鬼門たるブル9を聴く
ブルックナー:交響曲第9番
C・M・ジュリーニ/VPO
(DG)
お勧め度:★★☆
このコンビ、このプログラムでは、過去に2回ほど「家に来ていただいた」ことがあります。2年に一度くらいのペースでしたでしょうか。
最近はあまり大声でうるさく言いませんが、私は一時(いっとき)として、今よりも音を良くするにはどうしたらいいか、を忘れたことはありません。
そして「一日一善」をモットーに、何某かの音質改善作戦を実行することにしています。ありがたいことに最近ではそこそこ満足する音で楽しめるため、それほど頻繁に手を入れることもなくなりましたが。
そうこうしていると、まぐれ当たりで時々凄い音が出てくることがあります。そういう時には何故かこのレコードを聴きたくなります。そして、本当に目の前にこのコンビがいるのではないか、と思えるほどの感動を得られることがあります。それが過去に2回ほどあった、ということです。
そういう時は、何も考えることはありません。完全に引き込まれ、最初から最後まで微動だにせずに聴き通せます。そして終わった後も、しばらくうつむいたままじーっと余韻に浸っていられます。
これは、実は録音も超優秀なのです。ジュリーニ独特の、あのほんの手首から先の小さな、必要最小限の動きで、VPOの全てを掌握しコントロールしている。その映像までがありありと見えるようです。
ともするとスパスパと途切れ勝ちで、ギクシャクしてしまうこの音楽が、実は全く無駄のない有機的なものであることを、この演奏(録音)はわからせてくれます。録音の優秀さが、それを補っています。
ヴァント/BPOの録音では、その部分で決定的に劣っています。それが録音のせいであったとしても録音芸術を鑑賞する上ではハンデとなります。昨日申し上げた意味は、このことです。
ライヴと録音は別ものだということです。繰り返しますが、ヴァント/BPO(あるいはNDR)のライブは、おそらく神がかり的で宇宙の神秘を体験できたことでしょう。
しかし、ジュリーニ/VPOの録音でもそれが体験できるのです。もしこれがライヴなら何をかいわんやです。
私は、ヴァントもベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーぐらいは聴きましたが、少なくとも同じレパートリーでは、ジュリーニの足元にも及ばない程度の感動しか得られませんでした。
しかし、唯一ヴァントがすげえ、と思えたのは、BPOとのブル4「ロマンティック」です。言ってしまえば、ヴァントなんてブル4がちょうどいいぐらいの指揮者ではなかったのか。
奇しくも最後の録音(ステージ?)がブル4だったなんて。
私はそれを知った時、皮肉なうすら笑いを禁じえませんでした。ありていに言うと、ほくそえんでいました。
(あぁ、これで全国100万人のヴァント・ファンを敵に回してしまった!?)
2002年3月25日(月)
ベートーヴェン:交響曲第5番
C・M・ジュリーニ指揮/ロスアンジェルス・フィルハーモニーO
(DG)
お勧め度:★★
ジュリーニのロス・フィル時代のベートーヴェンは優れていると思う。とりあえず「ベートーヴェンは」という条件付きである。
この時代の演奏は、前期(主にEMIに録音していた時代)の炎のような演奏、後期(同じくSC時代)の横に流す旋律重視の演奏の中間に位置する。この時代考証?の是非はともかくとして、悪く言えば中途半端かもしれないが、良く言えば両者併せ持つ、一曲で二度おいしい演奏である。
この演奏は、ベートーヴェンにしては整理された音響です。響きがごちゃつかず、透明感があります。それに加え、覇気があります。勢いがあります。力強いです。それらが3番「英雄」、とりわけこの5番で成功しています。
またオケメンの、この偉大なカリスマに対する絶対の信頼感。これは特に6番「田園」に顕著で、それが手に取るように感じられます。
ライナー・ノートに興味深い記述があります。やや長くなりますが引用します。
| ジュリーニはロサンゼルス・フィルハーモニー在任時代(1978−84)の1981年、それまでの15年あまり、どちらかといえは指揮することを避けていたかにみえるベートーヴェンの第5交響曲をコンサートのプログラムに組んだ。 それだけに、この取り組みは慎重を極めたものであったと言う。その理由のひとつに、ベートーヴェンの第5交響曲について、いまだ完全に信頼できる楽譜が出版されていないという事情もあげられるだろう。 そうしたこともあり、ジュリーニは従来のブライトコプフ慣用版によりながら、ベートーヴェン自筆譜のファクシミリの精密な研究に力を注ぐことで、この演奏に独自の意義を作りだしている。 「自分の解明力をはるかに超えたところにある作品内面の闘争」に彼の精神は鋭く踏み込み、アゴーギグやデュナーミク、そしてアーティキュレーションに厳しい眼が注がれる。 ベートーヴェンが書き記しているものはもちろん、変更したもの、抹消したものからも、ジュリーニは多くのことを学ぶ。 当時ジュリーニを取材したロサンゼルスの芸術担当記者アラン・リッチによれば、「音符の背後にある創作上の闘争の跡」をジュリーニは辿る。 たとえば冒頭、「運命が扉をたたく」(ベートーヴェンが弟子シントラーに語ったと伝えられる言葉)動機にしても、最初は3つの8分音符とフェルマータの付いた2分音符の4つの音が相呼応するように2度くりかえされる形で書かれていたが、初演後にベートーヴェンは第2のフェルマータの音符のまえに、さらに1小節の2分音符を追加し、そのふたつをタイで結んだことが知られている。 そのことからジュリーニは、この開始が4つの音に続いて、さらに4つの音があるのではなく、8つの音がひと息に歌われるべきだ、という確信をもつ。そして、この動機は作品の中心となる葛藤のたんなる一部分に過ぎず、真の主題はそれに続く13小節の緊迫した対位的な部分を経て不安定な半終止に至る21小節全体を包括したものだ、と主張する。 「この21小節のなかには、この交響曲の精神的緊張とその対極にある緩和とがあって、その全体が小字宙という舞台で一役演じている」と、ジュリーニは言う。 じっさい、この21小節をどのように表現できるかは、指揮者が自己の素質や実力を人に問ううえで、もっとも本質的な次元のものまでを露出させられてしまう恐ろしい透視鏡のようなものだ。 リッチの記事から、終楽章についての興味ぶかいエピソードをもひとつ紹介しておこう。 この「壮麗な疾風」(E.M.フォースターの長篇小節『ハワーズ・エンド』Howards Endでの表現)の13小節目でジュリーニは練習を止める。「私は諸君らみんなが、指に音符がこびりつくほど何度もこの交響曲を演奏しているのを知っています」と彼は切り出す。「しかし、どうか聞いて下さい。私は変えたい。といっても、別段違ったことでやれというのではありません。楽譜どおりに演奏して下さいというだけです」。 ジュリーニは第1ヴァイオリンだけにある小さな空気孔(16分休符)のことを問題にしているのだ。 リハーサルでの印象をリッチはこう言っている。「違いは驚くべきものだった。オーケストラがやりなおしたとき、テクスチェアには活気が溢れ、火花が散った」と。 POCG-3178より |
「楽譜に忠実」を標榜する演奏家は多いようです。リスナー、評論家からそのよう見られている(あるいは、見られるように仕組まれた)ケースもあるようです。
いったい誰が「ジュリーニの演奏は楽譜に忠実だ」と言っていたでしょうか。ある場合には「形式を崩してでも、ウタを重視する云々・・・」など、歌い崩しをよしとしない意見もあるようです。
しかしながら、ジュリーニは当たり前のように、まず楽譜に忠実たれと指揮(指導)し、さらにその上に独自の解釈、表現を付け加えていたのです。(「付け加える」というのは誤解を招きかねない言い方ですが。)
こういう事実を知れば、単に「楽譜に忠実なだけ」の演奏が、何とも浅はかなもので、いかに才能のなさやインスピレーションの乏しさを暴露するものであるか、がおわかりいただけることでしょう。
2003年3月2日(日)
シューベルト:交響曲第9番ジュリーニ指揮/シカゴ交響楽団 (DG)/LP 見よ。この手からオーラが出ている。 |
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| ブルックナー:交響曲第9番 ジュリーニ指揮 シカゴ交響楽団 (EMI) |
マーラー:交響曲第9番 ジュリーニ指揮 シカゴ交響楽団 (DG) |
ドヴォルザーク:交響曲第9番 「新世界から」 ジュリーニ指揮 シカゴ交響楽団 (DG) |
シカゴ交響楽団といえば、ジュリーニの(主席)客演時代にその黄金期を迎えたことに、どなたも依存はないでしょう。(異存はあるかもしれない・・・。)
一旦ジュリーニがその指揮台に立つや、これがあのアメリカの、それもシカゴのオケか、と思わせるような、まるでヨーロッパの伝統あるオケのような気品のある音に生まれ変わります。
これを聴いたらアムステルダム・ゲバントヘボウ・オーケストラや、ドレスデン交響楽団などメではない、と思わせます。誰かが指揮台に立った時のような、体育会系の音の運動会とは天と地ほどの違いがあります。
不思議なことに9番の名盤といえば、ここに集中しているといっても過言ではありません。(失言かも・・・。)
マーラー、ブルックナー、シューベルト、ドヴォルザーク。私の嫌いな9番もあれば好きな9番もあります。
中には入手困難なディスクもあります。CDでの復刻、再発売を強く望みたいところだ。
ジュリーニ生誕90年だとか、何とでも言い訳?できるでしょう・・・。
全部まとめて★★★
2003年5月16日(金)
ベートーヴェン:交響曲第7&8番
ジュリーニ指揮/シカゴ交響楽団
(EMI)
お勧め度:★★☆
シカゴ交響楽団といえば、ジュリーニの(主席)客演時代にその黄金期を迎えたことに、どなたも依存はないでしょう。(異存はあるかもしれない・・・。)
このオケは世界○大オケというランク付けでは、いつも上位に顔を出す実力と人気を持っているようです。
曰く「世界で西条秀樹のオーケストラとされる」
曰く「すばらしい音の質屋」
曰く「驚くべき性格な合奏能力」
曰く「多才な表現力」
ベートーヴェンの交響曲第8番は、彼の最高傑作であることに、どなたも依存はないでしょう。(異存はあるかもしれない・・・。)この曲をもって、古典的通常形式の交響曲は完成し、ベートーヴェンは完全に満足したうえで次の交響曲ではそれを破壊しにかかったのである。
そんな名曲を、ジュリーニが世界最高のオケをもってして演奏すれば、名演が生まれるであろうことは明々白々である。
ジュリーニのこの曲へのアプローチは独特である。誰もが突風が吹き荒れるように演奏する冒頭を、秋の涼風が吹くようにさりげなく開始する。
しかしそれは時間の経過とともにやがて大きなうねりとなって、ききては知らぬ間に巻き込まれてしまう。気が付けば気合入りまくりの炎のジュリーニがそこに立っている。そして呆気にとられている間にフィナーレを迎えるのである。
ききては、そこで初めてこの曲がベートーヴェンの最高傑作であることに気付く。そしてこのオケの実力に納得する。「さすが、世界最高のシカゴ交響楽団。」
しばしその余韻に浸っていたききては、ようやく我に返ってCDを片付けようとして、ふとジャケットを見て愕然とする。
「あれっ?8番はロンドン交響楽団ぢゃないか・・・。」
2003年6月7日(土)
モーツァルト:レクイエム K626
ジュリーニ指揮/VPO
Silvia McNair(S)
Nathalie Stutzman(A)
Rainer Trost(T)
Alastair Miles(B)
Arnord Shoenberg chor.
1996/1/30 Live
(GNP)
お勧め度:★
モーツァルト嫌いを標榜する私のことですが、この曲(だけ)は比較的よく聴きます。理由は全くモーツァルトらしくないからです。
モーツァルトの曲というのはどの曲を聴いてもモーツァルトらしさを感じます。具体的には同じようなフレーズ(メロディ)がどの曲にも繰り返し現れることです。聴いていてうんざりしてきます。
ただ、この曲も普段は全曲は聴きません。ラクリモサまでと終曲だけです。以前どこかで「私はこの曲はラクリモサまでしか聴かない。」という大変見識ある意見を聞きました。私も全くだと思いました。ラクリモサ以降では曲想ががらっと変わってしまい、いかにも駄作のそしりを免れないからです。
やはり未完成なものは未完成のままがよい。これは全ての未完成作品に言えることです。
シューベルト(8?番)然り、ブルックナー(9番)然り、マーラー(10番)然り、ホルスト「惑星」然り。
「惑星」なんて未完成でもなんでもなく、立派な完成品なのに、そこに何か(冥王星)を付け加えようなんて。私はいつも言う。そんなことをしたいなら、自分がオリジナルで新しい「惑星」を作曲すればよいのだ。
話しが逸れた。
この演奏はあまりよくない。オケの下手さ加減もさることながら、声楽陣が総じて不調である(どこかで聴いたような・・・)。
マクネアーも好きなソプラノの一人である(好きなソプラノがいくらでも増えていく)。しかしここでは全くの期待外れであった。
ジュリーニはあまり締めるタイプの指揮者ではないようだから、このオケが本性を発揮すれば、こういう弛(たる)んだ演奏になるのだろう。逆に一旦自発性を持ったら、とんでもない名演が生まれることになる。
主体は自分(ジュリーニ)ではなく、あくまで作曲家(楽曲)であり、また楽員であるという姿勢の現れではないか。
ブラームスやブルックナーでは最高の名演を残したこのコンビである。(こんなオケでも、正規録音ともなれば、いやでもやる気になろう。)
この演奏会の後、同年5月にジュリーニはVPOとの最後の指揮台に立つ。プログラムはブルックナー交響曲第9番+テ・デウム(これは作曲者の意志でもある)。
何とソプラノはバンゼ。ジュリーニと最初で最後の協演であった。
2003年6月22日(日)
モーツァルト:レクイエム K626
ジュリーニ指揮/フィルハーモニアO
ヘレン・ドナート(S)
クリスタ・ルードヴィッヒ(A)
ロバート・ティアー(T)
ロバート・ロイド(B)
フィルハーモニア合唱団
(EMI) ’78
お勧め度:★★☆
ジュリーニの同曲は、現在3種類ほど聴けるようです。
同じフィルハーモニアOと新録(SONY)もありますが、私はこちらの方が好きです。
SONY盤は、大変心のこもった、念の入った演奏で、それはそれで良いものです。「気持ちがこもっていて良い(梶山幹夫)」というご意見も頂戴しています。
しかしながら、時にそれが極端に偏り、スローテンポに設定した部分では、もたれ気味になることもあります。それを心地良いと感じて浸りきれるか否かは、これはもう全く好みの問題で、どちらが良い悪いということではないでしょう。
一方このEMI盤では、一貫して中庸な表現がとられています。テンポの変化も少なく、過激になるところもありません。「ディエス・イレ」でさえスマートに感じられます。人によってはそれを平凡と感じることもあるかもしれません。
強いて特徴といえば「重厚感」でしょうか。これは録音にもよるところですが、重低音が湧き上がってくる感じが何とも言えません。
尚、この写真はLPのジャケットです。あまりにも素晴らしいので、CDではなくこちらを紹介しました。
2003年6月23日(月)