| 駄聴日記(セレクション1) |
私はレコードコレクターではない。マニアでもない。オタクでもない。
趣味や道楽でもないと思っている。趣味というのは比較的近いニュアンスかもしれないが。
最近どこかで読んだ、道楽というのは同じものを2つ買うことから始まる。
例えば同じ録音でもジャケットが違うだとか、再発ものだとか、国内盤と海外盤だとか。例えば聴きもしないレコードを買い込むのは道楽である。
私はそんなことはしない。
私はデータの類にも全く興味がない。誰それがいつ来日して、そのときの演奏会のプログラムがかくかくで、そのときのオケのメンバーはしかじかで・・・。しかもアンコールがナニナニで・・・。
私にとってレコードやオーディオというのは手段であって目的ではない。あるいは、実用品であるかもしれない。
趣味というのは、手段が目的化することであるらしい。
私は音楽を愛しているのであって、レコードやオーディオを愛しているわけでは決してない。愛する音楽をよりよく、感動深く聴くための手段としてのオーディオの高音質化である。
私は音楽愛好家でありたいと思っている。
(2001/05/13/日)
2000年9月24日(日)
「いい演奏」ってなんですか?
演奏や楽曲の好みの違いは、その演奏家(または作曲家)の人間性に共感できるかどうかの違いではないだろうか。
また、私は最近では、それは人間的な「相性」ではないかと思うようになってきた。
芸術というものは人間が創造するものである以上、その人間の全人格が現れるのだと思う。だから、先ずその人間が好きになれなければ、その音楽(芸術)も好きになれる訳はないということだ。
だが、個人的な付き合いがほとんど不可能である我々にとって、その人間性を知るにはどうしたらいいか。これはもうその芸術から聴き取るしかない。(当たり前か。)
これは意外に直感がモノをいう。
いくらスコアなぞ見ながら、顔をしかめてレコード聴いてたって、そういうことはわからない。
スコア通り忠実に演奏したら、素晴らしい演奏になるのだろうか。誰々はスコアを改変しているとか、何々改訂版だとか、自筆譜がどうだとか・・・。
違う表現をしたら、それでその芸術は価値がなくなる(あるいは減ずる)のであろうか。
そんなところで分析やアラ捜しをしていてもしょうがないように思える。もちろんそれが職業であり、あるいは趣味である方はそれでも結構。しかし我々普通のリスナーにそんなものは必要ない。
そういうことを乗り越えて、あるいは意識させずに感動を与えてくれるのが、本物の音楽であり音楽家ではなかろうか。
私には、好きになりたいんだけど、その音楽を聴くとどうしても納得できない、という指揮者が一人いる。
これはある種の先入観である。この指揮者はこういう演奏をするはずなんだけど・・・。いや、でもこれは私の求めるベートーヴェンではない、ブラームスではない、ブルックナーではない・・・。
意外に荒いのだ。熱いとも言える。激情が度を越えてしまうように感じれれる。
私にとっては珍しい存在である。普通ならさっさと見切ってしまうのだが、不思議とその指揮者は「嫌い」にはなれない。だが芸風からして、この先好きになれそうなタイプでもない。いずれにしても気になる存在である。
ちなみにそれは物故者である。
物故者といえば、長年?クラシック音楽に親しんできてふと気付いてみると、不思議なことに現役の音楽家に嗜好が向いてきているのである。全く意識していなかったのだが、自然にそうなってしまっていた。
昔はそれこそフルトヴェングラーだ、クナッパーツブッシュだ、ワルターだなどとやっていたのだが、最近ではジュリーニであり、ザンデルリンクであり、マークであり、C・デイヴィスであるのだ。
こういう芸術家には、少しでも多くの(文化)遺産を残しておいてもらいたいと願うばかりである。だが、こういう人たちに限って、なぜか録音には積極的ではないのである。
逆に、「おいおい、ライヴでも何でも、全部出すつもりかよ」というような指揮者もいる。どこに価値があるのか全くわからない。おまけにリハーサル付きである。本当の(プロの)芸術家が、そんなものの公開を望むだろうか。 最終的な「作品」のみが、世に問う価値があるのではないだろうか。
あなたは、「HPの原稿や下書きも一緒に公開して下さい」と言われたら、喜んで見せますか?
本人が望んでそうしているのかどうかは疑問であるが、もう少し節操があってもいいのではないか。いずれにしても、許可していることは間違いない事実である。
私は、極論ではあるが、新録をリリースするということは、旧録を否定することだと考えている。今、棚にある過去のレコードがゴミと化すということだと思うのだ。
一度リリースしたレコードがそこそこの完成度で、本人に不満がなければ新録を出す意義は全くないはずだ。内田光子やチョン・キョンファを見よ。厳選したものしかリリースしない。
過去のレコードに不満があるからこそ再録するわけだ。
あの年になって(それが誰のことだか、御歳いくつだかは知りませんが。)まだ芸術が完成されていないのだろうか。それとも、まだまだ成長過程にあって、今後2〜30年は活躍されるつもりだろうか。それならなおさら、腰をじっくり据えて活動するべきではないか。
追悼企画なら、お亡くなりになってからやればいいのだ。生が聴けるうちに、あわててそんなことをする必要は全くないではないか。
私だって、出来る事ならヨーロッパに居座って、先に挙げた偉大な芸術家たちの追っかけと化していたい。だが、それが許されないからこそ、希少かつ貴重な録音を、たとえ正規盤でなかろうと、できる限りかき集めて、こよなく愛聴するのである。
非正規盤は、芸術家本人が許可していないから云々、と言われる向きもあるが、そのほとんどが放送音源である以上、少なくとも「公開」には同意しているわけである。この場合、放送したことによるリベートが入るのかどうか、業界事情には詳しくないが、何らかの保証(ギャラ)はされているんだろう。だから、芸術家本人の不利益になるなんてのは信じられない。
本当に「その日」の芸術に不満があって、聴きに来た聴衆にも申し訳ないから、入場料の払い戻しをする、あるいは放送の取り止めを申し入れる、とまで言い切ったのなら、私はその非正規盤をよろこんで破棄しよう。
それよりも、本人の死後、全く知らないところで、「利権者」のみの都合で、しかも訳のわからない細工を施されて「合法的」にリリースされたものの方が、よほどその芸術を侮辱しているとしか思えない。
2000年9月23日(土)
音楽に国境はある
「音楽の友」2000年10月号に興味深い記事が載っています。しかも関連の深い記事が2つもです。一部を引用させていただきます。
一つ目は、なかに○礼氏がサヴァリッシュについて語ったものです。
音楽はその国に大地に咲いた花である。ゆえに風土の匂いにみちている。しかも音楽は、音楽一人で抽象的に成り立っているものではない。音楽はつねにその国の言葉というものが寄り添っている。いや、音楽は言葉を母体として生まれるというべきだろう。つまりすべての音楽には言葉にならない言葉が含まれている。
演奏するということは、この言葉にならない言葉をどう分析し解析するかということなのではないか。二つ目は「伝聴○」という企業の広告です。
赤ちゃんは・・・成長とともに、(その)聴覚は母国言語を聞き取るのに都合良く発達していきます。そのため英語のL、Rに代表されるように外国語が聞き取り難くなるのです。
信じられないかも知れませんが、聞こえていると思っている音楽も母国語の習慣で演奏しているため、実は外国語を判断できる程度にしかわれわれの耳には聞こえていないのです。そんな耳で音楽を勉強し語っているわけです。
実は音楽は国境だらけなのです。・・・二つ目はちょっと変な文章ですが、要するに原語の細かいニュアンスの部分は、異邦人にはわかりにくいと言っています。
これらから明らかなように、音楽には国境があるのです。
お国もの、本場ものをバカにする向きが多いが、とんでもない間違いに思えます。その国の民族にしか表現できないモノが、その中に厳然と存在するのです。そういう人達には、これが聴き取れないのです。本質的な部分がわからないまま、表面的なオトを聴いているに過ぎないのではないか。そういう演奏が、たまたま自分の好みに合うとういう理由だけで。
それは、外国人の歌う「日本のウタ」を聴いてみれば、火を見るより明らかなはずである。それが、日本の歌手が歌うものより、優れていようはずがない。
日本の、特にオケが演奏する音楽がサマにならないのも、おそらくここに原因があるのだろう。
私は日本のオケはほとんど聴かないし、その存在すら不要だと考えている。だが、そういうものに存在意義を見出せる向きは、おそらくそこから聴き取れる(演奏者も多分そうしているであろう)日本的なものに共感しているにすぎないのではないだろうか。
だが、これは決してクラシック音楽の正統ではない。
もちろん、日本の音楽を日本人が演奏すれば、それは間違いなく世界一である。だが洋楽器であるオーケストラで演奏して、それが日本の音楽だろうか。
日本の音楽とは、三味線や笛太鼓で演奏してこそではないのだろうか。
この国で「本格的な(西洋)クラシック音楽」が普及するわけがないのです。
だが、ソリストや一部の指揮者は別かもしれません。彼らは現地で生活し学び、その文化をある程度消化吸収しています。こういう人達には本当のクラシック音楽が可能であろうと思います。
じゃあ、おまえ(私)は、何で外国の音楽に興味を持ったのか?
それは私にもわかりません。たぶん、私の中にそういう血があるんだろう、ぐらいに解釈しています。
但し、私は能楽などにも非常に興味を持っています。
2000年10月5日(木)
公認海賊盤?
最近ムラヴィンだの、セルだの、クーベリックだの、往年の巨匠たちのライヴ盤リリースがかまびすしい。
ところが、海賊盤をゴキブリのように忌み嫌う向きが、こういうレコードに対しては異常に絶賛したりする。なんとかかんとか理屈をこねて、そういうものを聴こうとしない自分たちを美化しようとしていたのに。正義感あるいは遵法精神という建前論をふりかざして。
法律なんて、その時々の、ある人たちに都合のいいように決められているだけだ。その証拠に、何か事があればころころ変わっていく。
戦争ともなれば殺人こそが正義であった・・・たった50年前までは。
その昔は「仇討ち」という殺人だって認められていた。
今でも、せめて死刑執行の合図ぐらい、残された肉親にさせてあげればいいのにね。ところが今では、死刑すら執行(宣告)できないほど腰抜けになってしまっている。ほとんど中途半端で釈放して野放しだ。ここにも腐敗の一因がある。
話がそれた。
ライヴ盤が素晴らしいなんてことは、こちとら昔からとっくにお見通しなんです。だから「非正規盤」は素晴らしいって、昔から言ってるんです。まあ、やっとそのことに気付いたのならそれでもいいんだけど。
だが、そういう類の「正規盤」を聴く事に、何か後ろめたいものを感じないだろうか。
肝腎のマエストロたちは、それらのリリースに同意しているわけではないのだ。
それとも、どこかの誰かに「これは法律に基づているんだから、本人の意向なんてどうでもいいんですよ。」と、後押しされれば、それで安心しているのだろうか。
モノの本によると、そういう不認可レコードを聴いても、なんら巨匠たちの芸術を理解する助けにはならないらしい。
またこれを機に、「本物の」海賊盤なんぞに手を出すことの無きよう、くれぐれもご注意申し上げておきたい。
2000年10月8日(日)
ブラームスのVn協奏曲を聴いた。(ムローヴァ/アバド/BPO/’92/PH)
ムローヴァである。これはこの曲としてはとびきりの名演とまでは言えないが、標準的な「佳演」であると思う。
だが、ムローヴァの伸びやかな艶のある音色は聴きものだ。深みや透明感もある。「右手」の素晴らしいヴァイオリニストである。ライヴであるが完成度は高い(だから、CD化されているんだろうけど)。
ところで、このレコードでの問題点は聴衆である。某国の○ントリーホールとやらでのライヴである。(○に「カ」が入れば、なるほど!と納得。)
フィナーレでの導入で、奏者たちはアタッカ気味に入ろうとしているのに、ここでの聴衆どもは、ざわざわし始めているのだ。全く、どこを、何を見てるんだろうといつも思う。
おそらくこの指揮者も、ここでは指揮棒を降ろさなかったと思う。「いいかい、このまま入るよー」と(無言で)言っていたに違いないのだ。
そんなことに聴衆は全くお構いなし、自分だけの都合でゴホゴホゴソゴソ。
怒りと嘲りが入り混じった気持ちで、業を煮やしたようにアインザッツが切られる。そんな様子がまざまざと聴き取れる(いや、見える!)のだ。
こんな、訳のわかっていない聴衆がいて、いい音楽「会」ができるわけがないのだ。
だが、アーティストたちも、きっとそんなことは承知の上なんだろうと思う。
「どうせこいつらに本物の音楽が分かるわけないんだし、テキトーに流しておいてもバカのひとつ覚えで「ぶらぼ〜」なんて喜んでるし。
ニコニコしてサインしてやりゃCDはバンバン売れるし。ギャラは異常にいいし。
観光がてらアルバイトしに来るにはホントもってこいだわ。オメデタイ国ザーマスこと・・・。」
2000年10月9日(月)
アタッカの問題に関連して。
音楽というのは、最初から最後まで「一つの流れ」があって成り立つものである。それぞれの楽章は確かに独立している(ように見える)が、前後があってはじめて意味を成すのである。
作曲家は、気分や思いつきで4つの楽章を並べたわけではない。苦闘と試行錯誤の末に、ある場合は何年もの歳月をかけて検討され、全体と部分を考え合わせてうえで、設計し完成されたものであるはずだ。
アタッカで入るか否かを選択するのも、そのあたりの指揮者の解釈のうちであろう。もちろん、初めからそのように作曲されているものも多い。単独(別個)のパーツであれば、アタッカで入る意味はない。有機的に繋がっているからこそだ。
しかし中には、そんな偉大な作品の途中の楽章だけ抜き聴きしたり、最初と最後だけ聴くキセル聴き(おっ、これは(R)ですな)したりする向きもあるらしい。
どういう聴き方をしようと、それはもちろん個人の自由である。
だが、前菜とデザートだけで料理は語れないように、そういう聴き方をして音楽を語ることは謹んで欲しい。アダージョ・○○というのは、「そういうもの」であって、そもそもそれは音楽の本質ではないのだ。エッシェンバッハ氏に言わせれば「くだらない」ものなのである。
演奏する方も全体の構成を考え合わせたうえで、個々の楽章を描き分けているはずである。それができていないような演奏家なら、そもそも聴く価値はなかろう。
まがいなりにも、一流と目される演奏家が、「こまぎれ聴き」を積極的に推奨しているなど、およそ考えられない。
一部のヒョーロンカで、「この楽章はこちらの勝ち、あの楽章はあんたの負け」という人がいるが、こういう人は、カラヤンの一楽章とベームのニ楽章とバーンスタインの三楽章とフルトヴェングラーの四楽章をつなげたら、宇宙最高の音楽ができるとでも思っているのだろうか。
いずれにしても、「全体で一つ」の曲なのである。そもそも、それ以上の細分化は不可能なものなのである。
2000年10月26日(木)
拍手の功罪(黒田恭○)
氏のある記事より。
コンサートやオペラでは、拍手が過剰に思えることが多い。拍手には「ありがとう、ご苦労様」という感謝の意がこめられている。それに応えてアンコールが演奏される。だが、ときには、しつこい拍手が演奏者にアンコールをねだっているように感じれることもなくはない。そういう時には演奏者へのこころ配りも必要だろう。
ホール関係者は客席の明かりをキャクデンという。客席が明るくなれば、聴衆はそれ以上のアンコールはないものと理解する。にもかかわらず稀には、キャクデンが入った後も拍手と歓声がつづくことがある。これは、アンコールをねだっているのではなく純粋に感動を伝えるものだ。
最近、演奏が終わった後、いつまでもキャクデンを入れないコンサートやオペラの公演がある。客席が暗いままなので、やむをえず手をたたいている人を見かけることもある。
帰りを急いでいる人が、暗い客席の通路を背を丸めて出口に向かう姿を見ると、気の毒になる。
主催者が、カーテンコールの回数の多さを公演成功の証拠にでもしたがっているのではないかと勘ぐりたくなる。いつまでもキャクデンをいれないのは、聴衆観客への拍手の強要でしかない。
困ったことに、昨今、拍手や歓声が虚礼化しているように感じられるコンサートやオペラの公演がふえている。黒田氏は紳士であり、あくまで控えめである。
たびたび繰り返すが、私も別の意味で、最近の聴衆には辟易している。賢明な方にはお察しの通りである。最低限の礼儀が守られない。純粋に音楽を愛する方ほど憤懣やるかたないことであろう。
だが、本当にこういうことを聞かせなければならない馬○は、決して聞く耳をもたない。
ますますコンサートから足が遠のく今日この頃である。
2000年10月30日(月)
人は演奏に何を聴くのか・・・アファナシェフの場合
アファナシェフのインタビュー記事(レコード芸術、掲載月不詳)を読み返していて、大変興味深いことを語っていたのを発見した。
私は今のところ、このピアニストのそれほどよい聴き手ではない。またこういう「読み物」をたよりにその音楽家(作曲家、演奏家とも)を理解する助けにするのはあまり好きではない。
出来上がった作品から聴き取れるものを大切にするようにしている。
だからここでもアファナシェフ個人を理解するのではなく、演奏論を普遍的に考えてみようというわけだ。
以下にその記事の一部を引用させていただく。
インタビュアー:
しばしばひとは(音楽が)「何々」を表現していると語る。子供の頃、音楽の授業で、古今の名曲を聴かされてから、この曲は何を表現しているのでしょうと質問されたことが記憶にあるひともいるだろう。だが、この「何々」とは何なのか? あるいはそんな「何々」など本当にあるのだろうか?
アファナシェフ:
「自分」は「自分自身」を表現していると思います。
ところが、作家は作家自身を表現しているけれども、不思議なことに、演奏家の場合は作曲家を表現していると考えるひとが多い。いま、作曲家が書いたとおりに、「私は作曲家を演奏しているのです」と言い、作曲された当時のスタイルで「オーセンティック」な演奏だというひとが多いですよね。
でもこれは一種の宣伝のような側面があるのではないでしょうか。ブレンデルがベートーヴェンを弾くとき、ブレンデル自身が聴こえてきます。グールドもそうです。聴き手は、演奏家の演奏を通じて「作品」を聴くわけです。もしその演奏家が偉大であればあるほど、聴衆はベートーヴェンを良く聴くことになります。演奏する作品というのは、その愛の対象です。
世界における自分の表現とはそれしかないと思いますよ。個性がつよいひとはエゴイストだと言われたりもしますけれどもね。マザー・テレサがほかのひとに愛情を感じ同情を示すというのは、マザー・テレサ自身を表現しているのです。これは単なる例にすぎませんが。』
(以下、関係ありそうな、なさそうな話題が続き、きりがなくなるので、ひとまずここまで。また、原文ではスペースの関係か段落替えもないので、どこで切るかによって微妙にニュアンスも変わってくる。)ここでアファナシェフは、大変難解なことを語っておられる。何度読み返してもよく理解できない部分もある。これは翻訳の問題もあると思うが。
私なりに解釈すると、
少なくともアファナシェフは、演奏においては自分自身を表現することを優先している。(これは彼の演奏を聴けば明白か。)
そして他の演奏家が「作曲家」を表現しようとしているというのはウソで、本当は自分自身を表現したいといいたいのをオブラートに包んでいる、と喝破している(これは極論ですが)。
そりゃそうかもしれない。本当に「作曲家を正しく表現する」のが目的なら、こんなにたくさんの演奏家は必要ない。だれかそれにふさわしいごく少数の演奏家がいればいいのだ。
だがそういう世界は画一的で味気ないものになろう。そう、誰が演奏してもほとんど同じで、それはつまらないものになるからだ。そういうのはコンピューター演奏にでもまかせておけばよい。
みんな自分を表現したいから、演奏家になって誰かの作品を演奏するのだ。本当は自分の作品を演奏できればそれが一番いいのだろうけれど、いまどき自作自演で成功する可能性は極めて少ない。だから過去の偉大な作品を演奏するしかないのだろう。またそれがニーズでもあるからだろう。
「私でさえ」フルトヴェングラーの作曲した作品を積極的に聴きたいとは思わない。いわんや現代の作曲家の作品をや、である。
私はここで結論めいたことを言うことは避けたい。私自身も疑問を抱きながら、考えながら「演奏」を聴き、これを綴っている。そしてそれは時間と共に変化していく類のものである。
私たちは「演奏」に何を聴いたらいいのだろうか。
2000年10月31日(火)
演奏とは何かについて、続けて考えてみます。
アファナシェフの意見について、別の記事から引用させていただきます。タワーレコード のmuseeからです。おそらく昨日ご紹介のインタビューと同じ時期だと思われます。
ここで個性ということにも触れておきましょう。話の中身はいよいよ反時代的になりますが・・・。
現代には、非常に奇妙な演奏家たちがはびこっていますね。彼らは口を揃えて言うのです。作曲家の意図とかその作曲家の生きた時代の演奏様式を忠実に再現しよう、楽器までその時代のものを使おう、そのためには自分たちの個性を捨てよう・・・。
しかし、そんな話はまるで馬鹿げています。音楽作品とは演奏家の個性を鏡として立ちあがってくるもので、演奏家が個性を捨てたら演奏は本当の意味では成立しないのですよ。そんな演奏を望む作曲家がいったいどこに居たというのでしょう?
最近の「作曲家の意図や時代様式に忠実」と称する演奏は、本当のところでは音楽とは言えません。ところがそういう演奏でないものがオーセンティックな演奏なのだという、全く倒錯した価値観が一世を風靡してしまっている。そしてそういう風潮をあおるレコード会社や、それに従う聴衆がたくさんいる。
世の中はもう馬鹿ばかりになってしまいました。ハハハ・・・。演奏には個性が必要で、それはあらゆる作曲家が望んだことだと言っています。
それが「真実」かどうかは、私にはわかりません。全ての作曲家にその質問をぶつけてみなければ確認できないからです。
マーラーあたりはこの意見には反対するかもしれません。非常に細かい書き込みがしてあるそうですから。このとおり忠実にやれと。
逆に、バッハなどはこの考えにかなりに近いでしょう。指示が非常に少なく、演奏する楽器すら指定していないものもある。
シベリウスも、ある指揮者からテンポのことで問い合わせを受けた時、「ご自由に」と返事をしたらしい。フルトヴェングラーなど、もちろん個性派であろう。
してみると「演奏」を聴くということは、やはり「演奏家の個性」を聴くことだ、という定義に近いのだろうか。
ヴァレリー・アファナシェフ
1947年モスクワ生まれ
特異な音楽観・芸術観をもち、その演奏スタイルも極めて個性的。
代表盤?
ベートーヴェン:ディアベッリの主題による33の変奏曲(De)
シューベルト:最後の3つのソナタ(De)
いずれも悶絶死寸前の涅槃の境地が味わえます。
2000年11月01日(水)
演奏論・・・吉澤ヴィルヘル○の場合
「こんな『名盤』はいらない」(青弓社刊)より引用いたします。
モントゥーは好きだがハイドンは嫌い
さらに、今日の聴き手や評論家の大勢が陥っている、もう一つ重要な問題点を指摘しておきたい。
その問題とは、聴き手は演奏家の演奏に感動しているのであって、演奏者の演奏を通じて聴いたシューベルトやベートーヴェン、ショパンではないと思い込む過ちだ。
記述を省略して、「誰々によって演奏されたベートーヴェンは」と書くべきところを、「誰々の演奏は」などと表記することは多い。私も例外ではない。(中略)
だが、演奏の評価に関する文章をよく観察していると、演奏者を通じて再現された結果である作品を評価するのではなく、演奏者そのものを評価しているものが、世の中にゴマンとある。
ホロヴィッツが、評論の今日の役割について語った逸話もそれを意味する。
ある女性が「モントゥーの今日の演奏は大好きでも、マエストロが今日指揮されたハイドンの交響曲は好きではありません。」と言ったという。これは本来同じものであるべき両者を別々に語っている現在の状況を指摘しているのだ。これは、非常に誤解しやすい書き方である。私なりに整理してみます。
1.聴き手は「演奏家の演奏に感動した」と思い込む過ちを犯す。
2.本当は、「演奏者の演奏を通じて聴いたシューベルトやベートーヴェン、ショパンに感動し た」のである。
ここでは、作品のほうにやや重点が置かれているようです。でもその演奏をした演奏家も重要であるというニュアンスです。
例えば、「モントゥーの指揮したハイドンには感動したが、○ザワの指揮したハイドンには感動しない。」ということは、大いにあり得るからです。
「1.」のような過ちを犯す人々は、ある演奏家の演奏したものなら何でもいい、という考えに陥りがちだとも警告しています。すなわち、演奏家のファンであって、楽曲は何でも構わない。
また、別のところにはこういう記述もあります。
言うまでもないことだが、演奏とは、原譜の忠実な再現コンテストではないし、音響や作曲家の意図や感情の考古学的発掘でもない。 してみると、「演奏を聴くとは、演奏家のフィルター(個性)を通して見た、作曲家の作品を聴く」というところに落ち着けばいいのでしょうか。
もちろん「たかが」2人の意見で、この問題が解決するわけではありません。
これから毎日この問題を考えながら、私は愛する音楽を聴き続けます。
吉澤ヴィルヘル○
1963年大阪生まれ
慶應義塾大学卒業。元民間研究所主任研究員。音楽研究家。
この著者は、私にとっては全く未知であった。
しかし、ここに引用したことでもおわかりのように、聞くべき意見をお持ちである。
今後の動静に注目しましょう。
2000年11月02日(木)
演奏論・・・内田光子の場合
ひとまずきりにしようと思ったんですが、この人は何かすごいことを言っていたはずだ、と読み返してみたら、やはりそうであった。
グラモフォンジャパン’99年12月号から。
聞き手: 作曲家の書いた楽譜についてですけど、音符という記号を使って、どのくらい自分の想いを書き留めることができるとお考えですか。
内田: すべて書けるべきなんですよ。でもシェイクスピアの劇を例にとってみても、彼がどこまで書いてあるのかといったら、それはわからない。表面しか書いていない。言葉になるところしか書いていない。想いのどれだけが言葉の裏にあるかということは、読む人、演ずる人が観取る(みとる)わけ。
聞き手: 作曲家と彼が書いた楽譜、それと演奏家の関係についても同じことが言えるわけですね。書かれた楽譜に制約されてはいるんですが、楽譜の裏面を探り当て「音」として表現する・・・演奏も創造行為だということになりますね。
内田: そうです。しかし創造じゃないですよ。我々のやっていることは。再創造です。(以下略)ここまできて、はっきりわかったような気がした。
それは「演奏における主義主張」が重要だということだ。「読譜での解釈」と言い替えることもできる。
楽譜のどこまで深いところまで読むことができるか。作曲家が設計した音の仕掛けを見抜く、あるいは見破ることができるか。謎解きのようなものではないだろうか。
だから演奏者の主義主張のない音楽は意味がない。「楽譜に忠実ですよ」といっている演奏は、コンピュータで再現した音の羅列と同じで、それは音楽と呼べるものではない。
それは「あの人がそう言ったと、ここに書いてある」と、セリフを棒読みしている某国会議員のようなものだろう。ただのメッセンジャーボーイだ。「ガキの使い」である。
感情を込めて、ベートーヴェンを演じ切る。そこに感動が生まれるのだろう。芝居(演劇)と同じだなと思った。
そういえば「演」奏という。これは「演じる」という意味であったのだろうか。
だから正しくても、あるいは仮に間違っていても、主義主張のある音楽こそがおもしろく、聴く価値があるのだろうと思う。
内田光子
1948年12月20日 熱海に生まれる。
1961年ウィーンに渡る。現在イギリス在住。
代表盤 モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなど多数。
この人のリサイタルは何故かアンコールがやたらと素晴らしい。アンコールを聴きに行くだけでも十分価値がある。
そのうちに「来日」しなくなる可能性もある。(日本になんら未練をもっていない。)今のうちに聴けるだけ聴いておくべきだ。
2001年1月7日(日)
「聴衆」の重要性について緊急特集を組んでみました。
「さる」スレッドに素晴らしい意見が挙がりました。私はそれを読んで感動しました。そして本当に重い腰を上げ、この稿を起こしたわけです(んな、大げさな)。
(「さる」じゃなくて「ねこ」か。)
ちなみに、私は「そういうところ」にはもう書き込みをしないつもりです。
まともな議論をする場ではないということがわかったからです。それに私は議論をするつもりもありません。ですから、書き込む「意義」が全くなくなったというわけです。
さて問題は、「観客(聴衆)も修行が必要である」ということです。
私は「聴衆」の重要性について、再三力説してきました。
私は最近、とんとコンサートには足を運ばなくなりました。理由は「複数」ありますが、その一つがこの聴衆の問題です。
私はコンサートの主役は聴衆ではないかと思っています。(少なくとも主賓ではありますが。)
音楽家は聴衆の「ため」に演奏しているのです。
音楽家を食わす「ため」に、聴衆が銭を払いに行っているのでないのです。
その主役である聴衆が「二流」なら、音楽家は二流の演奏をして「ヨシ」とするでしょう。
舞台人はプロの芸人(商売人)ですから、「客」の顔を見て値段を決めますよ。
「お客さん、これは古伊万里で300万なら安いもんでっせ、ひっひっひ・・・」と言われ、聴衆がシロート(二流)だと、コロッとだまされてしまいますよ。
「バカヤロ、こんなもなー観光地の出店で3000円で売っとるわい、ゴルァ」と言えるだけのものを養わなければならないのです。
音楽家が、「これは、今日の聴衆は一流だし、ちょっと恐いぞ」と思えば、それなりの演奏をせざるをえず、それができなければ「自然淘汰」されていくでしょう。
また、別の見方をすれば、聴衆の集中力がなければ、音楽家の集中力も低下し、駄演になることでしょう。するとますます聴衆が退屈し、悪循環の「スパイラルダウン」が加速するのです。
くだらない演奏に(お世辞や、お義理で、またある場合には勘違いして)賛辞を贈れば、その音楽家は「ああ、こんなもんでテキトーにちょろまかしていれば、やっていけるわ。」と、堕落していってしまうでしょう。
だから、くだらない演奏には断固不満を表明し、抗議しなければならないのです。「いや、これではいかん。もっと精進しなくては」と、思わせなければならないのです。
聴衆には、鑑識「耳」が必要なのです。それには、聴衆も精進や修行が必要なのです。
いや、それ以前に必要なのは、少なくとも他人(他の聴衆)に迷惑をかけない、人間として最低限の修行でしょうか。
2001年5月12日(土)
「そもそも正しく日本語で表記できるわけがない」という極めて単純明快な事実がわかっていれば、なにを騒ぐ必要があろう。
濁ろうが、伸ばそうが、枝葉末節のことである。
「NDRがブルックナーを演奏する」というので行ってみたら、板東(エージ)が登場してたまげることがない程度の識別ができれば十分である。
こんなことで延々?と議論できる人々が、私にはとてもうらやましい。
さらに、「後藤み○り」が云々という。これは一体誰のことだろうと思っていたが、「五嶋み○り」のことだと、はたと気付いた。
日本語の表記もまともにできない奴が、外国語の表記について一体何をほざいているのだろうか。
名前というのは、その人間のまさにアイデンティティーである。そして、芸術は人間そのものを表わしている。従って、私は名前を間違えるような向きに、その音楽家の芸術が理解できるわけがないと信じている。
以前も「大町洋一郎」を絶賛?する衆愚に遭遇したことがあるが、こんな奴らに一体何がわかっているのかと、鼻で笑っておいてあげた。