12月20日(木)
モウストリー雑感
「もう少しー」という雑誌が発売されています。
いまひとつコンセプトのわかりにくい雑誌ですが、「ライヴ系リスナーのための」それのようです。
この雑誌に限らず、関係の雑誌やネットで、最近、私の論調や言い回しに良く似た意見や表現を散見します。買かぶりか、穿ちすぎでしょうか。
たとえばこうです。
「この演奏の好き嫌いを云々する(権利は?)・・・ききてが保有している。しかしこの演奏の優劣は、議論の余地がない・・・。」
思わず、苦笑してしまいました。
ところで、今号に目を引く記事?がありました。
年間コンサートベスト10?とかいう企画です。読者から100人の審査員を選抜して、1年間のコンサートの人気投票をしようという試みです。
大変おもしろい企画だと思いました。
私も条件が揃っていれば、是非参加してみたいものだと思いましたが、いかんせん、年間コンサート鑑賞回数が一桁ではねー。(最近ではリスクを伴う投資は厳しく制限しとりますもんで。)
これは我々地方の者には縁のない話のようです。都市部在住の方で我こそは、という方はぜひ奮ってご応募下さい。「耳達者・・・、耳巧者・・・」を募っていました。「耳年増・・・」だったかな?
私の席はお譲りしますんで・・・。
12月14日(金)
「けさのことば」
| いわゆる大演奏家はよく喝采されるが、あれをみて、おもいちがいしないように。 『音楽と音楽家』 シューマン (吉田○和訳) 「大衆の喝采より、芸術家の喝采を重んじるよう」にせよ。プロのことはプロだけが知っている、というきびしい意見である。一切の仕事に通ずる言葉であろう。同業のプロには競争心や嫉妬も強いが、ほんとうの「喝采」も、かれらだけがしてくれるのだ。 |
某新聞のコラムに、このような文が載っていました。(12月9日(日)付)
シューマンというのがロベルト・シューマンなのか否かは、浅学たる私にはわかりませんが、内容はよくわかります。
「名前」に喝采してはいけません。問題は中身なのです。
12月10日(月)
影響力はいかに
土筆哲也氏が他事総論の中で、言っていました。
「そういう場での発言は、影響力が大きいのだから気を付けろ」とのクレーム(脅迫)が来ると。
しかし、そういうクレームを付けるのは、たいてい言っていることが気に入らない一部の反対派だ。要するにイチャモンであり、言いがかりだ。そして、この世は全員賛成・全員反対なんていうことはあり得ない。
それに「影響力が大きい」と言われながら、いまだかつて私(土筆氏)の言った通りになったことがない。年末の無駄な道路工事。このざまはいったい何だ、と。毎年この時期になると同じことを言っている。
このような趣旨のことでした。
このテレビをいったい何人の人が見るのかは、見当も付きません。1000万人でしょうか、100万人でしょうか、10万人でしょうか、あるいは1万人でしょうか。
それに引き替え、この(私の)サイトなんて、せいぜいが数十人のオーダーです。影響力なんて無きに等しいですね。こんなクズ(あるいはゴミ)サイト読んで怒っているようでは・・・。
軽〜く、笑い飛ばしてくださいな。
11月28日(水)
マンスリー・ハイライツのつづき・・・思い出したように
実は、あるHPを読んでいて、はっと気付いたんですが、このCDって、「新譜月評」に載っている演奏が収録されていることが多いようですね。
「あっ、なーるほど」そのつもりで見ると、あるわ、あるわ・・・。
| ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」他 ○尻竜典指揮 ○ウキョウ・モーツァルト・プレーヤーズ(EXTON) 《エロイカ》は第一楽章冒頭の和音になんの意味もないが、それこそ指揮者の狙いなのだろう。全四楽章の演奏はこの和音の延長であり、○尻がいったい何のために《エロイカ》をレコーディングしなければならないのかが理解できない。こういうのを古典的とは言えず、聴いているほうは時間を無駄にするだけ。ベートーヴエンを矮小化した罪は重い。 とはいえ、他の評者の反論を期待せずにはいられない。 〈U野〉 ◇ ベートーヴェン:交響曲第5番《運命》〜第9番《合唱》 ◇ なんだってア○ドはベートーヴェンなんかを録音したのだろう? それも新しいベーレンライター版の楽譜を使って・・・。 |
どうです。わざわざ解説するまでもなく、言いたいことは明らかでしょう。
これに比べりゃ、私のやって(言って)いることなんて、屁でもありませんね。
2050年11月25日(日・祝)
万世一系神話
今日は天王誕生日である。
近上天王は2001年の今日、当時の後退子であった鳴仁と昌子秘伝下の間に生まれたとされる工事である。
ところが最近になって、この出生にある事件が関わっていることが暴露された。
すわ、分娩という段になって、急遽入院した宮外庁病院で、当時の(准)看護婦水木蟻沙(当時18)が、同じ日に生まれた別の新生児と名札を取り違えてしまったというのだ。さらに驚いたことに、本来後退子夫妻に生まれたのは、どうも女児だったらしいということである。
しかしその後の九内庁の極秘裏のミッションにより、この事実は文字通りトップシークレットとして、歴史の闇に葬り去られた。
本来、九内庁病院に入院すべきところ、あわてた運転手が看板を読み違えてしまったらしいのである。
その後、後退子夫妻には03年、05年といずれも女児に恵まれているのは周知の事実である。
この時、取り違えられたとされる夫妻とその子は、12月1日の退院の帰路、交差点に信号無視で突っ込んできたトレーラーとの交通事故に巻き込まれ、非業の死を遂げている。
さらに道路交通法違反で逮捕され、懲役5年の刑を受けたこのトレーラーの運転手は、市○刑務所での服役中に誤って階段から転落し、事故死として処理された。その後、この運転手の銀行口座に残されていた2億円もの預金は、国庫金として没収されている。
そして、宮外庁病院は間もなく廃業し、当時のことを知るものはもう誰もいない。
英ロ○ズ保険協会の試算によると、この夫妻、その子、トレーラー運転手の全員が2年以内に事故死する確率は、10の26乗分の1であるとのことである。
ちなみに、これは小泉順一郎首相が、その在任中に隕石に当たって死亡する確率とほぼ等しいという。
側室というものがあってもおかしくはないですわね。昔風に言うと、影武者。今風に言うと・・・ミラーリング・バックアップですか・・・!?
いえ、別に(↑)の話とは何の関係もありません。ひとりごとです、ただのひとりごと(ブツブツ)・・・。
11月23日(金)
マンスリー・ハイライツ
ところで、このレコ芸のサンプル盤は音が悪いという話も見聞きします。
本当でしょか。
実は私の装置では、全く逆なんです。このサンプル盤はとびきり音がいいんです。とても不思議なことです。
とはいうものの、サンプルに納められた演奏の正式盤を持っているということは、まーず滅多にありませんから、比較のしようもないわけですが(1年に1〜2枚か?)、どの曲を聴いても、とても素晴らしい録音に聴こえます。
装置(CDプレーヤー)との相性問題ぐらいしか、原因は考えられません。◇
12.ブルックナー:交響曲第8番〜第4楽章/ヴァント指揮ベルリンフィル
実は、先月号にもこの演奏は収録されていました。連続当選です。おめでとうございます。
最近のヴァントはおもしろく(よく)ないので、このレコードも買わないことにしています。幸い店頭で試聴できることも多く、それで十分です。
確か11月1日発売でしたか? ちょうど3週間たちました。本当にもうまったく気にならなくなりました。
発売直後に店頭に出ていたのは気付きました。1380円でした。「ほう、がんばったな。」と思いました。と同時に、「中身も1380円にふさわしくなければいいんだがな・・・。」と心配してしまいました。「1380円くらいなら捨ててもいいかな。」と、ぐらっときましたが、「うんにゃ。」ぐっと我慢しました。
正解でした。もしあの時買っていたら、今頃棚の肥やしが増えていたことでしょう。
同コンビの4番はよかったです。しかしそれ以降(7番、9番と)急速に衰えたような印象を持ちます。今では、4番自体にもあまり興味がなくなってしまい、もうほとんど聴くこともありません。
時折、思い出したようにNDRとの8番あたりを聴くことはありますが、さっぱり(少しも)いいとは思わなくなってしまいました。
27.ブラームス:交響曲第3番〜第4楽章
28.ブラームス:交響曲第4番〜第1楽章
ハーディング指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー
をを、これこれ。これがまた大評判なんですよ。
まさに来日公演中で、あるいは、聴きに行かなければならないかな、と思っていたんですが、これまた助かりました。
やはり「はやり」の古楽系で、私はこういう演奏を聴いてもしかたがありません。
「古楽系」とひとくくりにしてしまうのが乱暴なら、「こういうタイプ(筋肉質な引き締まった?)」と申し上げておきます。
もう、「普通」にやったんじゃ目立たないから「みんな」こういう風にやるんですね。でもみんなそうしたら、みんなと一緒でどうってことない・・・と、訳のわからない話になってきました。
「センセー、角の○○屋が今度廃業するそうなんですけど・・・」
「ああ、そんなことは、わしも知っておるが、それがどうかしたのかな?
わしが毎日○○屋に通っておるとすれば、そのくらいのことはわかるし、○○屋など行ったこともないとすれば、そこが廃業しようがどうしようが、わしの知ったことではないし、関係もないことだ。
で、いったいおぬしはそれで何が言いたいのじゃ?
ん、どうした?なんとか言ったらどうじゃ」
「・・・」
11月22日(木)
見事、連続推薦
The Record Geijyutu Monthly Highlights
2001 DECEMBER
RGCD-070 STEREO/MONO(非売品)
【推薦】
先月に引き続き今月も見事その栄冠に輝きました。(先月は特選、今月は推薦です。いや、たいした差異はなんですが。)是非、この調子で来月もお願いしたいものです。
かつて、私はこのレコードを聴いてみようともする気も起きませんでした。ところが最近ではちょっと気になっている演奏が収録されていることが多く、いちおう再生してみることにしています。
もとより私のこと、この演奏(サンプル)を聴いたが故に正式盤?購入に至った、ということはあり得ません。
雑誌や、ネット界などで、あまりにも「いい」という意見を見聞きするにつけ、「ほんまかいな」という疑問がふつふつと湧いてくるからです。いかにもおいしそうな美辞麗句を並べ立て、これを聴かぬは人生(最大)の損失とばかりに騒ぎ立てるもんですから、どうしても気になりますよ、やっぱし。
「どうしようもなく涙があふれて止まらなかった」とか、「人生最高の感動だった」とか、・・・をゐをゐ。◇
私は、最近では、「いかに(CDを)買わないで済ませるか」に情熱を傾けています。最も単純明快なのが、「ぐっと我慢する」。あるいは、「しばらく我慢する」ことです。
ほんの一例ですが、C・デイヴィスのシューベルト交響曲全集。私はこれを国内のレギュラーで買いました。9600円ぐらいだったと思います。確かにこれは素晴らしい演奏です。
しかし、最近輸入盤のバーゲンでほぼ半額で売っていました。
ヴァントのブラームス交響曲全集。新録のほうは1,2,3番と買いました。そこまで行って、4番は買わずともよい(買うほどのことはない)、と判断しました。
しかし、モノの本によるとヴァントのブラームスは旧録のほうが良いらしいとのことです。私は何度も店頭で迷いました。「聴いてみたいんだけどなー」。
その後、新録も廉価盤化し(たのだろうか?)、旧録も結局再発されているのやらいないのやら。今となっては、「ヴァントのブラームスなんて」どうでもよくなってしまいました。
ありがたいことに結局買わずに済んでしまいました。
最近では、こうやってしばらく我慢すれば、相当までセーブできそうだということがわかってきました。店頭での半ば衝動買いがどこまで押さえられるかでしょうね。
しかし、いつも気になるのは、今買っておかないと、将来手に入らなくなる(かも)という心配です。その見切りをどこで付けるか。これが今の課題です。
その2は、「聴いたつもり」あるいは「聴いたふり」です。「カバヤキの匂い丼」です。これは結構イケます。
例えば、aの演奏するAは持っている。今度、aの演奏するBが発売された。そこでaの演奏するAの後に、別のcの演奏するBを聴く。
多分aはこういう演奏をするんだろう、と想像しながら。
こうやって、まず3日我慢する。次に3週間我慢する。そして3ヶ月我慢できれば、もうほとんどそのCDが聴きたいとは思わないでしょう。
その時になっても、まだ聴きたいという気持ちがあれば、それからはじめて買えばいいのです。「まだ」店頭にはあるはずです。
私は特別なコレクターではありませんから、あるアーティスト、あるいはある楽曲のCDならなんでも(あるいは全部!)集めよう、などという趣味は全くありません。結局(最終的に)聴かなくなってしまうであろうCDをためこむほどのお金も場所もありません。
愛聴できそうなCDを、吟味に吟味を重ねて選択する。これが最大の楽しみといえるかもしれません。◇
寄り道が多く、前置き?が長くなりました、それでは、ぼちぼちねぶってみましょう。
4.ベートーヴェン:交響曲第7番〜第4楽章
5.ベートーヴェン:交響曲第9番〜第4楽章
アバド指揮ベルリンpo
をを、これがあの噂のミレニアム企画。20世紀最後のベートーヴェン全集ですか。
7番。チャンチャララン!チャンチャララン!・・・しばらくタメがあります。その後の導入で、思い出したような、あるいは思いついたような急加速。
「ぶははは・・・・」私は、こういうのを噴飯といいます。
私は「タメ」がダメなんですね。その「タメ」が効果的に決まればいいんですが、外れた時の無様さ、これが見る(聴く)に耐えません。これはその見事な失敗例です。
実は、これと全く同じ噴飯(あるいは噴水)状態になったことがあります。
PL・ブーレーズ指揮倒団(だったかな?)のブルックナー交響曲第8番です。
第4楽章再現部(多分そういうのでしょうが)、チャランチャランチャランチャラン・・・と主題が再現するところです。ここでPL氏、なにを勘違いしたのか、やはり急加速を始めたんですよ。私はいつもいいますように、スコアなんか知らないですから、そういう指示があるのかどうかも知りません。しかし少なくとも私が聴いた範囲で「こんな風」に演奏するのは、これが初めてでした。
もう笑い転げてしまいました。もし実演だったら、かなり「苦しい」思いをしたにちがいありません。「こんな(変てこりんな)演奏もあるんだよ」と、予めレコードで教えてくれたPL氏に深く感謝いたします。
ところで、「倒団」には別の呼び方があることを最近知りました。「結納フィルハーモニー管弦楽団」というそうです。まあ、なんとおめでたい名前なんでしょう。
さて、話しを戻して、
アバドのベト9番です。「大友よ・・・」の部分です。
これも軽いです。もうお気軽といってもいいですね。これぞアバドの本領なのでしょうか。
その存在の耐えられない軽さ、というのはまさにこのことを言うな、と初めて言葉とイメージ(実態?)が一致しました。
こういうのを「ライトクラシック」というのでしょうか?
このアバドの全集は、20世紀最後というより、末期的症状ですね、これは。
(たったこれだけ聴いただけで、聞いたような口きくんじゃねえよ! そのお怒りもごもっともであろう。しかし「部分は全体の一部である。」という迷題の意味がわかっていれば、これだけ聴くだけでも十分であることがご理解いただけよう。・・・と、ケムに巻いておきます。残念ながら、私には小一時間も問い詰められている暇はありませんから。)
11月20日(火)
クラシックが見事「普及」しました。
確か、この土日あたりのニュース系ワイドショウ番組?で、Jクラやクロスオーバーのおかげ?でクラシックCDの売上が「右肩上がり」に伸びていると言っていました。
ほんまかいなと思いました。
それは、単に「クラシック」というカテゴリーを拡大解釈しただけではないのか。
それにグラフを見ると、とても「右肩上がり」には見えませんでした。せいぜい目の錯覚ぐらいじゃないかと・・・。
靴下履かせたろう、あるいはゲロ吐かせたろう。
私は、初めてこの人が何をやっているかの、ほんの片鱗を知りました。
これをクラシックと分類するてか。これならザ・ピーナッツの「キッスは目にして」のほうがはるかにそれらしい。
高嶋さち子。有名芸能人と一緒にCMに出ているってったって、その中身はなんですか。
とても若い?女性のイメージとは・・・。
それとも彼女のイメージがこの商品にドンピシャだったというのでしょうか。
ステージに出てきただけで、「もしかしたら貼ってるんじゃないの? なんか、匂ってきそうね・・・」
ほ〜うら、もうあなたはこの呪縛から逃れることはできない・・・。
アイドル系演奏屋なんていうのは、別に演奏する曲がクラシックでなくても、ちっとも構わなかったのではないか。ただ持っている楽器の種類がクラシックに分類される、というだけのことではないのか。
「ってゆーかー、わたしなんてー、ポップスでフォークギター弾いてたってー、ちとーも目立たないってゆーかー、でっもー、クラシックだったらー、なーんかだまされそうなシトが多そうだったからー、みたいな・・・」
あっ、なーるほどね。
11月1日(木)
ネットと著作権
珍しく真面目に考えてみました。といっても法律学にも疎い私のこと、あくまで「下手な考え」なんですが。
「ネットと著作権」これほどそぐわないものはないのではないかと感じます。
とても不思議な体験をしたことがあります。奇妙な感覚にとらわれました。錯覚に陥ってしまったのです。
よくあることなんですが、あるサイトから別のサイトに通称「直リン」が張られていたんです。
突然余談ですが、この「はる」というのも、「貼る」「張る」どちらが相応しいのでしょうか。私はネットワークを張り巡らす、という感覚で「張る」を正しいと判断しましたが、アドレスを貼り付けるというと「貼る」が正しいようにも思えます。ここではどちらでもいいんですが。
さて、とあるサイトを見ていて、その記事の中にさりげなくリンクがあったんです。興味をもってそこへ飛んでみました。最初は全く気付きませんでした。てっきり同じ作者による同一サイトの別のページだと思っていたんです。
ところがそのページにはお決まりの「このページ(記事)の著作権は・・・」なんて記述があるんです。「あっれー、この(元の)作者、よくこんな記事の転載を許可してもらえたもんだなー」と感心していたんです。
そして何気なくアドレスを見ると、最初の(元の)サイトとは全く関係ないアドレスではありませんか。「何だ、これは。別のサイトにリンクしてある(だけ)じゃないか。でも、こんなのありかよ。なんか詐欺っぽいなー。」と思いました。
リンクコーナー(集)ということで一括りになっていれば、これは明らかに「よそ」のサイトの「紹介」だな、と分かります。
しかし「こういう」テクニック?を使うと、よそのサイトをあたかも自分のサイトの一部のように「錯覚」させることもできるのです。
ブラウザには「戻る」というボタンがあるんですよね。これを有効に使う(使わせる)とか、別のウィンドウを開くように仕掛けておくとか。
私はこのとき考え込んでしまいました。感心したのも確かです。と同時に、「もはやネットに著作権なんてものは、ないも同然だな。」と思いました。
そりゃそうかもしれません。「全部リンクしよう」ってのが、根本的な思想なんですから。情報の共有、それはすなわち著作権という概念をぎりぎりまで薄めてしまうことなのではないでしょうか。
しかもその情報のほとんどがタダ同然で供給されているわけですから、公開するほうもその覚悟でやっているに違いないわけです。「どうぞこれらのデータはご自由にお使いください。」
私はそういう膨大なデータを見るたびにいつも思います。「何とお人よしなんだろう。」
逆に、「いや、だからこそ著作権が大事なんだ。」という意見もわかります。言われなくてもわかっております。ははー、ごもっともでございます。おっしゃるとおりです。重々承知しております。小一時間問い詰められなくてもわかります。
でも私は、こうも思います「そんなに大事なモノなら、公開するの止めといたら?」
繰り返しますが「個人的な利用を目的に複写すること」は、いとも簡単なのですから。敢えていいますが「盗む」ことは。◇
著作権には妙にうるさい人たちも多いようです。非正規盤に過剰に反応する、会場での隠し録りを非難する。証拠もないのに?
本当に証拠があるのなら、さっさと然るべきところへ訴えて出ればいいのに。単にひがんでいるだけではないのか。あるいはうらやましがっているのか。本当は自分もそうしたいんだけど・・・。
ところで、本当に著作権違反をしたことがない人などいるのだろうか。
出版物の私的利用を超えての複写。ソフトウェアの違法コピー、インストール。少し意味合いは違いますが、会社の有形、無形の資産の私的流用。
だとしたら、悪いことは言わん。今すぐ会社員をやめて、素直に自首するがよい。
いつも言いますが、それよりも道路交通法違反のほうがはるかに重罪だと思っています。
それ以外にも、法律違反ではないとはいえ、電車内でケータイを使う奴、コンサートホールでケータイを鳴らす奴、飲食禁止と言っているのにアメを飲食する奴。その前にマスクぐらいしてこんかいと言いたい。
これらのことを「絶対にしたことがない」とも言いきれないであろうに、会場での隠し録りの「噂」を聞いて、鬼の首をとったかのように吹聴する。
過去のことはともかくとして、金輪際道路交通法違反をしないと誓えるなら、少なくとも私は隠し録りに対する糾弾を許そう。
その代わり、時速20キロの制限を決して破らないこと。えっ、車は運転しない? よろしい、横断禁止を犯さないこと。横断歩道や歩道橋のある「付近」では、かならずそれを利用すること。自転車に乗るときは軽車両としての法律を遵守すること。
尚、軽犯罪法というのもあるので、それも熟読しておくように。
「捕まらなきゃいい」なんていうのは、道路交通法違反でも著作権法違反でも、なんら変わりはない。道路交通法のほうが人命に係わる度合いが高いだけに重罪だ。
そりゃ著作権法違反で、本来その著作権者に入るべき利益に損害が発生し、それがために破産したり、餓死してしまって、その違反行為との因果関係が明らかである、とまで言われればさすがに私も同意しますが・・・。
私は決して隠し録りを推奨するものではありません。しかし、それが少なくとも、他のノイズトラブルほどに他人に迷惑をかけないのなら、私には関係ないから構わないということです。
誰かが信号無視や飲酒運転をしたとして、それがために私や私の身内が事故で被害に会わないとも限らないわけです。それに比べれば、隠し録りなんて大目にみてやれや、とういうレベルの話しです。
それにしても、今時そんなリスクを犯してまで隠し録りしなきゃならない演奏会が本当にあるんですか? 某ァントのブルックナー?、某トルのベートーヴェン? どちらもじきに正規盤で発売されるじゃないの。私は前者にもそれほどの価値を見出していないし、後者など、もらっても聴く気はしないが。時間がもったいないから。
それよりも、演奏行為は全て会場もしくは主催者によって録音され、希望者には頒布できるようにしたほうが、よほど健全な文化が築けるのではないだろうか。
演奏者が不出来を理由にそれを許可しないなどということは納得できない。それはその時の聴衆をバカにしている。それなら不出来を理由に入場料(の一部)を払い戻すべきだ。
言うだけではない。私は会場でのアンケートや、主催者、ホールなどに対して時折こういう申し出をしている。録音メーカー?との排他的契約などの問題もあろう。しかし放送録音が可能ならば、なんら実現不可能なことはないはずだ。
しかしながら、内心「実現するわけがない」とバカにしながらではあるが。
実際問題、会場では、1000円のプログラムが飛ぶ?ように売れ、その演奏家の市販のCDが100枚単位で売れているようですから。こんなライヴCDができれば、どうでしょう、その時コンサートに来た客のうち半数近くは買ってくれるんじゃないですか?
とすると1000枚の売上!これは大変なことですよ。メジャーの新譜が1000枚売れればヒットという世の中ですからね。
2000円×1000枚で、200万円。指揮者に50万、オケに50万、製作経費50万、主催者(CD製作者)に50万・・・。それほどうまみのあるビジネスとは言い難いですか。
10月27日(土)
2001年の名盤
The Record Geijyutu Monthly Highlights
2001 NOVEMBER
RGCD-069(非売品)
【特選】
今年に限らず、新譜で「これは是非聴いてみたい」と思わせるようなものは、ほとんどありません。よく「今年のベスト10・・・」なんてやってますけど、私の場合、「聴いてみたい」と思わせるようなものでさえ、10枚に満たないような状況で、その中から少なくとも他人に推薦できる(あるいは、そこそこ満足できた)ものを・・・なんていわれれば、せいぜい5〜6枚。ひどい時には2〜3枚で、あとは(言葉に)詰まってしまう、なんていうことも珍しくありません。
特に私の場合、海○盤にその意義を見出していますから、正規盤だけでと言われればなおさらです。(いえ、「○=外」なんですけど・・・。決して「賊」なんかじゃ・・・。)
しかし、このレコードはありがたいです。実物を買わなくてもどういう演奏なのか、録音なのか、リマスターなのか、分かってしまうのですから。私はこのサンプル盤を聴いて、過去何枚の無駄なレコードを買わずに済んだことか。
店頭の試聴機も同じです。どうしようか迷っている時に、試聴可能になっていると、大変助かります。そしてやはりたいていの場合、買わずに済んでいます。
私にとっては、これらのシステムはおそらく想定しているであろう効果とは、逆に作用しています。欲しい・聴きたいレコードなら、サンプルに入っていようが、試聴できようが、そんなものを一切聴かずとも買います。「どうしよう。どっちでもいいんだけどな・・・」と迷っているからこそ、それが部分的に、一度でも聴ければ、「まあ、いいか(いらないか)。」と諦められる?訳です。
「1−99の法則」というのがあるように、この世で(個人的に)聴く価値のあるレコードなんて、1%もないわけですから。(そんな法則ないか・・・。)
さて、このレコードを今回【特選】とした訳は、かのEMIのARTリマスターと旧盤(これがまた「廃盤」と明記されているのに、なんとも泣かされます。)の聴き比べができるように、ご高配されているからです。
これを聴けば、新しいリマスターでどんな音質になっているのか分かるわけで、手持ちの旧盤を、新しい音を想像しながら聴けば、それで事(用)が足りてしまうわけですから!?(カバヤキの匂丼・・・ですな。)
例えば、ミュンシュ/パリ管のブラームス1番。
私は、新しいリマスターで聴いて、この曲をマーラーの1番と聴き違えることはありません。また、カラヤン/パリ管のそれと間違えることもありません。あくまで、ミュンシュ/パリ管のブラームス1番にしか聴こえません。(いえ、カラヤン盤だと言われればそう信じるでしょうが。)
そりゃ、確かに音質の違いはわかります。だからといって、その「芸術」にさほどの変わりが生じるとは思えません。
もちろん、それがために、わざわざ新リマスター盤に買い替える必要性を、私は全く感じません。◇
ところでEMIは、リマスターで音質が向上したからといって、それで何だと言いたいのでしょうか。
だいたい、「ソフト」なんていうものは、バージョンアップすれば、ある程度のサービス料金でその恩恵が受けられるようにするべきものではないのでしょうか。
例えば、旧盤をお持ちの方は、300円の追加料金で新譜と交換いたします・・・とかね。
いつも申しますが、レコード(CD)というのは、モノであっても、その本質はモノではないのですから。言ってみれば権利のようなものなんですから。
そこのところをメーカーも少しは考えてくれなくてはいけません。◇
尚、これは「非売品」ですから、誰にでも手に入れられるというものではありません。それだけにお宝度、プレミアム度も抜群。もちろん限定盤。(この1ヶ月間のみの期間限定発売!)
お見逃しなく。
10月25日(木)
猿の配転(サるのハいてん)
いやー、彼らもリストラで大変なんですよ・・・
10月24日(水)
猿の惑星(角川文庫)
文字通りこの話題である。
何を今ごろ・・・。
そう、時宜を逸するのも私の特徴である。決してブームに乗らない。常に流行の最後端を歩いている。
私は(映画館で)映画を見るのが極めて苦手である。今まで「これは見てみたいなぁ」と思っても、実際に映画館へ出向いて見たことは、ほとんどないと言ってよい。
何故か?それはわからない。ただ何となくそう思っているうちに、公演(ロードショウというんですか?)が終わってしまうのである。
そして忘れた頃、思い出したようにテレビで放映され、ようやく見られるのである。かつてはVTRで発売されたものを見たこともあるが。
これも例外ではない。あるいはまだ公演中かもしれない。しかしやはり映画館というところには足が向かない。
ところが先日、偶然本屋の店頭でこれを見かけた。「あれっ、こんな本が出ているのか・・・。これは読んで見てみてみましょうか・・・。」
ストーリーはお約束と言ってもよい。
『近未来。宇宙ステーションから放たれた探査船が行方不明になる。それには実験中の猿が乗り込んでいた。その後を、その猿の教育係?である人間(デイビッドソン)が追い掛ける。しかしその探査船も行方不明になってしまう。タイムトラベル(スリップ)である。そして、不時着した惑星で彼が見たものは、猿に追われる人間たち。
その惑星には、タブーとされる遺跡がある。紆余曲折の末、そこにたどり着いた彼が見たものは?』
「ふーん。あぁ、そういうことね・・・」突拍子もない、というか。突拍子もないほうがインパクトも強いんでしょうけど。でも冷めた感じなんですよ。それに○○年前・・・というのも、「何だかなー」って感じですよ。しらけてしまいます。
そこが地球であったか否かは、よく分からなかった。あるいは私がどこかで読み飛ばしてしまったかもしれない。
それにしても、先に行方不明になった探査船の猿はいったいどうなったのか?何かすごいどんでん返しが待っているのだろうかと、わくわくして読み進めた。
しかし、これがとんだ期待外れ。ツーアウト満塁、空振り三振のようなもの。がっかりして力が抜けました。全く必然性がない。すごく重要な伏線になっているのかと思いきや、とってつけたような・・・、何の役割も果たしていないような気がする。
エンディングで、彼はその惑星を離れることになる。
いかにも思わせぶりな終わり方である。当然?続編がありますよ、と。
「解説」によると、映画版ではエンディングが幾通りか作られて、結局どれが採用されたかは、この(出版)時点では未定であるとのこと。だから映画版ではどうなったのかは分からない。
しかし、これはつまらなかった。映像で見れば、まだ何某かの(視覚的)仕掛けが期待できるのかもしれないが。
この手のストーリーは、もはや出尽くしたと言ってもよいのではないか?結局二番、三番煎じにしかならない。過去のものを越えられるとはとても思えない。
「ファイナル・カウントダウン」「(旧)猿の惑星」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」・・・どれも「ほー!、なるほど・・・」と、新鮮な感動を与えてくれた。
しかし、この「猿の惑星」には全くそういうところがなかった。
私はおもしろい本だと、読み終わったあと、知人に「読んでみたら?」とプレゼントしてしまうのだが、これはとてもそんな気が起きなかった。勧めるのもためらわれるほどだ。相手の時間を無駄にしてしまう、という罪悪感から。
こんな本は買ってはいけない。◇
この映画がテレビで放映されるのは、2年後ぐらいだろうか?
ちょうどその頃、「猿の指揮者」が再来日しているのかもしれない。今と同じように。
(いえっ、ボッ、ボクは決してそんな風には思っていなかったんですけどぉ、あるサイトでそう言っている人がいたからぁ・・・。)
10月7日(日)
あの芸人は・・・
古今亭志ん朝という落語家が亡くなったそうです。
もとより私には全く興味のない分野の方ゆえ、名前を聞いても全くピンときません。米朝とか、円蔵とかいわれれば「あぁ、あの・・・」と、顔ぐらいは思い出せるんですけどね。志ん朝さんてのはそんなにすごい方だったんでしょうか。
この手の芸人といえば、他には朝日名亭、古林亭、尾沢屋・・・なんて人も、名前ぐらいは知ってますけど・・・。芸風?となると、さーねー・・・。
だが、落語、演歌、浪花節・・・かくの如く、この国の伝統芸能を死守しようとする姿勢は尊敬に値するといえましょう。◇
これは、伊集院筋の噂に過ぎないのだが、飽○戸やその子息たる鳴○戸なる人物は、敵性音楽である西洋音楽にうつつを抜かしておるとのことである。鳴○戸など、自ら楽器をもて演奏までするとな。
そしてもう1人の子息である踏○戸に至っては、外国に妾がおるとの噂も仄聞する。(その妾に男児が出生すれば相続権が発生するてか。)
かくの如き体たらくで、この国の広告史観はいかに尊守されようぞ。
10月6日(土)
嫌いな理由
あの演奏(家)は嫌いだ、という意見はよく聞きます。
何かを恐れているのか、積極的にそう(嫌いだと)言うことが憚られるので、言葉を濁すことが多いようですが。
ところがその理由をよく読んでみると、それを録音(やリマスター)のせいにしているように見受けられることがあります。
その演奏(家)を認めるのがいやなために、録音が気に入らないからと、すりかえを行っているのです。
「大事なのは音じゃなくて音楽だよ」などと言っている人に限って、こういう手合いが多いように感じられます。
こういう人たちを、私は偽善者と呼びます。
10月4日(木)
銀行にストッキングを納れず・・・でよかったかな?
銀行で順番待ちのときにストッキングがゆるんだり、デンセンしても決してそれを直してはいけないたとえ。やおらそのストッキングかぶり、銀行強盗でもするのかと勘違いされるやもしれぬため。◇
世の中には著作権にうるさい方もおおぜいみえるようです。
『・・・著作権・・・、・・・無断転載・・・引用・・・』
だいたいお決まりの文句ですが、堂々と宣言していらっしゃいます。しかしそのHP内でこんな記述に出くわすと、ヲイヲイと思ってしまいまよね。
『・・・は、・・・である。□□著「△△」より』
さて、この著作氏は、□□氏や出版社の許可を本当にとっているのでしょうか。
もちろん、そのはずだとは思いますが、それならきちんとその旨を表示して欲しいですね。
「李下に冠を正さず」といい、自ら言う以上、疑いを抱かせるような行動(言動)をしてはいけません。(著作氏は、「引用」までウンヌンと言っていることに、注意しなければなりません。)
ここまでなら「ちょっと怪しいな」と思うだけで、見過ごすこともできますが、さらにこうきます。
『・・・盗用・・・』
別のところでは、はっきり言ってしまっているんですね。こうなったらもう「何をかいわんや」です。
私は、こういう「言う事とやる事が全く違う人」に出くわすと、とっても安心します。
9月26日(水)
モナーは続くよ、どこまでも
無限連鎖を引き起こすから乱用禁止というと、そのとおりのことを実行するお約束○カが、どこの世界にもいる。
9月25日(火)
全ての道はモーナに通ず
これは、風呂井戸心理学における【鏡写】についての説明です。
「BがAに、CがBに憎悪を持つ」
Bの闇(負)の部分を、BがAに鏡写する事によって、BはAに憎悪を持つことになる。
それを、はたで見ていたCが、Bに同じ感情を持つ。
つまり、A=B=Cの関係が成立するのである。
但し、これは無限連鎖購(講?)を引き起こすので、肛門販売法で乱用を規制されている。
【類】モナーを笑うものはモナーに泣く
脱毛宣言
9月24日(月)
教えてください・・・何を?
今度ラーメン食べてみようと思うんですけど、どれが美味しいんでしょうか?ボクは今までさっぱり系のしょうゆしか食べたことないんですけど。
A:そんな質問には答えられません。・・・違う食べ物の「美味しさ」は比較できない。
では、あなたの好きなラーメンは?
A:あっさり系の塩味です。
A:こってり系のトンコツです。
A:みんな、知らないようだけど、ぴりから系のキムチ味っていうのもあるんだよ。・・・マイナー
A:まだ出ていないところでは、ひりひり系のカレー味でしょうか。・・・オタク
そうですか。じゃー、まったり系のみそラーメン食べてみます。ありがとうございました。
クイズ100人に聞きました
あなたは、カレーとラーメンとどちらが好きですか?
A:カレーです。(52名)
A:ラーメンです。(48名)
では、カレーが好きと答えた方だけに聞きます。
あなたは桃とメロンとどちらが好きですか?
A:桃です。(28名)
A:メロンです。(23名)
A:ギョーザです。(約1名)・・・話の見えていないトンチンカンがまぎれ込む。
もう一度、カレーが好きと答えた方だけに聞きます。
あなたは、野球とサッカーとどちらが好きですか?
A:野球です。(26名)
A:サッカーです。(22名)
A:どちらも嫌いです。(3名)
N:放送されたものなら何でも好きです。(約1名)
Q:あのー、みそラーメンを食べたいんですけど、○珍軒と○来軒とどちらが美味しいんでしょうか?
A1:ああ、○来軒はまずいからやめとけ、やめとけ。○珍軒のほうがうまいぞ。
A2:いや、オレのフィーリングでは○来軒のほうが好きなんだけどなー。な〜んとなくだけどな。
K:いくら素人の舌といっても、確たる理由や料理学や栄養学の裏付けもなしに、飲食店や料理の味を議論してはいけません。
料理の感想は、やはりプロの料理評論家に任せなければ。
U:噴飯益○なら最適といえよう。
A3:だけど、A1の奴、30年間毎日ラーメン食ってて、舌は相当肥えてるぜ。いくらシロートの食事愛好家ったって、奴の言う事ならまちがいないぜ。
そりゃ、ラーメン生んだり、ラーメン料理つくることはできないけどな。(ビーチャムみたいにな…)
9月23日(日)
○カは無視するに限る
奴らに何を言って聞かせても、全くの無駄である。
他人の言うことが理解できないゆえに○カなのである。
そして、○カに言う事を聞かせようとするのもまた○カである。
「○カに言う事を聞かせようとしても、わからないから無駄だ。」ということを言って聞かせても理解できない○カなのだ。
これを○カの上塗りという。
ぶたの心中
猫におばん
馬の耳にピアス
○カにレス
これに関することわざにはことかかない。
昔から○カの扱いにはそれほど手を焼いているのである。(ここでサンマを焼いてはいけない。)
9月22日(土)
三人寄れば文殊も派閥
場の空気が怪しく対立が起きそうな時に、すぐには態度を表明せず、しばらく成り行きを静観し、どちらかが有利になりそうとみるや、すばやくそちらの味方に付くこと。
【英】nonpoli
9月7日(金)
クラシックは永遠に不滅・・・ではない
しばらく前に「クラシックは音楽ではない」などという物騒な議論がされていました。
いや、正しくは「クラシック音楽以外は・・・」でしたか。
「おまえこそ、そう思っている急先鋒だろう。」おそらく大方のみなさんは、そうお考えのことと、お察し申し上げます。
しかし、残念でした。
私は決してそうは思っていません。私もかつては結構なジャンルの音楽を聴いたものです。クラシックと半々だった時期もあります。(今では99%以上クラシックですが。)ただ、残念ながらジャズと民族音楽には馴染む機会がありませんでした。
そして、それらの音楽は、時にはクラシックと同じくらいの感動を与えてくれました。今でも感謝しています。
かくの如く、私は「クラシック以外は・・・」などという、それこそバカバカしい考えはもっていません。
逆に、「今時クラシックなんぞ聴くほうが、どうかしてんじゃないの?」とすら思えてきます。何を200年も昔の音楽を好き好んで・・・。
だが、需要があり、供給がある以上、生き残る価値はあったんだな、とは思います。
しかし、私は今後もクラシックが存続するか、と問われれば否と答えます。もう本格的なクラシック音楽の時代は終わりである。これ以上、普及繁栄することなど、絶対にあり得ない。これは時代の必然性である。良い悪いの問題ではありません。
早晩滅び去る運命にある。しかし私はそれでちっとも構わない。私が楽しむ分が確保できていれば、あとはどうでもよいのです。◇
と、結ぶと無責任かつ自己中心的に聞こえるかもしれないが、この音楽を残さなければいけないと感じた人たちがそういう活動をしていけば良いのである。
少なくとも私には、残すことにも普及させることにも関心がないだけのことである。もちろんそんな「義務」もどこにもない。
9月6日(木)
メジャーな出版社
ところで敦史たんの「クラシック批評こてんぱん」ですが、郊外型のさほど大きくもない(この田舎の!)本屋さんにも、なんと顔出しで売られているではありませんか。
こんな本に、それほどニーズがあるとも考え難く、100万部を超えるベストセラーになったという噂も聞きません。
それまでは洋泉社のヨの字も見られず、「クラシック音楽」に関する単行本なんて影も形もなっかような本屋さんです。(この本に限っては、何故かクラシックのコーナー以外のところに置いてあることが多い。私も最初にあるだろうと思って行った本屋さんのクラシックのコーナーにはなくて、いぶかしく思った。ところが、なんでもない普通のところ−新刊のコーナーではあったが−に置いてあった。あやうく見逃すところであった。)
いったいどうなっているのでしょう。
私はこれを必ずしも喜ばしいことだとは考えません。以前にも述べたと思いますが、この本はたいしておもしろくないからです。
この場合の「おもしろくない」というのは、「それまでの氏の著作に比較して」ということです。一般的に言われる嫌悪感・不快感・誹謗中傷・罵詈雑言の類ではありません。
私は氏の著作を高く評価しています。ですからこの本をもってして、こういうブレイクの仕方をするのは不本意?であるということです。氏がいつもこういう駄作を乱発しているかのような誤解を与えかねないからです。
氏を知るには、もっと以前の著作を読まなければなりません。青弓社のシリーズや「ほめ殺し」などです。これらにはけっこう笑わせていただきました。
今後のますますのご乱心を期待申し上げます。
9月2日(日)
ああ勘違い
久しぶりに町のCD屋に買出しに行った。
最初のうちは気にならなかったが、そのうちにBGMで、聞いたような曲が流れているのに気付いた。「ああ、ブルックナーの9番だな・・・」
特に聴くともなしに聴いていたのだが、だんだん様子がおかしいのに気付いた。
「これは普通の演奏ではない。一体誰の・・・」
これまた、普段はあまりそんなことはしないのだが、その時はたまたま作業カウンターに店員がいたので、尋ねてみた。
「いま、かかっているのは誰のですか?」
すると店員はディスプレイしてあったCD(ケース)を取り上げながら「これっ、これです!(向こうを指差して)あそこの(どこどこ)に置いてありますから・・・」と妙に慌てた様子で言う。
一体何をそんなに慌てていたのだろう。そのCDをなんとか売り(つけ)たいと思っているかのようだった。そういう意味では商売熱心な、いまどき感心な店員に思えた。
しかし、私はこう答えた「ああ、はいはい、わかりましたから。(そんなに興奮せんでも・・・)」
端(はな)からそんなCDを買うつもりがあったわけではない。
「様子がおかしい」「普通の演奏ではない」と思ったのは、その演奏を聴いているうちに笑えてきて、噴き出してしまったからなのである。
決して「いい演奏だ」と思い「感動した」わけではない。
そして、店員が慌てて教えてくれたのはクナッパーツブッシュのそれであった。
「あっははは!なーるほど。どうりで笑わせてもらえたわけだ。」
本人(クナ)も自ら語っているように、こんなものは単なるギャグにすぎない。
しかし、中にはこれを名演と信じている向きもあることだろう。それは単なる価値観(センス)の相違であり、決して勘違いしているわけではない。
そして、それはどちらがいい悪いという問題でもない。
8月27日(月)
話題の「ハルサイ」を聴く
話題のハルサイです。なぜまた改めて「こんなもの」を聴くに至ったか、その紆余曲折を説明するだけで一晩かかってしまいます。
でも、それも一興かもしれませんので、そうしてみましょうか。気持ち悪いかもしれませんが、私の心の動きを一緒にたどっていただくことにしましょう。
まず、何故「ハルサイ」を「こんなもの」と呼ぶのか。
私は音楽が「何か(具体的なもの)を表現している」、ということが鬱陶しくて仕方がないんです。そういう音楽は何か妙に説明的で押し付けがましく、「もういいよ、わかったわかった」という気分になってしまって、受け付けないのです。
それに、ひとつ間違えばそれこそ噴飯ものになりかねません。
「ほ〜うら〜、これが○○を表わしているんだぞ〜・・・」
「ハァ・・・?」
そういう理由で、いわゆる表題付きの管弦楽曲というものをほとんど聴かないんです。
「ハルサイ」も、もちろん例外ではありません。この曲で「公式」に持っているのはC・デイヴィス盤だけです。(「公式」の意味は後で明らかにします。忘れなければ・・・。)
これとて、ハルサイが聴きたくて買ったわけではありません。C・デイヴィスのレコードを揃えていく中で、「まあ、知らない曲じゃないから、いちおう買っておきましょうか・・・」といった程度の動機です。
私はC・デイヴィス(あるいは他の気に入った演奏家)なら、なんでもかんでも揃えようという趣味はありません。「聴かない曲は、結局聴かない」ということがよく分かったからである。単なる棚のこやしにしかならないものに投資するのは全くばかげている。どうせC・デイヴィスのレコードが全て集められるわけでなし。(しかし、世の中には本当にそういう方が見えることには、全く驚かされる。プレヴィンやスベタラーノフのことである。)
さて最近、名だたるサイトではゲルギエフのハルサイの話題で持ち切りである。レコ芸で「特選盤」になったもんだから、みんな我先にと、こぞって大絶賛の嵐である。この良さが分からない奴は、ろくでなしか人でなしであるかのごとくである。
でもよかったですね〜。推薦しているのがU野さんじゃなくて。もしU野さんだったら皆さんいったいどうされるのでしょう。一転、「こんな野蛮な演奏は、既に時代遅れといえよう・・・。」なーんちゃてね・・・。
(この複雑なレトリックが理解できるだろうか?解説が必要だろうか?いちおう一言だけ、「結局レコ芸でいいっていうもんがいいんだろ。ラトルのベト#5も然り。」)
でも皆さん油断しちゃーいけません。
U野さんとてだまってはおられません。タワレコのmuseeです。「ブラヴィッシモ!!」ときたもんですよ。ちなみに「ライナーノーツより」とありますので、買って開けて見た人はさぞ仰天されたことであろう。それがいやな人は輸入盤が出るまで待つか・・・。なんとも倒錯した世界だこと。
それにしても「ブラヴィッシモ」とは。私ゃ、横文字にはからきし弱いんですが、これってこういう活用するんですか?
ブラヴォー、メゾブラヴォー、モアブラヴォー、モストブラヴォー、ブラヴォーer、ブラヴォーest・・・? さっぱり訳わかりませんわ。
いずれにしても、ゲルギーのハルサイなんて想像できるし、(ある意味では、想像できてしまうなんざぁ、なんにもおもしろみがない。たとえそれが超ド級の迫力であろう・・・としても。)どうせ買ってきても1〜2回聴けばお蔵入りだし。(この問題は実は非常に奥が深いのだが。)
ハルサイといえばたしかC・デイヴィスのがあったから、それ聴いて、その後、以前買ったゲルギーのチャイ#5聴いて、想像しとこう・・・なんて、カバヤキの匂いでごはん食べるようなことを目論んだのでございます。
8月26日(日)
「音現」なら許されるノカー
ほとんど話題になりませんが、これまたオタッキーな雑誌に「音楽現○」というのがあります。私の住むところの田舎の本屋さんでは、だいたい5件に1件くらいしか置いてないようです。
この雑誌は、私にとってもあまり価値のあるものではありません。購入するのはだいたい年に1回くらいです。新しい発見をさせてくれることが少ないからです。
しかしよく読んでみるとかなり過激なことが書かれています。洋泉社・青弓社もマッツァオというところです。
レコ芸が穏健中立路線、対して洋泉社群が過激右翼?路線でいく中、どちらにしてもこてんぱんに批判を受けるのに、この雑誌だけはあまりそういうことを聞きません。
これはとても不思議なことです。何か、ネット上にはバイアスがかかっているのではないのでしょうか。
それとも「音現」なんて、たたくほどの価値もない、目クソ鼻クソのようなものなのでしょうか。
例えば最近何年かぶりに買ったこの雑誌。
01年7月号ですが、「21世紀初のシンフォニー名曲名盤30選」というミーハー極まりない企画があります。私などミーハーの極致ですから、こんな企画に飛びつかないはずはありません。もちろん評論家を評論するためです。
繰り返しますが、レコ芸がまさに時を同じくして「21世紀の名曲名盤300」をやればたちどころにたたかれるのに、音現では聞かない。いったいどうしたことでしょう。
具体的にはどのくらい過激なんでしょうか。
以下引用です。
「この破天荒でトチ狂った不良中年的作品(ベルリオーズの幻想交響曲のこと)に比べれば、後のブルックナーやマーラーらの作品など、やたら物々しくけたたましいだけで、特にどうってことない。」
「ブルックナーはどれも長大すぎて疲れる。マーラーは憂鬱で気が滅入るから敬遠した。そればかりでなく、ブルックナー、マーラーともにゆくゆくは現在ほどには聴かれなくなるだろう。」
「カラヤンの時同様、シノーポリが死んだと聞いても何も感じなかった。贔屓の向きには恐縮だが、この二人の存在には以前から無関心だった。」
引用も大変なので、これでもほんの一部ですが、どうです、この過激さ。
カラヤンやシノーポリのブルックナーやマーラーを聴いている向きなど救いようが無い、と言っているのも同然じゃないですか。(飛躍やこじつけがすぎるか?)
誤字脱字だって、音友社の比じゃありません。
これで何のクレームもつかず、暴動もテロも一揆も起きないなんて、どう考えてもおかしいですよ。
音現だけにはえこ贔屓し、音友社や洋泉社群に対して、何某かの言われなき偏見や差別あるいは、うらみつらみがあるとしか思えません。
8月25日(土)
○○オタクはいってよし
オーディオ嫌いな人も多いようです。
しかしその人たちは、オーディオにおける「本当のいい音」を聴いたことがないのであろう。可哀相な人たちである。
本当のいい音とは、「まるで、そこで演奏しているとしか思えない」音である。これは、残念ながら聴いたことがある人にしかわからない。言葉でいくら説明してもわからないことである。音楽が文学で語れないように。
それはコンサートホールで聴こえる音とは決して同じではない。原音再生とは、「録音された音」に忠実に再生することである。生の音と同じ音が機械から出るわけがないのだ。しかしながらそれは、限りなくそれに近いことに間違いはない。
別のたとえで言うと、ピアノソロのレコードをかけて、お隣の奥様から「おじょうずなピアノですわねぇ、どなたが弾いていらっしゃいますこと?オホホホホ…ザーマス」と言われたらそれはいい音である。
逆に、くそおやじから「テレビ(ラジオ)の音がうるせーぞ、この野郎!ゴルァ」といわれたら、残念ながらそれは良くない音である。
しかし、私は音(質)の善し悪しには無頓着な人たちも、(あるいはおおぜい)いることに最近気付いた。自分で身をもって体験したからである。
それは画像(TV)のデジタル放送についてのことだ。
「デジタル放送になって画質が格段に向上した」「プラズマディスプレイでなければ・・・」「大画面がどうのこうの・・・」「このスクリーンは・・・まるでフィルム映写のような・・・」
ある雑誌でこのような内容の記事を読んだ。しかし私の反応は冷たいものである。「ふーん、それで?」
私はそういうものに全く食指が動かない。
そのとき私は忽然と悟ったのである。「あっ、そうか。音(質)に興味のない人たちというのはこういう感覚なのか!」 音(質)なんてどうでもいいんだ。私が画(質)なんてどうでもいいと感じるように。
だが、そういう人たちが他人のオーディオに向かって「オーディオ・オタクは・・・」とか、「音しか聴いていない」など、勝手な誹謗中傷するのは全くの見当違いである。
例えば、自分が「移動」という目的を、軽自動車で達成しているからといって、隣のロールスロイスにいちゃもんをつけるのは、ビンボー人のねたみやひがみにすぎない。
あるいは、昼飯にカップラーメンをすすっている人が、フルコースを食べてきた人にいやみを言うのも同じこと。
私はホームシアターが趣味の人に対して、決して何も言わない。「画像オタク」だとか、「映画の缶詰」だとか。
だから音なんてどうでもいいと言う人には、10万円もするミニコンなんか勿体ない。せいぜいウォークマンかラジカセで十分だ。その程度の「オモチャの音」を聴いていればいいのだ。
「オモチャの音」とは、オモチャのような装置から出る音という意味ではない。出た音がオモチャであるということだ。◇
ところで、ときおりCDの音がいいとか悪いとかいう向きもあります。「国内盤はダメだが輸入盤のほうがいい」とか、「今度のリマスターはどうのこうの・・・」、「WレーベルがD社から発売されたら音がよくなって・・・」(それで、どうしたというのだ、音楽まで変わってしまったのか?)
オーディオで一生懸命いい音を追求すると「オタク」と、さもバカにするのに、録音や細工(リマスター)で音がよくなると歓迎する。この矛盾はいったい何なのだ。(もちろん、それら全てが同一人物による発言というわけではないが。)
オーディオで音質が向上すれば、今ある手持ちのレコードが一律音質向上して計り知れない恩恵が受けられるというのに。しかもその数たるや数千枚?
私に言わせりゃ、1枚や2枚の音がよくなったところでどうしようもないのだ。
しかし録音オタクを非難する声は不思議と聞かない。なぜかその場合、矛先はレーベルに向けられる。「録音した奴が悪い、リマスターした奴が悪い」というわけだ。
私は録音やリマスターに対してあまり文句を言ったことがない。どんなレコードでも素晴らしい音質で録音されていて、それなりの装置で再生すれば感動的な音楽が聴けるからだ。
(但し、エフェクトを加えたものだけはノーサンキューである。そしてヘッドフォンで聴くとそういうことやノイズがよく分かるという向きもある。普通の再生装置−スピーカー−がよほどクズ(安原顯の言い方)なのであろう。それなら常時ヘッドフォンで聴けばよいのに。)
録音やリマスターなんかにこだわらなくても、いい音楽は聴けます。再発売されるとわざわざ買いなおす人を「録音オタク」あるいは「CDマニア」という。
こんな○○オタクは・・・。
8月24日(金)
子供は入場お断り
「子供をコンサートに入れてもいいのではないか」と言う人がいます。
なにをバカなことをほざいているのでしょうか。
この場合の子供とはいったいどういう定義なのでしょうか。たいがいどのコンサートでも「未就学児の入場はお断り」とありますから、就学児なら大手を振って入れるわけで、この人は未就学児でも会場に入れろというのでしょうか。
私は、子供が仮に未就学児であろうと、コンサート会場に入る事には別に反対ではありません。きちんと音楽を聴く姿勢ができていればいいのです。
しかし往々にして問題なのはその子供に連れられてやってくる「年長な子供」のほうなんです。生物学上では「親」と呼ばれる連中です。
この大きなガキが、本当のガキに音楽を聴く姿勢ができていなくても何もしない。周りの迷惑を顧みるほどのモラルがないことが問題なのである。
こういう子供こそ入場を制限されるべきなのである。
先の意見を言う人は、「多少騒ごうが、ごそごそしようが・・・」などととんでもないことをのたまわれます。
音楽で一番大切なのは、消え入るようなピアニッシモなんです。
バカみたいなドンちゃん騒ぎのようなところなんてどうでもいいんです。(中にはそういうところだけが好きな人もいて、勘違いして爆演だの情熱的だのと喜んでいる。)
そういう肝腎なところで雰囲気を壊す輩は子供だろうと、年齢だけが大人であろうと断固排除すべきなのです。
これは、特定の誰かの意見に対して反論しているわけではありません。一般的にそう言う人や、考える人もいるであろう、あるいはいるかもしれない、という前提で私が勝手に想定した意見に過ぎない。
「ああ、隔週刊の放送関係の雑誌の投書欄の・・・」と勝手に憶測されるのは自由だが、それは単なる偶然の一致にすぎない。
私はこういう意見や考えを見聞きすると腹が立ってしかたがない。
だからこの場をお借りして、高い席からではございますが、一言申し上げておる次第なのでございます。
これは、「気に入らないなら読まなきゃいいじゃん」というのとは訳が違います。
他人が○ザワや○サヒナや○バヤシなどの、くだらない「レコード」を聴く分には、私にとって何の問題も関係もありません。それこそカラスの勝手です。「どーぞ、ご自由に」(敢えて「音楽」とか「演奏」とは言わない。)
しかし、私が楽しみに待って、期待して行ったコンサートにガキがまぎれ込んできたら、これは大きな不利益を被る危険性があります。
ご多分にもれず、そんな経験に枚挙の暇はありません。鼻の悪いやつ、頭の悪いやつ・・・。ちなみに最近では、(物理的にではなく)頭脳になんらかの欠陥を持った人間も「障害者」として扱われることが多いようです。障害者用駐車場に車を呆痴する、身体的非障害者です。
ですからこういう「とんでもない暴論」を見過ごす訳にはいかないのです。
当然、私のほうがそれに負けないくらい暴論である。しかし、どちらが「より正論」であるかは皆さんに判断していただきましょう。