〔ホームページへ〕
話題の「ハルサイ」を聴く
ストラヴィンスキー:「春の祭典」
●C・デイヴィス指揮/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
(Ph)
●大植英次指揮/ミネソタ管弦楽団
(RR)
最近、ゲルギエフのハルサイの話題で持ち切りである。しかし私は話題の新譜にはほとんど興味がない。代わりにC・デイヴィスのハルサイを取り出して聴き始めたわけです。
「そういえばこの録音て、オタクな人が後半に編集ミスがあるって言ってたのかなー。」と思いながら聴いてたんです。
世の中には細かいところにこだわる向きも多く、こういうことにやたら詳しい人がいるものですが、それとてロットが違っていたり、リマスターされれば当然修正されるはずだし、品番(CD番号)を特定しないことには語れない話です。
オケはロイヤル・コンセルトヘボウ。時代やシェフによってオケの技量や性格や音色は変わる類のものであって、ヘボウならなんでもいいというわけでもない。「オケのファン」というのはどうも理解できない。
そんなこんな?で某ムックをめくっていると、このディスクが人気投票の4位に入っているのを発見して、少し恥ずかしい気持ちになった。
ところが「あれっ、この曲には大植/ミネソタのものがある・・・。もしかしたら私はそれを既に持っているのではないだろうか?」
と同時に「そういえば今度の来日公演、この曲だったんだよな・・・。」と思い出した。
そして奥のほうからそれらしいのを引っ張り出す。「あったあった、やっぱりこんなところに入っていた。」
「火の鳥」などとカップリングされて、「・・・Spring・・・」という文字が見える。多分これがそうだろうと見当をつけた。再生してみるとやっぱりそうだ。
このレーベル(RR)の録音には定評があり素晴らしい。なぜこういう録音が普及しないのだろうか。
こういうホールトーンたっぷりの臨場感あふれる録音を、露天風呂混浴サウンドと嫌う向きもあるらしい。何故なんだろう。残響が嫌いなのか。
この演奏がまた良い。この曲はそんなに種類を聴いたわけではないが、この演奏はどこか違う。どこがどう違うのか。
「音楽的」なのである。
「当たり前じゃないか。」
ともすればリズムだけを強調してエキセントリックになりがちなこの曲を、あわてず騒がず大言壮語せず、あくまで音楽として聴かせようとしているようだ。
「春のきざし」の冒頭部分。ざざざざざざざざっ、ざっ、ざっ!という弦のきざみの部分。ここからして全く別の世界なのである。
解釈なのかもしれない。誰もが一本調子でいくところに微妙なニュアンスが込められている。そして、全体を聴いてみると、哀しいニュアンスを出そうとしいるようにも聴こえる。
「バカなっ。ハルサイが哀しいだと?」
そう、聴けば分かる、聴いてみなけりゃ分からない。
これにくらべれば「迫力あるハルサイ」なんて、ただのドンちゃん騒ぎにしかすぎない。
考えてみれば、これは犠牲にされる乙女たちの哀しい運命を歌いあげた、聞くも涙、語るも涙の物語なのではないのだろうか。
改めて思った。大植はこの曲に賭けている?
そんなおおげさなものでなかろうが、得意としているのか? だから総決算とも言える場で問おうとしているのか。これはもしかしたらとてつもない名演になるかもしれない。
そう思うと俄然期待感が高まってきた。
私は、もともと大植の演奏会は是非聴きたいと思っていた。蓋を開けてみるとプログラムは「田園」と「春の祭典」であった。
おおっ「田園」ではないか。何を隠そう「田園」はマイベストクラシックなのである。これが大植で聴けるとは。久々の大演奏となるか。
しかし、このプログラムの組み方だと、「ハルサイ」がメインのようだ。
「あ゛?ハルサイ・・・ですか?」今まではそう思っていたのだが、このレコードでのハルサイを聴くかぎり、違う意味で期待してもいいかもしれない、と考えを改めた。
キーワードは「自然賛歌」あるいは「自然への畏敬」であろか。
2001年8月28日(火)
続いて話題の表題管弦楽曲「展覧会の絵」を聴く
ムソルグスキー:「展覧会の絵」
大植英次指揮/ミネソタ管弦楽団
(RR)
これは、なんと哀しい音楽なのだろう。
当然である。これは友人の死を悼む郷愁の歌、あるいはレクイエムなのである。そんな性格を見事に描き出している。プロムナードからしてそうだ。目がうるうるしてきてしまう。
だが、なんといっても圧巻はキエフである、こんな哀しいキエフがかつてあっただろうか。これを聴くと、ここを壮麗に演奏してしまったら大いなる勘違いだとしか思えなくなってしまう。
そういえば誰かがどこかで、原曲のピアノ版でキエフをピアニッシモでやった例があると言っていたのを読んだことがある。そう思い出して捜してみると、(幸運な偶然ではあるが)あったあった。ウゴルスキだそうである。(著者は、Ky氏である。)
仮に一流評論家(Ky氏が一流でないというわけではないが)が同じコンサート(あるいはレコード)を聴いても、決してこんなことは言わないだろう。「変な演奏だった」ということでおしまいかもしれない。
大植とウゴルスキに交流があったものなのか否かは詳らかではない。
私は、どうせ周辺事情なんて100%分かりっこないんだから、下手なエピソードや裏話なんて知らないほうがましだと考えている。
作曲者がどこで誰とナニをしようが、オケの歴史や変遷がわかろうが、そのメンバーの名前や学歴や性格がわかろうが、問題ではない。聴こえてくる音楽が全てだと考えている。
逆に音楽家たるもの、音楽でその全てを表現すべきであると考えている。
大植やウゴルスキのような解釈を試みる音楽家は貴重である。
これは単に奇を衒っただけものではない。感性の問題だ。
この音楽が何なのか。作曲者は何をどう表現したかったのかを洞察する能力が求められるのである。(そして指揮者の場合は、導師たる能力。)
あるいは、ラヴェルが勘違いしてオーケストレーションしてしまったから、誰もそれと気付かず、疑問も持たずにこれまできてしまったのかもしれない。かといって、他の編曲版を聴くだけの興味は私にはない。(ここでも版なんてどうでもいいという私の主義主張は一貫している。)
私が単なる表題音楽をつまらなく思う理由は、このあたりにあるのかもしれない。初めからそれが明確に示されていて、だれがやっても間違う余地がないからだ。
「ほぉ〜うら、これがアルプスの頂上ですよぉ〜、これが海の波ですぉ〜、これが魔女ですよぉ〜・・・」あほくさ。
「キエフ」を思いっ切り立派に、あるいはドッシャーン、グッシャーンとやって「あぁ、すかっとしたぜぇ〜」という趣味はない。
こういう音楽にこそこういう解釈、表現を試みる大植に瞠目するのである。心理ドラマとしてのアプローチ。
私は大植を初めて(生で)聴いたとき、「マエストロ」と呼ぶことに違和感を感じなかった。
「この人は音楽が分かっている。」
2001年8月29日(水)
大植でリファレンスを聴く(1)
レスピーギ:ローマの松
大植指揮/ミネソタO
(RR)
画面ではさほどでもないかもしれませんが、これはジャケットも素晴らしいんです。広告などではモノクロのケースが多いので、こうしてカラーで出すだけでも価値があります。
さあ、このジャケットに一目惚れしたあなたは早速買いに走るがよい。
(終わり)・・・にしてしまってもいいくらいなんですが、蛇足ながら内容について少々。
大植の魅力ってのは何でしょう。というよりも大植+ミネソタと言ったほうがいいのかもしれません。
このコンビはとにかく落ち着いています。慌てず、騒がず、泰然自若。
思いっきり盛り上げて効果を狙いたくなるところでも、決して大騒ぎしません。常に余力を残しています。だから汚くなりません。最後まで美しいハーモニーを保っています。
ある時には、落ち着きすぎなんじゃ・・・と思えることもあります。パッションに欠けるというのでしょうか。しかし不思議と「冷たい」という感じは受けません。かろうじて、ぎりぎり「生ぬるい・・・」を免れているレベルです。
これはアメリカのオケの特質なのでしょうか。
このところ「ヴァント−スクロヴァチェフスキー−ギーレン」ラインで聴いてきましたが、あるいは大植もそのライン上に乗っているのだろうか。徹底的に音の構築を突き詰めるタイプ。
もう少し聴き込んでみましょう。
冒頭、ジャケットについて触れましたが、この演奏及び録音はこのジャケットが代弁していると言ってもいいくらいです。こういう雰囲気の音楽が聴かれます。(どういう雰囲気かは、聴いて確かめてちょうだい。)
2002年3月28日(木)
大植でリファレンスを聴く(2)
ラヴェル:ボレロ
大植指揮/ミネソタO
(RR)
いつもいつも同じことばかり言ってますが、この録音の良さ!
ちょっとぉー、みんな本当にわかってんの! 私は言いたい。強く言いたい。とことん言いたい。
何故他のレーベルでこういう録音ができないのでしょうか。
理由は2つあると思います。まず、特許などで保護されていて、真似ができないこと。あるいはRRの技術があまりにも優れていて、他がとうてい及ばないこと。
次に、よその良さには目(や耳)をつぶって、自分のところが一番だと(無理に)思い込んでいること。レコードが売れるためのファクターとして、録音の良し悪しは二の次であると思っていること。
こんなところでしょう。確かにそれも事実です。私とて、録音が優秀だというだけでレコードは買いません。
横道にそれますが(わざわざ断わらなくても、いつものことですが)、ある時、思い立って長岡鉄男の推薦する「優秀録音盤」を数枚買ったことがあります。
私はそれらを聴いて唖然としました。確かに録音は優秀でした。しかし唖然としたのは録音の優秀さではなく、その音楽の中味の「なさ」です。なんという空虚な音(だけ)の饗宴。もうバカバカしい、アホらしい、それ以外の感想はありません。長岡さんてのは、普段こんなものばかり聴いている(た)のか。
確かに氏の推薦される「音楽」には首を傾げたくなるものが少なくありませんでした。しかしそれも単なる趣味嗜好(の違い)だと思っていたんですが。
氏の言葉の意味がはっきりわかりました。「音楽とオーディオってのは、たまたまほんのちょっとの部分で重なっているだけなんだ。」
話しを戻しますが、私はライヴで聴く音にこれ(RR盤)がいちばん近いと思います。
時々「オーディオと音楽」について、お約束の不毛な議論(口論)が起きます。「音楽派」の意見は決まっています。「オーディオオタクは、音を聴いているだけだ。」
確かにラジカセだろうと、あるいはAMラジオだろうと「音楽」は聴けます。
しかし、私のスタンスはこうです。
「自宅で聴いていても、あたかもコンサートホールにいるかのような雰囲気を味わいたい。」
それにどこまで近づけるか、です。どこまで「だまして」もらえるかです。錯覚したいんです。それは必ずしも「生の音と同じ」でなくてもいいんですが、やっぱりラジカセじゃ無理なんです。
2002年3月29日(金)
大植でリファレンスを聴く(2.5)
ラヴェル:ボレロ
大植指揮/ミネソタO
(RR)
ボレロ−その2です。
RRレーベルでの大植は、少し前に披露しましたが、「展覧会の絵」「春の祭典」「英雄の生涯」あたりを持っていました。今回「ローマの松」がリリースされたのを機に、「大植とは何か?(モノか?)」を知るために集中的に聴いてみようと思い、めぼしいところを揃えてみました。
モノの本で、チェリビダッケのボレロは凄かった、と読んだことがあります。
改めて言われなくても、ボレロってのは結構凄い曲だと思ってます。このシリーズで「管弦楽の小品」を集中的に「聴かされて」いますが、案の定かなり「恥ずかしい」曲が多いです。そんな中でも「ボレロ」は一線を画し、名曲の部類に入れてもおかしくはないと思います。
こんな名曲で逆に感動を呼べないなどというのは、はっきり駄演に違いありません。
この曲で大事なことは、「じっと我慢の子」でいられるかどうかではないでしょうか。どうしても煽りたくなる、騒ぎたくなる、大袈裟にやりたくなる。そこを押さえに押さえてインテンポ?で通せるかどうか。
その上で中から、あるいは内からぐーっと涌き出てくるものをうまく掬い取る事ができれば、あとはもう桃源郷・・・、という図式ができるのではないでしょうか。
その点、大植の行き方はこういう曲にはうってつけです。フォルテにも常に余裕があります。飽和しない。だから濁らない。要するにコントロールされているんです。
いつも同じ結論になってしまいますが、録音(技術)の優秀さが、それを支えています。
このレコードには、都合12曲ほど入っていますが、他に聴けるのはリストの「前奏曲」ぐらいでしょうか。アリコ・ジャパンである。
これも改めて真面目くさって聴いてみると、かなり恥ずかしい思いをしなくてはいけません。曲自体が大袈裟にできていますから、しょうがないんですけど。
正にAAAクラスの恥ずかしさ。
2002年3月31日(日)
大植でリファレンスを聴く(3)
シベリウス:フィンランディア
スメタナ:モルダウ
大植指揮/ミネソタO
(RR)
そんな大植ですが、残念ながらミネソタを離れることになってしまいまいした。
私が一番興味があったのは、果たして大植とRR(リファレンス・レコーディングス)との関係は、どういうものであったのかということです。
大植単独(−RR)での関係なのか、ミネソタ(−RR)との関係なのか、あるいは「大植+ミネソタ」(−RR)であったのか。
RRの録音が聴けなくなるのはとても寂しいので、私は固唾を飲んで見守っていました。そして、その期待は脆くも打ち砕かれました。
大植+ハノーファーでcpoから新譜がリリースされたのです。溜息が出ました。残念でした。
一方ミネソタの後任はヴァンスカのようです。ではヴァンスカ+ミネソタでRRから出るのでしょうか。あるいは、ヴァンスカはBISとの義理?もありますから、今後はBISからということになるのでしょうか。
BISでも悪くはないんですが、やはりRRが聴けなくなるのはとても残念です。いましばらく淡い期待をもちつつ様子をみましょう。
2002年4月1日(月)
チャイコフスキー:大序曲「1812年」
シベリウス:「フィンランディア」他
大植英次指揮/ハノーファー北ドイツRSO
お勧め度:★★
マエストロ大植は、音楽の背景やドラマ性というものには、あまり関心がないように見えます。あるいはあまり強調せずにいるようです。
ですから、フィンランディアのようなドロドロの音楽でも割と聴いていられます。それでいて内から湧きあがってくる感興に事欠くことはありません。
それはこの曲特有の国民性や愛国心といったものを基調とするドロドロ(繰り返し失礼)ではなく、純粋に音楽的なもののように感じられます。
「1812年」も全く同じ傾向。淡々と進めているようでも来るべきところでは来る。気が付いたら飲み込まれていた。そういう音楽作りです。作為がない。あってもそれと気付かせない。けだし名手である。
例えばミネソタ管とのライヴで聴いたバーンスタインの「キャンディード序曲」。こんな曲でさえ、ある種の感動を与えてくれました。
私はバーンスタインの音楽は作品も指揮も含めて全く聴きませんが、その時は作品というより演奏に感動したと申し上げておきます。(これは、はっきり詭弁と受け取っていただいて構いません。「作品と演奏」というテーマには非常に深い、根源的、本質的問題を孕んでいます。例えばあなたは今、作品を聴いていたのですか、演奏を聴いていたのですか? あるいは録音やオーディオを聴いていたのですか?)
いよいよ大フィルとの定期が開始されました。過日の「復活」は、私もできれば聴きたかったのですが、結局行けませんでした。
これはおそらく今年の国内オケの公演ではピカイチのものとなったことでしょう。
中には、まとまりすぎておもしろくない、無個性で大フィルらしくない、などという噴飯感想も目にします。おもしろいですね。今まで雑な演奏に慣れていたから、所謂うまい演奏に対し、そう感じたのでしょうか。いずれにしても、私は聴いていませんのであまり立ち入ったことは申せませんが。
さて、大植が監督に就いて、あのヘタクソな大フィルがみるみるうちに洗練されていくか、それとも大植も嫌気が差してさっさと引き上げるか。ある意味では見ものです。
といえよう。
2003年5月15日(木)
大植指揮/大フィル
マエストロ大植は、音楽の背景やドラマ性というものには、あまり関心がないように見えます。あるいはあまり強調せずにいるようです(こればっか)。
最近の中曰新聞にこんな記事が載っていました。引用です。
朝比奈ファンは少々良かった程度では満足しない
タクトが音を結ぶと、割れんばかりの歓声と拍手が会場を包んだ。
スタンディングオベーションまであった初めての演奏会。終演後、「朝比奈ファンは厳しい。『少々良かった』程度ではこんなに満足してくれなかったでしょう」と自信をのぞかせた。全身で打ち込む指揮と優しげな笑顔も人気の一因。
アメリカでレナード・バーンスタイン氏に指揮を学んだ。一九九五年、米国ミネソタ管弦楽団の音楽監督に就任。学校や病院などで自らピアノを演奏、地域とのきずなを深めた。
地域密着型のオーケストラをつくったという評価などで、一昨年の朝比奈氏の没後、後継者として白羽の矢が立った。
ドイツの楽団の首席指揮者と兼務になる。日本滞在は一年のうち計約八週間。練習の合間に足しげく学校に通い、子どもと交流する。ろう学校の生徒を招待したリハーサルでは、高校生が突然抱きついてきた。「音の振動だけで何かが伝わった。感動しました」
二〇〇五年のバイロイト音楽祭では初めての日本人指揮者に。「ワーグナーの思い描いた『トリスタンとイゾルデ』を披露したい」と意欲的だ。
次の来日は二回目の公演を行う九月。「大フィルを世界一の楽団に」と夢は大きく膨らむ。四十五歳の独身。 (青木 王里子)
「朝比奈ファンは厳しい」と、ちょっとだけ持ち上げておいて、「『少々良かった』程度ではこんなに満足してくれなかったでしょう」とは。
言葉というのは難しいものです。この記者(文章)の真意はどこにあるのかはわかりませんが、私が読めば「初回にして、前任者の音楽を楽々と凌駕してしまった」と言っているように思えます。言っている本人が大植なのか、記者なのかは別として。
この模様はテレビでも放送されていましたが、大フィルのコンソメ氏もとぼけた事を言っていました。「前任者とあまりにもやり方が違うから・・・。」
このオケ、あまりにも長く一人の指揮者と付き合ってきたために、そうとう硬直しているのではないでしょうか。
私にはすでに軋轢が聞こえて?くるように感じられました。
そして「大フィルを世界一の楽団に」
大したものです。日本一はおろか、せいぜい大阪一くらいにしかなれなかったオケを、世界一にしようとは。
まぁ、世界一は大袈裟だとしても、そこそこのところまでは行くかもしれない。大植ならやるかもしれないという気はします。◇
言葉というのは難しいものです。私の真意もおそらく半分も伝わっていないことでしょう。
2003年6月5日(木)