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ピアニスト

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田部京子 1967〜 33  
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田中希代子 1932〜1996 64  
マルタ・アルゲリッチ      
マリア・ジョアン・ピリス      
アニーフィッシャー      
クララ・ハスキル      

マリア・ジョアン・ピリス

シューベルト:ピアノソナタ第21番
マリア・ジョアン・ピリス


 ピリス?意外な名前が出てきたな、そう思うでしょう。私もそう思います。ピリスといえば、比較的メジャーで、わざわざ強調するまでもないわけですが、一般的にはモーツァルト、ショパンあたりが定評のあるところでしょう。
 
 では、ピリスのシューベルトはどうなんでしょうか。
 「普通です。」
 と言ってしまうと、それで終わってしまうわけで、どこがどう普通なのか、このあたりをつまびらかにしなければならないでしょうか。
 多分10人中8人が中庸たるシューベルトと感じる演奏でないでしょうか。そういう意味ではピリスが出てこないシューベルト。あまり入れ込んだところもありません。徒に?哀愁を強調するところもありません。物足らないといえばそう感じる向きもあることでしょう。
 
 ひとつだけこれは、と感じたことは、「左手が見えた」ことです。このところ集中的にピアノソナタ(しかもシューベルトの、そのまたしかも21番ばかり)を聴いていたわけですが、ここにきて初めてそういう印象を持ちました。
 ピアノソナタの場合、右手と左手が対旋律でどうのこうの、ということになるのか、あるいは通奏低音なのか、浅学無学たる私にはよくわからないのですが、左手を強調しているように思えるところがあります。これは今まで聴いてきたメンバー?が、逆にそういう傾向がなかったからかもしれません。

 もうひとつ感じたことは、「強打」が気になることです。ガン、ときて耳障りに感じるのです。
 これはピリスに限ったことではないのですが、何故だろうと疑問に思いながら、はたと思い内田光子を聴き直してみると、そういうことがほとんどありません。
 なるほど、ソフトな印象に感じる原因はこういうところにもあるのか。
 これは奏法(タッチあるいはペダリング)の問題なのか、調律の問題なのか、機械(ピアノ)そのものの問題なのか、あるいは録音の問題なのか。
 いずれにしろトータル的にそういう録音(作品)が出来あがった。それが内田光子の狙いだったのか偶然だったのかは分らない。
 
 そういうことで、内田光子の作品の素晴らしさを再発見することと、あいなってしまったのでありました。
 でも私は、ピリスも応援してあげたいと思っています。
('02/1/19/土)


クララ・ハスキル

好きになれなかった演奏家

シューベルト:ピアノソナタ第21番
クララ・ハスキル


 指揮界のフルトヴェングラー、ヴァイオリン界のエネスコ、そしてピアノ界のハスキル。これはヒストリカルコレクターorマニアの間で信仰を集める、それぞれの雄である。(なんちゅう人選。ホンマかいな?)
 ただし、ハスキルは雌であるが・・・。
 
 この人は割合激情型の演奏をするように思えます。病弱あるいは悲劇的という、プロフィールや風貌から(勝手に)想像されるイメージからは、およそかけ離れた印象です。
 興が乗ってくると畳みかけるような大きなうねりを見せたり、思いがけない強奏をするところがあります。
 それがファンにはたまらないのでしょうが、私の許容できる限界を超えてしまっています。
 「あっ、ここでは音楽が壊れてしまったな・・・。」そういう印象を受けることがたびたびあります。
 また、録音が今一つであることも決定的です。(時代的制約からモノラルである。)
 
 ダメとなったら、私は多くを聴きません。それは時間の無駄だと考えているからです。数枚聴いて(あっさりですが、残念ながら)あきらめました。他に聴きたい音楽家はたくさんいます。
 でも悪い印象は持っていません。お好きになれるなら是非どうぞ、と申し上げておきます。
('02/1/18/金)


田中希代子

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第5番「皇帝」
ワルベルク指揮 N響 (山野 YMCD 1035) ’66


 さて、いきなり何を持ち出したか。
 これは名演でも名盤でもない。(というと語弊があるが。) おそらく(一流?評論家の)誰も推薦していないだろう。
 下手である。冒頭のカデンツァからしてミスタッチの嵐である。ボロボロである。しかしそれがどうした。
 女性らしいのではない。むしろ下手な男よりよっぽど雄雄しいベートーヴェンの姿がここにはある。
 この時代特有の?力技が時に見え隠れするが、ほかの誰も見せてくれなかったこの曲のカタチが見えてくる。特別独創的な訳ではない。そんな事を本人が意識しているかどうかは知らないが、「聴かせどころ」をわきまえた演奏であるように思う。ここぞというところの感情移入というか。

  私は皇帝は特別好きではなく、そんなにたくさんの種類を聴いたわけでもない。しかし、皇帝といえばこのレコードを真っ先に思い出す。
 
 このレコードも、実はカップリングの4番のほうが目的で買ったようなものだ。女性ピアニストの弾く4番なんてゾクゾクしますからねー。私はそういう男なのだ。しかし、である。私はこの5番を聴いてぶっ飛んでしまったのだ!
 狂おしいほどの情熱を帯びた、魂の叫びにも似たこのピアニストの音楽を聴くと、私は感動を誘われずにはいられない。
 永遠に忘れ得ぬ、「命の恩盤」になってしまったのである。

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田部京子

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第4、5番
ジークハルト他 (De COCO 83433)

 私はこのピアニストには、ある程度期待している。何の先入観もなしに、生を初めて聴いたときにセンスのよさを感じたからだ。音色やタッチもよかった。

 だが、この指揮者とオケはこれが初めてである。名前は聞いたことがあるが。どういういきさつでこういう組み合わせになったのだろうか。双方の希望だろうか。
 私は浅学にして、彼らの協演の頻度を知らない。少なくとも国内で実現していたというプログラムは見たことがない。
 ライナーノーツにも、田部、ジークハルト/ブルックナー管それぞれの活躍は、華々しく語られているが、協演のことは一言も触れられていない。最も興味のあることが書かれていないライナーノーツ・・・意味はない。

 このカップリングは4番→5番の順である。
 まず、順当に4番から聴く。
 うーむ、不安定だ。解釈しすぎているのか、あるいは伴奏者が「よう」つけられないのか。ちぐはぐ感が拭えない。柔軟性も足りない。固い。
 ピアノとオケが合っていないのだ。そればかりか、ピアノもオケも4番に合っていないような気がするのだ。
 私はどちらかというと4番に期待していたのに。
 だが、この感じだと、きっと5番のほうがいいな、と予感した。

 それは当たった。引き続き、5番に入ると俄然調子がいい。
 私は技術的なことは分らないが、5番のほうが合わせやすい(易しい?)のだろうか。それとも彼らが5番のほうに力を入れたのだろうか。だとしたら非常に残念だ。もう少し4番を煮詰めてから録音してくれればよかったのに。何もあわてて駄作を発表することはないのだ。半年、一年後だって誰も文句は言わないのだ。

 内田光子の執念(いやもう怨念といっていいだろう)を前にしては、これではほんの妥協の産物である。片付け仕事である。あるいは、メーカーの思惑・ご都合?
 今回、内田のベト協を改めて聴き直してみて「驚嘆」したことがある。この4番はライヴであるということだ。一楽章を聴いている間、全くそれに気付かなかった。インターバルで客席のノイズが入ったので初めて(改めて)気付いた次第だ。
 現在のテクノロジーでは、別テイクとの切り貼りなど、我々(いや私?)ロバの耳には絶対に分らない位の精度で可能らしい。だからどの程度それが行われているのかは見当がつかない。
 だがこの演奏は完璧である。
 改めて申すまでもないが(いや、逆に強調したほうがいいのか?)、ここでのサポートはザンデルリンクである。何の不安もない、任せきっていい演奏である。これは、内田とザンデルリンクの強い信頼関係があって初めて実現した名演である。

 逆に田部盤のジャケット写真をよく見てがっかりした。二枚の別々の写真が並べてあるだけである。図らずもこの二人の関係を象徴しているような気がした。(裏表紙ではツーショットになっているが・・・。)

 それにしても、国内盤の新譜は高いなー。どうしてこれが3000円もするのだろう(理由なんか、ないんだろうけど)。
 2000円でもお釣りが欲しいくらいだ。(ちょっと言い方おかしい? 1800円ぐらいで妥当よ、ということ。)
('00/10/06)


 毛ーストリーの2000年10月号に、本人がこのベートーヴェンのPf協の録音について語っている。
 見出し?を見て驚いた。

 「ベートーヴェンは録ったばかりですが、すぐに録りなおしてもいいですね。その時の演奏に不満なのではなく、今はまた違った音楽が鳴っているので。」

 本文でこれ以上詳しいことには触れられていない。
 私はこれでかなり失望した。本当に録ったばかりである。2000年4月の録音である。

 ある楽曲に対する解釈がそんなに「コロコロ」変わるものか。それまでの練り上げが不足していたのではないか。だとすると、その時の解釈は、単なる気まぐれか思いつきではなかったか。
 数年経っているのならともかく、わずか半年でっせ。普通、再録音なんて最低10年はしないものだ。10年経つと人間も変わる。それは私も身をもって感じている。

 ヌヴーを見よ。
 「私は自分の感じたようにしか、演奏できません。」違うスタイルで演奏するなどもってのほかだと、きっぱり言いきっている。

 チョン・キョンファや内田光子を見よ。(いつも出てきて申し訳ないが)
 吟味に吟味を重ねたものしか録音しないし、リリースを許可しない。しかも再録のきざしなど微塵もない。周りがいくら期待しようと。

 だから孤高の芸術ができるのである。唯一彼ら(偶然彼女らであるが)にしかできないものが生まれるのだ。だから存在価値があるのだ。だれにでも出来る芸術なんて「その他大勢」でしかないのだ。

 もっとも、田部がヌヴーやチョンや内田とは、まるで格の違う音楽家だということは、もとより明らかなことかもしれないが。
('00/10/25)


シューベルト:ピアノソナタ第21番
田部京子


 田部のシューベルトも悪くありません。
 田部の場合、シューベルトの美しい部分に光を当てたような、あるいは「美しい光」を当てたような演奏です。(なんじゃ、そりゃ?「汚い光」なんてあるんかい?)
 
 まず「きれいだな」という印象を持ちます。彼岸に咲くきれいな花。
 しかしながら、それが最後まで「きれい」以上のものにはなりえない。ですからそのきれいさ(美しさ)にだんだん飽きてきてしまうところがあります。
 彼岸花はそれほどきれいだとは思えませんが、むしろ彼岸花のように毒々しさを持っていれば、それはそれでおもしろいと思います。
 
 そして、確かに「ピアノという機械が音を出している」という印象です。メカニックなんです。でも本来ピアノというのはこういう音を出す(べき)ものなのかもしれません。
 良い意味では現代的な、透明感のある、悪く言えば冷たい、と言えましょうか。
 「やっぱり若い」と言ってしまうとそれで終わってしまうんですが、これは私が許容できるぎりぎりの若さです。

 さて、田部についてはおもしろい記事があります。レコ芸の'00年1月号です。これはシューベルトではなく、その後に出たシューマンについてです。(私は未聴。)

 シューベルトの場合同様、田部は作品をじっくり自分の手許に引き寄せており、その表現はきわめて内省的である。そしてこうした態度こそこの作曲家の内燃的なロマンティシズムの解釈として、今日的な新鮮さを獲得する。
(田分田)

 結論を先に言って、田部京子は、まれなシューベルト奏者であると同じほど、あるいはそれにごく近いほど、すぐれたシューマン奏者でもあると、私は聴いた。
 ここでも彼女は、作品を無理に自分のもとへ引いてこようとはせず、逆に作品に寄り添ってゆきながら、自然さから離れない奏楽を聴かせる。
(シ兵田)

 きわめて立体的(=全く反対)な評論を加えておられます。

 もしここで田部本人に、「あなたはあなたとシューマン(の作品)の間に、どのような距離感を想定しましたか?」と質問して、「私はあるがままの自然な距離感を保ちました。約60センチでした。」と答えたらどうするつもりであろうか。いったい誰がどう責任をとってくれるのだ。
 かくの如く、「評論」とはいかに主観的かつ妄想の産物であろうぞ。
('02/2/17/木)


マイラ・へス

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5、2番
マイラ・へス
/サージェント指揮/BBCSO
(BBC) Mono


 小さなレコード店を回っていても、「これは買いたい」と思えるようなレコードはほとんどなく、1枚でいいから何とか無理にでも探し出して・・・というシチュエーションになるわけでして。
 そんな中、「BBCなら・・・」ということで、買ってみたのがこれです。
 
 最近BBCには信頼を寄せています。「余計なことをしない」リマスターに好感がもてます。マンマ・ライヴというのもうれしいです。ノイズたっぷり、フライング拍手ドゥオー?というのもいいです。
 さすがにバカブラボーがいないのは、やっぱり本場だからでしょうか。そんなことをするのはナンにも知らない田舎モンだけです。
 
 さて肝腎の演奏ですが、こういう大雑把なくくりをするとまた非難を受けそうですが、往年の女流ピアニストというのはどうしても力技が見え隠れしていけません。そういうものが求められていたのかもしれませんし、また男勝り(風)でなければやっていけなかったのかもしれません。
 私が女流に求めるのは、やはり女流(性)ならではの感性であって、男勝りな気風を感じたかったら初めから男流を聴けばいいわけで、わざわざ回りくどいことをする必要はありません。
 
 これは録音も古く、モノラルですが、そのせいも多少はあるかもしれません。しかし、だとすれば、尚更、今更モノラルを聴く必要などないではないか。
 これが私の結論です。
2002年2月26日(火)


ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番
マイラ・へス/トスカニーニ指揮/NBCSO
(NAXOS)'46 Mono

シューマン:ピアノ協奏曲
マイラ・へス/Walter Goehr指揮/オーケストラ
(NAXOS)'3* Mono

 せっかく興味を持ったヘスですから、1枚で終わりというのも何だか残念で、少し捜してみました。すると運良くNAXOSからまとまって(2枚も!)リリースされているではありませんか。
 ただ、いかんせんヒストリカルということで、音質的に期待薄だったんですが、2枚まとめて千円強、「持ってけドロボー」ということで買ってみました。
 ここで会ったも何かの縁・・・と一回につきお付き合いをしてみようかと。

 さて、トスカニーニである。
 私が最後?にトスカニーニを聴いたのはかれこれ25年前。当時の友人が、やはり当時名盤と言われていた「新世界」を聴いて感激していました。しかし、私にはそのザッハリッヒ(当時そんな言葉を知る由もなかったが)な表現のどこがいいのかさっぱりわかりませんでした。おまけにモノラルでしたし。(当時からこの点にはこだわりがあった。)
 当時の私は「新世界」といえばノイマン/チェコ・フィルでした。あの頃のチェコ・フィルは良かった。それに引き替え今のチェコ・フィルは・・・。ろくでもない監督に・・・。

 (まぁ、その話は「こっち」に置いておいて。)

 再び、トスカニーニである。
 「トスカニーニさん、そんな風に演奏して、いったいどこがおもしろいんですか?」私は問いたい。強く問いたい。とことん問いたい。性根まで問いたい。
 まぁ、何とも落ちつかない、私にはせかせかした音楽にしか聴こえません。これではまともに評価する気にもなれません。(「評価」なんておこがましいと承知しつつ。)
 
 一方シューマンですが、これまたヒストリカルの極致。31〜38年の録音。これも私には聴くに耐えません。覚悟の上とはいえ、あまりにも痛々しい。その情けなさに思わず目がウルウルしてしまいます。
 しかし、考えてみれば「当時」録音が残せたなんて、いかに名誉なことであっただろうかとは想像できます。その一点だけに思いを馳せて、私のヘスへのオマージュとさせていただきましょう。
2002年2月27日(水)


アイリーン・ジョイス

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
アイリーン・ジョイス
/ラインスドルフ指揮/LPO
(DUTTON)'46 Mono


 この女優については賛否両論、毀誉褒貶さまざまなようです。
 プロフィールを読むと、誠に聞くも涙、語るも涙の子供時代から奇跡的?にピアニストになり、そして華麗なる銀幕の女王?への転身。
 某所では、「あぁ、あの女優ね・・・。」という意見も聞かれるようである。しかし音楽家(ピアニスト)が女優になってなぜ悪い。そんな例などゴロゴロしている。ピアニストから指揮者になる奴、指揮者から映画監督になる奴、ヴァイオリニストから露出狂になる奴、歌手からストリッパーになる奴・・・枚挙に暇はない。
 
 しかしながら、それがためにこのピアニストのレコードがもっとたくさん残されなかったのは残念に思う。野生?で育った故か、勘は悪くないようである。(この点ではグリモーにも通ずるところがあるか・・・と無茶な論を展開してみる。)
 テクにも怪しいところが少ない。この曲では3楽章冒頭がひとつの難所であり、そこをどうクリアするかを聴きどころにしているのだが、満点とは言い難いが、そこそこのうまさでこなしている。
 かつ、この曲らしい、それらしい雰囲気を出すことにも成功している。いつも申し上げるが、時代的特徴と思われる力技が見え隠れすることがない。
 がぁーっとやって、わぁーっとなることがない。女流らしい女流である。(私の場合、こういう感覚的な語彙しか出てこない。いわゆるひとつのN嶋のようだ・・・。)

 それにしてもDUTTON、どうも信用できません。このレコードも例外ではなく、トゥッテイの終わりに「ジュワーン」と音がぼやけて広がります。これは断じてモノラルではありません。インチキステレオであり、すなわちインチキモノラルです。白黒写真に絵の具で色を付けたようなものです。
2002年2月28日(木)


アニー・フィッシャー

ベートーヴェン:ピアノソナタ「熱情」他
アニー・フィッシャー
(HUNGAROTON)

 ピアノソナタ?
 そう聞いて違和感を覚えて下さったあなたはツウである。何の?このページのである。そう、私がピアノソナタなんて言うのはとても珍しい。(特にベートーヴェンのは。シューベルトは少しありましたね。)
 
 本当は協奏曲で通したいのだが、残念ながらこのピアニストはこれしか持っていない。協奏曲が出ていたのは見かけたことはあるような気もするが、買ってみようとまで強く動かされたことはない。
 
 これは凄い・・・カモしれない。「熱情」の冒頭からして圧倒されるような雰囲気である。「おぉ、そうくるか。」妖気が出てくるようである。
 しかし、それも最初のうちだけで、聴き込んでいくと、やっぱり・・・。どうしても力技が見え隠れしてしまいます。これはあるいは録音だから、レコードだからそう感じるのかもしれない。繰り返し聴いてしまうから。
 これがライヴの一回こっきりだったら、完全にやられてしまっているのかもしれない。録音でもこういう演奏を聴かせる奏者は、そのつもりで弾いているのかもしれない。一期一会というやつですか。
 しかしこれを録音で聴かされたら疲れてしょうがない。私は疲れるために音楽を聴きたいわけではない。反対だ。疲れを癒して欲しいのだ。「音楽を聴いて疲れる」というのは少し意味が違うかもしれないが。
 
 ところで、私は楽曲を作品番号(Op)や調性で呼ぶのが大嫌いである。作曲者が付けたのかどうかはよく知らないケースが多いが、ちゃんと通し番号?があるのだからそれで呼べばよくわかるのに。
 「作品67」なんて言わなくても「第5交響曲」と言えば通りがいいでしょ?
 多いのが、131、133あたりだ。いやですねぇ。ツウぶって。そういう人たちには「全ての作曲家の全ての作品」をそう呼ぶように統一して欲しいですね。チョコットばかし知ってるところだけそうするところが、なんともチンケです。
 
 このレコードもそうである。
 Sonata in F Minor Op.57"Appassionata"
 Sonata in D Minor Op.31 No2
 Sonata in D Major Op.28 "Pastorale"
 
 「熱情」ってのも23番あたりでしたかねぇ。どちらにしても普段聴かない人間にとっては、関係ないことかもしれませんが。
 愛称(通称)のあるものは見当がつきますが、「Op.31 No2」って言われてもねぇ。聴けば馴染みのある音楽なんですが、別のところで○○番といわれても一致しないから困るんだな、これが。「あっ、この曲が実は○○番だったんですか・・・。」
2002年3月1日(金)


マルタ・アルゲリッチ

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1,2番
アルゲリッチ
/シノーポリ指揮/PO(DG)

 アルゲリッチを「往年・・・」と言うのはイケナイことだろうか。
 辞書を紐解いて見るに、「往年」の指す対象として「物故者」である必要はないようだ。
 「往時は名女流であったとして、今はそうじゃないのか。」そういう意見も聞かれよう。しかしアルゲリッチが華であった時代は過ぎたのではないか、私はそう感じている。
 
 アルゲリッチにベートーヴェン、これほど似つかわしくないものはない。当然本人も自覚しているのか、これ以降の作品には手をつけようとはしない。何故か。
 思うに、自分流にやってサマにならないからではないか。このあたりまでだと、まだベートーヴェンよりアルゲリッチを主張しても許される。しかし3番あたり以降になるとそうはいかない。確固としたベートーヴェン像が確立していて、アルゲリッチといえどもそれを崩す(侵す)ことはできない。

 どういうことかというと、以前にも少し書きましたが、アルゲリッチは何を聴いてもアルゲリッチ。「アルゲリッチ節」である。作曲家を生かすということがないように思える。
 だから「アルゲリッチを聴きたい」向きには誠に結構なのかもしれないが、「ベートーヴェンを聴こう」とすると、とたんにまずくなる。先に(強く)アルゲリッチが聴こえてきてしまうからだ。

 この協奏曲にしても然り。しかもバックなんてまるで関係ない。「ホラホラしっかりついてきなさいよっ!遅れるんじゃないわよっ!」そう叱咤激励?されて、シノー某がヒーコラ・ヘイコラしがみつくように付いて行く。そういう図式がミエミエである。シノー某などというのは、その程度の器ではなかったのか。

 だから、アルゲリッチが一流?の指揮者と併せないのは当然といえば当然であろう。うまくいくはずがない。ケンカになるのはわかりきっている。主役はあくまでアルゲリッチなのである。
2002年3月2日(土)


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