへいったりこっちへいったりしている。おまけになぜかプライヴェート盤だけはそれだけで一グループになったりしている。
 こんなことをしているうちに、何を持っているんだかいないんだかわからなくなって、同じものを2枚買い込むはめになるのだ。

 まあそうすりゃ両方に並べられるわけで、かえって都合がいいか?


心に残る音楽

バッヘルベル/カノン

 バロックの小品集には必ずといってよいほど含まれる定番で、「丸ごとバッヘルベルのカノン」なんていうレコードもあるくらいポピュラーな曲。
 ムード音楽の代名詞のような言われ方もするようだが、名曲である。
 実演でもよく取り上げられるが、ほとんどが前奏か肩ならし程度に考えているんじゃないの、と思えるような演奏にしか出会えない。
 いつ聴いてもこの曲の演奏には不満が残る。

 実は、この曲の良さに気づいたのは、あるVTRのBGMとして使われていたのを耳にしたからだ。BGMとして使われているぐらいだから、「前奏や肩ならし」的に考えられても仕方ないのかも知れない。
 そのVTRとは「ダイアナ(永遠の心のプリンセス)」である。
 これは、かのダイアナ妃の追悼として企画されたもので、その葬儀のシーンで教会へ棺が運び込まれるところで、この音楽が流れるという、聴くも涙、語るも涙という、感動の塊のようなシーンである。
 内容が内容だけに、純粋に音楽のみに感動したとは言い難い部分もあるが、
それでも、この曲を聴いた時に、このVTRから受けた感動を思い出させてくれることを期待するのは、決して間違いではないと思う。
 録音、録画を鑑賞するのは、実演の感動を思い出すためだ、と言われる。その理論に従えば、この場合はその全く逆で、VTRの感動を実演で思い出すなどという「不謹慎」なことが、果たして許されてよいものであろうか?

 いずれにしてもそれ以来、この曲を「メインプロ」で、あのように感動的に聴かせてくれるコンサート(演奏者)はないものかと、私は淡い期待を持ちつづけている。
 たとえばチョン・キョンファが「G線上のアリア」をメインで聴かせたように。


ちぇりは聴かない

ちぇりの「遺志」を尊重して、彼のレコードは聴かないことにしている。
かといって、ぐるだも特に好きなわけではない。(何のこっちゃ、、、)


CDにもエージングが必要だ

 ここでは敢えて「CD」と呼ぶ。物理的な問題にかかわるからだ。

 「CD」というものは、最低3回は「トレース」してやらないと本来の音が出てこないようだ。
 もちろん全部が全部そういうわけではない。
 買ってきて最初に出てくる音のトンデモない「CD」も一部にはある。
 気を付けないとそれだけで演奏の評価をも見誤ってしまうこともあり得る。
 「一聴」お蔵入りとなってしまい、文字通り忘れた頃に取り出して聞いてみて、なんであのときこの良さがわからなかったのだろうと、己の耳を責めることになる。
 従って、それまでは「弁護士の耳」をもって、ある程度我慢して聴くことが必要なようだ。

 それから、1枚の「CD」でも後半の方が音が良くなることがあるが、気のせいだろうか。たとえば3楽章あたりから、ベールが1枚はがれたように感じられることもある。
 あるいは、これは「CDプレーヤー」のほうの「くせ」なのだろうか。


インターバルは短いほうがいい

 楽章間のインターバルは短いほうがいい。私は「演奏」ということをしないから、楽員の「休憩」がどの程度必要なのかはよく知らないが。楽譜をめくる時間さえあれば十分だと考える。
 だらだら時間を過ごして、なにもいいことはない。緊張感が薄れていくだけだ。 ただでさえ緊張感のないコンサートが蔓延しているというのに。

 そういう意味でもアタッカは大歓迎だ。アタッカで入れるところはできるだけそうして欲しい。何なら全編「スコットランド」状態でもいいと思っている。
 そういうような場面では、私は客席で「よーし、そののままはいれーーー」と強く念じている。 しかしたいていの場合それは裏切られ、またしらけた時間が訪れる。
 さて、演奏開始という段になってもまだざわざわしている。
 こういうとき、大物ほど聴衆に頓着しない。自分(だけ)のペースで演奏をはじめる。しかもさりげなく。
 そうでない一部の指揮者だと、神経質に客席が静かになるまで待っている。まるで「一音たりとも聞き逃すなよおー」「おれの芸術は謹聴しないとわからないんだぞー」とでも言っているようだ。

 いい音楽というのは黙っていても自然に耳に入ってくるし、心に届くもんだ。よそごとをしていたって「おっ」と耳を立てさせる。(家で、ながら聴きしていても)
そういう音楽をやってみせてくださいよ。
 下手をすると上げた指揮棒を降ろす方もみえる。楽員たちはおそらくたまらんですわな。椅子からずり落ちそうになるんじゃないの。こちらまで不愉快になる。
 聴衆も聴衆だ、舞台の様子に全く注意をはらっていない。一体何しに来たんだろうと思う。どこを見てるんだろうと。
 演奏者に対する礼儀が全くない。(他の客に対するそれもないということ。)
演奏会という「場」を自分たちが作っていることに気付いていない。つまり自分で雰囲気を壊しているということだ。
 演奏中に、プログラムなんかをしきりに読もうとする奴。今読んでどうするのと言いたい。 中にはチラシを見る奴。
 繰り返すが、こういうことをすると他人の迷惑になるということが全くわかっていない。
 そんなにつまらないなら、さっさと帰ればいいのだ。なにも無駄な時間を過ごすことはない。
 それに何故かそういう連中に限って、ろくでもない演奏でも盛んに拍手したりする。いままで熱心に読書してたのに、演奏が終わったとたんに顔をあげて、手をたたき出す。聴いてもいないんだろうに、一体どうなってんの。

 場内が中途半端に明るいのもいけない。大体どこでも明るすぎる。
そう言う意味では、ポゴレリチのやり方にも一理ある。
 私は彼をあまり好きではないが、あの程度に暗くしてくれればもう少し集中力も上がるだろうに。彼はそれを知ってそうしているのだろうか。でも、いい演奏をすれば自然に聴く雰囲気になるからね。(私は彼の演奏には大いに退屈したが。)

 いずれにしろ、1時間程度の集中力のない人たちには、端からクラシックコンサートなんぞ場違いなのだ。


ベートーヴェンに予言されていた男

「大友よ、このような音ではない!」


マーラーのレコードは高いから嫌いだ

 ちょとしたものでも2枚組の場合が多く、どうしても買うのをためらってしまう。
何かサービスでカップリングしてあるものもあるが、私はそちらのほうにはたいていの場合全く興味がない。実質1曲の価値なのに、ごていねいにレギュラー2枚分のお値段とくる。私にはそれだけの投資をする勇気はない。その演奏が気に入るかどうか全くわからないのにだ。そう、なにを隠そう私は小心で臆病者なのだ。
 2枚組にしたら、単純に原価が2倍になるとはとても考えられない。どうして3000円位の良心的な値段を付けてくれないのだろう。
 その代わりといってはなんだが、廉価盤でめぼしい(失礼な!)ものがあればそちらを3枚買うほうがよっぽど価値がある。
 それに2枚組だと、「再生」が大変だ。
 2楽章(あるいは3楽章)が終わってしばらく待っても次が始まらない。あれ、おかしいなと気付くと「そうだ、2枚組だった。あ〜あ」と、いい気分で音楽に浸っていたのに重い腰を上げて『CD』を取り替えに出張しなければならない。全く興覚め以外の何物でもない。これはその曲が終わって、次の曲と入れ替えるのとは決定的に意味が違うのだ。
 アナログレコードから『CD』になって、あの「裏返す」という面倒な作業から開放されたいうのに。
 すると、どうしてもこういう『CD』は、次からは「再生」するのが億劫になり愛聴盤から外れていっていまうのだ。「これ聴いてみようかな・・・。おっと、2枚組かー。そうか。やめとこ」なんて。
 規格を変える(収録時間をもっと長くする)のは大変だと思うから、せめて値段だけでももう少し考えてくれてもいいんじゃないの?

 いくら一期一会の歴史的録音とはいえ、20年以上たった現在、2枚組5600円也でいったい誰が買うというのだ。
 あるレコード店員が、それを指して「これなんかさっぱり動かないものね」
 私にいわせりゃ「当たり前だ!」
 (こらぁ、DG! おまえんところのことだぁ!) 


マーラー5番は??行進曲

この曲が葬送行進曲だって言ったのは誰だ。
結婚行進曲じゃないか! うそつき!

メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」の結婚行進曲の冒頭のパクリであることに今、気付いた。これは、そのパロディであったのか。

それを気づかせてくれたシャイーもえらい!(たまたまだけどね)


英国の指揮者は皆「サー」なのか?

さー、どうなんでしょう?

申請書に印紙貼って当局へ届けりゃ、誰でももらえるんじゃないの?


私が聴く曲たち

 このあたりで、私が普段聴く曲たちを明らかにしておこう。
 ここに挙げなかった曲は、ほとんど聴かないと考えて頂いて結構である。但し、それは聴いた事がないという意味ではない。一応聴いてみたが私の趣味(感性?)に合わなかったということである。
 いかに偏っていることだろうか。その代わりディープであるということだ。
 もちろんこれ以外にも、名曲はそれこそ掃いて捨てるほどあるだろう。だが限られた時間の中で無理にレパートリー(?)を広げるよりも、愛する曲たちをより多く(何度も)聴きたいと思うのである。

 だから、知らない曲が演奏会のプログラムに載ることも多い。どうしても聴きたい演奏家の場合には「予習」が必要となる。こういうときは辛いが、適当なレコードを買ってきて、もっぱら車中で聴くことになる。だが大抵の場合、それらの曲は(演奏会が終われば)またそれ以降聴く事はなくなってしまう。結局無理しても好きになれないのだ。いかに自分のキャパシティが少ないか自分でも感心する。好き嫌いが激しいという事だ。

作曲家 交響曲 協奏曲 その他
バッハ     無伴奏Vn S/P
ベートーヴェン 1,2,3,4,5,6,7,8,9 Vn,Pf 1,2,3,4,5 一部のPfソナタ,SQ
シューベルト (4),7「未」,8「グ」   後期Pfソナタ
ベルリオーズ 幻想    
メンデルスゾーン 3,4 Vn  
シューマン 3,4 Pf  
ブラームス (1),2,3,4 Vn  
ブルックナー 4,(5),7,8,9    
マーラー (1),2,4,5,(7),9,(大)    
チャイコフスキー (4),5,6 Vn,Pf  
ドヴォルザーク 8,9 (Vn)  
フランク ニ短調    
サン=サーンス    
シベリウス 1,2,3,4,5,6,7 Vn  
ショスタコヴィッチ 5,7,8,10,15   (SQ)
ラフマニノフ   Pf 2,(3)  
注1 ()付きは、ごくまれに必要に迫られて聴く程度
注2 他にも若干あるが、それは好きな演奏家へのお付き合い程度。
弟子
センセイ


弟子

センセイ


弟子
センセイ

弟子
センセイ

弟子
センセイ





弟子
センセイ


弟子
センセイ





 センセイたったこれだけですか? 70曲ぐらいじゃないですか。
 ああ、そうじゃ。いかに少ないかがわかろう。
じゃが見事ここに勝ち残った者は、ワシの厳しい審美眼にかなった愛すべき曲たちである。
 それはセンセイの単なる好き嫌いじゃないんですか?
 ところで、これだけの曲を毎日聴いていて飽きないんですか?
 バカモノ! 名曲や名演奏というのは、何度聴いても飽きるものではない。いくら第一印象ですごいと感じても、そのうちに飽きてしまうものは、単なる奇をてらっただけの浅はかなものなのじゃ。
 それにしても、ほとんど交響曲に偏っているといってもいいですね。
 ああ、改めて数えたことはないが、コレクションの9割以上はそうじゃろうて。     
 管弦楽曲は聴かないんですか?
 音楽が「何かを表わしている」なんていうのは鬱陶しいから、抽象的なものを好むようになってしまったのじゃ。
 オペラや声楽曲もですか?
 わしゃオペラなど好きではない。大げさでかなわん。それにオペラは舞台を見て初めて価値が出るものじゃ。音だけ聴いて舞台を想像しおってもしょうがないじゃろう。
 それに、センセイは外国語がわからないから、声楽は聴いていてもちんぷんかんぷんで意味がないのじゃ。英語さえまともに読み書きできないからのう。その必要がなかったからじゃ。
 でも、声楽付きの交響曲はいくつか入ってますね?
 ああ、これは別に声楽が聴きたいわけではない。気に入った曲に声楽が付いていただけのことじゃ。それにこのくらいの量ならだいたいのあらすじや意味は思い出せる。
 好きな曲というのはあるんですか?
 これは難しい質問じゃ。ここに挙げた曲は全部好きだといえる。
 好きな作曲家ということで、バッハ、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナー、シベリウスを挙げておこう、、、と思ったが、やはりここに挙げた作曲家のこの曲たちが全部好きなんじゃ。
 じゃが、何と言ってもベートーヴェンに尽きる。バッハに始まりベートーヴェンに終わる。あとのものは全てその亜流にすぎない。

 


私が聴かない人たち

ことのついでに、私の嫌いな人たちについても、この際触れてしまおう。
いずれ明らかになることだろうから(?)

それは
ずばり、日本人指揮者(たち)である。
O、A、K、Sについては、もはやなにをかいわんやである。
えっ、誰だかわからないって? では特別にヒントを進ぜよう。

O : 今度、アメリカのB交響楽団からオーストリアのW国立オペラに左遷、、、いや栄転する。顔で指揮するといわれている。

A : 現在世界最長老といわれているカリスマ

 彼の音楽は、ただ音が漫然と鳴っているだけだ。私は彼の指揮する演奏を聴いて、いいと思ったことがない。大きな音が好きな人たちには好まれるのだろうか。
 それに彼の率いるOフィルの下手さ加減は半端ではない。特に金管の情けなさ。オケメンの問題もさることながら、およそ技術的に統率するなんてことができない人なんだろうと思った。
 本人のコメントでも、某N交響楽団(おっと実名になってしまった)に客演したとき「うまいオケだといい演奏ができる」みたいなことを言われたようだ。私はN交響楽団なんて、うまいとは決して思わないが、オケを育てるのもあんたの仕事でしょうがと言いたい。ベルリンフィルに客演すりゃ、私だっていい演奏ができると思うよ。
 最近のブルックナーやベートーヴェンの再再再再再再再・・・・・録音は一体何を意味するのだろう。
 粗製濫造という言葉がこれほど相応しい例を、私は他に知らない。

K : 日本とハンガリーとチェコを股にかける大巨匠

S : Oと同じくBの弟子。仏地方に棲息しているようである。

 この二人には共通するものを感じる。だいたいにおいて一人で熱くなっているだけだ。この人たちにはおよそコントロールという概念がない。
 いきおいステージ上は、やりたい放題の無法地帯と化す。騒音の嵐だ。
 おそらくステージに合わせて手拍子してしまうようなノリの人たちにはいいのだろう。

 
だが、EIJI OUEは例外的に素晴らしい。


解答:
O=小澤政治    (裏での政治のニオイがプンプン?)
A=朝日名隆    (ご来光のようなありがたさ)
K=小囃子研一郎 (「お囃子」のほうがふさわしい気がする)
S=佐渡浴衣    (暑がりだからねー。似合いそうだ)


不器用な作曲家

チャイコフスキーの交響曲第4番は
「下手な調」


何回聴いたら、モトがとれますか?

 いったい「普通」の人は、1枚のレコードを何回くらい鑑賞するのだろう。2、3回だろうか、20〜30回だろうか。50回、100回以上だろうか? 
 千枚単位でレコードを所有されている方もおおぜいいらっしゃるようだが、その方たちはどうされているだろう?
 100歩譲って 、一日に平均5時間鑑賞できるとし、(いや、もっとつわものがおいでですか?失礼致しました。「プロ」の方は、当然別ですよ。)1年365日で1825時間。土日はCD三昧に徹しきって、朝8時から深夜12時まで16時間。年間50週として、この上乗せ分が1100時間。合計約3000時間。
CD1枚1時間として、3000枚分である。簡単な計算だ。
 となると、くだんの3000枚コレクション氏は、1年に1回しか好きなレコードが聴けないことになる。
 100歩譲ってですよ!
 これではまるでライヴ並ではないか。(1年に1回くらいは、好きな演奏家の好きなプログラムが聴けるかな?という意味。実際にはもっと頻度は低いんだろう。)
 それに、気に入ったレコードを繰り返し聴かないということはあり得ないから、ちょっと気を抜くと、いくつかのレコードは気がついたら2〜3年は聴いてねーよ、ということにもなるだろう。
(おお、まさしくこれは来日演奏家が聴ける頻度と一致する。なんという謀ったような偶然の一致。)
 つまり、1回聴いただけでお蔵入りというレコードがいかに多いか、ということだ。(むちゃな結論だ。) これではいくら駄演レコードでも浮かばれまい。最低3回は聴いてやらないとその良さは見えてこないだろう。
(じゃ実演はどうなんだといわれるが、私は実演でも(違ったプログラムでも)3回は聴かないと正しい評価はできないと考えている。もちろん「評価」なんてはじめからしようなんて思っていない人も多いだろう。)

 でもレコードというのはモノであっても、中身はモノじゃないんだから、「それを聴いた(ことがある)」という「一回の体験」が貴重なのであって、あとはどうでもいいのさという考えもあろう。生きているうちに、どれだけたくさんの「種類」の異なる演奏もしくは作品を聴いたか「派」である。
 他方は、一つ(あるいは少数)の演奏を、どれだけたくさんの回数聴いたか「派」である。
 私ははっきり後者に属する。当初は1000枚を目標にコレクションに励んでいたのだが、7〜800枚くらいになった時に、1000枚集めてもそれだけ聴く時間がとてもあり得ないことに気付いた。
 だからそれ以後は、珍盤や話題盤には、ほとんど飛びつかない。どうせ数回の鑑賞で飽きてしまうことがわかってきたからだ。じっくり検討して、真に聴く価値があろうと思われるものだけを厳選している。訳のわからない演奏に付き合っている時間はないんだ。

 本当はもっと何回も聴きたいと思っているのにそれが叶わず、ずっと待たせたままの申し訳ないレコードが山ほどあるのだ。

 でも、これって時間貧乏症候群なのかもしれませんね、、、


大予言

 昨今は「20世紀最後の衆議院選」や「20世紀最後のオリンピック」や「20世紀最後の米大統領選」などがかまびすしいが、大センセイは予言しよう、

 来年になれば「21世紀最初の大イヴェント」で目白押しになることであろう。

 クラシック音楽界においても然り。「21世紀最初のニューイヤーコンサート」で、幕を開けるに違いない。

 この予言を成就させてしまうところが、大センセイの大センセイたる所以である。
 どうです、参りましたかな?


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