駄聴日記(2002年第1部)

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3月23日(土)

マーラー4番を聴く(8)

マーラー:交響曲第4番

B・ボニー
R・シャイー/R・コンセルトヘボウo(DECCA)

J・バンゼ
P・ブーレーズ/クリーブランドo(DG)


 マラ4シリーズも、とうとう最終回になってしまいました。
 この場合の「とうとう」とは、先にも申しましたように、こんなに長くやるつもりはなかったんですが、勢いで手持ちのこの曲をまとめて全部やることになってしまった、ということです。
 これで、もう一生???この曲を取り挙げることはないでしょう。(聴かないという意味ではない。)
 それは、これ以上別の演奏を(レコードで)聴く意義を持たないからです。この先よほど驚くような録音が出てこない限り、まず買うつもりはありません。予想できるのは、ギーレンぐらい・・・でしょうか。(来月あたりあっさり出たりして。)
 それ以外にはちょっと思いつかないですねぇ。せいぜいラトルがあと10年位して、ようやくそこそこまあまあ(くどい!)円熟してきたところで、BPOかWPOとでも録音したら・・・というところでしょうか。
 
 さて棚卸しの結果、手持ちの同曲は9枚であると判明しました。5〜6枚ぐらいなんじゃ・・・と思っていましたが、意外にたくさんありました。このくらいあれば一言言わせていただいてもいいでしょう。何か言うにはやはり「n=10」。これが基準です。

 この2枚は、すでに別のところに挙げていますので、まとめて簡単に。
 
 シャイーです。いろいろ聴いて、これを聴くと、とっても安心できます。何も考えずに音(楽)に浸っていられるからです。マーラーの苦悩も諦観も諧謔も関係ありません。ただただ「いい音楽だったなぁ」しみじみじんわり味わえます。現代オケのいいところを優秀な録音で堪能できます。珍しく?木管が良いところもポイント。

 ブーレーズですが、改めて聴いて、驚きました。
 4楽章の主役が完全にソプラノ(バンゼですよ、バンゼ)にあるからです。ここでのブーレーズは伴奏に徹しているかのようです。まるで歌謡曲を聴いているかのような錯覚を覚えました。
 これは録音のせいなのか。独唱が良すぎるのか。
 あるいはこれがブーレーズの真の狙いなのか。もしそうだとしたら、これはあっと驚く逆転の発想である。ブーレーズやはり恐るべし?
 あるいはただの勘違いなのか?(ブーちゃんのか、ワタシのか、は判然としないが。)だとしたら、何ら恐るるに足らず・・・。


3月22日(金)

マーラー4番を聴く(7)

マーラー:交響曲第4番
ヘレン・クウォン
エードリアン・リーパー指揮/グランカナリアpo(ARTE NOVA)

 こんなのもありました。
 おそらく大方の皆さんからは二流、あるいは三流と目されていることでしょう。

 しかし、これで何が不満なのであろうか。どこが不足していると言うのでしょうか。
 同じようにスコアを読み、同じように指揮し、同じように楽器を弾いている。マイナーレーベル故、余分な手間をかけずに最低限のプロセスで(リ)マスタリングしているだろうから、録音も自然である。しかも廉価盤。レギュラーの1/3である。
 へたなレギュラー盤を買うくらいなら、このレーベルの他のレコードを3枚買ったほうが、よほど満足度が高いであろう・・・。

 と、がんばってみたいのですが、他の演奏と比べてしまうとどうしても力不足な面は否めません。どこがどう違うのかと聞かれても、具体的に指摘するのは難しいんですが。
 でも、こういうライヴを聴かせてもらえたら、圧倒的な興奮はしないまでも、しみじみといい演奏だったな、と思えるんではないでしょうか。
 耳の肥えた(あるいは耳年増の)諸兄には、胸を張ってお勧めできるものではありませんが、とりあえずマーラー(の4番)を知りたいと言う向きには、クセがないだけかえってよろしいのではないかと。


3月21日(木)

マーラー4番を聴く(6)

マーラー:交響曲第4番
Heathe Harper
J・バルビローリ/BBCso(BBC)

 ホゥ、これはまた珍しいですな。バルビローリ・・・ですか。
 
 そうなんですよ、旦那。
 いや実はね、このマラ4シリーズ、本当は3〜4回で終わる予定だったんですよ。ところが、あんまり見ない棚の奥のほう覗いてみましたらね、あるんですよこれが。そういやバルビなんて、たしか5番9番あたりはあったよな・・・おや、いつの間にこんなものが、そんじゃこの際まとめて面倒見ちゃいましょうか、てなわけで。
 
 で、どうだったかと言いますと、これが案外フツーなんですね。
 バルビのマーラーなんて言ったらあんた、「おぉーマーラー、ぎゃーマーラー、あひゃーマーラー・・・」ってな具合で、もうどろどろぐちゃぐちゃべとべとかと思ったら・・・。
 「・・・」

 ま、なんとかワタシでも聴いていられる程度であったと。
 ところがこのオッサン、スタジオ録音では気を付けているから目立たないものの、ライヴときたらいけません。もう、唸りっぱなし。これがまた、ヘタクソで。声楽家だったら三流じゃ済まんですよ。ホント。
 それにBBCときてますから、録音も妙にリアルで。そこで唸ってるオッサンのイリュージョンが。
 まさか、しゃがんでいるんではないかと・・・。
 ギェー!!!


3月20日(水)

マーラー4番を聴く(5)

マーラー:交響曲第4番

アマンダ・ルークロフト
S・ラトル指揮/バーミンガム市so
(EMI)

 へっへっへっー、珍しいでしょう。ラトルだなんて。
 
 私が最初にラトルを聴いたのは、やはりバーミンガムとの来日で1番「巨人」をやった時です。何年前のことでしょう。
 といってもライヴではなく、TV放送されたものです。多分モノラルじゃなかったかと思います。今でもあると思いますが、今更取り出してみる気はありません。
 その当時はまだ「巨人」でも聴いていられたので録画もしたんですが、「へー、すげえ奴が出てきたな。」と感じました。しかしながらそれは「感心」以上のものではありません。「すげえ」といっても「変にエキセントリックに」、という意味合いのほうが強いです。「圧倒された。感動した。」と言う類のものではありません。
 とにかく印象に残っているのは、趣味の悪いカマーバンド。爬虫類柄だったり(今でもだ)、真っ赤だったり。ラトルなんて、そういう変な奴でした。とにかく。

 私のラトル観?というと、「何をやってもマーラーくさくなる」という印象だったんですが、今改めてマーラーを聴いてみると、そうではなく、やっぱり「ラトルくさい」んですね。これはマーラーというよりラトルの灰汁(あく)ではないでしょうか。(アルゲリッチが何をやってもアルゲリッチ節になってしまうのと同じ理屈。)
 でもそれが、かなりマーラーと近いところにあるから、ラトルはマーラーが得意であると。
 
 いずれにしろ、こういう「くさい」マーラーはいけません。それがマーラーの本質だとすれば尚更です。やっぱりマーラーなんてのは、そもそも好きになれる音楽家ではないと、いうことになります。
 あるいは、それは私とマーラーに何か近いものがあるからかもしれません。同類のものを嫌うように。この文章からして十分マーラー的だと? なるほど、あなたは鋭い!


3月19日(火)

マーラー4番を聴く(4)

マーラー:交響曲第4番
L・ポップ
K・テンシュテット/ロンドンpo(EMI)

 一説によりますと、テンシュテットはマーラー指揮者としても名高いようでございまして。
 私はマーラー自体もあまり聴かないですが、2番、5番あたりでは確かに「すげえな・・・。」と思わせるところがあります。
 
 しかしながら、この4番はちょっとピンときません。おそらくそうであろう神経質な性格が、演奏にも出てしまっているように思います。この曲は、あまりごつごつせずに、柔らかい雰囲気を出したほうがそれらしくなるのではないかと感じています。
 終楽章でもソプラノがそういう空気に染まってしまっているのか、こわごわ歌っているように聴こえます。
 私としてはもう少しゆったり浸らせてくれる演奏が好みなんですけど。

 さて、このレコード、裏を返してドキッとしました。「歌唱:ドイツ語」と書いてあるんです。
 「・・・。」
 ドイツ語で歌っているということが特別なことなんだろうか。今までこの曲が何語で歌われているかなんてことに、一瞬たりとも疑問を持ったことはなかった。当然「原語」で歌われるべきものと思い込んでいた。とはいえ、「原語」が何かということにさえ、とりたてて興味はない。
 他の演奏と比べても違いは感じられないので、多分ドイツ語が原語であり、聴いた範囲では全部が原語で歌っているようである。
 
 全ての音楽作品は、言語の発音を根底としているわけだし、とりわけ声楽入りの音楽は、言語の音響効果をも加味して作曲されているわけだから、当然原語で歌われるべきものである。
 私は原語以外で歌われた音楽作品はすべて邪道とみなしている。(作曲者が許可した場合を除く。)
 
音楽には厳然として超えられない言語(民族)の壁が存在している。
 これは意見ではなく真実である。


3月17日(日)

再放送記念・特別版

南極物語/ヴァンゲリス

 あれから20年ですか。
 十津川警部も若かったです。巡査長ぐらいだったでしょうか。夏目雅子も岸田森も生きて?ました。
 
 この映画は多分何度も再放送されていると思います。TVで見るのも私は3回目くらいでしょうか。
 しかし、さすがに今見直すと作りの古さというか、いい加減さが目立ちました。ストーリーはともかくとして、総合的な仕上がりとしてはB級かいなと思えてしまいます。
 その中でもこのサウンドトラックはひときわ素晴らしいものです。私の心の中ではかなり上位に残る名曲です。これと、「炎のランナー」。私も認める「天才ヴァンゲリス」です。
 
 この曲には思い出があります。15年位前でしょうか、当時所用で北米に滞在していた友人にこのレコードをプレゼントしたことがあります。その友人は犬が好きで、朝の散歩に犬を連れて雪景色の中を歩くのに、この曲はBGMとしてピッタリだ、と喜んでもらえました。
 私は犬も飼ってないし、雪の中を散歩することもほとんどなく、ただ単にいい曲だと思ったからそうしただけなのですが、犬と雪、この情景を見事に(心理)描写した音楽なのかもしれないなぁ、と感心しました。

 でも、犬たちにあれだけの演技をさせるというのも大変だったんでしょうねぇ・・・。


3月16日(土)

マーラー4番を聴く(2)

マーラー:交響曲第4番
H・ケーゲル指揮/ライピチヒRSO(DS/BC)

 周知のように、ドイツ・シャルプラッテン/ベルリン・クラシックスレーベルにはケーゲルの有名な第4番トリオがある。シベリウス、ベルリオーズそしてこのマーラーである。
 偶然とはいえ、この3枚の第4交響曲はそれぞれの代表盤としても名高いものである・・・。
 ・・・。
 ・・。
 ・。
 。
 と言われて、うっかり聞き逃してはいけない。「いつからベルリオーズの幻想が第4交響曲になったのよ?」
 いや、とりあえず便宜上そう定義してみただけで・・・。
 勝手に決めちゃいかん。決めちゃ。

 いずれにしろ、これら3曲は特異な光を放っている。
 しかしこのマーラーに関しては、惜しい部分がある。終楽章である。独唱をカサピエトラが歌っている。ケーゲル夫人である。
 私はこの独唱が気に入らない。なんとなくメリハリがない。人によっては癒し系だという向きもあるが、私にはそうは聴こえない。悪く言えばだらしないようにも聴こえる。あるいは手抜き、いいかげん。
 
 おそらくさまざまなしがらみがあって、カサピエトラがこの録音に起用されたことと思う。果たしてこれはケーゲルの狙い(真意)であったのか、それとも妥協の産物であったのだろうか。
 それを知る由は・・・。


3月15日(金)

マーラー4番を聴く(1)

マーラー:交響曲第4番

B・ボニー(S)
A・プレヴィン指揮/LSO
(ELS)

 このレコードは現在話題沸騰?のLSOライヴシリーズとして、非公式ではありましたが、正式なリリースが予告されていたものでした。
 しかしながら、一向にその気配がありません。そうこうするうち、文字通り非公式にリリースされてしまいました。
 
 このレコードが出たことを知った時も、「もうじき正規盤が出ることだし」と、しばらく様子眺めしていたのですが、ちょっと怪しい雰囲気になってきましたので、手遅れにならないうちに入手しておくことにしました。
 
 そして、これを聴いた時、「うーむ、これは正規盤では出ないかもしれないな」と、ある部分では納得できました。
 最初はぎょっとしました。「えっ、プレヴィンて、こんなマーラーやるの?」 すごく無骨なんです。あるいはぎくしゃくしているんです。
 そして「LSOのマーラー」、これもなんだかピンときません。しっくりきません。もしかしたらLSOもとまどっているのではないか。それが演奏に出てしまっているのでは。
 これは「凄い」のか、あるいは「と演」なのか、果たしてどっちなのか。今もって判然としません。とっても不思議なマーラーなんです。

 このレコードで改めて感じたことは、今のLSOてのは弦が凄いということです。かつて
C・デイヴィスとのドヴォルザーク8番で驚異的な弦楽を聴かせてくれましたが、ここでもそれが発揮されています。3楽章がその白眉です。
 現在、指揮者の統率力およびオケメンの協調性の低下により、特に人数の多い弦楽のアンサンブルの乱れが著しいですが、これは水準を保っている珍しい例といえましょう。


3月8日(金)

シューマンを聴く(3)

シューマン:ピアノ協奏曲
イヴォンヌ・ルフビュール/P・パレー/O.R.T.F.
(SOLSTICE)


 ルフビュール・・・本当は出したくなかった。触れたくなかった。そっとしておいてやりたかった。
 だが行き掛かり上、止むを得ずこうなってしまった。
 
 この演奏は残念ながら私にとっては外れである。クセが強すぎます。デフォルメというか、テンポの伸縮というか、それに必然性があり、造形が納得できるものなら許せます。でも、もったいぶったようなタメは私にはノーサンキューです。くどくて鼻についていけません。
 音を外し、タイミングを外し、(テンポを外し)。2.5拍子揃っています。ひとつ間違えば「と演」にもなりかねない演奏です。

 しかしながら、このレコードは非常に録音が優秀です。多分’70年の録音だと思われるのでアナログ録音のはずですが、(ADDとかDDDの記載も見当たらない。)ぎょっとするような生々しい音が出てきます。この点では聴く価値があるかもしれません。

 だが果たして、私がひどいと言ったからといって、それを真に受ける向きがどのくらいあろうか。
 世の中には、私など足元にも及ばない程のひねくれ者も大勢いて、U野センセの逆ばかりいくという、まことに滑稽極まりない御仁もおられるようで。(結局U野センセに心酔しているのと変わりない。)
 「へー、おまえさんが言うひどいとは、いったいなんぼのもんじゃい。一丁聴いてやろうじゃねーの。」
 ということで、いずれにしろ売上に貢献できるわけで、目的は達せられるのである。(えっ? そんな目的があったんですか!?)

 とまれ、シューマンを聴くならまず仲道からである。コラールやルフビュールぐらいの小穴狙いではまだまだ。仲道あたりの大穴を当てなければ。(仲道って、やっぱりソウだったんだろうか・・・。)
 尚、私は少年、青年、壮年、老年、往年を問わず、男流ピアニストをほとんど聴かないことは、周知?の通りである。

 また、この曲については、
P・マークのページに小特集がありますので、ご覧あれ。  


3月7日(木)

いつの間にか、シューマンを聴く(2)へ

シューマン:ピアノ協奏曲
カトリーヌ・コラール
ミカエル・タバシェニク指揮/モンテカルロ・フィルハーモニーO
(LYRINX/LYR CD 099)


 あれっ、ラフマニノフからシューマンにすり替わっています。昨日の夜中に、こそーり替わったようです。
 
 さてLYRINX。このレーベルも渋い?隠れ名演奏家をリリースしています。
 カトリーヌ・コラール。このピアニストはシューマンが得意であったようです。残された録音にもシューマンが多いようです。
 ただ気をつけなくてはいけないのは、本人が「○○が好きで得意だ」、と思って(言って)いるだけで、客観的にそれが優れた演奏かどうかは別問題だということです。
 例えば、たいていの女流ヴァイオリニストは、メンデルスゾーンやチャイコフスキーの協奏曲を得意にしています。要するに女流のメンチャイは全て名演であると、ワッハッハ・・・。
 
 何を言っているんでしょう、こんな時に。コラールですよ、コラール。カトリーヌさんですよ。
 この演奏は惜しいです。もう少しなんですけど、ちょっと行き過ぎてしまっています。(私の基準からすれば。いえ、感性からすれば。)
 熱いのはわかります、燃えているのは。しかし燃えすぎです。も少し冷静にやってほしかった。
 でも「うまく付いて行ければ」泣かせてくれるでしょう。
 コラールの他の演奏は聴いたことがないんですが、いずれもかなり燃焼度は高かったようです。
 
 1947年生まれ、しかし1993年には早くも世を去っている。未だ現役であっても全くおかしくはない、いやそれが当然であったのに。これは是非とも生で聴きたかったピアニストです。
 ちなみにこの録音は’90年。まだ新譜といってもいいくらいです。

 早世した音楽家に対してはよく言われます。「あの○○がまだ生きていれば、現在の斯界の勢力地図も大きく変わっていただろうに。」・・・バカな! 無意味な議論です。
 でも、私も一句ひねってみましょう。
 「あぁ、コラールがまだ生きていれば、現在のピアノ界の勢力地図も大きく変わっていただろうに。」
 「あぁ、ケルテスがまだ生きていれば、現在の指揮界の勢力地図も大きく変わっていただろうに。」

 「あぁ、朝日名やヴァソトがまだ生きていれば、現在の指揮界の勢力地図も大きく変わっていただろうに。」・・・ウタマロです。


3月6日(水)

日本の迷女流を聴く(4)〜副題:シューマンを聴く(1)

シューマン:ピアノ協奏曲
仲道郁代/C・P・フロール/フィルハーモニア管弦楽団(BMG)


 ラフマニノフがないので、代わりにシューマンで。(ラフマニノフが出ているのかどうかも不詳。多分無いと思うが。)
 
 これまた意外に思われるだろうが、これはいい。大変いい。すごくいい。 
 別のところに以前から書いていますが、日曜日の昼下がりのマチネで、外がまだ明るいのに、暗い会場の席に座り、おもむろに(という出だしでないが)この演奏が始まったら、もう何も言う事はありません。あとはただ音楽に身を任せていれば、ミューズがお迎えに来て、どこか遠いところへ連れて行ってくれるに違いありません。
 録音を含めた「雰囲気」が抜群にいいんです。いかにもそういうシチュエーションでの演奏であるかのような幻覚を見ることができます。
 「録音芸術」を聴こうというのだから、こういうことは本来重要であると思います。

 ここでの仲道はあわてず騒がず、じっくり弾いています。落ちついています。徒に興奮?することがありません。この曲ではそれが大事だと思います。ロマンティックな曲であるだけに。
 特にフィナーレ。ここで走り出したらもういけません。完全な「競争曲」になってしまいます。ここでグッと腰をためられるか。これが私のこの曲を聴くポイントです。
 その点でもこの演奏は申し分ありません。
 
 これは、実は隠れた名盤として、密かに愛好されている演奏です。(ホンマかいな?)
 さあ、もう一度騙されてみる勇気が君にはあるか。


3月5日(火)

日本の迷女流を聴く(3)

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
中村紘子/スベトラーノフ指揮/ロシア国立交響楽団(SC)


 「まったぁー、お兄さ〜ん、こんなもの持ち出したりしてー。ウケ狙おうと思ってんでしょう・・・」

 実はその通りである・・・。
 なーんてことはない、断じてない。私も最初はそのつもりであった。軽い、ほんのジョークのつもりであった。

 しかし、である。聴いてびっくり玉手箱とはこのことである。このカリー屋文豪ピアニストの演奏がこんなに凄いとは。実演ではしばしばトホホな思いをさせていただいているが。(聴きたいオケで協演しているとなれば、付き合わんことには・・・。)

 実はこれも秘密はバックにある。伴奏が超ド級なのである。みよこのメンバー。ロシアンパワー炸裂である。チェルノブイリもかくやと思わせる臨界、そしてメルトダウン。これぞチャイナ・シンドローム。これぞ後天性免疫不全シンドローム。(何のこっちゃ・・・。)
 これはラフマニノフが、思いっきりマーラー化した一方の極致ではないかと。
 
 それに輪を掛けて凄いのが録音の優秀さである。
 90年の大阪、ザ・シンフォニーホールでの録音なのである。そして、カップリングのチャイコのほうは、サントリー・ホール。ノン・ライヴ(スタジオ、とは言わんだろうから。)、しかも5日違い。
 ほぅ、バブル期にはこんなことも許されたんだなあ、変なところに感心してしまいます。
 Producer:Norio ○hga とあったのはご愛嬌としても。(思わず噴き出してしまうのは何故だ。ところでウンともスンとも聞かんが・・・Asahina→Wand→○hga・・・。)
 
 考えてみれば、私はザ・シンフォニーホールの「録音」というのは公式には聴いたことがなく、なるほどこれは凄い音響だと感心させられます。(非公式では、テンシュテットのある録音がそうではないかと言われている。それも凄い録音だ。いったい誰がどうやって録音したのかと不思議なくらいだ。放送録音か何かのかなり上流からのリークではないかとも思われる。)

 これは聴いてみなけりゃわからない。これを聴かずしてラフマニノフを語るなかれ。
 どうです?旦那。ひとつだまされてみては。1800円と、ちょっとお買い得になってますぜ・・・ヒッヒッヒッ。


3月4日(月)

日本の迷女流を聴く(2)

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
小川典子/O・A・ヒューズ/マルメso(BIS)


 私はこの顔が嫌いである。もうそれだけでダメである。さよなら。

 と、片付けたいところだ、本当は。
 ブレンデルと同じで、こんなジャケットを載せるだにおぞましい。
 このレコードを買う時もよっぽど迷った。「いやだなぁ・・・。」
 しかし当時は、話題性のあるものや、少しでも興味のあるものは何でも買ってやろうというポリシーのもと、清濁併せ呑むつもりで、当たり外れ覚悟で買い漁った。買いまくった。そして外れなものはそのままお蔵入り。
 これもそんな1枚である。当時もなんだかピンとこない演奏だったが、今回、もう一度だけ聴いてみようと引張り出してみたわけである。

 「もう一度」といいつつ、実際には3回くらいは聴いている。
 テクは確かにしっかりしているようだ。その点だけは認める。
 しかしながら、一本調子なのである。始めから終わりまで同じような音色、同じような調子(テンポは多少動かしているようだが)。モノトーンというのとは多少ニュアンスが違うが、とにかくおもしろくない。緊張が続かない。飽きてくる。途中でリタイヤしたくなる。
 
 最初は録音のせいかと思った。ピアノの音が控えめである。
 そして、何回か聴くうちに気付いた。実はバックのオケが凄いのである。ピアノが棒読みのように単調に流すのに対し、オケのほうは上に下に、右に左に、前に後ろにと、ピアノにからむようにゆさぶりをかけるのである。変幻自在とはこのことか。
 これでは立場がまるで逆ではないか。オケが控えめに、かつしっかりサポートしてくれれば、ソロのほうはそれに乗って比較的自由に動けるはずなのに。ピアノにその気はない。
 ピアノがおもしろくないから、オケ(指揮者)が気をきかせて、盛り上げてくれたのか。
 
 それにこれは「BIS」である。これがあの優秀録音の「BIS」か?
 少なくともこの録音はあまりよくない。別のピアノ協奏曲(例えばBIS CD-429のベトP協)と比べても明らかである。
 ピアノ凡庸、録音凡庸。従って「録音芸術」としてはB級であると言わざるを得ない。
 かろうじて?指揮者(とオケ)が下支えしている。管弦楽曲としては及第点かもしれない。オーワィン・アーウェル・ヒューズ。敬意を表すると共に、注目しなければならない。

 こういう話(結論)の持っていき方をすると、「論点をすり替えて・・・」などと非難する向きもおありだろう。
 どうぞご自由に。私は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」タイプである。私はこのピアニストに何の魅力も感じない。何の感動も得られなかった。ただその一言が言いたいだけである。

 最近もネットで散見するに、他人の趣味にとやかく言うのが好きな輩が多いものである。(私も多分にその傾向があるが。)
 「余計なお世話」である。何を集めようが勝手だ。カラスだ。
 CDよりケースに傷がつくことを恐れる人だっているんだ。ケースにカバーをするなんて・・・。屋上屋というやつだ。傘にビニールを掛けるようなもんだ。
 
 そういう(とやかくいう)輩の趣味を知りたいとも思わなしに(←変な表現であることは承知)調べてみると、これまたゲテモノとしか言いようのない趣味嗜好をしていることに驚かされる。


3月3日(日)

日本の迷女流を聴く(1)

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
小山実稚恵/A・デイヴィス/BBCso(SC)


 私というのは、割合この曲が好きなようで、あるピアニストに興味を持った時、この曲の録音があれば聴いてみることにしています。
 この曲でなければシューマン、もしあればベートーヴェンと、こういう段取りになりますか。
 チャイコ、グリーグ、その他諸々しかなかったら、まぁどうでもいいですね。もう少し待ちましょうか・・・ということになります。

 最初に、というより、ラフマニノフやシューマンあるいはその他諸々の録音も無いのに、いきなりベートーヴェンからくるバカはまずいないわけで。もしいれば逆に是非とも拝見・拝聴させていただきたく存じます。
 
 「往年の迷女流」シリーズをやっているうちに、棚にこの曲のレコードが何枚か転がっているのにふと気付き、これはシリーズでと、取り上げてみたわけです。
 あまり意識していなかったですが、振り返って見ると、自分はこの曲が好きだったのかなぁ、と気付かされた次第です。
 
 さて「もう一人のみっちゃん」ですが。(「元のみっちゃん」は内田の光っちゃん。)
 この子(というより、実はオバサンなんですが。)は、いわゆるひとつのパッセージが弾けないんですね。いまひとつテクに難があるようです。どうも危なっかしくていけません。安心して聴いていられません。ですから、そこから先の感動につながらないんです。
 この演奏でも、なんとなく、な感じが強く、訴えるものがありません。「聴き流せて」しまいます。後に残るものがありません。
 残念ながら、私にはそれほど魅力が感じられません。


2月20日(水) 

 K・ラヤン追悼
 
 (背景:2002年2月18日頃、K・ラヤンの追悼?特集番組が放送されました。)
 
 井脇という指揮者がいます。
 私はこの人の言動を見聞きするたびに、ますます嫌いになっていきます。何なんでしょう。
 
 しばらく前には「二流」発言がありました。これは又聞きですが、某演奏会で某作曲家の某作品を演奏するに先だってプレトークがあったそうです。
 「これから演奏するこの作品は二流です。」
 私はこれを聞いたとき思いました。「あぁ、この演奏家(指揮者)も二流だな。」
 
 そして、最近某大指揮者の追悼番組?で語っていました。(何でこんな時期に、こんな指揮者の特集を・・・。イヤミか当て付けとしか思えん。私はワ○○もどうでもいいんだが・・・。)
 一言一句詳しくは覚えていませんが、偉大なるシロートという感じがしました。(私がそう感じただけですよ!) そしてこの人は老醜を晒しそうな人だなぁ、とも思いました。いえ、もう晒していると言ってもいいくらいでした。
 要するに、「こういう」人たちというのは、未練がましいのでしょうか。
 それに引き替え、ジュリーニやザンデルリンクの引き際のよさ。私が言うのはもちろんおこがましいですが、「わきまえている」というか「悟っている」というのか。見識です。

 そこらへんをぶらついて見聞きするに、「F・トヴェングラーがK・ラヤンの才能を嫉妬して、妨害云々」というくだりに、過剰に反応する向きが多いようです。
 そんなに大騒ぎすることでしょうか。
 私なんかさらっと聞き流して、そんな場面があったことさえ、「そうだったかなぁ」と記憶も曖昧な有様です。
 この両者に限らず、そんな小汚い話なんてゴロゴロしてるんじゃないですか?(小一時間てか?)
 「知らない」でいるからいいようなものの、そういう類の話が全部公になったら、何もかも厭になって、こんな下らねぇ業界の音楽なんざぁ聴く気もなくなってしまうんぢゃーないでしょうか。
 それにしても、ちょっとナイーブすぎやしやせんかぃ? オボコじゃないんですから。

 これじゃー、自分が気に入ってる演奏がちょっとけなされただけで、もういぢけてしまって自殺したり、あるいは逆ギレ?して抗議しようとする輩が多いのもうなづけますね。
 そんなもんかーるく聞き流して、笑い飛ばしてりゃいいんですよ。
 私に対しても、ですよ。

 モノのついでに触れておきますが、K・ラヤンの映像、ホラー映画まっつぁおの不気味さでしたね。
 何ですか、あの手のオバケは。

 この追悼番組で、一番印象に残ったのは、某ソプラノ歌手が語っていたこれです。
 「楽譜が見える演奏なんて、最ッ低!だと思うんです。」
 私にははっきり「ッ」と「!」が聞こえました。
 素晴らしいご意見でした。是非とも本人にもそうして欲しいものだと思いました。(念の為、私は未だ聴いた事がないですが。)

 マニュアル人間という言葉があります。
 いついかなる時にもマニュアルで決められた通りの行動(言動)しかできない人たちです。これはとても不自由な人たちです。
 私事で恥ずかしい?のですが、最近こういうことがありました。(マ=マニュアル店員)

 マ「お飲み物は、何になさいますか?」
 私「アイス・レモン・ティー」
 マ「アイス・ティーはミルクとレモンがありますが、どちらになさいますか?」
 私「・・・?」(悩んだ。しばらく悩んだ。小十秒悩んだ。もうひとつレモンを入れてもらうべきか否か真剣に悩んだ。)

 皆さんもこういう場面に出くわして、(フルト)面食らったことも一度や二度ではないでしょう。
 「っんなわけねーナ゙ルォ」
 「ったりめーだろ、オ゙ルァ」
 そういう時の反応は、だいたいこの二極に集約されるのではないでしょうか。

 現在ビジネス界はこれに汚染されつくしています。いえ、社会全体がです。何か起こればマニュアルが不備だ、守られていない。すべてマニュアルの責任?にされてしまいます。
 あまり知られていませんが、実は音楽界にもこういう人たちがいます。

 楽譜に書かれた通りにしか演奏できない人たちです。


2月4日(月)

魂のヴァイオリニスト

チャイコフスキー/メンデルスゾーン:Vn協奏曲
前橋汀子
エッシェンバッハ指揮 チューリヒ・トーンハレ管弦楽団


 ガラにも似合わず「魂」なんて表現を使うと、何だか痒くなってきそうですが。
 
 オークレール、ギトリス、ナージャときて、このヴァイオリニストを聴くと、なんと真っ当なんだろう、何と誠実なんだろうと思えてきます。その姿勢に頭が下がってきます。
 しかし決してそれだけではありません。踏み込むところでは踏み込んでいます。燃えるところでは燃えています。このヴァイオリニストも巫女的なところがあると思います。「全てを」かどうかはわかりませんが、かなりの部分を音楽に捧げているものと思われます。
 
 このヴァイオリニストも、違う意味でレコードで聴くもの(人)ではないでしょう。ほとんど絶え間無く演奏活動をしているのでしょうか、頻繁にそのステージに立ち会うことができます。そして、平均はずれがない・・・、というと消極的に聴こえますが、いいときは素晴らしくいいです。
 
 最近では「ヴァイオリン小品集100」というシリーズが完結したようです。私は小品があまり好きではなく、改まって家で聴こうとは思いません。ですから、こういうレコードを積極的に集めるわけではありませんが、私はこの人も応援しています。


2月3日(日)

不良ヴァイオリニスト

メンデルスゾーン:Vn協奏曲
ナージャ・サレルノ=ソネンバーグ
ジェラルド・シュウォルツ指揮 ニューヨーク室内管弦楽団


 さて、オークレール、ギトリス亡き後(おいおい、殺しちゃいかん、殺しちゃ・・・。ところで、オークレールはまだ存命なのだろうか)、ヴァイオリン界で「節」の跡目を継ぐのは誰でしょう?
 
 それはもうこの人しかありません。
 指詰め女である。八九三゛である。任侠の王道を歩む女。これぞ三代目姐。アンネ・ゾフィー=ムターである・・・。いや、ちゃうちゃう、ナージャ・サレルノ=ソネンバーグである。(ナージャは料理中、自分で指先を切り落とし、療養生活を余儀なくされた。確か左手小指であったと思う。)
 
 ナージャの手にかかればすべからくナージャ節になる。メンデルズゾーンやブラームスごとき、ナージャの敵ではない。見事その手におちて骨抜き、腑抜けになり果てています。残念ながらチャイコフスキーは聴いていませんが。(出ているのかどうかも不詳。)チャイコフスキーは元々腑抜け?だから敢えて挑戦しないのか、とも勘ぐってしまう。
 本当のところを言って、これ(メンデルスゾーン)はそれほど面白いとは思えませんし、巷言われるほどヘンテコリンな演奏だとも思えません。

 そもそもナージャを自宅で聴こうなんて間違ってます。ステージでの芸能を見てこそでしょう。スポーツ観戦のノリでどうぞ。これ、ナージャの正しい鑑賞のしかた。
 尚、ここで見られるジャケットのイメージを期待してはいけません。この写真をショートカットにして、宝塚の男役ぐらいのイメージでどうぞ。
 最近鳴りを潜めているようですが、どうしたのでしょう。ますますのご乱心をご期待申し上げます。


2月2日(土)

スペードに迫るヴァイオリニスト

チャイコフスキー:Vn協奏曲/他
イヴリー・ギトリス
ハインリッヒ・ホルライザー指揮 ウィーン交響楽団
VOX '54-'57 Mono
 
 「節」といえば、古今東西このヴァイオリニストをおいて他にはいないでしょう。
 これはギトリス若かりしころの録音です(ジャケット写真もですが)。1922年生まれということですから、当時32〜35才。
 彼は当時からこういうスタイルの音楽をやっていたわけです。たいしたものです。首尾一環しています。若い頃はいいこぶっていて、キャリアを積み、ある程度許されるようなってから好き勝手をやりだしたわけではない。「好き勝手」というのは語弊があります。心の命ずるままに、とでもいいましょうか。自分の信じた音楽を、正直に。
 しかしながら、それが本質を外れているかというとそうではない。単なるこけおどしやはったりではない。これぞ芸能、これぞ舞台人と言えるでしょう。
 実際のところ、こういうタイプの演奏家こそは、家でレコードで聴くものではないでしょう。幸いギトリスは頻繁に来日してくれます。しかしながら年齢的(もう80才!)にも、またソリスト(指揮者ではなく)という特性からも、それほど先が長いとは言い難いでしょう。(ライヴを)聴けるうちにできるだけ聴いておくのが得策ではないかと。
 
 これは2枚組みで、
 CD1:チャイコフスキー、ブルッフ、シベリウス
 CD2:メンデルスゾーン、バルトーク2番、バルトーク、ソロ・ヴァイオリン・ソナタ
 というカップリングです。どうですこのお得な詰め合わせ。
 モノラルながら、音質は再上級。値段は忘れましたが、そんなにお高くはなかったと思います。隠れ名盤です。

 私がギトリスを初めて聴いた時は、やはりチャイコフスキーの協奏曲でした。
 当時、何の予備知識も先入観もなくこのヴァイオリニストを聴いたのですが、ステージに出てくるなり、「なーんか、胡散臭そうな、怪しいおやじ(じいさん)だなー」と思いました。
 しかし演奏が始まってしばらくすると、そんな考えはきれいさっぱりなくなって、その音楽の素晴らしさにただただ圧倒されるだけでした。
 当然?のように、第一楽章の終わりに大拍手が沸き起こりました。拍手をしないではいられない、そういう演奏でした。感動的でした。もちろん私も拍手しました。
 しかしながら、これまた当然のように、中にはいるんです。「こんなところで、拍手なんかしちゃいけないのよ・・・。」わかったような、しかも変な顔をしていました。
 私は可哀相になりました。自分の感情も素直に表現できないのか。あるいは、この人は何も感じなかったのだろうか。
 
 偉大な演奏家ほど、楽章間などの拍手に頓着していない(気にしていない)ように見えます。期せずして?拍手が起きれば「あっ、どうもっ」という顔をして、あるいはニコッと笑って軽く会釈します。どうぞご自由に、と言っているように見えます。
 大した演奏家でないと、いかにもいやそうな表情をしたり、あるいは拍手を制止したり、ひどいのになると拍手を強制したり。
 こういうのには、たいてい二度と行かなくなります。もちろん音楽がなってないからです。


2月1日(金)

ハートに迫るヴァイオリニスト

チャイコフスキー:Vn協奏曲/他
ミシェル・オークレール
ロベルト・ワーグナー指揮 インスブルックSO
Ph '63
 
 チャイコフスキーのVn協奏曲といえば、曲自体の魅力もあってか、はずれな演奏というのも少ないような気がします。
 逆に言えば、決定盤も特定し難い訳で、お好きなヴァイオリニストでどうぞ、とお茶を濁しておけば済むような。
 
 オークレール。この名前が出てくることはあまりないようですが、実は根強い(隠れ)ファンが結構います(ホンマかいな?)。
 昨日のホンダ=ローゼンベルクは、どちらかというと端正なフォルムを形成するようですが、その後でこれを聴くと、オークレールさんやってくれますねえ、と苦笑すら出てきます。
 ピアノ界のアルゲリッチと並ぶヴァイオリン界のオークレール。どちらも独特の「節」が聴かれます。ここが評価の別れるところでしょう。好きな人は思いきり好きだが、嫌いな人はたまらなく嫌い。
 でもステージでこんな娘(どんな?)に、こんな風に弾かれたら、たいていの男性は参ってしまうでしょう。狂おしいんです。フィナーレなど、おいおい、そこまでやるか?とたじろいでしまいます。

 こんな弾き方してたら、長くはもたないよな。早い時期での引退の理由も納得できます。(うろ覚えですが、手・腕の故障で引退。家庭に入るためというのは、故障、引退のためやむを得ずなのでは。)
 太く短く潔く。まことに男らしい舞台人生でした。
 あれっ、違いましたっけ?


1月31日(木)

心に迫るヴァイオリニスト

チャイコフスキー:Vn協奏曲
(ショスタコビッチ)
Latica Honda-Rosenberg(Vn)
Lior Shambadel 指揮/RTVスロヴェニア交響楽団
ARTE NOVA 77066
 
 ラチカ・ホンダ=ローゼンベルクと読むのだろうか。もとより外国語に文盲かつ表記に無頓着な私のこと、テキトーでよろしい。
 
 私は情緒的(気分屋)なところがあり、好奇心一本でおもしろそうなレコードを漁りまくる時期があるかと思うと、突然冷静に現実的になり、無駄な投資が虚しくなり、極端に自重・禁欲する時期もあります。分裂症とも言えるでしょう。
 
 このソリストに対してもそうです。実はかなり前から目を付けていました。ARTE NOVAでは、ミリアム・コンツェンもそうです。しかし、このところミリアムの方は大々的に宣伝されるようになってしまいました。今更私が大騒ぎすることもないでしょう。
 しかしこちらは違います。まだマイナーの牙城?を守っています。
 聴いてみたい気もするが、(やっぱり)あまりにもB級だったらがっかりだし、なかなか踏ん切りがつかないでいたんです。ところが、偶然店頭で顔出しになっているのに遭遇してしまい、うーん、これも何かの縁、値段も安いことだし(600円弱)。遂にめでたく?購入となったわけです。
 (うーむ、今考えると、その店の誰かはこのソリスト・演奏に注目し、勧めていたということか?慧眼なのか、あるいは偶然なのか?)

 そもそも、何気にこのソリストに注目したか。美人アイドル系ではないからである。(ジャケットではうまく撮っていますが。)
 この世界、ヴァイオリン一丁でやっていこうと思ったら並大抵のことではないでしょう。世界的に「+容姿」という要素が求められています。「天はニ物を与えた」なんて言われますが、詭弁?にすぎません。錯覚です。テクや音楽性?が十人並でも、そう吹き込んでおけば、聴くほうはそのつもりで聴いてしまうから簡単に騙されてしまう。
 しかし容姿で売れないとなると、やはり実力(または他の+α)がなければ生き残っていかれないでしょう。

 果たしてこのヴァイオリニストには期待を裏切られることはありませんでした。というよりも逆に驚きの発見でした。
 (ソロの)冒頭から安定した雰囲気です。きれいな音を出すわけではない。しかしとても落ち着いています。やはりミーハーではないな、そう予感させられます。聴き進むうちにそれは徐々に確信に変わっていきます。
 テクも危なっかしいところは微塵もありません。早いパッセージも難なく決まっています。
 それよりも、素晴らしいのは見通しの良さとでもいいましょうか。各楽章、そして、全体のフィナーレに向かって継続的に集中力とテンションが高まっていくことです。大きなうねりで聴き手を巻き込んでしまうから、聴き終わったあとの充実感がとても大きい。決して部分を強調しない。もちろんそれは疎かにしていると言う意味ではない。
 これは、大器の予感さえさせられます。
 
 さらに驚かされるのは、バックの指揮者とオケです。これまた危なっかしいところがないばかりか、ソリストを盛り立て、あるいは協奏曲特有のスリリングなやりとりに何の不足もありません。
 某(当)オケのようなマンネリやルーチンなお仕事はここにはありません。
 この才能(必ずしも相応しい表現ではないかもしれないが)あるソリストと共に献身的に音楽を生成しようとしています。こんな指揮者やオケが何故無名?のまま埋もれているのでしょうか。
 
 これは、チャイコフスキーの入門用?として全く問題ないばかりでなく、決定盤として勧めるのに何のためらいもありません。
 (ショスタコヴィッチもいいのかもしれませんが、私はまだこの曲自体がよくわかっていませんので。)

 プロフィールを簡単に紹介しますと、ドイツで、クロアチア人と日本人の間に生まれる。1998年チャイコフスキーコンクール2位(1位なし)。
 指揮者は、1950年テル・アビブ生まれ。Carl Melles、ハンス・スワロフスキー、C・M・ジュリーニ、イーゴリ・マルケビッチ、セルジュ・チェリビダッケ、Franco Ferrara などの名前が記事中に見られます。おそらく師事したのだと思いますが、何分英語もろくに読めない私のこと故・・・。

 同じレーベルに、Ernest Bloch(1880-1959)/76810(2CD) もあります。私は未聴ですが、お好きな方は是非どうぞ。


「今回のベートーヴェンはベーレンライター版か何版を使っているのかは不明だが、明らかに○○(指揮者)がそうした版や最近のピリオド楽器による演奏を意識していることがわかる。」

 あるところに掲載されていた評文です。
 私は、評判のベーレンライター版なんていうのは、聴けばたちどころにわかる(識別できる)ものなんだと思っていました。
 しかしこの文章を読む限り、そういう類のものではないようです。これはかなり著名な評者ですが、あるいはこの著者がボンクラだからなのでしょうか。(名誉のために、敢えてお名前は伏せておきます。)
 それともややこしい名前がついているものの、版の違いなんて所詮微々たることで、とりわけ我々シロートには区別できるような代物ではないのでしょうか。
 
 そりゃそうだと思いますよ。ベートーヴェンの5番なんて何版で聴こうがベートーヴェンの5番にしか聴こえないわけで、そのつもりで聴いていたら、実はモーツアルトの5番だったなんて、冗談でもあり得ないでしょ?
 ときどき「まるで別の曲のように聴こえる」「いままで聴いた事がない」なんて、幻聴じゃないかと思えるような発言をする人もいますけど。

 私は意識してベーレンライター版なんて聴いたことがないので、見当もつきません。私が聴きたいと思う指揮者は、そんな版使わないですから。版などという微々たる問題を超えたところで感動させてくれますから。
 くどくどと、もう一度おさらいしておきますと、
 「ベートーヴェンの5番とマーラーの5番とショスタコヴィッチの5番を取り違えるほどに、ブライトコプフ版とベーレンライター版の違いがわずかなものなら、そんなものは取るに足りない問題だ。」


1月26日(土)

ところで、日本語表記に関してですが、ご多分にもれず定期的に話題になるようです。
 
 まあね、こんなこと言わなきゃ、角も立たないだろうし、私の評判?も少しは変わるんでしょうけど、言いたいからこのページ開いているわけで、言わないんならその姿勢が問われる。私の良心に正直に行動するならやはりここは言わなければならない。・・・と講釈をつけて。
 
 たまたま今回「ジュリアン・バンズ」という表記があり、「henssler」も、ギーレンのところでは「hanssler」と表記しており、一体どうなんよ?という疑問の声も想定されます。
 結論から申し上げて、私は外国語の日本語表記の正確性には一切こだわっていません。識別できればよい。ただそれだけです。
 そもそも外国語を正しく日本語表記できるはずがない。徒労である。
 但し、原語に一番近いニュアンスにする努力は必要だと考えています。でなければ失礼だと思うからです。間違っていてもいい、とは申しません。
 しかし、私は直接本人にうかがって確かめることができないから、誰かが適当に決めた、そこらへんに転がっている表記をそのまま転記しているにすぎません。
 
 「henssler」も、ほかのところからコピーしてきたら、そうなっていたからで、私の意志ではありません。正確には「haenssler」とするのが最も妥当かと思われますが、これらの表記を見てSONYに発注する、という間違いが起こらなければそれで十分だと考えています。
 「バンゼ」にしても「パンセ」「パンゼ」などという表記も見かけたこともあります。

 「ヴァント」だろうが「ワント」だろうが、どうでもいいことです。「標準」の「正しい」日本語にそういう発音、表記がなければやむを得ないことです。
 本当は「グァンド」あたりが一番近かったりして。いや、「ヴァント」でいいんだが、「ヴァント」と、「ァ」を半角くらいの長さにするのがヴェターだ。うんにゃ「ヴァントゥ」だなど、不毛な議論になりかねません。
 国営放送局は遅れている。時代は変わった。「V(W)」を発音するのが新しい日本語文化だなどと言わないように。100年も200年も昔の、時代遅れの文化を喜んでいる同じ人が。
 (さうやう意味でわ、古語をば使ひたまふ人の感覚は、或ひは正しきのであらむ也?候)

 こんな(わかり切った)下らないことで何故延々と議論できるのか、私には不思議でなりません。


 EMIのARTといえば、「アヒ゛ー・ロード」なんですが、それがあるところに「アヒ゛ー・ドーロ」と記載(誤植)されていました。
 私はそのあまりにもできすぎたジョーク、ブラックユーモアあるいはギャグに感動を覚えずにはいられませんでした。
 
 確かに日本語では「道路」か・・・。
 しかし「アヒ゛ー・ドーリ」でも悪くなかったな・・・。


1月9日(水)

私はこう読んだ

 この手の本、読み手によって賛否両論、毀誉褒貶あるのは当然であり、そのことはなんら問題ではありません。単に一人の人間のオピニオンですから、半分共感するところあれば半分反発するところあり。
 全部賛成、あるいは全部反対というのもおかしな話しで、それは全然読めていないのと同じことのように思います。
 
 ただ、新しい情報や、新しい見方(これが重要)を得られるという一点で、こういうものを読む価値はあります。
 しかしながら、記述の中に矛盾があると、やはり首を傾げざるを得ません。
 あるいは「重箱の隅」「揚げ足取り」のそしりは免れませんが、少しつついてみましょう。

対向配置
@十九世紀末には当たり前に行われ、二十世紀半ばからは、数少ない優秀な指揮者が実行していたが、一九九〇年の半ばから急に流行り始めたことで、それを行わないという見識のほうが重要視されるという事態を生みつつある、ファーストとセカンドのヴアイオリンを舞台の両翼に分離しての配置。古楽器に代表されるオリジナル性の台頭が、オーケストラの配置にまで波及したとも言える。同義語に「両翼配置」「古典的配置」。弦楽四重奏では、モザイク四重奏団などが曲によって一部採用している。

Bスペタクルと音響の一体感を重視したストコフスキー考案の現代的配置(通常配置)によって一時廃れたもの、その現代的配置のメッカであるフィラデルフィア管に客演した、絶対構造把握主義者クレンペラーは、頑固にもこの配置で演奏を行った。それは甲子園のライト側スタンドで単身、巨人の応援をするような、危険きわまりない武勇談として語り継がれている。

拍手
B無分別な拍手やブラーヴォが問題なのは、演奏マナーを侵すというタブーにあるのではなく、聴き手がどのような意識において、音楽を受容しているかという文化的な姿勢の差にあるのかもしれない。アメリカ式と言われる楽章ごとの拍手は、曲全体の統一感や構造について、わずかな注意をもはらわないという態度であるように。

アタッカ
楽章ごとに拍手をする聴衆を封じるための、演奏者による嫌がらせ。


@演奏に相づちを加え、録音にリアリティを添えるもの。
A楽章の間に聴衆が一斉に行うパフォーマンスのひとつ。

ブラームス/交響曲第一番ハ短調
滅多に来ないオーケストラが来日したときに、もっともプログラムに乗りやすい盛り上げ担当宴会主任。
●バカな目にあいたいならアーベントロート指揮バイエルン国立響ほか多数、目を開きたいならヴァント指揮北ドイツ放送響(RCA)の旧盤の一枚のみ。

 「きわめて恣意的」に、このように抜き出してみます。
 
 この著者は、昔から「構造」「ポリフォニー」「対向配置」そして「クレンペラー」と、これらをキーワードにした論を強調されます。そしてそれらが最高のものであり、そうしない演奏者を暗に軽蔑するという。
 いつも申しますようにこれも単なる「好み」ですから、「本人がそれが好きだ」と言っている分には、別に構わないわけですが。
 しかし、さもクレンペラーやその他の一部の優秀な指揮者だけが構造に気が付き、ポリフォニーを大切にしていているかのような表現は疑問に思わざるを得ません。
 誰だって「そんなもの」にはあたりまえのように気付いているんだけど、それを意識させないように、あるいは、「もっと大切なもの」を強調するように演奏しているのかもしれない。
 単に聴き手の耳(あるいは頭)が悪いから、「普通」に演奏されるとポリフォニーに気付かないのかもしれない。「ぽりふおにーだずおう」と言ってもらわないとわからない。
 
 さて、そこまでなら、「構造やポリフォニーが好きなのね〜」と思っていればいのですが、ブラ#1、これでヴァントの旧盤(だけ)を推薦しておられます。これは洋白(+)水社・性急社系執筆者の間で、特に人気の高いものです。
 
 この本を買ったのと同じ日に、ヴァントのパンフレットを入手してきました。
 1月7日はヴァントの90才の誕生日だったそうです。しかし残念ながらそれを目前に、昨年12月29日惜しまれつつ逝去されました。盛んに追悼企画が行われています。このセールもその一環でしょう。
 あっ、違いましたか? ブルックナーが妙に得意な長老指揮者がどうかされたとか、聞いたような気が・・・。

 ところで、このパンフレットの中にとんでもない文句を見つけてしまったのです。問題のブラームスの旧盤なんですが、
 「反復を行わないため交響曲4曲を2枚に収録。」

 どうです、何とおサイフに優しい温情措置。
 
 作曲者が「構造的に、あるいは様式上重要なんだからきちんと反復しろ!」 と命令しているのに、それを無視した演奏を、構造や様式が大切なんだ、と言っている同じ人間が推薦していていいのでしょうか。私なら恥ずかしくてとてもそんなことは言えません。

 私は残念ながらヴァントのブラームスの旧盤は聴いたことがありません。この演奏が「対抗」配置なのか、ポリフォニックなのか、あるいはホモセクシャルなのか、はたまたホロコーストなのかもも知りません。別のところにも書きましたが、新盤で1、2、3番と聴き、4番がしばらく出なかったのですが、そのうちに聴かずともよくなってしまい、旧盤もまあ聴くまでのことは・・・、ということでうっちゃってあります。
 1番だけが1000円くらいで分売されていれば、聴いてみてもいいかな、とは思っていますが、いらないものを抱き合わせで買わされてまで、とは思いません。私にとってヴァントなんてそんな程度のものです。

 しかしながら、私の意見など、机上の空論であり、単なる妄想にすぎない。
 氏は、膨大な数の音楽家への長期間かつ緻密なインタヴューに基づきそう判断しているのかもしれない。作曲者の自筆譜や日記や手紙を徹底的に調べ上げて、あるいは、あまたある音楽書を数万冊読破した上で結論付けたのかもしれない。
 それだけ申し沿えておきます。


1月8日(火)

久しぶりに

街のレコード屋さんへ買出しに行ってきました。
 そこでは、ピアノソナタが流れていました。「ん!これは知っている曲だな・・・。」しばらく注意して聴いていましたが、「ショパンの3番だ。」とわかりました。
 そこで「はは〜ん。」とピンときました。「あぁ、これが噂のフ゛ルース・リーとかいう人の・・・。」
 
 立て板に水の如く、音楽がサラサラと流れていました。
 BGMにはもってこい、すばらしいムード音楽と化していました。レコード選びにもまったく邪魔にならない。
 「ここがレストランだったら、最高だったのにな・・・。」私は少しだけ残念に思いました。
 (写真はイメージで、本文とは関係ありません。)


小シ尺はベルン・シュタイン月工門下生なので、同じ西洋人といっても、某ィーンにとっては仲間外れみたいなものだと認識していると、何かで聞いた記憶があります。


1月6日(日)

演奏家論(2)

 演奏家について語らせたら、この人に右に出る者はいないといえよう、といえましょう。(前や上にはいるかもしれない。)

 というのは、18世紀ですと、創造者が弾いたわけです。創造者・即・演奏家だったんです。ところが、19世紀になって、〔演奏家〕というのが出てきた。ですから、例えばベートーヴェンまでですと、ひと様の曲を公開のコンサートで弾くなんてことはしてなかったはずです。
 自分なりにアレンジして変奏曲(ヴァリエーション)を作るとか、ファンタジーのもとにするとかいうことはあってもね。まあ、自分の家で弾いて遊ぶことはあったかもしれないけれど。
 モーツァルトなんて、あほらしくて、ひと様の曲なんて・・・、弾いてあげる程度ですね
(中略)

 ところがリストの時代になると−半世紀の違いもないんですよ、シューマンの曲を、『はい、弾いてあげましょう』と、演奏会で取り上げたりするわけです。彼は、演奏で喰うという新しい職業を開発して、音楽界の流れを変えた人物の一人だと思います。いわゆる名人(ヴイルトウォーゾ)ね。
 あの頃、パガニーニなんて極端な人も出たわね。とにかく演奏するのがすごくうまい。ひと様の曲を弾いても結構面白い、という風潮が広がって、20世紀になると新曲を聴くために音楽会に来る人がまるでいなくなっちゃった。演奏家を重視する時代になってしまって、私は恥ずかしいと思いますね。
(中略)

 我々なんて、ひと様が書いたものを弾いているだけなんですよ。それが、『ホロヴイッツ聴こうか』になっちゃったんです。『ああ、このプログラムいいな』と言って音楽会に行くわけじゃないでしょう。昔は、『新曲出てきたから聴きに行こう』だったんです。
内田光子/ク゛ラモフォン・ジャハ゜ンより

 この人の引用はとても難しい。要約されていないからとも言える。前後がわかっていないと真意を汲み取ることができない。
 すると、とかく長くなりがちで、どこがポイントなのか、何が言いたいのかよくわからなくなる。
 ここで私が強調したいのは、(この)2ヶ所である。しかしこの部分だけでは一体なんのこっちゃさっぱりわからない。しかたなく冗長のそしりは免れないが、少し長く引用する。
 内田光子も演奏家は重要ではない、との考えを持っている。「演奏家なんてあぶくのようなもの・・・。」という言葉を見聞きしたこともある。
 
 本当は、私は演奏家のほうを重視している。
 「当時」は作曲家自らが演奏することが多かった。しかしながら時代が下ると他人に演奏させる、あるいは演奏してもらうために曲を書く。考えてみれば交響曲なんて自分で演奏することはできないわけで(指揮くらいはできても)、初めから他人が演奏することを前提に作曲されたわけだ。
 となると、やはり楽曲を聴くために「演奏家を選ぶ」。これは正しいというところにたどりつく。

 時々、誰の演奏で聴いても素晴らしい、という意見の人に出くわすことがあります。
 ある意味では当然のことかもしれません。楽曲がよければ演奏者なんて問題ではない、と。
 しかしながら不思議なのは、もし本当にそうであるならば複数の演奏家で聴く必要性は全くないわけで、1つの曲に対して、1枚のレコードを持っていれば十分なはずです。
 でも現実は絶対そうじゃないんですよね。

 演奏を「良い・悪い」で評価しようとする人も(大勢)いるようです。これもおかしなことです。
 「悪く、間違って」演奏しようとする人が果たしているのでしょうか。普通、やってる本人は大真面目なはずですよ。中には確信犯的なものもありますが、それはそれでおもしろい。

 演奏の良し悪しを、何か小難しい理論や理屈で説明しようとする。楽譜に忠実だから、編成が小さかったから、楽器の配置がどうだったから、奏法がナンだったから・・・。
 あくまで感性の違いであって、その演奏を好むか好まざるかは、やはり聴き手の感性であり、最後は「好き嫌い」以外のなにものでもない。

 これらに目をつぶって、「ある演奏家が嫌いだ。」という意見を非難するのは、全くおかしなことです。
 「ある演奏家が好きだ。」という意見は、「ある演奏家が嫌いだ。」という意見と、全く同じ好感と不快感を合わせもつものです。


演奏家論(特別版)

 これは、’01年12月2日(日)頃「下書き」したものです。
 当時はこんなことを「大声」でいうのもバカバカしい気がして発表をためらっていたのですが、ふと読み返してみて、なかなかに笑ってもらえそうだと思いましたので、改めて出してみます。
 ハーディングの来日公演の折りのエヌ・エッチ・ケーの放送についてです。

 ハーディングなのか宮元アボーンの意見なのか、なんだかよくわからなくなってしまいましたが、「伝統は悪だ、楽譜になるべく忠実に」という趣旨のことを言っていました。その後で、モーツァルトのオペラの一部を、フルトヴェングラーとハーディングの指揮で比較していました。

 楽譜には2拍子の指示がしてある。だから「正確な」2拍子で振るのが正しい。

 フルトヴェングラーは、誰か先人の伝統を真似して、そのよう(4拍子風)に振ったのでしょうか。彼は彼独自の天才的(彼をこう表現することが妥当か否かは別として)な閃きでそうしたのではないのだろうか。
 
 今の伝統はたかだか戦後50年の妄想だとのたまうが、その前の150年の歴史はいったいどうなるのか。モーツァルトの時代から、繰り返し演奏され、その伝統が1950年代まで受け継がれてきたのではないのだろうか。その伝統に従うのは間違いであるというのだろうか。

 そしてある時、フルトヴェングラーが突然その伝統を破壊し、新しいスタイルを作り出したのだとしたらそれはそれですばらしいエポックである。
 その後の世代が、彼のスタイルを勝手に真似して、伝統としたかどうかは別として。
 
 本当に楽譜に忠実な演奏がしたかったら、すべてコンピューターにプログラミングして、機械に演奏させればよいのだ。ミスもしない完璧だ。今時の技術なら簡単にできるはずだ。
 そしてそれが至上最高の演奏になり、それ以外の指揮者もオケもレコードも一切不要になる。もちろん、ラトルもハーディングもである。

 いずれにしろ、25やそこらの若造(ハーディング)の戯言である。その頃は自分が何でもわかっているような気になって、きいた風な口をきくものだ。いくら音楽的に才能があり、天才だといわれても、子供は子供。
 私はおりに触れて言うが、30才未満は未成年である。30過ぎなければわからないことが山ほどある。(もちろん、もっと年配の方から見れば、40、50は洟垂れ小僧であろうが。)
 そういうことがわかっていなければ出来ない音楽が、厳然として存在する。私は天才少年や少女の「子供の」音楽を聴いて、いつもそう思う。

 どういう方法論をとろうと、問題は結果である。結果に説得力があれば講釈はどうでもよい。
 しかし、わずかながらのハーディングの演奏(解釈)を聴く限り、フルトヴェングラーの靴下にも及ばないのではないかと思う。
 (この場合の「靴下」とは、「くつもと」と読むが、「くつした」と読んでも大意ではまちがいではない。)


1月5日(土)

演奏家論(1)

 ということで、仕事初めには難しいことを考えてみましょう。
 「演奏」というと、私はいつもこれを思い出します。

 「日本人はヨーロッパの音楽のことを履き違えているよ。技巧を練磨して、うまく弾ければ、それがつまり、よい音楽なんだと思っている。大きな間違いだね。
 たとえ、技巧が多少劣っても、立派な音楽をする演奏家はたくさんいる。つまり、音楽というのは、ひとつの思想であって、それを音で表現するものなんだよ。その場合、音が良い、悪いよりも、いかにその音楽家がどんな思想を封じ込めたかを採り当てて、それを自分なりに表現してみる、というのが演奏の本質なんだ。
 自分なりに、というのは勝手にということじゃない。そこに個性の問題がからんでくる・・・。」
 
 結局、シゲティは「音楽は音で語る哲学である」という結論を導き出して、いささか呆然としている僕たちの顔を眺めて、愉快そうに笑うのだった。

ヨゼフ・シゲティ/木黄溝亮ー著(某オーディオ誌より)

 「思想」が重要なんだと言われます。

 そう言えば昔、木黄溝氏が司会している音楽番組が確かあったよなぁ、と思い出します。いま何故こういう正論派の評論家が活躍できないのでしょうか。(いや、雑誌にこうやって執筆しているのだから、活躍しているんじゃないか、と言われますが。)

 これは(もちろん)「よこみぞ」氏のことです。思うところあって、私は音楽家以外の人名は明記しないことにしています。
 本当は「よこみぞ」氏その他、引用させていただいた方々には失礼なこととは思います。

 しかしながら、そういう方々の実名を明記すると、そういう方々に興味をもつ、あるいは関係する方々が「検索」で見つけてこられることが時々あります。そして、不思議なことにそうしてきた方々は例外なく(というわけでもないでしょうが、多くの場合)「イチャモン」をつけてくるのです。いえ、著作権がどうのこうのということではないのですが、言って(書いて)いることが気に入らない、というのでしょう。
 じゃあ、どこがどう気に入らないのですか、あなたはこれに対してどう考えますか、あなたの意見を公開してもよろしいですか、と逆に尋ねると、それ以降は無しのつぶて。
 こんな無礼な輩に付き合っている暇もないので、そういう無用のトラブルを避けるためにもこうしています。
 どうかお名前をデフォルメされた方はお許しください。私が逆の立場なら当然不快な思いをしますから。「なんだ、堂々と実名を出せよ、出してもいいよ」と。
 私も、「こういう」公共の場で発言している以上、別のところ(私が知らなくても)で私の名前を出されるのは当然のことであり、たとえそれが批判、誹謗中傷であっても、それは名誉なことであると考えるからです。


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