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ベートーヴェン:交響曲全集(選集) 篇
1.エードリアン・ボールト指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
(以下、追加予定)
2.ペーター・マーク指揮 パドヴァ・ベネト管弦楽団
3.コリン・デイヴィス指揮 ドレスデン国立管弦楽団
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※ジャケット写真の大きさが推薦度を表わします。
| ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」 |
ジュリーニ指揮 ベルリン・フィルハーモニ管弦楽団
(Coup dEtat CO 502-CD) '90
ジュリーニには、この曲の何種類かの演奏が残されていますが、最もそれらしいのはこれです。
時代(年齢)とともに、微妙に、あるいは大きくスタイルを変えたジュリーニですが、これは晩年?に到達した境地を素直に写す鑑といえるでしょう。
お気付きのように、これは海属盤です。しかし、音質は最上とはいえませんが、十分満足できるレベルです。
スタイルは、別のミラノ・スカラ盤(CS)とよく似ています。
しかしながら、こちらはライヴならではの緊張感があり、当日の幸運な聴衆と一緒に、音楽に、「田園」に、浸りきることができます。オケがBPOというのもありがたいです。(技術的不安がない、という安心感からである。BPOだから「いい」という意味ではない。)
音楽を聴く目的は、人それぞれでしょう。その中でも、音楽に浸りたい、包まれたい、そして、安らぎたい、と望む向きには、この演奏を(後に挙げるマークやザンデルリンクと共に)お勧めします。◇
ジュリーニ指揮 ミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団
(SC SRCR 9505) '91
このレコードの決定的ポイントは音質が抜群なことです。
ジュリーニの演奏スタイルに合った柔らかい、透明感のある、また奥行のある音質です。
しかし、このレコードには、私にとっては致命的とも言える欠点があります。
第5楽章に入って、突然音に精気がなくなるのです。精彩を欠くような音になってしまうのです。これはおそらく録音かリマスターの問題だと思います。この楽章だけ別の日のテイクで条件が異なったとか。
他の楽章では全く問題がなく、なまじカップリングの序曲(コリオラン、エグモント)の方が良い音質であるだけに、よけいに悔しい思いをします。私はこのレコードを聴くたびに(落胆の)溜息が出てしまいます。
私はこの曲にこそ、さらにその第5楽章にこそ、最高の価値を見出しているからです。
かえすがえすも残念なことです。もしそういうことがなければ、これをベストに挙げてもいいのですが。◇
ジュリーニ指揮 ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団
(DG POCG-90351) '79
良くも悪くも中庸を求める向きには、これも悪くないでしょう。表現があっさり目です。「悪く」言えば、クセが「少ない」。
しかしこの演奏には、何よりもオケにジュリーニへの信頼があることがよくわかります。ひしひしと伝わってきます。
「演奏者の感動」に感動するという意味ではジュリーニ盤ではベストかもしれません。その是非は別として。(演奏者は「聴衆の皆様」を感動させるために演奏しているのであって、自分たちが「先に」感動してしまってはいけません。)
しかしこれは、音楽性だの、技術だの、ポリシーだのを超えたところにある、最も重要かつ基本的かつ根源的問題かもしれません。
これはロスフィルとの一連の録音に共通する特徴のようです。
どこかのオケのように「小うるせえじじぃ(K・ルベーム)が言うから、そういう風に弾いてやってるよ・・・。」なんてことは見え隠れしません。
あるいは、「我々は、実はあの指揮者(S・うトル)とは100%うまくいっているわけではない・・・。」と牽制する。聴くほうも勘違いしてしまって、そのギクシャク度を緊張感だの、都合のいいように解釈しているだけ。
これは、折りしも来日中であった、某ィーン・フィルのことではない。断じてない。(・・・と書いておけば、どこのオケのことだか分かってもらえるだろう。)
音質はやや劣ります。シャープさに欠けます。
しかしです、今回(書くにあたり)改めて聴きなおしてみて、この盤の評価を少し、いやかなり上げたほうがよいのではないか、と思い始めました。
聴く耳のある者は聴くがよい。ここには、確かにオケと指揮者の強い信頼関係がある。◇
ジュリーニ指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
(EMI TOCE-3512) '68 [HS-2088]
ジュリーニはこの曲の第1楽章から第2楽章を、アタッカで入るように演奏します。そして、素晴らしいのは、レコードでもちゃんとそれが実行されていることです。おそらく本人が、レコード会社にそう希望(指示)してのことだと思います。
しかしそういう事を知らない世代、あるいは、そうしなくてもいいだろうという考えで再編集、再リマスタリングされた(かもしれない)この盤だけが、残念ながらそのようになっていません。あるいはこれは年代が一番古いので、その頃はジュリーニもそうしていなかったのかもしれません。これらは単なる推測です。
前に掲げた3種類の演奏に慣れてしまうと、こういうアタッカで入らない演奏(録音)が、逆に不自然に思えてきてしまうから、不思議なものです。
それほど、ここをアタッカで入るというのは、そういう風に演奏されてみると、「なるほど、全くだ。」と説得力の強いものです。
楽譜や音符の改変が好きな演奏者は多いようですが、寡聞にして、このようなアタッカで演奏した例を他に知りません。私は改変などを必ずしも非難するものではありません。その改変が理にかなっており、結果が納得できるものならば一向に構わないと考えています。しかしながら、大抵の場合、改変が大袈裟で、あまりにもあざとすぎることが多いため、成功している例は多くはないと考えています。
中途半端に他人様のものを改変するくらいなら、始めから自分のオリジナルで勝負したら、と言いたくなってしまいます。(K・レンペラーさん、その他大勢・・・。)
さて、これは私にとって思い出のレコードです。
私がクラシック音楽というものを聴き始め、まだカラヤンとかベームという「有名どころ」しか知らなかったころ、FMでこの演奏が放送されました。この時、ジュリーニという名前を初めて知りました。この演奏は録音して繰り返し聴きましたが、「ジュリーニって、なんて優しい音楽をやる人なんだろう。」と思いました。
当時はまだ、たくさんの種類の楽曲を巾広く聴きたいと思っていたころですから、これを機に演奏者(ジュリーニだけ)にのめり込むということはなかったですが、その名前だけはしっかり心に残りました。
藁科雅美(?)氏の解説でした。
第1楽章冒頭のモチーフ。ここだけは、この盤が最高かもしれません。これぞ「田園」。
ザンデルリンク指揮 バイエルン放送交響楽団
(FC-114/115)
このレコードは、実はカタログにはよく「3番(英雄)」と表記されています。(これも海属盤ですから、あまり公なカタログなんてないんですけど・・・。それに運よく店頭で手にとれれば、そういう間違いもないわけですが。)
2枚組みで、シベリウスの2番、チャイコフスキーの4番とカップリングされています。「カップリングも悪くないし、ザンデルリンクのベートーヴェンなら入手しときましょか・・・。」通販にオーダーしたんです。
ところが、モノを入手してびっくり。そしてその演奏を聴いて私は狂喜しました。
これは最高の「田園」です。これぞ至福の時間を味わわせてくれる音楽です。「田園」を聴いて至福を味わう、とはどういうことか。わかっている人にはわかると思います。
私は、ザンデルリンクの代表盤として、これをベストに挙げてもよいと思います。
音質は極めて優秀。ノイズの程度など、先に挙げたジュリーニのEMI盤(’68)と変わらないくらいです。そして、極めてシンプルな(であろう)リマスターのおかげで、ライヴの雰囲気を全く損ねることなく、封じ込める?ことに成功しています。あとは、自慢の装置で解凍してやれば、もうそこは桃源郷・・・。
そう、私がクラシック音楽のコンサートに求めるのは、こういう時間であり、空間なのです。◇
ザンデルリンク指揮 フィルハーモニア管弦楽団
(HR 704632) 全集
諸般の事情から、「海属盤はちょっと・・・。」とおっしゃる貴兄には、しかたがありません、これで我慢していただきましょう。(貴兄だけでなく、父兄も、保護者も、お姉さんも、お嬢さんも是非どうぞ。)
私が「我慢しろ」と言うからといって、「もちろん他の凡百の演奏に比べれば、その差は天と地ほどもあるといえよう。」と、あのセンセイならおっしゃるでしょう。
はっきり第5楽章に(向かって)力点を置いた演奏だということが分かります。楽章を追うごとにだんだん盛り上がってくる。そういう長い息で、視点で全体を構築できるところがこの指揮者のとりわけ素晴らしいところです。
気をつけていただきたいのは、このレコードも再生装置の状態をよくしてやらないと、つまらない演奏に聴こえてしまうことがある、ということです。
そのあたりの問題がクリアできれば、BRSO盤(FC)の、ほんの片鱗ぐらいは味わうことができるかもしれません。
録音に熱心でないザンデルリンクの、面目躍如たるところでしょう。◇
ザンデルリンク指揮/バイエルン放送交響楽団
(GA)'90
最近こういうのも発売されました。
これはFC盤とは別の音源です。
私は困ってしまいました。カップリングにあまり魅力がなく、4枚組みだというんです。でも値段がお安目だったので、泣く泣く買っておきました。
このレコードでは、残念ながら録音がイマイチなようです。
まだあまり聴き込んでいませんが、内容も他の盤に比べるといまひとつかもしれません。
いずれにしろ、ザンデルリンクを聴きたければFC盤の入手が不可欠でしょう。
取り急ぎ、リリースの報告まで。
2002年3月1日
マーク指揮 パトヴァ・ヴェネト管弦楽団
(ARTS 47247-2) '95
さて、そんなジュリーニ、ザンデルリンクらの名盤を、一気に吹き飛ばしかねない名盤が、忽然と登場しました。
これはライヴです。しかし正規盤です。やはり録音嫌い(晩年はそうでもなかったのだろうか?)のマークのこの曲が、ライヴで残されたことに、どう感謝すればよいのでしょう。
ジュリーニは最高です。ザンデルリンクも最高です。しかしこのマークは、もっと最高です。(んなバカな・・・。)
ジュリーニ/ロスフィル盤のところでも触れましたが、ここでのオケは最高に感動してしまっていると思います。もちろんライヴですから、聴衆の感動も最高潮だったことでしょう。「50回から100回に一度」と言われますが、すすり泣きを押さえることができない、そんな感動のライヴであったはずです。ミューズが100人くらいまとめて舞い降りたような、いや聴衆みんなにひとりずつ割り当てられたかもしれません。
おそらくこの時の聴衆は「永遠」を味わったことでしょう。スピーカーの前の私でさえ、この演奏を聴く時は、そうなってしまうことが時々ではありません。
わかりやすく言うと、この演奏を聴くといつも涙を禁じえないということです。ミューズは私のところにもいつも来て下さいます。
私は断言します。「これを聴かずして、『田園』を語ることなかれ。」
('01/12)
| ベートーヴェン:交響曲全集(選集) |
ベートーヴェン:交響曲選集(第3,5,6,7番)
サー・エードリアン・ボールト指揮 ロンドンPO
VANGUARD SVC 11/13(3CD) '56
地味な、そして滋味なる名演
これは、いつかどこかで紹介しようと考えていたものです。何となく機が熟したかな、という気がしましたので、珍しく?ここでご紹介してみます。
ある時期、ベートーヴェンのめぼしいと思われる全集を漁っていたことがあります。メーカーのカタログをパラパラ眺めていて、ふとこの選集に気付きました。
「へー、ボールトかぁ。珍しい?な・・・。」少し迷いましたが、買っておいてみることにしました。
最初の印象は、特に強いものではありませんでした。いかにもボールトらしい、淡々とした、きびきびした、力強い演奏だ、とは思いました。
それ以来このレコードは、あまり強く意識していなかったのですが、その後、「なーんとなく『英雄』って、これという演奏がないなー。」と、漠然と思うようになっていました。曲自体の魅力によるのでしょうが、そこそこの指揮者なら、誰がやっても一応の形になる。かといって、決め手になる演奏があるわけでもない。
そんな時、ふとこのボールトを思い出したんです。「そういえば・・・。」そして聴き直してみて改めて唸りました。「うーむ、これかもしれない。」
この演奏は「何もしていない」んです。しかし「何もしない」ことが、ベートーヴェンに、ことさらこの「英雄」に相応しいのではないか。
別の言い方をすれば一本調子で進んで行きます。例えば第2楽章。ここで泣きたい人は期待を外されるでしょう。そっけないのです。
しかし、最後の最後まで「厳しく」貫き通される信念。鉄の棒のような芯がびしっと一本通ったような意志の力。聴き終わった後に、その強い力に圧倒されてしまいます。こういう演奏はなかなかありません。
「ベートーヴェンは、こうでなくてはならない。」 ボールトはそう言っています。あるいは、ベートーヴェン自身がそう言っているかのようです。全体に、合奏はかなりアバウトな印象を受けます。「精度」というものにまったく頓着していないようです。
もったいぶったタメや間をとらない。あっさりした切り込み?を見せる。強い推進力で、音楽が常に前向きに進んで行こうとする。
下手な細工をしないから、そういう意味では安心して身を任せられる演奏です。うとうとしてたら急ブレーキを踏まれて、前につんのめってしまうようなことがない。
これは、イギリス指揮者の特徴だろうか・・・と言いかけて、思い止まった。そういえば若手「超」有望株で、全く逆のスタイルをとる指揮者もいることに気付いたからだ。
だが、私の知るイギリスの「いい」音楽家というのは、こういうスタイルをとる人が多いような気がする。
「田園」。
一聴、やはり無骨な印象は否めません。私がイメージする「田園」の理想からは、かなり遠いところにあります。しかし内に秘めた暖かさを感じるため、それが固さにつながりません。あくまでしなやかなのです。有機的なのです。
こういう「田園」もイイ!かもしれない。対抗名盤に挙げておきましょう。
ところで、問題は「7番」なんです。
「え゛っ〜、ボールトってこういう演奏するの!?」
これをブラインドで聴かせて、ボールトと答えられる人はいないでしょう。フルトヴェングラーとシェルヘンとU野を足して、3で割ったような・・・と言ったら言い過ぎだろうか。
これを聴かずして「爆演」を語るなかれ。
「第五(運命)」。これはもう、なにをか言わんや。「ボールトは、かく運命を演奏する。」
これは、数少ないベートーヴェンの「選集」として、最初に指折られるべき名盤です。現在でも廃盤ではないはずで、比較的容易に入手できると思います。
この録音データを見て驚くのは、’56年の録音である事です。これは正真正銘の「ステレオ」です。しかも「ステレオ」として、良い音質の部類に入れてもおかしくないほどの出来映えです。
一番古いステレオ録音がいつまで遡れるのかは知りません。そこで思い至るのは、いったいフルトヴェングラーの死後、何年あるいは、何ヶ月後に最初のステレオ録音がなされたのか、ということです。
もしフルトヴェングラーがそのことに気付いていたら、あるいはステレオ時代に入っていたら、執念であと数年は生き延びたかもしれないと想像してしまうのです。
そうすれば、フルトヴェングラーはさらに神格化されたのか、それともただのオヂサンと成り下っていたのか。それは定かではない。
('01/11/29/木)◇
ヴァンガードレーベルは惜しくも倒産してしまったが、ARTEMIS RECORDSが復活リリースをしている。
本盤も分売され入手しやすくなった。
ATM-CD-1191(2CD) 交響曲第3番「英雄」、第5番、コリオラン序曲、レオノーレ序曲第3番
ATM-CD-1192(2CD) 交響曲第6番「田園」、第7番、フィデリオ序曲、エグモント序曲
('04/10/9/土)
G・ヌヴー/Roger Desormiere/ORTF
(THARA)'48/4/25 Mono
ヌヴーの演奏では、第1楽章のソロ・ヴァイオリンの出だしで、もう完全にノックアウトされてしまいます。ここをこのように(すごい切り上がり方)演奏できるのはヌヴーしかいないと言ってもいいでしょう。
7色の音色とよく言われますが、フレーズ毎に千変万化すると言ってもよいその表情は、いつまでも飽きさせません。他の演奏よりも沢山の音が出ているような気がします。
これは単なる妄想ですが、弓の返しがとても素早いように感じます。もちろん左手(指)の回りも抜群。これが冒頭の灼熱のようなパッセージの魅力になっています。
ヌヴーの録音は4種類ほどありますが、基本的な解釈は同じです。巷ではイッセルシュテット(Ph盤)が人気のようですが、ここではTHARA盤をお勧めします。
(生)写真に肉声?付きと、アブナさもサイコーで、お宝度、プレミアム度抜群の逸品です。◇
G・ヌヴー/イッセルシュテット/北ドイツ放送交響楽団
(Ph)'48/5/3 Mono
本盤はフィナーレでオケがつまずいていて、「と」っぽいところがあります。何かあせって前のめりになってしまっているのです。
たまたまTHARA盤と同じ48年だったので、日付を比べてみると、わずか1週間程しか違いません。これでは演奏内容に違いが出ようはずはありません。違いが出るとすれば、バックの指揮者とオケの違いくらいでしょう。
こちらは、録音が異常によく聴こえますが、何か細工をしているようにも思えます。しかしフィリップスがそんなことをするようにも思えないのですが。◇
G・ヌヴー/ドブロヴェン/PO
(EMI) '46 Mono
これはEMIのモノラルらしい?貧弱な音です。
同じ録音が最近('01/10頃)DUTTONから「評判」のリマスターで復刻されました。しかし、それはエフェクトたっぷりのまがいもの。
どうもおかしいなぁと思って、同じマスター?であるこのレコードを聴いて確信しました。
単純にノイズを取り除いただけ?で、こんなに音質が変わるわけがない。
当時(本盤製作時)はそういう技術がなかったかもしれないとはいえ、おかしな細工をしないEMIの良心に感心しました。EMIへの信頼感が少し増しました。
J・マルツイ/P・クレツキ指揮 PO
(TESTAMENT) Mono
これは、そこかしこでマルツイの歌い回しが聴かれます。
よよと泣き崩れてしまいそうなその音は、彼女の心の震えをそのまま描写しているようです。
ひとつひとつのフレーズにいちいちぐっときてしまいます。ぐさぐさ突き差さって、メタメタにされてしまいます。こうなったらもう完全にマルツイに心奪われ、離れることはできなくなるでしょう。
こういう音楽を聴けば、形式や様式がどうのこうのなど、取るに足らないことのように思えてきます。これぞ、ジプシー・ヴァイオリンの血ではないでしょうか。形ではなくて心なのです。
しかし、こういう演奏が嫌いな人にはまた、たまらなく嫌いな演奏なのでしょう。
彼女の場合、それでもあくまでも気品を失わないところがよろしい。気品という表現は正しくないかもしれないが、音色(ねいろ)の美しさ、重奏でも音が汚れない。「ああ、確かに2つの音が出ていて、それがきれいにハモッているな」ということが聴き取れる。「にわとりの首を締めたような悲鳴」になることが決してない。
そして抒情で聴かせるのかと思えば、それだけではない。マルツイのテクニックに何の不安もない。だから、ここでは「一歩上」の感動が約束されている。
竹澤恭子/C・デイヴィス指揮 バイエルンRSO
(BMG)
これは、バックが異常に立派である。
この曲をシンフォニックに演奏した例として、最大の効果が得られている。ソロ・ヴァイオリンが登場する前に完全に出来上がってしまっている。もちろんヴァイオリンも素晴らしいんですが。
私は最初、この演奏には馴染めなかった。音楽が止まっているように思えた。しかし、オーディオの音質改善が進み、ある時このレコードを聴き直してみて驚いた。とぎれがちだと思われたフレーズの間に有機的なつながりが聴こえて来たとき、初めてその真価がわかったような気がした。さすがC・デイヴィスであると見直したわけである。C・デイヴィスのブラームスに間違いはない。
竹澤は意外にも優しい音楽をやることもあるが、ここでは気合の入った、踏み込んだところを見せる。
ミリアム・フリード/ザンデルリンク指揮 BPO
(FKM)'89
まあ、何と嬉しいレコードが存在することでしょう。ザンデルリンク唯一のこの曲のソリストがフリードであり、オケがBPOだなんて。
こんな演奏会に立ち会えた人達が本当にうらやましい限りです。
ザンデルリンクの協奏曲におけるサポートに何も言うことはありません。しかも(交響曲でも)お得意のブラームス。
フリードはこの曲でも決して力むことがありません。下品な力技を見せることがありません。あくまでも高貴に歌わせることを優先します。重奏の部分でも透明感を失いません。また息の長さ、ふところの深さを感じさせる、落ち着いたヴァイオリニストです。その良さがザンデルリンクのそれと相俟って魅力を倍加しているようです。
これぞ聴いていて幸せな気持ちになれる音楽です。
これはザンデルリンクの代表盤であると同時に、フリードの代表盤でもあります。その両方のファンである私にとっては、お宝とも言えるレコードなのです。
音質も優秀。もちろんライヴで盛大な拍手入り。(でもやっぱり拍手の時間は短くて不満。)
こんな素晴らしいレコードをリリースしてくれるレーベルに、なんと感謝すればよいのでしょう。
('01/05/28)
V・ムローヴァ/アバド指揮 BPO
(Ph) ライヴ
公平を期して・・・、というわけではないが、私の場合当然のように女流が並ぶことになる。
この演奏は録音の良さと、ある意味クセのないニュートラルな性格を評価している。もちろんムローヴァの右手は魅力的である。
伸びやかな艶のある音色は聴きものだ。深みや透明感もある。ライヴであるが完成度は高い(だから、CD化されているんだろうけど)。
しかしながら、それがための問題も露呈されてしまっている。聴衆のレベルの低さである。某国の○ントリーホールとやらでのライヴである。(○に「カ」が入れば、なるほど!と納得。)
フィナーレでの導入で、奏者たちはアタッカ気味に入ろうとしているのに、ここでの聴衆どもは、ざわざわし始めているのだ。全く、どこを、何を見てるんだろうといつも思う。
おそらくこの指揮者も、ここでは指揮棒を降ろさなかったと思う。「いいかい、このまま入るよー」と(無言で)言っていたに違いないのだ。
そんなことに聴衆は全くお構いなし、自分だけの都合でゴホゴホ・ゴソゴソ。
怒りと嘲りが入り混じった気持ちで、業を煮やしたようにアインザッツが切られる。そんな様子がまざまざと聴き取れる(いや、見える!)のだ。
こんな、訳のわかっていない聴衆がいて、いい音楽会ができるわけがない。
('00/10初出)
J・シゲティ/ハーバート・メンゲス指揮 ロンドン交響楽団
(Ph) '59 STEREO
いくらなんでも、これを外すことはできない。
シゲティの音は一種異様な魅力がある。「いったいこれは、どういう楽器が鳴っているのだ。」と思わせる。まるでオルガンのような太さ、力強さ。
下手だの衰えただの言いたい放題の向きもあるが、この音を聴いてどう思うのか。
もちろん問題は音だけではない。音楽に高貴なものがあるとすれば、きっとこういうことを指すのだろうと思わせる演奏である。
(かろうじて)ステレオで残されていたことに感謝するばかりである。もしモノラルであったら、魅力は半減以下である。
ケネディ/ノリントン指揮 BPO
(ライヴ放送) '98/'99?
これはCDではない。TVで放送されたものである。
私が映像付きで、しかもモノラルの音楽を聴いて感動した、数少ない例である。
「画」で見るケネディは狂っているとしか思えない。しかしバックをとったノリントンとベルリン・フィルも一緒に狂ってしまっているのだ。いや、正確にはノリさんだけは狂っていない。冷静である。うまくベルリン・フィルを狂わせたというのが正しい。
私はこれでノリさんに俄然注目した。しかし(ノリさんを)聴き込んでみると、それもなんだか期待外れ。こういう風に普通にやってくれればいいのに、変にエキセントリックにやろうとするから、私はそういうものにはついていけない。
私は平凡の非凡に価値を見出す。
これは、私が何回も観たいと思う、まことに稀有な映像ライヴである。
ブラームス:ドイツレクイエム
C・M・ジュリーニ/VPO他(DG)
この演奏について、今更私ごときが何も語ることはありません。万人(最初「蛮人」と変換するこのバカ辞書。)の認める名演です。
このレコードの素晴らしいところは、録音の優秀なところでしょう。ジュリーニ/VPO/DGのシリーズはどれも素晴らしい。特に良いのが弦の艶やかさと深みである。この弦の音を聴くだけで目がうるうるしてきてしまいます。
私は「VPOだから良い」なんて、ちっとも思っていません。他のオケだって素晴らしい音を出すところはいくらでもあります。
ジュリーニ(クラスの指揮者)が振ってこそ、ようやくこういう音を出す、そういうオケなのではないでしょうか。
ブラームス:ドイツレクイエム
C・M・ジュリーニ/VPO他(FKM)
さて、この(DGの)名演・名録音を、いい気持ちで浸りきって聴いている分にはナンにも不満はないんです。ところがここでイタズラ心を出して、こういうものに手を出すと、少し事情が違ってきます。「おいおい、ちょと待てよ。」ということになるわけで。
このFKM盤は、DG盤と同一時期のライヴと思われます。DG盤もライヴレコーディングとのふれ込みで、おそらくこのFKM盤(の日)を含む2、3回のライヴの編集でしょう。
FKM盤を聴いて感じるのは音の力です。厚みです。特に低域の力強さが違う。よく言われることですが、正規盤ではノイズなどをカットするため、音の力までカットしてしまう。
確かにこちらでは、DG盤で聴ける艶やかな弦の音はありません。おそらく放送(された)録音故、ハイ落ち感が強いです。しかし、ごうごうとうなるような低音を聴くと「畏れ」のようなものを感じます。鎮魂というよりも、怒りの日における恐怖。
おそらく会場で聴こえる音は、こちらの方が近いんだろうな。これは、真実のある一面を知るための貴重な録音です。
(2002年2月5日/火)
ブラームス:ドイツレクイエム
H・ケーゲル/ライプチヒ放送交響楽団
(CAPRICCIO)
最初にこれを聴いた時は、あまりピンときませんでした。妙にあっさりした印象でした。濃厚な演奏に慣れていたせいもあったかもしれない。しかし、3回目くらいにその凄さに気付いた。これは濃厚とは違う方向性を極めた演奏ではないだろうか。
全体の雰囲気がとても柔らかい。いや柔らかいと言うと少し語弊があるかもしれない。儚いといったほうが正しい。まるでガラス細工のように壊れてしまいそうな儚さ、繊細さ。あるいは、はくち美(このバカ辞書、「はくち」も変換できない)。
ケーゲルの魅力の一つは、弱音の素晴らしさである。特に声楽の入ったこういう曲でその真価が発揮されるようだ。黄泉の国から聴こえてくるような、天上から降り注いでくるような、三途の川の向こうから聴こえてくるような音楽。思わず、身を清めたくなってしまいます。ケーゲルの狂気が美しく開花した例である。
しかし、来るところでは来ます。これぞケーゲルと言うような畳みかけ。圧倒されてしまいます。怒れるケーゲル。地獄のケーゲル。この曲(録音)ではその両方が堪能できます。
これは、いわゆる一つの「忘れられた名盤」です。
しばらく前に、このレーベル(CAPRICCIO)より、ケーゲルボックスが発売されました。ベートーヴェンの交響曲全集と、これと、そしてもう一枚セットになっているようです。
私は交響曲全集とこれを既に持っていますので、買い控えています。しかしベートーヴェンをまだお持ちでないなら、このボックスは絶対お買い得です。逃す手はありません。
私の手持ちのベートーヴェンはレーザーライト盤で、音質にやや不満があります。CAPRICCIO盤のほうが音質は良い、と聞いたことがあります。確かにこれ(ブラームス)は素晴らしい音質です。このレベルでベートーヴェンが揃えば、これ最強です。とても迷っています。困ったものです。
(2002年2月6日/水)
ブラームス:ドイツレクイエム
プレヴィン/ロンドン交響楽団
(LSO)
これは聴き様によっては、うす味な印象を受けます。淡々と進めているようです。録音によるところも大きいでしょう。残響が少なめで、すっきりした音質です。
元々、プレヴィンはどちらかと言うあっさりした音楽をやるようですが、晩年?になってますますその傾向が強くなってきたのでしょうか。
ケーゲルと同じ方向性ではありません。また別の方向を極めた演奏のように思います。かと言って、虚しく音だけが響いているのでは決してなく、音楽的な純粋さを保っているという風情です。
ブラームス:ドイツレクイエム
プレヴィン/VPO
(GNP)
やっぱりプレヴィンってこう(LSO盤のよう)なんだろうか。
いえ、違います。このVPO盤を聴くと認識が変わってきます。これはジュリーニとケーゲルのいいところを合わせたような演奏です。中途半端なのではありません。ジュリーニの濃厚さと、ケーゲルの繊細な、透明な音響美を合わせ持った秀演なのです。「おぉ、プレヴィンもここまでやるか。」と唸らされる演奏です。多分一連のVPOとのR・シュトラウスシリーズと共通する音楽だと思います。
この録音で注目すべきところは多いです。
まず、ソプラノがバンゼです。しかし、ここでのバンゼは少し冴えません。この演奏?を聴いても熱烈なファンにはなれないでしょう。不安定な印象も受けます。たまたまこの日、不調であったのかもしれません。
しかし、はたと気付きました。これは’96年12月のライヴなのです。「ははーん。」この時点ではまだバンゼも発展途上であったのだ(今でも、かもしれませんが)。これ以降成長して、現在の姿があるのだろう。なるほど。
このレコードでの表記は「Juliane Panse」となっています。うーむ、もしかしたらこれは別人なのであろうか。
そして、’96年12月の録音・・・。これはどういう時期なのか?
ジュリーニ/VPO盤が’97年6月なのである。半年後である。この半年という時間は、おそらく長いものではないと思う。
ジュリーニが演奏・録音する時、オケには「あぁ、半年前にプレヴィンとやったねー・・・。」という気持ちがあったと思います。(但し、ソロは別。合唱は不明。)
こういうばやい、指揮者としてはどうなんでしょう。プレヴィンの影響を引きずっている(かもしれない)のを容認しているのか、あるいは全く無視していられるものなのか。
楽譜どおり弾けば、同じようになるのは当たり前のことだから。
そういう聴き方をすると、ジュリーニの中にプレヴィンの影が見え隠れしてしまいます。これが逆なら、また同じことを考えたでしょう。(プレヴィンの中にジュリーニが・・・。)
もう、この呪縛から逃れることはできない・・・。
尚、プレヴィンには、エラートにもこの曲の旧録音があります。(私は未聴。) 何を隠そう、プレヴィンはこの曲が得意で、重要なレパートリーにしていたのだ。
(2002年2月7日/木)