駄聴日記 2006〜8年 

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2008年12月27日(土)
 
 ある国で、陪審係制度が発足した。B国の陪審員制度にならったものだ。

 ところが、国民にそのような義務(役務)を課すのは、拳法に違反している
との解釈も可能であり、訴訟が起こされた。

 一審では、陪審係の絶対多数により、違拳であると判断された。

 これに対し、国側は、違拳たる陪審係の下した判断は無効であると主張し、
控訴する構えだ。


2008年12月25日(木)
 
 E島Iは、大ファンというわけではないが好きなタレントだ。
 過去の人になってしまったし、タレントであったのも過去のことだから、
「だった」と言うべきかもしれないが、私の気持ちは現在形だ。

 A田N子が、すごいコメントを出している。
 「重い体から離れて、やっと楽になれたかな?」
 
 本当にそうだ。体は重い。
 同じような悩みを持っているんだなー、と思う。


2008年12月22日(月)
 
 どうせなら思いっ切り円高にして、食料と原油と金を買い占めればいい。
 何なら土地ごと、国ごと買ってしまえばいい。


2008年12月18日(木)
 
 円高が進むと政府、日銀が介入するらしい。
 これは、価値のあるものを売って、価値のないものを買うということですね。
 わかりま・・・。


2008年12月16日(火)
 
 ジャス・トインタ・イム方式だから、受注停止即生産停止即倒・・・。


2008年12月4日(木)

 オレもオレも救済


2008年11月30日(日)

 以前、実体経済が、もともと危うかったのではないか、と書いた。

 その真意は。
 何度も同じようなことを言うかもしれないが。

 要らないモノを買うために、要らないモノを作りにカイシャに行っていない
か。
 それが本当に要らないモノだと、初めて気付いたのではないか。


2008年11月28日(金)

 情勢の不安定化を受けてのことかどうか知らないが、サリン事件の話題を見
聞きする。

 私はその日東京にいた。ニアミスしたのである。
 当時、せいぜい年に一〜二度、田舎から東京に出るお上りさんにとっては、
かなりレアな体験である。

 10時過ぎくらいに東京駅から晴海ふ頭方面行きのバスに乗った。聖路可病
院(仮名)のあたりで異常な雰囲気に気付いた。一体なにがあったのだ。
 ラジオを持っていたので聞いてみると、どうやらサリン事件らしいことを
知った。

 飛び石連休の谷間だった。
 漠然とではあるが、こういう日には何か大事件が起きやすいような気がする。

 最近では、むりやり連休にしてしまうので、あまりなくなってしまったが、
私は飛び石連休が好きだった。今日一日過ぎればまた休みだと思うとウキウキ
した。

 2009年は、9月21(月)、22(火)、23(水)が祝祭日だ。土曜
日から通算すると5連休。思わぬゴールデンウィークができたものだ。
 
 だが、その頃になれば、大量解雇、大量失業で年中連休。
 バカバカしい連休など喜ぶ気にはなれず、仕事したくてウズウズしているの
かもしれない。


2008年11月16日(日)

 いつの時代でも年寄りは「今の若者は・・・」と批判的な態度をとるらしい。
 悪い変化に対してはもちろん、良い変化に対してもそうであるようだ。

 これは、年をとるほど頑固になり、自分だけの考えや価値観に凝り固まって
くるためだろう。
 態度を変えなければならないのは、年寄りのほうかもしれない。


2008年10月27日(月)

 海外旅行しようという人が、外貨を買う動きが活発だそうだ。
 賢いなー。

 でも、いざ旅行しようって時にもっと下がってるかもしれないし、のんびり
海外旅行なんてしていられる情勢ではないかもしれない。


2008年10月23日(木)

 予期せぬ問題が起きた時、打つ手がすぐに見つかれば「想定の範囲内」と言い、
見つからなければ「想定の範囲外」と言っておけばよい。
 「かつてない」「稀に見る」「○○年に一度」などを添えて。


2008年10月20日(月)

 在職日数の短い人のリストには、載りたくないだろう。
 あわよくば、危機を救った人になれるかもしれない。
 ピンチはチャンスか。


2008年10月17日(金)

 楽は苦の元である。
 苦は楽と同じだけやってくる。

 おいしいものを食べれば、それが食べられない時に苦しむ。
 楽しい思いをすれば、それができない時に苦しむ。


2008年10月16日(木)

 SPローンを作って売った人には、批判が集まるところだろう。
 だが、買った人、利用した人に、落ち度、責任はないのか。
 
 SPローンを組み込んだ証券化商品を買った人に責任はないのか。
 詳細は目論見書にちゃんと書いてあるはずだ。

 ある国では、国家予算80兆に対し、国債が800兆、10倍の借金だ。
 そして予算80兆のうち、1/3を国債の利子の支払いにあてているそうだ。
 増税をして賄うべきところ、逆に借金して贅沢三昧している。

 こんな○○な国をどう見るか。
 SPローン問題と同じ構図にしか見えない。


2008年10月13日(月)

 「通常の巡回の10分後に、既に死亡した状態で発見された。」
 
 巡回は30分おきだという。先の巡回では異常なかったが、その30分後の
巡回で発見し、既に遅かったというのならわかる。

 通常の巡回の10分後に、何しに行ったのか。なぜ気付いたのか。
 物音や異常な気配を感じたので駆けつけたのか。駆けつけた時には既に遅か
ったのか。死亡に至る前には、物音や異常な気配はなかったのか。

 だから、自殺でなかった、と言うつもりはない。

 「元社長」という称号?は、一体何なのか。いちいち付ける必要があるのか。

 12日(日)テレビA系で、Aという刑事ドラマのシーズン2最終回スペシ
ャル、刑務所内での殺人事件の巻が再放送された。
 この日に放送されることは計画的?に決まっていたわけだが、まあ、ただの
偶然ですよね。

 この銀行のやることは、全く気に入らなかったので、すでに解約した。








 15日(水)は、2ヶ月に一度の年金支給日で、ATMにお年寄りがたくさ
ん訪れるので、振り込め詐欺を防ぐため、多数の警官を動員して警戒に当たる
そうだ。

 ものものしいことになるだろう。

 それが15日だけで終わればいいのだが、それ以降、連日警戒に当たらなけ
ればならないような事態にならないことを祈る。


2008年10月11日(土)

 「金融危機が実体経済に悪影響を及ぼし始めている」と言われるが、実体経
済が、もともと危うかったのではないか。


2008年10月8日(水)

 今日は天気が良く、風もない。絶好の行楽日和だ。多くの人にとっては、絶
好の仕事日和だったろう。

 こういう日に、株価が史上3番目の下落率という非常事態が起きている。
 明日は、今日以上に下げるかもしれないという観測も出ている。(逆に上が
るかもしれない。どちらかはわからない。)
 危機は突然やって来るわけではない。すでに始まっている。

 13日は、また余分な休日だが、チンタラ休んでいる場合ではない。2日分
の衝撃が来る日なのかもしれない。

 それにしても、7日から10日の間に何かが起きると予測し、教えてくれる
人たちがいる。
 凄いもんだ。

 私はただそれを受け売りしているにすぎない。
 懲りずにここを見て下さる方に、少しでもお役に立てばと思うだけだ。


2008年9月30日(火)

 今のうちに、現金を手元に置いておいたほうが良いかもしれない。
 預金がなくなることはないだろうが、引き出せなくなることはあり得る。
 長い行列ができたり、お金そのものが足りなく、銀行に在庫?がなくなったり。

 クレジットカードでは決済できません、と言われるようになるかもしれない。

 ネットワークシステムの危うさは、よくご存知のとおりだろう。
 ちょっとしたことでATMが使えない、新幹線ですら止まる・・・。

 狼少年で終われば、それでいいのだが。


2008年9月2日(火)
マーラー:交響曲第5番
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(DG)


 うーむ、となるとカラヤンも気になってくる。
 カラヤンは楽譜を正確に音化しているらしい。それはい
かなるものか。
 
 正直カラヤンなんてほとんど知らない。カラヤン指揮の
CDは数枚しか買ったことはないし、今はこれを含めて2枚しかない。
 
 しかし、これは大はずれだ。
 カラヤンて、意外と雑で荒いんですね。(こればっか。)
 縦の線が揃わなくても平気、全く気にしない感じ。フォルテに向かってテンポ
アップしようとしてオケはバラけるし。
 かと言って音の重ね合わせ〜ハーモニー〜がきれいかというと、そうでもない
し。アダージョ・カラヤンなんて言ってますけど、このアダージョもそれほどの
ものでもない。
 構造を明らかに(しようと)して、立体感を出している風でもない。
 美点というかウリが何も感じられないです。カラヤンでなければならない必然
性が何もない。

 私にとっては、やっぱり空やん。
 この曲(CD)に関しては、という条件付きですけど。


2008年8月31日(日)

 コラボレーションやハイブリッドの時代?だが、両者の長所を併せ持つという
ことは、両者の短所も併せ持つということだ。


2008年8月29日(金)

 そんなものがあるから面倒くさい、なければ開放され自由になれる。


2008年8月27日(水)

 台風や地震が来るのは、気象庁に原因や責任があるわけではない。


2008年8月26日(火)
マーラー:交響曲第5番
サイモン・ラトル指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(EMI)


 うーむ、とすると・・・、気になるのはラトルである。
 ラトルなら、もしや何かやっているかも。

 ラトルも「5番は(指揮が)難しい」と語っているら
しい。
 今まであまり気にしなかったが、やはりチェックが必要のようだ。
 
 そして、勘は当たった。
 これもなかなかのものです。ゴチャゴチャにならない程度のゴチャゴチャ感
がいい。

 仮にギーレンの発見を知る前にこれを聴いていたとしたら、その意図を理解
できたかどうかはわからない。聴き逃して、あるいは聴こえないでいたかもし
れない。そしてありきたりの演奏だ、とうっちゃっていたかもしれない。
 そういう意味ではラッキーな出会いだった。

 ラトルは、意図的な長めのパウゼを入れる。間の美学がある。
 いや、間延びが苦か。


2008年8月23日(土)
マーラー:交響曲第5番
ミヒャエル・ギーレン指揮
SWR南西ドイツ交響楽団
(hanssler)


 ギーレンのマーラー5番は、長く気になっていた。
 ギーレンは今回の録音に際し、新しい発見をしたと、
風の便りに聞いていたからだ。

 どうせ全部は聴かないから、全集はもったいない。しかし、5番だけはなか
なか分売されず、かなり待って、ようやく手に入れることができた。

 さて、いったい新しい発見とは何か。どんな奇抜?な、あるいは斬新な演奏
を聴かせてくれるのか。

 しかし期待は見事に裏切られる。
 何が新しいのか、どこをどう表現したかったのかさっぱりわからない。
 当たり前といえば当たり前で、どの指揮者だって、どのオーケストラだって、
みんなスコアのとおりに演奏しているのだ。
 ここがそうですよと指し示してでもくれなければ、特に何が言いたいのかは
容易にはわからない。

 失望しながらも、日を改め、数回聴きなおしてみた。するとある日、突然妙
なものが聴こえてきた。
 それは今まで聴いたことのない音楽だった。フィナーレ5楽章で、3つかそ
れ以上の音楽が同時進行しているのである。私のような駄耳、凡耳では、3声
部くらいが限界だ。それ以上は部分的にチラチラっと聴こえるくらいで、とて
も全部のメロディーラインを追うことはできない。
 見たことはないが、マーラーのスコアは何段もあるらしい。本当に何段もあ
りそうなことがよくわかる。万華鏡のような、マンデルブロートのような、絢
爛豪華な音楽だ。
 これは凄い。ギーレンの言いたかったことは、きっとこれに違いないと確信
した。
 
 さてさて、その耳でシャイーを聴き直してみて、また愕然とするのである。
 何と雑で荒い音楽なのか。これを今までクールでスッキリで造形がしっかり
していると思い込んで聴いていたのか。


2008年8月20日(水)

 むかしむかし、おにいさんとおねえさんがいました。
 おにいさんは、やまへそうなんに、
 おねえさんは、かわへそうなんにいきました。
 そしていなくなってしまいました。
 おわり


2008年8月19日(火)
マーラー:交響曲第5番
リッカルド・シャイー指揮
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
(DECCA)


 これは、長らく私の定番だった。
 暑苦しいマーラーは嫌いだ。
 シャイーはクールでスッキリし、造形もしっかりして
いると思っていた。

 シャイーのマーラーは、4番を実演で聴いた。
 よかった。
 ソプラノはバンゼ。全てが完璧といってもいい演奏だった。木管が素晴らし
く、これがコンセルトヘボウかと感心した。

 「あ、CDと同じ音がする。」CDの通りに演奏してた。
 ・・・逆だ。いかにうまくCDに詰め込まれているか。素晴らしい録音だ。

 5番はもうシャイーだけでいいかな、と思っていた。

 しかし、それがもろくも崩れ去る日がやってきた。


2008年8月17日(日)

 AとBが議論し、Aが勝ったとすると、Aが是、Bが非であることになるの
だろうか。
 このような是非の決定は、対立の関係であるAとBだけでは下すことはでき
ない。
 CがAと同じ立場、意見ならば、公正な判断はできない。Bと同じ立場で
あってもだ。
 ではCがAともBとも違う立場をとれば、ABどちらにも是とも非ともいえ
ず、第三の意見が生じる。

 ここで、どうしても「天げい」−差別を超えた自然の立場で、対立を和合さ
せることが必要となる。

 世の議論では、是であるとする意見と、是でないとする意見が対立する。
 もし、その是が真の是であるとすれば、それは不是とは相容れないのである
から、不是とする議論が起こるはずがない。
 それにもかかわらず、そこに議論の対立が起きるのは、その対立が個人の気
まぐれな限定された主観から生じたからであり、そのような対立は真の対立で
はなく、対立がないにもひとしいのである。
「荘子」 第二 斉物論篇より、意訳、要約。

注)「天げい」
 「げい」は、人偏に睨の旁の部分。限り、境界の意味。
 「天げい」:自然には境界がない。対立差別のない境地、万物斉同の境地。


2008年8月15日(金)
三猿

 良きにつけ、悪しきにつけ「見ない聞
かない」ことは良いことだ。
 見て見ぬふりは良いことのようには言
われないが、「他人の過失を見るな。他
人のしたこととしなかったことを見るな。
ただ自分のしたこととしなかったことだ
けを見よ。」とブッダは教える。
 また、欲望を刺激するようなことは、
見聞きしないほうが良い。欲望が苦のは
じまりである。

 「言わざる」の解釈は難しい。
 よけいなことは言わないほうがいいだろう。
 しかし良いこと、ためになることは言いなさいとブッダは教える。

 私もいつもジレンマに陥る。言うべきか、言わざるべきか・・・。

 だが「言わ猿」をよく見たら、言うなとは「言っていない」!?


2008年8月14日(木)

 眼のある人は光によって色かたちを見るように、ひとは教えによって善悪を
識別する。
「ブッダのことば」

 「光がなければ、眼は見えない」という当たり前の事実に驚愕した。
 私はモノを見ているのだと思っていた。
 そうではない。モノに反射した光を見ていたのだ。
 とすると、近づいて手で触れてみるまでは、そこに本当にモノがあるかどう
かはわからない。
 幻想、幻覚かもしれないのだ。


2008年8月12日(火)

 自分が止まれば時間も止まる。それが永遠。


2008年8月10日(日)
聖の青春
大崎善生(講談社)


 棋士 村山聖
 幼い頃かかったネフローゼが遠因となり、名人目前とも
言えるところで夭折する。
 「名人になるんじゃ」子供のころ描いた夢とは裏腹に、
昇段するにつれ「名人になって、早く将棋をやめたい」と
思うようになる。
 仲間でもある棋士との勝負。それは殺し合いであり、地
獄とも修羅場とも感じ、激しい葛藤があったに違いない。

 聖が亡くなる年の将棋年鑑のアンケートに、こう答えている。
 行ってみたいところは?
 「宇宙以前」

 荘子を読んだのがきっかけで、その意味が初めてわかった。


2008年8月8日(金)

 万物には、その「はじめ」があるはずである。「はじめ」があるとするなら
ば、さらにその前の「まだはじめがなかった時」があるはずである。
「荘子」 第二 斉物論篇

 これを読んだ時、宇宙はいつどのように始まったのか、忽然と疑問が沸いて
きた。
 言われるように、宇宙が始まったということは、始まる前があったというこ
とだ。
 「始まる前」とは一体何だ。

 ビッグバンなどとも言われるが、ビッグバンの起こる前の宇宙は何だったの
か。それも宇宙ではないのか。
 ビッグバンの起こる元は、いつどうやってできたのか。何もないところから、
現在の宇宙を構成する物質が生まれたのか。

 170億年前にできたという説があるが、それ以前の時間はないのか。
 時間とは、その時に始まったのか。


2008年8月7日(木)

 私が、聖書の中で最も心動かされるのは、「伝道者の書」だ。

 空の空。伝道者は言う。
 空の空。すべては空。
 日の下でどんなに苦労しても、
 それが人に何の益になろう。

 昔起こったことは、これからも起こる。
 日の下には新しいものは一つもない。

 曲がっているものを、まっすぐにはできない。
 なくなっているものを数えることはできない。

 仕事が多いと夢を見る。
 ことばが多いと愚か者の声となる。

 夢が多くなると、
 むなしいことばも多くなる。
 ただ、神を恐れよ。


2008年8月3日(日)
荘子 古代中国の実存主義
福永光司(中公新書)

 荘子もまた、長年の漠然とした疑問に応えてくれた。
 ブッダの思想に、非常によく似たところもある。

 曰く、

 人間はだれでも自由でありたいと願う。それは人間が現実
に不自由だからである。

 大自然の世界には、おのずからなる美と調和があり、平和と秩序がある。

 自然の世界では、また一切はおのずからにして事たりている。

 もし人間が安らかに己の生を楽しむことを最上の願いとするならば、今の世
の中の安らかに生を楽しむことのできない社会の現実は、人間の智恵が鳥獣虫
魚のそれにも及ばないことを示しているのであろうか。何がいったい人間の社
会をして混乱と無秩序に明け暮れさせ、人間の生をして不安と恐怖におびえさ
せるのか。

 彼らはみな己を是として他を非とするから、己によって非とされる他はまた
みずから是とする己を非とし、他によって非とされる己はさらにこの他を非と
する。そこにあるものは止むことのない対立と闘争であり、まったく不毛な議
論の喧騒である。

 はじめから議論しないことの賢明さに遠く及ばない彼らのケンケンゴウゴウ
たる饒舌のむなしさ。

 仁義の強調こそ不仁不義の始まりであり、孝弟の強調こそ不孝不弟の始まり
ではないか。
 
 礼儀の強調は人間が他人との一体感を失い、対立の意識をもつところから始
まる。

 いろいろな宗教家や道徳家が反戦博愛を説く。しかし、それが実現したこと
は一度もないばかりか、それを説く彼ら自身がしばしば宗教や道徳の名におい
て戦争を行ってさえいる。


2008年7月30日(水)

 オレオレ詐欺。

 オレオレ大将。オレガ、オレガ。オレノ、オレノ。


2008年7月29日(火)
「タイムシフティング」
ステファン・レクトシャッフェン/高瀬素子 訳
(NHK出版)

 
この本は、私のいくつかのバイブルのうちのひとつだ。
1997年初版で購入以来、何度も読み返した。
 最初はわからなかったこと、あるいは何の気なしに読
み流してしまったところに、ある時突然重要な意味を見
出すことがある。

 「世界のどんな地域でも、音楽は昔からもっとも効果
的な(リズムの)同調化の手段であり、それは今も変わ
らない。」

 なるほど、音楽とは、音楽の目的とはそういうものであったのか。


2008年7月28日(月)

「歯車」芥川龍之介

 中学2年の時、ある級友が、「『歯車』は凄い。」と言っていた。
 私も読んでみたが、さっぱりわからなかった。

 それからウン十年。(それが何十年なのかは、藪の中である。)
 何が書いてあるのかはわかるようになったが、どこがおもしろいのか、凄い
のか、やはりさっぱりわからない。こんな記録みたいなもの。

 ビートルズの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」を連想した。
 起きた。髪にくしを通した。下に下りてコーヒーを飲んだ。遅刻に気付いた。
急いでコートと帽子を取って、バスに間に合った。二階に行きタバコを吸った。
誰かの話し声。そして夢の中へ。

 それがどうした!?
 なに? 起きて1階に行き、2階に行ってまた寝た?・・・あれ、なかなか
おもしれーじゃん。

 人間(グループも)、末期になると日常の行動の記録が芸術作品として通用
するものらしい。

 最近、自分も歯車現象を経験した。「閃輝暗点」というらしい。何が起きた
のかと思った。
 だが、依然として「歯車」はわからん。
 これを中学で凄いと言った奴は・・・。


2008年7月27日(日)

映画「羅生門」黒澤明監督

 これは、黒澤が「藪の中」の真相はこうではないかと推理、予測、解釈した
ものと考えればいいのだろうか。

 原作と異なるところは、検非違使所で、多襄丸、真砂、巫女が、おそらく同
じ日に取調べを受けるとしたこと。(木樵り、旅法師が傍聴している。)

 敢えてそういう設定をしたのなら、何故供述の食い違いの吟味がされなかった
のか。その解決を示さなかったのか。
 また、どうせ解決させる気がないのなら、何故原作の設定どおりにしておか
なかったのか。原作では、木樵りと多襄丸が顔を会わせたかもしれない、とい
う程度の曖昧さだ。
 あまりにも中途半端で、必然性が感じられない。

 この映画は問題作ではあると思うが、決して名作とは思えない。
 この映画を名作たらしめているのが、その他の要因−映像技術や演出、演技
−であるとすれば、それは私にはわからないし、興味のないことだ。


「藪の中」芥川龍之介

 三人とも自分がやったと主張するメリットはいったい何なのか。

 「おかしいでしょ?」これが最初の印象だ。
 三人とも「あいつがやった、あるいは、オレ知らない」と言うのなら意味わ
かりますけど。

 だが、これも芥川が考え抜いた末の結論と思う。解釈は読者に任せる。ひと
つの方法だ。
 真意は必ずしも伝わらなくてもよい。どうせ100%伝わりっこない。
 作品中のこの事件は解決しないし、この作品に対して議論を交わしても何の
結論も出ない。それが本当の狙いだったのかもしれない。
 全てが「藪の中」。それでいいのさ。


2008年7月26日(土)

真相は藪の中

「バカの壁」養老孟司(新潮新書)

現実とは何か

(略)
 誰一人として、現実の詳細についてなんかわかってはいない。
 たとえ何かの場に居合わせたとしてもわかってはいないし、記憶というもの
も極めてあやふやだというのは、私じゃなくても思い当たるところでしょう。
 世界というものはそんなものだ、つかみどころのないものだ、ということを、
昔の人は誰もが知っていたのではないか。その曖昧さ、あやふやさが、芥川龍
之介の小説「藪の中」や黒澤明監督の「羅生門」のテーマだった。同じ事件を
見た三人が三人とも別の見方をしてしまっている、というのが物語の一つの主
題です。
 まさに現実は「藪の中」なのです。
−−−−以上引用−−−−

 ここで「三人が別の見方をしている」という表現には違和感がある。
 また「三人」が、だれを指すのかも、はっきりせず曖昧だ。

問題となりそうな登場人物

 原作「藪の中」では、
 多襄丸(たじょうまる)、真砂(まさご−被害者の妻)、金沢武弘(被害者
−死者。死霊が巫女の口を借りて告白)

 この「三人」は、当事者−被害者および容疑者−である。

 映画「羅生門」は、「藪の中」をメインに、原作「羅生門」を加えてアレン
ジしたもの。
 原作での第一発見者の木樵り(きこり)が、目撃者、傍観者として、重要な
役割を与えられている。

 「三人が別の見方をしている」と言われると、「三人の目撃者が別の見解を
示している」ような意味にとれる。「見方」というのなら、唯一木樵りの行動、
立場だけが、そう表現されるにふさわしい。

 「三人」が、真砂、多襄丸、金沢武弘だとすると、三人とも自分が殺した
(金沢は、自身が殺した−自殺)と主張、供述している。真実を語っているか、
ウソの証言をしているかのどちらかである。自分が殺したという「見方」をし
ているのではないと思う。
 いくら「現実がわかっていない、記憶はあやふやだ」と言われても、自分が
殺したのかどうかわかっていない、記憶がない、なんておかしいだろ、と思う。

 言葉のアヤだ、揚げ足取りだ、重箱の隅だ、と言われるだろうか。

 「藪の中」は、「青空文庫」で検索すればすぐに見つかり、読むことができ
る。

 さらに「藪の中」、映画「羅生門」それら自身にもまた問題、疑問がある。
(つづく)


2008年7月25日(金)

 「真実は必ず明らかにされる。」と、よく言われる。

 これには但し書きが要るように思う。
 「明らかにしようとする力が働く時。」あるいは、「明らかにしようとする力
が、隠そうとする力に勝る時。」

 最近読んだ週刊誌(現代か、朝日)に、和歌山毒カレー事件の記事があった。
 未だに容疑者(被疑者、被告?)は否認し続けている。これは並大抵のことで
はないという論調だった。
 本当は容疑者は真犯人ではないのではないか。

 私などは単純だから、はなから容疑者以外に真犯人なんかいるわけないだろ、
と決め付けてしまっている。偏見、先入観だ。
 マスメディアの限られた、時に歪められた情報によって左右されている。

 逆に、件の週刊誌の記事を読めば、あれ、やっぱり違うのかな?と思ってしま
う。いかにいいかげんで、曖昧なことか。

 しかし、仮に容疑者以外の真犯人が、容疑者にも知られずに犯行を行う(?)
ことが、果たして可能であったのか。

 容疑者だけは、自分が真犯人かどうか知っている。
 その真実、真相は明らかになるのか。あるいは・・・。


2008年7月12日(土)

再発見・中島みゆき 

「空と君のあいだに」
憎むことで、いつまでも、あいつに縛られないで

→執着することで束縛される

「地上の星」
捜し求めているもの(星)は、手の届かない遠く(空)にあるのではない。
すぐそこ(地上)にあるのに見えない、気付かない。
人間よりツバメのほうがよく知っている。

→それは心の中にあるのではないか。

かなり自己流の勝手で強引な解釈だが、ブッダの教えを聞いて、
こうではないかと気付いた。


ブッダの「真理のことば」とは、「ダンマパダ」であり「法句経」のことである。


2008年7月11日(金)
菊と刀(日本文化の型)
ルース・ベネディクト/長谷川松治 訳
(講談社・学術文庫)

 独断、偏見、先入観、思い込み、色眼鏡(フィルター)、価値観、信念、
錯覚、妄想、屁理屈、偏執、偏屈、養老先生曰く「バカの壁」、その他
これらに類するあらゆる語句、その意味を思い知らされた。
 
 目からウロコとはこのことだ。それまでいかに何も見えていなかったか。

 著者の言うことが100%正しく真実であるかどうかはわからない。
 あるいは著者の偏見なのかもしれない。

 「正しい」、「真実」とは何なのか。
 「常識・・・」と言った瞬間、そこには既に偏見が入ってしまっているのかもしれない。


2008年7月10日(木)
ブッダの 真理のことば 感興のことば
中村元 訳
(岩波書店・岩波文庫)


 私は、子供の頃から変わり者だった。
 周りからは変な子だと言われたし、自分も世の中が変に見えた。
 皆、逆のことばかりやっているように思えた。疑問だらけだった。

 ようやくブッダにたどり着いて初めて「それでいい」と言われた。

 だが、これは到達点ではなく、これからが始まりだ。







2008年7月6日(日)
 シューベルト:ピアノソナタ第18番「幻想」
 田部京子


 何と悲しい音楽か。
 何のために音楽を聴くのか。
 悲しい気持ちになるなら、聴かないほうが良いのではないか。

 無駄なことはしないほうがよいのでは理論だ。

 内田光子がサントリーホールで、この曲の第3楽章メヌエットを
アンコールで弾いた。
 天国的だった。
 おそらく多くの人が、同じ気持ちだったはずだ。そして、内田自身も。

 その時、色が見えた。
 虹の七色だった。
 草原の青空に虹がかかっているような、あるいはオーロラのようなイメージだった。
 天国とは、こういう色なのかも知れないと思った。


2008年7月5日(土)

 コピー(ダビング)が1回しかできないとか、10回までならいいとか、ややこしいが、
そんなに惜しいのなら放送しなけりゃいいのに。


2008年7月4日(金)

 仕事をしないのが仕事である人たちと、他人の仕事を増やすのが仕事である人たち。


2008年6月9日(月)

 自分が使う製品、建造物、設備などの安全性や信頼性は、自分が提供している
それと同じくらいなものだろう。


2008年6月5日(木)

 無駄なことは、しないほうがよいのか。
 あるいは、「人生に無駄なことなどない」と言われるので、無駄だとわかっていても
したほうがよいのか???


2008年5月25日(日)

 エンゲル係数の適正化?がはかられれば、くだらないモノゴトにお金をかけて
いる場合ではないことに気付くだろう。


2008年5月22日(木)

 田豊自動車は、日本を代表し、象徴する企業であろう。


2008年5月9日(金)

 サブプライムローンで、巨額の損失が出ているというが、損した人がいれば、
儲けた人もいるはずだ。
 儲けた人のことは何も言われない。

 私には、市場経済のことはわからないが、全体としては、何も変わってない
のではないか。

 大切なことは、今日食べるものが台所にあり、明日食べるものが、近くの市場
にあり、来週、来月食べるものが、今栽培され、家畜され、あるいは狩猟(漁)
されていることだ。

 極論すれば、お金がなくても、(強盗や暴力的手段によらずに)食べ物が手に
入ればいい。


2008年5月1日(木)

 「日本人て」と言うと、民族や人種差別と思われますから、こう言いますが、

 人間て、ホント、バカですねぇ。
 何がって、あらゆることについてそう思います。

 悪口や愚痴なんか言っててもしょうがないんですけど。

 私も多分そう思われているんでしょうねぇ。


 直接関係あるような、ないようなことですが、ガソリンが税率の復活?で値上げ?され、
大騒ぎのようです。

 メディアは、自分たちの都合のよいようにしか伝えませんが、本来、税金がかかっている
のが当たり前であって、1ヶ月でも安い状態で買えたことを喜んだ人はいないのでしょうか。


2008年4月26日(土)

 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの
息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。このことわりを他の
人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

「ブッダの真理のことば・感興のことば」(岩波書店)


2008年4月21日(月)

 バベルの塔

 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
 人々が、町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげようとした時、
主は仰せになった。
 「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、
今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りていって、
そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
 そして人々は地の全面に散らされた。

 世界が混乱しているのは、神の仕業、失礼、思し召しなのか。


2008年4月20日(日)

 離婚から300日以内に生まれた子は、前夫の子とみなす、という法律を
変えようとする動きがあるそうです。

 やりたいようにやっておきながら、法律が悪いから変えろ、ですか。

 まぁ、男が外で子供を作って認知することは、別に問題ないわけですから、
女がよその男の子供を作って、認知してもらうのも、全く問題ないですね。


2008年4月19日(土)

 盗むことは、いけないことです。
 たいていの法律でも宗教でも、殺人に次ぐ重大な罪だと位置付け
られているでしょう。

 待たせることは、いけないことです。
 これは他人の時間を盗むことです。無駄な時間を過ごさせる原因と
なるでしょう。
 ただし、この場合、約束が前提にあります。

 一方で、期待を適切に管理することだと言われます。
 期待しない。そうすれば、待たされても嫌な思いはしなくて済みます。

 あれ?「期待」とは「期を待つ」と書くんですね。今、気付きました。

 私も、お待たせしていますかねぇ?
 でも、約束はしていないし、義務ではありませんから、許して下さい。


2008年4月18日(金)

 忘れることは大事だと思うようになった。

 忘れるのは難しい。
 「もう、○○は忘れました」というのは 覚えていることに他ならない。

 生きて行く上で覚えている必要があることなど、ごく僅かでよい
のではないか。


2008年4月12日(土)

 「時は止まっている」という仮説、あるいは妄想。

 時間は存在しない。
 あらゆるものが変化あるいは運動しているだけだ。

 時計というのは、動く仕掛けのモノにすぎない。


2008年4月8日(火)

 この国には、この地球上には、この世には得体の知れない生物が生息して
いる。

 私は昔から、知ることを良しとし、何でも調べて理解しようとしてきた。
 しかし、それは全く無駄なことで、生きていく上でそれほど重要ではない
と思うようになった。
 もう、あきらめた。 

 余談だが、最近クラシック音楽!の映像ソフトを観て、客席に現地(外国)の
聴衆が並んでいるのを見て、「うわっ、エイリアンだな」と思った。


2008年3月31日(月)

 政治家を選んだのは国民だ。
 政治が、政治家が悪いというのなら、それは国民の責任だ。

 国民て、誰だ。


2008年3月27日(木)

 ゴミの宝庫?


2008年3月23日(日)

 車の前だけしか見ないで運転している人がいる。

 ん? 当たり前じゃないか。よそ見など言語道断だろ?

 そうではない。前に何もいないのに前を見ていてもしかたがない。
 自分の進行方向(普通は前だが)に、近い将来障害になりそうな人や車はいないか、
周囲(主に少し先の左右)に注意しているべきだろう。

 前だけしか見ていない人は「急に○○が飛び出して来て・・・」と言い訳をする。


2008年3月19日(水)

 無期懲役という刑期?がある。
 私にはとても中途半端なものに思える。
 テキトーな時期に釈放される例も多いと聞く。

 終身懲役、永久懲役であるべきだ。
 あるいは懲役100年、150年のほうが、よほど気が利いている。

 これは、特定の判例に対してではなく、一般論としてである。
 今日判決の出た事件に対しては、何の思い入れもない。

 有期刑にも上限があり、自由自由といいながら、何にでも制限が設けられている。
 これは手かせ足かせである。
 こいつら放っておくと、何しでかすかわからないから、というオカミの意図のように感じる。


2008年3月17日(月)

 遊具と言われると、
 鉄棒、ブランコ、滑り台、ジャングルジム、シーソー、雲梯、その他いろいろ回転する仕掛けのもの・・・
などを思い浮かべるのだが、どれも危険なものばかりだ。
 大怪我や死の危険を孕んでいる。
 これらのものが、安全だなどと思っているほうがオメデタイ。


2008年3月16日(日)

 捨て慣れると、捨てることがどんどん楽になる。
 ひとつ捨て終わると、次に捨てるべきものが現れて、スムーズに出ていくようになる。

 人間の体でも、代謝や排泄のほうが大切で、入って来る(食べる)ほうは、それほど
心配しなくてもいいのかもしれない。


2008年3月15日(土)

 必要でないモノを集めるのは、早く止めた方がいい。
 全てゴミだ。

 「必要」の意味は、よく吟味していただきたい。


2008年2月9日(土)

 氷山の一角
 ハインリッヒの法則 1:29:300
 
 表に現れるのはほんの一部である。
 現れるほどになれば、既に中は腐りきっている。


 ある宗教では、殺生はいけないという。
 あらゆる生き物を殺してはいけない、食べてはいけない。

 しかし動物はいけないが、植物ならかまわないというのが中道なのだろうかと、
今の私は思う。


 弱肉強食、適者生存、自然淘汰・・・これが自然の掟だろう。
 人間個人も集団も例外ではあるまい。
 集団とは、会社組織、民族、国家である。


 敗戦国は戦勝国の言いなりになるしかない。


2008年2月8日(金)

 労働力も食料も依存しているのなら、言いなりになるしかない。


2008年1月23日(水)

 できない人、わからない人に合わせていくから、仕様やルールがどんどん幼稚化し、
そしてそれが普通になっていく。


2008年1月22日(火)

 食品の賞味(消費)期限偽装なども騒がしい。

 「法律で決まっていないから・・・」
 「義務ではないから・・・」
 言い訳がまかり通る。

 私が疑問に思うのは、カロリー、栄養成分表示だ。
 100g当たりのカロリー、栄養成分が表示されている。
 これは、決まり、義務なのだろうか。

 で、この商品(パッケージ)の重量は?
 「内容量 6個」
 重量の表示はない。知りたければ自分で量れというのか。

 こういうのを、私はバカという。


2008年1月20日(日)

 「冷める」は「覚める」か


2008年1月18日(金)

 斗(ます)を作って、それでかさを量って規制しようとすると、その斗ごと一緒に盗んでしまう。
 秤(はかり)を作って、それで重さを量って規制しようとすると、その秤ごと一緒に盗んでしまう。
 手形や印証を作って信用を固めようとすると、その手形や印証まで一緒に盗んでしまう。

 だから、聖人を根絶やしにして、知恵を捨て去れば、大泥棒はなくなってしまう。
 玉を投げ捨て真珠を打ち砕けば、小泥棒も起こらない。
 手形を焼き、印証を壊してしまえば、民衆は素朴になる。
 斗をうち割って、秤のさおを折ってしまえば、民衆は利益を争わない。
 世界中の聖人の法(おきて)をすっかり滅ぼしてしまったら、そこで初めて民衆はともに語り
合えるようになるのだ。
「荘子」岩波書店


2008年1月16日(水)

 昔、歌謡曲に、
 「世の中、右も左も真っ暗闇じゃ、ございませんか。」
という意味のセリフがあった。
 当時子供だった私には、全く意味がわからなかった。

 今、このセリフを聞くと、全くその通りだということがよくわかる。
 なるほど、世の中は無明が支配している。


 今年のセージン式もケッサクでしたね。
 入り口で飲酒検問だってさ。

 シャブやチャカの持ち物検査もしたほうがいいんじゃないの? 


2008年1月13日(日)

 今年もまた、コドモの日がやってくる。

 ある小学校で、10才をして「1/2成人式」なるものをやっているとのこと。
 本人たちは大真面目なのだろうが、私が見ると・・・。

 それよりも1.5倍成人式、2倍成人式のほうが気が利いている。
 20才で大人になれなかった者を、30才40才で再チャレンジさせるのだ。


2008年1月11日(金)

 待合室でオバサンの隣に座った。
 他意はない。そこしか空いていなかったから。

 しばらくして、そのオバサンが立ち上がって歩き出した。
 紺色のブレザーに、同じく紺のダブっとしたジャージをはいていた。
 化粧も、ぶ厚い。
 オバサンだった。

 しかし、よく見ると短いグレーのスカートもはいている。
 ん、これは・・・、高校の制服?
 こいつ高校生なのか?

 40代だと言われても違和感はなかった。
 オバサンだった。


2008年1月10日(木)

 何度でも言う。

 隠されているものは、必ず明らかになる。
 ウソも同様だ。

 問題の多くは、そこから始まっている。


 「ゴミ出し」なんて、それほど難しいルールではない。
 そんなこともまともにできないモノどもが


2008年1月9日(水)

 意味がわからん。訳がわからん。
 テレビを見れば、ニュースを見れば、私が行動し、事を起こせば、不思議に出くわす。

 今度は年賀はがきで、古紙配合率の偽装があったと。
 さぁ、大変だ。配達先から全部回収して、差出人には返金か?

 だが、はやりの耐震偽装や食品表示偽装に比べれば、どーってことはない。


2008年1月8日(火)

 人間が増えれば、問題も増える。


2008年1月7日(月)

 意味がわからん。訳がわからん。
 テレビを見れば、ニュースを見れば、私が行動し、事を起こせば、不思議に出くわす。

 以前、ある薬の投与で、自分としてはかなりひどいアレルギーを起こした。

 ある調剤薬局で、それを申告すると、調べた結果、
 薬剤師:「どういう薬か、わからなかったんですが・・・。」
 私:「は?」

 私だって気になるから、その薬のことは、インターネットで検索して調べた。
 たちどころに数多(あまた)の情報が得られた。

 その道の一番のプロであるはずのところで、調べられない。わからない。
 その薬は点滴薬だから、薬局で処方したり調剤することは有り得ないから、関係ないのかも
しれない。

 しかし、そんな程度のものなのか?


 過日のハミガキ事件だが、今では「電動ハブラシ」というものがあるらしい。
 それを「家電」と分類すれば、その陳列場が「ハミガキ」と別であることはありえるかもしれない。

 しかし私が責任者なら、それは「手ハブラシ」と同じところに置き、「ハミガキ」とも同じところに
置いておく。
 その売り場が、果たしてどうであったかは知らない。
 (電動ハブラシには興味ないから、見てこなかったし、同じところにあったかどうか気付かなかった。)


2008年1月4日(金)

 ホームセンターにて
 入浴、台所、トイレ用品があったので、ここならハミガキもあるだろうと捜したが見つからず。
 店員に尋ねる。

 私:「ハミガキはどこにありますか?」
 店員:「ハミガキ粉ですか?」

 「粉(こ)」を妙に強調していた。私は、粉状のものが出てきたらどうしようか、ドキドキしていた。
 「ハミガキ」って、他にそんなに紛らわしいものありますか?

 あるいは、「ハミガキ粉ですか、それともハミガキブラシ(ハブラシ)ですか?」と続くシナリオで
あったのだろうか。
 仮にそうだとしても、それらが別々の場所に陳列されているとはとうてい思えない。

 「いえ、当店では、ハミガキ粉は東の2番の列に、ハミガキブラシ(ハブラシ)は、西の18番です。」
 ありえんだろ。


2008年1月2日(水)

 人生は、借り物、仮のモノで成り立っている。
 買わずに借りて済ませられるのなら、それに越したことはない。


2008年1月1日(火)

 今日は、いつもと変わらない火曜日だが、珍しく祝日である。
 最近では、祝日は必ず月曜日にずらすものだと思っていたのに、今回は連休になら
なかったんですね。


2007年12月31日(月)

 地球は、ゴミを生産する場であり、ゴミを捨てる場である。


2007年12月22日(土)

 一生懸命やっているのに、成果が上がらない。
 一生懸命やるのではなく、成果の上がるやり方を一生懸命考える、工夫する。


2007年12月14日(金)

 Oリンピックというのは、いかにうまくDーピング検査を逃れられるかを競う大会のことですか?


2007年12月13日(木)

 縦書きに慣れてみると、横書きがいかに不自然かよくわかる。
 横書きが始まった時が、日本語文化崩壊の始まりだろう。
 
 この原稿も、やり方によっては縦書きにできるのだろうが、あまりにも面倒で、徒労に終わり
そうだからやらない。


 ビシュコフとホーネックだなと思う今日この頃である。
 
 な、何をいきなり・・・。


 農産物の値上がりが波及して、いろんな食料の値上がりで騒がしい。

 繰り返すがバカである。
 どこかへ行く必要があるのは、食料を得るためである。究極的には。
 手元に食料があるのに、それを燃やしてどこかへ何かをしに行こうとしているのである。

 先日、某TV局が、穀物商品相場を実需と投資の両面から見た番組を放送していた。
 このような意味のことが言われていた。
 「今までは、日本が、余った穀物のハケ口だったが・・・。」

 なんだってさ。


2007年12月1日(土)

 モノを捨てるには、体力、気力、精神力(似たようなものか)とも大変なエネルギーを要する。
 消耗品でない限り、いつか必ず誰かが捨てなければならない。
 とにかくモノを買わないこと。溜め込まないこと。
 モノがあふれて、収納する場所がない。棚や物置が必要だと思ったら要注意だ。すでに要ら
ないモノが多すぎる証拠だ。
 いずれ、棚や物置自体が、いらないモノと化す。

 飾りモノなどもってのほか。
 飾れば飾るほど、相対的に飾られたモノの価値は下がるだけだ。


2007年11月28日(水)

 おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに
済むものはありません。
 ですから、あなたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、
屋上で言い広められます。
(新約聖書 ルカ伝 12-2,3)


 世の中、仕事を増やすことが仕事になっている。
 物でも事でも増えていいことなどひとつもない。
 それは、減らしてみてはじめてわかる。


2007年11月13日(火)

 ある人が70才で亡くなったら、「まだ若いのに・・・」とコメントしている人がいた。
 
 いったい、いくつなら納得、満足できるのか。
 平均寿命以下では、大損だということか。
 これも欲張りの一種だ。
 
 半数は平均に満たないのだ。
 
 (平均寿命とは、0才の平均余命だから、年齢の多い人の平均死亡年齢?は、
より高い。)


2007年10月26日(金)

 何も起こらないということが、いかに平和で幸せなことかと、最近はつくづく思う。
 これは、年をとった証拠だろうか。


2007年10月23日(火)

 「棚卸し」といういい言葉がある。
 棚の中にしまい込んだものなんて、たいてい腐っている。
 ウソだと思うなら、一度出してみるといい。
 吐き気がしてくるぞ。

 宝でも持ち腐れという。

 いえ、CDは大丈夫です。
 あなたが死んで、先に腐ってしまっても、です。
 棺桶に一緒に入れてもらうつもりかもしれませんが、CD入れると自分が入るとこ、なくなっちゃい
ますよ。


2007年10月22日(月)

 迷うような選択肢がある状況は、実はあまり良くない。

 結局、選ばなかった方への未練や後悔が残って、満足を得られない。
 あれもこれもと欲張って、欲求不満になる。

 さて何を聴こうか、などとキョロキョロしているようでは、結果は見えている。


2007年10月20日(土)

 格差是正などと言っているが、格差を出来やすいようにしたのが、資本主義、自由主義では
ないのか。
 本当に是正したいのなら、共産主義にすればいい。企業はすべて国営。民営化など逆効果だ。

 ◇

 自動車産業、とりわけ特定の企業は、いつも利益日本一、過去最高を更新している。喜ばしい
限りだ。
 だがこれは、いかに労働者は搾取され、ユーザーは高いものを買わされているか、ということだ。
オメデタイことだ。

 最高の効率化は、いかに移動しないか、いかに運ばないようにするかということだ。
 自動車など走らせている場合ではない。


2007年10月17日(水)

 原料の小麦や乳製品の高騰により、パンが値上がりするという。
 原因は、代替燃料のトウモロコシを増産するため、他の農作物が作れないからだそうだ。

 バカである。食料を燃やして、どこへ何しに行こうとしているのか。

 ◇

 エスカレーター(電動スロープ?)で、子供が怪我をしたそうだ。

 さぁ、大変だ。全てのエスカレーターを再点検して、安全が確認されるまで、使用禁止に
しなきゃ。


2007年6月13日(水)

 蜘蛛が巣の真ん中で、獲物がかかるのをじっと待っている。
 自然の動物はみな、無駄なことはしないのではないだろうか。

 人間は、必要もないのに、わざわざ用を作って右往左往している。
 そして自らのエネルギーと地球の資源を浪費している。


2007年6月7日(水)

 「民」という字は、眼を針で潰されて見えなくされた奴隷のような人々のことを指す文字だ
そうです。
 「眼」から「へん」の目を除いて、「つくり」の日の部分の中の「ー」を除くと「民」になります。
 「ー」は、黒目がなくなったことか、あるいは針を示すのでしょうか。恐ろしいことです。
 漢字を作った人々は何と賢かったことか。

 旧約聖書、イザヤ書6-9〜10、エレミア書5-21にも同じような言葉があります。
 「民の目は見えず、耳は聞こえない。(心では悟れない。)」

 してみると、「国民の知る権利」だの、「市民○○・・・」だの、「人民の人民よる・・・」だの、
ギャグとしか思えない。
 民には本当のところは何も知らされない。


2007年5月22日(火)

 自分で蒔いた種は自分で刈り取る。

 蒔いた種の通りのものが収穫できる。
 スイカの種からトマトは収穫できない。
 良い種は良い実を結び、悪い種は悪い実を結ぶ。

 余分なモノの処分に四苦八苦するのは、かつて悪い種を蒔いたから。
 消化もできていないのに次から次へ詰め込もうとする。
 見境なく買い込んだ報い、自業自得だ。

 モノはなかなか捨てられない。将来必要になるのでは、という心配はある。

 そこで、自分は何に、どうなりたいのか考え、そのために必要かどうか判断する。
 もう一つは「最高のもの」しか持たないこと。二流、三流のものは切って捨てる。
 小知を捨て、真実に迫る。

 モノが捨てられないようでは、自分を捨てることなどとうていできない。
 モノが捨てられなくて、自分がモノに捨てられるのかもしれない。
 そうなる前に、自分の手で始末をつける。

 捨てるといっても、中古で売りに出せるもの、寄付したり誰かにあげて役に立ててもらえるもの、
資源としてリサイクルできるものが大半だろう。
 徒にゴミと化して廃棄焼却されるものは少ないはずだ。
 だったら、これは施し、布施と考えればよい。


2007年5月17日(木)

 寒いです。
 風がビュービュー吹いています。時折、北風も混じります。
 私はまだ冬の格好をしています。

 いわゆる温暖化の影響でしょうか。ただ暖かく、暑くなるというだけでなく、異常気象を来たす
ということです。
 もしかしたら冷夏で不作が懸念されます。
 食料の対外依存率がさらに高くなります。
 Aメリカ様やChウゴク様やOーストラリア様にお願いして、食べ物を売っていただかなくては
なりません。
 でも、世界的に凶作で、ヨソに分けてあげられるものはないよと、あしらわれるかもしれません。
 こうなるともう奴隷です。

 クルマやハンドータイをいくら作っても、それでたまさか儲かっても、生きて(食べて)いくことは
できません。
 しかも「現地」の工場など、事実上「現地」のものです。持って帰ることはできません。

 エネルギー、経済、食料、工業、マスコミ、文化、法律?・・・、あらゆるものが押さえられていき
ます。

 本格的に温暖化が進んで、いづれ誰も生き残ることができなくなるとすれば、どーでもいいこと
かもしれませんが。


2007年5月9日(水)

 大切なことは、古典の中に既に述べられている。
 古人は何と賢かったことか。
 人間なんて、何も進歩していない。むしろ、昨今では退化(退歩)のほうが著しいだろう。

 なるべく原典に近いところまで遡って当たることが大切だ。
 古典を題材にして解説した本をいくつか読むと、かなりニュアンスの異なった訳や説明がされて
いることがある。
 「え、本当にそう解釈できるの?」恣意的ではないかと疑いたくなるものもある。
 一見親切に見えるような説明が、かえって真意を曲げて、ぼかしてしまっていることもある。
 難しいことをやさしく説明しようとした時は、なおさら警戒が必要だ。

 かつて、自筆譜にまで当たる音楽家の姿勢をよく理解できなかったが、最近では、わかるように
なった。
 だからといって、出来上がった音楽に共感できるかどうかは、また別問題だ。


2007年4月29日(日)

 忙しいと言いながら、右往左往しているだけではないのか。
 それは結局、無駄事ではないのか。
 無駄事とは、暇な時にやるものではないのか。

 休日でさえ遊ぶのに忙しい。
 連休が終わりに近づいて、バカンスから家に帰ると、ホッとできるらしい。


2007年4月27日(金)

 「忙しい」と、よく言う。
 「心、亡」と書く。

 心がなくなるとは、死ぬことだ。
 あまり良いことではない。

 なくなるといっても、無心になれるなら良いことだ。
 「忘れる」ということだ。同じ字だ。
 何かに打ち込み、いやなことを忘れ、無心になれるなら大変結構。
 (いやな仕事に打ち込んでも無心になれるとは、これいかに。)

 しかし大切な約束や、人生の重大事を忘れるようなら、よろしくない。

 古人は何と賢かったことか。


2007年4月23日(月)

 終わりだと思ったことが、実は序章の終わりであって、それからが本当の始まりだったと気付く
ことがある。

 始めに終わりがある。
 始めが終わりである。
 始めと終わりは同じである。
 終わりから始まる。
 始めに戻って終わる。

 音楽然り。人生も然り。


2007年4月22日(日)

 私の貧弱な装置では、本来CDに入っているはずの何分の一、否何十分の一の情報しか引き
出せていないのだろうと思う。
 これが100%の音だ、というものを聴いていない以上、本当のCDの価値はわからない。
 これでは何をかいわんやである。


2007年4月21日(土)

 「演奏家は泡(あぶく)みたいなもの。」 内田光子
 「私はスコアとともに生き、スコアは私の一部になります。その瞬間、私は作曲家の召使になる。
作曲家は天才で、私は何者でもない。」 カルロ・マリア・ジュリーニ
 クラシックCDの名盤 演奏家篇/文春新書

 同じ本に載っていたからではないが、この2つの言葉を別々に印象深く記憶していて、ある時
これらが一つになった。
 どちらも自分を空(むな)しくする、「無」となる、と言っているのではないかと思い当たったからだ。
 これは演奏の真髄であり、また人生の真髄でもあると思う。

 だから、これらの演奏家が好きなのではない。たまたまこの2人について、これらの発言を知る
ことができたに過ぎない。


2007年3月30日(金)

 「餓鬼」というのは、いろいろな物欲のシンボルです。欲望を果たせば果たすほど、いよいよ飽き
足らない気持ちがして、いつも飢え渇(かつ)えているものの世界です。
「忘れる技術」山田霊林 光文社

 必要なものは既に手にしている。という法則?がある。その中に宝がある。


2007年3月29日(木)

 金銭の授受を伴うサイトでは、ログインする時に「パスワード」を入力し、最後の執行確定の時に
「暗証番号」を入力するケースが多い。

 私は最初「は?」と思った。暗証番号とはパスワードのことではないのか。
 国語辞典で暗証番号を引けばパスワードと書いてあるし、英和辞典でパスワード(pass word)を
引けば暗証番号と訳されている。
 同じ意味の言葉を英語と日本語で区別しようとする奇妙な考え。

 最初から「ログインパスワード」と「振込みパスワード」と区別していれば何の問題もない。

 ガイコクではどうしているんでしょう。「パス・ワード/パッソ・ヴォルト」とでも区別するんでしょうか。

 「ワタシ、ニホンゴ、ワッカリマセーン。ニホンノ、エイゴ、モットワッカリマセーン。ノバニ、イッテキ
マース。」と言われそうだ。

 いかにもエリートなビジネスマンが「それはスペックではなく、仕様ですね。」とおっしゃるのを聞い
たこともある。


2007年3月28日(水)

 以下の資料は何年も前もので、今ではこういう考えは、常識すぎるくらいだろう。
 効率化だけが良いわけではないが、そういうことと無縁な社会生活を送る方々も多い。
 敢えて引用させていただく。

 1枚ベスト
 スイスのネッスル社では、「すべてのレポートは1地域、1ヶ月、1ページでまとめろ」という簡素化が
行われたが、日本でも「1枚ベスト運動」を本田技研が行っている。これは相手の時間を尊重すると
いう精神からである。A4版の報告書を読むのに3分かかるとすると、2枚で6分、3枚で9分である。
「1時間会議」がベストでもある。
 元NTTの会長の真藤恒氏も「ワン・イズ・ベスト」の実行者で、「報告書は1枚で」を3回注意される
とペナルティとして配転させられたといわれている。
(学)産能大学 経営開発研究所 サンマーク出版


 チャーチルのメモ
 1940年、潰滅の危機に瀕した英国の宰相の座についたウィンストン・チャーチルは、政府各部局
の長に次のようなメモを送った。

 われわれの職務を遂行するには大量の書類を読まねばならぬ。その書類のほとんどすべてが長
すぎる。時間が無駄だし、要点をみつけるのに時間がかかる。
 同僚諸兄とその部下の方々に、報告書をもっと短くするようにご配意願いたい。

(1)報告書は、要点をそれぞれ短い、歯切れのいいパラグラフにまとめて書け。
(2)複雑な要因の分析にもとづく報告や、統計にもとづく報告では、要因の分析や統計は付録とせよ。
(3)正式の報告書ではなく、見出しだけを並べたメモを用意し、必要に応じて口頭でおぎなったほうが
いい場合が多い。
(4)次のような言い方はやめよう:「次の諸点を心に留めておくことも重要である」、「・・を実行する可能
性も考慮すべきである」。
 この種のもってまわった言い廻しは埋草にすぎない。省くか一言で言い切れ。
 思い切って、短い、パッと意味の通じる言い方を使え。くだけすぎた言い方でも構わない。
 私のいうように書いた報告書は一見荒っぽいかもしれない。しかし、時間はうんと節約できるし、真の
要点だけを簡潔に述べる訓練は考えを明確にするにも役立つ。
「理科系の作文技術」木下是雄(中公新書)


2007年3月27日(火)

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、
自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」
新約聖書・ヨハネの福音書


2007年3月26日(月)

 「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は、悲しみを増す。」
旧約聖書・伝道者の書


2007年3月18日(日)

 私が口を開けばロクなことを言わないし、ましてやそれが音楽に関することとなればなおさらで
ある。(だからなるべく言わないようにしている?)
 否定的な意見を聞きたくない向きは、直ちに他へ移っていただきたい。
 と、お断りした上で・・・、

ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲
ノリントン指揮/E交響楽団
某日本人女性ソリスト

 ノリントンが客演すると、こんなオケでも見事にノリントン風の音楽をやれるのに驚いた。
 それが、100%私の好みではないとしても。
 これが「指揮者の」力量なんでしょうねぇ。
 やっぱりオケにとって指揮者は大切で、まともな常任が就いてくれれば、少しは変わるんでしょう
ねぇ。

 ソリストについては、もう何をか言わんや。「○才からはじめるバイオリン教室」の生徒が、ユモレ
スクを弾いているかのような印象だった。


2007年3月14日(水)

 コクサンの飛行機というのは、あまり聞かない気がしますが、あるんでしょうか。
 何故、誰も作らないんでしょうか。
 そんなもの作っても、ちっとも儲からないからでしょうか。
 ○メリカ様に、作ってはいけないと禁止されているからでしょうか。

 ロケットは時折聞きますが、飛んだとか飛ばなかったとか、大騒ぎしてます。
 飛んで当たり前だと思うんですが、その程度の技術もないんですね。実は。


2007年3月13日(火)

 「Z日空の旅客機が無事胴体着陸しました。」
→ホゥ、よかったなぁ。

 「スタッフが冷静にマニュアル通り対処したのがよかったのだと思います。」
→マニュアル通りねぇ。不測の事態に臨機応変に対応できるのがベテランなんだけどなぁ。
ベテランを排除するのが今の企業戦略だからなぁ。

 「同型機は、これまでにも数十件の同種のトラブルを起こしています。」
→なんじゃ、そりゃ。マニュアルが完璧に整備されているのも当然か。

 ガス給湯器メーカーやF二屋と同じじゃないか。
 何人か死ななきゃ改善されないな、こりゃ。
 (そんな機種を作り続けるメーカーも、使い続ける航空会社も。)

 TンフルエンザのTミフルも同じだ。
 K生労働省は、「因果関係がはっきりしない。」とおっしゃる。
 そういう事例(落下事故)が100件ほど集まらないとダメなんでしょうね。きっと。


2007年3月11日(日)

 いつかやろう、また今度でいいや、と思う。
 しかし、今できなければ、永久にその機会は来ない。
 ここでまた、明日死ぬかも知れないからと、あまりにも物騒な脅し?を持ち出すつもりはないが、
あと100年生きられたとしても、その機会が訪れる確率は低いだろうということだ。

 忙しい時には、そんな事は思い付く余裕もなかったのに、せっかくそう思い付いた時にできない
のなら、やっぱり永久にできないだろう。

 聴かない、聴いたこともないCDも同じ。今聴けないなら永久に聴けない。(だから要らない。) 
 いづれ何か聴きたいと思った時には、それよりももっと聴きたいCDが他にまだ山ほどあるはず
だから。
 この時、「限られた時間」を痛感する。


2007年3月8日(木)

 クニや地方自治体を訴えて、賠償金や慰謝料を払わせたという例が時折ある。
 裁判所によってそういう判断がなされたということは、その訴えが正当であったのだろうと
推測される。
 しかし中には、そんなことを訴えるか? と首を傾げたくなることもある。

 この場合、支払われたのは「税金」である。


2007年3月2日(金)

 「俺たちの旅」という、かつてのテレビドラマで、ツムラ・コースケが、
 「一日一日(その日その日/毎日)が楽しくなくて、どうして人生(一生)が楽しいのか。」
と、盛んに言っていた。
 100%共感できたわけではないが、今でも強烈に印象に残っている。

 京都、大徳寺、大仙院に尾関宗園という名物和尚がいる。
 「仕事するために、勉強するために生まれてきたのではない。親に産んでもらったおかげで、
仕事することが(も)、勉強することが(も)できるんだ。」
 「自分が上にいて、仕事や勉強が下にあるのだ。上から下に降りてくるのだ。仕事や勉強を
するために、上に上がっていかなければならない、なんてバカなことはない。」

 将来、楽をするために、あるいは家のローンを返すために、今は一生懸命、必死に働く?
 今、楽をしたらどうなんだ。楽をできる将来なんて、果たして来るのか。
 (注:これは和尚の言葉ではない。)

 なぜかこの3つが、頭の中で渦巻いている。
 これは自分自身への問いかけだ。


2007年2月28日(水)

 忙しい人をつかまえる前に、果たして自分にできるのかやってみるべきでしょうね、やっぱ。

 喫茶店で、コーヒーを飲みながら、タバコを吸いながら3分間座っていてもしょうがない。
 「瞑想する」というとになるわけだが、瞑想→座禅→宗教儀式と連想しがちかもしれないが、
そういうものとは関係なく、精神衛生上とてもよいことだ。
 「瞑想法」も、たくさんアップされているだろうから、本格的には調べていただければよいが、

 なるべく静かなところに行く。
 音の出るものはすべて切る。テレビはもちろん、パソコンのファンの音なども実はかなりうる
さい。
 明かりは、直接目に入って眩しいのでなければ、消さなくてもよい。真っ暗闇はかえっていけ
ない。
 西洋式では「目を閉じて・・・」と、よくいわれるが、私は閉じないで「半眼(薄目)」が良いと思う。
但し、慣れないと少し違和感があるかもしれない。
 姿勢も無理にあぐらをかく必要はなく、楽な姿勢でよい。
 呼吸に集中して、五感からの情報をなるべく遮断する。
 3分といわず、集中できる間継続してみる。

 実は、終わり方がなかなか難しいが、雑音がしたり、何か気になったら適当に終わればよい。

 実際にやってみると、「あれ、何か変わった。」と実感できるはずだ。

 どんなことでもそうだが、読んだり聞いたりして、「ふーん」と、わかったつもりになっていても、
何の足しにもならない。
 実際にやってみること、実践することが大切だ。
 やってみた人だけが、果実を得ることができる。


2007年2月27日(火)

 時計なんか、なくしてしまってもいいのかもしれない。時間という概念ともどもだ。
 もともと時分秒など存在していないのに、便利だからという理由で、人間が勝手に切り刻んで
作り出したモノだ。
 すべからく、モノは多いより少ないほうがいい。

 人間(ある個人)にとって重要なのは、生まれた時と、死ぬ時だけで、その間の時間というのは、
案外どうでもいいのかもしれない。
 下手に時間を計ろとするから、他人と比較してしまう。長生きできたからよかった、短命だから
不幸だった。
 だが、人生も量より質。長さよりも中身なのではないか。

 忙しい人をつかまえて、3分間何もせずに座っていろと言ったら、我慢できるだろうか。
 下手をすれば30秒ももたずに悲鳴を上げるかもしれない。
 「そんなに長い時間、じっと座ってなどいられない!」
 「えっ、何ですって? 1時間を、1日を、1年を、ひいては一生をあっという間だなどと言う人が、
3分をそんなに長い時間だとおっしゃるのか。」

 時間の長さは時計が決めるものではない。
 自分で決めるものだ。


2007年2月26日(月)

 浄土真宗で使われる教典?に、蓮如上人の御文章(お文)というものがある。

 それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、
幻の如くなる一期なり。
 されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か
百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ
先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
 されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、
すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装
を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨
のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定
さかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみ
まいらせて、念仏申すべきものなり。
(御文章 五帖目 十六通 白骨の章)


 ここで解説はしない。検索していただければ、それに相応しいサイトはいくらでも出てくる。
 ここでは、知らない人のために、こういうものがあるという出会いのきっかけにしていただけ
ればいいと思う。

 私は先ず「老少不定」という言葉に出会った。
 老いた者も若い者も、いつ死ぬかわからない。順番ではないということだ。
 この時は、ある仏教用語?らしいと理解していた。

 次に「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。」
 朝、元気に出かけていっても、夕方には無言の帰宅をするのかもしれない。
 この時、かなり衝撃を受け、これが蓮如の白骨の御文章と呼ばれるものの中の言葉だと
知った。

 最近になって初めて「蓮如の白骨の御文章」自体を読んでみた。
 そして「後生の一大事(を解決すること)」に出会った。
 これが仏教(浄土真宗)の真髄?であるらしい。


2007年2月25日(日)

 私は、自分を忙しい人間だなどと思っていない。むしろ暇人だ。
 それでも手元にあるCDや本を、もう一度聴きたい、読みたいと思っても、十分な時間を
とることができない。
 このCDを聴けば、あの本が読めない。結局、時間貧乏なのだ。
 
 今できなければ、永遠にその時間はない。
 永遠に使わないものなら、必要ないから捨てればよい。
 そうすれば、せっかくあるんだから、聴かなくては、読まなくては、もったいないという
脅迫観念から開放される。
 仮に、聴かなくても、読まなくても平気なものなら、もとより持っている価値はない。

 捨てるのはもったいないし、使わないでいるのももったいない。
 そこから一歩進めれば、そんなものは金輪際増やさないことだと気付く。

 いつか必要になるかもしれない、という心配はある。
 実際その通りになることもあるし、過去に苦い?経験をしたこともあるかもしれない。
 しかし、そうではなく、やっぱり捨ててよかったという事例と比較してどうかということだ。
 100回のうち、1〜2回そういうことが起きたとしても、どうということはない。逆に、そこから
何か学習できるはずだ。

 無いもの、得られなかったものではなく、ある物、手にしたものに注目することだ。


2007年2月24日(土)

 エヌ・エイチ・ケイで、ストラディバリウスの番組をやっていた。 主人公?が、最高のストラ
を捜す物語だ。
 何人かの音楽家や関係者が口を揃えて言う。「ストラディバリウスでなければ、最高の音楽
はできない。」
 私には理解できないことだが、まるで言い訳のように聞こえた。「ストラディバリウスがない
から・・・。」

 ジョシュア・ベルが出ていて、彼の演奏からは確かに音楽が聴こえてきた。それが私の好み
ではない、としてもだ。
 しかし主人公の奏でるものからは、私には音楽は何も聴こえなかった。
 ジョシュア・ベルはストラを持っていて、主人公はまだ持っていないからか?

 ストラなんか手に入れる前に、まだやるべきことがあるんじゃないの、と思った。


2007年2月22日(木)

 忙しい人は多い。
 一日に48時間、72時間欲しいとおっしゃる。
 私がもし可能ならば、是非そうしてあげたいと思う。
 人生のほとんどの時間を、忙しく働いて過ごしてくれれば結構だ。

 よく観察してみると、忙しい人は無駄なことをやったり、工夫が足りなかったりする。
 簡単に言えば時間の使い方がヘタだということだ。
 たとえば、順番を逆にすることで、2つのことが同時に済むケースもある。
 あるいは、雑用が飛び込まないよう、前もって手を打っておく。これは仕事(雑用)を避ける、
逃げることではなく、積極的、前向きな行動だ。

 「忙しい」とは、字の通り「心を亡くす」ことだと言われるが、私も最近ようやくその意味が
わかってきた。
 忙しい人には何も見えていない。目だけでなく、五感から入ったものが、心で感じられなく
なっているのだ。
 皮肉なことに、忙しい人にはその意味が理解できない。

 私はまだそこまで悟っていないが、私たちはすでに無限の時間を手にしているという。
 この世で得られなければ、あの世で得られるわけがないと。


2007年2月20日(火)

 新しいモノを買い込むと、たいてい新しい問題も抱え込むことになる。


2007年2月19日(月)

 「量より質」という。

 これは全てに当てはまると思う。
 簡単に読み流してしまいがちだが、「全てに当てはまる」の意味するところは重大だ。

 某テレビ局での、ある食品のダイエット効果のデータ捏造事件がかまびすしい。

 私は「ダイエット」という言葉の意味を正確に把握していないが、
 ダイエット≒余分な脂肪を落とす≒やせる
 ということでよければ、食べなければいい。

 簡単なことだ。

 一週間くらい断食してみる。
 食事の量を半分に減らす。

 ダイエットしたいと思うのは、太っていて、それに我慢ができないからだろう。
 あるいは、健康に悪いから、しいては長生きしたいから。
 不健康であることに、あるいは短命であるかもしれないことに我慢できない。

 食事の量を減らすと、空腹感に我慢ができない。
 でも、太っていることにも我慢できない。
 どちらも我慢できないなら、何事も成すことはできない。
 人生は、欲しいものが全て手に入るわけではない。何かを犠牲にしなければならない。

 但し、必ずしも食事の量を減らすこと=空腹感が増すことではない。「食べ方」の問題もある。
 純粋に空腹感を我慢できないのではなく、やたらと理由もなく食べたいだけなのかもしれない。

 食事も「量より質」。
 音楽の聴取、鑑賞も、CDの所有もまた同じ。


2007年1月14日(日)

 「担当者がいないから、わからない」という話だ。
 私は、ある料金が知りたくて、ごく簡単な問い合わせをしたつもりだった。
 
 担当者は、事務所から無駄な電話を受けて、顧客(問い合わせしてきた人)に無駄な電話をして
返事しなければならない。
 この間、私も無駄な時間待ちをしなければならない。

 私が担当者なら、そんなことは私にいちいち聞かなくても、料金表を見てその場で返事しておけば
済むだろう、と考える。
 そのために、予め料金表を整備して、誰でもわかるようにしておく。それだけのことだ。


2007年1月12日(金)

 F屋の期限切れ原材料を使用した事件?で、その事実が露見するとY印のようなことになるので、
隠蔽工作したと言っていた。
 隠蔽工作すること自体が、同じ道を歩むことになるということが、わからないのかなぁ。


2007年1月11日(木)

 ほとんどの従業員が、自分の会社の製品だけは使うまいと固く誓っている。


2007年1月9日(火)

 子供たちがロクに育たないからといって、子供たちにはそれほど責任はないのかもしれない。
 問題は環境だ。
 まずロクな親ではない。
 そして世の中は、下らないモノや出来事で氾濫している。
 「大人たち」とはとても言えない、「年取った子供たち」のせいだ。

 今日は、訳あっていろんな企業(会社、店舗)に問い合わせたり、足を運んで用事を済ませてきた。
 どこもここも忙しくてオメデタイことだ。
 共通するのは、
 1.従業員が少ないので、こなしていけない。
 2.「担当者がいないからわかりません。」 しかも、後で連絡させますといって、返事が来るのは
半日後。私が期待しているのは、5分か10分後だ。当然そんな会社にはもう頼まない。

 人を減らせるだけ減らせば良いという考えの経営だ。マニュアル人間ばかりで、ちょっとしたイレギュラー
に対応できない。
 繰り返すが、オメデタイことだ。

 連休も問題だ。
 連休は連休で混み、連休が終わればその反動でまた混む。

 私には訳のわからないことばかりだ。


2007年1月8日(月)

 ニュースで、C県U市のDランドで、成人式が行われたと言っていた。
 子供向けのイベントかと思った。

 そんなものやめてしまって、成人の資格試験でもやったらどうだ。
 合格しなければ、酒もタバコも禁止。運転免許はとれない。パスポートは発行しない。
 結婚も子作りも禁止。
 そうすれば、少しはまともに大人になろうと思うだろう。


2007年1月7日(日)
エルガー:交響曲第1番
サー・コリン・デイヴィス指揮
ドレスデン国立管弦楽団
Profil CD PH05040


 音楽CDの話題が出たついでに、2006年購入分を少し披露しましょう。
 (ははは、何がメインだかわからなくなってきましたが。)

 デイヴィス指揮によるこの曲は、少し前にLSOのライヴシリーズでも出て
いたが、それはあまり衝撃的とは言えなかった。
 むしろ、以前紹介したBBC交響楽団とのほうが熱かった。
 (まだこのページの下のほうに残ってますから、参照して下さい。)

 デイヴィスとこのオケ(ドレスデン)には、何か特別な関係があるらしいが、エルガーでこれだけ
の演奏させてしまうというのは、只事ではないように思う。 昨日のウォルトンもそうだったが、一言
でいえばブチギレ・デイヴィスである。
 この期に及んで、まだこの指揮者を穏健中庸などと考えている向きは、足の裏に耳がついてい
るとしか思えない。

 おもしろいことに、ウォルトンは1ヶ月くらい毎日聴き続けても、ほとんど飽きることはないが、この
エルガーは一度聴くと結構満足してしまうのか、かなり長い間再度聴いてみようという気が起きない。
作品の性質として、何となく「重い」のかもしれない。


2007年1月6日(土)
ウォルトン:交響曲第1番
サー・コリン・デイヴィス指揮
ロンドン交響楽団
LSO 0076


 おぉ、CDのジャケットが出るなんて、一体どうしたことでしょう。

 2006年のCD購入枚数は、調べたところ数枚だった。
 このところ、街へ出ても、CDショップが最も行く必要のない場所になった。
 音楽への愛着や情熱?が冷めたわけではない。
 買うべき、聴くべき新譜CDがなくなってしまっただけのことだ。

 このCDも、普通なら買わずに済ませるところだった。未知の曲に積極的に取り組むほうではない。
 しかし、ネットラジオでこのライヴ放送があって、初めて聴いたところ、すっかり気に入ってしまった
次第だ。楽曲にも演奏にも、だ。
 私は、気に入ったら最後、とことん聴く。これも50回以上は聴いていると思う。
 飽きないのか? 飽きない。断じて飽きない。繰り返しの鑑賞に堪えられる作品だ。
 だから他のCDが必要ないのだとも言える。

 「本来、音楽とはライヴでの一期一会であるべきもの。だからCDで繰り返し聴くのは邪道だ。買った
CDは一度聴けばいい。」
 それはまことにご立派な精神だ。だったら用済みのCDはさっさと捨てたらどうだろう。


2006年12月27日(水)

 モノを持ち続けるということは、物理的に手に持っていなくても、重たいものだ。
 心が重いのは、体が重いのよりも辛い。軽くなって初めてその重さがわかる。

 一方で、とりあえず何も考えずに持ち続けるのは楽なことだ。
 「何もしない」というのも一つの決断だが、それは消極的なものだ。

 減らすということは、大変な努力を要する。それ故、成果は大きい。


2006年12月12日(火)

 ある仮説だとお断りしておくが、
 「時間とは、過去−現在−未来と、線のように連続したものではなく、過去も現在も未来も、今同時に
存在している。」
という考え方がある。

 未来の自分というのはわかりにくい、理解しにくい、想像しにくいが、過去の自分も今同時に存在して
いると言われると、なるほど思い当たることがある。

 過去の自分を変えたり、やり直したり、取り消すことはできないが、許すことはできる。
 現在の苦しみの原因は全て過去にあるわけだから、原因がなくなれば、結果(現在の苦しみ)もなくなる。


2006年12月11日(月)

 人間は何かを信じてないと、生きていけないらしい。

 「紙コップの底は抜けない。」
 「パソコンのスイッチを入れても爆発しない。」
 「トイレが詰まっていることはなく、水を流しても決してあふれてこない。」
 なるほど、こういう断固たる信念がないと、生活もままならない。

 「信じらんな〜い。」
 信心とはおよそ無関係と思われる人でさえ、何かを信じているようだ。
 この場合、軽く裏切られたようであるが。

 妻を信じているから、熟年離婚されるとは思っていない。子供を信じているから、老後の面倒は
見てもらえる。お金を信じているから、せっせと貯金する。カイシャを信じているから、滅私奉公する。
ニホンを信じているから・・・。

 最も信じているのは自分の命で、漠然と明日もこの命はあると思っている。
 しかし、そうでないとわかった瞬間に愕然とし、絶望する。


2006年12月10日(日)

 「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」一休
 誕生日もまた同じ。

 だが、今日まで生き延びてこられたことを祝うことに意義は感じる。
 それなら、毎日、朝(あした)に、夕べに、今生きていることを感謝したらどうだろう。

 今日の昼間、交通事故に遭わなかった。今夜は、生きて眠れる。
 昨夜、大地震は来なくて押し潰されなかった。朝、ちゃんと目覚めた。
 そのことに感謝して、毎日お祝いすればよい。
 そうすれば、毎日が誕生日で、記念日だ。


2006年12月9日(土)

 過去の特定の日と、最近のある年の「同じ」日付に関係はないという。
 自分の誕生日でも関係ないのか。
 敢えて言おう。「そうだ。」

 私は最近、正確な年齢を意識することに興味はなく、意義も感じなくなった。
 多分○歳くらいだろう、と考えている。
 (何かの手続き上、正確な年齢を書面に記載する必要がある時は、その都度数え直す。)
 
 CDを何枚持っているか、も同じだ。正確な数量を知ることに何の意味もない。

 そして、最近出会った言葉「無常の前には同い年」が、いたく気に入って?いる。

 まぁ、でもリメンバー・パ○ル・ハ○バーといいまして、やられた方は恨み骨髄と言いますか、
死んでも忘れませんわね、やっぱ。
 未だアメ○カの支配下にあるのも当然といえば当然でしょう。


2006年12月8日(金)

 今日は真珠湾攻撃の記念日?だと盛んに吹聴している人がいた。
 何年か前の12月8日と今日は何の関係もないのに。
 過去を大切にする人なんだなと思った。

 ちなみに未来はなさそうな人だった。


2006年12月7日(木)

 よく「人生は、あっと言う間」だと言われる。「昔のことがまるで昨日のことのように・・・。」
 本当だろうか。

 私はそんな風に思ったことはない。私にとって、過去は十分長かった。
 それは、私が一生懸命生きていないからだろうか。暇人だからだろうか。
 忙しいと、時間があっという間に過ぎるらしいから。

 「10年ひと昔」と言われるが、確かに10年前のことは、相当昔のことのように感じられる。
 そのさらに10年前は、はるか昔のことのように感じられる。
 決して昨日や一昨日のことだとは思えない。


2006年12月3日(日)

 全てをなくす、という経験は滅多にできるものではないが、ある程度のものをなくすという経験は時折可能
である。ありがたいことに。
 家族や、家財産をなくすこともあるが、例えばカイシャをなくす。
 原因は倒産であったり、M&Aであったり、所属する支店や事業部の閉鎖、統廃合。あるいはリストラや
左遷であったり、定期、不定期の人事移動。
 このような時、カイシャへの依存度、忠誠心が高いと、裏切りのようなものを感じたり、絶望感に襲われる
こともある。
 しかしカイシャにしてみれば、初めから「当社は倒産しない。あなたを定年まで雇う。」などと約束した覚え
はない、というだろう。


2006年12月2日(土)

 人生を大切にする人、時間を大切にする人、今を生きる人。
 その最も顕著な例?は残り時間の明らかに限られた人だ。
 例えば不治の病で、余命○ヶ月と宣告された人。
 その人にとって、「いつか」「そのうち」「いずれまた」という猶予はない。
 「今」しなければ、永遠にその機会はない。

 ちなみに、余命○ヶ月の人を看護、介護する人が、自分はその人よりも絶対に(はるかに)長生きする、
などと考えているのは、傲慢であり、錯覚に過ぎない。
(これは有名ながん治療の医師平岩○樹氏の言葉を借りている。)


2006年12月1日(金)

「タイムシフティング」
ステファン・レクトシャッフェン著/高瀬素子訳
NHK出版 1997年

という本で、特に印象に残っている部分がある。


私は鉱物として死んで、植物になった。
私は植物として死んで、動物に生まれた。
私は動物として死んで、人間となった。
どうして恐れる必要があろう?
死ぬことで何を失ったというのか?

ジェラール・アディーン・ルーミー(ペルシャ詩人)


この後、私なりに補足すれば、
「私は人間として死んで、鉱物(チリ、土)となる。」

もう少し残酷?なシチュエーションとしては、
「私は人間として死んで、肉食動物となる。」

残酷とはいうものの、人間が生きるために、どれだけの動植物に死んでいただいていることか。
たまには(最期には)、その生物たちの気持ちになるのもいいだろう。


2006年11月30日(木)

 以前「ガラクタ捨てれば自分が見える」の中で、「自分の体でさえ自分のものではない。地球から一時的に
借りているものだ」との衝撃的事実!?を知らされた。

 モノを所有することに喜びを、生き甲斐を感じていても、この世から出て行く時には全て返さなければならない。
その時には、お金は戻ってこないし、お金すら全部置いていかなければならない。


2006年11月29日(水)

 欲しかったモノがいらなくなる時

 モノはいずれあなたの元を離れる。
 あるいは、あなたがモノの元を離れるのかもしれない。

 モノは必ず必要なくなる時が来る。
 離れる時のことを考えて買う。あるいは受け取る。

 一時的に借りているにすぎない。


2006年11月28日(火)

 突然こんなことを言い出したからといって、昨日今日思いついたわけではない。
 私が自分の死を意識し始めたのは、10年以上前だ。

 それ以降、ある時から心掛けていることがある。
 家を出る時は「もう帰れないかもしれないが、いいかな」、寝る時は「もう目覚めないかもしれないが、いいかな」
と振り返ってみる。
 火の元、戸締りを確認するようなものだ。


2006年11月27日(月)

 「明日はないかもしれない」と言うと、物騒に聞こえるかもしれないが、実際のところ明日の命が保証され
ている人間(全ての生物)は、いない。
 キリスト教でも仏教でもそう教えているが、宗教が教えているからではなく、自然界の掟としてそうなのだ。

 最近面白い意見を聞いた。
 死を遠ざけよう、忘れようとするが、もし死ぬことができなかったらどうなるのか、という仮説だ。
 永久に生きなければならない。
 しかも馬車馬のように働き続けなければならない。皆さん、そうするのがお好きなようだから。

 「いや、今はガムシャラに働いているが、いずれ適当なところで悠々自適な生活に切り替えるつもりだよ。」
 だが、悠々自適な生活に切り替えるまで、生きられる保証はどこにもない。


2006年11月26日(日)

 三日坊主であるが、既に5日目に突入した。
 だが、基本的に「明日からはないかもしれない」と思っておいて頂きたい。

 少し書いては、大きなブランクに突入する。今回も気付いてみれば10ヶ月。
 何故か。
 昨今のニュースを見聞きすると、もう世の中○カばかり。モノを言うのもアホらしいというのが理由だ。

 心境は常に変化している。書くべきか、書かざるべきか。ハムサンドである。ハムエッグである。ハムサラダである。
 今回は、書いたほうが良いとの心境に傾いたので、こうしている。
 
 繰り返すが、明日は保証されていない。

 ハムレットだよ。


2006年11月25日(土)

 「人間は考える足である」という。
 考え事をする時、歩き回るのは、脳が血流を要しているため、その助けとして、軽い運動をさせている。
科学的、生物学的、論理的に言えばそういうことなんだろう。

 でも「足で考えている」と言っておいたほうが、なんとなく名言ぽくって、いいじゃ〜ん。


2006年11月24日(金)

 今「後生の一大事」について考えている。

 私は宗教について勉強するのは好きだが、今のところ特定の宗教に帰依(信仰)しているということはない。
 それぞれの宗教が、一体何を言っているのかに興味がある。
 言ってみれば、宗教の品定めをしてやろう、というバチ当たりである。

 キリスト教(ユダヤ教、イスラム教)→神道→仏教と興味が移ってきた。
 ごく大雑把に突き詰めれば、どの宗教でも「自然」を「神(仏)」と人格化して、崇めよ、拝め、と言っているようだ。
 
 仏教の中で比較的重要な思想が、この「後生の一大事」ということらしい。


2006年11月23日(木)

 「人間は考える葦である」という。
 だが私は「人間は考える足である」と思う。

 ハハハ、それは冗談だが、「人間は足で考える」のかもしれないと思う。
 難しい問題を考えている時、無意識に席を立って、ウロウロ歩き回っている自分に気付くことがある。

 但し、ぱっとひらめくのは、歩いている時にかぎらず、他の作業をしている時であることも多い。

 いずれにせよ、この時部屋がCDで一杯で、歩き回れるスペースのない方は、まことにご愁傷様だ。
 いらないものはサッサと捨てて、部屋もすっきり広々したほうが、頭もすっきりする。


2006年11月22日(水)

 モノを不必要にたくさん溜め込んで執着しているのは、あまり賢いこととは思えない。はっきり言えば愚かだ。
 いつかそれがゴミの塊だと気付く。


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