駄聴日記 2004/5年

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2006年1月14日(土)

●ブラームス:ヴァイオリン協奏曲

ユリア・フィッシャー(Vn)
マイケル・ティルソン・トーマス指揮 北ドイツ放送交響楽団
2005年7月10日 WELLE

●チャイコフスキー: ヴァイオリン協奏曲

ユリア・フィッシャー(Vn)
ロリン・マゼール指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック
2005年12月28-30日,2006年1月3日ライヴ Avery Fisher Hall, New York

 ユリア・フィッシャーとやらを聴いた。
 私は、天才少女には懐疑的だ。眉唾というか、話半分というか、まず疑ってかかる。
 
 最初にブラームスを聴いた。
 何のことはない、どこにも聴くべきところのない平凡な演奏。のっぺり平板と言おうか。その割に苦しそうに弾いていて、こちらもなんだか息苦しくなってくる。いっぱいいっぱいなのか。
 
 チャイコフスキーでは、細かい部分がかなりいいかげん(曖昧)で、音色も特にきれいなものではない。
 特に3楽章ではテンポの揺らし方にかなり疑問が残る。どのように決められるのかはよく知らないが、多くはソリストの要望を、指揮者が聞くものではないかと思う。いずれにしろ双方納得している事は確かだろう。
 実を言うとマゼールという指揮者もまともに聴いたことはない。曲者らしい(だから聴かない)が、巧者というのも事実だろう。しかしここではそれが裏目に出ているように思う。
 徒にテンポを動かすから緊張が続かない。この曲のフィナーレを聴いて退屈したのは初めてだ。

 NYPの放送音質はかなり良い部類だ。その意味では拾い物?なんだが。


2006年1月13日(金)

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲

チョン・キョン・ファ(Vn)
デュトワ指揮/モントリオール交響楽団
1981年(Decca)

 最近、この曲がいくつか放送されたこともあり、集中的に聴いてみたが、これはとりわけ良かった。
 テクニックに何の不安もないのが、当たり前であり、それが前提になっている。安定感抜群。
 造型もごくオーソドックス。どこにも奇を衒ったところはなく、正攻法。まっすぐ音楽に対峙しているように見える。
 透明感があり、録音も優秀。
 満足度は極めて高い。


2006年1月12日(木)

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲

ミシェル・オークレール(Vn)
ロベルト・ワーグナー指揮/インスブルック交響楽団
1963年2月(フィリップス)

 ミシェル・オークレールが、2005年6月に亡くなっていたそうだ。
 「そうだったのか」と、「(それまで)まだ存命であったか」という両方の気持ちだ。
 早くに引退していたから、ライヴが聴けないという点では、極めて遠い存在だった。

 フランス人と言うと、あっさりサバサバ系かと思いきや、オークレールは違う。情念ドロドロ。コワいというか、所謂女傑。
 技巧派とは少し違うようにも思うが、その弾きっぷりは凄まじいとしか言いようがない。ヴァイオリンに襲われるかような錯覚を起こす演奏だ。
 どこかに「こんな弾き方してたら、長くは持たないよな」という意味のことが書いてあったが、全くだ。


2006年1月10日(火)

ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲/交響曲第8番

ジネット・ヌヴー(Vn)
ロスバウト指揮 バーデン・バーデンSWF交響楽団
1949年:協奏曲/1961年:交響曲
モノラル(ヘンスラー)

 この交響曲第8番も威風堂々、立派としか言いようがない。
 この曲は、これまで今ひとつよくわからならいところがあった。妙に軽い気もしていた。しかしこの演奏を聴いて完全に考えを改めた。

 そう言われてみると、この曲は見識ある指揮者が要所で演奏しているように思われる。古典派としての最終形とも言える重要な作品かもしれない。

 第3楽章のトリオ(でいいのかな?)を聴いていて、これは「田園」をも凌ぐ名曲ではないかと錯覚した。
 いや錯覚だなんて失礼か。「当たり前だ。これは『田園』より後から作曲したのだ。結果を踏まえているのだ。」ベートーヴェンに怒られそうだ。
 尚、「田園」なんぞで物足りない向きには、「1番から7番の全ての交響曲」と読み替えていただいても結構。何なら9番を加えていただいても良い。私は9番は「全体としては」大いなる駄作だと思っている。

 本来、このディスクでの主役はヌヴーのつもりだった。
 しかし今回、伴奏指揮がロスバウトだったことを思い出して聴いてみたところ、8番の名演に驚嘆した次第だ。

 協奏曲ももちろん素晴らしい。
 フィナーレでのヴァイオリンを聴くと、「あぁ、これが歌うってことなんだなぁ〜。」しみじみする。
 これを聴いたら、昨今天才少女などと呼ばれているのは、どれもほんの児戯に過ぎないとしか思えない。


2006年1月9日(月)

シューベルト:交響曲(第8番) ハ長調 D944

ロスバウト指揮 SWF交響楽団
1954年12月31日?/ハンス・ロスバウト・スタジオ/モノラル
(wergo)

 これは割といい曲ながら、なかなか納得できる演奏に巡り合えない。

 ロスバウトのアプローチはここでも変わらない。(おそらくどの曲に対しても、だと思う。)
 何の作為も感じさせない。誠実、実直。伝わってくるのは指揮者のそれではなく、あくまでもシューベルトの心情。
 本当にシューベルトを聴きたい時にはこれかもしれない。いたずらにグレイトにならず、等身大に描いている。

 この曲は、2楽章以降でダレ勝ちだ。下手な演奏だと途中でリタイアするか、4楽章まで飛ばしたくなる。
 だが、これは最初から最後まで適度な緊張を維持できている。
 そのあたりを心得てか、4楽章では若干早めのテンポなので、好みが分かれるかもしれない。

 このジャケットに「グレイト」の文字はない。
 ここでグレイトなのは、もちろんロスバウトだ。


2006年1月8日(日)

ブルックナー:交響曲第7番

ハンス・ロスバウト指揮 バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団
1958年/ステレオ
(VOXBOX)

 ロスバウトというと、「マッド・サイエンティスト」「現代音楽擁護推進派」というイメージが刷り込まれ、身構えてしまう。
 
 しかしそういう先入観を持って聴き始めると、少し様子が違うことに気付く。
 これが至極真っ当な演奏なのである。
 音楽の中にロスバウトの姿を捜し出そうとしても、どこにも見つからない。
 驚くほどクソ真面目。ニコリともせず、ただひたすら裏方に徹している。何かを企んでいるわけでもない。

 弛緩するところがなく、徹頭徹尾緊密。正確無比。
 かといって堅苦しいわけではない。無味乾燥しているわけでもない。

 ステレオだが、録音は芳しくない。あるいはホールの音響に問題があるのかもしれない。
 弦の音など、油が切れて軋(きし)んでいるようだ。全くもって美しくない。
 だが、美音に一切頼らず?古典派構造美を完璧に再構築して、そこから見えてくるのは、スコアそのものだ。

 この方法論がこの曲にふさわしいかというと、そんなはずはないと思いながら、まぎれもなく壮大なブルックナー伽藍が立ち上ってくるのだ。

 ロスバウト、恐るべし。


2006年1月7日(土)

ベートーヴェン:交響曲第7・8・9番

ギーレン指揮 バーデン・バーデン&フライブルク SWR交響楽団、他
1998年6月:7番/2000年1月:8番/1999年7月:9番
(ユーロアーツ) DVD

 
地球温暖化などと騒いでいる隙に、氷河期が始まったのではないか。これで今年は冷夏だと言われたら、笑ってしまう。

 このベートーヴェンは凄い。
 中では、7番が特に良い。全く熱くならない。端正でコントロールされている。
 但し、熱狂的・陶酔的?演奏を好む向きには合わないかもしれない。
 8番もすっかり落ち着いて安定している。これなら安心?して聴くことができる。
 9番はCDでも注目していたが、これは基本的には変化はないようだ。(CD版は「2003年7月21日」にコメントしている。参照されたい。)

 ここでのギーレンには大家の風格、達観、悟りのようなものを感じる。
 先の録音(EMI/インターコード)で感じられた、荒さ、鋭さ、ピリピリしたところはほとんどない。
 この差は、この変化は小さくない。いったい何があったのか。
 この間、おおよそ5〜6年しか経過していないが、急速に老成したとでもいうのか。もちろん、その可能性もなくはない。
 これはベートーヴェン交響曲全集のスタンダードとしてもおかしくない。(但し、私はこの7・8・9番しか聴いていない。)


2006年1月6日(金)

ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」

ギーレン指揮 バーデンバーデンSWF交響楽団
1987年5月 (インターコード/EMI) CD
1987年8月7日 (ドリームライフ) DVD

 早いもので、今年も残すところ360日足らず。一日一日を大切に生きよう。

 ギーレンのベートーヴェンを聴いたのは、これが最初だったと思う。
 初めてこの演奏を聴いた時、めまいがした。それほど強烈だった。
 慣れるまで、少し時間がかかった。時間というより期間、月単位の時間だ。

 慣れる?
 慣れてしまったら、それはもはや芸術を鑑賞する姿勢ではないかもしれない。
 
 この曲には、ほぼ同時期に映像で収録されたものがある。映像で観られるギーレンの指揮姿は颯爽としている。最小限で無駄がなく、2拍子を基調とした動きで、淡々と進める。

 これは「英雄」ではない。「小英雄」あるいは「小心者」と言ったほうが良い。たかだか3番といった風情だ。(たとえばハイドンやモーツァルトのそれのような偉小さ。たとえば、である。)
 第2楽章も葬送行進曲ではなく、気ままに散歩しているかのようだ。


2006年1月5日(木)

ベートーヴェン:交響曲第2・8番

ギーレン指揮 バーデンバーデンSWF交響楽団
(EMI)
1994年9月:2番/1993年8月:8番

 これらの曲でもスタイルは同じ。
 だが、こういうスタイルは2番の曲想とは少し合わないと思う。この曲はもう少し丸く、柔らかいイメージがある。
 ただ、ノリントンあたりも得意にしているように、いかにも古典派なところもあるので、これでもいいのかもしれない。

 スケルツオは入念に解釈しているように伺える。
 楽器感での音の受け渡しの「音動」の面白さと言うのだろうか。
 だが、私にはそういうものをあまり面白がる趣味はないので、こういう楽章はいつも退屈に感じられる。

 ギーレンというと、ザッハリッヒ、ニヒル、クールというイメージはあるが、爆演とは少し違うように感じていた。
 しかしここでの8番は切れている。とげとげしい、怒っている。ケーゲル、シェルヘン系だ。
 追い込みすぎて、オケも崩壊しかかっている。それは特に両端(第1・4)楽章で顕著だ。
 ここまでやらんでもいいだろうに、と思う。そこから見えてくるものは一体何だ。


2006年1月4日(水)

ベートーヴェン:交響曲第1・5番

ギーレン指揮 バーデンバーデンSWF交響楽団
(インターコード/EMI)
1992年8月:1番/1992年9月:5番

 今年はギーレン・イヤーということで、ギーレンものを何か聴いてみようと思った。
 久々に、ブル#9、マラ#9と聴いてみたが、このところさらにつまらなく感じるようになった。途中でリタイヤ。
 常々申し上げているが、ベト#9と並んで、これらは私にとって三重苦(九)だ。
 だが、ベートーヴェン#9は1楽章と、4楽章のコーダ部分だけは良いと思う。

 そんな中、始め(年始)はやっぱり1番てことで、ベートーヴェンの1番が目についた。
 今までロクに聴いていなかったが、これが大当たり。アンサンブルが良く、シャープでキレがあり、颯爽としている。録音もすこぶる良い。
 今はもう手元にないが、ワンドあたりがこういう風にやっていたと思う。

 カップリングが5番ということで、引き続きなだれ込む。この調子で行ってくれればと期待した。
 3楽章まではよかった。ところが終楽章で、突然普通に戻ってしまった。誰がやってもこうなりそうな、何の変哲もない演奏だ。
 息切れしたというか、緊張が続かなかったというか・・・。

 どうしたギーレン。今までのは何だったのだ。これではぶち壊しではないか。
 それともこれこそ真の狙いだったのか。「ベト#5なんて、こんなにつまらない曲よ。」

 ギーレンのインターコードでのベートーヴェンは全集を目指して作られたと思う。だから、このカップリングが意図されたものか、CDに詰め込む都合上の偶然なのかはわからない。
 だがギーレンのこと、企みがあったとしても不思議ではない。
 これは読み過ぎだろうか。

 ところで、何故今年がギーレン・イヤーなのか。
 1927年生まれのギーレンは、今年生誕79周年という、まことに記念すべき年なのである。
 因みに、ベートーヴェン生誕236周年、没後179周年という、奇跡のような年でもある。


2005年12月30日(金)

 シューマン:ピアノ協奏曲

 内田光子(Pf)

 B指揮/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
 2005年12月11日 NL_Radio4

 内田光子のシューマン協奏曲が聴ける。あり難いことです。
 内田はこの曲は録音していないはずだ。何故だ。斯界における七不思議のひとつだ。コンサートでは度々とりあげていると思う。

 この演奏を聴いて、理由が少しわかったような気がした。
 彼女は「今のこの曲を演奏し続けていたい」のではないだろうか。
 ある時点でのこの曲を固定してしまいたくない。
 もうこれ以上過ぎると衰えが始まる。そうなった時に初めて録音する。あるいは永久に録音しない。
 のではないだろうか。

 この曲、やり方によってはドロドロと怨念のようにもできる。ほの暗い雰囲気を出すこともできる。
 だが内田はそういう方向には感じられなかった。表情は意外にも明るく、流麗であった。内面は暗く悲しいのだけど、わざと明るく振舞おうとしているかのようだ。
 演奏を聴いて、ますます謎めいてきたように思えた。

 指揮は、まさかの某B。前プロのエグモントからして、「やっぱり・・・トホホ」の出来。
 ティンパニなど委細かまわずぶったたかせている。奏者にしても相応にコントロールできそうなものだが、これはホールの音響かマイクセッティングのせいなのだろうか。

 このオケ、この本拠地ホールでの弦の響きには聴くべきものがあった。ネットラジオという不利な聴取環境でもそれだけはよくわかった。


2005年12月29日(木)

マーラー:交響曲第2番「復活」

Elisabeth Breul(S) /Annelise Burmeister(A)
ライプチヒ放送合唱団

ケーゲル指揮/ライプチヒ放送交響楽団
1975年(ヴァイトブリック)

 コンヴィチュニーの擬似ステレオ疑惑(もう忘れ去られているだろうか)で、すっかり信用しなくなっていたこのレーベルだが、ケーゲルのいい録音がボツボツリリースされ、見直しているところだ。
 これは逆に全く手を加えていない様子の音質で好ましい。ホワイトノイズも多い。(これはいいことだ。)

 演奏は、これぞケーゲルと言えるもの。
 破滅的という表現を時折聞くが、これは破壊的、壊滅的といったほうがよい。復活は破壊から始まるとでもいいたげだ。

 演奏はまるでアマオケのようだ。白熱ぶりもまた然り。外したり落ちたり、とても誉められたものではないが、伝わる熱狂、感動も一入(ひとしお)だ。
 ライヴで、拍手も入っているところもよい。
 こういう演奏なら、コーダ(があるのかどうかは知らないが)に入ったところで、拍手や掛け声が入っても全く構わないと私は思う。

 ケーゲルの演奏にはクセはあるかもしれないが、「くささ」がないところがいい。
 これは納得の1枚だ。
 だが、繰り返しの鑑賞に耐えられるかというと疑わしい部分もある。一期一会の名演と申し上げておこう。


2005年12月28日(水)

マーラー:交響曲第2番「復活」

アーリン・オジェー(S)/デイム・ジャネット・ベイカー(Ms)
CBSO合唱団

サイモン・ラトル指揮/バーミンガム市交響楽団
1986年 EMI

 この曲の現在のマイベストは、

 ギーレン指揮/SWR交響楽団(ヘンスラー)
 シェルヘン指揮/V・S・O・O(=ヴィーン・ステイト・オペラO、=国立歌劇場O)(ウエストミンスター)


 これが双璧だ、甲乙はつけ難い。
 いつもこればかりでは何なので、他にいいものがあればと捜している。しかし、なかなか見つかるものではない。

 ラトルのこの演奏、何を今さらということなのかもしれないが、ラトルのマーラーなら大きく外れまいという読みだった。
 幸いこれは当たった。
 私はマーラーは大好きというわけではないが、聴くならギーレンやシャイーのように、あっさりしたもの、ドロドロしていないものの方が良い。100%マーラーになりきって・・・というのは勘弁して欲しい。

 ラトルの指揮(解釈)には特有のクセがあると思うが、マーラーに関してはそれが邪魔にならない。大見得やけれんみが、マーラーの気質と同調しているように感じられる。計算と言えばそうなのかもしれないが、冷めた視点、冷静なコントロールがあると思う。
 
 印象に残ったのは2楽章冒頭。これほど幻想的な出だしは聴いたことがない。
 終楽章でのオルガンが効果的に録音されているのも良い。

 結論としては、ギーレン、シェルヘンを凌駕するには至らなかったが、第3位には着けた演奏だ。
 
 ほぼ時を同じくして、ラトル−CBSOのお別れコンサートでの同曲のライヴ映像を観ることができたが、これもとても良い出来で、映像で観たこの曲では最高のものだ。
 アルトのオッターが気合が入りすぎていたのが少し残念だったが。


2005年12月27日(火)

 マーラー:交響曲第2番「復活」
 
 ヘレン・ワッツ(CA)/ヘザー・ハーパー(S)
 ロンドン交響合唱団
 
 ショルティ指揮/ロンドン交響楽団
 1966年 英デッカ
 
 武骨でありながらギラギラした感じ。線はくっきりはっきりしているが、マーラーらしいかというと疑問も残る。ショルティの個性が強く出た演奏だ。
 この印象は、録音の影響によるものかもしれない。66年、栄光のデッカ録音。シャープだ。

 今回(今年?)ショルティにちょっと興味を持ったのは、BPO/ショスタコーヴィッチ:交響曲第5番の映像ライヴを観られたからだ。
 何というミスマッチかと思ったが、これがすこぶる良い。
 フィナーレではBPOを崩壊寸前にまで追い込んでいる。ショルティじゃなきゃできないなーと思った。(崩壊を見事阻止して立て直しているのがティンパニー。流石だと思った。誰だろう?)
 それで無理してモツレクやら、これやらを聴いてみたが、どうもパッとせず。未だ評価が定まらない。

 マグダレーナ・ハヨージョヴァ(S)/ウタ・プリーヴ(A)
 ベルリン歌劇場合唱団
 
 スウィートナー指揮/シュターツカベレ・ベルリン
 1983年 ドイツ・シャルプラッテン

 
 これが話題になることはほとんどない。しかし、実はとても実直な演奏で、思わず目頭が熱く・・・なーんてことを期待したのだが、その期待は脆くも崩れる。
 タガがゆるんでいるというか、詰めが甘いというか、締めが足りないというか。要所要所でちょっとバラける感じ、前のめりに出る感じがスウィートナーらしいところだ。
 残念ながら、納得させられた、ということはなかった。

 アバド指揮/ルツェルン祝祭管弦楽団、他
 (エヌ・エイチ・ケー・テレビ放送)

 私には、アバドの良さも全くわからない。
 何度観ても面白くない。平凡というか凡庸というか・・・。
 アバドにおける?唯一の聴き所は、エリクソン合唱団(スウェーデン放送合唱団)を起用すること。このライヴがそうかどうかははっきりしない。

 以前SONYのベートーヴェン:交響曲第9番を、同合唱団目当てに聴いてみたが、これもさんざん。
 数回トライしたものの、やはり納得できず手離した。


2005年12月26日(月)

 マーラー:交響曲第2番「復活」

 メラニー・ディエナー(S)/ペトラ・ラング(MS)
 プラハ交響合唱団

 シャイー指揮/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
 2001年 デッカ

 これは恐ろしく録音が優秀だ。
 グランカッサの重低音もブルブル。
 だが、これがかなり音圧を食う?らしく、バランスをとるために他の部分が押さえられて、全体に低目の音量設定だ。

 シャイーのマーラーには期待していた。終始冷静で、他の作曲家では合わないこともあるが、マーラーに関しては、この涼しげなところが良い。

 しかしここでの問題はアルト。力みすぎているのか、声がつぶれて?いるところがある。これがすべてをぶち壊している。
 あれで最高の出来なのだろうか。全員(本人も指揮者もオケもレーベルも)が納得していたのだろうか。
 合唱もそれほど良いとは思えず。

 録音が優秀なだけに残念だった。


2005年12月23日(金)
モーツァルト:レクイエム K626

アーリン・オジェー(S)/チェチーリア・バルトリ(Ms)
ヴィルソン・コール(T)/ルネ・パーペ(B)
ヴィーン国立歌劇場合唱団

サー・ゲオルク・ショルティ指揮 ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1991年 (デッカ LD版)

 一度はどんなものか見ておきたいと思っていた。なかなか安く(値崩れ)ならなかったが、適当なところで買ってみた。

 特別な儀式での演奏ということで、ミサの進行に合わせて部分部分が演奏される。従って流れが完全に分断され、まとまりがない。

 演奏部分だけの音声を抜き出してCD化して通して聴いてみても、どうにも面白味が感じれれない。一言で言えば平凡。特にこの演奏で聴かねばという必然性はない。
 女声ソロ陣はがんばりが感じられるが、合唱陣は万全とは言い難く、オケに至っては例の如くルーチンワーク。凡庸と言ってもよい。

 ここでのショルティの指揮はニヤニヤしている、あるいはギラギラしていると言われることもあるようだが、特にそんな風には感じられなかった。


2005年12月22日(木)
モーツァルト:レクイエム K626

クリスティーナ・シェーファー(S)/ベルナンダ・フィンク(A)
ジェラルド・フィンレイ(T)/クルト・シュトラト(B)
アーノルド・シェーンベルク合唱団

アーノンクール指揮 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス (BMG)

 アーノンクールについては、ベートーヴェン、シューマン、ブルックナー、ドヴォルザークなどを少しばかりかじったが、今は全て手元にない。

 このディスクに注目したのは、ソプラノのシェーファーと合唱。
 店頭で試聴し、「やっぱり、アーノンクールって、こういう風にやるんだな〜」と思い、高額でもあったので、購入は見送っていた。今回、中古でまあまあ安かったので、入手してみた。

 印象は変わらず。 「こ
な」風に演奏すると、一体何がどう良くなるんだろうと。

 オケや、合唱には「そういう」奏法が徹底されているが、ソロに対してはそうでもない。
 「そういう」奏法、表現をするのに一生懸命(一杯一杯)で、それ以上のもっと大切なものが引き出せていないのではないか。

 時間をおいて聴き直してみると、「これはこれで悪くないのかな」という印象にもなるが、単に慣れたからかもしれない。
 しかしながら、未だこれを聴いて感動を得られたということはない。多少感心はしてもだ。

 最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。(旧約聖書 箴言 18-17)

 一方の意見を見聞きしているだけでは真実は見えない。
 反対意見を聞く、裏を読む(とる)ことだ。


2005年12月21日(水)
バッハ:ロ短調ミサ曲

B指揮/ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、他
(エヌ・エイチ・ケー・テレビ放送)

 疑問を感じても、良くなかったという意見はなかなか言えないものだ。
 私への風当たりなど穏やかならざることは、重々承知している。だから、私が悪者の代表になって進ぜよう。

 これは私が聴いたこの曲のうちでは、最低に近い出来だった。
 この指揮者、穏健派、良識派に見えて、その実意外と荒く雑だ。
 フニャフニャ、ナヨナヨした動きの割に、無節操にうるさく鳴らしてしまう。
 所謂ノーコン(ノー・コントロール)。
 同オケとの来日ライヴでも「何だ、この程度か」と、がっかりしたことがある。

2005年12月20日(火)
バッハ:ロ短調ミサ曲

トーマス・ヘンゲルブロック指揮
フライブルク・バロック・オーケストラ、他 (DHM)

今年の期待外れ


 一部では非常に高い評価を受けているようだが、私にはサッパリだった。
 よく言えばイキイキ、ノリノリと言うのかもしれないが、私にはお気楽、ノー天気にしか聴こえない。

 最初の印象が悪くても、日を改め、条件(体調、精神状態)を変えて、3回まではチャンスを与えることにしている。
 しかし2回目もやはり印象は変わらず。
 3回目は、だんだん腹が立ってきて、聴くに耐えなくなり、蹴飛ばしたくなった。
 さっさと売り払った。

2005年12月19日(月)
バッハ:無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータ
レイチェル・ポッジャー (チャンネルクラシックス)

今年の再発見CD


 これは発売当時から、たいそう話題になったディスクだから、いまさら大騒ぎすることでもないと思う。

 今年の夏頃から、ガラクタは処分しよう、ということで、不要CDの整理も始めた。
 「無伴奏」もよく集めたが、どれも聴かないなーということで、棚卸してみた。

 処分の基本は、中身を確認しないこと。本や雑誌でも、読み出したら最後、手離せなくなる。
 CDも同様、聴かないこと。

 それでもシャコンヌくらいはと、さわりだけささっと聴いてみた。
 同時に7〜8枚処分しようとしていたのだが、どれも特に強い印象はなく「これもOK(処分可)」と山積みにしていたのだが、ポッジャーだけは特別だった。
 一瞬で魅せられてしまった。
 とても大きな表現で、ポッジャーの後ろに背後霊のようにバッハが立っている。
 偉大な、と言ってもよい。

 これは決して捨ててはいけない。
 ゴミの中に埋もれていた宝だ。他のCDをゴミと言い切ってしまうのもちょっと、と思うが、不要なものが必要なものを隠してしまう典型的な例だ。
 今年最大の発見だった。

2005年12月15日(木)
シベリウス:交響曲全集
ザンデルリンク指揮 BSO (BC)

 ザンデルリンクのシベリウスが、それほど話題になることはないかもしれない。
 スタイルはいつもの通り、目新しいところは何もない。地味と言えば地味、古風と言えば古風。
 しかし、このシベリウスは大きい。雄大な大自然のパノラマか、一大スペクタクルだ。
 もともとシベリウスの音楽とはそういうものなのかもしれないが、1番から7番まで同じ大きさで描かれていて、全体でひとつにまとまっているようだ。

 昨今では、シャープでスタイリッシュなシベリウスが流行りなのかもしれない。
 しかし、このシベリウスに慣れてしまうと、それらが、庭先のつむじ風か、コップの中の嵐のように感じられる。 

2005年12月14日(水)
ベートーヴェン:交響曲第8番
ワーグナー:ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲

ザンデルリンク指揮 ドレスデン国立管弦楽団(TDK)

 ライナーノートによると、これは東ドイツと国交樹立して、このオケの初来日の記録ということだ。
 この時だったかどうかはわからないが、このオケのFM放送があった時、解説者が「このオケは(現地では)ドレスデン・シュターツカペレ(あるいは、その逆)と言いまして・・・。」と盛んに言っていたのを思い出す。
 マルヤマ・ケイスケ氏か、カネコ・ケンジ氏ではなかったかと思う。

 もうひとつは、「ニュルンベルク・・・」
 放送を聴いた翌日、友人と、
 「昨日のアンコールの曲、凄かったな。何て曲だ?」
 「ワーグナーの『ナントカナントカのナントカナントカ前奏曲』って言ってたぞ。」
 「ふーん、ナントカナントカねぇ・・・。」
 訳のわからない会話をしていた。

 これもこの時だったか、あるいはベーム/VPOの時だったのか、あまり定かではない。

 とりとめのない話であった。

 モノ(価格)には相場というものがある。
 相場より安くていい買い物が自分だけできるなんて、あり得ないと考えるのが普通だ。
 いや、「賢明だ」と言い替えたほうがいいかもしれない。


2005年12月13日(火)
ブラームス:ピアノ協奏曲第1番
エレーヌ・グリモー(Pf)
ザンデルリンク指揮 シュターツカペレ・ベルリン(ERATO)

 グリモーの名を知ったのは、このディスクが最初だったようだ。
 「ようだ」と言うのは、今までベートーヴェンのPf協奏曲第4番(マズア他/テルデック/99年)が最初だと思っていたからだ。別に四六時中そう思っているわけではないが、聞かれればそう答えていたと思う。

 しかし、改めて調べてみると、こちらの方が先らしい。
 このディスクのリリースは98年3月。当時ザンデルリンクの新譜なんて珍しく、出れば飛び付いていたから、すぐに買ったはずだ。

 ザンデルリンクと共演するこのピアニストは一体何者だ? しかもブラームス? 興味津々だった。
 以前書いたが、先ず目についたのが、手の大きさ(指の長さ)。これはいいピアニストに違いないと直感した。そしてそれは当たった。
 
 ライナーによると、彼らの最初の共演は94年、ベートーヴェン4番。
 その出会いは素晴らしいものだったという。
 その時、(次は)このブラームス1番をやりたいと、ザンデルリンクから申し出があったように書かれている。
 
 果たしてザンデルリンクはまた、グリモーを決して見なかったのだろうか。 

2005年12月12日(月)
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
ペーター・レーゼル(Pf)
ザンデルリンク指揮 BSO(BC)

 私はレーゼルはあまり好きではない。
 ん、失礼だろうか? では撤回して言い直そう。
 レーゼルの「音楽は」大嫌いだ。(もっと失礼?)
 
 ピアノは打楽器だとも言われるが、このピアノを聴くと、ただの打楽器に過ぎないとしか思えない。やたらたたくのである。デリカシーというものが感じられない。
 力強さと力まかせを勘違いしてはいけない。
 ピアノはメロディー楽器でもあるはずだ。某ピアニストなど、余韻までコントロールできるという。
 
 以前どこかに書いたかもしれないが、レーゼル/ペーター・フロール/BSO?のベートーヴェンPf協奏曲全集も、やはり同傾向。聴くに耐えなくて、とうに処分してしまった。
 ある評論によると、レーゼルには全く自己顕示欲がなく、音楽に全てを語らせる、という意味のことが書いてあったから、それを信じて買ったのに。そんなのは全くデタラメのように思われた。バカヤロー

 ところで、ザンデルリンクとフロールは同郷?ということも手伝ってか、音楽的なことに関しては仲がよかったらしい。「芸術的に許しあった仲」という表現をしている。但し、これはフロールの談では、である。ザンデルリンクの真意は未だ詳らかではない。

 これは、このディスクとは全く関係ないが、何か事が起こると、「まさか」という。
 最近は事件や事故が起こるとニュースキャスターが「まさか」といい、インタビューを受けた人が「まさか」という。
 「まさか」って一体何だ。
 「まさか」自分は死なないと思っているのか。
 
 自分が死ぬ以上の「まさか」がないとすれば、世の中で起こることなんて、ほんの些細なことだ。

 もうひとつは、「わずか」だ。
 「わずか10分の間に犯行は行われた。」「事件現場は、わずか20キロしか離れていない。」
 10分なんて、捉えようによっては永遠だし、20キロ歩いたら何時間かかると思っているのか。
 
 音楽とは一瞬を永遠に変える行為だと、私は思っている。


2005年12月11日(日)
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1・2番
内田光子(Pf)
ザンデルリンク指揮 バイエルン放送交響楽団(Ph)

 ザンデルリンクのベートーヴェンも、やはり何の問題もない。これは繰り返し述べていることだ。
 内田光子の存在を気にし出したのは遅かった。シューベルトのソナタがリリースされた頃からだ。モーツァルトやショパン時代?はよく知らない。
 同時期に、このベートーヴェン協奏曲も出た。矢継ぎ早という感じだった。
 
 それまで、1・2番というと、「誰か」の演奏で聴く程度だった。カップリングされていればついでに聴くが、敢えて積極的には、という感じ。
 だが、これはよく聴いた。「1・2番」というカップリングにも驚かされた。なんという自信かと思った。「3・4番」→「1・2番」→「5番」という順でリリースされ、いずれ全集になる予定であったとしてもだ。

 この演奏には、これと言った特徴はないかもしれないが、どこにも非の打ち所がない。
 内田のピアノにはある種のクセがあるらしいが、慣れてしまえば、それが普通(標準)になってしまう。他の演奏では、逆の部分がクセに思えるようになってしまう。

 ザンデルリンクと内田のエピソードは多いが、最も印象に残っているのは、「ザンデルリンクは協奏曲のソリストを決して見ない。」ということだ。少なくとも内田とはそうであったらしい。

2005年12月7日(水)
ショスタコーヴィッチ:交響曲第5番
ザンデルリンク指揮 ベルリン交響楽団 (HMF/1966年ライヴ)

 ザンデルリンクの音楽に、特に説明はいらないと思う。
 がっしりした骨格、大河のごとく悠然とした流れ、厚い響き。そして演奏から感じられる、圧倒的な楽員の信頼。(実はこれが一番重要なのだと思う。)
 逆に言えば、どの楽曲でもアプローチは同じ。ワンパターンと言えばワンパターン。

 彼の音楽にもまた、外れがない。彼の指揮のものがあれば、それを聴いておけばまちがいない。

 これは、ベルリン交響楽団の記念セットの中の1枚。1966年の録音ということで、比較的古い。ライヴだ。
 音質は抜群に良い。演奏ノイズ、客席ノイズもばっちり?だ。但し拍手は入っていない。

 この曲に関しては、比較的テンポを動かしている(緩急がある)と思う。
 作曲者本人から示唆を受けたとのことである。ザンデルリンクにとってショスタコーヴィッチは、ソヴィエト時代の命の恩人でもあったらしい。

2005年12月6日(火)
ショスタコーヴィッチ:交響曲第8番
●ザンデルリンク指揮 ベルリン交響楽団
●ザンデルリンク指揮 BPO (1997年 放送録音)

 BPOとのこの曲は、映像付きで放送されたことがある。だが、この時ビデオデッキが故障していて録画することが出来なかった。痛恨である。
 最近になって、音声だけは聴くことができた。
 意外にも、とても柔らかい表情をしていた。但し、録音状態が万全とは言いがたく、ホワイトノイズが多いので、そのせいもあるかもしれない。
 
 ショスタコーヴィッチと言うと、とかくうるさい、野蛮?という印象を受ける。
 ベルリン交響楽団との正規盤では、それに比べるとやや荒っぽい印象も受ける。だが、このシリーズは録音が抜群に良いのがうれしい。
 
 ところで、ザンデルリンク指揮のものに限らず、BPOのライヴ録音には外れがない。
 良い演奏だったから、許可されて放送されたのかもしれない。あるいは放送用収録日にはそれなりの気合が入っているのかもしれない。
 主に映像付きの放送で、BPO以外で良かったと思うことは極めて稀であるが、BPOで外れだと思ったことはほとんどない。私が観た、極めて偏狭な範囲でのことではあるが。 

2005年12月5日(月)
ブラームス:交響曲第3番
ザンデルリンク指揮 ドレスデン国立管弦楽団

 次にザンデルリンクと出会ったのは、ずっと後のことだ。おそらく95年くらいだったと思う。
 今度は、ブラームスの交響曲全集としてのCDをいろいろ集めていた。
 店頭で、RCAのこのシリーズが異常に安い価格で売られていて、それほど期待するでもなく「まぁ、この値段なら。」と、とりあえず買ってみたものだ。
 ところが、これがとんでもない代物であった。

 当時、それまで使っていた、セット10万円くらいのコンポが故障し、止む無く新しいセットを買った。デンオン製で、CD、プリメイン、スピーカーの3点セットで15万円ほどのものだ。これが思いの他音が良く、音質の大切さが分かってきたところだった。
 
 それで、このブラームス、とりわけ3番を聴いた時の衝撃は、今でもはっきり覚えている。
 それまで、ドレスデン国立管の噂は耳にしていた。しかしながら、チープな装置で聴いている限り、オケなんてどこでも同じだった。
 
 しかし、この装置で聴くこのCDは特別だった。こんなにいい音を出すオーケストラとは、ザンデルリンクとは一体何者なのだ。
 改めて、それまで普通以上だと思っていた他の指揮者のブラームスを聴いてみると、その懐(奥)の浅さ、呼吸の短さに愕然とした。ほとんど全てが失格なのである。
 この指揮者の尋常でない力量が、初めてわかった瞬間だった。

2005年12月4日(日)
ブラームス:交響曲第2番
ザンデルリンク指揮 ドレスデン国立管弦楽団
(写真は3番のもの) 

 ザンデルリンクの音楽を初めて聴いたのは、ドレスデン国立管とのブラームス2番だった。
 まだCD時代になる前だから、1970年代後半だったと思う。
 その時、ブラームス2番の何かいいレコードを買おうと思っていた。
 ありきたりのもの(当時はカラヤン、ベーム、フルトヴェングラー)ではおもしろくない。
 何かの評で、ザンデルリンクがいいらしいということを知った。多分、志鳥さんの文章だったと思う。
 
 で、買って聴いてみたのだけれど、さほどピンとくるものではなかった。普通といえば普通。

 当時の私は、まだ音や録音に対するこだわりはそれほどなかった。装置はもちろん、ソフトにさえあまりお金を掛けられる境遇でもなかった。
 後でわかったことだが、このシリーズは再生がとても難しい。

 諸々要因があったようだが、ザンデルリンクという名前は記憶に残ったものの、のめり込むまでには至らなかった。 

2005年12月3日(土)

 「私は専門家(プロ)ではないからわからない。」
 「○○を信用するしかない。」
 「国が、役所が、公的機関が決めた、認めた、許可したことだから・・・。」

 国や役所って一体何だ?
 主権、主体は、私やあなた(我々)ではないのか?
 どこの誰かもわからない誰かを盲目的に信用して、頼っていればいいのか。

 あなたは、人間の、人生の、生存のプロではないのか。
 そうあろうとは決して思わないか。
 永遠のアマチュアでよいのか。

2005年12月2日(金)

J.S.バッハ:ミサ曲ロ短調 BWV232

野々下由香里、藤崎美苗(S)
インゲボルク・ダンツ(A)
ゲルト・テュルク(T)
ペーター・コーイ(B)
鈴木雅明(指揮)/バッハ・コレギウム・ジャパン

●2005年12月9日(金)7:00 pm /会場:いずみホール(大阪)
●2005年12月11日(日)3:00 pm/会場:東京オペラシティ コンサートホール

 できれば行きたいコンサートだ。しかし旅費、宿泊費を考えると、どうしても踏み切れず、断念することにした。
 私が言うまでもなく、人気の公演らしい。残念ながら東京公演は完売のようだ。

 時折、良い現役演奏家の存在を知ることになる。それは評判だったり、たまたま聴いたCDに参加していて、思いがない発見だったりする。
 それから興味を持って調べてみると、比較的最近来日していて、「もう少し早く知っていれば・・・」と悔やむことになる。

 私は今のところ鈴木雅明に対しては、それほど興味を持っていない。
 注目すべきはアルトのインゲボルク・ダンツ。これは良い。少なくともCDで聴いた限りは。
 「あの時、ダンツが聴けてよかった。」と言われるに違いない。

2005年12月1日(木)

 旧約聖書 箴言
(1・17)鳥がみな見ているところで、網を張ってもむだなことだ。

(7・23)ついには矢が肝を射通し、鳥がわなに飛び込むように、自分のいのちがかかっているのを知らない。

(27・1)あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。

旧約聖書 伝道者の書
(8・7)何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。

(9・12)しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、わなにかかった鳥のように、人の子らもまた、わざわいの時が突然彼らを襲うと、それにかかってしまう。

旧約聖書 箴言
(13・24)むちを控える者は、その子を憎む者である。子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。


2005年11月30日(水)

 おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。
 ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。(新約聖書 ルカ伝 12・2〜)

 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
 衣食があれば、それで満足すべきです。
 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(新約聖書 テモテへの手紙 第一 6・7〜)


2005年8月30日(火)

 パレートの「80−20の法則」というのがある。
 最近ではこういう理論がいろんなところで広く一般にも流布されているようなので、ご存知の方も多いと思う。

 重要なものは、全体の20%であり、その重要度は80%を占めるというものだ。
 社員が10人いれば、優秀なのは2人で、その2人が成果の80%を上げ、残りの8人で20%の成果を上げる。
 CDが10枚あれば、そのうち2枚を80%の頻度で鑑賞することになる。
 なるほど思い当たることばかりだ。

 さて、ある楽曲のいい演奏を捜そうということで、10のデータ(情報)が集まったとする。
 この理論を応用?すれば、全部買って聴いてみたとしても、気に入るのはせいぜい2〜3枚ということだ。
 私の経験値でもだいたいそんなところだ。吟味に吟味を重ねてセレクトしてもだ。
 (10枚買ったら5枚気に入った、というような守備範囲の広い人なら、そもそもセレクトする必要はないだろう。)
 
 だとしたら、そこそこ大きなショップに行って、その時並んでいるCDをランダムに、あるいは端から順に買ってきても、ほとんど同じ結果が得られるのではないだろうか。
 あるいは、ショップに並んでいるCDなんて、下らないものばかりだから、やっぱり「誰か」が推薦したものでなければ不安だということだろうか。
 
 世にいう「定番(盤)」をバカにしてはいけない。
 これは10人のうち8人・・・とまではいかないかもしれないが、おそらく過半数の人が水準以上だと認めるものだろう。
 これで満足できないなら、やっぱり何か違ったものを求めているヒネクレモノということになる。

2005年8月29日(月)

 誰か・・しかもどこの誰かもわからない誰か・・に推薦してもらわないと何を聴いてよいのかわからない。
 「あの演奏どうですか?」そんなことを他人に訊いて何の役に立つのか。
 「いい」と言われたのに、自分は良くないと思った時、責任を他人に擦(なす)り付けるための逃げ道か。

 フロンティアは偉大だ。己の本能(勘と経験)を信じて未知の演奏に挑む!?
 その代わり失敗(失望)も数知れない。しかし、その中から本当の宝が見つかる。

 自前の価値判断ができる人を大人という。

2005年8月15日(月)

 必要があって捜している時にどうしても見つからず、後で大掃除をしている時にひょっこり出てきた、という経験は、どなたにもあると思う。
 ガラクタ(不要品)は必要なものを隠してしまう力がある。

 CDとて例外ではない。
 それを持っていて、なんとなくいい演奏だったことは無意識?では知って(憶えて)いる。しかし敢えて棚や倉庫の奥から引っ張り出して聴いてみようという気までは起こらない。
 退蔵現象だ。

 人が何か聴いてみようという動機とは、いかなるものか。
 放っておくと、何となく最近のお気に入りばかりを繰り返し聴いてしまうものではないだろうか。本を読んだり、ネットを閲覧したり、放送があったりで、何か新しい刺激を受けたり、インスパイアーされない限りは。

 そういう意味では「棚卸」という行為は、自分のコレクションを整理する上でも、とても意義のあることだ。
 コレクションが整理されれば、自分自身も整理される。 

2005年8月14日(日)

 「退蔵」という言葉も知った。
 意味はあえて言うまい。今インターネットにつながっている(はずだが)のなら、すぐに調べられる。

 この言葉との出会いは衝撃的であった。私の人生観、価値観をがらっと変えてくれた。(またかよ。)
 もちろん言葉そのものは知らなくても、概念としては理解していた。

 この本に出ていたのかどうかは記憶がない。パラパラっと見てもすぐに見つからないから、他のところで知ったのかもしれない。不思議なもので、関連する情報は同時に集まってくるものだ。

 この本と出会ったのは3ヶ月ほど前だ。
 実のところ、ここ1〜2年はCDの購入枚数は極端に少ない。
 暮れになると「今年のベスト10」などということを考えるものだが、昨年あたり、購入枚数がそのままベストにならざるをえない状況だった。今年もおそらくまだ10枚超えていないと思う。
 
 元来そういうことはいちいち記録しないし、手元に何枚あるかということにも興味はない。
 ラックの1段で40〜50枚。ざっと30段くらいで1200枚以上かな、という程度だ。
 以前にも書いたと思うが、モノを言うにあたり、とりあえず1000枚くらいあればいいかなという基準で集めたものだ。
 ところがいざ集めてみると、2度と聴く時間のないCDが生まれてくる?ことがわかる。
 聴く時間がないCDというのは本当はおかしいのだが、この半年〜1年聴いていないCDを順番に聴いてみようと思うと、自分の尻尾を追いかけるように永久に捕まらない状態になる。
 
 さらに繰り返しになるかもしれないが、ざっと計算してみる。
 毎日夜8時から12時まで、土日は12時間聴けるとして、上乗せ分が8時間。
 365×4=1460
 100×8= 800
 合計2260時間
 余暇をすべてリスニングに充てると仮定して、これが年間で聴ける量だ。CD2000枚程度だ。
 
 私の場合1000枚程度でも、おそらく7〜8割は1年以上聴いていない。それどころか買って1度きり聴いただけというものも多い。

 1年間使わないモノ(聴かないCD)は退蔵と言ってよいとのことである。
 もちろん特別に感動を受けたもの、思い入れのあるものは別だ。そいういう真のコレクション以外のものは、一旦処分し、本当に聴きたくなったらその時にまた買えばいい。処分した費用を別のCDの購入に充てればキャッシュフロー効率もよい。

 「退蔵は『ごんぞう』であり、犯罪である。」ウタマロデス


2005年8月13日(土)

 そうと決まれば話は早い。私は片っ端から処分を始めた。

 方法はいろいろある。普通のゴミに出せるもの。粗大ゴミになるもの(※)。リサイクル、中古屋に売れるもの。それと似ているが資源として売れるもの。
 (※「になるもの」なんて絶対に使いたくない言葉だが、この場合これが最も適当な使い方なのでしょうがない。)

 粗大ゴミは、私の市(自治体)の場合、有料で回収にきてもらえるのだが、処理場に自分で持ち込めば1回あたり100キロ以下なら無料だ。
 これを始めてから、もう3回ほど持ち込んで、すっかりベテランと化してしまった。向こうの人も「やぁ、また来たの」ってな感じだ。

 雪だるま式というが、一旦加速が付くと、いらないものが次から次へと出てくる。一体どこに詰め込まれていたのか不思議に思えてくる。雪崩と言ったほうが相応しいかも。
 「千と千尋の神隠し」は、大方の人が観たと思う。私も観ました。とことん観ました。50回くらい観ました。
 その中で、川の神様から自転車を引っ張り出すシーンがある。するとゴミやら何やらが一気に出てくる。ちょうどあの感覚だ。あのシーンはこういうことを象徴しているのかもしれない。
 
 本の中にも記述があったかもしれないが、こうなると買うのと同じくらい捨てるのが楽しくなってくる。このままでは、家財道具一式処分してしまいそうだ。
 いや、もしこのまま家も土地も家族も、仕事も、そして日本も地球も捨ててしまったら・・・。一体何が起こるんだ?
 一瞬、そら恐ろしい感覚にとらわれた。もしかしたら、今すごいことを悟ってしまったのではないか・・・。

 さて、意外だったのは金属。
 オーディオの音質改善と称して、いろんな金属類を買い込んで、切ったり貼ったりしている。
 鉄はさっぱりのようだが、ステンレス、銅、アルミ、真鍮などの非鉄金属は、結構いい値段で引き取ってくれることもわかった。
 こういうものは、不燃ゴミに出さずに、有料で引き取ってくれるところを捜そう。不燃ゴミの一袋で500円や1000円になるかもしれない。
 (500円や1000円をバカにする人、レアものCDを万単位のカネでもぎ取って行くような人には無用の話かもしれない。だが、不燃ゴミを捨てに行って、先に出されたゴミの中に不要金属と称して?「10」と刻印された丸い銅金属が50枚入っていたら、持って帰らないだろうか?)

 こうしてガラクタの整理が進むと、最後にたどり着くのはプラスチックの塊だ。そう、銀色の円盤の入った四角い平べったい箱だ。
 これがどうにも邪魔に見えてくるから不思議だ。
 これはいったい何だ。何でこんなものが山のようになっているのだ。必要あるのかと。

2005年8月12日(金)
「ガラクタ捨てれば自分が見える」
 カレン・キングストン著/田村明子訳
 小学館文庫/定価514円+税
 ISBN4-09-418031-1

 最近の私はこれが原典?になっている。何を語るにも、これなくしては意味が通じない。はっきりここから話が始まるということを示したほうが早いと判断した。
 
 ある時ネット上で偶然開いたページで目に飛び込んできた。直感的に「これだ」と思った。
 
 内容については、何も語る必要がないくらいである。タイトルのまんま。
 一応?風水に基づいて、住環境、生活環境をクリアにしよう、という趣旨である。「風水」という言葉はブームのようなものでもあり、以前から知っている。だが、誰かのように、どこに何を飾ればよい、というのとはチョト違う。それは強調しておきたい。
  
 ここでの著者は、いらないもの(ガラクタ)が身の回りにあると、「気」の流れが悪くなり、何事(健康、金運、繁栄、その他人生全般)につけてもよくないと説く。
 
 私は未だ風水を100%信頼するところまでは至っていないが、いらないものがあれば、ホコリはたまり、空気は淀み、カビや細菌が発生し健康に害を及ぼすということは、科学的にも真っ当な理論だ。
 じゃまなものをいつも見ているのは、意識上では無視しているつもりでも、潜在意識上(下?)では、確実にパワーダウン(負の効果)を引き起こしている。
 
 極論すれば、物質的なものには意味はなく、自身の体ですら自分のものではない。体はこの地球から一時的に借りているもので、用が済んだら自動的にリサイクルされ、あなた(自分)なしで違うフォームを与えられる。「借りもの」である。
 という。
 
 詳しいことは、読んでいただいたほうが早い。
 とかく大袈裟な私であるが、この本は私の人生観、価値観をがらっと変えてくれた。(アレ、つい最近同じようなことをどこかで言ったような・・・。)

 この本を読みながら、ガッツ石松の言葉を思い出した。
 「人生はね、冥土から日本という国へ遊びに来ているようなもの。パスポートやビザが切れたらあの世へ帰って行くだけなんだ。それが寿命だよ。」

 仏教思想で時々聞くような気がするが、あの世が本当の住みかで、この世は仮の姿だ、と。

 ここに来てくれる人々は暇人ばかりだから(ハハハ、失礼)、そんなことはないと思うが、仕事が人生の目的だと思っているんじゃないかという(思われる)人たちがいる。
 そうして、健康を害したり、人生そのものを害してしまった(私の)友人知人が現にいる。
 先日書いたが、そういう人たちを私が変えることはできない。自分で気付いて変わってもらうしかない。
 これは、その試みである。


2005年8月10日(水)

 
これは一種のコレクション破壊だな、と思う
 最近の廃盤復刻。海賊盤の正規リリース。埋蔵放送音源のCD化。
 一昔前なら血眼になって捜し、取り合い(ある時には殴り合いだ)の末に大枚はたいて入手したレアものが、廉価盤として難なく手に入るのである。
 
 待てば海路の日和有りという。
 メンデルスゾーンも「静かな海と幸ある航海」と、なんだか呑気なことを言っておられる。達観だ。

2005年7月30日(土)

 
太陽系に新しい惑星が発見されたという。冥王星の外にだ。

 「そりゃ大変だ。ホルストのあの曲に、また付け加えなくちゃ。」アホカ・・・

2005年7月13日(水)
 折りしも、スペースシャトルの打ち上げ再開が伝えられている。

 だが、一体何のためにこんなことをしているのか。これが本当に人類の幸せにつながるのか。誰かが儲けようとしているだけではないのか。

 「いや、あんたが人類は宇宙に帰りたがっているんだと・・・」

2005年6月30日(木)
 蜘蛛が大胆に巣を張っているのが目につくような気がする。
 今年は台風が少ないのだろうか。
 蜘蛛の巣と台風に因果関係があったかどうかは浅学無知にして知らない。
 ツバメの巣とは何か関係があったと聞いたような気がする。

 しかしながら蜘蛛の巣は、台風にも負けないくらい丈夫なのだそうだ。
 確か中国の古典に記述があった。
 それに引き換え人間の作るものはどうだ。
 台風が来れば飛ばされ、雨が降れば流され、地震がくれば壊れる。

 いつも思う。人間というのは、いかにこの惑星の自然に馴染んでいないかを。
 不自然な存在なのである。

 人間は猿から進化したという。
 ではこの先、何に進化しようとしているのか。
 もっと高等な生物に進化する種族と、そうでない種族があって、今の人間はいずれその進化した生物に支配されるというのか。
 あるいは人間全てがその進化した生物になるのか。 
 そうでないというなら、進化しなかった猿と進化した猿(人間)の境界線はどこにあるのか。
 進化論者に説明してほしい。

 それとも、進化はここで止まって、人間が最も高等な生物だとでもいうのか。

 以前にも書いたと思うが、他の動物は絶対に宇宙へ出て行こうなどとはしない。何故人間だけがそんなことを企てるのか。必要だからではないのか。
 私は人間は他の惑星からやってきたと考えている。そしてこの惑星を利用しつくして、もう限界だから、他の惑星を捜しに宇宙へ出ていこうとしているのではないかと思う。

 バルビローリもそう言いたげだ。

2005年6月29日(水)
 モノの本によると、想像力がないのだそうだ。

 ちょっと先のことが読めない。
 その後どうなるのか、なってみないとわからない。

 「ウチの子(家族)に限って・・・、」あるいは「自分に限って・・・、」
 「○○わけがない。」

 まさか。
 そんなばかな。
 信じられない。
 夢にも思わなかった。

 当然ながらこういう向きは、相手の立場で考えることなどできるはずもない。

 ノイマンさんも、だいぶ力が入っているようです。

2005年6月28日(火)
A   _ _
       
    B    
         
         

 T字路である。
 Bから来た車が右折しようとしている。
 Aから来た車が右折しようとしている。

 この時、Bの車は先に出られると間違えている、あるいは先に行かせてもらえると勘違いしていることがある。

 こういうルールを知らない、あるいは自分に有利に、勝手に解釈する輩が、世の中を悪くしている。

 クナッパーツブッシュもあきれている。


2005年6月27日(月)
 市町村合併の話題でかまびすしい。ブームである。
 最近は少し下火になったか。

 そんなに一緒になりたいのなら全部、一行政区にしてしまえ。
 日本国日本県日本市日本町日本村大字日本字日本1丁目1番地1から1000000000000くらいまで用意しとけば、たいてい間に合うだろう。

 家屋総背番号制というやつですね。

2005年6月26日(日)
 「欲しいものは買うな。必要なものを買え。」

 最近出会った衝撃的な言葉だ。どこで見たのかは忘れた。本か雑誌かネット上だ。新聞ではなかったと思う。

 これは価値観、大袈裟に言えば人生観をも変えてしまうほどの重みがある。

 必要なものは寿命まで使いきることができるが、欲しかったものは、じきにいらなくなってしまう。気が付いてみれば、身の回りはガラクタやゴミだらけ。

 物を大切にするということは、自分を大切にするということだ。

 この件について、ケーゲルはもちろん怒っておられる。 

2005年6月23日(木)
 安全第一だという。

 絶対安全な電車?
 できますよ。
 どんなビルに衝突しても、そのビルをなぎ倒してしまう。
 テポドンが命中してもびくともしない。
 万全を期して制限速度は時速1キロ。
 こんな安全な素晴らしい電車に、運賃が1駅1000万円かかるといわれたら乗るだろうか?

 「いや、そこまで極端な、どこかに妥協点が・・・。」
 ではどこで妥協すればいいのか。「あの程度」の妥協点では気が済まないのか。

 絶対と言っても100%はありえない。いくつ9を並べれば気が済むかだ。
 99.999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999%
 このくらいなら乗ってみようと思うか。
 まだ足りない? 画面いっぱになるくらいでないと?
 99.99%ぐらいでは、てんでハナシにならんと?

 一日に何本の電車が走っているだろうか?
 いくつの駅に止まる? いくつのカーブを通過する?
 そのなかでオーバーランや脱線事故の起こる確率はいったいどのくらいなのか。
 5年や10年に1度脱線事故が起こる程度の確率ではおおいに不満だということか。

 結局、安い早いうまい。(うまいのは結構なことだが。)
 軽薄短小。
 便利が一番。
 品質はそこそこでいいから。
 100均、バーゲン、セールに群がる大衆が、なぜこと交通手段となると品質にこだわるのか。

 何でもいい。今あなたが手にしている商品が100%安全だなどと信じられるか。
 そんなことは自分が一番よくご存知だろう。
 いま自分が職場でやっていることを考えるがよい。
 自分は自分の職場で、100%安全あるいは完璧な商品やサービスを提供していると思っているのか。
 「自分は直接製品作りに携わっていない間接部門だから。」そう考えているようなら、その時点ですでに失格だ。

 「いや、そんなことは『誰か』の仕事で、自分は言われたこと、決められたことをやるだけだ。」
 こんな程度なんだろ。
 だから人在、人罪なのだ。

 採算が合わなければやらないのはあたりまえ。
 なのに自分が客、利用者の立場になるとそうではないと。

 えー・てぃー・えす。
 コンピューター制御なら安全だと考える愚かさ。
 コンピューターの安全を誰が保証しているのだ。
 コンピューターを作った人罪か、設置した人罪か。
 しかも、MADE IN ???

 また事故が起これば「えー・てぃー・えすが誤作動して・・・。」

 と、ザンデルリンクも考えているだろう。・・・ワケナイ


2005年6月22日(水)
 何が起こるのかは問題ではない。いつ起こるのかが重要なのだ。

 電車は脱線する。飛行機は落ちる。船は沈む。
 事件事故は、起こるべくして起こる。
 次は震撼線かもしれない。
 注意が薄れ、忘れた頃が危ない。

 そんなことを、このギーレンの「復活」を聴きながら、ふと思った。(ンナ、アホナ・・・)

2005年6月21日(火)
 まず、食料を確保しろ。国内自給率のことだ。
 これがあれば何も怖くないはずだ。
 これができなくて何が独立国なのか。

 このクニの食料自給率がどのくらいかご存知か。
 僅か40%である。
 ガイコクから食料を止められたら、あなたか私どちらかは餓死するということだ。
 世界でも100位以下というお粗末さ。
 北挑戦とどちらがましだというのか。北挑戦のデータはおそらく公開されていないだろう。当然だ、これは機密情報だから。
 ガイコクがこの数字を見たらいったいどう思うか。「何だ、ニホンなんて食料売ってやらないと脅せば、何でも言うこときくんじゃないか・・・。」

 戦後60年。かくして、このクニの敗戦国としての隷属、呪縛は未だ解けることはない。

 「ところで、このジャケ写は何なんですか? コメントと関係あるんですか?」ドウヨ

 「いっ、いえ、あの、その・・・。ジャケ写があれば、何となく音楽サイトっぽいかな〜なんて・・・。」


2005年6月20日(月)
 他人を変えることはできない。変えようと試みるのは徒労だ。
 ようやくそのことがわかった。
 他人との関係を変えようと思ったら自分が変わるしかない。

 他人には変わってもらうのを待つしかない。
 それはこちらが望んでいる間は実現しないことが多い。
 忘れたころ、諦めたころ、やっと気付いてくれるものかもしれない。

2005年6月19日(日)
 仕事は手段だ。
 目的だと錯覚している向きが多いのではないか。

 「オレがいなけりゃはじまらない。」
 そう錯覚している向きも多いのではないか。
 しかしあなたが突然亡くなって明日から会社に行けなくなっても、まるで何事もなかったかのように会社は存続し続ける。実は代わりなんていくらでもいるのだ。

 不当な責任を押し付けられて、無理してでもやらなければ明日はないと思わされている。
 自然にそうなってしまっているのかもしれない。
 意図的に仕組まれているのかもしれない。
 自分が勝手に思い込んでいるだけなのかもしれない。

 いずれにしろあまり得な役回りだとは思えない。

2005年6月18日(土)
 ここは音楽がメインテーマだから、それ以外の一般的な話はどうかと思う。
 「そんなことをここで聞きたく(読みたく)ないよ。興味があればよそへ行けばいい。わしゃ音楽に興味があってここに来るんじゃ。」そういうことかもしれない。
 だから音楽に直接関係ない話題はなるべく避けてきた。
 しかし、音楽の話をしていても、結局は思想と切り離して考えることはできない。私の中では音楽=思想である。
 
 そういうことで、試みに少しやってみようと思います。


 人材はどこへ行った?


 店員に何か尋ねる。
 新人のアルバイト? 何もわからない。聞いた私が悪かった。

 会社に問い合わせをする。
 担当者が一人いないと何もわからない。聞いた私がアホでした。
 しかし、その人が突然会社を辞めたらどうするのか。本人に辞める意思がなくても、明日から会社に来られなくなることだってあるのだ。

 どこもかしこもシロウトばかりだ。全く応用がきかない。職業人としてのプロの自覚など当たり前のようにない。おまけに普通の人間(社会人というんですか?)としての常識もない。社会人としても会社人としてもダメということだ。

 企業の目的は利益を出すことだ。

 収益改善のためと称して、人件費の高いベテラン社員を減らし、作業はマニュアル化し、誰でもできるようにする。しかし、それは本来の意味での仕事ではない、あくまで作業であり、単純労働だ。
 結果、肝心なところにまともな人材がいない。
 例えば開発現場とて、若い(幼い)学問的に優秀な頭脳を置いておけばいい、というものではないだろう。そこから送り出された商品(サービス)が、将来どのような結果を生むのかということを十分予想できなければ危険だ。

 それに、金が儲かれば何をやってもいいというものでもあるまい。
 見よ今のくだらない商品の氾濫を。おもちゃやゲーム。
 子供にそういうものを与えるということは、大人に麻薬や凶器やギャンブルを与えるのと同じだ。いや「大人」という表現もここでは正しくない。「年とった子供」がふさわしい。

 なくてもいいものを一生懸命作って売る。それしか儲かる方法がないから?

 「ジンザイ」には4つある。人財、人材、人在、人罪。
 説明は必要あるまい。ここに来てくれる人にはせめて「人材」でいてほしい。

2004年10月5日(火)

 今回15種類ほどのCDプレーヤーを試聴した。下は数万から上は100万超えのものもある。
 問題は、最も比較したい機種同士がなかなか一ヶ所で試聴できないこと。また、店によってはろくな試聴環境ではないことだ。しかしその機種がそこでしか試聴できなければしかたない。(他店でも入手はできるにしろ、試聴用に用意されていないケースもある。)

 とにかく選択肢がない。メジャーなところでは、デノン、マランツ、ティアック(エソテリック)くらいだ。どこに行ってもそれ以外の名前が出てくることは少ない。しかもデノンとマランツは一つの親会社で、ラインナップも整理統合されつつあるようだし、実質1社。

 さすがにこのクラスならと思ったのは50万以上だ。具体的にはアキュフェーズDP−77(定価60万円税別)。
 私もそれまでアキュフェーズなんて(どうせ手が出ないことだし)、という勝手なイメージを描いていたが、改めて聴いてみて納得した。
 DP−67(定価36万円税別)でも妥協できるレベルだろうと想像するが、残念ながら今回は試聴の機会がなかった。

 そんな中、比較的安価で印象に残った機種がある。
 ONKYO C−1VL(定価105,000円税込み)
 オンキョーなんて珍しいな、最近聞かないなと思った。ある店で勧められたので半信半疑で聴いてみたが、驚いた。
 まず低域がしっかりしている。いわゆる土台がしっかりしているから、安心感がある。ピアノでは沈み込む感じが良い。
 次に細かい音がよく聴こえる。あ、まだこんな音が入っていたのか。聴き慣れたCDを聴いて新しい発見をしたこともある。気配感(サワサワ感)もよく出る。

 しかしながら高域方向では少し弱い。ハイ落ち感はあるし、サ行でシャリつくところがある。詰まり感や荒さを感じる。
 奥行き、立体感の表現も良くない。したがって薄っぺらい、あるいはチャチな音という印象を受ける。上のクラスと比較すればという条件がつくが、これで聴き慣れればそれほど気にならなくなるかもしれない。
 これらは価格帯から見てやむを得ないところだろう。CPとしては良いが、やはりここまで。
 現在この価格帯以上をお使いなら買い替えを勧めることはないが、これから何か、とお考えの向きには良いと思う。
 私も最後まで気になっていたが、最終的には購入には至らなかった。この2倍くらいの価格でよいから、奥行き、立体感が出てくれば真剣に検討してもよいと思った。しかしショップの話ではそういう機種が今後出てくることはまずないだろうということだった。惜しいと思う。
 このプレーヤーは英Wolfson社製DACをLR独立して2個搭載している。かなり音質の良いものらしく、功を奏しているようだ。

 これはまた某ショップで聞いた話だが、ピックアップ(ドライブ)メカやDACなどのデバイス?はどこでも使うものは大体同じだ(逆に限られている)。その後の「音作り」で大方のメーカーではどうしていいかわからない。だから「音作り」のできる、あるメーカー郡が良いのだと。

 そのショップ一押しの機種を聴かせていただいた。定価50万くらい。もっぱら「音楽性」がウリ。
 だがこの「音楽性」というのがいちばんアヤシイ。何かとオカルト、プラシボといわれる世界だが、「ほ〜ら、音楽性に優れてる・・・。」と、催眠術を掛けられらたあと聴く音ほど警戒を要するものはない。
 私はリクエストを出した。「これでどうだ。」という音(構成)で聴かせてください。後から「いや、これはアンプが・・・、スピーカーが・・・、ケーブルが・・・、エージングが・・・。」と言い訳しないように。

 私はその後、音楽性に優れないメーカーと両方聴いて思った。
 音なんか作ってくれなくてもよい。どうやって作っていいかわからないから、ママ出ししてくれた音のほうが、私にとってははるかに良い。先述した「何も足さない、何も引かない」音だ。 
 そういえば音作りのできない大方のメーカーの音はどれも似ているように思う。これらがきっと真実に近い音に違いない。私はそういう不器用なメーカー(の技術者)に感謝した。
 逆に音作りがうまいとのたまわれるメーカー郡では、だいたい共通して音がボケボケになっている。たしかにそれらしい雰囲気は出ている。「音楽」を妙に心地よく聴く、あるいは楽しむためには良いプレーヤーかもしれない。
 しかしそれはオーディオメーカーが作った音であり、演奏者、録音者?の音ではない。私は出来る限り原音(原録音)再生を目指し、そこから初めて聴こえてくる音楽がどうなのかということころで勝負?したい。
 
 「こういう音を聴いて、正直どう思います?」私は音楽性に優れないプレーヤーを指差して聞いた。
 「やっぱり、固い、冷たい、細いって思います?」私は答えを想定してさらに続ける。「でも、私はこっちの音のほうが、聴いていたいと思いますね。」それは定価15万ほどのプレーヤーだ。
 店員は答える。「音の好みは様々ですから、《音が悪くても》いろんなプレーヤーを置いて売っているんですよ。」 
 《音が悪くても》とは言わなかった。しかし私の心(頭)には聞こえた。


2004年10月2日(土)

 「何で装置によって音が違うんですか?」私は店員に問う。極めて素朴である。
 
 何を分かりきったことを聞くのだ。アホなことを。そう顔で答える人もいる。
 そんなにおかしな質問だろうか。たいていこういう答えが返ってくる。「作る人(メーカー)が違うからですよ。」
 では、作る人はいったい何を考えて、目指して作っているのだ。自分の好みと勝手なイメージで「原音」を変形させているのか。原音を忠実に再生するプレーヤー(ひいてはシステム全体)はできないのか。

 「原音再生」なんかできるはずがない。ほとんどの人は言う。皮でできたティンパニの音が、木と紙(コーン)と金属でできたスピーカーで忠実に再現できるわけがない。
 そうだろうか。あんたのスピーカーではピアノとトランペットを聴き間違えることがありますか?
 音源はどういう物体(物質)であれ、耳(マイク)に届く音は単なる空気振動だ。この空気の振動パターンが忠実に再現できればそれが原音再生だ。
 ホールとリスニングルームでは音響特性が違う。それはわかる、がそれは別の問題だ。少なくともマイクで拾った瞬間(直前)の音が、スピーカーの直後?からは出ている。そこまではできるはずだ。

 言葉で言うのは簡単だが、実現は極めて難しい。確かに。しかしそこに一歩でも、あるいは限りなく近づこうとするのが理想であり、あるべき姿ではないのか。
 繰り返すが、作る人(メーカー)が自分勝手に原音をデフォルメしているというのか。それがメーカーポリシーであり、メーカーの個性なんだから、ユーザーは無理やりどれかに迎合しろということなのか。

 ある、わかった人は言う。
 CDからデジタルデータをピックアップするまでは同じだと。
 その後のD/Aコンバータ(DAC)の部分でキャラクターが付いてしまうのだと。結局はアナログの部分なのだと。そして今の日本(のメーカー)にはまともなアナログ技術者はいないのだと。衰退してしまったのだと。だから○○国製がいいのだと。

 録音現場でマイクで拾った音を、A/D変換する部分で、メーカー(レーベル)毎に、あるいは現場、装置毎に既に差ができてしまっている。だから一つの再生装置(DAC)で等しく元の音に戻すのはやはり無理だ。これは事実だ。
 しかし何も足さない、何も引かない、出来る限りニュートラルにというのが良心ではないのか。
 「フラットな特性の装置を作ることはできる。しかしそれはつまらない音だ。」ある有名ベテラン技術者の談である。
 私は一度是非そのつまらない音を聴いてみたいと思う。ただ、その人も単に自分好みの音を出したいだけだ、との批判も見聞きする。
 
 いや、皆そのつもりでやって、やっぱり「この程度の誤差」は出てしまうのか。この程度の誤差とは、A社とB社の同価格帯の装置の音の差のことである。

 フィリップスのCDはフィリップスの装置で、デンオンのCDはデンオンの装置で再生すれば良いのか。
 じゃあ、DGやEMIはどうする?・・・捨てるか。


2004年10月1日(金)

 
思いがけずCDプレーヤーが故障してしまった。いや、こういう事はたいてい突然起きるものだ。予定通りなんてことは有り得ない。
 人生、想定していない最悪の事態に、今遭遇するものだ。これを神の罠という。鳥や魚や他の動物たちは、人間が罠を仕掛けたとは知らずに、何故か突然命を落としていく。人間もまた神が罠を仕掛けたとは知らずに、何故今ここで俺が、と訳もわからず死んでいく。人事異動もまた同じ・・・ではないか。

 いきなり脱線しているが、問題は、既に修理不可能と言われてしまったことだ。代わりを捜さなければならない。
 そこでCDプレーヤー捜しという、辛く苦しい旅に出ることになった。それほど大袈裟なものであった。
 なんと言っても先立つものはカネである。カネさえあれば何も苦しむことはない。やおらショップに押し掛けざま店頭に居並ぶプレーヤーをざっと見渡し、目についたものを指差し一言、これくださいと言えばそれで事は片付くのである。
 せいぜいネギや大根を買うならそれでも良い。しかしハイエンドオーディオ店でこんなことをしようものなら、たちまち通帳から0が6個ほど消える。(あまり面白くない表現だが、100万円ほどかかる、ということ。)

 今回のプレーヤー選びはある意味で必死だった。実のところ、現在成り立っている我がシステムにはあまり自分の意志というものが入っていない。「これがいいらしい。」という簡単な情報だけをあてにして盲目的に選んだもので、比較試聴して自分の耳で選んだ装置ではないからだ。(ちなみに「試聴」とはこういうところで用いるのが正しい使い方。CDを店頭で試聴するのは良いが、自宅で試聴するなんて。いつ本気で聴くのだ・・・。)
 誤解してほしくはないが、買った動機がどうであれ、セッティングでそこから出来る限り最高の音が出るように尽くした努力は半端ではない。セット替えなど何百回試みたことか。

 今回分かったことは、結局値段に比例する、というごく当たり前の事実。かつて安原(顕)氏より、オーディオは値段が倍になっても音はせいぜい3%も良くなればオンの字だ、との言があったが、ことローエンドエリアではそれは全く当てはまらない。
 当然ながら一次正比例というわけではないが、例えば10万円クラスと20〜30万円クラスでは明らかに超えられない壁がある。倍くらいの差があると言っても過言ではない。
 だから10万クラス、あるいはそれ以下のプレーヤーを使っている方には誠に申し訳ないが、CDに録音されている音の半分も聴けていないと申し上げる。「音が半分」とは抽象的だが、官能的な聴感の部分や、得られる感動は半分以下だと言って良い。

 それで十分と考える方は一向に構わない。しかしそういう方からこのCDは音が良いとか、特定のレーベルの特定のリマスターはどうだとか、どのオケはどういう音だとか、そんな意見が出てくるのはチャンチャラおかしい。
 自分はオーディオマニアでもオタクでもないから、オーディオや音なんてどうでもいいんだよ、音楽が聴ければいいのさとおっしゃるが、それが本当に事実ならCDウォークマンかラジカセあるいは最近ではパソコンでも立派に再生できるらしいから、そういう装置で聴けばよい。
 今あるつまらないオーディオシステムをさっさと売り払って、代わりに他のCDを買ったほうがよほど幸せになれる。
 しかし私は違う。オーディオは非常に重要なものだから、どうせ聴かないCDを何枚か処分して、代わりに効果のあるケーブルやアクセサリーを買うほうがよほど幸せになれる。

 問題は、私も含めて(当然ハイエンドには手が届かないわけで)、まだ聴けてない音がかなり存在する、という事実を謙虚に受け止め、理解することだ。

(つづく・・・明日に続くのか、来月か、はたまた来年か。それは定かでない。)


2004年7月18日(日)
バッハ:ロ短調ミサ曲 BWV232

アーリン・オジェー(S) / ユリア・ハマリ(A)
アーダルベルト・クラウス(T) / ヴォルフガング・シェーン(B)

ゲッヒンゲン聖歌隊
バッハ・コレギウム・シュトゥットガルト
ヘルムート・リリング指揮

SC,1977
★★★

 盛んにロ短調ミサが素晴らしいと言うわけですが、「でっも〜、あたしって〜、クリスチャン?でもないっし〜、よっくわっかんないかも〜」。しかも2枚組の宗教曲となると、なかなか手が出せないのが普通です。全く知らない曲に2時間も付き合うのはかなり苦痛です。
 
 だが「宗教的」という要因はあまり関係ないと思う。私は宗教とは関係なしに「ただの?書物(キリスト教のみならずイスラム教、ユダヤ教の原典でもある)」としての聖書に親しむ機会がありましたから、歌詞を見ればどの部分からの引用で、どういう意味のことなのか、その前後関係、背景などが理解できます。
 しかしながら、そういう事情とは全く関係なくこの曲を聴き始めても、純粋に音楽的に楽しむことができます。もちろん歌詞の内容がわかれば、より深く理解できることは言うまでもありません。

 ということで、私的聴き所を挙げてみました。表の太字の部分です。(録音によってトラック分けが違います。)
 私はどちらかというと、独唱より合唱のほうが好きなので、どうしても合唱部分に偏りがちですが、アリアの好きな人ならすべてのアリアを挙げるかもしれません。
 
 本来の聴き方ではないにしろ、最初は「いいとこどり」で馴染んでゆくのもよいと思います。

 昨日、うっかり更新途中でアップロードしてしまいました。
 いちおう、今のところまだ生きていますので・・・。

A -- ベリンガー指揮(henssler)
B リリング指揮(henssler)、ジュリーニ指揮BRSO(SC)、ジュリーニ指揮BBCso(BBC)
C リリング指揮(SC)
 
      《キリエ》
1 1 1 1.合唱 「主よ憐れみたまえ」
2 2 2 2.二重唱 「キリストよ憐れみたまえ」
3 3 3 3.合唱 「主よ憐れみたまえ」
       
      《グロリア》
4 4 4 4.合唱 「いと高きところに」
5 5.合唱 「しかして地には平和」
5 6 5 6.アリア 「われら汝を崇めまつる」
6 7 6 7.合唱 「われら汝に感謝を捧げる」
7 8 7 8.二重唱 「主なる神、天の王」
8 9 8 9.合唱 「汝世の罪を除く者よ」
9 10 9 10.アリア 「汝父の右に坐したもう者よ」
10 11 10 11.アリア 「そはひとり汝のみ聖」
11 12 11 12.合唱 「聖霊とともに」
       
      《ニケア信教(クレド)》
1 1 1 13.合唱 「われは信ず」
2 2 2 14.合唱 「全能なる父」
3 3 3 15.二重唱 「しかして信ず」
4 4 4 16.合唱 「しかして肉体をとりて」
5 5 5 17.合唱 「十字架につけられ」
6 6 6 18.合唱 「三日目に甦り」
7 7 7 19.アリア 「しかして信ず、聖霊よ」
8 8 8 20.合唱 「われは言い表す」
9 9 21.合唱 「しかして待ち望む」
       
      《サンクトウス》
9 10 10 22.合唱 「聖なるかな」
10 11 11 23.合唱 「いと高きところにホザンナ」
11 12 12 24.アリア 「祝福あれ」
12 13 13 25.合唱 「いと高きところにホザンナ」
       
      《アニュス・デイ》
13 14 14 26.アリア 「神の小羊」
14 15 15 27.合唱 「われらに平安を与えたまえ」
       

2004年5月5日(水)

バッハ:ロ短調ミサ曲 BWV232

アーリン・オジェー(S) / アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(A)
アルド・バルティン(T) / ヴォルフガング・シェーン(B)

ゲッヒンゲン聖歌隊
バッハ・コレギウム・シュトゥットガルト
ヘルムート・リリング指揮

パイオニアDVD(LD有り)
★★★

 リリングの映像ソフトは、しばらく前にモーツァルトのK427のミサと、バッハやハイドンのオラトリオがリリースされましたので、もしやと期待していたのですが、やはり出ました。待ってましたと言いたいところです。

 リリングのこの曲は、1977年CBS(SC)盤、1988年本盤、1999年haenssler盤と3種類確認できています。

 CBS盤は、所謂大時代的、前時代的と言えるもので、構えの大きな演奏をしています。重厚でぶ厚い響き。音の塊が迫り来るようです。(こういう音は好きなんですが。) テンポもゆっくり目。
 ただ、当時良いと考えられていたマルチマイクによる合成録音のようで、特に前後感がちぐはぐ。管弦楽に合唱が埋まり込んだりしています。
 
 haenssler盤では、プロポーションを絞り、響きの透明度を上げ、すっきりした感じに仕上げています。
 こちらは所謂優秀録音で、全体の音場を重視し、奥行き感、立体感も十分です。それでいて、各パートや特に独唱はピンポイントで音像を特定できます。
 
 本盤は何かにつけてそれらの中間に位置する演奏で、リリングのスタイルの変遷を見るようです。
 この演奏で素晴らしいのは女声合唱陣のがんばりです。そのひたむきな姿勢には心打たれます。もちろんオジェー、オッターも必聴。
 映像、音声ともそこそこ優秀。ただそれほどたくさんのDVDを観たわけではないので、あてにはなりません。

 モーツァルトのミサは日本語字幕入りですので、多分これもそうでしょう。レクイエムやミサは単純で同じ文句の繰り返しが多いとは言え、やはり原語が理解できない我々にはありがたいことです。
 私の経験では、声楽曲というのは、レコードで聴いてなんだかよくわからないものでも、映像ソフトで字幕付きのものを観ると、理解しやすく親しめるような気がします。

 惜しむらくは、お値段がちょっとお高いことです。(5,985円)
 私は既にLDを持っていますから、4,000円くらいまでなら無理してでも買っておこうかなと思いますが、この値段ではとりあえず見送ります。
 でも私がこんなことを言っていては、どうしようか迷っている人も引いてしまうでしょうね。そうこうするうちすぐに廃盤。そしてまた中古市場を探しまくる、という悪循環が繰り返されるわけです。
 しかしながら映像で観られるロ短調ミサは貴重です。


2004年5月04日(火)

ベルリオーズ:「幻想交響曲」

ノリントン指揮/ロンドン・クラシカル・プレーヤーズ

EMI/VIRGIN 61379 2


 繰り返しますが、私はノリントンも既に見切っています。本盤とベートーヴェン(旧録)を少し持っていましたが、ベートーヴェンもダメだ(好みではない)、ということで処分してしいました。ベートーヴェンの実演を聴いた上でのことです。シューマンやメンデルスゾーン・・・もありましたかね。

 この曲にはストーリーや背景があるらしい。しかし、そういうものに興味はないので、敢えて知ろうとも調べようとも思わない。例えば「ギロチン」の場面でさえ、数年前に知人から教えてもらうまで(こちらから聞いたわけではなく)、そういう意味だとは知らずに聴いてきた。この曲を最初に聴いてから25年の間である。

 これは一時期の古楽器ブームのころ、一大事件となった録音のようである。
 当時はまだ好奇心旺盛だった私も、どれほどのものかと思い聴いてみたのだが、結果はやはり「???」。
 いったいこれのどこがどう凄いのだ。そして良いのだ。
 ダメだとなればあっさり処分したのですが、何だかよくわからないので、謎のレコードということで保存してありました。今回ふとしたきっかけから再度聴いてみたところ新しい発見がありました。

 それは鐘の音だ。
 一般的にここでは教会の鐘の音が鳴ることになっている。中にはお寺の梵鐘が鳴るという、ケーゲルの超変り種もある(ライプチヒRSO/BC)。(教会もお寺も役割は同じなんだけど。そういう意味でケーゲルがそこまで考えてやったとすれば、これは大いなるギャグだ。)

 その場面に来た時鳴ったのは、何と時計の鐘の音であった。大きな古い柱時計のそれだ。「ボーン」「ガーン」という感じだ。
 その音を聴いたとき、私は忽然と分かったのである。何だ、これは時を知らせる音だったのか。考えてみれば、教会の鐘というのはそういう目的で使われるんですよね。私はそれまでただひたすら音響としてとしか聴いていませんでした。だから「当時」カラヤンの鐘の音にいたく感激したものでした。(以前掲載)

 時が来て何かが成就する。これはヨーロッパキリスト教文化の思想であろう。
 時を告げる合図はラッパであることが多い。しかし教会の鐘が時を告げる手段であるとすれば、その音を擬態するのは、そういう意味であって然るべきだろう。
 だが、ここまできても、じゃあここで時が来てその後何が起こるのか、どうなったのかという「幻想交響曲」のストーリーには、やはり全く興味はない。

 これらは単なる私の妄想なのかもしれない。ノリントンがそういう意図でこの音を鳴らしたのか。あるいは楽団所有の楽器が、たまたまこういう音の出るものだっただけのことか。


2004年5月03日(月)

ブラームス:交響曲第2番

ジュリーニ指揮/ロス・アンジェルスPO

DG 400 066-2
1981

★☆
 
 ケーゲル/「アルルの女」「アダージョ」、スヴェトうーノフ/「ローマ三部作」、そしてこのジュリーニ/ロス・フィル/ブラームス2番。かつてはこれらが三大幻盤であった。
 時代は移り、前二者はもろくも復刻。最後の砦が本盤である。

 しかしながら諸君、全く心配はいらない。こんな演奏は聴かなくても何の不足もない。大金をはたいて競買?する必要など微塵もない。(「微塵」の使い方がおかしいか? 「さらさら」でもおかしいような気がするし・・・。)
 私にはこの演奏のどこが良いのかさっぱりわからない。「かちっとした演奏だ」そう評されていることもある。確かにそのとおり。「悲愴」を軽やかに演奏したのと全く逆のパターンで、この曲をごつごつ、かちかちと演奏している。刻んでいるようだ。
 しかしこれがブラームスの2番か。
 
 聴くなら断然VPO盤(同じくDG)だ。
 私はオケによって演奏(出来上がったもの)が変わるなどという妄想を抱いてはいないが、VPO盤のほうがはるかにこの曲の本質を表わしていると思う。
 だから異形のものを望む(怖いもの見たさ)向きには興味あるアイテムかもしれない。少なくともジュリーニを、ブラームスの2番を聴くためのレコードではないと思う。中古で1000円以下なら買ってもよし。これが私の結論だ。

 DGが本盤を復刻しないのは見識だと思う。
 逆説的であるが、こう言っていると意外とあっさり出てくることが多い。しかしながら、再発盤を聴いて大半が失望する。これはそういう類のレコードではないか。

 言葉や文章というのは難しいもので、会話しているならともかく、特にこういう一方通行の場合、意図の半分も伝わらないのが普通のようだ。とかく私の文章は誤解されがちだと思う。
 ジュリーニのレコードに対して、続けざまにこのように書くと、ジュリーニ嫌いでけなしているように思われる向きもあるかもしれない。
 しかし全く逆だ。私はジュリーニを尊敬し、心酔している。
 たまたまこれらのレコードは、ジュリーニにしては出来が悪く、私としてはお勧めできないと言いたいだけだ。

 また、「レコード」というのは一般的な「録音(盤)」という意味で、特に「LP」を指すわけではない。私は未だに「CD」という呼び方に馴染めない。

 


2004年5月02日(日)

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

ジュリーニ指揮/ロス・アンジェルスPO

DG
F35G 50101/400 029-2/POCG-3182/APPOLO 9
1976

★☆

 さる筋から、この録音が割合入手困難で、再発が望まれているとの情報を得ました。
 「へぇ〜、こんなものがね。」と思いました。私の場合、この録音についてはごく当たり前のように持っているばかりではなく、ご丁寧に3種類もあります。一時期、ジュリーニのものは集まるだけ集めてみようとの考えで、バージョン(プレス)の違うものを見つけるとその都度ゲットしていました。

 しかしながら「悲愴」という曲は、そもそも大して好きでもないので、まともに聴いたことなんてなかったんです。買った時にさっと一通り耳を通した程度で、普段「そうだ、『悲愴』聴いてみよう。」なんて思い立つことはほとんど有り得ないわけで、このように何か事あるときでなければ、滅多に聴けません。
 いい機会だったので、取り出して聴いてみたのですが、これがまた驚きでした。

 一楽章はそれほどでもなかったのですが、二楽章に入ったら歌うこと歌うこと。ジュリーニの場合「歌謡性」ということがよく言われますが、その意味が初めてわかったような気がします。
 とかく取り沙汰されるのは「テヌート奏法がどうのこうの」ということですが、今までそういう奏法と歌謡性にはとくに関連があるようには思えなかったのですが(「グレイト」などの例)、この演奏ではテヌートをかけなくても「歌っている」ことがはっきりわかるのです。(演奏技術には暗いので、認識違いもあるかもしれません。)
 ただ、ここでは「歌う」ことが必ずしも良い結果を出しているわけではない。

 三楽章に入ると今度はノリの軽いこと。「タラッタラッタラッタ、うさぎのダンス〜」なのである。もう、ウキウキしてきてしまいます。
 四楽章でもことさら暗さを感じさせず、およそ「悲愴」というイメージとはまるで関係ないところで、音楽が展開していきます。

 私は、「悲愴」なんていう表題を持つ音楽を聴く意味も意義も見出せないから、積極的には聴かないわけですが、何か「悲愴的」なものを求める向きには全くお勧めできない演奏と言えましょう。
 但し、ジュリーニのロスフィル時代の代表盤という条件をつければ、3〜5本目くらいには入れてもいいかもしれません。上位はもちろんベートーヴェンと「ライン」である。

 それでも聴いてみたいと思われるなら探してみるよろし。(敢えて)この程度のものなら探せば必ず見つかります。

2004年5月01日(土)

エルガー:交響曲第1番

C・デイヴィス/BBCso

BMG/RCA 74321-40473-2
(国内盤有り?)
1985

お勧め度:★★
※優秀録音盤
 
 エルガーというと、この国ではおそらくマイナーな存在でしょう。まず「威風堂々 第1番」、次に「威風堂々 第2番」、それから・・・以下同文、となるのが普通でしょう。
 私も正直それほど興味のある作曲家ではありません。LSOライヴシリーズでデイヴィスのエルガー・チクルスがなければ、一生聴く機会はなかったかもしれません。リリース当時はLSOライヴシリーズも、いつなくなるかわからない、という懸念がありましたので、とりあえず手元にという考えで買っておきました。
 それと前後して、ある時中古店にこのCDが転がっているのを見つけました。「珍しいな。」と思いました。
 当時はデイヴィスのものは集まるだけ集めてみようとの考えでしたので、これまたとりあえずゲットしてみたのですが、聴いてびっくり、これが度肝を抜かれるような演奏だったのです。

 お国物ということで、指揮者演奏者一丸となった、かなり気合の入った演奏です。異邦人(私)にとっても、その迫力に圧倒されてしまいます。思わず共感してしまいます。それほど有無を言わせない確固たる自信のようなものを感じさせます。
 巷では大層評判のLSOとのライヴでも、ここまでのものはありません。これに比べれば多少丸くなった、押さえられた感じです。

 「まま出し」のライヴであるところもメジャーレーベルとしては珍しいことで、これがまた大きく功を奏しています。
 会場ノイズのカットもなく、拍手も満載で臨場感抜群。所謂優秀録音。
 RCAの面目躍如たるところです。とかく評判のよくない同レーベルですが、こういう録音を聴くとさすが名門と納得します。

 イギリスのオケというと、まず真っ先にLSOが指折られるのはお約束ですが、デイヴィス=BBCsoの関係が緊密だったころは、実はかなり充実した活動をしていたようです。
 先にPHLIPSからリリースされたベートーヴェンの交響曲選集(3,4,5,6,7,8番)然り。
 中でも第6番「田園」。何を隠そう、現在ではこの演奏は同曲の中でもトップクラスの愛聴盤となっています。

 おそらくボールトから受け継がれたのであろう、作品の造型を最優先したと思われる厳格な演奏スタイル。ここでの厳格とは、恣意的なものや過度の表情付けを排した、という意味である。必ずしも縦横の線がぴちっと合ったきれいな、という意味ではない。実際ボールトもデイヴィスも縦の線にはあまりこだわらないようだ。
 このように無駄を極限まで排したところから浮かび上がってくる作品本来の姿、作曲者の意図。そこに指揮者や演奏者の匂いはない。デイヴィスの演奏に特徴がない、と言われる所以であろう。

 このCD(エルガー)、最近国内盤で復刻されたようです。(雑誌で立ち読みしただけで、詳細は不明。)
 この度のデイヴィス/LSOの来日記念ということで、各レーベルから主だった全集が、これでもかと分売されています。ベートーヴェン、ブラームス、シューベルト、シベリウス・・・。錚々たるラインアップですが、実はこういう名盤がこっそり陰に隠れているのです。


お勧め度:★=1点、☆=0.5点
満点は★★★ですが、その曲または演奏家の代表盤とも言えるものには★★★★も。


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