8月23日(木)
鈴木敦盛・・・の最期?
引き続きレコ芸である。
実は!この雑誌には、「鈴木敦○」が「鈴木淳○」のペンネームで執筆しているんですね。
これは驚くべきことではないだろうか。他の「被評論家」からクレームや弾圧が起きたり、ひいては暗殺される危険はないのだろうか。
それとも洋泉社が、さも別人であるかのように気を使ってくれたから、他の執筆者にはそれと気づかれずに済んでいるのだろうか。
ところで、相変わらずこの鈴木某氏に対する誹謗中傷も盛んなようです。
しかし私は、それら批判する意見を読んで思うに、(本の)読み方が間違っているんじゃないかと思うんです。こんな本を真面目な本だと思うのは勘違いなんじゃないんでしょうか。
私ははっきりマンガだと思っています。というよりギャグと言った方がニュアンスが近いでしょうか。
どれだけ笑わせてくれるか。何回噴き出させてくれるかがポイントではないかと思うんです。そういう意味では「こてんぱん」はまったく期待はずれでした。
あまりに真面目に論じられているからです。
唯一噴き出させてくれたところは「ふてえあま」だけでした。
逆説的に言うと、(なんてもったいぶらなくてもいいんだが)これらの本には、ときおりかなり核心に迫ったキモいことがズバっと書かれています。
それら本質を突かれると、読み手がそれと違った(すなわち、誤った)考えでいると、「そーんなこと言われたってー、ドーノコーノ、グニュグニュ・・・」と反論の余地が無くなってしまい、結局反発という形で表れてしまうのかもしれません。
耳当たりのよい、「この世でいちばん美しいのは、あなたですよぉ〜」なんてお世辞はありません。だからそのように「おだてられ慣れている」人には、こういう真実は「耳が痛くて」受け入れられない。
これらの本に過剰に反応してしまう人とは、そういう人たちなのではないのでしょうか。
【解説】不幸にして未読の方のために。
「クラシック批評こてんぱん」鈴木敦○著 洋○社 より
天使「大田戸紫子が演奏した曲は、シューベルトのソナタ変ロ長調D960とショパンの24の前奏曲らしいな」
悪魔「ずいぶんと重てえプログラムだな。前半で変ロ長調ソナタをやるなんて、ふてえあまだ」
(確かに私もそう思う。最近ではベト#5を前プロにもってくるふてえ野郎も多い。またそういうお気軽ベートーヴェンを歓迎する向きが多いのも嘆かわしいことだ。なにがピリオドだ。
だが、チョン・キョンファのブラコンの前プロが○トルのベト#5というのは、さもありなんというところかもしれない。あるいは、単なる悪い冗談か。
いずれにしろEMIもまともな神経ではない・・・こんなことを思うのは私一人なのだろうか。)
8月22日(水)
そうだったのか
えーっと、どこまでいきましたっけ?
そうそう、「レコ芸は果たして高いノカー?」という話題でした。1250円です。
世の中には、聴かないレコード(CD)をコレクションするのが趣味の方もときおり見えるようです。「買ってきたのに、未開封のCDが山のように・・・、ああっ〜」と嘆いておられます。
それと、あまりよくは知らないのですが、買ってきたレコードを1回しか聴かない方も見えるようです。直接聞いたわけではありませんが、年間購入枚数、数千枚・・・いや数百枚か?・・・なんていう方が、「いや、私は2〜30回は聴いている」なーんて見え透いたウソが言えるわけがないのですから。(→何回聴いたらモトがとれますか?)
どちらも私には「しんじらんな〜い」
聴くか聴かないかわからないものに2000円も投資する。それも1枚や2枚ではなかろう。あるいは、1回聴いたらそれはもうゴミ。
私はモノ・オタクでもマニアでもコレクターでもないから、棚にその目的たる鑑賞という行為に供せられることの無いゴミが並んでいても、そこに何の価値も見出すことはできない。
改めて問う。レコ芸は本当に高いのか?
(これらは、単に価値観の相違であるだけだが。)◇
さて、この雑誌(レコ芸)には、「新譜月評」というコーナーがあります。私はそれまで、そのコーナーを文字通り「ただの1コーナー」だと思い込んでおりました。「こんなコーナー、いつなくなるかわかんねーな・・・」
ところがですよ、ある時「レコ芸の中心的コーナーである「新譜月評」・・・」というくだりを、どこかで読んで愕然としました。「はっ。そうだったノカー」
このコーナーこそレコ芸のレコ芸たる所以であったのです。
もとより私には、メジャーな新譜なんて何の縁もありません。「特選盤」なんて、ヤマダかつて(意識して)買ったことはありませんよ。私が「これが聴きたい」「これは名演であろう」と思って買ったレコード(CD)が、たまたま後で「そう(特選盤に)なってしまっている」ことに気付くぐらいです。
「あれっ、このヒョウロンカ、聴く耳あるじゃん・・・」とうそぶいているのが関の山でした。
でも、それからは見る目が変わりましたね。
「ほう、これがこの雑誌のキモか・・・。ドレドレ、フムフム・・・。あれっ、このヒョウロンカ、なかなかわかってるじゃん・・・」
なんだ、結局同じことでした。◇
ところで、この雑誌に対する誹謗中傷もかなりなものです。
最近では、「21世紀の名曲名盤300」がたいそう話題のようですが、こういう企画を非難する向きは、いったいどうしたら納得するのでしょうか。
単に、自分の好きなレコードが上位に顔を出していないから、ひがんでいるだけではないのでしょうか。
こんなものは結局好み以外の何ものでもないのだから、自分の好みと同じものばかりだったら気持ち悪くて仕方がないですよ。事実、私なんかひいきの演奏がトップにでもなろうもんなら吐き気すらしてきます。「もう、こんなレコード嫌いになって捨てちゃおうかな・・・」(んなことはないですが。)
そういうときは、やっぱりこう思うんですね。
「あれっ、このヒョウロンカ、シブイとこ突いてくるじゃん・・・」
繰り返しますが、私なんかマイナー嗜好(志向?)ですから、好きな演奏がランクインしていないと、うれしくてしょうがありません。「よしよし、この演奏の良さはあんたたちにはわかんねーよ・・・」
裏表紙の広告に対するそれもかなりなものです。
確かに最初はぎょっとします。「へー、やっぱり○バヤシって、そうだったノカー」
しかし、ちょっと待ってください。うかつに批判すると笑われるのはあなたです。狡猾ながらこのメーカーの罠なのです。
私も最初は「例の○ィムポ・スレに対抗したノカー」と思いました。
しかし冷静になることが大切です。
ぜつりん【絶倫】 才幹が普通の人の水準から飛び抜けてすぐれている様子。
ン?「男幹」?・・・いや「才幹」?
さいかん【才幹】 物事をうまく処理する能力。働き。材幹。
(残念ながら「材幹」の意味は載っていない。)
どうです。「絶倫≒○ィムポ」だと思い込んでいたあなた。このページを見ていてよかったですね。幸運でした。恥をかかずに済みました。何と教養あるページなのでしょう。
そして、何と文学的なメーカーなんでしょう。(なれば音楽的であってほしいものだが。)
それにしても日本語って、難しいですねー。いやになってしまいます。
それよりあなた!(そーら、きたきた!)気をつけなきゃいけないのはこっちですよ。(「棒」を「棹」の誤植か? なんて勘ぐっていないで。)
「○XTON それは 音楽の追求と、こだわりの録音から生まれたレーベル」
「音楽を追求」するレーベルが、○バヤシや○シュケナージの録音をリリースする・・・ノカー!?
こちらのほうがはるかに噴飯モノであり、抱腹絶倫である。
8月21日(火)
情報の宝庫
今月も関係の雑誌が発売される時期になりました。
「権威」を毛嫌いする皆さんにおかれましては、こういうものをゴキブリやダニのようにクソミソに仰る向きもあるようです。
しかしながらとても不思議なのは、その中身について驚くほど詳しくご存知であることです。
「アホ・バカ・タワケ・マヌケ・買ってやるもんか!」といいながら、しっかり立ち読み−しかもそれを「斜め読み」と自慢する?−だけして、内容を把握しているのです。大ベストセラーであろうところのY社の新書単行本についても然り。
以前にも書いたかもしれませんが、本というのはまことに不思議なメディアです。対価を支払わずしてその主たる目的である情報が得られてしまうからです。
これは、とてもおかしなことです。でもその不思議が公然とまかり通っている。
本はすべからく袋とじなどパッケージすべきである。少なくとも雑誌類においては。
そうすれば売上(部数)は今よりもっと多くなり、単価が下げられるのではないだろうか。単純に考えても半分や1/3ぐらいには簡単になりそうな気がするが、どうだろうか。そうすれば安く手に入るようになり、結局それが自分たちの得になる。(しかしながら、またそれは単なる資源の浪費であり、ゴミを増やすだけのことかもしれない。)
立ち読みだけして、買わない買わないと言っている自分たちが、実は自分で首を締めているの「かも」しれない。あるいは、真面目に購入している善良な市民が、買わない連中の分まで費用を負担している。
これはまさにこの社会の縮図である。
さて、今月の「レコ芸」ですが、これもまた新しい発見をさせてくれました。
と言っても新譜情報程度ですが。これらは遅かれ早かれどこかで手に入る類のものです。しかしネット上で漫然と眺めていてもなかなか得られるものでもなし。かといって毎週、あるいは毎日?メーカーサイトを回っていられるほどヒマジンではなし。偶然でしか発見できないことが多いものです。(HPなんか作っているやつは、その10倍くらいヒマジンなのではあるが。)
そういう情報がある程度まとまって確実に得られるという点では、この雑誌が唯一といっていいでしょう。しかも「たった」1250円。
この値段を「高い」という向きもあります。「廉価盤が買えてしまう?」 そう、たったそれだけの値段で(これら)貴重な情報が得られるんです。
セコイ話かもしれませんが、たとえばネットでこれだけの情報を得ようとしたら、一体どれだけの費用がかかりますか? 通信料(電話代)、接続料が仮にタダだとしても1時間や2時間で得られるものではありません。あなたの日当(時間単価)はいくらですか? 仕事以外の遊んでいる時間はそりゃタダかもしれません。しかし時給500円くらいの仕事なら、たいていどこでもさせてもらえるでしょう。
話が反れますが、しかもそれを(自分のものでない)会社の設備と時間を使ってやらかす輩もとても多いようです。言語道断ですね。こういう道徳のない輩が、今の悲惨な世の中の状況の諸悪の根源になっていることにも注意しなければなりません。
(やっていいことと、悪いことの区別ができていない・・・あっ、そりゃワタシか?・・・言っていいことと、悪いことの区別ができていない・・・。)
ナヌッ、今これを読んでいるあなたも・・・まさか!・・・ホラホラ後ろで課長が・・・
ところで、今は「課長」なんてのも死語なんですよね。なんでも横文字にすれば済むと思っている。だから「カチョー」が正しい・・・んじゃあぁなくってぇ〜、「チーム・リーダー」とっかぁ〜、「グループ・マネージャー」とっかぁ〜いうのがウナいんですよね。そしてかえって訳がわかんなって、ますます責任体制はあいまいに不明確になって組織は混沌としてゆく。その結果がガイコクによる買収だ。体裁よくM&Aだといったところで、要するに乗っ取られていくのだ。)
だんだん、くどく長くなってきてしまいました。
この続きは、また改めて。(気が向いたら、また明日・・・)
8月19日(日)
連続非更新記録。40日で途絶える!?
どーも、・・・です。無断欠勤を続けております。
理由はいろいろありますが、心身共にスランプ状態にあった・・・ということです。
「あの野郎、言いたいことばかり言っていやがって、遂にくたばりやがったか・・・」と思われた方もみえるだろうか?
40日というのは、長かったと言えばそうも思えるし、たった1ヶ月ちょっとと言えばそうも思えるし。なんともちゅーとはんぱな期間です。
相変わらず巷では下らない事件が続いております。それこそ枚挙に暇はありません。それにいちいち反応していては、とてももたないところです。もうどーしようもない、というのが実感ですね。
クラシック音楽界および関係ネット界?においても然り。どーでもいいような、訳のわからない議論が喧しいようです。
それでも、ほんの0.1%ぐらいの有益な情報を求めて、いちおうチェックだけはしています。
私におきましても、めっきり数少なくなったとはいえ、若干の発見や、例によって多くの失望はあります。それらを追い追いにでも公開していくべきなのか、それともせざるべきであるのか、未だに迷っているところです。
先の「下らない事件」にしても、「クラシック音楽(ネット)界」にしても、私がここでガタガタわめいてみても、どーにもなるものでもなし。かと言って、ほんのささやかながらも認知されたこの「場」を放棄する、あるいは自然消滅的に廃らせてしまうのも、ちょっともったいない気もするし。
かくして、私の葛藤は続くのでありました。
(つづく・・・のであろうか?)
7月10日(火)
雨後の・・・、あるいは
著作隣接権切れのレコードですが。
今まであまり意識して、そういう目で見たことがなかったから、あまり気づかなかったのですが、そのつもりで見るとあるわあるわ、まるで雨後のタケノコのようです。といっても、私も「雨後のタケノコ」なんて見たことはありませんから、あまりイメージできないんですが、「夜中のゴキブリ」のようなものなんでしょうか。もう、うじゃうじゃ、ぞろぞろ・・・。
フルトヴェングラー、トスカニーニ、オーマンディー、メンゲルベルク、(・・・だったかな。いずれにしても興味のないものばかり。)その他よく知らない指揮者のボックスセットが10枚組み2400円ぐらいで投売り状態です。見ちゃいられませんね。(うじゃうじゃ、ぞろぞろ・・・あっ、もういいですか?)
でも、こわごわ手に取って見ると確かに1950年未満?の年代のものがきれいに並べられています。たいしたもんです。
ジャケットも、なんとも安っぽい雰囲気です。
いちおうドイツ製である旨の表示はあります。しかし音源のライセンス表示はないようです。このあたりがよくわからないのですが、ライセンスがなくなった?からといって、オリジナル音源の所有者がそれをタダで放出するわけでもないと思うんですが・・・。
もちろんそれらを使用料を払って使ったのかもしれません。しかし、そうでないかもしれません。
それにしても、いったい誰がこんなものを買うのでしょうか。でも需要があるから供給されるんでしょうねぇ、きっと。でなければ早晩姿を消すことになるんでしょう。
業界の事情には疎いですが、店頭に並んだ段階で既に使命?を果たしてしまったから(メーカーとしては売れてしまったから)、あとは野となれ山となれなんでしょうか・・・。
いうまでもなく、これは合法的正規表名盤です。
さあ、一流評論家のみなさん、きちんと評論していただきましょう。
7月9日(月)
全ては罪人
私は何も、法律を積極的に守らなくてもいい、と言っているつもりはありません。
やはり守るべきところはきちんと守らなくてはいけない。それが国民の義務である。
しかし、究極的には、誰かの一言、その場の雰囲気・空気あるいは慣習・慣例・前例といった根拠希薄のままに決められたとしか思えない法律も存在する。そんなものを、くそまじめに守る必要があるのだろうか。
たとえ、人間が決めた法律は完璧に守っている、と言い張る人でも、神の前には全て罪人である。その存在自体が罪なのである。(・・・とは、言い過ぎか?)
そんなことよりあなた、昨日(あるいは今日も)道路交通法違反をした、れっきとした犯罪者でしょう。他人の法律違反をとやかく言う前に、いますぐ警察に自首しなさい。
40キロのところを60キロで走る、黄色でも平気で交差点にはいる、駐車違反はする、シートベルトはしない、ケータイは掛ける・・・。しかもそれが1日10回で20年間毎日!!!!!!
著作権50年どころの騒ぎじゃありません。懲役50年ぐらいが相応しいんじゃありませんか?
7月8日(日)
公認海賊盤
演奏などの著作隣接権は50年で切れるそうである。そしてそれ以降は、誰でも自由にレコード化して発売できるとのことである。
しかし、これはいいことなのだろうか。嬉しいことなのだろうか。
演奏の著作隣接権は切れても、モノとしてのテープなどの音源の所有権が切れるわけではあるまい。主たる(オリジナル)音源の所有者であろうと推測されるのは、放送局あるいはレコード会社である。「誰でも」とはいえ、いくらなんでも放送局やレコード会社からテープを窃盗してきて・・・というわけにはいかないだろう。
すると中には「放送されたもの」の録音である粗悪な音源から、というケースも当然発生してくるだろう。あるいは、単にレコードやCDのコピー・・・ちょっと高域を持ち上げれば、みんな大喜び!
それに「これは1950年の演奏ですよ・・・」と偽って1954年の録音が使われたとしても、だれもそれを見分る術がないのではないか。もう、新発見の歴史的名演がゾクゾク・・・。
こうなってくると、出所不明で、時期どころか演奏者すら疑わしいレコードが氾濫する可能性もある。今より悪い状況にもなりかねない。
だったら「これは海賊盤ですよ」と堂々と主張して(いるわけでもなかろうが)、聴くほうもそのつもりで接しているほうが、はるかに健全である。
それよりも50年前のカビの生えたような演奏を有りがたがる気持ちも、私には理解不能であるし、興味のないことでもある。
今の私は、せいぜいステレオ時代の1960年以降でなければ、全く聴く気が起きない。
特に私が聴きたいと思うそういう演奏は、あと30年も待たなくてはならない。そんなに待っていられる保証はどこにもない。いったいどうしてくれるのだ。
かくして私は、公明正大な海賊盤を愛聴し、その存在を高く評価するのである。
7月5日(木)
声の良い音楽家
いい声の人は、いい音楽家であるようだ。
これも私の経験則であるが、「ああ、いい演奏だったなぁ」とそこそこ満足し、たとえばアンコール曲名などを告げるときにそれが意外?によい声であると、「やっぱり、いい声の人は、いい音楽家なんだな。」と思う。
これはもちろん声楽家のことではなく、ソリストや指揮者のケースである。
ただし、これは普遍的なものではなく、また、逆はかならずしも真ならずである。
いい音楽家のすべてがいい声であるわけではない。よくない声でもいい音楽家はいる。
しかし、いい声の人でよくない音楽家の人はあまりいないようだし、逆によくない音楽家は例外なくよくない声である。(ちょっとややこしいか?)
私がいいと思う声は透明感があって、通りのよい声だ。小声でも(ホールの)遠くまでよく聴こえる。ほんの例えばであるが、前橋汀子、ユッカ・ペッカ・サラステはいい声であると思う。内田光子、ラトルはカッコ付きで・・・。
逆に、高○ち○子。さもありなんという声であり、音楽である・・・?
いい声でなくてもいい音楽家にはなれると思う。耳がいいか、頭がいいか(リズム感や素質?)であろう。運動神経なんていうのも含まれるかもしれない。
しかし運動神経がよいだけの(えせ)音楽家というのも困りもんだ。ステージの上で汗を流してスポーツしている人たちである。
ステージはジムでもサウナでもないのだ。
7月4日(水)
用語の定義
【E交響楽団】
エヌ・エッチ・ケー交響楽団の「エ」のイニシャル。
【クナのような偉大さ】
クナの練習嫌いはつとに有名で、某オケとのリハで、「ワシはこの曲をよく知っているし、諸君たちもよく知っている(だろう)。従って練習の必要はない。本番でまた合おう。さようなら。」と、おひらきにしてしまった。
もちろん本番では一期一会の稀有の名演が約束されている。
【小澤のような偉大さ】
若き日の小澤がN響(実名)に対して、腋臭(腋毛)の至りで西洋音楽の薀蓄を垂れたところ、オケが反発し演奏会をボイコットした。結局そのコンサートは小澤のソロリサイタルになったそうである。これが小澤とN響の訣別事件である。
日本の伝統芸能の伝承者であるこのオケには、やはり西洋音楽は無理であったようである。
指揮者やソリストがボイコットやキャンセルする例はよく聞くが、オケのそれは前代未聞のギャグであろう。
7月3日(火)
クナのような、あるいは小澤のような音楽家?
先日(6月13日)、飯守泰次郎のコンサートについて推薦?した。
まさか! それにつられて出かけてみた、という奇特な人はいまいと思うが、もしおられたらご愁傷様であった。方々のサイトで散見するに、散々(惨々?)な結果に終わったようだ。
「何だよ、このイカサマ野郎!」と、ご立腹もごもっともであるが、それもまた人生である。そもそも期待通りいく、なんていうことが年に(あるいは一生に!)何回もあろうか。私とて、たった一回の感動の裏に、何十回(何百回とはいわないが)という失望があることか。
こうして失敗を繰り返して、耳が肥えて本物がわかるようになるのである。自分の耳で確かめる、これ以外に方法はない。
はからずもE交響楽団の実力「のなさ」の一端が浮き彫りにされたようである。
昨日も書いたが、私はとにかく練習時間の少なさに驚く。今回も結局練習は一日? しかも二日目はぶっつけ本番であったという。
おお、これはまるでクナのような偉大さではないか。
そしてこのコンビもこれが(最初で?)最後か?と、巷では言いたい放題の誹謗中傷罵詈雑言批判悪口である。
おお、これはまるで小澤のような偉大さではないか。
いずれにしても、今回は運よく見送ったおかげで3万円(入場料+出張経費)ほど儲けた、
と日記には書いておこう。
もし、私の口車に乗って「だまされた!」とお冠の方、よかったら少し還元しましょうか?
7月2日(月)
諏訪内晶子の放送を見て
私はこのヴァイオリニストにはあまり興味がない。その音楽を聴いても印象に残るものが少ないからだ。「きれいに、そつなくまとめましたね。」と言う程度で、肝腎のそこから先のものがほとんど感じられない。強いて言えば、プロとして最低限のレベルをクリアしているに過ぎないとういことだ。(いずれにしてもまだまだこれから、10年たってからの話ですよ。)
さて今回のTV放送を見て、感じたことを少々。これは主人公が諏訪内でなくてもよかったことではあるが。
30分の番組であったが、内容はあり、インパクトは強かったように思う。(西本智実の1時間に比べて。) 諏訪内の音楽感や人生観が、より強く出ていたように感じたからだ。ただし、それに共感できるか否かは、また別の問題である。
私は、業界や舞台裏の事情には全く疎いが、例えばアシュケナジー/チェコフィルとの共演で、練習が当日の、しかもたった30分しかないことには大いに驚く。有名曲というのならともかく、とてもそうは思えないタケミツの作品でである。これでまともな演奏ができるなんていったい誰が考えるのだろうか。
我々は「そんなものを聴かされて」いるのだろうか。「それがプロだ」という考えにはとても賛成できない。
例えば、ヴァントが最低3日の練習時間を要求するというが、私の感覚からすればそれが当たり前である。音楽(や指揮者の考え)がわかって、自分たちが納得し、人様に見せられる(聴かせられる)カタチにした上で世に問う。それが当然の「礼儀」ではないのか。
「それだけニーズあるから(各地での)公演回数が増え、十分な練習時間がとれない。」なんていうことは、私には信じられない。それはマネジメントやスポンサーの都合であり、言い訳にしか聞こえない。ビジネスライクに利益だけを追求し、「芸術」や聴衆のニーズ(これもビジネスライクだが)など二の次なのである。
私はクラシック音楽が普及することなど全く望んでいない(また、だ・・・)。むしろもっと廃れてしまって、本当に音楽の好きな者だけがこっそり?楽しむような雰囲気になってくれたほうがありがたいと思う。(用のない奴は、コンサートホールなぞにくるな! コンサートを邪魔する者のことである。)
供給過剰になり、それが成り立っていかない(コンサートはやたらと多いのに客は入らない、レコードはたくさん発売されるのに、ちっとも売れない)というのなら、そういうアーティストが自然淘汰されるのは当然の成り行きである。
そのためにレコードやコンサートチケットの価格が今の倍になっても構わない。ただし、当然それに見合った質のものを提供してくれて、である。
でも、ベルリン・フィルやウィーン・フィルや一部のオペラが今の倍の値段になったら、絶対に行かないですけどね。
7月1日(日)
ついでに西本智実
ちょっと思いついて「ネット」で調べてみると、結構出てくるもんです。私はそれほど執着心は強くないので(!?)ほんのざざっと調べただけですが、それでもこれだけ出てきました。
「あっ」と言う間?にこれだけの情報が、しかも「ただ」同然で手に入るわけです。
たいしたもんです。全く感心します。数年前ではとても考えられないことです。
但し、ネット上にはガセネタ(というより意味のない情報)もそれだけ多いということで、気をつけなくてはいけません。
| 西本智実/関西フィルハーモニー交響楽団 7月24日(火) 19:00 ザ・シンフォニーホール 武満徹:ア・ウェイ・アローン モーツァルト:ピアノ協奏曲21番 ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」 |
| 西本智実/世界アマチュアオーケストラ 8月5日(日) 愛知県芸術文化センター 全:2000円 プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」より |
| 西本智実/TAMA21交響楽団 9月30日(日) 14:00 府中の森どりーむホール ハチャトウリアン:組曲仮面舞踏会 ムソルグスキー:展覧会の絵 ブラームス 交響曲第1番 |
| 西本智実/日本フィルハーモニー交響楽団 10月12日(金) 杉並公会堂(東京) リムスキー・コルサコフ「シェヘラザード」他 |
| 西本智実/日本フィルハーモニー交響楽団/木野雅之 10月13日(土) 18:00 みなとみらいホール S:6200円 リムスキー=コルサコフ:スペイン綺想曲 チャイコフスキー:弦楽のためのセレナード リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」 |
| 西本智実/日本フィルハーモニー交響楽団 10月21日(日) 14:00 東京芸術劇場 チャイコフスキー:バレエ「白鳥の湖」ハイライト チャイコフスキー:交響曲第5番 他 |
| 西本智実/大阪センチュリー交響楽団/ニコライ・サチェンコ(Vn) 11月10日(土) 18:00 ザ・シンフォニーホール(大阪) A:5000円 チャイコフスキー:花のワルツ(バレエ音楽「くるみ割り人形」より) チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ムソルグスキー:交響詩「禿山の一夜」 ボロディン:だったん人の踊り(歌劇「イーゴリ公」より) リムスキー・コルサコフ:スペイン奇想曲 |
| 西本智実/関電クラシックイン京都 11月29日(木) 京都コンサートホール(京都) |
| 西本智実/大阪センチュリー交響楽団 12月7日(金) NHK大阪ホール(大阪) 聖夜のコンサート |
6月30日(土)
西本智実でした
当初、「智美」と書いておりましたが、「智実」が正しい表記でした。
私はまだこの指揮者は聴いたことがありません。あわてることはないさ、と考えているからです。まだ31才。あと10年待ってからでも遅くはないのです。その時にちゃんと生き残っていたら聴く価値があろう、と判断するわけです。
確か2年ほど前に、京都で彼女と師匠でもあるムーシンのコンサートがあったのですが、(結局来日したのか、出来なかったのか記憶は定かではないが)タイミングが合わずこれは聴き逃しています。
この日、彼女の特集番組が名古屋テレビ(中部地方)で放送されました。
出だしの部分を見ていて、「これは、まずいパターンかな。」と思いました。ロシア時代の苦労話が出てきそうな雰囲気だったからです。
こういう話はいけません。辛かった暗い過去や、現に背負っている苦労は、一人その番組の主人公だけに限ったことではないからです。「ハンディキャップ」も同じです。
そういう「背景」をことさら強調して、同情をかって人気や株をあげようとする演出はいただけません。その音楽ではなく、周辺の事情に感動していてはいけません。
幸い今回は「その手」の話はあまりなく、ひと安心でした。
その後の内容は、予想とは少し違ったものでした。もっと音楽観について詳しく語られたり、演奏の風景もあるかと思っていたのですが、そういうものはごくわずかでした。
どちらかというと「行動系」の視点に立っているようでした。(それが音楽観につながるのかもしれないが。)
例えば、以前、内田光子に安原顯がインタビューした番組が放送されました。これは多分15分くらいのものだったと思いますが、見応え、聴き応えのある内容でした。音楽観、人生観が引き出され、思わず唸ってしまうような内容でした。内田光子の大きさと安原顯のうまさによるもの、と言っていいでしょうか。
こういう番組を見た後、「聴いてみよう」と思う音楽家と、「なんだ、こりゃ。もう聴くのはやめよう。」と思う音楽家の二通りがあります。今回は前者のケースで、今度見つけたら出掛けてみようかな、と思いました。
ちなみに後者のケースは、○渡、園○などです。私の考え方と全く逆のことを言っていて、それ以来聴くのを止めました。
さて今回の番組で最も印象に残ったのはこのフレーズです。
「女で売れば、女で終わってしまう。」
さあ、果たして西本智実は男になれるか!
6月28日(木)
熱狂する音楽家?
先日(6月26日)
「技巧」とか「熱狂・興奮」なんていうのは、ほんの表面的なささいなことにしかすぎません。
と書きました。
それについて思うことがありますので、少し補足します。
その時は、その音楽を聴いて(聴いた人が)「熱狂」したり「興奮」したりすることは、重要なことではない、というつもりでした。
しかしながら、音楽にそういう効能を求める向きがあるのも事実でしょう。言い尽くされていますが、どういう聴き方をしようとそれはカラスの勝手です。
それはそれでちっとも構わないわけですが、問題はこちらです。
ときどき演奏する側の人たちが、こういうこと(熱狂・興奮した状態)になってしまうことがあるようなんです。私はこういう人たちを音楽家とか演奏家とは呼びません。これは自分たち(演奏者)が音楽を楽しむアマチュアにすぎません。
こういう観点から私なりの分類すると、
一流:指揮者も演奏者(オケメン)も冷静でいるのに、聴衆だけを感動(熱狂・興奮といっても良い)させられる。
二流:指揮者は比較的冷静でいる(かもしれない)が、演奏者が興奮してしまっている。たいていの場合、崩壊に近い状態になる。
三流:演奏者はそうでもないのに、指揮者だけが先に興奮してしまっている。聴衆はしらけ切っている。「なに、バカやってんだろう・・・。」
あるいは、指揮者・演奏者ともどもこの状態になって、何が何だかわからなってしまう。もうこうなったら誰にも止められません。あとは野となれ山となれです。
6月24日(日)
変わらないこと
さて、無事???エアチェックが終わりました。
私の場合、例によってそれらがなんの問題もなく期待通り・・・なんてことは、あるはずもありません。もの好き・・・、あるいは、元々の趣味としてこの放送を聴かれた、あるいは録音された方は一体あの野郎(私)が何をほざくだろう、と興味津々であろうか。
もちろんその期待を裏切るようなことは決してなく、気に入らないことばかりです。さーて、お立会い。
1.私が盛んにエアチェックしていたのは、多分20年位前までだろうと思います。確たる記憶はないのですが、社会人になり収入を得るようになると、「よーし、これで聴きたいレコードは全部買ってやる。」と、エアチェックには執着しなくなったからです。しかし実際のところ最後にエアチェックしたのはいつのことかは全く記憶にありません。
そして今日、久しぶりに本格的に(NHK)FMを聴いてみたのですが、驚いたのはその頃と何も変わっていないことです。
まず、「日曜喫茶室」。この番組が始まったのは、多分25年ぐらい前のことと思います。それが今でもそのまま続いていること。「はかまみつお」がまだ?生きていること。(ハハハ、いや失礼、失礼。) 現役であること、ぐらいにしておきましょうか。
2.いよいよお目当ての番組が始まる。するとそのテーマ音楽がまた同じままであること。(日曜喫茶室も。)
なんと言うマンネリ。20年もこれ一本で通すか。まあ、ザザエさんや笑点の例もありますけど。
3.相変わらず、アナウンス音は異常に(音量)レベルが高く、特にクラシックではレベルが低く、そのギャップがもう異様なこと。何とかならんのか。
4.さて、肝腎の演奏ですが、
ブラームス Vn協奏曲。
一聴、ソリストの線が細い。当然といえば当然でしょうし、しかたのないことです。それゆえ二流に甘んじているわけですから。
シューマンの「春」。
やはり、ほとんど初めて聴く曲でよくわかりませんが、いかにもシューマンらしい、ぎくしゃくした音楽です。
あまりオケの悪口を言ってもいけないのでしょうが(これもしょうがないことだから)、録音の悪さでかなりごまかされているようですが、特に弦のピッチの甘さ(不揃い)や、ホルンの怪しさなどが悲しいといえば悲しい演奏でした。トゥッテイにごまかされてはいけません。(木管だけは少しまともだったかも。)
T・ザンデルリンクは、やはり?あまり細かい細工は弄さずに(あるいはこのオケには期待出来ないから)、大きな流れでもっていくようで、この点には好感を持てました。
それにしても、NHKの録音には首をかしげぜるを得ません。これはザ・シンフォニーホールですから、音響は日本一?のはずなのに、どうもぱっとしません。ベールがかかっているというか、曇りのある音でした。
あるいは私の装置の問題かと一瞬思いました(10年前のシスコンのチューナー出力をVTRに入れ、それをモニターするという劣悪さ)が、番組が終わって例のテーマ音楽が流れてきたとき、私はまた悲しくなりました。「何でテーマ音楽のほうが音質が(そして演奏が)いいんだよ・・・。」
5.このクニの聴衆にも相変わらず感心しません。なにをあわてて拍手する必要があるのでしょうか。そんなにあわてなくても、誰もどこへも逃げないのに。
次の番組(ムーティ/BRSO)も少し聴いていたのですが、一曲目が終わったあと、一瞬(五瞬ぐらいか・・・)間がありました。「あれ、これはライヴだろ?」そう思うだけの間がありました。それから拍手が始まります。
やっぱりこれがオトナですよね。
6月23日(土)
エアチェック(FM)再開
つい最近、ようやくFMのエアチェック環境を(再)整備しました。
先日、といっても1月頃でしたか、たまたまFMfanを久々に手にとってみると、時々すごいライヴを放送しているのを見て、やっぱりこれは録っておかないと損だな、と思うようになったからです。
といっても、迷いはありました。これは録っておきたいというライヴなら、いずれ海賊盤で発売されるだろうという目論見もあったからです。
それに録音するといっても、今更(アナログ)カセットもなかろうに・・・、かといってDATやMDレコーダーを改めて買うのもなんとも中途半端な気もするし。
とりあえず、VHSテープに録音できるようにしておいて、よほどその気になったらCDRでも、と考えています。
本当は、先日(5/18)のチョン・キョンファの生中継に間に合わせたかったのですが、どうしても間にあわず、その時はあきらめていました。それに、このライヴなら当然海賊盤で出てくるだろうという期待もありました。ところが、当日会場に行ってびっくり、何とTV放送が予定されているではありませんか。私は狂喜しました。・・・しかし、それもそこまででした。後はご報告の通り、感動のライヴは夢と消え、ただのドキュメントに成り下ってしまいました。
さて、明日(6/24)は、FMエアチェック再開第1号となります。
14:00からの放送で、
ブラームス Vn協奏曲
シューマン 交響曲第1番 「春」
T・ザンデルリンク指揮 大阪シンフォニカー/Vn:谷本華子
という内容です。
なぜか因縁のブラームス/Vn協奏曲です。しかし、この放送は大いに気に入りません。何と、1楽章が欠落しているのです。おそらく放送時間の関係だと思いますが、魅力は半減以下です。
なかなかタイミングが合わず、ずっと聴けないできたT・ザンデルリンクですが、果たしてこの首尾やいかに。(でも、私はシューマンの「春」なんて、ほとんど知らないんで、ようわけわからんのですけどね・・・。)
6月20日(水)
では、チャイコ Pf協は?
うーん、ですね。
(いちおう、「一番」と、識別しなければいけないでしょうか。)
私は、はっきり言ってこの曲はたいして好きではありません。「きらい」というわけではありませんが、積極的にレコードを買ってまで聴く気にはなれない、という程度です。捜せば数枚は出てくると思いますが、それはチャイコを聴きたくて買ったものではなく、他とのカップリングであるとか、聴きたい演奏家のものだから一応・・・という程度です。
なぜか。
冒頭のファンファーレ?は誠に勇ましいのですが、一段落したところで曲想ががらりと変わります。私はここでこの曲は終わっているように思えます。(いつものように専門的にどこ−何小節とかは言えませんが。「ツァラ」も同じです。あれ以降は聴く意義を見出せません。)
全体を通しても何となく奥が浅い。飽きがくる。繰り返し聴けば聴くほど、つまんない曲だなー、と思えてきてしまいます。
表面的な要素が強い。だからこの曲は、爆演がもてはやされるのではないでしょうか。またそれが似合う曲かもしれません。競争曲あるいは狂奏曲と勘違いしてしまう向きもよくあるようです。(弾くほうも、聴くほうも。)
ところで、「競演」という表現を、ときおりみかけます。協奏曲の場合はこれはあきらかな間違いでしょう。協演もしくは共演がやはり正しいでしょう。
私はネットを始めるまで、チャイコフスキーなんて、そんなに人気のある作曲家だとは思っていませんでした。ところがこの世界?には、意外に好きな人が多いのにとても驚いています。
でも気をつけなくてはいけないのは、「演奏する」のが好きな人がよく混じっているようですからね。その立場でモノを言われても・・・。
さて、問題はアルゲリッチですが、当日は体調不良もとりざたされていたようです。だったら尚のこと、「(当日の演奏は)出来が悪かった」と正しい評価を下して差し上げるべきではないのでしょうか。
6月19日(火)
ブラームス Vn協奏曲
「じゃ、一体どういう演奏ならいいのよ、ん〜?」ということになるだろうか。一応責任とって?そのあたりを明らかにしておきましょう。
1.ヌヴー/Roger Desormiere/ORTF (THARA)
2.マルツイ/クレツキ/PO (TESTAMENT/EMI)
3.フリード/ザンデルリンク/BPO (FKM)
4.竹澤/C・デイヴィス/BRSO (BMG)
5.ムローヴァ/アバド/BPO (Ph)
6.シゲティ/メンゲス/LSO (Ph)
7.ケネディ/ノリントン/BPO (LIVE)
ヌヴーとマルツイ。これらは甲乙つけがたいところです。
ヌヴーは1楽章のソロ・ヴァイオリンの出だしで、もう完全にノックアウトされています。ここをこのように(といっても、なんのこっちゃわかりにくいですが。)演奏できるのはヌヴーしかいないと言ってもいいでしょう。
ヌヴーの録音は4種類ほどありますが、基本的な解釈は同じです。巷ではイッセルシュテット(Ph盤)が人気のようですが、ここではTHARA盤をお勧めします。(生)写真に肉声?付きとアブナさもサイコーで、お宝度、プレミアム度抜群の逸品です。(何か勘違いしてる?)
イッセルシュテット盤はフィナーレでオケがつまずいていて、「と」っぽいところがあります。(でも録音が異常によい。何か細工をしていそうだ。)
マルツイ。
こちらは別のところでも「公式」に推薦していますが、彼女の場合、あくまでも気品を失わないところがよろしい。気品という表現は正しくないかもしれないが、音色(ねいろ)の美しさ、重奏でも音が汚れない。「ああ、確かに2つの音が出ていて、それがきれいにハモッているな」ということが聴き取れる。「にわとりの首を締めたような悲鳴」になることが決してない。
彼女らの録音はいずれもモノラルである。しかしフィナーレでは「ああ、これこれ、ブラームスはこうでなくちゃ・・・。」と、思わずこみ上げてくるものがある。
これはもちろんソリストだけの問題ではなく、伴奏も含めてであるが。
私はチョン・キョンファがこの2人に比べて劣っているとは決して思えない。むしろ互角以上だと思っている。例えばベートーヴェンのコンチェルト、バッハ無伴奏、チョン・デュオライヴ(もちろんその他たくさん)では素晴らしく感動的な音楽を聴かせてくれる。
それなのに、生で聴いても、映像付きのステレオで聴いても、この2人以上の感動が得られないとは、一体どういうことなのだ(しかも相手はモノラル)。私は実は悔しいんです。
これが他の凡百のヴァイオリニストであったら、絶対にそうは思わない。「まあ、こんなもんでしょう。」で片付けてしまうだろう。しかし私がチョンに期待するのは、こんな程度のものではないのだ。
あの演奏が、少なくとも「よかった」と思った人たちは、マルツイやヌヴーや以下に推薦する演奏を聴いたらどう感じるのだろうか。
フリード、竹澤。
彼女らは、というよりも、これらの場合バックが異常に立派であることが共通点である。
この曲をシンフォニックに演奏した例として、最大の効果が得られている。ソロ・ヴァイオリンが出てくる前に完全に出来上がってしまう例である。もちろんヴァイオリンも素晴らしいんですが。
私は最初、竹澤/C・デイヴィス/BRSOの演奏には馴染めなかった。音楽が止まっているように思えた。しかし、オーディオの音質改善が進み、ある時このレコードを聴き直してみて驚いた。とぎれがちだと思われたフレーズの間に有機的なつながりが聴こえて来たとき、初めてその真価がわかったような気がした。さすがC・デイヴィスであると見直したわけである。
今回のライヴの冒頭で私が「まずいなぁ・・・。」と感じたのは、実はこの竹澤/デイヴィス盤を最初に聴いたときと全く同じ印象であったからなのです。「これはもしかしたらスカスカになるかもしれない。」 そして、残念ながらその予感が当たってしまったということなのです。
フリード/ザンデルリンクも同じ路線・・・と、おおざっぱにくくってしまうと、どちらかに失礼であるが、こういう貫禄のある演奏(バック)をするにはそれなりの修行(亀の甲より年の功)が必要ということである。
残念ながら、ミョンフン/ローマにはそれが決定的に欠けていたように感じた。
ムローヴァ。
公平を期して・・・、というわけではないが、私の場合当然のように女流が並ぶことになる。
この演奏は録音の良さと、ある意味クセのないニュートラルな性格を評価している。もちろんムローヴァの右手は魅力的である。ライヴであることもポイントを稼いでいる。
シゲティ。
いくらなんでも、やはりこれを外すことはできない。
シゲティの音は一種異様な魅力がある。「いったいこれは、どういう楽器が鳴っているのだ。」と思わせる。下手だの衰えただの言いたい放題の向きもあるが、この音を聴いてどう思うのか。
もちろん問題は音だけではない。音楽に高貴なものがあるとすれば、きっとこういうことを指すのだろうと思わせる演奏である。
ケネディ。
これはCDではない。TVで放送されたものである。私が映像付きで、しかもモノラルの音楽を聴いて感動した、数少ない例である。
「画」で見るケネディは狂っているとしか思えない。しかしバックをとったノリントンとベルリン・フィルも一緒に狂ってしまっているのだ。いや、正確にはノリさんだけは狂っていない。冷静である。うまくベルリン・フィルを狂わせたというのが正しい。
私はこれでノリさんに俄然注目した。しかし(ノリさんを)聴き込んでみると、それもなんだか期待外れで、変な方にずれてきている。それはまた別の話になるのでここでは避けるが。
これは、私が何回も観たいと思う、まことに稀有な映像ライヴである。
これらは、それぞれに名演である。
繰り返すが、それに比べてチョンのライヴは・・・。
決して比べることが目的ではないが、あまりにもふがいない。残念で仕方がない。先に出てきた「悔しい」というのが、私の本当の気持ちに一番近いようです。
6月15日(金)
演奏者の満足度 PS・・・?
ある資料によりますと、
ハーバード大学で1990年代後半に調査したところによると、オーケストラのメンバーのほうが、連邦刑務所の看守より仕事の満足度が低い、とのことである。
ところが、米オルフェウス室内管弦楽団だけが例外的に高かった。指揮者をおかず、メンバーの自主的な運営によることが理由であるらしい。
この資料での主旨は別なところにあるのですが、ここではオケメンの満足度?について考えてみたい。「満足度」なんていうのはいかにも怪しげな概念であるが。
そもそもオケメンが仕事(演奏)して満足することが必要なのであろうか。その使命が、ミューズへの奉仕であり、聴衆への奉仕である以上、その目的が果たされればそれで満足すべきなのではないか。それ以外の満足度とは何か。自分たちが楽しみたいとでも思っているのだろうか。
室内楽はそもそも演奏者が合わせて楽しむためのものであり、聴衆はそのおこぼれを頂戴しているにすぎない(かった)という意見(学説?)を聞いたことがある。
演奏の心得のある人に言わせると、まず、演奏者が楽しく(ま)なくては、いい演奏にならないという。
しかし私はこの考えには反対だ。私は演奏者が楽しんでいるのを見てもちっとも楽しくない。(やはり小編成の室内楽や古学系でこういうのをよく見かける。)
我々聴衆を楽しませてこその演奏会ではないのか。演奏者が楽しみたいなら聴衆を入れずに自分たちだけで楽しんでいればよい。
聴衆に楽しんで(満足して)もらおうとしたら、絶対に真剣にやらなければならないはずだ。そこに演奏者が楽しむ余裕などあるはずがない。
演奏者の満足度が低いというのは、聴衆を十分楽しませることができなかった、自分たちの演奏のふがいなさを不満に思っているからなのだろうか。
もしそうなら、もっと腕を磨いてから世に問うがよい。まだ10年早いのだ。
6月13日(水)
張り合うレーベル
「確かどこかにあったんだけどなー」と、長いこと気になっていて、なかなか見つけられなかったある広告があります。
実はその当時は、私はスランプ(HPに書く気をなくしていた)にあって、「まあ、どうでもいいか。」とうっちゃってあったんですが、今日、バックナンバーをパラパラやっていて偶然見つけました。
レコ芸2001年3月号ですが、フォンテックの広告にこんなコピーがあります。
| フォンテックは一部評論家の批評に屈せず、朝比奈、飯守のCD発売を続けます。どうぞ、ご期待ください。 |
どうです。これもかなり噴飯度のポイントが高いです。
私は寡聞にしてそういう批評を読んだことがありません。いったい、誰がどこで朝比奈や飯守を酷評しているのでしょうか。とても興味があります。
朝比奈はともかくとして、私は飯守に対してはそんなに悪い印象は持っていません。
残念ながら、私が聴きたいと思うプログラムを、近辺でやってくれる機会がないためになかなか実演に接することができないんですが。
私がこの指揮者に興味を持ったのは、名古屋フィルハーモニーとのベートーヴェン交響曲第7番のTV放送を見た(聴いた。そして録画した。)からです。
「へー、名フィルがねー。こんな演奏を・・・。」と思わせる、なかなかの名演でした。(わかりました?)
しかし、飯守はその後すぐに名フィルを去ってしまい、その後がコバケンと、これまた噴飯度120%というありさまです。
実は近々おもしろそうなライヴがあるんですが、いかんせんロケーションの問題と、それにN響ときては、ちょっと遠征するまでには至りません。いましばらく、チャンスを待ちましょう。
(地理的、時間的、予算的に)手の届きそうな方は是非いかがでしょうか?
まだ、飯守を知らない方にも、強力とまではいきませんが、ナカナカにお勧めしたいコンサートです。
| 飯守泰次郎指揮 NHK交響楽団 モーツァルト デヴェルティメント ニ長調 ブルックナー 交響曲第4番「ロマンティック」 6月30日(土) 15:00 大宮ソニックシティホール 大ホール S:7000円 好評発売中・・・だそうです。 http://www.sonic-city.or.jp |
6月12日(火)
「でび」さん、言います
「でび」さんとは、ラーメン屋のほうではない。スカルノ夫人である。
このでびさんが、おもしろいCMをやっていた。何のCMだかよくわからない(そこに意味がある!)のだが、おそらく猫に扮したでびさんが、こんなような意味のことを言います。
しつけは子供のうちからやっておかないといけません。大人になってから手遅れになった例をよく見かけます。 「手遅れ」というのがなんとも笑わせてくれます。おもわず噴き出してしまいました。(噴水・・・ですな。)いや、泣かせてくれるといってもいいかもしれませんね。
動物に対しても、「大人」と言う表現をするのかどうかは良く知りません。「犬の大人」「猫の大人」なんて、あんまり聞いたことありませんからね。「子供」は使うようですが。
「新解さん第四版」によりますと、
@一人前に成人した人。A老成していること。
と、あります。むずかしいところです。
私には、これ(でびさんの言葉)は人間のことを指しているようにしか思えません。
さすがでびさん。言ってくれます。ついでに笑わせてくれます。
6月9日(土)
死刑バンザイ
「また」とんでもない(私に言わせれば「くだらない」ですが)事件が起きています。大阪の小学校での児童殺害事件です(タクマ某による犯行)。私はもうこんな事件には全く驚きません。毎日のように「同じ」ことが起きているからです。
この事件についても感じたことはたくさんあります。しかし今は書く気力があまりありませんが、これだけは是非言っておきたい。
犯人は死刑を望んでいるようです。だったら希望通りにさせてあげればいいじゃないですか。ねえ、みなさん!
しかし、このクニのバカな法律や制度ではそれすら能わない。(こんな言葉ありかな。)
そして、やがて無事?「出所」あるいは「退院」して、また同じこと(凶悪犯罪)を繰り返す。
私は犯人への怒りはともかく、こういうことにこそ非常に憤りを感じる。
ホラ、今日もまたでしょう・・・
5時のニュースで報じています。今日の午後、福岡かどこかで、同じような事件が起きました。
もう、戒厳令を出して警戒体制をとらないとダメですね。どうしようもない、救いようのないクニです・・・。
ついでにちょこっとだけ書きますが、やたらに報じるマスコミにも責任があります。バカがそれを見て、真似するんですよ・・・。
この分では、また明日もどこかで・・・。これも流行りモンですから・・・。
これで本当に起きたら、私は笑ってやりますよ。
子供に警戒心がないのなら、それを守る(防ぐ)手だてを取らないその親の責任はいったいどこにあるのか・・・。
いや、このクニの親の責任なんてとっくに失せているからこそ、こういう事件が頻発するんですけどね・・・。
今日あたり、たいてい休みなんだから、子供と一緒に公園にいけば、こんな事件簡単に防げるのに。
大人が凶器・・・といって語弊があれば、護身具である金属バット振り回してりゃ、こんな気の弱い犯人寄って来るわけないのに。
「忙しい」を合言葉に、仕事なんぞにうつつを抜かしているから。
一番大切なものを失ってまで働いて、一体何を得ようとしているのか。何のために働いていると思っているのだろうか。
これもまた、不思議な人たちです。
「忙しい」とは、「私は無能である」と同義語である。但し、忙しいことを趣味にしている(好んでそうしている)人は別である。
と、思ったら・・・
6時のニュースでは、一緒に遊んでいたもう一方の子供の犯行であったということです。
1.なーんだ。子供の喧嘩ですか。それなら親(大人)の出る幕でもないでしょう。ちょっとオイタがすぎたようですね。
2.このガキはきっと「死刑になる経験がしてみたかった」と思っているにちがいない。だったらやはりその望みをかなえてやるのが、武士の情けというもので御座らう。のう、ヒロミ殿(=伊代の旦那・・・)。
しかし、このガキは決して死刑にはならないことを知ってやっているに違いない。(ある程度罰を受けるかもしれないとは思っていても。)
ガキどもになめられてはいないか?
3.いずれにしろ、その背景に親の責任というものがあることは間違いない。しかし、この親に責任はあっても、その責任を問うことはできません。また責任のとれるような親ではないでしょう。「子供がやったことだから・・・。」と、とぼけているにちがいありません。責任を感じられるような親なら、こんな子供はできないでしょう。
4.被害者のほうにも非があったかもしれないことにも注意しなければなりません。喧嘩両成敗といいます。
(例えば、昨日の大阪の事件にしても、危機管理?ができ、逃げ足の早かった子供は、被害から逃れる可能性が高かったであろう。ちょっと、意味は違いますが。)
いずれにしても親が子供を平気?で殺す時代に、こんな事件が起こっても、なんら驚くにはあたりません。
なーんだ・・・
10時頃のニュースでは、結局Aによるいじめに対して、Bが報復に及んだという、ごく当たり前の「出来事」であったようです。Aにとっては自業自得で、めでたしめでたしでしたね。
それにしても、二転三転・・・とまではいいませんが、事件発生から9時間が経過してようやく真相(らしきもの)が明らかになったようです。
もう少し迅速かつ正確な処理ができないものでしょうか?(警察も報道も。)
この際ついでに、もう少し付け加えますと、いつも同じような話になりますが、今日もテレビのドラマで「ゲーセン」の様子を撮影した場面がありました。私はもちろんそんなところに行ったこともないんですが、機関銃で画面の中の敵を撃ち殺すゲームがありました。「コリャダメだわ・・・。」と思いました。そんなものを暇に任せて飽きるまで遊んでいれば、そりゃ頭おかしくなるのも当然ですよ。
問題はこういうものを「儲かるから」という理由あるいは言い訳でせっせとつくり、流通させるオトナたちです。いえ、今こういうものを作っているのはコドモたちでしょう。「若者のほうが自由で斬新な発想でウンヌンカンヌン・・・」といいながら、社会的あるいは道徳的責任を放棄して、コドモに任せる。このクニあるいは、人類の将来よりも今期の利益のほうが一大事とばかりに、それこそ休日出勤、サービス残業なんのその・・・。ご苦労さまです。
もう一度繰り返します。いったいなんのために働いてるの?