駄聴日記(2002年第2部)

HOMEへ戻る | 駄聴日記最新号


2002年12月9日(月)

ベートーヴェン:交響曲第2、5番

ケーゲル指揮/ライプチヒRSO
(WEITBLICK)


 今年のベスト盤というわけではありませんが、ちょっと気になった演奏でした。
 1年位前になりますか、コンヴィチュニーのブルックナーでのモノラル−擬似ステレオ疑惑で、すっかり信用しなくなっていたWEITBLICKです。
 
 ケーゲルは注目すべき指揮者ですが、敢えて?マーラーなど聴いてみようという気にはなりません。今回は特にベートーヴェンということで、手を出してみました。
 お値段もミッド(1500円弱)、夕ワーレコードでポイント2倍セールということも手伝っていました。
 
 果たしてケーゲルに何を期待すればよいのか?
 一部、というよりほとんどの向きは、ケーゲルといえば「アルルの女」「アルビノーニのアダージョ」「カルメン」と、バ力のひとつ覚え、膝蓋腱反射、あるいは犬のヨダレ(条件反射)のように認識していることであろう。
 しかし本当にそれでいいのか?
 
 別にそれでもちっとも構わないわけだが、やはりここはベートーヴェンである。
 ベートーヴェンに始まりバッハ、ブラームス、ブルックナーを経て、ちょっとシベリウスに寄り道してベートーヴェンに終わる。
 これが正道であり王道であり中道でありアッピア街道である。そう、全ての道はローマに通じるのである。

 問題は5番であった。
 とても不思議な音響空間が現出したのである。
 弦楽器を主体とする「前列」のグループと、木管・金管・打楽器群の「後列」のグループが見事に分れているのである。
 言ってみればとても立体的な音響。聴きようによってはバラバラなようにも思える。しかし、これによってベートーヴェンがどのような「構造」を持たせたのかがとてもよくわかる。
 前の音に対し後ろの音が呼応している。これが対位法か。
 前の音と後ろの音が別々に同時進行している。これがポリフォニーか。

 演奏自体は感動的でもなんでもない。どちらかといえばケーゲルの冷たさの部分が出ている。闇から光へ、苦悩から歓喜へという「物語」はない。心の中に残るものはない。あるいは少ない。
 しかし頭の中には何かが残る。「感動」ではなく「感心」である。冷静に「感心」してしまうから「感動」できないのである。しかしこの「感心」のレヴェルは高い。
 
 私はかつて音楽にそのようなものを求めたことはなかった。
 しかし一部の知性派評論家が盛んに主張するのはこれかもしれないなと思った。ヴァントやチェリビダッケ、あるいはスクロヴァチェフスキなどがそのようにすると言われる。

 そういう(一番大切な)ものはまたレコードには入らない、と言われる。
 それは大嘘である。普通に録(と)ればちゃんと入るのである。ノイズやミスを隠そうとするから大事なものまでなくなってしまう。
 この録音では、経費節減?のため、否応無くそういうプロセスが省かれて、かえって良い結果が得られたのではないか。これは多くのライヴCD−R盤を聴いても感じることである。

 ケーゲルの凄さとは、本当はこういうところにあるのではないか。 
 それは一体どういう録音なのか。どういう演奏なのか。気になる向きには聴いてみていただくしかない。結果は聴いたあなたが判断するよろし。 


2002年12月10日(火)

マーラー:交響曲第4番

ギーレン指揮/SWRSO
Christine Whittlesey(S)
hanssler


 ずっと以前のことですが、マーラー4番を集中的に聴いたことがありました。その時、もうこれ以上同曲のCDを増やすことはないだろう、と言っていました。ギーレン盤が出るまでは、と。
 ヘンスラーレーベルでギーレンのマーラーサイクルが進んでいましたから、いずれ出るだろうとは思っていました。
 そしたらやっぱり出ました。

 でも、これまた素直には喜べない代物でした。新録音ではなく、かつてインターコードで出ていたものの焼き直しだということです。
 もはやこの曲を新たに録音するチャンスはない、ということでしょうか。あるいはギーレン自身がその録音に完全に満足していて、再録音する意志が全くないのか。

 そういう訳で、公約(?)通り聴いてみたんですが、残念ながらこれはハズレでした。ちっともおもしろくないんですね。何でなんだろう?ずーっと悩みながら聴いていました。
 その後、日をおいて、折りに触れて取り出してみるんですが、どうしてもおもしろくない。試みに同じシリーズのマーラー2番、この曲の定番たるシャイイ/RCO盤(DECCA)、プレヴィン/LSO盤(ELS)を聴いてみる。
 すると、ぼんやりとではあるが理由が見えてきました。
 
 この盤は、録音あるいはリマスターに問題があるようだ。音はきれいで、奥行感も空気感もあるんです。だがおそらくリマスターの弊害であろう、音が細いのである。音が発せられてからの膨らんでいく感じ、音にまとわりつく周辺のノイズまでもがきれいさっぱり取り去られているようなのである。
 だから臨場感や気配感がなく、無機的な感じがする。音が死んでしまっているのである。

 もうひとつ決定的なのは終楽章のソプラノである。これは私の好みには全く合わない。何となく締まりのない歌い方。ケーゲル盤でのカサピエトラと同じである。

 そういうわけで、残念ながらこれはお勧めできない。
 しかしどこがどうおもしろくないのか、気になる向きには聴いてみていただくしかない。結果は聴いたあなたが判断するよろし。


2002年4月17日(水)

ブルックナー(その5)

ブルックナー:交響曲第8番
ケーゲル指揮/ライプチヒRSO(PILZ)
 
 
このレコードの素晴らしいところは、1枚組みであることだ。これは冗談ではない。マジである。
 実はこれはとても重要なことだ。大事な流れが分断されずに済む。インターバルでなら緊張が途切れてもいいというものではない。作曲家は当然インターバルの意味をも含めて作曲したはずである。
 
 これも繰り返しになるが、LPからCDの時代になって、この点で驚異的な進歩が見られた。このおかげで、本当に有機的に音楽が聴けるのである。
 あのLPの裏返しの面倒だったこと。特にこのくらいの長さになると2枚組みになるから、交換となったら、もうそこから先、聴く気もなくなってしまうほどでした。
 ひどいのになると楽章の途中で切れてることもあったです。今となってはなつかしい思い出です。
 
 さて、このレコードは、99→00年の時の大晦日に聴いていました。2年前ということですか。01→02年はジュリーニのブル8でした。00→01年は記憶にありません。
 今年も書きましたが、やはりそういう大事な時に聴くべきはこの曲しかありません。

 2年前のことをはっきり覚えているのは、その時も装置の調子が抜群によくて、チョー感動したからです。「やっぱりケーゲルって、すげーんだ・・・。」つくづくそう思いました。
 
 それ以来、このレコードは同曲のベスト3に入りました。ジュリーニ、ケーゲル、そしてスクロヴァチェフスキーです。(その時既にスクロヴァがリリースされていたかどうかは微妙なところですが。)


2002年4月14日(日)

しつこくブルックナー(その4)

ブルックナー:交響曲第8番
ヴァント指揮/北ドイツ放送交響楽団(BMG)

 このジャケットが何かおわかりだろうか。
 って、敢えて問う理由は、これは3〜9番の選集だからである。なんだ、かんだ、うんこだ、といいながら、ちゃんと持っているのである。
 
 本当はそんなつもりじゃなかったんですが、たまたま今日ワント氏のブルックナーをテレビでやってたんで、そう言えば似たような指揮者のレコードあったよな、と取り出してみたわけである。
 やはり旬の話題をタイムリーにお届けするのが妥当なのではないかと。
 それにしても良く似てましたねー。双子かと思いました。ワントさんとヴァントさん。

 さすがのヴァントとはいえ、賛否両論、毀誉褒貶はあります。
 おそらくこれは有名なことなのでしょうが、ある人がこう言っています。「ヴァントのブルックナーはツメがきつすぎる。」
 本当でしょうか。ヴァントのブルックナー(に限って言えば)が、それほど詰まっているとは思えません。クールな感じですが、決して厳しいという感じではありません。色彩的とも少し違う気がしますが、もっと違うところを目指しているような気がします。うーん「立体的」と言ったらいいのでしょうか。音色はモノトーンっぽいんだけど、構成(築)感はある。
 詰めや、厳しさといったら、スクロヴァやケーゲルの比ではない、と言い切ってもよいと思います。(それがエヌ響なんかでは、全く感じられないからダメだと言っているんですが。)

 例えばジュリーニのように、横に流すなら流す。スクロヴァのようにタテの線を揃えて、絞り込むなら絞る。(かと言って、ジュリーニが縦の線を無(軽)視しているわけでは断じてない。)
 ヴァントの場合、また別の方向を目指しているのか、あるいはそれが中途半端に終わっているのか。それともヴァントの音楽も、そもそもレコードで聴くべきものではないのか。いずれにしろ、私はそれほどの感銘を受けないというのが現状である。
 そう考えると、あるいはカラヤンなどと近いのかもしれない。と言うと双方から怒られるのだろうか。


2002年4月12日(金)

スクロヴァチェフスキーのブルックナー(3)・・・の前哨戦

ブルックナー:交響曲第8番

クナッパーツブッシュ指揮/ミュンヘンpo
(ウェストミンスター)

 やはり旬の話題をタイムリーにお届けするのが妥当なのではないかと。
 いうことで、これである。
 全国63万のクナファンの皆様、お待たせしました。

 しかし、今更こんなものを持ち出して、何を語ろうというのか。
 心配ご無用。私の手にかかれば、こなごときレコード、ものの数ではない。朝飯前である。

 誰もが名盤と認める本盤であるが、ちょっと待って下さい。本当に信じてしまっていいのでしょうか。 時折聞く事がありますが、「ブルックナーは(指揮者は)何もしないほうが良い。」この基準に照らせば、これほど人をバカにした演奏はありません。クナが何かしてやろう、何かしてやろうと虎視眈々と狙っているのがミエミエなのです。
 そう、これは断じてブルックナーなどではありません。クナッパーツブッシュなのです。
 分断され淀むような流れ、恣意的に揺さぶられるテンポ、軋む弦、悲鳴を上げる金管、外しまくるティンパニ・・・とてもまともな演奏ではありません。
 そして待ち構える最後のかまし。そりゃ、最初のうちはぶっとびますが、ネタが割れてしまえば、大向こう狙いのハッタリ以外の何物でもありません。ったく、しらじらしい。

 私が未だにわからないのは、このジャケットの意味である。うまくごまかしているが、これは互いにそっぽを向いているのではないのか。
 「フン、何がブルックナーだ。」
 「フン、何がクナッパーツブッシュだ。」
 そう見えてしまうのは、私の心がゆがんでいるからなんだろう。そして、そう聴こえてしまうのも、また。

 全国63万のクナファンの皆様、さあ怒るがよい。(しかし、何で63万ですねん・・・。)


2002年3月30日(土)

イエスタデイ・ワンス・モア

カーペンターズ

 「あれ、最近ちょっとおかしいんじゃないですか? カーペンターズなんか引張り出したりして・・・。」
 「やっぱりわかりますか。」
 
 実は部屋の模様替えと整理をしまして、この際思いきって要らないものは処分しようと。それでLPが済んで、次にカセットテープに取り組んだんですよ。これは70〜80年代のポップスがメインで、一通り聴いてみようとしたら、この記憶が忽然と甦ったんです。
 カーペンターズを聴いたんじゃなくて、他の曲聴いていたら「イエスタデイ・ワンス・モア」を思い出したんです。それであわててこのCDを取り出して聴いて、さらにまた驚愕したんです。
 
When I was young I'd listen to the radio
Waiting for my favorite song
When they played I'd sing along
It made me smile
・・・
All my best memories
Come back clearly to me
Some can even make my cry
Just like before
・・・

 な、何だこれは! まるで今の私そのままじゃないか!
 この歌詞は漠然とは知ってました。というより、若い頃よく聴いた曲ですから、いくら私でも完全に暗記しています。今でも一緒に歌えます。
 この曲が出たのは昭和46〜7年頃です。あれから30年。この歌詞の意味が今ほどはっきりわかったことはありません。
 私は当然「cry」しました。
 
 リチャード&カレン・カーペンター、何と恐るべし。しかしカレンは、もういません。

 さあ皆さんも、昔ラジオやレコードで聴いたきりの懐かしい曲を、もう一度聴いてみませんか。何かが少し変わるかもしれません。
 そういう心に残る音楽は、ちゃんとCDになっていて、あなたが買いにきてくれるのをきっと待っていてくれます。

「東京」は「都」なのではない、「東」の「京都」なのである。
な、何をいきなり!
いえ、たまたま閃いたんで・・・。

さあ、これであなたも明日から「トウ・キョウト」の呪縛から逃れることはできない。  


2002年3月27日(水)

鬼門たるブル9を聴く(4)

ブルックナー:交響曲第9番

M・ギーレン指揮/南西ドイツRSO
(EMI)

 ブル9といえば、これを外して語ることはできません。
 ギーレン。後門の狼である。肛門ではない。
 無味無臭・絶乾スーパードライ・かさかさきしきし、この演奏を絶賛する形容詞に事欠くことはない。
 
 私は期待で胸が張り裂けそうだった。いったいどういう機械のような、非人間的な演奏を聴かせてもらえるのだろうか。
 
 しかしその「あて」は全く外れた。とっても普通なのである。こういう演奏をザッハリッヒというならば、世の中の半数以上はそうであると言わざるを得ない。
 おそらくギーレンは確信犯で、こういう演奏をしているに違いない。だからまだ罪は軽い。
 
 逆に、本人は超ロマン的にやっているつもりなのに、聴いてみたら恐ろしく空虚で、内容の無い音楽であったりする。そういう「わかってない」演奏のいかに横行していることか。
 自分は善人のつもりで、その実よけいなおせっかい、大きなお世話で他人を傷つけている。本人はもちろんそのことに気付いていない。これは偽善者のひとつのカタチである。これほどの犯罪行為は他にない。

 それにしても、スクロヴァにギーレン。ブル9にはこういう指揮者がよく似合う。やっぱりブル9なんて、「そういう」曲なんじゃないの?
 (あぁ、これで全国100万人のブル9崇拝者をも敵に回してしまった!? これで都合200万人である。)

 ブル9シリーズを締めるに当たりまして付け加えておきたいことは、ヴァント−スクロヴァチェフスキー−ギーレンは、もしかしたら同じ線上にいるかもしれないということである。
 私は(そういう)分析的な聴き方は面倒だからしない。とても感覚的に聴いていますが、ヴァントのブルックナーを崇拝する人が、ギーレンのブルックナーをけなすのは、自己分裂あるいは自己破産なのではないかと・・・訳のわからないことを言って、ケムに巻いておきます。


2002年3月24日(日)

鬼門たるブル9を聴く(1)

ブルックナー:交響曲第9番

G・ヴァント指揮/BPO
(BMG)

 何故にブル9を聴く気になったか。
 
 もうじきスクロヴァチェフスキーの来日です。そしてブル9(その他主要プログラム)が生放送されると知って、取り出してみる気になりました。
 
 繰り返しますが、これは私の嫌いな三大9番の一角を成しています。
 しかも初回は、前門の虎たるヴァント。こんな黄金の組み合わせで今更何を語ろうというのでしょうか。
 しかし、私にとっては究極の「裏」選択たる組み合わせです。「カレー味のうんこと、うんこ味のカレーとどちらがいいか。」これが究極の選択ですが、ヴァントのブル9なんて、私にとっては「うんこ味のうんこ」のようなものです。(オイオイ、そこまではちょっと・・・。)
 
 嫌いだ嫌いだと言いながら、一応記録に残っている分としては18種類ほどあります。ある時期までは買ったレコードを律儀に曲目別に記録していました。しかし、ある程度納得する演奏が見つかるようになると、そういう聴き比べ、買い漁りに興味がなくなりました。それ以降は買いっぱなしですので、印象に残らないで、まだ棚に眠っているレコードもあるかもしれません。
 シューリヒト、ヨッフム、クレンペラー、ジュリーニ/CSO、ヴァント/ケルン、マタチッチ、ジュリーニ/VPO、ドホナーニ、テイト、ヴァント/NDR、ヴァント/BPO、スクロヴァチェフスキ/ミネソタ、スクロヴァチェフスキ/ザールブリュッケン、ワカスギ、ティントナー、ギーレン、コンヴィチュニー、ケーゲル。
 これだけ聴いても、この曲ってのはちっともおもしろくない。なんとご丁寧にヴァントなんて3種類もありますよ。(選集や他の曲とのカップリングでついてきただけだが。)
 
 そんな中、このヴァント/BPOはどうなんでしょう。
 はっきり退屈です。とても最後まで聴き通すことができません。いつも途中でいやになって止めてしまいます。
 残念ながら、私はヴァント/NDRのライヴには立ち会うことができませんでした。生で聴けばまた違ったでしょうが、このレコードはダメです。録音芸術としてはB級です。
 そういうからには、ちゃんと根拠があります。それはおいおい明らかにしましょう。


先頭に戻る   ホームページへ戻る